💖9)─1─日本皇室と日本赤十字社は、パリに日本赤十字社救護班による日赤病院を開院した。~No.38 @ 

日本赤十字社と人道援助

日本赤十字社と人道援助

  • 発売日: 2009/11/01
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 アメリカやイギリスの反日勢力は、日本が参戦して中国の権益を独占するのではないかと危惧していた。
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 軍国日本の集団的自衛権発動は、連合国に味方し、ドイツ帝国に敵対行為する事であった。
 現実の世界では、味方かさもなくば敵の二者択一しかない。
 軍国日本は、国際社会の一員として生きていく以上は、その何れかを選ばねばならなかった。
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 永世中立国のスイスは、集団的自衛権を放棄していた分同盟国を持たず、個別的自衛権として一国のみで国を守らねばならなかった。
 憲法は、国民に主権を与える見返りとして武器を取って戦争に参加して戦う義務を負わせていた。
 ゆえに、徴兵制を採用していた。
 少年から老人まで、健常者であればスイス軍の兵士として戦った。
 戦う事で、スイス国民として認められ、国民としての権利が認められた。
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 軍国日本は、評価されなくとも、感謝されなくとも、パリに日本赤十字社救護班による日赤病院を開院した。
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 日本赤十字社は、皇室と関係が深く、日本軍と行動を共にしていた。
 日本軍が進軍する所には、必ず日赤があった。
 日赤の従軍看護婦は、軍国日本の顔として、日本軍兵士にとって頼りになる天使であった。
 日本軍は、皇室に関係している日赤の活動を妨害する事は有り得なかった。
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 日本赤十字社は、総力戦の悲惨を肌身で感じ、その尋常なざる非人道的殺戮がキリスト教世界で繰り広げられている事に戸惑った。
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 フランスは、アメリカ同様に、親中国派として反日派であった。
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 軍隊に関連した医療機関には、野戦病院兵站病院、軍病院の3種類がある。
 野戦病院とは、軍医部が戦闘部隊とともに戦闘地域に出動した病院。
 兵站病院とは、赤十字社が安全な後方に従軍看護婦を派遣して開設した病院。
 軍病院とは、本土の病院。
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 第一次世界大戦
 1914年8月15日 日本政府は、ドイツに対し最後通牒を行った。
 8月23日 日本は、ドイツ帝国にたして宣戦布告した。
 ドイツ人は、日本を近代国家に導いたのは自分達であるとして、イギリスに味方して攻撃してきた事に激怒して裏切り者と罵った。
 ドイツの保守層や軍部、そして後のナチス・ドイツなどの右翼は、反日派であった。
 11月 日本政府は、同盟国イギリスの要請に従って医師と看護婦をヨーロッパに派遣する事を決定した。
 イギリスもフランスも本格的な近代戦を経験していなかった為に、日露戦争で救護活動を行った経験のある日本に支援を要請した。
 日本赤十字社は、医師・看護婦計31名を救護班としてパリに派遣することとした。
 日赤救護班の派遣は、日露戦争における実績が高く評価されたからである。
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 1915年2月 日本政府は、パリ市内のホテルを日赤病院に借り受けた。
 日本軍部は、日赤救護班に最新の医療器具や医薬品を大量に持ち込む事を許可した。
 2月24日 日赤病院は、友好国軍の重傷病兵を担当し、治療と看護に当たった。
 当初は言葉の壁で思う様な救護活動が行えなかったが、フランス語を覚え、献身的な救護活動でフランス人負傷兵らの信頼を勝ち得た。
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 1916年 日赤救護班は、日本軍よりも先に総力戦の悲惨な状況を目の当たりにし、今後の教訓とした。
 2月〜6月 ヴェルダンの戦い 両軍合わせて約70万人戦死。
 日本政府は、日赤病院の閉鎖と救護班の撤退を通告した。
 救護班は、患者を置いて帰国する事を不服としてパリに留まり、治療と看護を続けた。
 もしこの時。不運にも、パリ空襲に巻き込まれて死亡すれば、靖国神社に祭神として祀られた。
 7月 救護班は、大量に運び込まれる負傷兵に対し、休養も取れず、過労で倒れる者が出はじめた為に撤退を決断した。
 7月10日 助けられたフランス人達は、その恩に感謝する為に、不自由な体でありながら駅に来て帰国する救護班を見送った。
 日赤救護班は、約2年間で5万5,000人の救護を行った。
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 日本の人道的国際貢献は、国際社会では理解されないし、感謝してくれる国は少ない。
 それは、日本の政治家や官僚や如何なる媒体を使って自己表現する知識人・教養人・評論家・専門家と言われる人間が、口で言うほど他人に情報を伝える能力が乏しいからである。
 つまり、口先だけと言う事である。
 さらに、日本人も関心を示している様でその実は無関心と言う事に尽きる。
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 日本軍と行動を共にした日赤の従軍看護婦は、中国大陸や南方の激戦地で負傷者の治療・看護という使命を全うし、多くの若い女性が日本軍と共に戦い戦死した。
