- 作者:不破 哲三
- 発売日: 2005/08/20
- メディア: 単行本
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
天皇制度廃絶は、日本共産党の党是であり、共産主義者の最優先目標であった。
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1920年 コミンテルン第2回大会は、「共産党と議会に関するテーゼ」を発表した。
「共産主義は、将来の社会形態として、またプロレタリアートの階級独裁の形態として、議会主義を拒否する。共産主義は、議会を恒久的に獲得する可能性を否定し、議会主義を破壊することを目的とする。ということは、共産主義は、ブルジョワ国家制度を破壊する目的でそれを利用するにすぎない」
各国の共産党に対して、プロレタリアート独裁・共産党一党独裁体制を構築する為に、選挙に参加して議会に入り込み議会制民主主義を内部から破壊・崩壊させる様に指示を出した。
そして、日本共産党と共産主義に対して天皇制度廃絶を命じ、極秘で活動資金を与えた。
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1920年代以降の日本は、侵略してくるソ連・共産主義勢力から天皇と母国を護る為に戦争をしていた。
その主戦場が、満州であった。
ソ連・共産主義勢力は世界的戦略戦術に長けていたが、日本政府及ぶ軍部は局地的戦術はあったが世界的戦略はなかった。
それ故に、日本軍部は敗北した。
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日本共産党にしろ中国共産党もソビエト共産党(52年にロシア共産党から改称)も、組織構造は武力革命と武力支配を遂行する為に軍隊方式で、一人の党最高指導者・軍最高司令官のトップダウンで動いていた。
決して、ボトムアップとして、下部組織・平党員同士が基本方針や活動方針を自由に議論をし、その結論を上部組織・中央委員会に求めさせるという平和方式の組織構造ではない。
共産主義にしろ社会主義にしろマルクス主義とは、上部組織が絶対権限で下部組織の自由や権限を剥奪して完全に支配する事で、下部組織が党員・人民の権利として上部組織を監視し制御する事ではない。
そこには、党最高指導者の決定や軍最高司令官の命令を自由に議論を交わして覆すという「民主主義の原則」は存在しない。
共産主義が言う所の「人民の権利と自由、人民の解放」は詭弁で、今は消滅して存在しないソ連や社会主義諸国、資本主義を導入した生き残りを模索している中国共産党政府にも存在しない。
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共産主義者は、「結果良ければ全て良い」として、嘘を付いて人を騙し、裏切っても気にはしない。
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1946年6月 日本共産党は、人民主権・人民平等・天皇制度廃止の「日本共産党憲法草案」を作成した。
社会主義に於ける人民とは全国民ではなく、共産党員の事である。
人民の平等も、豊かに平等ではなく貧における平等にすぎなかった。
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野坂参三「日本における支配階級は資本家だけではない。地主もいる。それから天皇制的な軍閥官僚、この3つが今まで日本の支配勢力であった。そこで、われわれは、まず封建的なもの、すなわち天皇制的勢力と地主とを倒さなければならない。これがすなわちブルジョア民主主義革命である……よくみると憲法にはごまかしがある。たとえば、天皇のもつている権限は、昔のような大きなものではないが、いろいろな実権が残されている。憲法の4、5、6条には相当の権限が残されている……このようにして天皇のところにいつて〈内閣総理大臣〉を任命してもらわなければならないと、反動分子が将来天皇の周辺に集まって入れ智恵をするとすれば、たとえば共産党が議会で指名されて天皇のところにいって天皇が任命しない。あるいは天皇がいろいろと遷延されるかもしれない」(『新しい世界・第三号』「共産党の戦略戦術」)
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徳田球一「天皇制の打倒なくしては、民主主義的平和国家の建設は不可能であることは表現しているものである。それ故に、日本が再び独立国として国際的地位を回復するためには、天皇制を打倒して民主主義を徹底せしめる事こそ、唯一の道である。日本管理理事会も亦この方向にすすむであろう」(『徳田球一論文集』)
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1949年 日本共産党は、歴史教育者協議会を設立して天皇制度打倒と共産主義正当論を広める為に歴史教育を本格化させた。
反天皇反日意識を子供に植え付け、日本人を嫌悪し憎むように仕向ける洗脳教育が、静かに、目立たないように始まった。
10月 中国共産党は、北京に情報謀略機関「極東コミンフォルム」を設立した。
中国共産党は、ソ連との間で、「日本・朝鮮を含むアジアにおける共産主義革命は中国が受け持つ」という役割分担の約定を取り交わした。
