💖10)─1─青島要塞攻防戦。ドイツ兵士の坂東俘虜収容所。丸亀・松山・久留米。「バルトの楽園」。~No.42 

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 日本軍人は、勇敢に戦う敵には敬意を払い、不運に捕虜になった敵兵を保護し手厚くもてなした。
 日本皇室と日本赤十字社は、戦時国際法にしたがい、負傷した兵士は日本兵士もドイツ軍兵士も関係なく平等に治療した。
 日本軍は、天皇・皇室への忠誠心から、戦時国際法に従ってドイツ軍兵士を捕虜収容所に収容した。
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 2017年12月7日号 週刊新潮「国際問題 鳥の目 虫の目 魚の目 宮家邦彦
 ドイツの技術と久留米の地政学
 久留米といえば昔は『三しゃ』で有名だった。医者、芸者、人力車。戦前は陸軍で栄えたこの街だが、今は芸者も人力車も見かけない。なお病院や診療所が多いのは、有名な久留米大医学部があるせいだろうか。
 久留米は知る人ぞ知るゴムの街でもある。有名な月星化成(現・ムーンスター)、日本足袋(現・アサヒシューズ)、ブリジストンはここで生まれた。元来は筑後川の水と肥沃な大地に恵まれた豊かな商都だが、近代以降の発展には意外にもドイツが関わっていた。
 大正3(1914)年、日本は日英同盟に基づきドイツに宣戦布告し、同国の拠点・青島要塞を攻略。4,800人近いドイツ兵捕虜を日本に送った。捕虜収容所が久留米にも作られ、最高1,300人余が収容されていたという。捕虜収容所と聞くと悲惨な物語を想像しがちだが、当時は捕虜の人道的扱いを定めたハーグ条約を忠実に守っていた。
 ドイツ人たちは日本にいた5年余を音楽、スポーツ、各種学習などをして過ごしたらしい。1919年12月に当時の久留米高等女学校で彼らが演奏したベートーヴェンの『第九』は、日本で一般市民が初めて聞いた第九だという。高い技術を持つエンジニアも多く、はからずもドイツの技術は当時のゴム産業の発展に大いに貢献したのである。
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 2018年9月24日16:30 産経ニュース「収容所でアジア初の「第九」演奏 ドイツ軍捕虜人道的に遇した収容所長 松江豊寿の顕彰碑序幕 故郷会津
 俘虜収容所長時代の松江豊寿(鳴門市ドイツ館提供)
 第1次世界大戦時、徳島県の収容所所長として、ドイツ軍捕虜を人道的に遇した福島県会津若松市出身の陸軍軍人、松江豊寿(とよひさ、1872〜1956)。交流の中でアジア初となる「第九」の演奏がドイツ人により行われるなど、その人道的処遇に改めて光が当たる中、松江を顕彰する記念碑が郷里の会津風雅堂で除幕された。記念碑には「あなたの博愛、寛容、仁慈の精神を忘れない」という捕虜の言葉が刻まれた。(内田優作、写真も)
 会津藩士の長男として生まれた松江は陸軍に進み、日清・日露戦争にも従軍、第1次世界大戦が始まった1914年12月、収容所長となる。大戦下、日英連合軍によるドイツ租借地・青島攻略に伴って生じたドイツ軍捕虜約1千人を、同年から5年以上にわたって収容所に迎えた。
 他の収容所で捕虜への暴力もあった中、松江は捕虜に外出や住民との交流を許すなど自由な生活を認めた。捕虜が住民に養鶏や養豚、野菜栽培から建築・設計まで教えたほか、軍楽隊員らには音楽活動も認め、1918年には捕虜によるオーケストラがアジアで初めてベートーベンの交響曲「第九」を演奏した。
 捕虜への人道的な姿勢は当時、国際的にも高く評価されたが、日本国内では長く埋もれたエピソードだった。捕虜は囚人ではなく祖国のために戦った戦士である−。松江の胸の奥には、義を貫いて戦いながら賊軍の汚名を着せられた会津藩士の悲哀が、あったといわれる。その姿は平成18年には俳優の松平健さんが松江を演じ、『バルトの楽園』として映画化もされた。 
 記念碑は約2メートル。碑文には、作家の中村彰彦さんが松江を描いた作品「二つの山河」から採った捕虜の言葉が刻まれた。
 「あなたがこれまでに示された私たちに対する博愛と、寛容と、仁慈の精神を私たちは決して忘れない」
 今年は「第九」初演から100周年を迎え、収容所が置かれた徳島県鳴門市に6月、松江の銅像が設置されるなど、再評価の機運が高まっている。福島においても「松江の事績が出身地の会津若松でなかなか知られていない」として、昨年秋から地元政財界を中心に記念碑を設置する取り組みが始まり、クラウドファンディングなどで約600万円の寄付金が寄せられ、22日の除幕に至った。
 少将として退役した松江は1922年、若松市長として郷里に戻り、晩年は東京都狛江市で過ごした。除幕式には、孫の行彦さん(72)ら松江の親族も参列した。晩年の松江を狛江市にたびたび訪ねたという行彦さんは、記念碑を前に、「軍人らしく、いつも背筋を伸ばして凛(りん)としていた」と面影を振り返った。「敗者の痛みへの理解と人への敬意、それに基づいて収容所を運営する力があったのだと思う。その姿勢は今にも通じる」と話した。」
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 ウィキペディア 
 板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)は、第一次世界大戦期、日本の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)に開かれた俘虜収容所。ドイツの租借地であった青島で、日本軍の捕虜となったドイツ兵4,715名のうち、約1,0000名を1917年から1920年まで収容した。1917年に建てられ、約2年10か月間使用された。」

