関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
石橋信夫(大和ハウス創業者)「何をすれば儲かるからより、世の中の多くの役に立ち、喜んで頂けるという事をベースに考えろ」
目先の利益の為に、金儲け主義に走る事を禁じた。
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政教分離を訴える現代日本人は、役所など公共機関が伝統的な神道行事に参加し公金から玉串を捧げる事に猛反対するが、公共施設に税金を使ってクリスマス・ツリーなどのキリスト教行事の飾り付けをし、賛美歌などのキリスト教的音楽を流しても反対しない。
彼らが声高に訴える政教分離の原則とは、所詮そんな程度の底の浅い軽薄な主張に過ぎない。
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1960年 小林秀雄「国體観念というものは、かくかくものと聞いて、成る程そういうものかと合点する様なものではない。僕等の自国の歴史への愛情の裡にだけ生きている観念です。他では死ぬばかりです」(「歴史と文学」)
「意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変わらない」「お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私達が確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ」(「お月見」)
6月17日 河上丈太郎・社会党顧問暗殺未遂事件
10月12日 元大日本愛国党党員による、浅沼稲次郎暗殺事件。
年末 昭和天皇は、東京に着任し信任状を奉呈したイスラエル大使のモシェ・バルトゥールに対して、ユダヤ人への感謝の言葉を述べた。「日本民族はユダヤ民族に対して、感謝の念を忘れていません。かつて我が国は、ヤコブ・シフ氏に大変お世話になりました。我々はこの恩を決して忘れる事はないでしょう」
ユダヤ人は、戦前、昭和天皇と東條英機や松岡洋右らA級戦犯達に助けられた事を認めない。
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1961年 ヘルムート・シュミット「日本は近隣諸国に友人がいない」
2月1日 大日本愛国党党員による、嶋中事件。(「風流無譚」事件)
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1962年 宮中聖書事件。
1962(〜65)年 第2回バチカン公会議。グスタボ・グティエレスら中南米の司祭達は、南北の格差を解消し、社会的政治的経済的な不正からの解放を図り、民衆の中で実践的な福音を広める運動を提唱した。
バチカンが否定した、キリスト教社会主義運動である。
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1963年 日本政府は、原爆裁判において、アメリカの原爆使用における公式声明を踏襲して政府の正式見解を発表し、原爆使用に対する抗議文の見解を否定した。
「原子爆弾の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続する事によって生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。かような事情を客観的にみれば、広島市・長崎市に対する原子爆弾の投下が国際法違反であるかどうかは、何人も結論を下し難い」
日本は、サンフランシスコ講和条約で東京裁判判決とアメリカの原爆投下公式声明を無条件で受け入れている。
東京裁判と原爆投下を否定する事は、アメリカの正義と国連の平和を否定し根底から覆す暴挙となる。
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天皇陛下の妹の島津貴子誘拐未遂事件。
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1964年 明仁皇太子殿下は、東京オリンピックの後に開かれたパラリンピック(国債身体障害者スポーツ大会)をご覧になり、同じ様な大会を日本でも出来ないかとの感想を述べられた。翌年に岐阜県で開催された国民体育大会(国体)から、身障者の競技が始まった。
皇太子・同妃両殿下は、身障者や災害被害者ら弱者に寄り添うという慈愛に満ちた皇道から、各地にある養護学校や高齢者福祉施設、自然災害で甚大な被害が発生した現場にはいち早く赴かれ、現地の人々に優しい言葉を掛けて励まし悲しみを慰めた。
大災害に苦しむ日本人が立ち直る勇気と明日への希望と子供達への想いで踏ん張る気力が得られるのは、私無き「無欲な人々」である天皇・皇后両陛下や皇太子・同妃両殿下をはじめとした皇族のみである。
如何なる大惨事が起きても、日本が秩序を維持し治安を保ち、暴動や略奪が起きて無法地帯にならないのは、社会の心張り棒としての、「国平らかに、民安らかなれ」という神聖な祈りを捧げる皇室があるからである。
