- 作者:石平
- 発売日: 2012/11/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中国では、人の命は鴻毛よりも軽く、価値は低かった。
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作家・武田泰淳は、日本人将兵が中国人を虐殺していた事実を『従軍手帳』や小説『審判』を書き残した。
国際社会では、日本軍の中国大陸に於ける虐殺、略奪、強姦が話題になっていた。
日本人は加害者であり、中国人は被害者であった。
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中国大陸を侵略した約200万人以上の日本軍兵士の中には、強姦や惨殺や略奪を行う犯罪者がいた。
全ての日本人が善人ではなく、数多くの悪人・悪党もいた。
日本人の中に一人でも悪人・悪党・犯罪者がいたのが、問題なのか?
日本軍は全体として、戦争で敵軍と戦いながら、同時に、人助け、人道貢献も行っていた。
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1938年 中国軍は、日本軍の進撃を食い止めるために黄河や長江の堤防を爆破し、30万人以上の自国民を溺死させた。大水害の原因は、侵略してきた日本軍にあると告発した。
後退する中国軍は、井戸に毒やコレラ菌を投げ込み、被災地にペスト菌などをばらまいた。
生物兵器は、ソ連から提供されたものであった。
蒋介石「あとの事は、日本軍にやらせればいい」
中国人は、自分の面子を守る為に、自分の失敗を認めないし、責任を認めない。当然、謝罪しない。
それどころか、自分の面子を守る為に、自分の失敗による責任を他人に転嫁し、他人を非難中傷し、他人を殺害して口封じをおこなった。
それが、中国人である。
中国軍は、日本軍に対してイベリットびらん性毒ガスなどの化学兵器やダムダム弾など、国際法で禁止されている兵器を使用した。
中国軍の兵器は、ソ連や西欧から供給されていた。
日本軍は、惻隠の情が強いだけに、目の前にいる非戦闘員の被災者を放置できなかった。
日本人兵士の大半が農民出身者であっただけに、被災した中国人農民の窮状に同情して支援した。食べ物や医薬品を与え、壊れた堤防を修復し、荒れた田畑を手入れした。
日本人百姓は、相手から奪う事が苦手で、口数少なく田畑を耕し、作物を作って悦んでいた。
日本人都市労働者は、組織の中で虐げられていただけに、口うるさく権利を主張し、相手からより多くの物を欲した。
中国軍は、被災者の中に多くのゲリラを潜ませ、破壊活動を行った。
日本軍は、各地に潜む中国人ゲリラを炙り出して処刑した。
この処刑は戦争犯罪とされ、多くの日本人兵士が戦争犯罪者として処刑された。
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1938年 中国共産党は、革命本拠地である延安で中央委員会総会「第6期6中全会」を開催して、「党中央に服従しない者は斬り捨てる」というルールを決定した。
毛沢東は、独裁的支配体制を確立する為に、ソ連派など反毛沢東派や態度をハッキリしない中間派を党中央から追放した。
中華人民共和国を樹立した後、罪状を捏造して彼ら全てを家族諸共に大粛清した。
第6期6中全会のルールは現代まで生きており、時の党最高指導者が独裁的支配権を確立する時に発動される。
6月6日 日本軍は、河南省中部の開封市を占領し、交通の要衝である西の省都・鄭州市を射程に入れた。
蒋介石は、援軍を送る代わりに、日本軍の進撃を阻止する為に黄河の堤防を破壊し洪水を起こす様に命じた。
6月7日 中国軍は、自軍が撤退するまで堤防爆破を延期した。
だが、蒋介石は何度も爆破状況の確認を問い合わせた。
蒋介石「日本軍は溺れる民を見捨ててはいけない。追撃をやめて彼らを助け、堤防も多分修復するだろう」
「我々は逃げる時間を稼げ、おまけに日本軍が非道にも堤防を切ったと世界に喧伝できる」
6月9日 第1回目の黄河堤防破壊。中国軍は、蒋介石の命令に従って、自国軍が撤退していないにもかかわず堤防を破壊した。
6月11日午前 国民党系報道機関の中央社は、世界に向けて「日本の空爆で黄河決壊」と報道した。
夜 中国軍は、さらに堤防三ヵ所を破壊して大洪水を引き起こした。
河南省、安徽省、江蘇省などで4,000以上の村が水没し、自国民に甚大な被害が出た。
溺死は100万人以上、被災者は600万人以上。
黄河の流れは、南側へ変わり黄海に注ぐようになった。
田畑は甚大なる被害を受けて農産物の収穫が激減し、被災地は食糧不足となり、被災民を飢餓が襲った。
6月12日 日本軍は、部隊に進軍を中止し、堤防の修復と洪水で被災した中国人難民の救助を命じた。
日本人兵士達は、筏船百数十艘を出して10万人以上の中国人被災者を救助し、乏しい兵糧を分け与え、怪我人を手当てし、病人には薬を与えた。
日本人は自然災害多発地帯で生きてきただけに、伝統的に、戦争は戦争、天災は天災とハッキリと区別し、戦争では殺し合っても、天災では敵味方関係なく助け合った。
