🎑58)59)─1─連合軍捕虜収容所では、英語やフランス語を話せる者は優遇され、英語やフランス語を話せない者は酷い使いを受けた。1900年~No.135No.136No.137No.138 @

連合国捕虜虐待と戦後責任 (岩波ブックレット (No.321))

連合国捕虜虐待と戦後責任 (岩波ブックレット (No.321))

 
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』
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 日本政府と日本軍は、兵士に厳しい戦闘訓練を行うと同時に、英語教育で「降伏するする言葉」を教えるべきであった。
 重症・重病で担架に伏していた所へ、連合軍兵士がくれば呻きながらでも英語で降伏を申し込めるほどに英語教育を徹底させるべきであった。
 そして、降伏する事は恥ではないと。
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 宗教的白人至上主義のアメリカ軍将校は、日本人兵士捕虜で、英語を話せる者は助け、話せない者は玉砕として殺した。
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 日本人が外国人兵士捕虜を殴ったり蹴ったりすると、戦争犯罪・捕虜虐待で有罪となって処刑された。
 連合軍兵士が日本人兵士捕虜を拷問し、拷問で死亡しても、人道的に問題とはならず、むしろ英雄として叙勲した。
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 連合軍捕虜収容所では、英語を話す日本人キリスト教徒が生き残る可能性が高かった。
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 連合軍は、日本軍兵士を捕虜にして助けようという親切心を持ってはいなかった。
 日本軍兵士が武器を置き白旗を掲げて投降しようとしても、連合軍兵士は容赦なく発砲した。
 敗者の降伏を決めるのは、敗者ではなく、勝者である。
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 白人至上主義者による、日本人兵捕虜へのリンチ、拷問、殺害事件。
 日本人兵士には、国際法に守られた人権はなかった。
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 人見知りの強い恥ずかしがり屋の日本人は、外国人を好奇心を持って眺めても、興味を持って近付く事はせず、話しかけられたらどうしようと恐怖して遠ざかった。」
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 捕虜となって生き残る可能性があったのは、
 連合軍の捕虜収容所では、英語やフランス語が話せる者。
 ロシア軍の捕虜収容所では、ロシア語を話せる者。
 中国の捕虜収容所では、中国語を話せる者。
 日本語のみしか話せない者は、生き残れる可能性が少なかった。
 日本語は、日本内では通用しても、国際社会では通用しなかった。
 日本語には、生きる保証にはならなかった。
 世界で生き残りたかったら、日本語を捨てて英語を身に付ける必要があった。
 日本語の「言霊」は無意味で、世界には理解されないし、通用しない。
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 明治新政府は、前近代的封建主義体制のサムライ国家を国民国家として近代化する為に、欧米諸国から必要な学者や専門家を顧問として高給で招聘した。
 1867年から1890年までに、総計2,690人。イギリス人、1,127人。アメリカ人、414人。フランス人、333人。ドイツ人、215人。オランダ人、99人。
 欧米人の指導に従い、東アジア基準(中華儒教価値観)を捨て、世界基準(西欧キリスト教価値観)を新たな国政の指標として導入した。
 日本は、外敵の侵略から万世一系男系天皇(直系長子相続)と神国日本を守る為に、国民に犠牲を強いる富国強兵政策を推し進めた。
 この富国強兵政策が、後の日本軍国主義につながった。
 日本が最も恐れたのは、ロシア帝国であった。
 ロシア帝国は、千島列島から南下して、北方領土蝦夷(北海道)を領土化しようとしていた。
 日本の国防戦略は、対露戦略で、その付属として対中・対朝鮮戦略があった。
 資源のない島国の小国日本は、戦力不足を国際世論で補う為に、人一倍、戦時国際公法の遵守に心がけた。
 創建当時の日本軍は、不法行為を行う犯罪集団に近い東アジア諸国の軍隊(兵匪)ではなく、尊敬される規律のとれた近代的軍隊にするべく欧米の軍律や軍紀を取り入れた。
 陸軍はドイツ陸軍に学び、海軍はイギリス海軍を手本とした。
 国外に派兵する時は必ず法律家を同行させ、日本軍に違法行為がない様に細心の注意を払っていた。