だが、天皇制度に反対し天皇制度の廃止しようとする日本人は、被災地での暴動や略奪や強姦や殺人が当たり前の非情な世界常識を日本に導入しようとしている。
天皇が保持する神道的「国民統合の象徴」とは、慈愛の心で世間・世の中と民草・庶民に安らぎを与えて落ち着かせる働きで、国家の上に特権を持って君臨し国民を強権を持って重圧を加える存在ではない。
天皇及び皇室の働き・役割とは、国と民草を優先的に考え行動する無私無欲の行為にある。
こうした行為ができるのは、現皇室の血をひく人々のみである。
日本国民で、そうした行為を素直に受け入れられるのも現皇室の血をひく高貴な人々のみである。
反天皇派日本人は、そうした行為を完全否定する。
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安岡正篤「マッカーサーが指示を出すと、何でもすぐにイエスと言う。同じ敗戦国のドイツは、何を言われてもノーと言うのに日本は頼りない国だとアメリカに思われて、いいように扱われて、左翼が日本を悪いものだと宣伝した効果が、戦後20年の間に功を奏してしまった。それを変えるためのエネルギーも、いまの日本にはない」
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絶望的な戦場で生き残った戦中派は、軍隊の内務班で非人道的な精神注入教育を受けていただけに、アメリカの大量な物量と大部隊に負けたが、個人的な精神では勝っていたという精神主義を強く持っていた。
その軍隊的精神主義が、昭和40年年代のスポーツ根性ブームを起こした。
その代表的作品が、漫画であれば『巨人の星』や『アタックナンバーワン』であり、テレビドラマであれば『柔道一直線』や『サインはV』である。
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1965年 常陸宮は、バチカンでローマ教皇パウロ6世と会見した。
キリスト教会は、ある意図を持ってキリスト教の「隣人愛の信仰」に興味を持つ女性皇族に接近した。
歴史的事実として。キリスト教会は、イエの宗教に固執する男性ではなく個人の信仰に走る女性に信者を増やし、その配偶者や家族を改宗させて異教徒世界で布教を成功させた。
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1966年 江藤淳「私は父の姿の背後に想い描くことのできるあの衰弱した国家のイメイジを、あの耐えつづけている国家のイメイジを一度も裏切りはしなかったし、今後も裏切らないであろう。そのことによって私は耐えるであろう」
厚生省引揚援護局調査課長は、「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」の通知に基づき祭神名票を送付した。
中央教育審議会「全ての宗教的情操は、生命の根源に対する畏敬の念に由来する。我々は自ら自己の生命を生んだのではない。……生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操」
日本人は閉鎖的島国に生きる知恵として、人と人との水平的な関係と人間の腕力や叡智でも超えられない神・仏の垂直的な関係を道徳の鏡とし、その鏡に自分の今の有り様を全て映し出して身を正した。
4月26日 ウズベキスタン首都タシケント大地震。マグニチュード5.5。市内の建物3分の2が破壊されたが、日本人捕虜達が建設したナヴォイ劇場は倒壊しなかった。
ウズベキスタンに移送された日本人捕虜は約2万5,000人で、ナヴォイ劇場や学校、発電所、運河、道路などのインフラ建設に従事したが、栄養ある食事を与えられず奴隷的重労働を強いられ、病気や怪我をしても真面な治療を受けられず幾人かが死亡した。
ソ連は、ジュネーブ条約を違反して日本人兵士捕虜を使役した事を隠蔽する為に、日本人墓地の破壊を命じた。
ウズベキスタンは、日本人墓地を守った。
「その昔、肉が好きな人々がウズベキスタンに残り、魚の好きな人々が日本に行った」
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1967年 日本会議は、日本を守る会と日本を守る国民会議が合併して組織された。
江藤淳「占領時代には彼らが『父』であり、彼らが『天』であった。……
しかし占領が法的に終結したとき、日本人にはもう『父』はどこにもいなかった。そこには超越的なもの、『天』にかわるべきものはまったく不在であった。もしその残像があれば、それは『恥ずかしい』敗北の記憶として躍起になって否定された。この過程はまさしく農耕社会の『自然』=『母性』が、『置き去りにされた』者の不安と恥辱感から懸命に破壊されたのと表裏一体をなしている。先ほどいったように、今や日本人には『父』もなければ『母』もいない。そこでは人工的な環境だけが日に日に拡大されて、人々を生きながら枯死させて行くだけである」(『成熟と喪失』)、
