💖18)─2─河南省大飢饉。日本軍は戦争をしながら飢餓民約1,000万人を助けた。日本軍の敵兵虐殺事件。1940年No.72No.73No.74No.75 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本軍は飢餓民約1,000万人を保護して食料・医療品を分け与えた。
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 上杉謙信「戦いは武力で決めたい。塩の輸送を断って、敵を屈服させようとは思わない」
 サムライは、上杉謙信の様に生きたいと念じていた。
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 日本軍は、同胞が敵軍との中間地点にいるとき攻撃をためらい、戦車で同胞を轢き殺してまで進撃する事に躊躇する。
 だが、中国人はためらう事が全くない。  
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 軍国日本は、時効無き戦犯国家として有罪判決を受けている。
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 中国人は、決して感謝をしない。
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 河南省の飢餓民達を助ける為に戦死した日本人兵士は、靖国神社の祭神として祀られた。
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 東條英機A級戦犯靖国神社)は、総理大臣と陸軍大臣を兼務し、1942年9月1日から16日まで一時外務大臣を兼ねた。
 河南省の大飢餓を、東條英機は知っていた。
 大元帥昭和天皇が、知っていたかどうかはわからない。
 日本の皇室は、国際社会と良好な関係を作り、国際世論の共感を得る為に、傲慢と取られない様に人一倍気を遣いながら、国際赤十字を通じて慈善活動という国際貢献を行っていた。
 歴代皇后は、明治時代から国際赤十字と深い関係を保ちながら、他国の王室以上に多額のボランティア資金を寄附していた。 
 日本陸軍は、情報戦・謀略戦に勝つ為に、連合軍の暗号解読に全力をあげていた。
 中国戦線では、国民党と共に中国共産党の極秘暗号電報を傍受し、その大半を解読して、抗日中国軍や紅軍の情報を得ていた。
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 軍事費が急増した。
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 2006年4月9日 産経新聞「一九四二年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説がこのほど日本で翻訳出版された。劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」だ。同小説は日中戦争の最中の一九四二−四三年、河南省を襲った干魃による被災民三千万人、餓死者三百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した」(一部抜粋)
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 2013年9月3日 msn 産経ニュース「中国外務省 「抗日戦争は正義が邪悪に勝った」
 中国外務省の秦剛報道官は3日、中国が「抗日戦争」と位置づける日中戦争終結68年に合わせ、「抗日戦争の勝利は、正義が邪悪に勝ち、光明が暗黒に勝った偉大な勝利だ」などとする談話を発表した。
 秦氏は「日本の侵略の歴史を覆すためのいかなる企ても、被害を受けたアジア諸国の人民や国際社会の断固とした抵抗と反対に遭う。日本側に、歴史と未来に対して責任ある態度を取り、真剣に反省を示し、実際の行動でアジアの近隣諸国と国際社会の信用を得るよう促す」と強調した。
 「節目の年」とはいえない今年、談話を発表した背景には、尖閣諸島沖縄県石垣市)をめぐって対立する日本を牽制(けんせい)する狙いがあるとみられる。(北京 川越一)」
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 2014年9月28日 msn産経ニュース「中国外相が国連で安倍政権批判「歴史は作り替えられない」「日本の侵略で死傷者3500万人超」[日中関係
 【ニューヨーク=黒沢潤】中国の王毅外相は27日、国連総会の一般討論演説で、「来年は反ファシズム戦争と中国人民の抗日戦争勝利から70年目にあたる」と述べた上で、「歴史は作り替えられないし、真実も歪曲(わいきょく)できない」と強調、名指しを避けながらも安倍晋三政権を批判した。
