💖6)─1─日本陸軍は、シベリアからポーランド人戦争孤児765人を武力で助け出した。~No.22No.23No.24No.25 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦後の平和憲法では、個別的自衛権で国内の自国民を助けても国外の自国民は助けられない。
 ましてや、集団自衛権で他国の子供を助ける事はできない。
 現代の護憲派反戦平和市民団体は、自衛隊憲法違反として廃絶を求め、自国民を海外で保護する事に猛反対している。
 戦後の日本国家は、国家の責任を放棄して自国民はおろか他国の子供さえ見捨てる。
 それが、平和国家日本の偽らざる真の姿である。
 如何なる理由でも戦いを拒否すると言う事は、人を助けず見捨て、人を殺さない為に人を見殺しにするという事である。
 現代の日本人とは、そう言う冷血で薄情な人間である。
 現代の日本人にポーランド孤児の救出を懇願しても、現代の日本人は確実に拒否して見殺しにする。
 2015年の戦争法案反対派は、集団的自衛権を否定し、「他人は他人、自分は自分」で「自分は自分を助けるが、自分が他人を助ける事はしない」と世界にハッキリと宣言した。 
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 ポーランド孤児は、日本の国旗「日の丸」を敬意を持って掲揚し、愛着を持って日本の国歌「君が代」を歌い、安心感をもって日本軍旗「日章旗」「旭日旗」を仰ぎ見る。
 韓国人・朝鮮人は、例外である。
 日本軍は、シベリアのユダヤ人達をも救出した。
 ポーランド人孤児やユダヤ人難民を助け出そうとして戦死した日本兵は、靖国神社の軍神として祀られた。
 靖国神社は、世界から軍国主義の象徴として憎悪され、悪魔的な戦争讃美神社として完全否定されている。
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 ポーランド人孤児とユダヤ人難民のマルクス主義者からの救出は、天皇・皇室が人種差別に反対という人道主義の立場に立っていたからなし得た快挙であった。
 天皇制度を打倒しようとした共産主義者は、非人道的大虐殺を繰り返していた。
 アメリカなどの連合軍は、ポーランド人孤児やユダヤ人難民の救助を日本軍に押し付けて撤退した。
 何時の時代でも日本は貧乏くじを引かされ多大なる被害を出したが、称讃される事も、感謝される事もなく、非難され、中傷され、罵声を浴びた。
 天皇・皇室・軍国日本は、憎悪の的である。
 そして、靖国神社も。
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 1772年 第一回ポーランド分割。
 1793年 第二回ポーランド分割。
 1795年 第三回ポーランド分割。
 ポーランド王国は、国防の要である軍事力と経済力を失い、隣国のロシア帝国プロシア王国(後のドイツ帝国)とオーストラリア帝国の三国に分割されて消滅した。
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 亡国の民となったポーランド人は、祖国回復の手助けにするべく、それぞれの国籍を取り、それぞれの君主に忠誠を誓い、それぞれの国の為に戦い功績を挙げて、ポーランド人としての実績を積み重ねていた。
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 ロシア帝国は、未開地・シベリアを流刑地と定めて政治犯や反ロシア的諸民族を送り込んで強制労働を課していた。
 ロシア皇帝は、国内のポーランド人のロシア化を強いる為に、強制的にロシア語教育の徹底とロシア正教への帰順を進めた。
 ポーランドカトリック教徒は、ロシア正教への改宗を拒絶した。
 ロシア帝国ポーランド人は、祖国奪還の為にロシア帝国に対して幾度も叛乱を起こしていた。
 ロシア帝国は、皇帝の命令に従わないポーランド人を処刑するかシベリア等に流刑とし、死ぬまで使役を強要した。
 シベリア流刑は、生きて帰れない死出の旅であった。
 ロシア帝国は、シベリア開発の為にユダヤ系国際金融から資金を得て本格化するに当たり、新たな労働力として専門技術を持ったポーランド人らをシベリアに強制移住させた。
 多くの家族が、父親や夫を追ってシベリアに移住した。
 20世紀初頭に掛けて、酷寒の地・シベリアに、ポーランド人が15万人〜20万人が住んでいた。
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 1914年 第一次世界大戦勃発。
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 ポーランド戦線のロシア軍は、ドイツ軍の猛攻で撤退するにあたり、「ドイツ軍には何も渡さない」として焦土作戦を実行した。
 ロシア軍は、駐屯地の都市や村落を全て焼き払い、ポーランド人を強制的にシベリアなどの後方に送り、従わない者は女子供に関係なく全員虐殺した。
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 1917年 ロシア革命が勃発してロシア帝国は滅亡し、ロシア帝国領のポーランド人達はポーランド独立の為に立ち上がった。
 皇帝派は、連合軍の支援を期待して白軍を組織し反革命の内戦を起こし、シベリアでも戦火が広がった。
 シベリアのポーランド人達も、祖国独立の一助になろうとチューマ司令官の下に2千人の部隊を結成し、シベリアで反革命政権を樹立した。
 ポーランド人部隊は、ロシア提督・コルチャークを助けて赤軍と戦ったが、敗北してウラジオストックに敗走した。
 赤軍は、ポーランド人を見付け次第に虐殺し、女性は強姦してから殺害した。
 シベリア各地で、共産主義者による虐殺が行われていた。
 シベリア各地で生活していたポーランド人家族は、難民として戦争の混乱を逃れて東に逃避したが、多くの者が逃げ場を失って極寒の地を彷徨い、餓死、病死、凍死する者が続出した。
 欧米の新聞は、ポーランド人婦女子約600人が乗った列車が燃料不足で立ち往生して、全員が凍死した事件を報じていた。
 親を殺され子供や親とはぐれた子供の多くが、シベリアに取り残され、寒風吹きすさぶシベリアの荒野を飢餓と闘いながら放浪を余儀なくされた。