 日本軍が如何に戦時国際法を守り正々堂々と戦っているかを見せる為に、日清戦争日露戦争には欧米諸国からの観戦武官や報道記者を軍司令部を招き、作戦内容や部隊移動など軍事機密以外は情報を公開していた。
 他人の目を病的に気にし、他人の評価を臆病なほど意識する日本人は、悪評が立ち後ろ指を指される事を恐れ、戦争の仕方や敵軍捕虜の扱いに細心の配慮をつかっていた。
 日本軍は、清国兵にしろ、ロシア兵にしろ、捕虜となった敵兵を差別せず収容所に入れ、手厚く保護し、傷の手当てをして健康を回復させてから本国に帰した。
 皇族は、天皇の御稜威・大御心から国際赤十字活動に積極的に参加して、日本軍兵士はもとより敵軍兵士をも分け隔てなく平等に接して治療に協力した。
 敵兵捕虜を虐待する事は、皇室への不敬・不忠に当たる行為とされた。
 大和魂とは、「弱きを助け、強きを挫く」事であって、中国や朝鮮の様に「水に落ちた犬は打ち殺す」事ではなかった。
 武士道において、武士の情けとして、傷ついて戦う意志のない者は敵は助けた。
 明治時代の日本軍は、人間不信の中国軍や欧米諸国軍隊の大陸軍隊とは違って、占領地での強姦や略奪行為は行わず、サムライとして振る舞っていた。
 第一次世界大戦時。ドイツ軍兵士は、捕虜になるのなら、戦時国際法を厳格に遵守する日本軍の捕虜になる事を希望した。
 大正時代の日本軍も、最高の軍隊として称賛を受けていた。
 対して。中国軍は、規律のない盗賊まがいのならず者集団と軽蔑されていた。
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 勝利した大陸国の軍隊は、数日間、戦勝の褒美として将兵に占領地での不法行為を許す伝統があった。
 負けた国は、敗者の定めとして占領軍兵士の暴力行為を受け入れた。
 戦時国際法は、戦勝国不法行為を禁止していたが、守られた例は少ない。
 戦勝国は何をしても許されるのが、世界常識であった。
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 白人に植民地されたアジア・アフリカ地域の現地人は、自分達の言葉も文化も宗教も捨て、白人の言葉を覚え、白人の文化を身に付け、キリスト教に改宗した。
 日本人が白人の植民地になっていれば、否応もなく、英語を覚え、白人の文化を身に付け、キリスト教に改宗していた。
 そうすれば、苦労して英語を覚える必要がなかった。
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 日清戦争当時。
 清国兵(中国人)は、日本人を教養なき野蛮人と見下し、人間以下に扱い、狂喜して日本人を嬲り殺しにした。
 秋山好古の副官は、清国軍が捕らえた全ての日本兵士を残虐な方法で虐殺していると報告した。
 日本人兵士捕虜に、同じ日本人兵士捕虜の殺害を強要し、殺害できない者をいたぶりながらユックリと惨殺した。
 両耳と鼻を削ぎ、顔の皮を剥ぎ、男根を切り落として口に咥えさせ、地獄の全ての責め苦を味合わせ、瀕死の状態となって動けなくなった所で、切れにくい青竜刀でユックリと首を引き斬ったと。
 山縣有朋軍司令官は,日本軍兵士に中国軍の捕虜になる事なく自決する様に強要し、復讐に駆られて中国人兵士を殺害せず捕虜として保護し手当する様に命じた。
 「中国人は、古きより極めて残忍の性を有す。生禽に遭わば死に勝る苦痛を受け、ついには野蛮惨毒の所為をもって殺害せらるるは必然なり」
 明治期の日本軍は、敵が匪賊や馬賊の様に如何なる残虐行為をしようとも、サムライとして正々堂々と戦い、傷ついて動けず戦う意志のない敵兵は武士の情けとして助けて治療する事を本分とした。
 「御上の御意向」に弱い百姓兵は、軍司令官の命令を忠実に遂行した。
 だが。儒教差別意識の強い中国軍兵士は、顔に微笑みを浮かべて愛想を振りまき親しげに近づいても、本心は別の処にあった。
 中国人が敵に対して容赦なく血の気もひく様な残虐行為に及ぶ事は、平安時代菅原道真頃から知れ渡っていた。
 1941年に発表された『戦陣訓』は、戦時国際法を無視して非人道的残虐行為を行う中国軍との戦いを想定したものであり、国際ルールを守る欧米軍との戦争を想定していなかった。
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 1929(昭和4)年 ジュネーブ条約『捕虜の待遇に関する条約』
 「第二条 捕虜は常に博愛の心を以て取り扱うべき、暴行、侮辱及び公衆の好奇心に対して特に保護せらるべし、捕虜に対する報復手段は禁止す」
 日本政府は、国際協調外交方針から同条約に調印したが、軍部の捕虜になる事を禁止する軍律に配慮して批准しなかった。
 ただし。口頭で、同条約の趣旨は尊重すると述べた。
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 日本の皇室は、軍国日本の国際的地位を上げるべく、国際赤十字の最優秀職員として精力的に活動をし、他国の王家よりも多額の献金を行っていた。
