🕯143)─1─日本民族の死生観・人生観・宗教観・自然観の最古層は縄文人である。~No.303No.304 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族は、琉球民族アイヌ民族と同様に南方系海洋民縄文人の直系の子孫で、漢族系中国人や朝鮮人・韓国人とは血の繋がりは薄い。
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 2021年8月号 WiLL「目からウロコ『土偶を読む』の破壊力
 中村彰彦 竹倉史人
 ミステリ以上の面白さ
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 中村 随分昔になりますが、1977年、米考古学者のラルフ・S・ソレッキによる『シャニダール洞窟の謎』(蒼樹書房)という本が出版されました。
 イラク北部の考古遺跡であるシャニダール洞窟から3万5000年前から6万5000年前にかけての、ネアンデルタール人の人骨10体(うち4体はほぼ完全な骨格)で発掘されたことを記した本で、とても感動したことを覚えています。彼らの墓を調べると、花粉が採取され、きれいな花が覆われていたのがわかった。つまり、人類史上、最初に献花をしていたことが判明した。こういった話から古代人とは何か、縄文人とは何か、関心と興味を深めていったのです。
 竹倉さんは、縄文時代にどのようにアプローチされたのですか。
 竹倉 世界の神話や儀礼について興味がありました。それを調べていく中で、日本の縄文時代における神話とは何だったんだろうかと疑問に突き当たったのです。ですが、縄文時代は文字がない。だから、その当時、どのような神話が伝承されていたのか、現代人にとってわかる術がありません。さて、どうしたものかと思案したとき、『あ、土偶があるな』と。土偶を調べることで、そこには縄文人の精神世界が何かしら反映されているのではないか。そこからスタートしました。
 やっぱりこれだ!
 竹倉 ……調査した14冊(中学校8冊、高校6冊)のうち、計10冊が『土偶は女性をかたどっている』、うち2冊は『妊娠女性』と明記されていたのです。確かに人間ぽく見える土偶もないことはない。でもほとんどの土偶は、頭にせよ四肢にせよ、人体とするにあまりにもデフォルメされすぎています。これを『人間をかたどったもの』と考えるのは無理があると思ったのです。
 中村 有名な『遮光器土偶』(亀ヶ岡遺跡/青森県つがる市)は、目にあたる部分がイヌイットエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしている事から、こう名称がつけられたと説明されています。……
 竹倉 この土偶こそ食用植物モチーフとの初めての出会いでした。最初、『あれは植物を模したものではないか』と直観的に仮説を立てたのです。土偶の四肢の形態がサトイモに酷似していることに気付いたからです。
 ……かの有名な『ハート形土偶』(群馬県吾妻郡郷原)です。長野県の山中の渓流を歩いていると、ある木の実を見つけました。それがオニグルミだった。石の上にオニグルミを縦に置いて、もう一つの石をハンマーのように使って割ったところ、中からハート形が見つかったのです。まさにハート形土偶はオニグルミそのものだった。
 中村 ざざむしやイナゴなどが代表的ですが、長野県は縄文以来の食べ物を食べている土地と言われています。……
 ……
 中村 『縄文ビーナス』(棚畑遺跡/長野県茅野市)も取り上げておられますが、この土偶は豊饒(ほうじょう)性を象徴する『妊婦説』『地母神説』『宇宙人説』などで説明されていました。でも、それらの説には何ら根拠がなく、ただ思い付きでしかないことが、竹倉さんの説明でよくわかる。
 竹倉 縄文のビーナスのような土偶のことを、私はカモメライン(眉弓の位置にあるカモメのような造形)土偶と名づけています。中村さんが仰るように、妊娠説や地母神説の説明で片づけられていた。でも、それ以外のカモメライン土偶を調べると、ウエストが豊満なものばかりではなかったのです。それに『女性』といってもその証拠は何もない。むしろ、とても女性には見えない土偶もたくさんあります。
 となれば、私自身の仮説に紐づけて、半信半疑ながらも調べてみる価値はあると思ったのです。土偶が発見された地域でフィールドワークをしていると、まさにカモメライン土偶にそっくりの植物を発見しました。それがトチノミです。トチノミを頭部に見立てると、そこには土偶同様のカモメラインがあったのです。
 食物連鎖の世界が土偶
 中村 もう一つ感心したのは、縄文のビーナスの頭はマムシを模したものと指摘されたことでした。私自身もこの像がなぜ細い吊り目と鼻孔なのか、気になっていたんです。竹倉さんの説明を読み、一気にストンと腑に落ちました。
 竹倉 ありがとうございます。同じ地域から見つかる土偶に、頭の上に蛇が載っているものがいくつも発掘されています。同体の模様からマムシだろうと以前から言われていました。そこからさらに私が進めたのは、土偶の顔、正確には仮面ですが、これもマムシだろうと。その結論に至った決定打は瞳孔です。というのも、本州に生息する蛇のうち、瞳孔が猫の目のように縦に細くなるのはマムシの特徴なのです。自然の中で暮らす縄文人もこの特徴に注目して、土偶の顔に表現したのだと思います。ビーナスの吊り目もマムシだと考えれば腑に落ちますよね。
 中村 マムシをモチーフにした理由は何でしょうか。
 竹倉 トチノミが主食級のメジャーフードになったことが大きいと思います。トチノミは9月になると地上に落ちますが、放っておくと全部アカネズミに持ち去られてしまいます。つまり、アカネズミは縄文人にとっれ獣害そのもの。ところが、このアカネズミにも天敵がいます。それがマムシ。トチノミ食に依存する人間にとってまさに救世主ですね。だから、縄文人マムシをトチノミの精霊の使いとして表象し、マムシの仮面を装着したトチノミの精霊像、すなわちカモメライン土偶を生み出したと考えられます。
 中村 土偶には『人・植物・動物』の食物連鎖の世界が描かれているわけですね。
 竹倉 このシナリオはあまりにもよくできているので、我ながら『単なるこいつけじゃないか』と思っていました。でも、実証的に、現在ある条件・情報を積み重ねていくと、私の仮説以上に土偶の造形を合理的に説明するものは見つかりません。
 平和な縄文時代
 中村 興味深いのは、細め吊り目の土偶はカモメライン土偶だけで、ほかの土偶は実に穏やかな表情をしたものばかり。
 考えてみると、縄文時代は1万年以上、戦争をした形跡が残っていません。刀傷のある遺骨が出てきていないのです。むしろ、命を大切にする文化だった。北海道の入江貝塚土人骨からは筋萎縮症の遺骨が発掘されています。ですが、そういう病気を抱えながら成人していることがわかった。縄文社会では、障害を負った子供でも生かすための工夫がなされていたのです。実はネアンデルタール人にも、同じような遺骨が見つかっています。それは歯がひどく摩耗していた。ネアンデルタール人は狩猟民族ですが、不自由な体だったら狩猟に行くことはできない。そこで健康な男子が取ってきた獲物の皮を、体の不自由な人が噛んでなめしていた。そのため歯が摩耗したと考えられています。縄文時代にはそのように命を大切にする文化が根付いていましたが、弥生時代に入ると一変する。人類学者の金関丈夫氏(故人)の調査によると、弥生時代の土井ヶ浜遺跡(山口県)の人骨お調べたところ、15本もの石鏃(せきぞく)を射込まれた遺骨があったとか。