11月 劉少奇は、北京で開催された世界労連会議で、共産主義の大義を実現する為に暴力革命を輸出する基本方針を披露した。
劉少奇テーゼ「アジアの植民地・半植民地の運動は、中国と同じように人民解放軍による武力闘争をやらなければならない」
スターリンは、中国共産党主導権が毛沢東一派に握られソ連留学組が閑職に回された事に不満を持ち、日本だけはソ連の指導下で共産主義化するべく中国共産党に隠れて秘密工作員を送り込んでいた。
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1950年代 蒋介石は、大陸への大反攻作戦を決行するには国民党の力を強化する必要から、琉球独立論を掲げて、沖縄の親中国派に琉球独立工作を仕掛けた。
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1950年 1950年問題。
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1951年 日本共産党は「51年綱領」(「51年文書」)を決議した。
日本人社会主義者は、日本共産党が掲げる国際共産主義の理念と運動を否定する為に、自らを民主社会主義(デモクラティック・ソーシャリズム)と定義して「社会主義インターナショナル」を結成した。
日本人共産主義者は、日本民族の歴史・伝統・文化・宗教を否定し、日本天皇と皇室を人民の敵と定め、天皇制度の廃絶を目指した。
日本人社会主義者は、日本民族の全てを受け入れ、日本天皇を敬愛し、日本皇室を親愛し、天皇制度を護持しようとした。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
破壊活動防止法(はかいかつどうぼうしほう)
昭和27年法律240号。しばしば破防法と略称される。占領下において制定された団体等規正令が講和後廃止されるのに伴い制定されたもので,その目的は,(1) 「団体の活動として暴力主義的破壊活動を行なった団体に対する必要な規制措置を定める」とともに,(2) 「暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補整」し,もって「公共の安全の確保に寄与する」ことにある。 (1) の規制措置は,公安調査庁の調査と同長官の求めによって公安審査委員会が行なうが,そのなかには,集団行動の禁止,機関誌紙の印刷,頒布の禁止,団体の解散の指定措置などが含まれる。 (2) の刑罰の補整としては,破壊活動を行なった個人および規制違反者を処罰対象としようとするもので,一定刑法上の犯罪の教唆を独立した処罰対象とするとともに,それに加えて扇動をも独立の犯罪とするところに特徴をもつ。言論,出版,集会,結社の自由を侵害するものではないかとの批判もあり,本法の適用について裁判所は慎重な態度を持してきている。
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1954年6月27日 日本共産党は、ソ連・共産主義陣営の核兵器や原子力発電所は平和利用であるがアメリカ・資本主義陣営の核兵器や原子力発電所は独占資本家による金儲けと厳しい口調で非難した。
アカハタ「ソ同盟 原子力発電所操業開始 平和利用を実現 人類史に新しいページ ……社会主義の勝利」
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1961年7月22日 日本共産党は、第18回中央委員会総会で「原子力問題に関する決議」を採択した。
「原子力のもつ人類のあゆゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させる事は、人民が主権を持つ新しい民主主義の社会、さらに社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこの事を示している」
「我々は反帝、反独占の闘いの中で、原子力をアメリカ帝国主義と日本独占資本の手から解放し、労働者階級を中心とする勤労人民の手に移す事を目指して、それを人民と進歩的科学技術者の監視の下に置く為にあらゆる努力を払わねばならない。こうする事によってのみ原子力の軍事利用を阻止し、平和利用、自主、民主公開の三原則、安全性の保障のもと原子力の研究、開発、利用への道を開く事ができる」
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2004年1月 日本共産党は、第23回党大会で最新の党綱領を採択し、日本人民共和国建国を目指す46年憲法草案を引き継ぐ事を確認した。
日本人民共和国において、天皇制度は存在しない。
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2004年3月7日 しんぶん赤旗「ここが知りたい特集
日本共産党綱領と天皇制、自衛隊
より明らかになった変革の道すじって
日本共産党は第23回大会(1月13日―17日)で綱領を改定しました。商業マスコミはそろって「共産党が綱領全面改定/天皇制・自衛隊 当面は容認」などと報道しました。そのためか「天皇制や自衛隊を認めたの?」といった質問を受けることがあります。綱領にそって、みなさんといっしょに考えていきましょう。
今度の綱領は天皇制、自衛隊を容認したの?