 皇室は、天皇の大御心・御稜威から、敵国兵士捕虜の面倒は、率先して見ていた。
 敵国兵士捕虜を虐待する事は、皇室の人道的活動に対する不忠であった。
 皇軍が、天皇と皇室に忠誠を誓うならば、敵国兵士捕虜を保護する事は使命であった。
 もし、昭和期の軍部が連合軍兵士捕虜を虐待して殺害sていたのであれば、昭和天皇と軍部は敵対関係にあった事になる。
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 1939年9月 国際司法機関は、中国における日本軍の残虐行為に対する懲罰として、日本がハーグ条約及びジュネーブ条約など人権に関する条約を批准していようとも、日本人には適用しないと決めた。
 国際連盟は、中国の救済として日本への経済制裁を決定した手前、国際司法機関が決めた人種差別的判定を黙認した。
 キリスト教系国際人権擁護団体も、「日本人はアジア諸民族を差別し大虐殺している」として、国際司法機関の決定を正当と受けいれ、日本軍と戦う中国を支援した。
 抗日中国軍は、日本軍兵士捕虜に対して天皇と祖国を裏切って味方になる様に説得したが、味方になる事を拒否した日本人捕虜は陰惨な手法で猟奇的に虐殺していた。
 日本共産党は、裏切りを誓った日本人捕虜に対して、マルクス主義で洗脳し、天皇制度打倒の革命戦士として活用した。
 朝鮮独立組織は、日本軍内の朝鮮人兵士に武器を持って脱走し、独立闘争に参加する様に勧誘していた。
 自意識の弱い日本人兵士捕虜は、敵の中で一人になると、恐怖のあまりに敵方に寝返った。
 サムライ日本人は、主君を裏切る事を恥として自決した。
 百姓兵士は、命を惜しんで強者の指示に従った。
 没個性の日本人は、御上の御意向に弱く、一人になると気弱になり強者に土下座をしてへつらった。
 明治時代から。日本人兵士は捕虜になるや、敵に尋問されるや知っている事は包み隠さず話し、敵の機嫌を取るべく愛想を振りまいていた。
 気弱な日本人は、嘘がつけず、全てを自白する癖があった。
 サムライ日本軍は、ロシアの大軍を前にして、百姓日本兵が捕虜になって軍事情報をペラペラと話す事に困惑した。
 日本の将棋は、敵に獲られた駒は敵の戦力として利用され、かっての主君・王将を追い詰めて討ち取った。
 ヨーロッパのチェスは、敵に獲られた駒は戦死したモノとして盤上に再登場しない。
 将棋は裏切りを認めているが、チェスは裏切りを認めていない。
 日本軍は、軍隊内の士気の低下に苦慮していた。
 1941年 東條英機陸相は、日本軍将兵が捕虜になって軍事機密を話し天皇と祖国に銃を向ける事を恐れて、『戦陣訓』を発表した。
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 大元帥昭和天皇は、戦争には反対であったが、国家の存続と民族の安全を守る為の自衛としてやむを得ず戦うのならば、日本男児として、中国の様な卑怯、卑劣な手段をとらず正々堂々と戦う事を望んだ。
 この決意ゆえに、国家元首昭和天皇は凶悪・極悪な犯罪者という烙印を押された。
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 1941年12月24日 アメリカやイギリスは、日本軍の快進撃で自国兵士の投降が増えた為に、日本政府に対して自国軍兵士捕虜の人権的保護を要請した。
 連合国軍は、捕虜収容所に於いて同じ待遇を与える事を要求した。
 軍部は、国際法学者を各派遣軍司令部に派遣し、それなりの手当を行っている自信があるだけに、自分に都合の良い条件をごり押ししてくる身勝手な言い分に激怒して反対した。
 東郷外相は、昭和天皇の名誉と戦争の大義と国家の体面からジュネーブ条約及び赤十字条約(1864年 ジュネーブ条約)を遵守する事を、連合国にハッキリと伝えるべきであると主張した。
 東條首相は、食糧などの物資が不足気味な日本軍では、物資が有り余っている連合国の捕虜収容所と同じ待遇は与える事は不可能であるとして、なるべき非人道的な収容所にしない事を約束する為に、曖昧な表現として「準用」すると回答した。
 連合国側は、「準用」を「遵守」と解釈し、連合国の捕虜収容所と同じ待遇が得られるものと安堵した。
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 追い詰められた日本軍は、補給が受けられず乏しい食糧の中で戦い、戦死よりも餓死や病死を多く出していた。
 連合国兵士捕虜収容所では、日本軍からの食糧配給が滞った為に飢餓状態に追い込まれていた。
 捕虜収容所を管理する日本軍兵士は、捕虜の中から餓死者を出さない為に、和食風に食べらそうな植物を周辺地域で採取し調理して、強制的に食べさせた。
 パン肉食の欧米人は、山野菜の日本食に慣れていない為に胃腸を壊し、栄養失調で体力が衰え、病死する者が続出した。
 ここに、日本軍の捕虜虐待というの戦争犯罪が発生し、多くの日本人兵士がB級C級戦犯として処刑された。
 全ての日本人が100%の聖人君主ではなく、何時死ぬかもわからない状況下の日本軍兵士が善人であったわけではない。
