- 作者:吹浦 忠正
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本人は忘却の民族として、良いも悪いも関係なく全ての事を忘れやすい。
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昔の民族的常識を持っていた日本人は、政府や軍から命令されなくても敵の捕虜を大事に保護し面倒を見ていた。
捕虜を客人として「もてなす」のが、人として当たり前の行為であったからである。
何故か、それは「昨日の敵は今日の友」だからである。
日本民族日本人とは、そういう人間であった。
口に出さなくても、空気を読み、忖度し、行動した。
「話してくれなければ分からない」「教えてくれなければ分からない」、と言う白痴に近い世迷い言を言うような、道理が分からない無知蒙昧な日本民族日本人は一人もいない。
話さなくても分かるのが、「阿吽の呼吸」で行動するのが日本民族日本人である。
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2016年10月13日号 週刊新潮「生きるヒント 五木寛之
……
金沢の町はずれに、野田山墓地という広大な墓地がある。室生犀星や鈴木大拙などの墓もあり、その一角からは日本海も望めるいい墓地である。この一帯には、日露戦争のときの戦没者の墓地もあった、当時の金沢師団の被害の大きさがまざまざと感じられるすぐ近くに、ロシア兵の墓地もあるところが奥床しい。
当時の日本国は、国際的に近代文化国家として認められようと懸命に努力していた。捕虜の取扱いも、国際法に準拠して徹頭徹尾、人道的にふるまうようにつとめていたのである。
金沢にロシア兵の捕虜が連れてこられときなど、新聞にロシア語会話の欄などもできて、歓迎とまではいかずとも大変な気の使いようだったか。
一般の兵士は寺院などに、高級将校は兼六園の宿舎に収容し、しばしば慰安の夕なども催されたという。地元の芸妓なども参加して、踊りや笛、太鼓の演奏も行われたらしいから、大変な気の使いようである。
将校たちの間では、香林坊の洋服屋に三つ揃いの紳士服をあつらえることが流行したという。なんと贅沢な捕虜だろうか。
キリシタンの墓
今でも金沢の町並みを注意ぶかく見ていると、戦争で家族を失った家々に『遺族の家』という古いプレートが残っているのに気づくことがある。旅順攻略では、地元の若者たちの命が、それこそ湯水のように消費されたのだ。
そんな土地にもかかわず、地元では敵国の将兵を厚遇してはばからなかった。
これがどれほど国際的にこの国のイメージを高めたかは、はかり知れぬものがあるだろう。
金沢にはまた弾圧され流刑に処せられたキリシタンの墓もある。ときたまテレビのグルメ番組などで、どじょうの蒲焼きが地元の珍味として紹介されることがあるが、これは衣食に窮したキリシタンたちが、川でどじょうをとって即席の蒲焼きをつくり、売り歩いたのが始まりだという説もある。
野田山墓地の一角には、上海事件で銃殺刑になった尹奉吉の墓もある。
墓というのは、本来、敵も味方もわけへだてなくほうむる鎮魂の場所なのではあるまいか。
そういえば、故・沖浦和光さんと、浅草弾左衛門の墓にもうでたことがあったのを、ふと思い出した。
人生いろいろ、墓もいろいろ、だ」
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2019年5月8日 msnニュース 神戸新聞NEXT/神戸新聞社「日露戦争で収容「捕虜でなく人間」 ロシア兵の手紙、母国の新聞に
© Copyright(C) 2019 神戸新聞社 All Rights Reserved. 姫路の市街地で買い物をするロシア兵捕虜(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター提供)
日露戦争(1904~05年)の捕虜として姫路市に収容されていたロシア兵が母国に送った手紙の全文が当時の地元新聞に掲載されていたことが分かった。手紙には捕虜たちの日々の暮らしや、市民との交流の様子などが詳細につづられている。姫路のロシア人捕虜の手紙が見つかるのは初めてで、専門家は「識字率が低かった下級兵士が収容された姫路では、手紙の発見は大変貴重」と評価する。(地道優樹)
捕虜に関係する歴史の掘り起こしを進める同市のNPO法人「姫路タウンマネージメント協会」が、1906年2月発行の「ニジニーノブゴロド・ゼムストヴォ新聞」に、捕虜の手紙が掲載されているのを見つけた。