日本政府は 2月11日を祝日にするにあたり紀元節という名を廃して「建国記念の日」とした。
キリスト教会は、戦前に軍部の侵略戦争に協力した事を反省し、現人神・天皇制度を復活させない為に、「信教の自由を守る日」として伝統的宗教文化を否定した。
10月 B級C級戦犯114柱の靖国神社合祀。
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1968年 三島由紀夫「何かが絶たれている。豊かな音色が溢れないのは、どこかで断弦の時があったからだ。そして、このような想像力の涸渇に対応して、一種の文化主義は世論を形成する重要な因子になった。……文化主義とは一言を以てこれを覆れば、文化をその血みどろの母体の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。
……
文化の全体性、再帰性、主体性が、一見雑然たる包括的なその文化概念に、見合うだけの価値自体(ヴェルト・アン・ジァヒ)を見出すためには、その価値自体からの演繹(えんえき)によって、日本文化のあらゆる末端の特殊事実までが推論されなければならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な立憲君主政体へと押し込められて行き、政治的機構の醇化によって文化的機能を捨象して行ったがために、ついにかかる演繹能力を持たなくなっていたのである。雑多な、広汎な、包括的な文化の全体性に、正に見合うだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない」(『文化防衛論』)
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1969年 アメリカ在日海軍司令官スミス少将と幕僚達は、靖国神社を参拝した。
アメリカ海軍は、ニミッツ提督以来の伝統として、日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎提督と、破れたとはいえよく戦った日本海軍と、祖国の為に散った日本軍兵士への敬意を込めて、靖国神社を参拝していた。
ブルーノ・ビッター神父「如何なる国民も、祖国の為に身命を賭した人々に対して、尊敬を表し、感謝を捧げる事は、大切な義務であり、また権利であります」
だが。中国、韓国・北朝鮮、反日的日本人は、死んでも人間を区別し、敵に対しては憎悪をもって呪いの言葉をかけている。
三島由紀夫「現在の政治的状況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会すべてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの顧客に化し、その上で行われることが最終的には芸術の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあると言えよう」(『若きサムライのための精神講話』)
神道政治連盟は、神社本庁を母体として設立された。「神政連は皇室の尊厳護持運動を活動の第一に掲げています」
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1970年 靖国神社の崇敬者総代会は、A級戦犯の合祀を決定した。
3月31日 共産主義者同盟赤軍派による、よど号ハイジャック事件。
11月25日 三島由紀夫と楯の会による、三島事件。
警察当局は、新左翼の赤色テロよりも狂信的右翼による白色テロを警戒した。
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エズラ・ボーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』
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1971年1月 ジョン・レノンとヨーコは、靖国神社を訪問し、伊勢神宮に足を伸ばしてその森に感動した。
「神道の森は素晴らしい。キリスト教の教会は街の中にあって自然が少ない」
8月21日 赤衛軍による、朝霞自衛官殺害事件。
9月25日 第1次坂下門乱入事件。新左翼は、昭和天皇が同月27日からヨーロッパ諸国7ヶ国歴訪を阻止する為に坂下門に乱入した。
新左翼は、天皇制度廃止と昭和天皇の戦争犯罪を追求する為に、反皇室闘争路線として皇室へのテロ攻撃を激化させて行った。
12月24日 新宿クリスマスツリー爆弾事件。
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1972年1月25日・9月 吹田三暴力事件。
2月19日 連合赤軍による、あさま山荘事件。
5月30日 日本赤軍の前身・アラブ赤軍による、テルアビブ空港乱射事件。
6月〜7月 吹田二中事件。
8月5日 台湾の国民新聞は、中国共産党が作成したとされる極秘文書「日本解体第二期工作要綱」を掲載した。