 国際司法は、軍国日本をヒトラーナチス同様に時効なき戦争犯罪者であると裁断した。
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 日本人兵士1,061人は、捕虜虐待の戦犯として処刑された。
 戦争犯罪者として処刑された彼等は、靖国神社の祭神として祀られている。
 現代日本反戦平和市民団体や中国・韓国・北朝鮮などのアジア諸国は、世界平和の為に、捕虜虐待で処刑された戦犯を祀る靖国神社の廃絶を訴えている。
 戦犯を祀る靖国神社を擁護する宗教団体も宗教家も、世界には存在しない。
 日本の宗教観は、ややもすると国際社会で孤立している。
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 だが。国内の某大学医学部で、連合軍兵士捕虜を人体実験で殺害した事実は隠しようがない。
 戦後。解剖に関係した教授や学生や看護婦は、非人道行為で有罪となって処刑された。
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 現代日本にいて、戦前・戦中の非人道的行為の全ての責任は昭和天皇にあったとされている。
 それが、昭和天皇の犯罪である。
 天皇の犯罪ゆえに、最終決定賢者の昭和天皇は有罪とされている。
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 連合軍兵士は、宗教的人種差別から、日本人は人間ではなく「イエロー・モンキー」「害虫」「溝ネズミ」であるからとし、絶対神が創造した聖なる大地から根絶すべきであると確信していた。
 「唯一の良いジャップは、死んだジャップ」
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 ニューヨーク・タイムズ「連合軍の爆撃に晒され、精神異常の状態で彷徨いながら逃げる日本兵の掃討する任務は、百戦錬磨の海兵隊員でさえ吐き気を催すものだった」
 ジョン・W・ダワー「『(撃墜された航空機からパラシュートで)降下中に攻撃を受けたジャップは数人であった。しかし20ミリ砲で海上から撃たれた彼らが着水した時には一片の肉塊にすぎなかった』とある若い水兵が43年後半の日記に記している。撃った者たちは上官に軽くたしなめられたが、同時に射殺の腕を褒められもしたと、日記は綴っている。ともかくもこれは日本側が始めた事だ、と水兵は付け加えていた。
 ブーゲンビルで投降しようとして殺害された負傷者の場合のように、日本兵殺害の中には上官の命令下で行われたもの、あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。たとえば日本の輸送船を沈め、その後1時間以上かけて何百、何千という生き残りの日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦艦長は、この虐殺をその公式報告書に記録し、しかも上官から公の賛辞を与えられている。……
 連合国側の報道機関は軍部の検閲規則を忠実に順守……
 アメリカ軍は、捕虜を取らないという方針のもとに日本軍の捕虜を多く虐殺した」
 リンドバーグ「敵を悉く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は『一人も捕虜にされなかった』という。……
 武器も食糧もなく、降伏しようとする日本兵を容赦なく射殺する。我々は果たして本当に文明国家を代表しているのだろうか」
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 日本語という言霊を大事にし外国語を話せない日本人には、生きる資格がなかった。
 キリスト教に改宗していない日本人には、絶対神の隣人愛からの恩寵・恵みは得られず、生きる価値がなかった。
 キリスト教会は、改宗したユダヤ人は絶対神の僕として助けたが、洗礼を拒んだユダヤ教徒ユダヤ人は異教徒であるとして見捨てた。
 キリスト教は、絶対神への信仰から如何なる異教の神も絶対に認めず、日本の自然神や祖先神・氏神の存在を許さない。
 自然神や祖先神・氏神といった八百万の神々に正統な神格を与えているのは、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)である。
 全ての八百万の神々を祀る事ができるのは、祭祀王・万世一系男系天皇(直系長子相続)のみである。
 キリスト教徒は、万世一系男系天皇(直系長子相続)の神格を否定する。
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 『ルーズベルト秘録』「リンドバーグはこのほか、捕虜を定期的に飛行機から突き落としながら『日本兵が玉砕した』と報告していたオーストラリア兵の集団行為を飛行士の目撃談として紹介した後『戦争中のことであり、日本軍の残虐性に対する復讐だったのどろう』と説明している」  