ニジニーノブゴロドは、モスクワの400キロ東に位置する県(現在は州)で、ゼムストヴォは旧ロシア帝国の地方自治機関。同紙は週刊の機関誌で、手紙は「日本からの手紙」の見出しで全文掲載されていた。筆者は同県チェルヌハ村出身のF・Iフィラレトフ軍曹。手紙は05年10月15日付で、米国ポーツマスで日本とロシアが講和条約を結んで間もない時期に当たる。
姫路市の捕虜に同紙が送られていたらしく、同軍曹は書き出しで、編集者に感謝を述べている。自身らの本国送還については何も知らされていないことに触れ、「無為の10カ月は、軍務の意味でも人間的な意味でも、人々を大いに堕落させてしまいました」「規律もなければ、教練もなく、何もすることがない」と苦悩をつづっている。
一方で、日本人について「今ではあらゆる面で私たちを捕虜でなく、同等の人間に対するような態度で接してくれます。収容所でのたまにある作業の際には、(日本人の)下級労働者たちは門に入るとすぐに帽子をとります」「ものすごく腰の低い人たちです」などと記している。
捕虜は許可を得れば、警護付きでの市内散策も許されていた。手紙でも市内をくまなく散策したことが伝えられ、「10カ月の間、一度たりとも酔っぱらいやほろ酔いの日本人を見かけません」などと伝える。
手紙は、日本の農繁期の様子を描いて締めくくられている。手紙を翻訳した立命館大学非常勤講師の桧山真一さん(日露交渉史)は「二毛作など農作業の記述の細かさから、筆者は元農民だったのでは」と指摘する。
同協会の田中達郎理事長(90)は「当時の姫路市民とロシア兵の関わりが、日ロ関係の新たな切り口になれば」と期待する。
【ロシア兵捕虜】日露戦争では約7万人のロシア兵が捕虜となり、全国29都市に捕虜収容所ができた。姫路は全国3番目の1904年8月、寺や神社などに収容所が開設され、約2200人が暮らした。日本は捕虜の人道的処遇を定めたジュネーブ条約に基づき服の新調費を支給、運動や買い物などの外出も比較的自由だったとされる。」
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日本神道・日本仏教の死生観では、死ねば敵も味方も関係なく全ての人間は神や仏として、死者を丁重に葬り、霊魂を懇ろに供養し、記憶に留めて菩提を弔った。
が。ソ連は、戦争捕虜としてシベリアに強制連行した日本人元兵士を、戦後奴隷として重労働を科し、死亡すれば不毛な大地に捨てる様に埋めた。
街づくりあたって、ロシア人作業員は、日本墓地を破壊し、日本人の遺体を踏み潰し、日本人の魂を冒涜した。
ロシア人兵士は、逃げ惑う女性や子供の日本人避難民を大虐殺した。
それが、ロシアが北方領土4島返還を拒絶する、1945年の現実である。
ロシアは、日本に対して、虐殺した事に対しての謝罪がなければ、助けられた事に対しての感謝の言葉もない。
日本とロシアの考え方は、交わる所がないほどに異なる。
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日露戦争は、戦争犯罪としての大陸への侵略戦争ではなく、合法的なロシアの侵略から祖国日本と天皇制度を守る為の正当防衛としての自衛戦争であった。
戦場で、ロシア人兵士は白人至上主義の人種差別から虐殺を行ったが、日本人兵士は天皇の御稜威・大御心を奉じて人種差別せず虐殺を行わなかった。
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現代日本人は、サムライ・武士の子孫ではなく、武士道も士魂も無縁の為に「生きて虜囚の辱めを受けず」は理解できない。
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第6師団(熊本)師団長は、谷寿夫中将。
第9師団(金沢)師団長は、吉住良輔中将。
南京虐殺の調査・研究の結果、金沢師団と熊本師団が南京攻略戦で虐殺を行ったとされた。
戦後。谷寿夫は、南京軍事法廷で、南京事件の責任者とされ死刑判決、銃殺刑に処せられた。
日本の反戦平和市民団体や一部のマスコミ各社は、南京虐殺事件を有耶無耶にせず、実行犯とされる金沢師団及ぶ熊本師団の罪を問い続けている。
そして、戦死した日本人兵士を祀っている靖国神社の戦争犯罪を告発している。
日本の軍隊は中国軍とは異なり、国民皆兵の徴兵制で、作戦に参加した師団名も、戦闘に参加した師団の兵士の出身もはっきりしている。