 王外相は冒頭、第2次世界大戦に言及し、「日本の軍国主義者による侵略で、中国の軍人や民間人に3500万人以上の死傷者が出た」と指摘。「歴史の事実」はすでに明らかになっているとし、「何が善で何が悪か」の審判も出ていると言明した。
 その上で、国際社会に対し、「正義や良心を一緒に擁護しよう。そうすれば、侵略を否定し歴史を歪(ゆが)めようとする者は隠れることができないし、何かを成し遂げることも不可能となる」と述べた。
 王外相は一方、沖縄県尖閣諸島の領有権問題を念頭に、「主権と領土の保全は順守しなければならない」と訴えた。
 シリアやイラクで台頭するイスラムスンニ派過激組織「イスラム国」については、「すべてのテロ活動に断固反対する。テロリストの脅威と対峙(たいじ)する国際社会を支持する」とした上で、「テロとの戦い二重基準があってはならない」と強調した。中国政府が新疆ウイグル自治区などで発生する少数民族による暴力事件を「テロ」と位置づけ、締め付けを一段と強化することに理解を求めた格好だ。」
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 中国人は、朝鮮人同様に、計算高い冷血な忘恩の民である。
 そして、他人の命に価値を持たず、人の命をゴミの様に扱い奪った。
 中国人。特に、中国共産党・中国軍・中国政府とその関係者を信用しても得る所は少ない。
 中国の指導者にとって、名もなき貧しい人民は虫けら同様に生きる価値は無いと見捨てていた。
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 ジャック・ベルデン「この様にして彼は、11の都市と4,000の村とを水没させ、200万の農民を宿無しにしたが、ともかく日本軍を停止させた」
 1941年の夏から秋にかて。ベルデンは、濁流に呑まれた地域の復興状況を確かめるべく訪れた。
 「来る日も来る日も、荒れ果てた土地、休閑状態の畑、朽ちて倒れかかった人の住まぬ家が並んでいるのを、道を歩きながら見ていると、気が滅入る思いがする。まだ酷い旱魃が起こっていないとこが少なくなかったので、なぜ畑を見捨てらているのかわからなくて困った。
 そのとき百姓達は、国民党の徴税吏と蒋介石軍の徴発吏達が収穫以上の穀物を要求する為に、祖先の田畑を立ち去ったのだ私に話してくれた。労働の果実が悉く取り上げられてしまうだけでなく、要求された税に収穫が追い付かない為に殴られたり牢屋にぶち込まれるのでは、どうして働く事が出来ようか」
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 『中国自然災害史』は、1912〜49年の間で、大洪水は65回、被災人口は延べ3億人、死者430万人と報告している。
 当時の総人口は、分かっている範囲で約4億人とされている。
 1930〜32年の3年間だけで1,000万人以上が餓死し、それ以降も毎年100万人単位の餓死者を出していた。
 被災者の多くは、幾らか安定していた、日本軍支配下満州に移住した。
 戦後。それらの中国人は、日本軍に強制連行され、奴隷的重労働を強制されて死亡したと言われている。
 そして、満州にいた日本人官吏や日本軍人の多くが戦争犯罪者として有罪とされた。
 ソ連は、60万人以上(一説に100万人)の日本人を戦犯としてシベリアに連行し、奴隷的重労働を強制して6万人以上を死亡させた。
 国際赤十字は、その事実を知っていながら見殺しにした。
 日本の左翼・左派などのマルクス主義者は、反天皇の革命闘士に洗脳する為に必要な行為として歓迎した。
 37年までの8年間で、大きな自然災害が7回発生し、全人口の約4分の3が何らかなの被害を受けた。
 戦後。被害は、侵略戦争を行った日本軍の悪逆なる犯行であると認定された。
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 中国は、儒教価値観の中に存在する。
 中国と朝鮮の儒教は、汗水垂らして働く人民を人間のクズと見下していた。
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 1940年代 中国共産党は、150万人の地主を虐殺して、私有財産を党員や人民に分配した。
 地主家の女性は、地主の夫・親・兄弟を人民の敵として糾弾できなければ、老婆だろうが少女であろうが容赦なく党員や人民で強姦した後に、陰惨な猟奇的な手口で惨殺した。
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 1940年9月30日 石井四郎軍医中将は、東条英機陸相宛てに「観点調弁価格に関する申請」という書類を送った。