 J・グレン・グレー(アメリカ軍の支配下にあった島で、仲間とはぐれた日本兵を一人放ち、身の安全を求めて狂った様に逃げ回っている日本兵を標的として楽しんだという話をした)「隊の兵士達は、日本兵の様子の滑稽さにあまり笑いすぎて、その不幸な男に的をしぼる事ができなかったくらいだった。ついに弾が命中すると、この一件は小隊全体の雰囲気を大いに盛り上げ、それから数日間は、それを肴にした話題や冗談が続いた。
 復員兵はこの話を学生達にしながら、その敵軍兵士は動物に近い存在であった事を強調した。
 アメリカ軍兵士の誰一人として、この兵士が恐れや願望という人間的感情を持っているかも知れないとは思いもよらなかったという」
 カニンガム大佐「われわれ軍人は遊び半分ではない。日曜学校のピクニックではないのだ。戦争をしているのであり、それも国の総力を挙げた戦争をしている。アメリカ国民の生命を救い、苦難に満ちた戦争を早く終わらせ、永続的な平和をもたらす為に戦っている。何処にいようと、男だろうと女だろうと、できるだけ多数の敵を、できるだけ短期間に見つけ出して殺すのが、我々の意図だ。我々の立場からは、日本には民間人はいない」
 タイム誌「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間である事を示す様な点は……どこにもない」
 ライフ誌「アメリカ人は、(戦争でドイツ人を殺す為には)ドイツ人を憎む事を学ばなければならないが、……ジャップに対しては憎しみが自然に湧いてくる─これはかって、インディアン達と戦った時と同様に自然なものなのだ」
 ウルリック・ストラウス「」日本軍の捕虜に対する軽侮の念は、アメリカをはじめとする連合国軍の兵士の投降を受け入れがたいものにした。その結果、太平洋戦域の戦闘は救いのない泥沼と化した。それゆえに、欧米人は対日戦を対ナチス戦よりこ野蛮で無慈悲であると見なす様になった」
 デニス・ウォーナー(ブーゲンビル島で、投降しようとした日本の負傷兵達をオーストラリア司令官が射殺する様に命令した)「『しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます』と、日本軍の大規模攻勢が失敗に終わった後の戦場で、大佐が少将に反論した。『私の言う事が聞こえただろう』と、両手を挙げた日本兵からわずか数ヤード離れただけの少将は答えた。『捕虜はいらない、全員射殺したまえ』、彼等は撃たれた」
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 迅速な進撃で勝利を得る為に、「日本軍兵士捕虜はなるべく取らない」、と言う事は連合軍では暗黙の了解事項となっていた。
 その意味に於いて、日本軍の「玉砕」とは便利な言葉であった。
 連合国軍には、日本軍とは違って、或り余るほどの大量な弾薬とガソリンがあった。
 極東国際軍事裁判所(東京裁判)は、日本軍の捕虜虐待は戦争犯罪と認定し、連合軍による捕虜虐待は「報復の権利」で無罪とした。
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 連合国軍は、重傷の日本人兵士を助けて治療を施す事なく、生ゴミや汚物と一緒に穴に放り込んで埋めた。
 連合国兵士は、日本人遺体を煮詰めて頭蓋骨を取り出して記念にし、その他の骨をペーパーナイフやペンホルダーにした。
 さらに、死亡した日本人兵士はおろか負傷して動けない日本人兵士の口の中から、頬を切り開いて金歯をえぐり出して奪った。
 戦地の連合軍国兵士は、戦死した日本人兵士から奪った頭皮や耳を記念として母国の家族に送った。
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 イギリス・インド連合軍は、インパール作戦に失敗して敗走するた日本軍を追撃する途中で、数多くの日本人兵士の屍体と共に動けない日本人兵士を発見した。
 動けない日本人兵士は、負傷しているか、病気か、飢えていた。
 イギリス軍は、勝利を優先し、動けない日本軍兵士全て捕虜とする事は進撃に邪魔になるとして、インド人兵士に処分を命じた。
 インド人兵士は、主人であるイギリス軍の命令に従って、動けず英語が話せない日本人兵士を射殺するかガソリンで焼き殺した。
 英語が話せる日本人兵士のみを、軍事情報を聞き出す為に捕虜として収容所に送った。
 英語を話せる日本人兵士は、それ程多くないなかった。
 日本軍の敗走の後には、夥しい日本軍兵士の屍体が残されていたという。
 その道は、白骨街道と呼ばれた。
 捕虜収容所に送られた日本人兵士で、協力的な日本人兵士は優遇され、英語を話せる日本人兵士は厚遇された。
 英語が話せない者や反抗的な者は、拷問に近い取り調べを受け、不慮の死を遂げた。
 敵に媚びへつらう日本人兵士捕虜は、従軍神父から英語を学び、必要とあれば洗礼を受けてキリスト教徒になった。
 誰しも、生きる為には必死で、なりふり構わず、見栄も外聞もなかった。
 敗者は、助かる為に、惨めに勝者の機嫌を取る事に躍起となった。