いいえ、違います。「容認」って「よいとみとめて、ゆるすこと」(『広辞苑』第五版)ですよね。日本共産党は、天皇制や自衛隊を「よい」ものだとは考えていないし、民主主義の精神や人間は平等という精神から、天皇制をなくす、「戦力はもたない」と定めた憲法九条に違反する自衛隊もなくすという立場に立っているんです。
天皇制について、綱領は、「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではな」いと書いています。そのうえで、「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」という方針をうちだしています。
共和制というのは、国民が選挙で選んだ議会や指導者(首相、大統領)を通じて政治をすすめる体制のことです。王様などが統治権をもっている君主制とはちがいます。
国民が主権者で、国の機関の担い手も、すべて国民自身の中から選ばれる政治体制のことをいいます。いまでは世界のほとんどの国がそうですね。
自衛隊については「憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」と書いています。
つまり自衛隊は憲法九条に違反する存在だから、その解消をめざす、という目標をはっきりかかげているんですよ。
このような考えと目標のうえにたって、現状をどのように変えていくのかという道すじを具体的に明らかにしたのが、こんどの改定の大きな特徴なんです。
戦前は、天皇制打倒を掲げていたと思いますが…
戦前と戦後では、天皇制の性格と役割が憲法で大きく変わったんです。
戦前は、天皇が主権者で、立法・司法・行政の区別なく、国を統治する権限をすべてもっていました。軍隊への指揮・命令、戦争を始めたり終結させる宣戦・講和の権限もすべて天皇がにぎっていました。
ですから戦前の日本では、天皇制をなくさない限り、平和も民主主義もないし、国民が主人公の日本をつくることも実現できませんでした。日本共産党は、命がけで天皇制打倒の旗をかかげてたたかい、多くの先輩党員が命を落としました。
戦後は事情がまったく変わりました。日本国憲法は、国民が主権者であることを明記しました。国民の多数が政治を変えたいと思えば、選挙などを通じて、変えることができる制度になりました。半面、天皇は「憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(第四条)存在になりました。
天皇条項を含んだいまの憲法のもとでも、日本の民主的改革はできます。ですから、日本共産党は四十三年前に綱領を決めたとき(六一年綱領以降)も、「天皇制打倒」の旗をかかげなかったのです。
Q では、どうやってなくしていくんですか。
天皇の制度というのは、憲法で定められた制度です。日本共産党の考えだけで変えられるものではありません。これをなくすことは、国民の中で“民主主義を徹底させよう、そのためには民主主義と矛盾する制度はもう終わりにしよう”という声が大きくなったとき、はじめてできるようになります。
そこで綱領では「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」と書いたんです。
そのときまで天皇の制度は残りますが、大事なのは、憲法で決められたことをきちんと守らせることです。
綱領は次のようにのべています。「天皇条項については、『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する」
たとえば国会の開会式は、天皇が絶対者だった戦前のやり方をひきつぎ、天皇を日本の主人公のように扱っています。だから日本共産党は開会式を欠席して、反対の立場を明らかにしているんです。
ほかにも、憲法の「国事行為」にもない「皇室外交」なるものがやられたり、天皇を「元首」扱いしようとするなど、憲法からはずれた動きは絶えません。これを許さないことが大事です。
そしていま何よりも重要なことは、憲法九条を中心とした憲法改悪の企てを許さないことです。
Q 将来、天皇について「国民の合意」や「国民の総意」で解決するというのは、問題の先送りのような気がしますが…。
日本共産党は「国民が主人公」の原則をなにより大事にしています。どんな社会変革も、国民の合意にもとづいて一歩一歩進んでいくという考え方を、天皇制の問題でも貫いているんです。
いまイギリスでは王室の存廃をめぐる国民的論議がおきています。日本でも国民が民主的な社会をめざそうとすれば、民主主義や人間の平等と両立しない世襲制の天皇を「象徴」とする制度の存続が問われるときがくると思います。
自衛隊はすぐに廃止するのではないのですか?