第一期、我が国との国交正常化。
第二期、民主連合政府の形成。
第三期、日本人民民主共和国の成立。昭和天皇を戦犯の首魁として処刑。
群衆掌握の心理戦として。「全日本人に中国への好感、親近感を抱かせ……我が党、我が国への警戒心を捨てさせる事にある。
中国の展覧会、公演、各種スポーツ団の派遣を行う。第一歩は、日本人大衆が中国大陸に持っている『文を重んじ、平和を愛する民族の国』という印象をかき立てる事である」
友好ムードを盛り上げる為に積極的に民間交流を行い、親中国派を育成し、中国の利益の為に働く日本人を民間で増やす。
マスコミ工作として。「日本の保守反動政府を幾重にも包囲して、我が国との国交正常化への道へと追い込んだのは、日本のマスコミではない。日本のマスコミを支配下に置いた我が党の鉄の意志とたゆまざる不断の工作とが、これを生んだのである。日本の保守反動の元凶達に、彼等自身を埋葬する墓穴を、彼等自らの手で掘らせたのは、第一期工作員である」
日本の新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどに多数の工作員を潜入させ、日本の政策を日中友好に誘導した事を誇り、親中国寄り報道をする様に指導を与えるべきである事を強調した。
政界工作として。「金銭、権力、名声等、欲するものをあたえ、必要があれば中傷、離間、脅迫、秘している私事の暴露等、如何なる手段を利用しても良い、敵国の無血占領が、この一事に懸かっている事を思い、如何なる困難、醜悪なる手段も厭うてはならず、神聖な任務の遂行として、やり抜かなけばならない」
日本の政治家は総じて、金と女に弱いから、政治献金と美女を与えた籠絡して手足の様に使うべきだと戦術を説いた。
もし親中国派にならなければ、工作員を使って本人と家族そして政治団体の極秘情報を探り出して脅すか、マスコミに流してダメージを与えて政治力を削ぐべきだと。
そして、中国共産党の最終目的は、日本を共産主義化して、天皇制度を破壊し、日本人民共和国を樹立する事である。
その為に、中国人工作員に日本国籍を取得させ、選挙権と役人への登用を獲得して、地方議員や地方自治体職員になって地方から日本を親中国寄りに改造する。
一部のマスコミは、皇族と国民の絆を裂く為に、皇室のイメージを毀損するが如く、ある事ない事、悪意を持った捏造や歪曲した記事を報道している。
だが。この日本解体要綱の真贋は不明であるが、現在の日本はその計画に近い形で親中国寄りの動きを取っている。
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1973年頃 武闘派左翼テロリストグループである東アジア反日武装戦線は、天皇制度廃止の人民革命を行う為に、昭和天皇、明仁皇太子ら皇族の暗殺計画を練り始めた。
1973年 東宝映画「日本沈没」
- 作者:小松 左京
- 発売日: 2005/12/06
- メディア: 文庫
- 作者:小松 左京
- 発売日: 2005/12/06
- メディア: 文庫
セリフ・山本首相「その国の首脳と国民に、10万人が不可能なら1万人、1万人がダメなら一千人、一千人がダメなら百人、いや、1人だっていい・・・人間の血は温かい。それを信じる以外にはもうなにもありません」
だが諸外国は、祖国を失う日本人には同情するが、国内に数万人規模の日本人避難民を受け入れる事は拒否した。
移民を受け入れる事は、国家の崩壊につながるからである。
人類史・世界史・大陸史の非常な現実の前には、人道は無意味であり、人権は無いに等しい。
数千人や数万人の移民は問題ないが、数十万人や数百万人の難民受け入れは国家の滅亡を意味する。
ゆえに。映画の中の各国は、日本人難民の受け入れを拒絶した。
生き残った日本人は、ほんの極僅かで、地球上に散って行き日本民族は消滅した。
国家を持たない民族は、消え去るのみである。
──
12月4日 戸手商業高校事件。
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1974年 極左武闘派テロリストは、昭和天皇の行動を調べ、全国各地で多様な公務をこなしながらも毎年8月14日だけは那須御用邸から皇居にお召し列車で帰還し、翌8月15日の全国戦没者追悼式に備えるという行動パターンをつかんだ。
天皇暗殺テロリストは、昭和時代を「昭和49年8月14日」をもって終わらせる作戦に高揚した。
暗殺テロ計画は、お召し列車を昭和天皇もろとも爆破するというものであった。
爆弾場所は、埼玉県と東京都の都県境に架かる東北本線荒川橋梁(赤羽ー川口間)とした。
2月6日 日本赤軍とPFLPによる、在クウェート日本大使館占拠事件。
8月30日 東アジア反日武装戦線による、三菱重工爆破事件。
9月8日・9日 元津事件。
11月22日 八鹿高校事件。
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1975年 昭和天皇は、訪米し、ホワイトハウスでスピーチを行った。