 日本人兵士捕虜は、人間以下の犬か牛や豚や山羊などの家畜、サルやウサギやキツネなどの狩猟用獣として扱われていた。
 いずれにせよ、有色人種は白人にとって人ではなく動物に過ぎなかった。
 南アフリカやオーストラリアなどで欧米植民地での、非白人原住民の悲惨な末路を見れば明らかであった。
 伊藤桂一「グルカ兵が担架の列の上に、容器で水をかけはじめた。灼きつく暑熱である。病者のために、水を掛けてくれているのだ、と、ほっとした思いでいると、次の瞬間、担架が火を発して燃えはじめ、あたりが炎の波となった。かれらが担架に掛けたのは、川の水ではなくて、トラックに積んであったガソリンだったのだ。まさに地獄の様相である」「なんというむごいことをする。お前ら、人間か」(『遙かなるインパール』)
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 1943年2月 ニュージーランド・フェザーストン収容所の叛乱。
 3月13日 東條内閣は、ニュージーランド政府に対して、日本軍人捕虜への「人道に対する許しがたい侵害」があったと厳しく抗議した。
 ニュージーランド政府は、ジュネーブ条約の規則に従って収容しているのに、同条約に無知な日本人兵士捕虜が暴動を起こした為に、暴動鎮圧の為に威嚇射撃を行ったと正当防衛を主張した。
 連合軍側の主張は、ジュネーブ条約の規則について知識のない日本軍兵士捕虜に責任があり、日本人兵士捕虜における死傷者は暴徒であったと反論した。
 日本側は、連合軍が無防備な日本人兵士捕虜への不当行為を続けるなら、日本軍も報復措置を取る用意があると警告した。
 オーストラリア軍の某部隊は、数万人の日本軍兵士捕虜を別の収容所に護送中に意図的に死亡させ、辿り着いた時には数百人に激減していたという。
 連合軍兵士による、日本軍兵士捕虜への虐待は日常的に行われ、尋問と称して拷問をかけて死亡させていた。
 連合国軍の捕虜収容所は、不慮の事故を、事故死か病死として報告していた。
 白人キリスト教徒は、宗教的人種差別から、日本人を薄汚い人間以下の家畜と見なし、活きようが死のうがお構いなしで残虐な復讐を行った。
 多くの日本人兵士捕虜は、生き残る為に奴隷の如く従い、人間性を自ら否定し家畜の様に働いた。
 中国共産党の支配する捕虜収容所やソ連のシベリア強制収容所では、天皇制を否定し、共産主義を受け入れ、帰国後は日本を共産主義化する事を誓った日本人兵士捕虜が少数いた。だが、その実数は不明であるが、優先的に帰国して反戦平和の市民活動に参加した。
 一部の日本軍兵士捕虜は、負けた敗者として肉体的重労働には耐えたが、名誉を傷つかれる人種差別的侮辱に耐えきれず、ジュネーブ条約違反であるとしてハンストやサボタージュを行ってていうこうした。
 収容所によっては、暴動や叛乱を起こしていた。
 1943年 オーストラリア・カウラ収容所の叛乱。
 1944年 ニューカレドニア・パイタ収容所叛乱未遂。
 アメリカ・ウィスコンシン州マッコイ収容所暴動。
 1945年 英領インド・ビカネール収容所暴動。
 連合軍は、容赦なく発砲して叛乱や暴動を鎮圧し、日本軍兵士捕虜が求める待遇改善要求は認めなかった。
 イギリス軍は、自国軍兵士への虐待行為に対する報復として、日本人兵士捕虜に粗末な食糧を食べさせ、奴隷的重労働を強要して数千人を死亡させた。
 オーストラリア軍は、残虐な野蛮人である日本人兵士捕虜はジュネーブ条約の保護対象外と認定して、非人道的虐待をエスカレートさせ、多くの日本人兵士捕虜を死に追いやった。
 アーロン収容所の様に暴動が起きれば、軍隊を派遣して鎮圧し、暴動の首謀者を軍法会議で処分した。
   ・   ・   ・   
 オーストリア軍は、日本軍との戦争を最優先として、東部ニューギニアにある日本人兵士捕虜収容所への食料や医薬品の搬送を最小限に押さえた。
 戦争の勝利は、全てにおいて優先される。
 捕虜収容所に閉じ込められていた約1万1,000人の日本人兵士捕虜は、飢餓と病気に苦しめられた。
 生きて帰国できたのは、約8,000人で残りの3,000人は死亡した。
 まともな食事を与えられず栄養失調にあった日本人兵士捕虜を助けたのは、原住民であった。
 原住民は、餓死寸前であった日本人兵士捕虜に芋などの食べ物を運び込んで助けた。
 日本人兵士捕虜と原住民の交流やオーストラリア軍など連合軍による日本人兵士捕虜に対する虐待は、歴史の表から削除された。
   ・   ・   ・   
 日本人兵士捕虜には、如何なる人権も認められてはいなかった。
 国際法は、白人キリスト教徒を守る法律であった。
   ・   ・   ・   
 中国戦線では、日本人兵士捕虜は抗日中国軍の味方にならなければ、伝統的陰惨な手法で処刑された。
 抗日中国軍に味方する事を誓った日本人兵士捕虜は、野坂参三ら亡命していた日本共産党員から、天皇打倒の革命戦士への洗脳教育が施された。
 捕虜となった日本人兵士は、個性がなく、自己の考えを持っていなかった為に、共産主義者によっていとも簡単に洗脳された。