 竹倉 土偶が消える弥生時代になると、社会状況も一変したのでしょうね。
 中村 縄文時代土偶をつくる専門職があったとも考えられています。それは平和だったからできたことでしょう。
 竹倉 文化的に豊かな社会だったのは間違いありません。
 中村 三内丸山遺跡青森県)からは針葉樹の樹皮を編んだ『縄文ポシェット』が見つかっており、その中にクルミを入れていたことが判明しています。今の視点から見ても、実にオシャレ。漆工芸も発達していました。
 竹倉 服装も凝っていて、タトゥー(刺青)を入れていた。ニワトコの果実から酒をつくっていたこともわかっています。そもそも縄文時代のイメージは、漫画『ギャートルズ』(園山俊二作)に代表されるように、皮の腰巻きに輪切りの肉、マンモスと共存しているなど、狩猟中心の原始社会というイメージを持つ人も少なくなかった。ところが、三内丸山遺跡が発掘されて以降、縄文時代の見方が徐々に変わっていきました。6本柱建物のように巨大建築物があり、さらに植物の繊維から網を編んで漁をしていたこともわかっています。回遊魚であるブリの骨がたくさん見つかったからです。 
 中村 クリ林がまわりにありますが、明らかに人工的につくられた形跡があります。縄文人はクリ林を半栽培していたことがわかる。
 竹倉 そう考えると『ギャートルズ』のような原始的な世界とは、まったくかけ離れていたことがわかります。 
 中村 土偶から縄文人の生命観が読み解けることも、指摘されている。土偶には埋葬されたような形跡や、意図的に足を1本折ったような形跡があるのがその証拠だと。
 竹倉 凶作や災害などがあったとき、精霊に祈りを込めるため、古い土偶を破壊し、新しい土偶をつくる。そうすることで元気な若い精霊を呼び込み、凶作や災害を鎮めようとしたこともあったと思います。道具をずっと使っていると、魂が宿ると考えられていました。
 中村 現代でも神社や寺などに『人形』を託す人がたくさんいます。人形には魂(プシュケー)が宿り、粗末に扱うことは祟(たた)りのような怒りを買うことがないように、という思いから、人形供養をするケースが多々見られます。
 竹倉 縄文人土偶に対して同じような気持ちを抱いていたと思います。彼らは破壊することで、中に宿っている魂を解放させる意図があった。また、副葬品として用いられたと思われる土偶もあります。縄文のビーナスは破壊箇所がなく、土杭と呼ばれる小さな穴の中に埋められていました。土杭のサイズから、幼児が埋葬されていたと考えられています。縄文のビーナスを入れることで、精霊の力を借りて、子供の冥福が祈られたのかもしれません。
 中村 三内丸山遺跡では円筒形の土器がたくさん見つかっています。三内丸山遺跡対策室の元室長、近藤康博氏によれば、多産多死の時代なので、早死にしたり、流産した子供たちをその中に入れて、埋葬したのではないかとのことでした。しかも、その筒を見ると人為的に壊された形跡がある。これは魂の通り穴で、母親のところに霊として帰ってこられるための呪(まじな)いではないかと。
 竹倉 長野で発掘された土器には、乳幼児の遺体や胞衣(えな)を入れたのではないかと推定されるものもあります。その土器は底に穴が開いており、逆さにして入れていた。日本の民俗社会でも、近世までは成人と乳幼児では埋葬の方法が異なる地域がありました。乳幼児は一日でも早く母親のところに生まれ変われるように埋葬方法がとられた。
 中村 一方で多産多死の哀しみは土偶から読み取れません。負のイメージはない。四季の花々は一度枯れても、時期がきたらまた花を咲かせる。そのように時間や生命は円環として循環していることを、縄文人は自然現象から学んでいたはずです。
 竹倉 死をネガティヴにとらえていなかったのではないでしょうか。
 中村 ちなみに台湾でも古代人骨が発掘されています。それを見ると、アワビの殻を使って、マスクのように口を塞(ふさ)いでいたものが出てきた。口から魂が逃げ出さないように押さえるための呪術だと考えられています。それ以外にも、犬が寝た状態のままミイラ化したものが発掘された。古代の台湾人はイヌ食をせず、狩猟の仲間として大切に扱っていたのです。中国や韓国とは違い、日本人に近い精神性を持っていたんですね。
 土偶が身近に
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 竹倉 ……なぜ土偶みたいなものをつくったのか、その理由がわからなかったわけです。ところが、私の本を読んでみると、『現代の私たちと変わらないことがわかり、すごく身近に感じられるようになった』というった感想をくださる。
 中村 日本は幕末、西洋列強の威力にまざまざと出会い、維新を成し遂げ明治という時代を迎えました。とにかく近代国家になろうと、過去を否定し、富国強兵・殖産興業をスローガンに、最新技術や文化を積極的に取り入れた。一方、その反動で、縄文時代は未開の時代でしかなかったという一種の偏見と蔑視が生まれてしまった。以来、130年間、そういった考え方が続いてきたのですね。
 竹倉 しかもかつて、縄文人(当時は『石器時代人』)と日本人とはまったくの異民族だと考えられていた。建国以前の日本にいた野蛮人を神武天皇が征服し、日本という国をつくり上げたという歴史観です。ところが、近年の分子生物学の研究成果によって、多くの日本人に縄文人の血が流れていることが判明した。それもあってか、手のひらを返すように縄文人は立派だったと言われることに。そのほうがわれわれにとっても都合がいいですがね。
 中村 正常にもどったと言えます。むしろ弥生時代のほうが、日本史にとって異質の時代でしたよね。竹倉さんは、今後どのような研究をされるのですか。
 竹倉 縄文の土偶は破片も含めると約2万点あると考えられています。縄文の中期から多くつくられるようになり、その後3000年にもわたって土偶がつくられてきた。しかしそれだけの年月があったおとを考えると、じつは2万点という数は決して多いとは言えません。植物利用があっても土偶がつくられない地域も数多くある。では、土偶祭祀が行われるための要件とは何なのか。植物資源の利用以外にも土偶が製作されるための条件があっらと思われます。この点の考察も重要ですね。
 閉ざされた学界
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 竹倉 土偶を調べていくにつれ、これは日本だけの文化遺産ではなく、人類史的に価値のあるものだということが深く実感できました。ところが、日本の狭い学界はタコツボ化しており、新説や異説を排除する傾向が強い。そのため、土偶を世界的に紹介する機を逸しているような気がしてなりません。学界内で意地の張り合いをしても意味がない。みんあで盛り上げて、土偶の世界的価値を広く伝えられればと思います。
