・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2025年7月12日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「【べらぼう】田沼意次が異例の出世を遂げたワケ
濱田 浩一郎
皇居 (江戸城)伏見櫓と二重橋(写真:show999 /PIXTA)
© 東洋経済オンライン
今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は渡辺謙さん演じる田沼意次が異例の出世を遂げる契機になった事件について解説します。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。
家重に気に入れられ将軍の相談役に
徳川幕府の老中となった田沼意次の父・意行は、小姓そして幕臣(旗本)として、8代将軍・徳川吉宗に仕えてきました。
【写真を見る】江戸を騒がせた事件の舞台
その子・意次は、吉宗の後継者・徳川家重の小姓としてキャリアをスタートさせます(1734年)。同年12月に父・意行が亡くなったことから、享保20年(1735)3月、意次が父の後継として知行(600石)を相続します。意次は17歳でした。その2年後、意次は旗本が叙任される最高位の官位である従五位下となります。
そんな意次のさらなる飛躍の年となったのが、延享2年(1745)です。同年9月、8代将軍・吉宗は将軍職を子の家重に譲り、自らは大御所として君臨。家重はそれまで江戸城西の丸にいましたが、本丸に移居することになります。
それに伴い、家重の「西の丸小姓」であった意次らも本丸勤めとなるのでした。つまり、意次は将軍の小姓となったのです。翌年(1746年)7月、意次は小姓頭取(小姓の頭)に就任します。家重に気に入られていたのでしょう。
小姓というのは、主君の身辺の世話をしたり、話し相手となったりというのが主な仕事ですが、意次は延享4年(1747)、小姓組番頭格でありつつも、御用取次見習に異動となります。
元々、幕府には側用人(将軍に側近く仕えて、将軍の命を老中に伝達し、また老中の上申を将軍に取り次ぐ役)という要職が存在していました(5代将軍・徳川綱吉の時代に創設。その頃の側用人として、柳沢吉保が有名)。
しかし、8代・吉宗の時代になり、側用人は廃止されてしまいます。その代わりに創設されたのが、御用取次という役職です。
将軍に近侍し、将軍と老中以下の役人との取次役であり、将軍の相談役でもありました。重要かつ実権がある役職と言えるでしょう。その御用取次の見習に意次は任命されたのです。
将来、有望だと言えます。そのことを証明するように、意次の知行も増えていき、御用取次見習在職中は知行2000石となりました。寛延元年(1748)には小姓組番頭と御用取次見習を兼任します。その際、1400石を加増されるのです。そしてついに3年後の宝暦元年(1751)7月、意次は御用取次に任命されるのです(見習ではなくなったのです)。
宝暦5年(1755)にはさらに3000石を加増され、合計5000石の上級旗本に昇りつめるのでした。宝暦8年(1758)9月、意次は幕府評定所への出席を命じられ、幕政に関与することになります。御用取次の役職にありながら、評定所に出座を命じられるというのは珍事でした。
幕府の‟最高裁判所”で事件の処理を任される
当時、幕閣の頭を悩ましていたのが、美濃郡上一揆の処理でした。美濃郡上藩(金森家。3万8000石)は財政の窮迫から、年貢の取り立て方式を変更しようと企図したのです。すなわち、定免制から検見取制へ変えようとしたのです。
定免制とは、その年が豊作か凶作かに関係なく、過去数年間における収穫高の平均を基準に、一定期間、同じ年貢量を課する方法のことです。
一方、検見取制とは、田畑の収穫高に応じて貢租量を決める徴税法のこと。定免制から検見取制に変更となることにより、年貢が重くなることを危ぶんだのが、郡上藩の領民たちでした。
領民は検見取制になることを阻止しようと強訴したり、江戸にて老中に駕籠訴(幕府高位の人が駕籠に乗り通るのを待ち受けて、訴状を投げ入れること)したり、さまざまな取り組みをします。
そこに、郡上藩の預かり地であった越前国大野郡石徹白の白山中居神社の神職の対立(石徹白騒動)が起こり、郡上藩は混乱。
領民の一揆と前述の騒動が勃発したことで、幕府はこの事件を評定所で審理することにします。将軍・家重はこの事件に、幕府の要職にある者が絡んでいるのではないかと疑念を持っていたようです。
さて、意次が評定所に出座を命じられた1758年9月には、老中や若年寄が次々に罷免されています。9月2日には、老中・本多正珍(駿河国田中4万石)が罷免。9月14日には、西の丸若年寄・本多忠央(遠江国相良1万石)が罷免。前者の正珍の妹は、郡上藩主・金森頼錦と婚約していました(その妹は嫁ぐ前に病死)。その縁もあって、金森は老中・正珍に郡上藩年貢徴収法改正への介入を依頼。正珍は他の老中に内緒で動いたとされます。
一方、後者の若年寄・忠央も金森の願いを受けて、勘定奉行(大橋親義)にその件を内々に依頼。勘定奉行・大橋は美濃郡代(青木安清)に指示を出したとされます。
つまり、郡上藩主・金森の依頼を受けた老中・若年寄・勘定奉行・代官らが、郡上藩の領民の要求を抑え付けようとする構図が浮き彫りとなったのです。この一大事件を果断に処理したのが、意次でした。
手腕が高く評価された
郡上藩主・金森頼錦は改易、南部藩にお預けとなります(12月25日)。前老中の本多正珍は逼塞の処分、前若年寄の本多忠央は改易の処分となるのです。
意次の厳しい事件処理を幕末の能吏・川路聖謨も高く評価しています。聖謨は意次を「豪傑」と評しているのです。
美濃郡上一揆があった美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)の郡上八幡城(写真:zhengqiang/PIXTA)
© 東洋経済オンライン
(主要参考・引用文献一覧)
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007)
・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010)
・ ・ ・