自衛隊は天皇の場合とは違って、存在自体が憲法違反ですよね。違憲の自衛隊を解消すべきだという日本共産党の立場は、変わっていないんです。
ただ、自民党政治のもとで半世紀もの間、自衛隊が存在する中で、“自衛隊なしに日本の安全は守れない”という考えが広められました。
国民が“自衛隊をなくしてもいいよ”という気持ちになるには、それだけの時間と手続きが必要になっています。
綱領は、憲法九条の完全実施をめざす立場に立ちながら、国民の合意をもとにして一歩一歩、自衛隊問題を解決していくという、方法と道すじを明らかにしたんです。
Q どういう道すじなのですか。
自衛隊問題は大きく三つの段階をへて解決していくことを展望しているんです。
日本共産党は、日本を「アメリカの世界戦略の半永久的な前線基地」にしている日米安保条約を廃棄してこそ、民主的改革の本格的前進の道が開かれると考えています。
第一段階は、この安保条約を廃棄する前の段階です。「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置」をとることが課題となります。
第二段階は、安保条約を廃棄して軍事同盟からぬけ出した段階です。自衛隊の民主化や、大幅な軍縮を進めていきます。
国民の合意で憲法九条の完全実施にとりくむのが、第三段階です。アジアの国々とも平和で安定した国際関係をつくりあげるために努力します。
“自衛隊がなくても平和に生きていけるじゃないか”と国民が確信をもてるようになって、自衛隊解消への合意が熟していくのと歩調を合わせて、九条の完全実施に向かう措置にとりくみます。
日本共産党はこの方針を、四年前の二十二回党大会で、「自衛隊問題の段階的解決」として体系的に明らかにしました。綱領は、その内容を簡潔に要約しています。
Q どういう道すじなのですか。
自衛隊をなくす条件が熟するとはどんなことですか。
たとえば第三段階に進むにあたってやるべき課題の一つに「非同盟諸国首脳会議」に加盟することがあります。この会議は、“どんな軍事ブロックにも加わらない”という国々の集まりです。
憲法の平和原則からすれば当然ですし、“もう軍事ブロックに入らない”と行動で示すことは、周辺の国々と本当の友好関係を深める貴重な糸口ともなります。
このように、道理ある平和外交によって平和的な国際関係を築いていけば、国民の中でも「もう、自衛隊は必要ない」という合意が成熟する条件が整ってくるでしょう。そのもとで国民がじっくりと日本の安全保障のあり方、自衛隊の将来を論議し、「国民の合意での憲法九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」ことになります。」
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2016年3月23日 産経ニュース「政府が「共産党は破防法調査対象」と答弁書を閣議決定
政府は22日の閣議で、共産党について「現在においても破壊活動防止法(破防法)に基づく調査対象団体である」との答弁書を決定した。破防法は、暴力主義的破壊活動をした団体の活動制限などを定めているが、政府が調査対象の団体を明示するのは異例。答弁書では、共産党が「暴力革命の方針」を継続しているとの認識も示した。
鈴木貴子衆院議員(無所属)の質問主意書に答えた。答弁書によると、警察庁の認識として、共産党は「『いわゆる敵の出方論』に立った『暴力革命の方針』に変更はない」と明記。「敵の出方論」とは、共産党が唱えているとされる「権力側の出方によっては非平和的手段に訴える」との理念を指す。
さらに答弁書は、平成元年2月18日の衆院予算委員会で破防法の不当さを訴えた共産党の不破哲三中央委員会副議長(当時)の質問に対し、「敵の出方論があり得る」と述べた石山陽公安調査庁長官(同)の答弁を引用。「(石山氏が)答弁しているとおり」とし、現在も共産党が「暴力革命」を捨ててないとの認識を明らかにした。
共産党は戦前、非合法組織だったが、終戦に伴い合法組織となった。共産党員は当時、党内外でさまざまな暴力事件を起こしていたが、今回の答弁書も「政府としては共産党が日本国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがあるものと認識している」と明記した。