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ときめく縄文図鑑 (ときめく図鑑+)
土偶のリアル――発見・発掘から蒐集・国宝誕生まで
土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎
ビジュアル版 縄文時代ガイドブック (シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊03)
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 日本民族は、縄文人の子孫として、縄文時代の神話・宗教で生きてきた人々である。
 日本民族の古層とは、石器時代縄文時代である。
 現代の日本社会には、石器時代縄文時代がそこかしこにカサブタのように貼り付き、しぶとい生命力と旺盛な活力を持って今も息づいている。
 日本民族が持っている秘めた底力の源泉はそこにある。
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 日本には、石器文化・縄文文化を最古層に弥生文化古墳文化、飛鳥文化、白鳳文化など数多くの文化が積み重なり、その多重文化層を貫き深く根を張った万世一系の宗教的正統男系父系天皇神話という大樹が1本生えている。
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 天皇神話とは、血の神話(Y染色体神話)で、民族の地層から命、心、志・精神・気概、魂・霊魂を原始から現代へと断絶させず・絶やす事なく供給している。
 その象徴が、20年ごとに行われる伊勢神宮式年遷宮祭で、その行為は縄文時代に魂の入れ物である古い土偶を壊して新しい土偶をつくり繋いできた事ににている。
 民間では、古くなった人形や道具の供養祭である。
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 現代日本の宗教否定無神論の科学万能マルクス主義、自然崇拝宗教排除の不寛容なキリスト教、神・仏・神話・言い伝えを認めない頑迷固陋な儒教などは、自然に抱かれた日本民族心神話を破壊し消滅しようとしている。
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 縄文人は、南方系海洋民の子孫として、山・森、川、海を神聖視していた。
 日本近海漁業において、無計画な乱伐などで山や森が荒れると、川は洪水を起こし栄養がなくなって川魚が消え、沿岸・近海でも魚介類がいなくなり不毛な死の海となる。
 日本民族心神話には、神霊が宿る神奈備山=山神、海神(神綿津見{わたつみ})、海幸彦(別名・火照命{ほでりのみこ})、山幸彦(別名・彦火火出見尊{ひこほほでのみこと})、お椀に乗って川を下る少彦名尊などの山・森、川、海に関する話が重要な物語として存在する。
 そこへ、弥生時代揚子江流域・長江文明の高温多湿由来稲神話・コメ食文化と黄河流域・黄河文明の温帯乾燥由来麦神話・ムギ食文化が加わり、農業技術の進歩によって鎌倉時代から二毛作が広がっていった。
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 天皇家高天原神話・天孫降臨神話は、縄文食文化に南方系稲神話・コメ食文化を神聖化して加え子孫に伝えた。
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 天皇が即位して最初に行う新嘗祭大嘗祭といい、血の繋がりを正統(正当とは関係ない)として、その年に収穫できた山海の食べ物を祖先神・天皇霊天皇神と一人で共に食べ、国家と国民・民族の為に五穀豊穣を祈る宗教儀式である。
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 天皇は、凶作や災害などで甚大な被害が起きると、詔を発して元号を改める災厄を言霊で鎮め、国の安寧と民の幸せを神々に祈った。
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 縄文人は、自然の営みから死は忌み嫌うものではなく、そして死後の世界を持ってはいなかった。
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 日本文化とは、食べ物を「ありがたく」食して生きる文化で、世界では類例がない特殊な食べる文化である。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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💍13)─1─死者の民主主義。長期的願望=民族・国民の理想=血筋世襲の宗教的正統男系父系天皇。〜No.64No.65No.66 ⑬ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 2021年8月号 WiLL「朝日新聞しか読まない父のもとで私はなぜ保守になったのか
 子供ながらに気づいたソ連・中国・日本共産党のウソとデタラメ
 茂木誠
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 理性が狂気に変わる
 フランス革命の惨状をいち早く予見していたのが、イギリスの政治家エドマンド・バークでした。彼は革命勃発の直後、最終的にあらゆる秩序が破壊され、軍事独裁に終わるだろうと記しています(『フランス革命省察』)。パークにとってフランス革命は〝理性〟に名を借りて、先祖から受け継いだ歴史や伝統、宗教までをも破壊する『狂気』でした。
 その一方で、バークは変革を否定しているわけではありません。伝統を継承しつつ、時代に合わせてゆっくりと改善していけばいいと考えを持っていました。その根底には、人間の理性に対する懐疑心と、これまで社会を築き上げてきた先人たちへの尊敬の念があります。イギリスの作家G・K・チェスタトンは、これを『死者の民主主義』と呼びました。民俗学の大家・柳田國男も『死し去りたる我々の祖先も国民なり、その希望も容れざるべからず』と言っています。
 保守思想の祖ともいうべきバークの存在は、戦後日本において抹消されてきました。中学校の『公民』や高校の『政治経済』では、バークの名や国家有機体説が黙殺され、社会契約説が自明の理として扱われています。
 ……今度はアメリカげ強要するグローバリズムを受け入れ、構造改革規制緩和の名のもとに、自らの手で古来の伝統を破壊しつつある。
 バーク主義を標榜する政治家や政党も現れないまま、いまだに日本では空理空論の理想主義がまかり通っています。……ついには最後の砦である皇室にまで手をつけようとしている。