中国軍機は、日本軍による堤防の修復や洪水拡大の防水作業や中国人避難民救援活動などを妨害する為に、機銃掃射を行った。
中国軍は、日本軍と共に同胞も容赦なく殺害した。
助け上げた中国人被災民に食べ物と水を分け与え、病人には薬を投与し、怪我人には治療を施した。
敵味方に関係なく怪我人や病人を看病する事は、明治以来の歴代天皇・皇后の御稜威であった。
中国軍に殺害された中国人は、全て日本軍によって虐殺されたと報告された。
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日本人の思考では、中国を絶対に理解できない。
中国が理解できると自信を持って公言する日本人は、ある意味、日本人の頭脳ではない。
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中国人水難者を助けて中国兵に殺された日本兵士は、靖国神社の軍神として祀られた。
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ファシスト中国は、ソ連から譲る行けたコレラ菌やペスト菌などを九江などで撒いた。
日本との戦争に勝つ為ならば、如何なる手段も、非人道的細菌及び毒ガス兵器を使用した。
戦争に勝てば、全ての戦争犯罪が無罪化する事を知っていたからである。
事実。細菌及び毒毒ガス兵器使用で罪に問われたのは、日本軍であって中国軍ではなかった。
戦争犯罪として処刑されたのは、日本人将兵であって中国人将兵ではなかった。
東京裁判は、戦勝国の罪ではなく敗戦国の罪を裁くと宣告していた。
そので創作されたのが、第二回南京事件である。
中国によって日本が被った、第1回南京虐殺事件、済南虐殺事件、通化虐殺事件、日本人居留民暴行・殺人・強姦事件、その他は証拠にする事を却下された。
戦後も、「戦勝国無罪、敗戦国有罪」の原則に対して誰も意義申し立ては許されず、変更不能な絶対法理として守られている。
その象徴が、国連の常任理事国5大国制度である。
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6月13日 中国の各報道機関は「日本軍の暴挙」と喧伝し、各国の報道機関は中国側の報道を信用して日本を激しく非難した。
氾濫した洪水を別の場所に流す為に、中牟付近に新たな堤防と河道を築いた。
中国軍は、救援活動をしている日本軍を攻撃し、日本軍兵士や中国人を多数殺害した。
中国側による、日本軍の攻撃で蒙った被害発表。中国人被災者は1,250万人で、死者・行方不明者は90万人以上。
蒋緯国は、溺死した中国人民を「すすんで国に命を捧げた愛国者」と賛辞を与えた。
世界世論は、中国の反日プロパガンダを信じて、侵略戦争を続ける軍国日本を激しく非難した。
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軍国日本は、宣伝戦能力がなく、悪意に満ちた反日プロパガンダによって犯罪者に仕立て上げられていた。
日本の汚名は、現代まで続いている。
現代日本は、歴史的事実を知りながら、戦前の日本に押し付けられた「侵略戦争を起こした戦争犯罪者」という汚名を晴らそうとはしない。
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何時の時代でも。中国人指導者にとって、庶民とは刈っても刈っても生えてくる雑草に過ぎず、虫けら以下の存在と見下し、命を奪っても良心の呵責に苛まれる事がない。
それが。日本の異端派儒教にはない、中国と朝鮮の正統派儒教の教えである。
日本と中国・朝鮮の儒教的価値観は、大陸と島国の認識差によって、水と油の様に交わる事はない。
そして、人に対する認識も違い、扱い方も正反対である。
日本の指導者・指揮官は、部下や庶民を救う為に罪を背負って、正当な理由があろうとも抗弁せず静かに処刑場に向かった。
中国と朝鮮の指導者・指揮官は、自分一人が助かる為に、詭弁を弄し醜態を晒しながら逃げ回り、罪を部下に押し付け、大量の人民を犠牲にした。
日本は、朝鮮とは違って、古代から「中国化」する事を拒絶していた。
中国人民は、最も過酷な生活環境で生きる事を強要される為に、軟弱な日本人以上に強靱な精神力を持っている。
中国人は、利己主義ゆえに忠誠心や愛国心が最も希薄で、利益をもたらさない支配者や権力者を裏切り者と憎悪し、油断すれば何時でも寝首を掻く機会を窺っていた。
日本人は、自分の感情を殺し、自分の利益に目を瞑つても、「公」として集団の空気や世間の雰囲気を大事にした。
中国人と朝鮮人は、公を無視し、他人を犠牲にしても、「個」の利益と自由を最優先に行動した。
日本人は没個性で本心が見えずらいが、中国人と朝鮮人は個性が強く本心がわかりやすい。
中国人と朝鮮人は、如何なる相手でも、如何なる理由があっても、面子を譲らない。
日本人は、相手や理由によって、被害を蒙ろうとも体面を譲る。