 この子供達が、国際問題化したポーランド孤児(シベリア孤児)である。
 赤軍は、所詮は「反革命分子の家族」であるとして助けずに死ぬに任せて放置した。
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 1918年 ウラジミール・レーニンは、ロシア皇帝が借金した負債は新政府とは無関係であるから返済しないと宣言した。
 アメリカ、イギリス、フランスなどは、貸し付けた金を踏み倒される事は許さないとして、ソ連への派兵を決断した。
 7月 富山県米騒動が起きて、全国に広がった。
 日本全国で、社会主義運動が高まり、労働争議小作人争議が頻発していた。
 8月2日 日本政府(寺内内閣)は、国際協調主義から、ロシア革命への干渉戦争に参加する事を決断しシベリア出兵の布告を行った。
 8月22日 日本陸軍と外務省は、日露戦争以来のロシア人に対日悪感情を考慮し、日本正教会から4名の神父と西本願寺から僧侶1名を工作員に指名してシベリアに送り込んだ。
 11月 第一次世界大戦終結
 ポーランド共和国の独立宣言。
 シベリアの白軍は、ロシア革命ユダヤ人による陰謀と決め付け、各地のユダヤ人集落を襲撃して虐殺を行っていた。
 日本陸軍内部にも、多くの将校が反ユダヤ主義に感化され、ユダヤ人世界征服陰謀説を信じた。
 ユダヤ人がロシア革命を起こした事という噂が広がるや、西洋礼賛主義の日本人や国粋主義者らの間で反ユダヤ主義となる者が増えた。
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 1919年 ソ連は、暴力的共産革命を輸出する為にコミンテルン第三インターナショナル)を結成した。
 日本は、パリ講和会議で、人種や国籍による差別を設けてはならないとする「人種差別禁止の条項」を国際連盟規約に加える事を提案した。
 アメリカは、16ヶ国中11ヶ国が賛成したにもかかわず、重要事項は全会一致の原則によるとして不採用にした。
 外交官・渡辺理恵は、19年にウラジオストク領事として着任し、21年まで領事の傍らウラジオストク日本派遣軍軍軍政部の仕事も勤め、ポーランド孤児救済事情に深く関わった。
 3月 日本は、ポーランドと国交を樹立した。
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 3月1日 3・1独立運動(万歳事件)。朝鮮各地で、朝鮮人による反日暴動が起きていた。
 日本政府は、暴動を拡大させる事は危険であると判断し、軍隊を派遣して武力鎮圧した。
 欧米各国は、日本軍による非人道的犯罪があったとして日本を非難した。
 朝鮮人テロリストによる凶悪犯罪が、日本や中国で続発した。
 朝鮮人は、反日活動を活発化させていた。
 5月4日 5・4運動。中国人共産主義者らの扇動で、全土で日本製品ボイコット運動が起きる。
 過激な反日派中国人活動家らは、中国在住の日本人を襲撃して暴行事件や日本商店を襲って略奪事件を起こしていた。
 朝鮮と中国で、反日暴動が起きていた。
 日本は、国内外で窮地に追い込まれていた。
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 9月 ウラジオストク在住のポーランド人アンナ・ビエルケビッチ女史は、シベリアに取り残された同胞を助ける為に「ポーランド救済委員会」を組織した。
 ポーランド救済委員会は、アメリ赤十字社シベリア派遣団の支援を受けて、アメリカ・シカゴのポーランド人組織ポーランド国民機関から資金援助を得てウラジオストク郊外にび孤児収容施設を設置してポーランド孤児を収容した。
 ポーランド政府は、日本政府に対して、ウラジオストクに退却しているポーランド部隊の本国帰還への支援を依頼した。
 日本政府は、ポーランド部隊を大連、長崎を経て祖国へ帰還するのを助けた。
 赤軍は、新生ポーランドとは戦闘状態にない為に、ポーランド人孤児をシベリア鉄道で本国に送る便宜を与えていた。
 ポーランド児童救済委員会アンナ・ビエルケビッチ会長は、シベリアに派兵している各国の赤十字に、ポーランド孤児の窮状を訴えて救援を懇願した。
 10月 外国の赤十字は、自国軍がシベリアから撤退すると共に、ポーランド孤児への支援を終了して帰還した。
 中国上海の中国赤十字社も、世界協調方針から、西洋諸国が見捨てたポーランド孤児を助けては世界で孤立する恐れがあるとして、救済要請を断った。
 ビエルケビッチ会長は、シベリアに残っているのは日本軍にポーランド孤児の救援を求める事を提案したが。
 敬虔なカトリック信者であるポーランド人は、江戸時代にポーランド人宣教師がサムライによって磔にされたこと理由に反対した。 
 ヤクブケビッチ副会長は、ビエルケビッチ会長提案を支持した。
 「僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいったポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人はいませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきたチューマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、日本軍じゃありませんか」
 ポーランド孤児だけでも生きて祖国へ送り返すを最優先にすることとして、会長のアンナ・ビエルケビッチ女史を日本政府に送る事を決めた。
 同時に、シベリア各地で取り残されているポーランド孤児達の救出を依頼した。
 日本軍シベリア派遣軍は、全部隊に対してポーランド孤児達の保護を命じた。
 ウラジオストック在住のポーランド人有志達は、我々はこのままシベリアで死んでもいいが、せめて子供達だけでも祖国ポーランドへ帰しそうと必死になっていた。
 バツワフ・ダニレビッチ「街には、飢えた子どもが溢れていましたね。その子達は、日本の兵隊さんを見ると、『ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!』と、せがむのです。日本の兵隊さんは、やさしかった。私も、キャラメルを貰った事があります。孤児の中には空腹をまぎらそうと、雪を食べている子供もいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした」