 日本兵は、精神力が弱かった為に、捕虜になると脆かった。
 日本共産党は、さらに多くの反天皇の革命闘士を獲得する為に日本人兵士捕虜の洗脳教育を行った。
 中国共産党は、表向きソ連と友好関係を維持する軍国日本と敵対しなかったが、裏では日本を破壊する為に日本共産党に協力していた。
 中国共産党毛沢東は、日本共産主義者の反天皇洗脳教育を黙認していた。
 国民党の蒋介石は、日本軍兵士捕虜の陰惨な手口による猟奇的処刑を黙認していた。
 侵略者である日本軍兵士は、中国の何処に行っても安全な処はなく、絶えず民間人に変装していた便衣隊(ゲリラ)に命を狙われていた。
 中国は、如何なる国際法も守る気は微塵もなく、国際的ルールも存在しなかった。
 中国では、日本軍兵士を殺害するのであれば、如何なる非人道的残虐な手段をとっても合法的と許されていた。
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 チャールズ・リンドバーグ 『リンドバーグ第二次大戦日記』
 「1944年6月26日(月曜日) ……(日本人兵士を)2,000人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった100か200だった」
 「6月28日(水曜日) わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。日本兵の死体から略奪したり、略奪の最中に死者を〝野郎〟呼ばわりしたりする事も意に介せぬ。『なかには奴らの歯をもぎ取る兵もいますよ。しかし、大抵は先ず奴らを殺してからそれをやっています』と、将校の一人が言い訳がましくいった」
 「7月13日(木曜日) 我が軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺する事しか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、我々は文明の為に戦っているのだと主張している。所が、南太平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、我々には文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなる様に思う」
 「7月21日(金曜日) ……彼ら(連合軍兵士)の欲求は日本兵を無慈悲に、酷たらしく皆殺しにする事なのだ。……
 オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えは全くない。……
 我々には勇敢な行為であっても、彼らがそれを示すと狂信的な行為という事になる。……」
 ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、……ブルドーザーで片付けた後は墓標も立てずに、こう言うのである。『これが黄色い奴らをば始末するたった一つの手さ』と」
 「8月11日(金曜日) 将校達と共に過ごす。我々は多くの問題を話題にした。『……将校達は尋問する為に捕虜を欲しがる。ところが、捕虜一名に付きシドニーへ二週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。……懸賞を取り消すと、捕虜は一人も手に入らなくなる。……オーストラリア軍の連中はもっと酷い。……捕虜を機上から山中に突き落とし……』」
 「ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人になしたと同じ様な事を、我々は太平洋でも日本人に行ってきたのである」
 ニューギニア島(パプア・ニューギニア)に進攻した連合軍は、6割がオーストラリア軍で4割がアメリカ軍であった。
 ニューギニアの日本軍は、16万人以上いたが収容所に収容されたのは約1万人のみであった。
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 日本人兵士捕虜には、人権権は認められず、暴行や拷問や虐待死があっても問題とはされなかった。
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 アメリカ軍は、日本本土に近づくにつれ、戦後の日本占領を見据えて日本人兵士捕虜の保護を命じた。
 日本占領に協力する事を誓った外国語を話せる高学歴の日本人兵士捕虜達を、アメリカ本土の三ヵ所に設立した「再教育センター」に送った。
 再教育を受ける優秀な日本人兵士捕虜達は、古代からの祖先を神とする氏神信仰としての天皇崇拝を捨て、キリスト教礼拝への参加が義務化された。
 そして。軍国主義を消去する為に、キリスト教価値観による自由と民主主義が叩き込まれた。
 中には、人を神と祀る祖先神信仰は邪教であると悟り、キリスト教に改宗し、絶対神の「隣人愛」を日本に広めるべく牧師となった。
 連合国の捕虜収容所で。日本各地への爆撃が激しくなる事を知った日本人兵士捕虜の中か、自分の家族を戦火から守る為に、戦争終結を促す反戦ビラ作成に協力する者が出た。