 日中戦争で。抗日中国軍が、生物兵器を使っているかどうかを確かめる為に、「軍機保護上の処置」として夜間に汽車や自動車の屋根に寒天を取り付けて走らせ、寒天培養で細菌の有無を調べるという趣旨であった。
 だが、真の目的は別で、政府及び軍部内に潜むスパイがどれ程の情報収集能力があるかを確かめる事であった。
 もし、たわいない寒天隠密作戦が外部に漏れるとすれば、さらに最重要機密情報を紂王に報告する事は危険である、と言う事になる。
 事実。日本国内には、ゾルゲ・グループなどアメリカやソ連に機密情報を流しているスパイが幾つも存在していた。
 村田克己「(1940年頃)石井軍医大佐の案内で若松町の軍医学校の研究室を見学。支那事変の始まった昭和12〜3年頃、戦線の各地でコレラ菌が人為的に井戸に投げ込んであり、日本軍が被害を被った事。また炭疽菌という馬の体内に入ると一晩で死んでしまう恐るべき細菌がクリークに投げ込まれていた事。特に北満黒河付近で、ある国が炭疽菌をばら撒いた為に、三千数百頭の馬が一挙に死んでしまった例などを聞かされた。目に見えない恐怖の秘密戦である。石井大佐の話のよれば、長野県産品寒天をチリ国から大量に輸入するので何に使用するのか調査した所、某国へさらに輸出され細菌培養に使用されていることが判明した。諸君の中に北欧の国へ勤務する者があったら、例え一行でも細菌戦に関係するような記事など発見した時は是非送って欲しいと言われた事が印象ことのほか深い。この細菌戦予防のため『防疫給水部』を作られたのが石井軍医大佐であった」(『中野校友会会誌』第29号 1985年)
 軍国日本の生物・細菌兵器や毒ガス兵器の研究開発は、欧米列強の方が遙かに優れ、威力が強かった。
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 1941年 非日本軍占領地の河南省で異常気象が発生し、農産物は凶作となった。
 国民党は、被災民を救済するどころか、食べるのがやっとな農民に過酷な税を課し、暴力的に徴収していた。
 中国は、汗水垂らして働く農民を人間とは認めず、ゴマや菜種の様に搾り取れるだけ絞って捨てた。
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 1942年初頭 A級戦犯重光葵は、駐華大使として南京に赴任し、対中戦争の進展によって日本軍が必要がなくなった時には中国から撤退し、一切の利権を汪兆銘南京政府に返還するという、和平への行程表ともいえる「対支新政策」を推進した。
 東條英機首相も、中国との和平実現の為に重光案を支持した。
 5月 日本陸軍の総兵力は227万人で、南方に39万4,000人、中国に61万2,000人、満州に64万9,000人で、残りが日本内地と朝鮮にいた。
 資源のない軍国日本は、軍需物資を生産する為の資源を本土に運び(資源還送)し、生産した軍需物資を護衛のない輸送船団で前線に送っていた(海外展開)。
 日本軍は、物流としての兵站あるいは後方支援(ロジスティクス)を軽視した為に敗北したと言われている。
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 中国の民族主義とは、日本人では考えられないような人命無視の民族主義である。
 軍国日本は、中国の狂気的民族主義に敗北した。
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 秋 河南省で、干ばつと蝗(イナゴ)害によって農作物に甚大な被害が発生した。
 多くの貧困農村で、深刻な食糧不足となり、大飢饉が発生して餓死者を出した。
 本格な冬が到来すると、栄養失調の上に厳しい寒気で凍死者が続出して、犠牲者の数はさらに増大する恐れが予想された。
 河南省の被害は、国民政府が種もみまで根刮ぎ抗日戦用に強奪した為に甚大な数に上った。
 被災地の地主や資産家は、自分一人の財産や食糧を守る為に数百人から数千人のみんへいを雇っていた。
 民兵は、被災民を虫けらの様にあしらい助けなかった。そして、雇い主が無能で力が無いとわかるや反乱を起こし、馬賊や盗賊となって雇い主一家を虐殺して財産を全て奪った。
 能力のある雇い主は、部下の反乱を防ぐ為にアヘン中毒にし、殺人や強奪や強姦を許した。
 極東アジアの治安と秩序は、法律では無く、犯罪で維持されていた。
 国民党軍は、被災者への救済を放棄し、地元民を衰弱しているにもかかわらず軍用工事に強制連行した。
 中国共産党は、人民を味方に引き入れるべく、被災民の救済に力を入れた。
 人民は、国民党への怨嗟の声をあげ、中国共産党を支持した。こうして、華北に解放区が拡大していった。
 飢餓難民が、食糧の乏しい解放区延安に移動して、貧弱な共産党政府に救済を求める事はありえなかった。
