関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の底力は、柔軟で多様性ある日本国語にあった。
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水村美苗「(日本文化・日本文学・日本国語の衰退は)『荒れ果てた』などという詩的な形容詞はまったくふさわしくない。遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった」(『日本語が亡びるとき──英語の世紀の中で』)
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歴史教育では、神武天皇以来の皇国教育を行った。
科学教育では、チャールズ・ダーウィンの「進化論」を教えた。
アメリカ・テネシー州では、1925年に「進化論」を教えた高校教師が逮捕された。
ルイジアナ州議会は、1987年まで、教科書に「神の創造」と「進化論」を両論併記する事を義務付ける州法が存在した。
宗教の教育への圧力は、日本よりもアメリカの方が強かった。
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明治18年1月(〜4月) ヨーロッパで日本の美術や工芸品は評判を得て、「ジャポニズム(日本趣味)」でもて囃されていた。
オランダ人で日本人を妻に持つフレデリック・ブレックマンとタナカー・ブヒクロサン(田中一九郎)は、ロンドンに日本芸人や職人達を集めて日本人村を開設して、各種のイベントを開催した。
日本人村は成功して、25万人以上の見物人が押し寄せた。
海外に飛び出した日本人は、外国語が話せない学歴もない、非人・エタ・河原者などと賤民として卑賎視されていた軽業師や手品師など芸人達と食えなくなった職人達であった。
日本の底力とは、高学歴で外国語が堪能な裕福に暮らすエリートではなく、そうした市井の中に埋もれている人材である。
だが。何時の時代でも、日本のエリート達は訳の分からない理解不能なプライドから、埋もれた市井の人材をシラミを潰す如くその芽を摘んで捨てる事に生き甲斐を感じている。
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少子高齢化、人口減少、労働力不足を乗り越えるには、資格もない技術もない能力もない命じられた事を機械のようにこなすアマチュア・素人ではなく、何処に行っても一人で食っていけるような自立した優秀なプロ・専門家・職人を作ることである。
能力ある人材とは、他律的に英語を上手に話す事ではなく、外国語を話せなくとも自律して行動できる事である。
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下級武士の多くは、士族の地位を失った為に、軍人となるか学者、教師、技術者などの技能者の道に進んだ。
日本の近代化は、技能者となった下級武士達によって成功した。
彼らは、子供の頃、外国語に縁がなく、外国語が話せなかった。
人材とは、外国語を話す事ではなかった。
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日本の底力は、多様性と柔軟性を持ったローカル言語である日本国語力にある。
日本人がノーベル賞を受賞できるのも、日本国語における変換機能が高レベルにあるからである。
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日本国語力とは?
アルベルト・アインシュタイン「人間は得たものではなく、世に与えたもので評価される」
「科学教育ではどんな問題でも子供に分かり易く伝えるべきだ」
泉鏡花「難しく書くのは簡単な事。平易く、幼稚園児にも分かるくらい平易に書くのが実に難しいのだ」
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2015年11月号 Voice 「養老孟司 用不用
私が現役のころ、学部長がすべて出席する入試の会議で、工業部長が立ち上がっていったことがある。『国語をなんとかしてくれ』。国語なんて、入試から外せ。工学部長なんだから、そういったのだろうと思われるかもしれない。物理と数学ができれば十分だ。そうではない。東大の入試を通って入ってくる理科系の学生の国語力が低すぎる、普通の文章もちゃんと書けない。そういう趣旨の発言だったのである。