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 本音を言えば。日本軍は、労働者・農民などで組織されたパルチザン部隊(遊撃隊)による遊撃戦に苦戦して、ポーランド孤児達の救助どころではなかった。
 赤軍は、各地の集落を戦闘拠点とし、住人を革命兵士として狩り出して戦場に送り込み、戦う事を嫌って従わない者は反革命分子として容赦なく処刑していた。
 地元住人にとって、かってに来て戦う赤軍も日本軍も共に嫌っていたが、日本軍は何時か撤退するが、共産主義者は残る為に赤軍に従った。
 歩兵第十二旅団長山田四郎少将は、2月に「師団長の指令に基き」という通告を発した。
 「 第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て其実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するものあるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄すべし」
 日本軍は、各地の集落を襲撃して、女子供を含めた無抵抗な村民をパルチザンのシンパとみなして手当たり次第に刺殺・銃殺し、村を徹底的に焼き払っていた。
 2月13日 インノケンチェフスカヤ村における掃討作戦。
 3月22日 イワノフカ事件。イワノフカ村「過激派大討伐」作戦。
 ウラジヴォストーク派遣軍政務部による事件後の村民に対する聞き取り調査。「 本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業を仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった。間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。最も惨酷なるは十五名の村民が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである。殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計七百五十万留(ルーブル)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生活に窮して居る家族は多数である。」
 パルチザン掃蕩を目的とした、無慈悲で非情を承知の「村落焼棄」作戦は失敗した。
 日本軍兵士は、不慣れな敵地で極寒の自然の中での不毛な戦いを強いられていた。
 何故戦うかという戦争目的が曖昧な為に士気は上がらず、軍紀は頽廃し、刹那的に生きている実感を得る為に見境なく強姦を繰り返していた。
 性欲を解消するだけの獣的な強姦で性病に感染する兵士が続出して、日本軍の軍紀は乱れ戦闘能力は低下した。
 シベリア戦線の兵士は、一日も早い帰国を望むようになっていた。
 戦線が泥沼化するやウラジオストク派遣軍全体が退廃し、派遣軍首脳部は「三井、三菱に出入りして、玉突きや碁将棋に日を消し」、幹部や士官も同様に「酒楼に遊蕩」していた。
 退廃した軍上層部の現状を憂いた兵士は、内部告発として黒竜会の機関紙『亜細亜時論』に告発書を送った。
 「他国の党派争ひに干渉して人命財産を損する、馬鹿馬鹿しき限りなり」
 日本軍部と外務省は、事態の深刻さを自覚したが、その内容を公表する事は軍隊の威信を傷付けるとして公表を一時差し止めた。
 後年。日本軍は、強姦事件による軍紀の崩壊を苦い経験として、日本軍兵士の戦闘力維持と占領地の性犯罪防止を目的として従軍慰安所設置した。
 翌年2月 赤軍は、日本軍占領下で虐殺を行った地域を奪還して住民を日本軍支配から解放し、日本軍による残虐行為を調べた。
 州都ブラゴヴェシチェンスクの某新聞社は、特派員を村に派遣して実情調査を行い世界に伝えた。「赤いゴルゴタ」報道。死者総数は291人(内中国人6人名)で、その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていた。
 反革命派アレクサンドル・コルチャーク政権の軍隊が赤軍との戦闘に敗北し、翌20年に政権は崩壊した。
 日本政府内に、白軍凋落を期に撤退機運が強まった。
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 1920年2月 コルチャーク軍が赤軍に敗れ、コルチャーク将軍が赤軍に捕まり処刑された。
 シベリア出兵の大義を失った連合軍は、シベリアからの撤退を決定した。
 アメリ赤十字社も。4月迄に帰国を完了する事を決めた。
 3月から5月 尼港事件。ロシアのトリャピーチン率いる共産パルチザン4,000人(ロシア人、朝鮮人、中国人など)は、黒竜江アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民約700人、日本人以外の現地市民6,000人を虐殺し、ニコライエフスク日本領事館を含む町を焼き払った。
 日本政府も日本軍も、同胞を虐殺した共産パルチザンへの報復を求める国民の声に押され、シベリア撤兵の決定ができなくなった。
 日本軍とパルチザン部隊は、戦闘以外でも報復的虐殺を繰り広げていた。
 4月25日 ポーランドは、干渉戦争に参加してソ連を攻撃した。
 ソ連は、制裁処置として、ポーランド孤児達をシベリア鉄道で祖国へ送り返す事を中止した。
 後年。スターリンは、この時の恨みを忘れずポーランドを軍事占領し、報復として政治家や軍人や資本家など大量の保守派を処刑した。
 共産主義政権下の悲劇は、スターリンの怨念であった。
 6月 ポーランド児童救済委員会ビエルケビッチ会長は、約300人のポーランド孤児達をアメリカ行きの船便が調達できるまで日本に預かって貰うべく来日し、東京に向かった。
 6月19日 ビエルケビッチ会長は、外務省の武者小路公共の助言に従って書き上げた嘆願書と状況報告書を外務省に提出した。
 嘆願書抜粋「私達は祖国から離れ、何ら援助者も得られない身です。このまま冬が来ると、子供達の命が奪われることは明らかです。子供を可憐な花のように慈しむ日本が、当孤児院の罪もない子供達の命を戦争の不幸から救ってくださるよう、私は切に願っています」