南京虐殺を行ったとされる日本の軍隊は、虐殺があった作戦部署が特定できれば師団名もどこの出身兵士かも明らかにできる。
よって、南京虐殺を行ったのは、熊本出身兵士の第6師団と金沢出身兵士の第9師団である。
南京虐殺を行ったのは、軍部でなければ、日本軍でもなく、生身の身体を持った日本人兵士である。
軍部に騙されていようと、上官の命令であろうと、虐殺したのは紛れもなく銃を持った日本人兵士である。
南京虐殺事件を事実無根と否定しないという事は、そういう事である。
金沢の人々と熊本の人々は、その事実を肝に銘じ、南京事件は事実と声高に叫んでいる日本人達を見つめる必要がある。
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日中戦争における第2次上海事件と南京攻略戦。
軍国日本対ファシスト中国(国民党)、ナチス・ドイツ、ソ連、イギリス、アメリカ、米英のユダヤ系国際金融資本。
中国共産党と共産党軍は、一切関係していないし、参加もしていない。
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南京攻防戦における両軍の戦闘序列。
・日本軍 総兵力約20万人。
・中支那方面軍司令官、松井石根大将。(A級戦犯、リンチ的縛り首)
直属部隊(第3飛行団など)
・上海派遣軍司令官、朝香宮鳩彦王中将。
第16師団(京都)、中島今朝吾中将。
第9師団 (金沢)、吉住良輔中将。
第13師団(仙台)、荻洲立兵中将。
第3師団(名古屋)、藤田進中将。
第11師団(善通寺)、山室宗武中将。
第101師団(東京)、山室宗武中将。
野戦重砲兵第5旅団 ほか
・第10軍司令官、柳川平助中将。
第6師団 (熊本)、谷寿夫中将。
第18師団 (久留米)、牛島貞雄中将。
第114師団 (宇都宮)、末松茂治中将。
国崎支隊 (第5師団・歩兵第9旅団)、国崎登少将。
野戦重砲兵第6旅団ほか
・支那方面艦隊司令長官、長谷川清中将。
第3艦隊司令長官、長谷川清中将。
第11戦隊、 近藤英次郎少将。
第4艦隊司令長官、豊田副武中将。
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・中国国民党軍(ファシスト中国軍) 総兵力6万5,500人〜15万人。
最精鋭の中央軍主力部隊は、上海攻防戦で敗退し消滅していた。
中央軍は、ドイツ軍式の厳しい軍事教練を受け、ドイツ軍並みの殺傷能力が高い兵器を装備した、アジア地区では最強最大の陸軍部隊であった。
ナチス・ドイツ及びドイツ軍との仲介をし、ドイツ兵器産業の武器を大量に売っていたのが、ナチ党員である軍需産業ジーメンス社南京支社長のジョン・ラーベであった。
ジョン・ラーベは、戦争を煽って武器を高く売る「死の商人」であり、ヒトラーの忠実な部下であった。
・南京(首都)衛戌軍司令官、唐生智。(敵前逃亡)
ドイツ軍事顧問団。(ヒトラーの許可をえて)
東北部配備:第2軍団司令官、徐源泉。
東部配備:第66軍。
南部配備:第71軍、第72軍、第83軍。
西南部:第74軍。
北部配備:第78軍。
江岸配備:江防軍。
教導総隊、憲兵部隊(2団)、装甲兵団 (2連)等。
ソ連空軍志願隊。国際義勇隊(ソ連陸軍兵士)。(スターリンの命令による正規兵)
アメリカ人民間義勇隊パイロット集団。(ルーズベルトの承認をえた偽装退役軍人)
陸上兵器と軍需物資は、ナチス・ドイツ、ソ連、イギリスが提供した。
空軍機と補充部品は、ソ連とアメリカが提供した。
軍事費は、イギリス・シティーとアメリカ・ウオール街のユダヤ系国際金融資本が請け負った。
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日露戦争下の日本―ハーグ条約の命ずるままに ロシア軍人捕虜の妻の日記
- 作者:エリザ・R. シドモア
- メディア: 単行本
- 作者:宮脇 昇
- 発売日: 2005/10/01
- メディア: 単行本
日露戦争の裏側“第二の開国”―日本列島に上陸したロシア軍捕虜七万人
- 作者:大熊 秀治
- 発売日: 2011/02/01
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- 作者:京口 和雄
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- 作者:松本 宏
- メディア: 単行本