学科を縮小しようが拡大しようが、そんなことはじつはどうでもいい。問題は当該の学問に従事する人たちのやる気であろう。司馬遼太郎の作品が有名になったこる、大学で私の恩師がいったことがある。小説家が書く歴史の方が面白いね。学問は面白ければいいというものではない。そんなことはよくわかっている先生だった。司馬遼太郎は『坂の上の雲』を執筆しているあいだ、大阪の街を顔を上げて歩けなかったと書いている。資料の収集、読み込み、執筆に集中して、当然の義理をいくつも欠いたからだ。そう述べていたはずである。
そもそも人文・社会学系の学科で『何を教える』のか。日本の大学で教えないものがある。それは考える方法である。それをいうと、すぐに『それは哲学でしょう』といわれてしまう。縦割りの弊害ですな。言葉を使って考える。それが人文・社会学の基本のはずである。それを学生に叩き込んでいない。だから卒業しても役に立たない。
いまの学生に『やり方』を教えるのは難しい。受け取るほうがすぐにそれをノウハウ、マニュアルだと思ってしまうからである。まして『考え方』などという、なんだそりゃ、と思うに違いない。教育を受けていないなんだじゃら、それで当然であろう。歴史学、法学、経済学などというと、『それについて勉強するんだ』と頭から信じている。
私は時に解剖学者を自称する。自宅で解剖をしているわけではない。解剖という学問なんて『ない』。ゆえに解剖学者もない。解剖はあくまでも方法である。方法が身に付けば、比喩的には日本経済だって永田町だって解剖できるのである。
たぶん哲学科の中に、歴史も法学も経済学も含まれていいのであろう。哲学自身を学ぶことを哲学だと思っているから、哲学なんかいらない、というわてしまう。一文にもならないじゃないか。でも、ソクラテスはアテネの民衆から死刑を宣告された。哲学はそうまで社会的な力があるのだが、いまでは哲学者自体がそう思っていないであろう、死刑になってはたまらないから」
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阿川弘之「祖国というのは国語である」
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2014年12月号 新潮45「悪夢の21世紀
グローバリズムと格差拡大 中野剛志
グローバル化とは、資本家や富裕層が行使する政治力の産物に過ぎない。経済行為の潮流などでは決してない。
パリ経済学校教授であるトマ・ピケティが著した『21世紀の資本』が、アメリカで異例の大ベストセラーとなっている。
この本の中でピケティは、財務統計をもとにして冨の配分に間する長期的なデータを整備し、英米仏日など先進諸国の冨の配分の変遷を、過去200年にさかのぼって辿った。そして、現在のアメリカにおける富の偏在が、上位1%の富裕層が国富の4分の1を占有するという、100年前の水準近くまで達していることを明らかにした。この恐るべき歴史的事実には、格差に鈍感とされるアメリカ国民でも、さすがにショックを隠せなかったのだ。
……
1970年代後半ごろから、所得格差は再び拡大を初め、同時に経済成長も低調となった。とりわけ、21世紀初頭におけるアメリカやイギリスの冨の偏在は、100年前に近い水準にまで戻ってしまった。大陸ヨーロッパ諸国や日本においては、格差の拡大の傾向はあるものの、英米ほどに顕著ではなかったが、日本でも1990年代以降、格差が拡大し始めている。
この戦後の格差の再拡大は、1970年代から始まり、1990年代に加速した『グローバル化』と明らかに時を同じくしている。
『おこぼれ効果』
グローバル化は格差を拡大する。このような主張は、主に欧米の左派知識人や異端派に属する経済学者たちによって幾度となく提起されてきた。これに対して、グローバル化を理想視する主流派の経済学者たちは、それを躍起になって否定してきた。しかし、もはやその不都合な事実を隠して通すことはできなくなったのである。グローバル化に対する楽観で知られてきたポール・クルーグマンやローレンス・サマーズのような主流派経済学者うら、グローバル化が労働者に不利益をもたらすことを認めるようになっているのである。
グローバル化が格差を拡大する基本的なメカニズムは、至極単純なものである。
貿易や労働移動のグローバル化は、先進国と途上国の競争を激化させる。その結果、先進国の労働者の賃金を下落させる圧力が発生するが、資本家にとっては、人件費の圧縮により利潤の拡大がもたらされる。資本のグローバル化もまた、労働者に対する資本家の優位を強化する。資本の海外流出を脅かして、労働者の賃金水準を低く抑えられるからである。
ただし、ここに気を付けなければならないのは、いわゆる『グローバル化』とは、単に労働・財・資本の国際移動を意味するだけのものではないということだ。世界的に著名な経済学者ジョセフ・スティリッツは、一部の資本家や大企業がグローバル化を口実にして利益誘導を行っていることを糾弾している。