 農村は、匪賊や強盗が横行して無政府状態となっていた。
 農村からの都市への食糧供給が滞った為に、洛陽などで餓死者が出始め、北京や天津など華北全体にも影響が出始めた。
 農産物の価格は高騰し、43年5月には、1年前に比べて5倍以上に跳ね上がった。物資の供給も低迷し、諸物価も高騰した。
 貧困層はさらに困窮の度を深め、飢えた市民によって都市を中心に治安は悪化した。
 親日派南京政府は、味方を増やす為に救済に乗り出した。
 洛陽などの都市に溢れた飢餓難民や病人は、国際赤十字キリスト教会などの慈善団体が炊き出す食べ物に蟻の様に群がった。
 この年は、四川省は豊作となった。
 重慶の国民党政府は、飢餓難民を救済する事はありえなかった。
 事実、政府高官や党幹部らは、暴利を得る為に,豊作で値崩れを起こしている四川省周辺の食糧を買い込んでいた。
 その為、食糧が豊富であるはずのな四川省は品薄となって、多くの貧民が餓死した。
 中国の権力者は、貧民を虫ケラの様にあしらい、貧民が死のうが、どうしようが関心はなかったのである。
 河南省の被害は、人口の3分の1である約1,000万人が深刻な飢餓に追い込まれ、300万人以上が餓死した。
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 クリストファー・ソーン「中国では日本軍の手による一般大衆の直接被害は、1941年以降は37〜39年に比べて少なくなったが、農作物と家畜の生産が1939年以降国民党支配地域で減少した。
そして河南省では1942年の春、夏の収穫の深刻な減少ののち、農村に飢饉が広がった ─ あるアメリカ人の報告によれば、『政府や軍の農民に対する苛酷な圧制のため事態はいっそう悪化した。国民政府下の小都市でも、しばしば身の毛もよだつような情況が見られた。あるイギリスの現地機関員が1943年6月、広東省から次の様な報告をよせいている。餓死者の数は着実に増えている……通報者の目撃したところからすると、ある地域では一日平均すくなくとも100人にのぼるだろうという事である。彼は城外の村への短い道中の間に、放置されたままの死体を8体見たといっていた。×××××……』」
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 河南省は、この世とは思えないおぞましい地獄と化していた。
 人災が天災を誘発し、人災が最悪な状況を招いた。
 中国の災害は、中国人が招いた人災である。
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 セオドア・ホワイト「死体があった。
 洛陽を出てから1時間も経たぬうちに、雪の中に横たわる死体があった。死後1、2日だろうか。その顔は頭蓋の周りに萎んでいた。たぶん若い女性だったに違いない。雪はその目の上にも降り積もっていた。埋葬されぬまま、ついには鳥や犬が骨までしゃぶるのだろう。……
 ちょうど近頃の世論調査員がやる様に、毎晩私は土地の官吏と話したあと、克明に記録を付けた。そして私が得た結論は、中国政府がその人民を死に至らしめた、或いは愚かにも人民を餓死させたという一点に尽きた。政府は、抗日戦を戦っていた。その為に、情け容赦なく税を取り立てた。
 それも、政府が自国の紙幣を信用せず、戦地の政府軍は穀物などで税を取り立てて軍を維持する様に支持されていたのだ。
 ある将校は私にこういった。『たとえ、民衆が死んでも土地は中国のものだ。だが、兵士が飢え死にしたら、土地は日本軍に奪われてしまう』……
 河南省では、軍隊は土地の収穫高を上回る穀物税を取り立てた。文字通り田畑を空にしたのである。軍隊は、穀物が余っている地域から穀物を運んでこようとはしなかった。つまり、人々の食生活を完全に無視したのだ。……
 この様な悲惨を私は見てきたが、耳にした最悪の話しは人食いの事実があるという事であった。
 人間が人間を殺して食べるなど、見た事もなかったし、まして人肉を味わった事などない。
 だがこれは、論駁の余地のない事実と見えた。
 たいていの場合、人肉を死体から取るというのが、言い訳になっている。
 我々が記事にしようとした件はどれもこれも、それが弁解の手であった。
 ある村では、母親が2歳になる実の子を茹でその肉を食べた事が発覚した。
 二人の息子を絞殺して食べた為に、告発されたという件もある。
 また、……
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 ……
 私の最終的な計算では、500万人が死んだか、死につつあると言う事になった」(『歴史の探求』)
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 劉震雲「(中国人は)誰ひとり蜂起せず、ただ身内のあいだで共食いする民族には、いかなる希望も見いだせない」)(『人間の条件 1942』)