 状況報告書抜粋「ある避難民が放置された列車の中を覗くと、冷たくなった母親の死体に覆い被さって凍死している数人の幼児達がいた。母親は子供を温める為まず自分の服を被せ、次いで残った食べ物を与えてから息絶えたであろう。子供達の中にはまだ生きているように見える者もいて、その蒼ざめた両頬には涙が凍っていた」
 日本外務省は、寒さと飢えで死んでいるポーランド孤児の身の上に同情し、「天皇の御稜威」からポーランド孤児の受け入れが決定した。
 日本は、新生ポーランドとの間にいまだに大使館もない状態で、しかもこの救済の要請は、ポーランドの政府からの公式なのではなく、ポーランドの一民間組織からの要請である。
 日本政府は、手を差し伸べるには大変な経費が必要で、すでにシベリア出兵で10億円の国費を捻出して財政が苦しかった為に、日本赤十字社に救援事業を引き受けるように要請した。
 7月5日 日本赤十字社は、外国の子供を支援する事は初めての事である為に、理事会を重ね、「善意の心」としてポーランド孤児の救出と帰還させる方策を決定した。
 石黒忠悳(ただのり)「本件は国交上並びに人道上まことに重要な事件にして救援の必要を認め候につき、本社において児童達を収容し給養いたすべく候」
 原敬内閣は、要請を受けて17日後に異例に速さで救援を決断した。
 陸軍大臣田中義一海軍大臣加藤友三郎外務大臣内田康哉
 日本陸軍は、ポーランド孤児救護作戦に全面協力して、ウラジオ派遣軍(軍司令官大井茂元大将)に対し、日本赤十字社と協力してポーランド孤児救助活動支援を命じた。
 陸軍輸送部と日本赤十字社は、ポーランド孤児救出作戦について綿密に打ち合わせを行い、孤児輸送の為の陸軍輸送船の手配を行った。
 日本赤十字社は、救助には一分一秒の無駄にはできないとして、急いで社員を現地に派遣した。
 ウラジオ派遣軍の置かれた現状は、赤軍に囲まれて危険な状態にあった。
 日本の兵士達は、ポーランド孤児達の話を聞くや「私達がやりましょう」といって赤軍パルチザン部隊が支配するシベリア原野に入り込んで、小さな子供達を一人二人と抱えてウラジオストックに戻ってきた。ポーランド孤児達の捜索は、2年間続けられた。
 救済委員会も、一人でも多くのポーランド人孤児を救おうと、あちこちの避難所を探し回った。
 ビエルケビッチ「壊れた列車や、兵舎に紛れ込んでいる子供達もいました。ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のようにして、その家庭を尋ねました。父親を亡くした家庭では、『せめて子どもだけでも、助け出してください』と母親達が、泣いて私達に頼むのでした。しかし、こうしてシベリアで子供達を集められたのは、日本軍がいる町だけだった。日本軍の助けなしには、なにもできなかった」
 7月20日 第1次ポーランド孤児救済事業。日本赤十字社と日本軍は、2週間の救出活動で4歳から13歳までの孤児56人とポーランド人付き添い5人を第一陣として、陸軍の輸送船筑前丸に乗船させてウラジオストクから敦賀港に送った。
 孤児達は、シベリアでひもじい経験をした為に、万が一日本に行っても食べ物がないと困ると考えて荷物の中に食パンの頭や耳をいっぱい詰め込んだ袋を忍ばせていた。
 ポーランド児童救済委員会は、習慣や言葉が違う孤児達を世話するに、ポーランド人の付添人を付けるのがよいと考え、日本赤十字社と話し合って孤児10名に1人の割合で合で大人を一緒に送る事とした。
 陸軍輸送船は、海軍とは関係なく、陸軍が独自で契約し調達した船である。
 日本海軍は、ポーランド孤児救護輸送作戦には関係していなかった。
 日本の縦割り行政の弊害として、陸軍のみの救済活動であった。
 7月22日 敦賀港に上陸したポーランド孤児達は、粗末な服を着て、哀れなほどやせ細った青白い顔の子供達であった。
 ヤクブケヴィチ副会長「日本人は日本内地において我々を援助したばかりでなく、シベリアにおいてもまた等しく援助してくれた。異郷の地であるシベリアにおいて日本人は日本陸軍の保護の下にシベリアの奥地からウラジオストクにいたるまで、ある時は陸軍の自動車をもって、ある時は汽車をもって、我が児童を輸送してくれた」
 敦賀町役場・敦賀警察署・敦賀税関支署・陸軍輸送部出張所・敦賀駅は、子供達を小学校に収容して疲れた体を休めさせ、昼食をとった後に、東京に向かう列車に乗車させた。
 途中の米原駅も、特別列車を東海道本線へとスムーズに通過させた。
 7月6日までに計五回、ポーランド孤児達が上陸し、住民はその余りにも衰弱した身体と親を失った境遇に同情して進んで介抱に手を貸した。
 陸軍輸送部は、台北丸、明石丸、樺太丸などの輸送船を提供した。
 2歳から16歳までの合計375人(男児205人。女児170人)のポーランド孤児達が、敦賀港での介抱を受けて東京に向かった。
 東京に到着したポーランド孤児375人は、東京府豊多摩郡渋谷町(現東京都渋谷区広尾4丁目)の仏教系福田会育児所に収容された。
 福田会は、日赤本社病院に隣接し、設備も整い構内には運動場や庭園があり子供達を収容するのに適した環境であった。
 華族の夫人を中心とした婦人会などの各種団体、一般人や日本橋などの芸妓に至るまで多くの人が、駆けつけて玩具やお菓子などを差し入れた。
 国民の寄贈品は197件(円換算で5,885円)に上り、寄附金も1,848円44銭に達した。
 東京のポーランド孤児達は、調布の多摩川公園に遠足したり、日光への一泊旅行したりと楽しんだ。
 ウラジオ派遣軍は劣勢な戦闘を続けながら、日本赤十字社ポーランド児童救済委員会と協力してポーランド孤児の捜索を続行させていた。
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 7月28日 ロシア語学者の八杉貞利(当時、東京外国語学校教授)は、アムール・ウスリーを旅行し、シベリア戦争下の現地状況で日本軍が如何に白色テロに対する幇助を行っているかの模様を日記に書き残した。
 「日本下級軍人が、所謂殊勲の恩賞に預からんがために、而して他の実際討伐に従軍せる者を羨みて、敵無き所に事を起こし、無害の良民を惨殺する等の挙に出ること。而して『我部下は事無き故可哀相なり、何かやらせん』と豪語する中隊長あり」