 世界最高水準の治安の良さと衛生観念、災害時の助け合い精神。これは大陸から孤立し、民族交代がなかった日本列島の長い歴史から紡(つむ)ぎ出されたもので、世界に誇るべきものです。設計主義の浅知恵やグローバリズムの金儲け主義から日本のよき伝統を守るため、『保守』について考えてみませんか。」
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 長期的願望=一般意志=民族・国民の理想である正統男系父系天皇。その源流は、民族的宗教儀式として弥生時代縄文時代石器時代にまで遡る。
 短期的願望=全体意志=市民・人民の欲望である正当女系母系天皇。1945年8月15日の敗戦がイデオロギー的反宗教の天皇制度廃絶と現天皇家断絶への端緒で、平成17(2005)年11月に皇室典範に関する有識者会議小泉純一郎首相に正当女系女性天皇の実現を求める報告書を提出した。
 平成24(2012)年10月 野田佳彦内閣は「女性宮家の創設」の両論併記の論点整理をまとめた。
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 正当女系女性天皇論は、世界の潮流であるジェンダーフリーに従い平成17(2005)年から日本国民の間で始まった新しい天皇論であり、世界最古の日本民族が受け継いできた歴史・文化・伝統・宗教・神話は無意味・無価値として完全無視され、女性差別を増幅させる有害なものであるとして排除れている。
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 国際機関は、反天皇派日本人マルクス主義者の証言を受け、現天皇制度で女性が天皇に即位できないのは女性差別であると公式意見を発表した。
 国際世論も、日本天皇家女性差別である事を支持し、激しい日本天皇非難を繰り返している。
 非難される代表的天皇が、平和貢献と人道貢献を行っていた昭和天皇である。
 世界には、血筋世襲の宗教的正統男系父系天皇を理解し、弁護・擁護する声はない。
 血筋世襲の宗教的正統男系父系天皇が孤立無援は古代から変わる事はない。
 昭和天皇は、国内外の厳しい批判から、国體護持と神の裔である血筋世襲の宗教的正統男系父系天皇を一人孤独に護ったいた。
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 2021年7月号 Voice「『次』の歴史と人類の新軌道
 『三体問題』から逃げた現代思想
 啓蒙思想は気体の分子運動から、資本主義は天体力学から影響を受けた。
 現代のあらゆる社会システムが機能不全に陥る根本的理由を物理学から解く
 長沼伸一郎 
 無形化した戦争のなかの民主主義
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 そしてそのような抽象化を行う際には、有効なツールが2つある。先ず1つめは、過去の政治学の古典である。そこで原理原則として述べられているものは、時代を越えて生き残ってきたものであるだけに、たとえ社会の素材が違ってきても、原理そのものは通用することが多い。もう1つは、物理の発想を応用した、一種の力学的な視点である。物理学というものは、物事の表面的なことを無視したり一挙にメカニズムの本質に迫るという点で、比類のない能力をもっている。
 そのため、過去の政治学の古典と物理的視点を組み合わせることは、混乱しきった現代社会を眺めるうえで、非常に有効に機能すると考えられる。そのように両者を通して物事をみることで、われわれはもっと早く『現代の人類に必要な政治システムは何か』という問題の正解に近づけるのではないか、というわけである。
 『一般意志』と『全体意志』からみる政体
 ではまず政治学の古典のなかでは、どのような原理原則が現在の問題に対して有効なものとして使えるだろうか。恐らくそのもっとも重要なものは、フランスの思想家ジャン゠ジャック・ルソーが『社会契約論』のなかで述べた、『一般意志』と『全体意志』の概念ではないかと思われる。
 これについては拙著『現代経済学の直観的方法』(講談社)でも解説したのだが、読者からの反響は筆者自身が驚くほど大きかった。それというのも、『一般意志』と『全体意志』は古典的な政治学のなかでも、もっと理解しがたい概念といわれ、そもそも『一般意志』と『全体意志』とはいったい何を示し、両者はどう違うのかということに、多くの学徒は頭を悩ませてきた。そこで『現代経済学の直観的方法』では、両者の違いを物理学の発想をヒントにして、『長期的願望』と『短期的願望』というものに注目して説明することで、非常にクリアーに本質を捉えることが可能になっていたのである。そのため、ここでもあらためて述べておこう。
 まずこれらの2つの願望がどんなものかというと、たとえば『禁煙を行なっ健康な体にしたい』というのが長期的願望だとするならば、『手元のタバコに手を伸ばしたい』というのが短期的願望である。前者は『理想』、後者は『欲望』で、一般的に両者は一致しないのが普通であり、そのためこれらは『長期的願望=人間の理想』と『短期的願望=人間の欲望』といい換えてもよいだろう。
 そして『一般意志』と『全体意志』の話はこれによってクリアーに表現できる。要するに早い話、大多数の人びとの長期的願望(の共通部分)が『一般意志』であり、これは『こうありたい』と願う理想目標である。それに対して人びとの短期的願望が膨(ふく)れ上がって増幅したものが『全体意志』であり、社会が扇動政治家やデマゴーグの低劣な演説に踊らされて、近視眼的な欲望の大合唱になっているときなどは、この状態である。
 このように考えれば、『一般意志』と『全体意志』がどう違うのかは一目瞭然で理解できるだろう。そして通常は『長期的願望』よりも『短期的願望』のほうが強力なので、前者は後者に駆逐されやすいのである。
 ……
 これはまさに先ほどの『一般意志・全体意志』の話そのものであり、要するに良い3つの政体は、一般意志が実現されている状態だが、悪い3つの政体は、全体意志に支配された状態なのである。
 ……
 そしてここで注目すべきは、18世紀までの政治学では、良い3つの政体同士の立場は同等で、必ずしも民主制だけに特別な地位が与えられているわけではなかった、ということである。むしろそれ以上に本質的で、かつ重要なのは、社会のなかでどの程度『全体意志=短期的願望』が制御されて『一般意志=長期的願望』が実現されているかということであり、3つの政体のどれを選ぶかは、たんに状況によってそのために一番有利なものえお選択する、という話でしかなかったのである。
 気体の分子運動に影響された啓蒙思想
 ……
 これは米国というより、19世紀以降の政治学の基本的なスタンスなのだが、そもそもなぜ米国ないしは19世紀以降の人類がそう考えるようになったかについては、当時の物理学の思想の影響を無視できない。実際、民主主義の源となった、いわゆる啓蒙思想が生まれたときには、当時の物理学の考え方を取り入れたものをひな型として、その思想が発展していったように思われるのです。