政府は昭和57年と平成11年の参院法務委員会で、当時の公安調査庁長官が共産党を破防法の調査対象団体と明言したことがある。同党の山下芳生書記局長は22日の記者会見で「憲法違反の破防法の対象になるようなことは過去も現在も将来も一切ない。極めて厳重な抗議と答弁書の撤回を求める」と反論した。」
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2016年6月号 Hanada「本当は恐ろしい日本共産党『黒い履歴書』 兵本達吉
……
平和革命から武装闘争へ
……
1950年、すでに朝鮮戦争の準備をしていたソ連共産党や中国共産党から、それまで『愛される共産党』とか、『平和革命』を唱えていた野坂参三や日本共産党の指導者がモスクワに呼び集められた。スターリンが直々に参加した会議で『武装闘争』に決起する指令を受けて、スケールは小さかったし、人民大衆の反応はサッパリだったし、盛り上がりはなかったが、『人民戦争』=内乱に立ち上がったのが、いわゆる『50年問題』であった。
地下の指導部が設置され、ここに軍事司令部・軍事委員会が設置された。山間部に隠れて、軍事教練が行われた。武器として火炎瓶の作り方が指導された。現在のアラブのISに比べると、吹き出すような幼稚な武器を大真面目に製作した。
全国各地の交番・派出所を襲撃して警官を傷つけ、殺傷し、ピストルを奪ってきたり、中国革命の人民戦争を模して山に立て籠もった(山村工作隊)、さらには三大騒擾(そうじょう)事件といわれるものを引き起こした。
(1)血のメーデー事件(2)吹田・枚方事件(3)大須事件である。それぞれの事件に直接・間接にかかわった人たちが詳細な研究書を発表しているので、興味のある方は直接読んでもたいたい。これら三大騒擾事件は、党の軍事委員会の方針に従って計画的に起こされた事件であった。
この時代には、党の本当の指導部は北京にあり、徳田機関とか孫機関と言われた。ここから、日本国内にあった臨時中央委員会へ指令が伝えられた。漁船やかっぱらってきたボロ船を修理して人民艦隊を組織し、九州と中国の間を往来した。日本に対する政治的煽動を目的に、非公然の地下放送『自由日本放送』を流した。ここでも軍事訓練が行われて『日本人民軍』の組織が準備され、日本への上陸作戦を行っているのを目撃した人がいる。
日本共産党は当時、北京に日本革命の戦闘司令部を設置して青年たちに革命訓練と軍事教練を施し、北京から革命放送を行って、日本の労働者に革命を宣伝・煽動し、あわよくば日本への上陸も考えていたのである。
5月号『WiLL』でも書いたが、これが刑法の内乱罪・外患罪に問われなかったのは不思議である。これは当時、軍事委員会の組織図とか軍事方針(文書)とか採証上の困難があったこと、それよりも何も、当時、内務省や司法省の高官たちの公職追放が行われそれが解除されたばかりで、本来、取り締まりにあたる警察官・検察官たちは士気阻喪(しきそそう)しており、立件するだけの気力にも欠けていたからだ。
この『50年問題』のおかげで、何百人・何千人もの青年・労働者が逮捕・起訴され、こうした人たちの受けた刑期は、総計すると1万年以上だといわれた。数多くの前途有為な青年たちが一生を棒に振った。
しかも、党の指導者でただの一人も責任をとったものはいない。そして何よりも、日本国民に対してただ一言の謝罪もお詫びの言葉もなかったし、その後もない。
『50年問題』は、外国の指導者・スターリンの指揮棒に踊らされて、日本国内に『内乱』をおこす企てであった。だからこそ、政府指導部は警察の強化を考えて、警察予備隊を大慌てでつくり、やがて保安隊・自衛隊と発展していったのである。
中国共産党との関係
……」
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日本共産党は、二段革命論に基ずく武装闘争ゆえに破防法で監視対象となっている。
日本の反体制勢力の陰に、ソ連・共産主義勢力や中国共産党などの陰が必ず見え隠れしていた。
特に、中国共産党の日本への悪意をもった策動は止まなかった。
天皇制廃絶は、共産主義において譲れない核心である。
中国共産党も日本共産党と同様に、共産主義の大義を貫く為に天皇制度廃絶を目指している。