 「目下過激派の俘虜百名あり、漸次に解放したる残りにて、最も首謀と認めたるものは殺しつつあり、之を『ニコラエフスク行き』と唱えつつありといふ」
 「各駅は日本兵によりて守備せらる。……視察に来られる某少佐に対してシマコーフカ駅の一少尉が種々説明しつつありしところを傍聴すれば、目下も列車には常に過激派の密偵あり、列車着すれば第一に降り来たり注意する動作にて直ちに判明する故、常に捕らえて斬首その他の方法にて殺しつつあり、而して死骸は常に機関車内にて火葬す。半殺しにして無理に押し込みたることもあり。或時は両駅間を夜間機関車を幾回となく往復せしめて焼きたることあり。随分首切りたりなど、大得意に声高に物語るを聞く。而して報告は、単に抵抗せし故銃殺せりとする也という。浦塩にて聞きたることの偽ならぬをも確かめ得て、また言の出るところを知らず。」
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 1921(大正10)年 ワシントン会議開催時点で、シベリア出兵を続けていたのは日本だけであった。
 一部の欧米の報道機関は、日本軍がシベリアに駐屯しているのは領土的野心があるからであるとして、日本を激しく非難した。
 全権であった加藤友三郎海軍大臣は、会議において、日本は領土拡張の野心はない事を証明する為に条件が整い次第、日本も撤兵する事を公式に約束した。
 参加国は、国益の為に日本を封じ込める事を最優先として、シベリアのポーランド孤児の窮状には関心がなかった。
 ポーランド孤児の救済は、日本軍の撤退が完了するまでの期間とされた。
 シベリアのポーランド児童救済委員会と日本軍シベリア派遣軍は、限られた時間内でより多くのポーランド孤児を救出する為に、赤軍パルチザン部隊の猛攻を避けながら探索地域を広げた。
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 1920年から22年にかけて、日本はポーランド孤児合計765人と世話役として65人のポーランド人の大人も受け入れた。
 日本赤十字社は、東京や大阪など日本各地で厚い保護を行い、20年9月28日頃から体力が回復した孤児達を随時アメリカに出発させていた。
 第1便が、横浜埠頭を出港した日本郵船の伏見丸であった。
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 明治天皇の后・昭憲皇后は、明治15(1882)年に貧しい人々の治療を施す目的で建てられた慈恵病院を資金援助し、戦争や天災などで負傷した者を救護する日本赤十字社に積極的に関わってきた。
 赤十字活動は、皇室によって守られていた。
 日本軍は、皇軍として、赤十字活動に協力する責務があった。
 日本軍兵士は、赤十字社が天災の被害者を救護した時も戦場で敵味方の区別なく負傷者を治療する時、大元帥天皇の命令として手伝う義務があった。
 もし、赤十字社の活動を邪魔する事は天皇の命令に背くことになる。
 明治45(1912)年 ワシントンで開催された第九回万国赤十字総会に、宮廷費から10万円(現在の3億5,000万円)を平時救護事業奨励金として寄付した。
 これ以降。日本の皇室は、国際赤十字活動に深く関係を持ち、基金を設けて世界各国の赤十字社にその利子を配布した。
 日本の皇室は、他国の王家以上に人道貢献し、全ての貧しい者達に寄り添うことを心掛けている。
 それが、光明皇后以来の別け隔てのなき「慈愛の精神」という伝統である。
 皇室に「慈愛の精神」がある限り、天皇制度は日本民族の中では永遠に不滅である。
 天皇の威徳とは、政治的な権威でもなく、宗教的な権威でもなく、「他利他愛」と「自利自愛」を調和させる良心と道徳の指標である。
 それは、日本民族日本人の心であり精神であった。
 人類の歴史において、政治権力も宗教権威も滅びる事を証明している。
 天皇制度が滅びずに続いてきたのは、天皇・皇族が貧しい者や困っている者や苦しんでいる者を見捨てる事なく寄り添い、共に苦しさや辛さや切なさに涙を流して絶えるという立場を取り続けたからである。
 民と共に歩くという行為が行えるのは、天皇家の血を引く皇族だけであり、如何なる政治家も宗教家も出来ない。
 天皇の権威を否定し天皇制度を廃止しようとする者は、如何に威勢の良いことを叫ぼうとのその足下にも及ばないし、如何に他人の為に努力して善業を積もうとも天皇の影ほどの役にも立たない無能者である。
 天皇・皇室及び天皇制度を守っているのは、合理的観念的理屈ではなく、心と情が通った人間味のある情緒的皇室神話である。
 それが、約2000年近く守られてきた文化的伝統である。
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 1921年 収容された時の孤児達の多くは、シベリアの荒れ野を彷徨っていた為に栄養不良で痩せ細り、青白い顔色をして下腹がふくれ、歩いてもフラフラする状態であった。
 また。子供達の多くは、腸チフス感冒、百日咳などの病気に罹っており、すぐに治療が施された。
 親と離れ一人で長い放浪を続けていた為に、着ている物はボロボロで靴を履いている子供はほとんどいなかった。
 そこで日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や菓子、果物を支給しました。
 4月6日 ビエルケヴィチ会長は、日赤本社病院を行啓される貞明皇后を、ポーランド孤児達と共に出迎えた。
 貞明皇后は、日赤病院で治療を受けているポーランド孤児達を親しく接見し、3月29日に退院したばかりの3歳の女の子(ゲノヴェハ・ボグダノヴィチ)を抱きあげて優しく話しかけた。
 「ゲノヴァハさんといわれるのね。ゲノヴァハさん、貴方は、一人ではありませんよ。貴方が、ここに来られたのは、貴方のお父様やお母様が、我が身を犠牲にして御守りくださったからなのですよ。この度も、入院なさったのですね。でも、貴方はこうして、無事に退院する事ができました。だから、一所懸命に生きて行くのです。決して、命を粗末にしてはなりますんよ。大事になさい。そして、健やかに生い立つのですよ。それが、貴方を守ってくださったご家族と、この病院の方々の願いなのですから」
 人の温もりを忘れていた孤児達は、貞明皇后の優しさに触れて安堵して一斉に号泣した。