 とくにこの問題に関して物理学のなかでもヒントになったのは、気体を分子の集まりとして捉える際に導入された考え方だろう。説明すると、気体というものは、拡大鏡で眺めると多数の空気の分子がめいめいに動いており、それら一個一個は非常に高速で雑多な方向に向いて飛んでいる。ところがそれらの空気の分子が大量に集まると、その雑多な速度のベクトルのなかで、極端に反対方向を向いているもの同士がお互いに相殺することで、全体としてその速度が平均化されていき、われわれがみているような静止した空気の塊になるのである。
 また『風』すなわち空気の塊がゆっくり移動しているときというのは、ミクロ的にみて、そうした雑多な大量の空気分子のベクトルのうち、極端なもの同士が相殺されて残った大多数の平均値が、空気全体のゆっくろした移動速度、すなわち『風』として表れる、という格好なのである。
 そして19世紀に啓蒙主義を推進した人びとは、これと同じことが人間社会についてもいえると考えた。つまり人間は一人一人をみると雑多な願望をもっており、それらは個人個人でばらばらである。しかしそれが大人数集まっていくと、次第にその個人的な差異の部分が相殺されていき、残った共通部分だけがお互いに強め合う格好になる。そしてこういう場合、分子や人間の願望などをたくさん集めていくほど、お互いの誤差が相殺されていくのである。
 またその際には人間の願望の『長期・短期』という差異も同様で理屈で相殺される。ここで人間の小さな願望を眺めると、それらは人によってばらばらなうえに、大体は短期的なものである。それに対して集会などで決議されるレベルの大きな願望は、そうした細かい違いをとり去って1つにまとまっていくことが多く、それをみるかぎりでは『長期的願望・短期的願望』の差異も、それらをたくさん集めれば集めるほど、短期的願望が相殺されていくだろう。
 つまりこの考え方に従えば、人間の意見や主張をたくさん集めていくほど、社会は正解に近づくということになる。それゆえ民主主義というものは、一般意志を最大化するという点でもっとも優れたものである。
 そしてそこでは政体循環論などという考え方は成り立たない。……
 資本主義は『短期的願望』を増幅する
 そしてこの『短期的願望は、それをたくさん集めれば長期的願望に一致してくる』という考え方は、じつは資本主義を正当化するための論理としても、歴史的に重要な役割を果たしてきたのである。 というより、米国の資本主義が思想面において、世界の文明に与えた最大の影響とは『短期的願望の肯定』だったのではあるまいか。そしてそれを側面から支えたのが、いわゆるアダム・スミスが『国富論』のなかで提唱した『神のみえざる手』──すなわち『需要と供給が均衡(きんこう)するよう市場が自動的に動くことで、社会には最適状態が達成される』という理屈だったのである。
 ……
 現在でもこうした論理は実際によく使われているが、ここで読者はお気づきであろう。つまり、この論理のなかにはやはり『長期的・短期的』を区別するという概念がないのである。一般的に米国では『物事はばらばらな部品に分けることができる』という思想が強いが、その応用として考えるならば、長期的願望もたくさんの短期的願望に分解できるものであり、両者を区別して考える必要はないことになるだろう。もし『短期的願望をたくさん集めれば長期的願望と一致する』という前提が成り立たないといなると、それらすべてが瓦解しかねないことになるのである。
 そしてこれらの問題のすべての根本にあるのが『物事はばらばらな部品に分けられる』、もう少し哲学的な言葉でいえば『部分の総和は全体に一致する』という考え方だったのである。そうなると、はたしてこの前提が実際に成り立っているのか、ということが問題の最大の核心になってくるのだが、本当のところはどうなのだろう。ここで決定的な意味をもつのが、やはり物理学の考え方である。しかし、じつは19世紀に啓蒙思想や民主主義の思想が参考にした物理学には、一つの盲点があったのである。
 先ほどの話では、気体の分子のモデルが問題になっていたが、根本的なレベルでこの哲学的問題全体のモデルになっていたのは天体力学だった。啓蒙思想もその強い影響力を受けて発展していたのだが、当時参考にされた天文力学は太陽系をモデルにしたもので、これは『問題をばらばらに分けて解ける』という特性をもっていた。
 ところが天文力学にはもっと厄介な『三体問題』というものが存在している。これは、宇宙においてある3つの天体がお互いの重力で相互作用する場合、それらの天体の運動はどうなっているか、を考えると、それぞれの天体をばらばらに分けて解くことができない、という難題である。しかし当時は『三体問題』についてはよくわからなかったため、『すべての事象はばらばらに分解することができる』という天文力学だけを参考にして、見切り発車で社会思想がつくられてしまったのである。
 しかし実際のケースでは三体問題のように、ばらばらに分解できない事象のほうが一般的なのである。今回は残念ながらこの問題について詳述(しょうじゅつ)する余裕はないが、とにかく『部分は総和に一致しないことがある』という局面がごく一般的に出てきてしまえば、先ほどの前提が全部覆ってしまうことになるのである。
 長期的願望が駆逐されない社会システム
 そしてここまで話を整理すると、現在われわれが何を頭を悩ましているのか、そしてこれから何をすればよいかが浮かび上がってくる。まずわれわれが何に悩んでいるかというと、要するに現代の資本主義社会というものが、社会をスピードアップすることで、人間の短期的願望を増幅するシステムになっており、人びとの長期的願望が、人びとの短期的願望によって日に日に困難にされているということである。
 そして本来はその短期的願望を抑圧する構造になっていたはずの民主主義の制度は、先述したように表面だけの形骸化した制度となり、機能しなくなってしまった。
 そのためわれわれは、いったん現代の社会制度自体を根本からシャッフルして、全体を組み直さなければならなくなっているわけだが、重要なことは、社会システムがどんな素材でつくられているにせよ、人間の長期的願望が短期的願望に駆逐されないようにするため、後者をうまく抑制するシステムをつくり上げて前者を極大化することなのであり、他の問題は二義的なものにすぎない、ということである。
 言葉を換えれば、『全般意志=短期的願望』を抑制して『一般意志=長期的願望』が最大限に実現させるために、もっと効率的なシステムは何か、というこちが問題であり、そのための道を探すことこそ、最大の目標だといことである。無論それは容易なことではなく、物理学などからの概念を採り入れた高度な体系になるはずで、その高度な体系の構造には恐らく数十年を要するだろう。
 しかし筆者は思うのだが、そうしたシステムを見出すことは、討論会などで口角泡を飛ばして議論を行うことでは決して達成されないのである。現実の歴史でも、そうした新しいシステムへの転換が口先の議論だけで実現されたことなどまずなく、ほとんど何らかの歴史的に重要な戦いの末に、結果として達成されている、というのがどうやら現実なのである。
 ……」
   ・   ・   ・   
 血筋世襲の宗教的正統男系父系天皇とは、高レベルな総合科学の複雑な体系であり、宇宙物理学、天文力学、宇宙創生学である。