 概要
 1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1,000名の捕虜が収容された。収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後同大佐)。松江は捕虜らの自主活動を奨励した。今日に至るまで日本で最も有名な俘虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとして知られている。板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与した。
 板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場も有し、農園では野菜を栽培。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている(現在では保存のため通行は不可)。文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。このエピソードは「バルトの楽園」として2006年映画化された。

 第一次世界大戦期のドイツ人俘虜収容所
 捕虜収容の経緯
 1914年、第一次世界大戦で日本軍はドイツの極東根拠地・中国の青島を攻略。その結果、約4,700人のドイツ兵が戦争捕虜となった。ドイツ側の降伏後すぐに、東京では政府により対策委員会が設置され、当時の陸軍省内部に保護供与国と赤十字との関係交渉を担当する「俘虜情報局」が開設された。捕虜たちは貨物船で同年の11月中に日本に輸送され、北海道を除く全国各地の都市に点在する収容所に振り分けられた。
 日本側にとって、ドイツ側の降伏は予想以上に早いものであった。そのため想定以上の人数を収容する必要が生じ、当初は捕虜受け入れの態勢が不十分で、捕虜たちは仮設収容所に収められた。それらは劣悪な環境が多く、食料供給も乏しく、略奪や逃亡者も発生。将校クラスの者たちも特別待遇を受けることはなかった。新しい俘虜収容所の準備が整い次第、彼らは段階的に仮設収容所から輸送されていった。

 捕虜の処遇と方針
 陸軍省は、1904年 - 1905年にロシア人捕虜に関する規定を決め、捕虜に対する人道的な扱いを定めた。これは1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定が適用された最初の例。捕虜及び傷者の扱いは、赤十字国際委員会により人道的であると認められた。しかし一方では地域の駐屯軍の下にいる収容所の指揮官にその処遇の最終的なあり方は依存していたため、収容所側の日本人の態度とドイツ人捕虜内の世論は場所によって様々に異なっていた。しかし同時期の他国の捕虜の扱いと比較しても、日本は収容総数がそれ程多くなかったこともあり、総じて日本側の待遇は十分耐えうるもので、関係機関の指導により環境の改善もなされた。
 捕虜の脱走未遂発生のため、1915年以降は戦争俘虜に関する規定が厳格化。また現行の戦時国際法に反し、日本は脱走者に規則上のみならず刑法上でも処罰を課す方針をとったために、再捕捉された捕虜が有罪判決を受けることもあった。脱走計画の黙認、幇助も処罰の対象だったため、収容所の職員たちもまた管理体制を厳しくした。