「両国の国民は、静けさの象徴である太平洋に、波風の立騒いだ不幸な一時期の試練に耐え、今日揺るぎな友好親善の絆を築き上げております」
4月19日 東アジア反日武装戦線による、オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件。
7月12日 第2次坂下門乱入事件。極左武闘テロ組織は、「反皇室闘争」として、復帰後の沖縄経済の混乱に昭和天王の戦争責任問題を絡めて皇室テロ攻撃を激化させた。
新左翼は、7月20日から翌76年1月18日にかけて沖縄国際海洋博覧会が開催される事に反対して、坂下門に乱入した。
7月16日 明仁皇太子・美智子同妃両殿下は、沖縄国際海洋博覧会開会式の為に沖縄を訪問された。
沖縄は「反天皇の島」として、皇室に対して複雑な感情を持ち、不測の事態が起きる危険性があるとして危惧された。
沖縄の専門家は、南部戦跡御訪問に対して「何が起こるか分かりませんから、ぜひご用心をして下さい」と進言した。
皇太子殿下は、沖縄訪問を切望する昭和天皇の名代としての覚悟から「何があっても受けます」とおっしゃった。
皇太子殿下から沖縄県民に向けての談話。「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって贖(あがな)えるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けて行く事をおいて考えられません」
7月17日 皇太子明仁親王・美智子同妃両殿下は、沖縄国際海洋博覧会(〜19日)開会式に出席する為に沖縄を初めて訪問され、沖縄戦に於ける慰霊碑「魂魄の塔」を拝礼し、琉歌を詠まれた。
「花よおしやげゆん 人知らぬ魂 戦ないらぬ世よ肝に願ゆ」
(花を捧げます、人知らぬ御霊に 戦のない世を心から願って)
テロ正午頃 白銀病院事件。沖縄解放同盟準備会の活動家2名は、糸満市の白銀病院に病気を偽装して入院していた患者と見舞い客に成り済まして入り込み、病院の下を通過する明仁皇太子および美智子皇同妃両殿下の車両に3階のベランダから「皇太子帰れ、天皇制反対」等と叫びながらガラス瓶、スパナ、石などを投擲した。
警備車両を破損させたが、両殿下に怪我はなかった。
ひめゆりの塔火炎瓶投擲事件。ひめゆりの壕の奥深くに潜んでいた沖縄解放同盟準備会(沖解同(準))と共産主義者同盟(西田戦旗派)の各メンバー2名は、ラジオで白銀病院事件を含む地上の情報を聴き、実況中継で午後1時5分頃に皇太子および同妃がひめゆりの塔に到着した事を知るや、地下壕に梯子を架けて地上に這い出て暗殺テロ準備を始めた。
テロリストは、皇太子の足元に向けて火炎瓶を投擲した。
火炎瓶は、献花台に直撃して炎上したが、皇太子妃が警察官に庇われて地面に倒れた際に打撲傷を負った以外は、皇太子および同妃に大きな怪我はなかった。
皇太子は、まず案内役を務め同行していたひめゆり会会長の身を案じて声をかけ、事件の発生に動揺する警備担当者を処分しないように関係者に依頼し。
その後の公式スケジュールは変更なく、何もなかったように予定通り行われた。
明仁皇太子殿下の談話「私達は、沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、ともどもに力を合わせて努力して行きたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けて行く事をおいて考えられません」
7月23日 エスメラルダ号火炎瓶投擲事件。チリ海軍の練習艦でバーケンティン式帆船であるエスメラルダ号(浮かぶ大使館)は、沖縄国際海洋博覧会を記念してエキスポポートに寄港していた。
新左翼は、エスメラルダ号がピノチェト軍事政権下で反対派に対する拷問部屋として使われた事に抗議するとして火炎瓶を投擲した。
8月15日 武道館で開催される政府主催全国戦没者追悼式典に参列した遺族は、式典終了後に靖国神社を参拝した。
遺族の中から、昭和天皇も靖国神社を参拝されるのに、式典に出席して式辞を読み上げる首相が靖国神社を参拝しないのはおかしいと不満の声が上がっていた。
三木武夫首相は、これまでの歴代総理が春か秋の何れかの大祭だけ参拝していたのを、8月15日に参拝する事に決めた。
三木武夫首相は、靖国神社を参拝し、共同通信記者の質問に、政教分離の原則から「私的参拝」と答えた。
これ以降、日本のマスコミは中国や韓国・北朝鮮などもアジア諸国の靖国神社批判を受け入れて狂い始めた。
だが。歴代首相は、在任中に公人として靖国神社を参拝し、春秋の例大祭には毎年参拝していた。
それに対して、中国も韓国・北朝鮮もアメリカも非難しなかった。
戦後日本のマスコミは、自分こそが歴史的時間軸と精神的空間軸の正しいジャッジメントになったつもりとなって、靖国神社を参拝する閣僚や政治家に「私的参拝」か「公的参拝」かを詰問し、公的参拝者を戦争礼賛者、右翼として有罪判決を下した。