 血筋世襲の正統男系父系天皇制度の成立は、ゆったりとして自然の流れの中から静かに生まれた。
   ・   ・   ・   
 血筋世襲の正統男系父系天皇とは、日本国と日本民族にとっての開放・遠心力の暗黒エネルギー(ダーク・エネルギー)であり閉鎖・求心力の暗黒物質(ダーク・マター)である。
 非血筋非世襲の正当女系母系天皇とは、強力な遠心力の暗黒エネルギーで閉鎖・求心力の暗黒物質となり得ない為に、日本国と日本民族を分裂崩壊させ、最終的に消滅させる。
 中華世界である中国と朝鮮では、分裂崩壊をもたらすダーク・エネルギー(暗黒エネルギー)が強力で、一つにまとめ安定させるダーク・マター(暗黒物質)は稀薄である。
 ある意味、中華世界(中国と朝鮮)は躍動的力強い創世物語として原始宇宙かガス星雲の様に銀河や星が誕生・生と消滅・死を際限なく繰り返し、一瞬、劇的な強烈な閃光を暗黒の宇宙に放つがその光明は長続きせず消滅し、安定はなく、成長・発展も進化・進歩もない。
 人類史世界史としては、変化が少ない日本の歴史より激変する中華の歴史の方が魅力があり、悠久のロマンを求める好奇心旺盛な知的水準の高い人々を引きつける。
 日本民族の暗黒エネルギーと暗黒物質は、日本列島・日本国でのみ有効で海外・他国では猛毒に近いほどの有害で、中華世界(中国・朝鮮)にとっては相容れない・共存・共生できない反物質である。
 反物質である歴史的証拠が、日韓併合日中戦争である。
 古代から、中国や朝鮮が反天皇反日本であるのはこの為である。
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 祖先の民族的な歴史・文化・伝統・芸術・宗教を、長期的願望=一般意志=民族・国民の理想は大切に継承しつつ、新しいモノを受け入れて内面から改善・改良を行い、未来永劫に再生・蘇生を繰り返してきた、
 短期的願望=全体意志=市民・人民の欲望は、祖先からの民族的な歴史・文化・伝統・芸術・宗教を全てをご破算・消滅させ、自分好みに、見た目から完全に違う異質な別物に日本を作り変えようとしている。
   ・   ・   ・   
 古墳時代以降、日本には中華帝国朝鮮半島諸王国という外敵が存在し、ヤマト王権には各地に出雲・吉備など諸王国の内敵を抱えていた。
 つまり、古代日本は国内外の敵に囲まれた四面楚歌状態にあり、さらに最悪なのは中国大陸や朝鮮半島の地獄のような内戦から逃れた殺伐とした難民が大量に上陸して住み着いている事であった。
 ヤマト王権にとっての外敵とは、国内を統一する為の名目ではなく、現実の敵であった。
 何故なら、弥生系帰化人の多くが中国大陸や朝鮮半島の戦争や政争に負けて日本列島に逃げ込んできたけ敗北者や弱者だったからである。
 そして移民には、天皇に忠誠を誓い日本国の為に働く帰化人と、天皇への忠誠を拒否し日本国に弓を引く渡来人がいた。
 渡来人達は自己権利を主張して各地で反乱や暴動を繰り返す、油断も隙もない恐ろしい獅子身中の虫であった。
 ヤマト王権は、国内外の敵や反天皇反日本の渡来人達らの敵対心を封じ込める為に、幾つもの巨大な前方後円墳を建設して軍事力・経済力を見せ付け、日本国を権力・権威で一つにまとめる覚悟と決意を明らかにした。
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 現代日本では、石器時代縄文時代からの長期的願望=一般意志=民族・国民の理想は存在感を弱め、約100年前(日本共産党結党)からの短期的願望=全体意志=市民・人民の欲望が強力になって影響力を強めつつある。
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 日本人の70%以上が、血筋世襲の正統男系父系天皇から血筋否定の正当女系母系天皇への変更を支持している。
 日本の変更を求める日本人とは、戦後民主主義教育世代とその薫陶を受けた有能・優秀の次世代、リベラル・革新の高学歴な知的インテリと進歩的インテリで、彼らにはローカルな民族的歴史・文化・伝統・宗教は希薄か無い。
 彼らの中にマルクス主義の反天皇反日的日本人達が潜み、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させ、日本国を破壊し、日本民族を根絶する、幻惑的魅惑的な甘美で淫靡な音色のハーメルンの笛や滅びの笛を吹いて人々を狂喜乱舞させている。
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 日本は、少数派の同調圧力・場の空気・空気圧が社会や人々から平常意識を奪い、多数派を無力・無能にして意図した方向に扇動する事が多い。
 その好例が、武漢肺炎(新型コロナウイルス)蔓延で日本を支配した自粛警察である。
 日本は世界とは違うのである。
 日本の少数派とは、日本に上陸してきた中華儒教キリスト教マルクス主義共産主義)に感化され洗脳された反天皇反民族の日本人達で、保守派や右翼・右派・ネットウヨクの中にも存在する。
 それ故に、戦前までの多数派スーパー・ナショナリストは、血筋世襲の正統男系父系天皇制度を崩壊させ、民族国家日本を破壊し、混血雑種の日本民族を死滅させようとした、反天皇反民族の中華儒教キリスト教マルクス主義共産主義)を嫌い日本から排除した。
 世界は各種差別反対の潮流から、血筋世襲の正統男系父系天皇制度を人種差別・性差別・女性差別の元凶として非血筋の正当女系母系天皇への改変もしくは血筋世襲の正統男系父系天皇そのものの廃絶を求めている。
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🌈78)─1─日本姓約30万種には民族の歴史・文化・宗教の物語と自然の神話が詰まっている。~No.134No.135 ⑮ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 日本人の姓名は、中国や韓国・北朝鮮では低レベルな教養なき非常識な姓名である。
 中国や韓国・北朝鮮が、日本人に対して偏見、嫌悪、憎悪を持ちたくなる原因の1つは、儒教文化から理解できない、ふざけた様な「日本姓」にある。
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 儒教文化において、自分の・我が家の姓名は汚してはならない神聖な姓名であった。
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 中国姓、   約4,000種類。
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 中国人を戸惑わせる日本人の「姓」=歴史の変転刻む
 社会 2018.12.29
 井上 雄介 【Profile】
 日本人にとって中国人と名刺交換するのは、少し気が重い。
 相手はしげしげとこちらの名前の字面を見てから、中国語の発音で名前を読み上げる。ローマ字の振り仮名が振ってあると、さらに眉根を寄せて考えもする。彼らが予想していた中国語読みの漢字音とずいぶん異なるためだ。