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日本は、中国共産党政府、韓国、北朝鮮など極東アジア諸国には用心の上にも用心を重ね、柔やかな「友好」の狂言に惑わされず油断しない事である。
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2016年6月号 WiLL 「渡部昇一 一見何でもないことのようであるが、些事に見えても、象徴的な意味あることは、意外にも大きな結果を生むことがあるのではなだろうか。
近くの例では平成4年10月の天皇・皇后両陛下の中国訪問を思い出す。天皇が外国を訪問されることは親善外交の姿としてよろこばしいことであると思う。しかし相手を考えなければならない。欧米諸国やアメリカのご訪問ならまことに結構であるが。しかし東アジアの元首の訪問は、これを朝貢(ちょうこう)と見做す国の場合は話が違う。シナ大陸の王朝では、昔から周辺の君主が首都にやってくれば、それは朝貢であり、臣下の礼を執ったと見なされるのだ。
日清戦争、満州事変、シナ事変以来、シナのリーダーたちが日本や日本人を憎んだとしても当然である。しかし蒋介石も、毛沢東も、周恩来も、訒小平も、日本を憎んだとしても、懼(おそ)れたり、尊敬の念は持っていたと思う。何しろ阿片戦争以来、シナ人を見下し、シナの公園なのに『犬を連れた者とシナ人は入るべからず』という立札を建てたと言われるほど傲慢だが強かった白人たちに勝った日本や日本に一目置く気があったに違いない、と私は思う。
しかし平成4年10月でそれが変わったのである。それは平成元年6月、いわゆるッ天安門事件が起こった時、中国当局は天安門広場を占拠して市民を装甲車や戦車で制圧し多数の死者を出し、それが世界中にテレビで放送されたことに関係がある。この市民虐殺に対してアメリカは武器輸出、軍事交流を停止し、フランスも対中国関係を凍結し、イギリスも武器禁輸し、ソ連ですらゴルバチョフが憂慮を表明するなど、中国は外交は孤立化した。中国支持したのは東ドイツとチェコぐらいであった。
それで中国を取り囲む外交の輪の一番弱いところと言われた日本に平成4年4月に中国共産党総書記であった江沢民が来日し、宮沢首相に天皇の中国訪問を要請したのである。そして翌日、江沢民は天皇に表敬訪問し、与野党の首脳とも会談したのであった。この要請を受けた宮沢内閣はその年の10月、両陛下の中国御訪問を実現させたのであった。中国から見れば、日本の天皇を朝貢させたことになる。日本の歴史でシナの王朝との交渉は聖徳太子に始まるとされている。そして、よく知られるよに聖徳太子の書状は、東の天皇が西の皇帝に書いたものという形式で、大国隋とも平等の姿勢であった。それ以来、日本の天皇がシナ大陸の王朝に朝貢することはなかった。それが平成4年(1992)の10月に変化が起こったのである。このシナ史上空前の手柄のためか、この10月の中国共産党第14回大会において江沢民は党総書記に再選されている。
その江沢民は6年後の平成10年(1998)の10月に日本を再訪問した。その時の皇居における公式晩餐会での江沢民の姿は、一部テレビにも出たので知られたが傲慢そのものであった。第一に服装からして他国の元首と公式の食事をするものとは言えなかった。何より日本の過去を批判するようなスピーチをしたのである。
6年前、宮沢内閣時代にやってきた江沢民と、この時の小渕内閣の時の江沢民とは別人の如くであった。天皇陛下を見下している態度なのである。これに対して多くの日本人は腹を立てた。しかし江沢民側からすれば、すなわち中国人の方から見れば当然なのである。日本の天皇も、江沢民の目から見れば、今や東の島にある国の『朝貢した君主』にすぎないからである。
宮沢さんにしてみれば、日中関係をよくするためにやったことだったであろう。しかし秀才の多くいたと言われる宮沢内閣に『朝貢』の意味を考える人はいなかったのであろう。もちろん朝貢などは公務員試験の対象になる事項ではないだろう。しかし社名、年号、武士の髪などなど、いろいろなことに象徴的なものがあり、そこには理を越した何かしらがあると思われてならないのである」
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