例えば、グローバル企業や利益団体は、アメリカ政府を動かして、WTO(世界貿易機関)協定や北米自由貿易協定その他の貿易・投資協定を推し進め、自分たちの利益を拡大するために、相手国の規制を撤廃させたり、改変を強いたりしている(『世界の99%を貧困にする経済』215〜217頁)も、TPP(環太平洋経済連携協定)も、その一種である。これらの貿易・投資協定がグローバル化の名の下に行っているのは、一部の大企業による利益誘導に過ぎないのであって、その結果、大多数の国民は不利益をこうむるのである。
……
グローバル化の推進者たちは、グローバル化が仮に一部の資本家や大企業の冨を増やすのだとしてしても、増大した冨は投資へと向かい、経済成長が実現し、低所得層も含む国民全体が豊かになると喧伝してきた。彼らが主張するこのような仕組みを『トリクル・ダウン(おこぼれ)』効果と呼ぶ。
過去30年間のグローバル化は、このトリクル・ダウン効果を口実に進められてきたと言ってよい。しかし、実際には、『トリクル・ダウン』効果はみられず、その反対に、ピケティが示したような格差の拡大と経済成長率の低下という現象が発生した。グローバル化によって、所得の不平等が著しく拡大しただけでなく、高い経済成長すら実現しなかったのである。
スティグリッツは、この格差の拡大と低成長には因果関係があるとする。一般に考えているのとは違って、不平等は経済成長に伴うコストなのではない。不平等は経済成長を阻害するのである。
……
不平等がもたらす需要不足は、構造的なものだ。このため、格差の大きい国では、景気対策によって需要を刺激したとしても、それによって増えた富は一部の富裕層に偏ってしまい、景気の押し上げ効果は少なくなる。そらにグローバル化が、景気対策を海外へと漏出させてしま。例えば、公共事業を増やしても、その雇用は低賃金の外国人労働者に奪われるだけで、国民の所得は増えない。日銀の量的緩和がもたらした円安にもかかわず、輸出が増えず雇用が伸びなかったのも、グローバル化で製造業の海外移転が進んでいたからである。
グローバル化は、このようにして不平等のみならず経済停滞をもたらす。だが、グローバル化は、資本家や富裕層が行使する政治力の産物に過ぎないのであって、歴史の必然でも不可避の潮流でもない。
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このままグローバル化と不平等が放置されれば、一部の富裕層への冨と権力の集中がますます進み、民主主義自体が滅びてしまうとスティグリッツは声を大にして訴えている。
グローバル化以外に選択祉はないという運命論は、とりわけ日本では根強い人気である。デフレ脱却や景気回復を高々と掲げる安倍政権やその支持層だけではなく、格差是正や弱者保護の観点から安倍政権に批判的な左派勢力もまた、このグローバル化の運命論を受け入れている。だが、格差を拡大し、経済成長を阻害する最大の元凶は、グローバル化なのである。そのことから目を背けている限り、誰が政権を担おうが、どんな政策論争を行おうが、全くもって無意味である」
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1983年6月2日号 週刊新潮「山本夏彦 助六の素性よく知るつばめかな
日本の色の名は西洋のそれに追われて、いま滅びようとしている。スカーレット、マゼンタ、カーマイン、パープルなどと皆さん言って、緋(ひ)や朱やくれない蘇枋(すおう)あかねなどといわれなくなった。女たちはルージュをひくと言って、紅をさすと言わなくなった。したがって薬指と呼んで紅さし指と呼ばない。
わが国の色の名が豊富だったことは、どこの国にも劣らない。茶だけをとりあげても、こげ茶あか茶おなんど茶こび茶うぐいす茶利休茶以下いくらでもある。なお足りなくて路考(ろこう)茶梅幸(ばいこう)茶などまで流行色にして、これらの微妙なニュアンスを区別しかつ賞した。これによって往年の文明ぶりを察することができる。このうち白茶けた茶赤茶という言いかたはまだ残っているが、あとはたいてい滅びた。……」
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- 作者:西林 克彦
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2005/09/20
- メディア: 新書
- 作者:ネイチャープロ編集室
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2000/04/01
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