 私の名前・井上を例にとると、日本語読みの発音は「Inoue(イノウエ)」だが、中国語の発音では「Jingshang(正確な発音ではないけれど、あえてカタカナにするならチンシャン)」となり、日中双方の言葉を理解しない者には同じ人物とは判別できない。日中で大きく異なる漢字の発音は日本人にとっても、中国人にとっても同じようにコミュニケーション上の大きな障害だ。
 さらに中国人にとっては、日本人の名前はどこまでが「姓(family name)」で、どこからが「名前(given name)」なのか、はっきりしない。
 しかも日本人の名前は一般に中国人より長い。例えば今では日本でも少なくなってきたが、安倍首相の亡父「安倍晋太郎(Abe Shintaro)」氏の3文字名前のケースを考えてみよう。
 中国には1文字の姓が多く、「安」さんというのもあるので、もし「安」で切ると、後ろには「倍晋太郎」の4文字が残る。
 さすがにこれでは中国的な名前としては長過ぎる。
 「太郎」は比較的国際的にもポピュラーな典型的な日本人名の一つだし、たまたま現在の財務大臣・麻生さん、外務大臣・河野さんも「太郎」さんだ。だとすると、「『倍晋』は何だ!日本人にはミドルネームがあるのか」ととんでもない方向に話が広がりかねない。
 おまけに姓の種類があまりに多い。
 たとえば「江尻(Ejiri)」さんなどは「尻」という怪しい漢字を使っている。尻は中国語でも臀部(でんぶ)を意味する。中国人の苗字に使用されることはまず考えにくい。
 トイレを意味する「御手洗(Mitarai)」さんは日本語の読みが「みたらい」となり「おてあらい」とは異なるので日本では印象が違うだろうが、中国語の「洗手間」と相通じる言葉なので漢字で考えると、食事中には名乗りにくい、ということになる。
 犬を養う「犬養(Inukai)」や、イノシシ=中国語では「豚」の意味=を飼育する「猪飼(Ikai)」などまるで職業みたいな姓もある。実際、国語の辞書にも犬養は犬、猪飼は豚をそれぞれ飼育することを職としていたと紹介してある。
 単純に樹木の下を意味する「木下」、川の上流を意味する「川上」、田んぼの中を意味する「田中」など、先祖がどんなところに住んでいたかが丸分かりだ。
 また「我孫子」は中国語ではそのまま「わが孫」、「我妻」は「わが妻」と読むことができる。「自分の名刺に『わが孫』だって?」「いったい何を言ってるの、誰の孫で誰の妻なのか」
 氏名を知らせるはずの名刺が、かえって相手を戸惑わせてしまうのだ。
 日本人が、中国人を含む外国人と交際する際、ローマ字表記を使う方が実用的と筆者は思うが、日本ではまだ一般的ではない。ただ、日本人の「姓」は、漢字文化圏の人々との交流の際、格好の話のネタにはなってくれる。
 日本人の「姓」30万種
 中国、朝鮮半島、日本、ベトナムなど漢字文化圏の国々は、箸や大乗仏教など中国発祥の文化を数多く共有している。その1つである姓は各国とも、もともと主に血族集団を示し、その後ろに個人の「名」を置く。ただ、日本の姓は一説には30万種もあるとされ、各国の中で飛び抜けて多い。
 漢字文化圏で随一の大国である中国でも姓の数は約6000、朝鮮半島では約300と言われる。ただ、少数の姓に人口が集中しており、中国では李、王、張など上位100が全国人口の約9割、朝鮮半島では金、李、朴、崔、鄭の5つで国民の半数を占めるそうだ。あるネット情報によると、ベトナムでもグエン( 阮)、チェン(陳)、レ(黎)の上位3つで国民の60%、上位14で9割を占めるという。
 日本では佐藤、鈴木、高橋など上位10で全人口の1割を占めるに過ぎない。
 実は日本人の姓も、かつては数が限られていた。現代の日本では「姓」も「苗字」も同義として使われており、英語にすればどちらもfamily nameとなるが、この苗字には他の漢字圏諸国と異なる日本独特の歴史がある。
 武士の時代に急増した苗字
 8世紀、日本で中国の唐朝をモデルにして戸籍が生まれ、一般庶民も姓を持つようになった。
 12世紀の鎌倉時代、姓から分岐した苗字が爆発的に増えた。
 各地の武装勢力が自らの領地を支配する地方割拠の時代となり、武士にとって何よりも大切な土地の地名を苗字として名乗るようになった。これが30万種とも言われる苗字が生まれるきっかけだ。
 そして現在、さまざまな「苗字」を名乗る日本人も、先祖を1000年さかのぼると天皇から下賜された「源平藤」(「源(Minamoto)、平(Taira)、藤原(Fujiwara)」)の三つの姓にたどり着くという(「先祖を千年、遡る」丸山学著、幻冬舎新書)。日本は1つの王朝が延々と続いているので、子孫が多い。同書によると、日本に多い「田中」は平氏、筆者の「井上」は源氏由来が多いそうだ。
 こんなわけだから「苗字」は中国の姓ほどの歴史を持たない。ただ、中国の人から見ると一見適当に付けたようにも見える日本人の苗字だが、鎌倉時代以来800年以上の歴史が背景にある。日本には苗字の由来を調べるウェブサイトもあって、自分のルーツを知りたい人や、歴史愛好家らに人気だ。
 この文章を読んでいるあなたが外国の人なら、日本人の友人に会う前、ちょっと調べてみてはいかがだろう。
 「あなたのお名前は、源氏の流れですね」などと言えば、相手は目を丸くするに違いない。
 バナー写真:名刺交換する新興企業幹部と証券会社の担当者(東京・中央区東京証券取引所、2011年01月19日)=時事通信
 井上 雄介INOUE Yūsuke経歴・執筆一覧を見る
1963年東京生まれ。早稲田大学法学部卒。 天津南開大学に留学し中国語を学ぶ。元共同通信記者。衆院議員政策秘書、経済紙記者などを経て現在フリーのライター。」
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 名字(みょうじ、苗字)は、家(家系、家族)の名のこと。法律上は氏と呼ばれ(民法750条、790条など)、一般には姓(せい)ともいう。
 概説
 世界を見渡すと、アメリカやドイツのように移民が集まる国では名字(ファミリーネーム)の数が多くなり、世界中の名字が集まっているような状態になっており、アメリカ人の名字は100万種以上とも言われている。それに対して中国や韓国では一文字姓が原則とされているので種類が少なく、韓国では約280種類しかないと言われている。
 日本の名字
 日本の名字は、元来「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家・武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため再び「名字」と書くのが一般になった。
 「名字」と「姓」又は「氏」はかつて別ものであった。たとえば、清和源氏新田氏流を自称した徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が名字(苗字)、「次郎三郎」が通称、「源」が氏(「姓」、本姓とも呼ばれる)、「朝臣」が姓(かばね)(古代に存在した家の家格)、「家康」が諱(いみな、つまり本名)ないし実名(じつみょう)になる。