 貞明皇后は、お菓子料として1,550円を下賜した。
 「体中皮膚病にかかり白い布に包まれてベッドに横たわる私に、看護婦さんがキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました」
 「看護婦さんは、病気の私の頭を優しく撫で、キスをしてくれました。それまで人に優しくされたことがありませんでした。」
 看護婦らの献身的な介護と手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリア孤児達は、急速に元気を取り戻した。
 ポーランド児童救済委員会は、日本人が噂通りに子供を分け隔てなく大事にする事を目の当たりにして日本を選んだ事に安堵し、さらなるポーランド孤児を日本に送る為に捜索活動の範囲を広げた。
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 春。ポーランド孤児達の間に腸チフスが蔓延し、22人の孤児が感染した。
 看護婦の松澤フミは、昼夜の別なく懸命に感染した孤児達を看病していたが、腸チフスに感染して23歳の若さで殉職した。
 「人は誰でも、自分の子や弟や妹が病気に倒れたら、己が身を犠牲にしても助けようとします。けれど、この子達には、両親も兄弟姉妹もいないのです。誰かが、其の代わりにならなければ、いけません。私は、決めたのです。この子達の姉になると」
 彼女の死は、ポーランド孤児の治療を行っていた医療関係者に衝撃を与えた。
 事情を知らない幼子は、優しかった松澤看護婦の名前を呼び続け、周りの人たちの涙を誘った。
 だが。医療関係者は命の危険が伴おうとも、ポーランド孤児を見捨てる事はできないとして、衛生管理に注意を払って治療に取り組んだ。
 ポーランド政府は、彼女の献身に感謝して、1921年に赤十字賞を1929(昭和4)年に名誉賞を送ってその勇気を称えた。
 松澤フミ看護婦は、新潟県出身で、当時神奈川県支部に所属していた。
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 1922年 コミンテルンは、天皇制度を廃止し、日本を共産主義国に改造するべく日本共産党結成を指示した。
 部落解放運動が盛り上がり、全国水平社が結成された。
 軍国主義者や右翼は、祖国の危機感を募らせて国粋主義運動を強めた。
 中国共産党は、軍国日本とファシスト中国を戦わせる為に、反日暴動を煽っていた。
 3月 ポーランド児童救済会長アンナ・ビエルケビッチ女史は、再度日本赤十字社に、今なお、シベリアで救いを待つ孤児がアムール、ザバイカル並びに沿海州各地方を合わせて2,000人に上る事を訴え、孤児救済を懇願した。
ポーランド児童救済委員会の調査。
 ウラン・ウデ‥291人
 チタ‥ 558人。
 スヴォボードヌイ‥415人。
 ハバロスク‥330人。
 ハルビン‥222人。
 ウラジオストク‥250人。
 日本政府は、財政が苦しかったが、子供の命は金では買えないとして救済する事決めた。
 6月23日 内閣総理大臣となった加藤友三郎は、閣議で、国際公約に従って10月末日までに沿海州からの撤兵方針を決定し、翌24日に日本政府声明として発表した。
 6月30日 日本赤十字社は、臨時常議会を開いてポーランド孤児400人と付き添い40人を大坂に受け入れる事を決定した。
 8月7日 第2次ポーランド孤児救済事業。陸軍輸送船明石丸は、ポーランド孤児107人と付き添い11人を乗船させて敦賀港に入港した。
 8月7日から29日まで3回に分けて、1歳から15歳までのポーランド孤児390人と付添い39人の計429人が、大阪府東成郡天王寺村(現大阪市阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院)の大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎に収容された。この寄宿舎は新築2階建てで未使用のため清潔で、庭園も広く環境の整った所でした。
 ポーランド孤児達は、上陸するや着ていた衣服を熱湯消毒され、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れて貰って感激した。
 日本人医者は、特別に痩せた女の子を心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤を渡した。
 敦賀上陸委員は、敦賀から大阪間の運賃割引の優遇措置を鉄道省に申請した。
 鉄道省は、人道的見地から、今回も最大限の便宜を払って移動を支援した。
 敦賀町の婦人会は、前回同様に、菓子・玩具・絵葉書等を差し入れポーランド孤児らを慰め、疲れを取る為に宿泊・休憩所などの施設の提供を行い、できる限りの温かい手を差し伸べた。
 日本在住のポーランド人や日本人有志は、ポーランド孤児の救助費に使って貰う為に敦賀町役場に寄付金を送金した。
 ハリーナ・ノビツカ「到着した敦賀の美しい花園のある浜辺の民家。バナナやみかんなど見たこともない果物を食べ、日本の子供たちと一緒に遊んだ」
 貞明皇后は、お菓子料として1,000円を下賜した。
 全国から、寄附金8,571円55銭と寄贈品128点が贈られた。
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 新聞報道などで、ポーランド孤児達の事が一般に知れ渡るや、国内では治療や理髪、慰安会、救援金、慰問品の寄贈などのボランティアの申し入れが殺到した。
 到着したポーランド孤児達は、日本国民の多大な関心と同情を集めた。
 無料で歯科治療や理髪を申し出る者。
 学生音楽会は、慰問に訪れた。
 仏教婦人会や慈善協会は、子供達を慰安会に招待した。
 慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、そうした日本人が後を絶たなかった。
 大坂カトリック司教団は、どんな苦境に遭って信仰を忘れないようにと、カトリック教徒であるポーランド孤児達に「聖母マリア像」のカードを贈った。
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 765名の孤児達は、2年間にわたって日本で治療と療育を受けた。