 アメリカ軍は、「降伏」を呼びかける平和のビラを日本全国にばらまいた。
 日本の憲兵隊や警察当局は、敵の「平和のビラ」を新たなプロパガンダ戦と警戒し、ビラを持つ事を禁止して没収した。
 隣組は、ビラを隠匿して内容を口にする者を非国民として、当局に告発した。
 軍部は、日本軍兵士捕虜が敵に協力している事を隠す為に、日本軍は勇敢に戦っているという嘘の大本営発表を行った。
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 赤穂高等女学校二年生の女学生の日記「2月8日 日本人は空襲されて何もなくなってしまっても、また命がなくなってものこるものがある。それは大義である。アメリカ人は贅沢する為に戦争をしている。後は日本が勝利である。
 3月8日 口先だけでは神風がふかない。10人になっても勝つと信じ、持ちこたえていると必ず神風が吹くのである。私はもっともっと精神を養い、アメリカの女学生に負けないよう努力しよう」(『県史「兵庫県の歴史」』P.355 山川出版社
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 モンテンルパ収容所の日本人戦犯108人のうち約半数は死刑囚で、多くが敗戦時に捕らえられたが、無実の者もいたといわれている。
 日本人戦犯裁判は、その多くが証拠不十分であり、復讐目的のリンチ裁判であったと言われている。
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 鈴木孝夫「友人に松原秀一という中世フランス文学の大家がいる。……
 松原氏が、ある時フランス人の飼犬の扱いについて、こんな話をしてくれました。
 フランスを訪れる多くの日本人から、よく『どうしてフランスの犬はあんなに行儀がいいのですか、家の中でやかましく吠えることもなく、まるで犬の種類が違うみたいで、一体どんな躾、育て方をしているのでしょうか』と聞かれるというのです。
 松原氏の説明は私の想像もしなかった驚くべきものでした。フランスでは仔犬が成長する過程で、人に決して迷惑をかけないよう、主人の言うことには絶対に従うように躾けるが、どうしても言うことをきかない呑み込みの悪い犬は、どんどん淘汰する。つまい殺してしまうというのです。その結果、飼われている犬は行儀のいい、言うことをきく犬だけが残っているのですと。……
 イギリスでも事情はほとんど同じなんです。イギリス人は犬に限らず家畜とは、そもそも人間に何かしらの利益便宜を提供するために飼われているものだから、間違っても人間に迷惑をかけることがあってはならないものと考えています」(『日本人はなぜ日本を愛せないのか』P.17・18)
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 ・ジョン・w・ダワー   … 『人種偏見』
 ・クリストファー・ソーン … 『太平洋戦争とは何であったのか』       
 ・リンドバーグ      … 『第二次大戦日記』
 ・ルース・ベネディクト  … 『菊と刀
 ・会田雄次        … 『アーロン収容所』
 ・岩川隆         … 『孤島の土となるもの』
 ・佐藤亮一        … 『北京収容所』
 ・ニューヨーク・タイムズ
 ・ワシントン・ポスト 
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 第二次大戦末期。アメリカ軍は、各戦場でアメリカ兵による現地女性への強姦事件を警戒して、前線兵士の為に軍隊管理の慰安婦所を開設した。
 エリア・カザンアメリカ陸軍がタクロバン郊外に売春宿を開設していると聞き、私達は連れ立って様子を見に行った。そこはMPが管理していた。女性を買おうとする兵士達は、食べ物を買うのと同じ様に行列していた。その長い列は6軒の小さな小屋へと続いていた。料金は10ペソ、約5ドルだった。私の見る所、軍は利益を上げている様だった。……『ガールズオンパレード』で熱くなった兵士達はあたふたと小屋から出て行った。中にいた時間は、平均45分だったろう。彼等は、小屋から出ると近くの軍の性病予防センターに直行した」 
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 ソ連軍は、日本軍人捕虜約60万人をシベリアの最悪の環境下にある強制収容所に送り、栄養価の乏しい食べ物を与え奴隷的重労働を強要して約6万人を殺害した。
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 連合国が行った非人道的大虐殺は、戦争犯罪とはされなかった。
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善意の架け橋―ポーランド魂とやまと心

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