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6月15日 上海の日本軍は、古今東西、進撃する軍隊が自分で進路を塞ぐような戦略戦術は聞いた事はないと反論した。
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず」
後年。日本軍が行ったとされる、進撃する先の敵軍陣地や占領予定の都市に対する細菌兵器や毒ガス兵器も同様に愚行である。
「支那側は、目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず」
フランス急進社会党の機関紙『共和報』は、国民党を攻撃する為に、黄河堤防破壊と中国人避難民への攻撃は中国軍の自作自演であると報道した。
国民党政府による1945年12月の被害発表。犠牲者、約32万人。
中国共産党による1988年の発表。被害者、約89万人。『中国革命史辞典』
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郭沫若「あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。我が方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実は我が軍の前線の将軍が命令によって掘り崩したのだった。
我が伝統兵法に─『水、六軍をひたす』だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろ我が方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった」
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ルシアン・ビアンコ「一般住民に対して、徴発と掠奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れる為に逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着込んで変装するという事も起こった。日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守る為に、政府は1938年に黄河の堰を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。『思い切った』決定であったが、この為に、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである」(『中国革命の起源』)
堤防破壊を実行した魏汝霖は、1982年に、蒋介石の命令で実行し、日本軍の仕業であると世界に宣伝した事を証言した。
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中国軍は、6月26日と9月23日に揚子江の堤防を破壊して、日本軍の仕業であると発表した。
国際世論は、中国の発表を疑う事なく信じて、日本を激しく非難した。
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6月27日 延安の中国共産党は、6月15日に行われた御前会議の決定を知るや、華北各地の八路軍に日本軍が移動するまで宣撫行動を控える様に命じた。
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10月26日 漢口占領。
10月26日 武昌占領。
10月27日 漢陽占領。
周恩来と朱徳が率いた中国共産党軍は、戦闘被害を免れた日本租界を襲い、軍需工場を破壊し、金になりそうな物は奪った。人を殺したかどうかは不明である。
漢口の人口は約80万人であったが、戦闘前に60万人以上が安全地帯に避難し、残りの20万人はフランス租界と特別区(旧イギリス租界)に収容されていた。
日本軍は、一般市民が逃げ込んでいる両地区を攻撃しないように気を付けながら、中国軍のみを攻撃し市内から追い出した。
武漢三鎮では、南京事件の様な惨劇は起きなかった。
日本軍は、両地区に逃げ込んでいる避難民を救援する為に大量の食料や医薬品を与えた。
中国人避難民は、お手製の「日の丸」の小旗を振り、入城してきた日本軍を歓喜を上げ熱烈に歓迎した。
日本軍は、武器を持って襲いかかってくる敵はころしたが、武器を持たない一般人や武器を置いて降伏する敵兵は保護し、怪我や病気をしている者は収容して治療を施した。
キリスト教会や国際赤十字社は、日本軍の協力を得て戦争難民の救済活動を行っていた。
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1939年 朝鮮と西日本の旱魃により、米の収穫が激減した。
華北は、それ以上の凶作となり、大量の飢餓民を出していた。
日本軍は、華北の食糧不足を解消する為に、各地の地主・商人・政府役人・軍人など特権階級に食糧の買い占めを禁止した。従わない者に対しては軍事力を行使した為に、反日感情が高まり、日本人に憎しから親日派は激減した。