 日本赤十字社には、貞明皇后からの御下賜金や日本全国からの多数の寄付金が寄せられていた。
 収容先では、子供達を慰める為に催されるいろいろな慰安会に出席させ、時には市内を見物したり動物園や博物館へ連れだし、より多くの日本人と親しく交流できるように配慮した。
 何処に行っても、誰に会っても、日本人で人種差別的に孤児達を軽蔑して蔑む者はいなかった。
 警察当局は、万が一にも孤児らに危害を加える不心得な日本人が現れないように、孤児らを守るべく警官を配備していた。
 また。ポーランド人の宗教を尊重し、宗教的規則に配慮して、孤児達に毎日の朝食前と就寝前の祈りをさせていた。
 多神教の日本人は、ポーランド孤児に神道への改宗を強要しなかった。
 子供の躾を厳しく行う日本人は、ポーランド孤児の境遇に同情しても甘やかす事はせず、親御さんにかわって帰国しても大丈夫なように規律ある生活をさせた。
 午前6時に起床(冬季は7時)し、洗面後お祈りをして7時に朝食とした。
 その後、読書や勉強し、休憩時間には寄贈されたおもちゃで遊ばせた。
 食事は、子供たちの好みと栄養を考え、一緒に来日した付添い人が調理をしました。
 午後は各自で自由に過ごさせ、午後6時には夕食とした。
 午後8時に、お祈りさせ就寝させた。
 厳しい中にも楽しみを与え、有意義に一日を過ごせるように工夫を凝らした。
 ポーランド孤児達は、同年代の日本人の子供達と遊ぶのを喜んだ。
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 2年間過ごした日本は、ポーランド孤児達にとって天国のような場所であった。
 神道の日本は、子供を宝物として大事にし、そして立派な大人にする為に躾を厳しく行っていた。
 日本の子供達は、天真爛漫として、よく笑い、そして思いっ切り遊んでいた。
 大人達は、皆して子供達を守り、健やかに育つ事を願い、子供の為に生活が苦しくとも仕事が辛くとも愚痴や弱音を吐かず痩せ我慢で陽気に振る舞っていた。
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 ヨーロッパの新聞は、日本は子供がよく笑う「児童の楽土」と報じた。
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 保護されていた765人のポーランド孤児達は、日本で病気治療や休養した後に、第1次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドした。
 日本赤十字社は、預かった責任として一人も不幸にせずに保護した765名全員を送り届けた。
 東京の第1次の孤児達は、横浜から6回にわたり、諏訪丸で150人、香取丸で114人、伏見丸で106人の合計370人をアメリカを経由して、ポーランドへ送った。
 大阪の第2次の孤児達は、神戸から2回にわたり、香取丸で191人、熱田丸で199人の合計390人を、香港、シンガポールマルセイユ、ロンドンなどを寄港してポーランドへ送った。
 日本出発前には、各自に洋服が新調し、航海中の寒さも考慮して毛糸のチョッキを支給した。
 さらに、多くの人々が別れを惜しんで衣類や玩具を贈った。
 横浜港。幼い孤児達は、親身になって世話をしてくれた日本人の保母との別れを悲しみ乗船する事を泣いて嫌がり、見送る医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしなかった。
 別れを惜しみながらも、孤児達は精一杯の感謝の気持ちをこめて波止場に並んで、「アリガトウ」「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた「君が代」を歌った。
 神戸港。児童一人ひとりに、バナナと記念の菓子が配られた。
 孤児達は、船のデッキに並び、「君が代」と「ポーランド国歌」を涙ながらに歌い、「アリガトウ」「サヨウナラ」と叫んだ。
 大勢の見送りの人達は、孤児達の幸せを祈りながら、船が見えなくなるまで手を振っていた。
 別れを惜しむ孤児達も、見送る日本人達も、両国の旗と赤十字旗を千切れんばかりに打ち振り別れを惜しんで涙を流した。
 日本人ほど、涙もろい情緒的な民族はいない。
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 日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供達の頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていた。
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 アントニーナ・リロ「日本は天国のような処だった」
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 副会長ユゼフ・ヤクブケヴィッチは、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない。」と題した礼状を日本に送った。
 「日本人は我がポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本は我がポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れる事はない。
 我々の児童達をしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児達の服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供達に与えようとした。こんな事は一度や二度ではない。しばしばあった。
 ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、我々は何時までも恩を忘れない国民である事を日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童の為に尽くしてくれた事は、ポーランドはもとよりアメリカでも広く知られている。
 ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っている事をお伝えしたい。最後に日本人にいたい。記憶せよ、我らは何時までも日本の恩を忘れない。そして、我らのこの最も大なる喜悦の言葉ではなく、行為をもって、何れの日にか日本に酬いる事あるべしと」
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 祖国ポーランドに帰還を果たした孤児達は、養護施設に保護され、それを祝う為に首相や大統領までが駆けつけた。
 この施設では日本への恩義を忘れない為に、毎朝、校庭に生徒達が集まり、日本の国旗「日の丸」を掲げ、日本の国歌「君が代」を合唱し、日本の童謡を習った。
 学園祭には、日本という国を身近に意識する為に着物を着て遊んだ。
 そして。相互扶助の日本精神を忘れず、自分達もそうあろうとして他人に支援の手を差し伸ばす事を心掛けた。
 シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が日本に届けられた。
 「貴社の献身的援助により、救出された在シベリア・ポーランド子弟を代表して感謝の意を表します。」
 ポーランド衛生長官「ポーランド児童が横浜を出発するに際し、惜別と謝恩の涙を流したのは、児童に対する救護がいかに貴重だったかを証明する最良のものです」
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 1923年9月1日 関東大震災
 12月 無政府主義の難波大助は、摂政宮裕仁親王を暗殺する為に狙撃するが失敗した。
 皇太子裕仁親王は、日本人や朝鮮人のテロリストに幾度も命を狙われた。
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 日本陸軍は、対ソ戦略からポーランド陸軍との協力関係を強め、ポーランド派が主流となっていた。
 ポーランド陸軍は、日本陸軍に暗号解読の技術支援を行っていた。
 日本陸軍の諜報(インテリジェンス)は、ポーランド陸軍の指導によって向上した。
 J・W・M・チャップマン「情報に於ける日本とポーランドの関係は、同盟を結んだドイツよりも深い。このような親密な関係は、現在の日米関係に匹敵する」(『ポーランドの対日連携』)
 ポーランドは、親日的であった。
 ナチス・ドイツは、怨念的反日派として、軍国日本に敵意を持つファシスト中国を経済的軍事的に支援していた。
 ソ連も、中国と日本を共産主義化するべくファシスト中国を軍事支援した。
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 1928年 孤児として日本に滞在していたイエジ・ストシャウコフスキ少年は、17歳の青年となって、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。
 極東青年会は、ポーランドと日本の親睦を主な目的とした組織で、日本文化の素晴らしさをポーランドに紹介した。
 そして、日本に行くための資金を貯めた。
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 だが、帰国したポーランド孤児達は、成長して第二次大戦の巻き込まれた。
 1939年、ナチス・ドイツポーランド侵攻の報に接するや、イエジ会長は、極東青年会幹部を緊急招集し、祖国を守る為にレジスタンス運動参加を決定した。部隊名は、イエジ会長の名からイエジキ部隊と愛称された。
 シベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児達、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児達も加く、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。
 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。
 イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。
 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵達は呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。
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 1941年 杉原千畝は、ポーランド出身のユダヤ人難民を助けるべく、敦賀、神戸経由して安全地帯に逃げられるようにビザ発給した。
 昭和天皇は、ユダヤ人難民の保護を希望していた。
 A級戦犯東條英機松岡洋右達は、ユダヤ人難民の脱出に便宜を与え、太平洋戦争勃発するや上海へと移住させて日本軍の保護下に置いてナチス・ドイツから守った。
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 2002年7月12日 今上天皇美智子皇后両陛下は、ポーランドを訪問され、ワルシャワの日本国大使公邸で開かれるポーランド大統領夫妻主催の午餐会に臨まれた。
 両陛下は、大広間に入られるやメインゲストの大統領夫妻に挨拶される前に、大広間入り口正面にいた3名の元孤児のもとに自ら歩み寄り親しく声を掛けられた。
 「お元気でしたか」
 元孤児であった老人達は、口々に助けてくれた日本への感謝の言葉を述べた。
 「日本万歳、ありがとう」
 「日本の御蔭で、今の私達があります」
 「日本はまるで天国のような所でした」
 「自分達を救い出してくれた、美しく優しい国、日本にぜひとも御礼がいいたい」
 「両陛下にお会いした事を、孫達に語ります」
 「今後数ヶ月間は、両陛下に会えた感激でぼんやりして過ごす事にありそうです」
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 元ポーランド人孤児達にとって、日本の天皇・皇后両陛下は命の恩人以上に、敬愛すべき特別な存在であった。
 


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