後に。中国や韓国・北朝鮮などのアジア諸国は、日本軍に侵略された被害者を理由にして、国家及び民族を超越した普遍的最高裁判権を持つとして、靖国神社を戦争を肯定する悪魔教と認定し、参拝者を虐殺擁護者であると断罪した。
アメリカやドイツ等の諸外国も、靖国神社を軍国主義、国家主義、民族主義、ファシズムの象徴として否定している。
靖国神社を擁護する声は、国際世論には存在しない。
日本は、昔も今も、孤立している。
国際的孤立を恐れる戦後日本人は、反日的国際世論に盲目的に従う。
8月26日 皇太子殿下の、沖縄から東京に戻った後の記者会見。「火炎瓶事件や熱烈に歓迎してくれる人々──こうした状況は分析するものではなく、それをあるがままのものとして受け止めるべきだと思う」
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9月15日 風日祈宮放火事件。極左テロリスト集団・共産主義者同盟戦旗派(現アクティオ・ネットワーク)は、三重県伊勢市の伊勢神宮内宮境内で放火テロ事件を起こした。
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11月20日 宮内庁は、昭和天皇の靖国神社参拝の中止の原因として「①日本基督教協議会ほか6団体による参拝中止の要望書②野党各党からの反対声明③日本社会党議員による国会への質問主意書──が出され議論を呼んだとし、『靖国神社への御参拝は、この度が最後となった』」と昭和天皇実録で記述した。
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11月21日 昭和天皇は、国会で靖国神社参拝が問題化した為に、これ以降のご親拝はやむなく中断した。
国会で、政教分離の議論が白熱していた。
昭和天皇の名代として、皇太子や他の宮家が靖国神社に参拝していた。
昭和天皇は、毎年、春や秋の例大祭の度に勅使を派遣して供え物を奉納していた。
昭和天皇は、靖国神社参拝を中止したわけではなかった。
三木首相の原理原則論が、昭和天皇及び皇族の靖国神社親拝を不可能にした。
天皇と皇族には、プライベートはなく、住まいから一歩でも出ればマスコミの監視下に置かれ、行動全てが私的ではなく公務となる。
伝統的宮中祭祀は私的祭祀として認められたが、それ以外の祭祀は公的祭祀となる為に禁止された。
つまり。祭祀王である天皇が、靖国神社に親拝する行為は公的参拝となる。
1975年以降、昭和天皇の靖国神社親拝が途絶えたのはこのの為であり、A級戦犯達が靖国神社に合祀されたからではないし、中国や韓国・北朝鮮などのアジア諸国も猛反対でもない。
昭和天皇が、主権在民の日本国憲法を遵守し、靖国神社親拝を中止した。
戦後日本人の歴史的時空的民族意識への憎悪が、天皇の靖国神社親拝を禁止し、政治家に私的参拝か公的参拝かという「おぞましい愚問」を発し続けている。
問題は、劣悪な日本人の心・精神自体にある。
12月16日 明仁皇太子の誕生日前会見「復帰前に育った人は沖縄に対する認識不足で、私などもそうでした。……人間の交流によってお互いの理解を深めていく事が大事ではないだろうか。……沖縄には他の地域と違った歴史、文化があるのに、学校教育の中には殆どそれが入っていない。将来学校教育の中に入るべきだと思います。沖縄の歴史は心の痛む歴史であり、日本人全体がそれを直視していく事が大事です」
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1976年1月8日 周恩来は死去した。
周恩来は、政敵に墓を暴かれ遺体を辱められないように、墓を造らず、遺体を火葬にしてその遺灰を撒くように遺言した。
中国や韓国は、日本とは違って敵は死んでも絶対に許さず、慰霊は善悪を超える事はなく、善悪は権力者によって自由自在に変更される。
東アジアの歴史とは、教訓を得る鑑として、権力者が自分の正当性を証明する為に歪曲し捏造し改竄して書き記す偽りの虚構である。
そこには、事実に基づいた真実は皆無に近い。
1月17日・18日 沖縄国際海洋博覧会閉会式。明仁皇太子・美智子同妃両殿下は出席。
両殿下の沖縄訪問は沖縄戦没者の慰霊を兼ねていて、今回も南部戦跡の戦没者墓苑で献花と拝礼を行った。
この後も、天候が厳しくとも、体調が悪くとも、慰霊の旅は続けられている。
3月2日 東アジア反日武装戦線による、北海道道庁爆破事件。
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1977年3月3日 憂国道志会野村秋介による、経団連襲撃事件。
7月 政教分離を求める団体は、三重県津市で市立体育館建設の際の神道形式地鎮祭が、憲法第20条の政教分離の原則に反するとして提訴した。
一部では、神道ではなくキリスト教的な宗教行事であれば問題化しなかったろうと言われている。
9月28日 日本赤軍による、ダッカ日航機ハイジャック事件。
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- 作者:原 武史
- 発売日: 2008/01/22
- メディア: 新書