彼等は、冷静に、事実を基に話して理解してくれる相手ではなかった。
話しをすれば全てが解決するというのは、幻想である。
残念ながら、話し合いだけで平和が得られるものではないし、平和を守れるものではない。
それは、中国の歴史が証明している。
話し合いで全てが得られると思う者には、歴史は分からない。
特に、中国の歴史は理解できない。
なぜなら、中国には話し合いなど存在しない。
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八路軍は、日本人民解放連盟(日解連)を組織して、捕虜にした日本人兵士に思想教育を行い洗脳し工作員として満州に潜入させた。
日本人工作員は、通化に共産党支部を開設し活動を開始した。
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2014年6月号 産経新聞社『正論』「古田博司 近代以降
専制的な中国の村落はなかった
……専制的な王朝権力の存在を可能にするような村落共同体が小宇宙のようにあって、それが天子のもとに細胞のように集まって中華帝国を支えているということを実証しようとしたのだった。戦前のマルクス主義者の東洋史学者たちには明らかにこの傾向があった。ウィットフォーゲルの論は、1930年代から読んではいたが、眉に唾つけて、中国村落共同体研究の方に向かったのである。
1940年から5年間、満鉄調査部北支経済調査慣行班が組織され、華北農村が調査された。慣行班は現地の農民と質疑応答を繰り返し、また多くの文書資料を集め、それらは戦後、『中国農村慣行調査』全6卷(岩波書店、1952ー58年)にまとめられ刊行された。
ところが、調査の結果として出されて来たのは、専制的な村落共同体などではなかった。粗放な農業、管理されない農地、ルーズな村界、つまり国家から育成のされず制約もされない、放任されたというか、放り出された農村しかなかったのだ。村は国家に公租公課を提供するに過ぎなかった。そこで、ウィットフォーゲルも戦前の東洋史学者も蹉跌した『東洋的専制主義』を以下僭越にも筆者が試みてみようと思う。
古田式『東洋的専制主義』定義
東洋的専制主義というエトスを生じさせるのにあずかって力ある要素は、まず当該社会のルーズさである。分業の概念を持たないため、自律的な組織や共同体が重層的に形成されることがなく、経済は粗放的であり、広範な大衆はアプリオリな血縁関係以外の凝集力を有さず、総体として専制的に隷属せざるを得ない。大衆は総体として専制集団や専制者にルーズに隷属し、地域の経済・政治の責任ある主体であることを自ら好んで回避する。結果として社会的な信頼関係や契約関係が育つことがなく、凝集力を欠いた社会の上に専制集団が派閥をお以て君臨し、その不断の闘争による政権交替のみが腐敗緩和の浄化装置となっている。
この専制集団と大衆の間に、搾取階級としての官僚組織、その予備軍としての知識層が存在する。彼らは自己保身欲求しか持たないため、両層の仲介役としてどのような政体、どのような異民族支配であろうと適応し、大衆を搾取し専制集団に冨を送り続けるという特徴を持つ。
以上の条件から措定される東洋的専制主義の統治形態は、交替を繰り返す王朝国家、総体的隷属社会に便乗し、やがては追い落とされる征服王朝、専制者に対する大衆の不信を前提とした独裁国家、予め滅亡を予想し得る一時的な強権的政体などが最もふさわしい。地位ごとの独立採算制の政権を束ねる政体(いわゆる西欧フューダリズム、日本封建制など)や、諸共同体の自律性と政権の正当性が絶えず問われる政体(いわゆる民主制)などは、もっとも向かない。
社会に信頼性や契約性が育たないため、国内の規範・法のみならず、国際的なルールにも進んで従うことができず、自己中心的な価値観で無頼の行動をとりやすい。自己中心的な価値観は他の価値観や社会の多様な言論の存在を許さないが、その不寛容性が却って彼らの社会的凝集力の代替物となっている。
米・欧・日の西洋的自由主義圏は自らと異なる彼らの『異質さ』から、彼らが別種の圏内にあることを明確に認識している。日本はその圏の極西に位置し、韓国は先述の圏の極東に下垂している」
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国民政府は、日本以上の国家総動員法を公布し、ナチス・ドイツ並みのファシズム型総力戦体制を確立した。
蒋介石は、ナチス・ドイツから軍事支援を受け、後にスターリンと軍事協定を結んだ。
日本軍は、最初にドイツ陸軍に支援された抗日中国軍と戦って苦戦し、その後に抗日中国軍とソ連軍の連合軍と戦って撃破し、最後に抗日中国軍とアメリカ連合軍と戦って敗北した。
国際社会へは議会制民主主義の理念の下で個人の権利を保証すると宣伝しながら、その実体は、民主主義否定の三民主義と儒教ナショナリズムで、個人の自由を認めず、言論・集会の自由を圧殺し、反国民党言論を容赦なく弾圧した。