 俘虜収容所の生活環境
宿舎はたいてい学校、寺院、労働者寮、災害時用の質素な住居、退去後の兵舎で構成されていた。トイレの不足や害虫・ネズミの発生、日本人向けの住居構造ゆえの窮屈さ、寒さ、などが問題点として報告された。将校は単独で別個の家に収容され、一般兵より好待遇を受けた。
 金銭
 戦時中、日本にいたドイツ人民間人らは、経済活動は禁じられていたものの、生活の自由は保障されていた。彼らは捕虜となったドイツ人らに援助委員会を介しての物品、金銭援助を行い、本や楽器のための寄付活動も組織した。
 捕虜たちは階級差はあるものの、日本兵と同様に給料を受領。更には周辺地での労働や、親類、以前の勤務先からの振込みなどを通じてお金を調達した。1917年までドイツ政府は将校に月給とクリスマスボーナスも支給していた。
 収容所内には日本人が経営する売店もあり、彼らは自由に買い物ができた。また収容所を出入りする商人からも同様に買い物ができ、アルコール類も生活必需品と同様に入手可能だった。板東俘虜収容所内にはレストランも完備されていた。

 連絡手段
 手紙や小包は没収、破棄されることもあった。郵便物の発着送は検閲官の管理下にあったが、手続きは大変煩雑であった。発送を許可されたものはわずかで、規則を順守する形で送られるか、もしくは郵送手段が全て禁止されていた。使用言語が日本語・ドイツ語以外のもの(ハンガリー語など)は郵送は認められなかった。

 医療
 医学的処置は不十分だったと言わざるをえないが、病気や怪我などの身体的苦痛と並んで、多くの入院患者は無為な日々と、閉所恐怖症によって引き起こされた精神障害に悩まされた。これは俗にいう“有刺鉄線病”であったといわれている。1918年の秋には世界中でスペインかぜが猛威をふるい、収容所内でも多くの感染者が出た。

 文化活動
 演劇団、人形劇団、オーケストラ、スポーツチームなどが結成された。彼ら捕虜の多くが、もともと民間人の志願兵であったため、技術を生かして様々な自治活動を行った。彼らは収容所内の自治活動に参加。菜園管理や動物の飼育、厨房(酒保)やベーカリー(パン屋)も経営していた。また、捕虜らに向けた授業や講演会が多数行われ、東アジア文化コースと題して日本語や中国語の授業も行われた。
 収容所内に設けられた印刷所では、その他にも、“Die Baracke”(ディ・バラッケ、「兵営」や「兵舎」の意味)と呼ばれる瓦版(ニュースペーパー)の刊行、語学教科書やガイドブック、実用書などが発行された。また全国各地の収容所内や外部施設で、俘虜作品展覧会も行われた。
 音楽に通じた捕虜の何人かは、収容所内外で地元民へ西洋楽器のレッスンを行った。収容所外では徳島市の立木写真館(写真家立木義浩の実家で、NHK朝の連続テレビ小説なっちゃんの写真館」のモデル)で開催された。

 技術指導
 一部の収容所では、捕虜の持つ技能を日本に移植することを目的に、捕虜を日本人の経営する事業所に派遣して指導をおこなわせた。名古屋俘虜収容所の捕虜の指導で製パン技術を学んだ半田の敷島製粉所は、これをもとに敷島製パンへと発展することとなった。1920年に敷島製粉所から敷島製パンが発足する際、元捕虜のハインリヒ・フロインドリーブを技師長として招聘している。また、現在も鳴門市内にパン店『ドイツ軒』が営業している。

 海外視察団の巡察と報告内容
 1916年3月には駐日アメリカ大使は同国の外交官サムナー・ウェルズを派遣し、捕虜らの処遇の調査目的で収容所の視察を実施。詳しい協議が随所で行われた結果、捕虜たちの訴えの多くは正当なものだが、日本側も環境改善に尽力したという結論がだされた。多くの事例に関して、窮屈で不衛生な宿泊環境に関する不満は説得力があり、一部では争点は給食、医療処置、散歩の不足などにも及んだが、状況は収容所によって様々であった。彼は詳細な報告書を作成し、それを元にアメリカ大使が東京であらゆる問題点に関して日本側の代表と協議を重ねた。ウェルズは、同年12月に行った二度目の収容所視察ツアーで、ほぼ全ての収容所に関して環境が改善したことを確認している。1917年2月には、アメリカはドイツとの外交関係を解消し、同国の日本でのドイツとオーストリア・ハンガリー帝国の保護供与国としての任務も終了。スイスがドイツの、スペインがオーストリア・ハンガリー帝国の、新たな保護供与国となった。