 蒋介石は、アメリカのタイム誌が記事で取り上げるまでは放置し、掲載された後は、国際批判を恐れて見せ掛けの支援を行った。
 海外から送られてきた支援物資の大半は、重慶の政府高官・占領地の軍幹部・地方の官吏によって横領された。
 被災地で献身的に活動をしている国際赤十字社や宣教師達には、支援物資運搬は日本軍の攻撃を受けて強奪されて届けられないと報告した。
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 アメリカ政府から反日工作として派遣された宣教師達は、各地のキリスト教会を開放して被災者を受入れ、地元の役人、軍人、有力者に救済を訴えたが彼らは見向きもせず動かなかった。
 反日派のアメリカ人記者は、生き残った飢餓民が僅かな食べ物を巡って殺し合い、子供がいる親は他の子持ちの親と子供を交換して食べるといった、地獄の様な惨状に国民がいるのに救いの手を差し伸べない中国政府(重慶政権)に義憤を感じてタイム誌に現地リポートを寄稿した。
 蒋介石は、アメリカ世論に動かされ渋々わずかな食べ物を被災地に向けて送った。
 が。救援物資は、役人や軍人、地元の有力者達が途中で横領した為に、飢えて命の危険に晒されている被災民には届かなかった。
 蒋介石や政府高官・軍上層部は、救援物資が被災者に届かない事は知っていた。
 儒教的価値観に生きる中国人は、自分の身内・家族・一族でない他人、能力も財力もない弱者の小人である民衆が数百万人が餓死し数千万人が飢えに苦しもうと痛痒を感じなかった。
 アメリカは、何とかしても被災者を救済しようとしたが、中国政府の主権を無視し、許可なく直接救援物資を送るわけには行かなかった。
 中国政府と中国軍がアメリカの救援物資輸送を許可しなかったのは、救援物資が日本軍や親日派南京政権に奪われる事を危惧したからである。
 戦争勝利を最優先する上で、敵を利するより、自国民を犠牲にする事を選んだ。
 その選択は、「勝てば全ての事は許される」という、戦乱と虐殺の歴史を持つ冷血な中国では当たり前の認識であった。
 それが、中華世界の儒教的常識であった。
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 中国の偽善者は、儒教道徳から、人民を人間以下の虫けらと軽蔑し、踏みつぶして殺しても痛痒も感じない。
 中国人は、自国の文明や文化を狂喜して徹底破壊した。
 日本軍が河南省に入った時。飢えた地元民は、中国軍に食糧を奪われ餓死するしかなかった所を助けられ、生きる望みだであとして侵略者・日本軍を歓迎した。
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 タイは、大洪水に襲われ、農産物生産は4分の1に激減した。
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 11月1日 大東亜省設置。
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 数百万人の飢餓難民が、黄河を下って1億人の飢餓民を抱える北京や天津へ移動すれば、華北が食糧不足で大混乱に陥る事は火を見るよりも明らかであった。
 華北で、数千万人に膨れ上がった飢餓難民が、満州に大移動したら、満州帝国は崩壊する恐れがあった。
 数百万人の飢餓難民が、豊かな揚子江流域に移動すれば、通過する地域は混乱し、住民を巻き込み、難民は雪だるま式に膨れ上がって南京や上海へと流れ込む意外になかった。
 何れの方向に移動しても、混乱は避けられず、全員を救済する事はできなかった。
 難民が、暴徒や匪賊となって食糧を暴力的に漁れば、日本軍占領地と親日派政府の領域の治安が崩壊して収拾できなくなる事は明らかであった。
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 日本軍は、500万人以上を救う為に、ファシスト中国軍を排除して大量の食糧や医薬品を被災地に運び込んだ。
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 日本軍部にとっても、華北の崩壊を放置しては、中国戦線の破綻は火を見るよりも明らかである。その影響は、対米戦争にも深刻な影響を及ぼす恐れさえあった。
 支那派遣軍は、1,000万人以上の飢餓難民が省外に流失する事に危機感を抱いた。
 日本軍は、占領地の飢餓民には軍糧を放出して救済し、食糧を保障して餓死者を食い止めた。
 東條英首相は、華北に於ける深刻な食料問題を解決する為に、極秘で中国共産党との和解に動いた。
 南京政府汪兆銘は、協定違反であるとして激しく抗議し、軍部内の反東條派に秘密裏に支援を求めた。