都市の論理で農村部を徹底的に搾取した為に、大規模な飢饉が発生して多くの餓死者を出してが、政府は身分賤しい農民を無慈悲に切り捨てた。
農民は生きる為に中小地主らと各地で反乱を起こしたが、政府は大部隊を派遣して鎮圧し女子供に関係なく大虐殺を行った。ただし、生きる為に奴隷として隷属を誓い、金銭の為に平気で家族や仲間を売り渡す者は助けた。
中国社会は、金とコネで全てが決まる、腐敗した人治社会である。
人民は、腐敗した重慶政府を見限り、政争を繰り返し粛清を行っても清廉な中国共産党を支持し始めてた。
藍衣社などの謀略機関は、蒋介石や旧華北財閥の政学派や浙江財閥や高級軍人らの手足となり、政敵を暗殺して財産を没収した。中国の平和を求め日中提携を主張する親日派を漢奸として暗殺し、日本との戦争に消極的な者を売国奴として家族や人民の前で苦しませながら惨殺した。中国人は、同胞がいたぶられながら殺されるのを見物して喜んでいた。
世界には、抗日戦勝利の為に、農民を保護し農業生産の向上に務めていると宣伝した。
連合国は、中国を同盟国と絶賛し、抗日戦線を支持した。
佐藤亮一「『徹底的に復讐する』『口惜しかったら何故負けた』というしかない」(獄中記『北京収容所』)
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タウンゼント「福州を流れる川の上流でのこと。高齢のイギリス人宣教師が二人、追い剥ぎに捕まり、『裁判され』『帝国主義者』にされ、『残虐なる死刑』に処せられた。生涯を聖職者として現地住民の為に捧げた二人に待っていたのは、体中を切り刻まれ、長時間悶え苦しみ殺されるという無惨な最期であった。当然ながら、中国国民党『政府』は何もしなかった。政策の一環であるから、助けるわけがない」(『暗黒大陸 中国の真実』)
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日本は、韓国・北朝鮮同様に、気を許せば、確実に中国化する。
日本人は、決して、欧米化はしない。
日本が悲惨な中国化しなかったのは、神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)制度が存在していたからである。
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731部隊は、ノモンハン事件に後方支援部隊として参加し、兵士に安全な飲料水の供給とワクチンの投与を行った。
陸軍は、石井式濾水機とそれを装備した特殊車の戦略的効能を認めた。
関東軍は、731部隊の奮闘に対して感状を送った。
「皇軍衛生勤務上嘗て見ざる成果を挙げたるは、真に衛生部隊の誇りとすべく、全軍の亀鑑にして武功抜群なり」
関東軍は、ノモンハン事件の敗因を情報収集と指令通達の不備・不統一であると反省して、その教訓を生かして情報部を一本化し、情報部本部をハルピンに置いた。
新たに設置された情報部本部は、部隊を6班構成として、その隷下に多くの特殊機関や特殊部隊を配置した。
3月28日 731部隊は、知能機関として、「対ソ諜報防諜に関する事項」という報告書を提出し、各国大使館に出入りする新聞記者・商人・宣教師らは軍事機密情報を盗み出そうとしているスパイの疑いがあると警鐘を鳴らした。
つまり、日本陸軍、関東軍、満州国の持っている諜報機関やスパイ監視取締機関は、手先としている白系ロシア人や満州人や漢族からの垂れ込み情報に頼る余り、二重スパイによって偽情報を掴まされ機密情報が漏洩していると。
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晩秋 毛沢東は、日本軍と裏取引する為に、燔漢年(はんかんねん)を上海の日本諜報機関「岩井公館」に送り込んだ。
潘は、外務省の岩井英一に毛沢東の言葉を伝えた。
「華北での日本軍と中共軍との間における停戦をお願いしたい」
日本軍は、毛沢東の懇願を受け入れて、中国共産党のスパイ約1,000人の活動を黙認し、その見返りとして国民党軍とアメリカ軍の情報を手に入れた。
「中国共産党は各地で日本軍と激しく戦っている」という偽情報を流した。
アメリカのOSS調査員は、現地に送り込んで実情を調べ、日本軍と戦っている事実がないどころか、汪兆銘の南京政府や満州国など親日派傀儡政権と和気藹々としている事を知った。
つまり、中国共産党の「抗日戦は見せ掛けの嘘である」と。
毛沢東は、アメリカの軍事支援を受ける為にOSS調査員を逮捕し、アメリカに報告させない為に終戦まで監禁した。
コミンテルンから延安に派遣されていたピョートル・ウラジミロウも、日本軍と中国共産党軍が仲良くし、そして共謀していた事を証言した。『延安日記』
スターリンは、ナチス・ドイツとの戦争に勝利する為に、背後を守るべく中国共産党と軍国日本を蜜月関係を黙認した。
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「満州」再訪・再考―「平頂山虐殺」と「731部隊」への道 (母と子でみる)
- 作者:重田 敞弘
- メディア: 単行本