 ドイツ人捕虜のその後
 1919年12月末より翌20年1月末にかけて、ヴェルサイユ条約の締結により、捕虜の本国送還が行われた。約170人が日本に残り、収容所で培った技術で生計をたて、肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営んだ。現在よく知られているユーハイム(カール・ユーハイム)やローマイヤ(アウグスト・ローマイヤー)、そしてフロインドリーブなどは日本に残留したドイツ兵によって創立されたものである。約150人は青島や他の中国の都市に、そして約230人はインドネシア(オランダ領東インド)に移住した。
 一方本国ドイツに帰国した者たちは、荒廃し貧困にあえぐ戦後の状況の中、“青島から帰還した英雄”と歓迎された。収容所の中で“極東文化”に興味を持った者が後にドイツで日本学者、中国学者となる事例もあり、日本語や中国語の教科書が出版されドイツで普及するなど、収容所の影響は学問分野にもみられる。
 上記までの記述の経緯からヴェルサイユ条約批准日(1920年1月10日)には板東町内がまるで葬式のような雰囲気になったとのエピソードがある。

 遺構
 板東俘虜収容所跡地のうち、東側の約1/3は現在「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や所内で死去した俘虜の慰霊碑が残されている(残る西側は県営住宅や一般の住宅地になっている)。
 合同慰霊碑は1976年に鳴門市と大阪・神戸ドイツ総領事館大阪市)によって建立された。
 2007年11月から2011年にかけて鳴門市教育委員会による発掘調査が行われ、地中に埋まっていた建物の基礎などが再確認された。2012年4月に調査報告書がまとめられ、収容所が存在した当時に捕虜によって作成された測量図通りに遺構が発見されたと記載された。鳴門市は2014年度に国史跡への指定申請をおこなう予定であったが、発掘成果のとりまとめに時間がかかり、2018年度を目標とすることが2015年2月に報じられた。鳴門市では22015年度に収容所敷地の確定作業を実施し、地権者の同意を確認して申請をおこなうとしている。また、徳島県は板東俘虜収容所関係資料のユネスコ記憶遺産への申請を目指し、2016年度から3年間の予定でプロジェクトを予算化した。
 近傍には元俘虜たちから寄贈された資料を中心に展示した「鳴門市ドイツ館」があり、当時の板東俘虜収容所での捕虜の生活や地元の人々との交流の様子を知ることができる。
8棟あった兵舎(バラッケ)の建物のうち半数は第二次大戦後まで残り、引き揚げ者用の住宅として利用されていたが、1978年までにすべて解体された。これらの建物には解体後、民間に払い下げられたものがあった。長らくその所在は明確ではなかったが、2002年に倉庫や牛舎として再利用されているバラッケが発見され、現在までに同様に再利用された建物は8カ所発見されている。最初に再発見された2つのバラッケ(安藝家バラッケ・柿本家バラッケ)は2004年に国の登録有形文化財に登録された。このうち柿本家バラッケは2006年にドイツ館南側の「道の駅第九の里」に解体・移築され、店舗施設「物産館」として利用されている。
 地元ではその後発見されたものも含めた建物を元の場所へ移築復元することを目標としたNPO法人が2008年10月に結成された。
 映画『バルトの楽園』撮影に際して2005年に板東に建設され、撮影終了後2009年2月まで公開されたロケセット(BANDOロケ村)はドイツ村公園とは別の場所で規模も実際とは異なるが、2010年4月に一部を移築の上で「阿波大正浪漫 バルトの庭」として再公開するにあたり、現存する実際のバラッケ1棟も敷地内に移築・公開された。「阿波大正浪漫バルトの庭」は2015年5月6日限りで閉園したが、施設の今後については未定となっている。


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