 だが、現地軍は中国共産党支配地の農民の協力を得て食糧等を購入していた。
 反東條派の若手将校は、東條陸相の行動に反発して密かに暗殺計画を練っていた。
 支那派遣軍は、上海や北京などの都市部から大量の物資や食糧を強制徴用して被災地に送った。
 上海などでは物資が欠乏して物価は高騰し、日本軍への憎悪から、進んで抗日中国軍や連合軍に協力して情報を流し、破壊活動に参加した。
 その大半が、ユダヤ人であった。
 抗日中国軍は、日本軍の物資輸送網を攻撃し、物資を強奪して被災者に配り、被災者を反日軍兵士として加えた。
 陸軍の軍事予算は膨らみ、海軍と壮絶な予算獲得交渉をおこなった。
 戦費不足に苦しむ東條内閣は、さらなる窮地に立たされた。
 中国共産党軍の兵力は、国民党軍の攻撃を受け減少していた。
 解放区人口も、最盛期では約1億人いたが、あまりの貧しさ故に逃亡者が続出して半分以下に激減していた。
 中国共産党は、ソ連と良好な関係にある日本軍との直接対決を避ける為に、日本軍と農民の関係を黙認した。
 そして。農産物を日本軍に引き渡す見返りとして、日本軍支配地で都市部以外の地に解放区を広げる自由を得た。
 これによって、日本軍は都市と輸送網という点と線の支配に甘んじ、それ以外の広大な農村部を中国共産党に渡した。
 ベディントン准将(イギリス秘密情報局)「戦線を越えて中日間で沢山の交易が行われており、殆ど戦闘は無く、それも申し合わせでそうなっており、私もすぐに何かが起きているのか納得した」
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 イギリスの植民地であるインドに於けるベンガル飢饉で、300万人が餓死した。
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 1943年 陸軍は、大陸に駐屯している部隊に対して自活を通達した。
 日本軍は、欠乏する食料を補う為に、駐屯地内で農作物を栽培したり家畜を飼って食料の足しにした。
 日本人兵士の多くは、黙々と農作物を栽培していた農民であった。
 1月 三笠宮崇仁殿下は、陸軍大学の研究部部員を務めた後、コードネーム「参謀若杉大尉」として支那派遣軍総司令部の参謀となるべく南京に赴任した。
 1年間の勤務中に日本軍が行った蛮行の数々を見聞きし、その事実を『わたしの思い出の記』の中に記した。
 「私の信念が根底から揺り動かされたのは、実にこの1年間であった。いわば『聖戦』というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民に対して犯した忌まわしい暴虐の数々は、今更此処にあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにも煽り立て、およそ聖戦とは思いも付かない結果を招いてしまった」
 「この失敗は軍及び日本政府首脳者に真剣な反省を促し、新たに対華新政策なるものが決定され、私が南京に在住していた1年間は、司令官以下この新方針の徹底に最大の努力をした」
 「新政策が発表されるや、軍司令官は直ちに『四悪』を禁止するという厳重な命令を下した。四悪というのは略奪、暴行、放火、強姦の事である。
 ある第一線の大隊長の言う事がふるっていた。今では敵のいた家は焼き払って進んだので、自分の大隊の第一線がどの辺りを前進しているかすぐ分かった。ところがこんど放火を禁ぜられてみると、第一線がどこにいるかさっぱり分からない、と。全く笑えないナンセンスであった」
 「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであった事、そして内実が正義の戦いでなかったかあらこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるをえなかったのではないか」
 「多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。
 その実験に参加してある高級軍医は、かって満州事変を調査する為に国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果実を出したが成功しなかった、と語っていました」
 「彼らの対民衆、ことに婦人に対する軍紀はおどろくほど厳粛でありました。当時、日本軍人で婦女子に暴行する者がいる事に頭を悩ましていた某参謀は、『八路軍の兵士は、男性としての機能が日本人とすこしちがうのではなかろうか』と、真面目に話していました」
 春頃 三笠宮は、大会堂に軍幹部以下数百人を集めて、「略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か」と厳しく叱責した。