 従軍看護婦は、靖国神社の祭神として祀られている。
 全ての従軍者は、軍属として、日本兵士と同格に扱われて靖国神社の祭神に祀られた。
 靖国神社に祀られない従軍者は、誰もいない。
 従軍者であれば、日本人であろうと朝鮮人・台湾人であろうと、男だろうと女だろうと子供であろうと、仏教徒であろうとキリスト教徒であろうとイスラム教徒であろうとユダヤ教とであろうと神道信者であると、犬でも馬でも鳩であっても、分け隔てなく靖国神社の祭神として祀られている。
 従軍者には、靖国神社に神として祀られる資格がある。
 従軍看護婦、従軍記者、軍に徴用された学童、軍馬、軍用犬、軍事伝書鳩、それら全てが靖国神社の祭神である。
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 中国、韓国・北朝鮮そしてアメリカなどの諸外国やキリスト教会と一部の仏教界は、靖国神社を完全に否定している。 
 日本人の中にさえ、靖国神社を否定する日本人がいる。
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 連合国と同盟国の両軍内で性病が蔓延し、戦力が削がれた。
 両軍は、兵士を性病から守る為に軍管理下の慰安所を設け、多くの慰安婦を送り込んでいた。
 軍隊のある所に、軍隊専用の慰安婦がいた。 
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 1917年 中立国アメリカは、イギリスに貸し付けていた戦費を回収する為に参戦を決断した。
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 74 日本医史学雑誌 第 61 巻第 1 号(2015)
 第一次世界大戦時パリで活動した
 第四厚誼病院(日本赤十字
 小林  晶 福岡整形外科病院
 2014 年は第一次世界大戦勃発百周年を迎え,関係各国で記念行事が行われた.我が国でも若干の報道はあったが,医療救援の実態は皆無であった.今回はパリで活躍した我が国の医療救援活動の詳細を報告する.第一次世界大戦では我が国は連合国側として参戦した.軍事活動についての記録は多いが,医療救援においても大きな活動が見られた.それはパリに病院を設置して行った本格的な医療救援である.陸軍大臣の要請から日本赤十字社(以下日赤)はジュネーブ条約により「博愛ノ大義ニ基キ仏英露ノ三カ国ヘ救護班ヲ派遣スル」ことを決定した.日赤はかって看護婦組織(以下当時の呼称によって看護婦とする)を海外に派遣した経験はなく,他国の救護班に劣らぬよう責任の重大さを考慮して,全国各支部から優秀な看護婦 20 名を選抜した.医員には東大医学部から救護班医長として外科助教授塩田廣重,助手茂木藏之助,日赤滋賀支部の渡辺純一郎が選ばれた.その他,職員を含めて班員総数 31 名であった.派遣期間は 5 か月とした.1914 年(大正 3 年)12 月 16 日横浜を出港,翌年 2 月 4 日 51 日間を要してマルセーユに到着,同月 5日パリ着.既にそれまで英国救護班が使用していた,凱旋門近くのアストリア・ホテル(8 階建て,客室数 300)が我が国の救護班用に用意されていた.仏側は陸軍省直轄の病院組織として事務連絡は仏人事務官が当たった.比較的上流階級夫人数人が篤志看護婦として助力したが,これは仏社交界では誇りとされたという.我が国から持参した梱包は 364 個であったが,この膨大な荷物も仏兵の助力により数日間で整理され,2 月 15 日より診療を開始した.ただ,X 線機器だけは仏側から貸与されたが,あとの機器,薬品,包帯材料,病衣などは我が国からの自給であった.パリ市内には政府からの援助でなく,寄付行為のみで運営している厚誼病院は英・米・ロスチャイルド病院の 3 病院のみで,我が国の病院は正式には Ministère de la Guerre, Hôpital Bénévole No 4 bis. Croix-Rouge Japonaise「陸軍省直轄第四厚誼病院(日本赤十字)」と呼ばれ,病院名を玄関に掲げ屋上に日章旗を掲揚した.院内は二つの手術室を備え,病室は清潔に整頓され職員の行動は規律が保たれ,食事も仏人により自国風の内容で提供された.病床は 150 床で,この中の数室を重傷患者,術後患者用とした.戦場から後送された患者は仏軍医部を通過して病院に割り当てられ者と直送される重傷者であった.戦場からの傷病兵は 24 時間消毒室に入れ,その後患部をさらに消毒する手段を取った.手術は間断なく行われた.歩行可能なものは仏兵を付けて散歩させている.1 週間に 1 回は家族に病状を知らせた.演芸会,コンサートなどの娯楽も行われた.最初は仏人も東洋人の手腕,行動に多少の危惧を抱いた感があったが,治療成績の良好なことと,職員の応接の丁寧さ優しさで病院の世評は鰻登りで,戦傷者以外の市民の受診希望が殺到し始め,有名人の紹介状持参者まで来院する有様であった.戦傷兵の増加と入院患者の残留希望の増加もあって,退院が滞って困惑する事態も発生した.地元と外国特派員はすべて我が国の病院を賞賛した.「一切の設備は日本で準備され,豊富で良く整頓されている.小さな日本人看護婦は大きな負傷兵を起こし,包帯法は見事なもので実に器用である」,「職員各自は患者の感情を理解し,愛嬌のある微笑で迅速に丁寧に礼儀を弁まえて事に当たる」,「梱包の空き箱を棚に重ねて利用し,薬瓶には日本語とラテン語の名札を付け理解し易くしている」,「言葉は少なくたどたどしくても,技術はすべてヨーロッパを凌駕している」などである.これらの事実から仏側から滞在期間の延長を希望されたのも当然であった.熱望されて 1916 年 7 月までの滞在期間延長は行ったが,さらなる希望は叶えられず惜しまれつつ帰国の途につき,1916 年 9月 13 日神戸に到着任務を終えた.なお,口演で入院に関する統計数値を示したい.
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