 4月 重光葵が新たな外相に就任した。
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 1943年5月9日〜11日 日本軍は、江南殲滅作戦に続いて常徳殲滅作戦を実行した。
 敵兵虐殺事件。日本軍は、軍民合わせて3万人弱を虐殺した。
 (週刊金曜日 2015年4月10日号)
 日本軍は、アジア太平洋地域では加害者であった。
 日本人兵士は、流血を好む殺人鬼として、中国人を大量に虐殺していた。
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 7月28日 勅令625号「大東亜戦争陸軍給与令及同細則」が定められた。 
 8月 辻政信は、南京総司令部第三課長として着任し、東条英機首相の了解を得て極秘で蒋介石との和解工作を始める。
 同時に、日本軍の秘密資金源となっているアヘン取引を中止させた。
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 三笠宮崇仁(たかひと)親王は、昭和18年1月から翌19年1月まで中国派遣軍総司令部付き参謀として中国に渡った。偽名として「若杉」と名乗った。
 昭和18年9月22日 三笠宮は、上海登集会所に幹部将校や参謀達を集めて、中国情勢を検分して日本軍の軍紀の乱れと日本軍兵士の残虐行為が目立つと指摘し、昭和天皇と皇国日本の名誉の為に綱紀粛正を厳しく求めた。
 話の内容は『若杉参謀挨拶要旨』としてまとめられ、影響力強いとして門外不出の資料とされた。
 「戦争指導の要請上言論は極度に弾圧せられあり若干にても日本に不利なる発言もなし或は日本を批判する者もたとえ真に日本を思ひ中国を愛し東亜を患ふる熱情より発するものと雖(いえど)もこれを遇(ぐう)するに日本人に存(あ)りては『売国』を以てし中国人に在りては『抗日』『通敵(つうてき)』或は『重慶分子』を以てせらるる今日一般幕僚に於いては大胆なる発言は困難なり」
 「『陛下が特にお命じ遊ばせられた云々』と言う者があるが『ヒットラー』『スターリン』等の独裁元首と異なる陛下はそれぞれの職務を兼ねられた人々を充分ご信用になりお委(まか)せになるなどあり中々御自ら大御心強く仰(おお)せられないのである。これが為に臣下の者は往々(おうおう)にして自分の最善なりと思つた事は即ち大御心なりと独善的錯覚に陥る事があるので充分慎む事が緊要である」
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 11月6日 大東亜共同宣言東條英機首相は、人種差別撤廃を主張し、欧米列強の植民地からの独立を明快に宣言した。
 出席した諸外国指導者は、アジアをアジア人の手に取り戻すべく共同で行動すべきである事を確認した。
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 ファシスト中国は、被災した自国民の救済より抗日戦争勝利を優先し、河南省に宣伝工作員を派遣した。
 宣伝工作隊は、被災した河南省に救援物資は届けず、「日本の敗戦は近い」ので降伏せず死ぬまで戦い抜くように説得して回った。
 飢えに苦しみ疫病にかかった中国人は、日本軍の救援を拒否して抗日戦を戦う者と日本軍の救援を受ける者に分かれた。
 戦後、日本軍の支援を受けた者の末路は不明である。
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 11月22日 カイロ会談。ルーズベルトは、蒋介石が裏で軍国日本と単独講和して戦線を離脱する事を恐れて、チャーチルの難色を押し切って蒋介石・宋美麗夫妻をカイロに招待した。
 反日強硬派のルーズベルトは、戦後の日本を三流農業国家に改善し、ファシスト中国(中国国民党)にアジアを任せる為に新しく作る国際機関(国連)の常任理事国入りを約束した。
 チャーチルは、蒋介石と協議して中国─ビルマ─インド戦域での重爆撃機の基地建設開始に合意し、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官マウントバッテン卿に実行を命じた。
 ルーズベルトは、太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に対し、B29で日本本土を爆撃する為にマリアナ諸島攻略を命じた。
 12月 アメリカ陸軍航空軍のアーノルド中将は、飛行場設営の場所を選定する為に先遣隊をインドに派遣した。


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中国戦線はどう描かれたか―従軍記を読む

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