 日本での名字の数は、たとえば「斎藤」と「斉藤」を別として数え、たとえば「河野」の読み方を「こうの」と「かわの」で区別して別に数えるなどという方法をとれば、一説には「20万種にも達する」などとも言われるが、「20万種は多すぎる、実際には10万種ほどだろう」という見解を示す人もいて、正確な推定は難しい。それでも世界的に見れば多いほうである。これほど名字の数が増えた理由の一つとして、日本人は他国・他地域の人々と比べて「同族」という意識よりも「家」の意識を重要視したので、同族であってもあえて名字を変えて「家」を明確にしたり、地名を用いて「家」を明らかにしたりしたことがある。また明治時代の明治新政府が、国民に名字を持つことを義務付け、その結果、庶民はそれまでもともと通称として持っていた名字をその機会に名乗ったり、またそれまでの名字を変えて名乗ったりしたので、明治時代に一気に名字の数が増えた、ということもある。一説によると、幕末期と明治期を比べると、一気に数倍に増えたと言う。
 明治時代以前の「姓」
 庶民の名字
 古代の庶民は主に、豪族の所有民たる部曲の「○○部」という姓を持っていた。例えば「大伴部」「藤原部」というようなものである。しかし部曲の廃止や支配者の流動とともにその大半は忘れられ、勝手に氏を名乗ることもあった。
 名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗ることができた。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。
 江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、原則として名字(苗字)を名乗ることが許されなかった。これをもって「江戸時代の庶民には名字がなかった」と語られることがある。だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。また先祖が武家で後に平民になった場合に先祖伝来の名字が受け継がれる場合もあった。そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる。また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った。
 しかしそれでも、庶民は、名字として公的な場で名乗ることはできなかった。この習慣は、江戸時代に特有ではなく、それ以前の中世の鎌倉時代室町時代の段階から存在していた。名字が武士身分の象徴として意識される一方で、庶民の間では、名字の公称が自主規制されていったのである。同時に、村の中でも、名字の私称は、上層の百姓の特権として認識されるようになった。
 明治時代以後の名字
 明治政府も幕府同様、当初は名字を許可制にする政策を行っていた。幕府否定のため幕府により許可制で認められていた農民町人の苗字を全て禁止し(慶応4年9月5日)、賜姓による「松平」の名字を禁止したり(慶応4年1月27日)する一方、政府功績者に苗字帯刀を認めることもあった。明治2年7月以降、武家政権より天皇親政に戻ったことから、「大江朝臣孝允木戸」のように本姓を名乗ることとした時期もあった。
 明治3年(1870年)になると法制学者細川潤次郎や、戸籍制度による近代化を重視する大蔵省の主導により、庶民への名字を原則禁じる政策は転換された。9月19日の平民苗字許可令、明治8年(1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名字を持つことになった。この日にちなんで、2月13日は「名字の日」となっている。明治になって名字を届け出る際には、自分で名字を創作して名乗ることもあった(たとえば与謝野鉄幹の父礼厳は先祖伝来の細見という名をあえて名乗らず、故郷与謝郡の地名から与謝野という名字を創作した)。僧侶や神官などに適当につけてもらうということもあったが例は少ない。
 明治4年10月12日には姓尸(セイシ)不称令が出され、以後日本人は公的に本姓を名乗ることはなくなった。氏・姓は用語も混乱していたが、この時点で太政官布告上は、いわゆる本姓は「姓」、氏・名字は「苗字」、かばねは「尸」というように分類されたのである。明治5年(1872年)5月7日の「通称実名を一つに定むる事」(太政官布告第149號)により公的な本名が一つに定まり、登録された戸籍上の氏名は、同年8月24日の太政官布告により、簡単に変更することができなくなった。また婚姻後の妻の苗字については、明治8年(1875年)、石川県より「嫁いだ婦女は、終身その生家(実家)の氏とするか。嫁が家督などを継ぐなど、夫家の氏とせねばならぬ場合はどう示すか」との伺があり、同年11月9日、内務省は判断に困り太政官伺を出した。その結果、明治9年(1876年)3月17日の太政官指令として、夫の家を相続しない場合の妻の苗字は「所生ノ氏」つまり婚前のものとし、但し夫の家を相続した場合の妻の苗字は「夫家ノ氏」とするとされた[7]。なお、現在と同じ夫婦同氏の原則に統一したのは明治31年(1898年)に明治民法が成立してからである。
 外来名字
 近代になって国際化がすすむにつれて日本に帰化する外国人が必ずしも「日本風」の氏名でなくても許可されるようになり、アメリカ人だったドナルド・キーンは「キーン ドナルド」で日本国籍を取得している。逆に鼓呂雲恵理駆や三都主アレサンドロのように新たに作った者もいる。
 外国人と結婚して氏を改める(1984年戸籍法改正)例も増え、外国由来の名字を持つ日本人が増えてきている。中でも中東圏は父親の名字を継承する習慣があるため、日本人女性と結婚し日本国籍を取得しても、アラビア語ペルシャ語の名字をそのままカタカナ表記で使用している事が多い(ダルビッシュ有の父親など)。
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 福山大学孔子学院
 中国人の姓と名
 2020年11月21日
 中国人の姓と名
 中国人の姓と名のあり方は如何なるものか。漢姓を中心に紹介していきたい。
 苗字の数については定説がないが、ある統計によると1万個以上あると言われ、一時文献に出ていたが、後に消えてしまったものも少なくはないという。今使われている漢姓は約3000種類あり、この中で100ぐらいが常用のものである。姓のうち、一文字の姓を「単姓」で、二文字以上のものを「複姓」という。単性が多数を占めており、復姓には「欧陽、司徒、司馬、諸葛、端木、上官、令狐、皇甫、夏侯、公孫、鐘離、慕容、南宮、東方、東門、西門、呼延、中行、羊角、長孫」といったものが挙げられる。三文字以上の「複姓」は非常に珍しくて漢姓ではほぼ見当たらない。また、姓として使われる場合は、普通と違った読み方をする漢字もあるので注意が必要である。例えば、種(chóng、zhǒng)、不(fǒu、bù)、句(gōu、jù)、黒(hè、hēi)、角(jué、jiǎo)、会(kuài、huì)、牟(móu、mù)、能(nài、néng)、区(ōu、qū)、折(shé、 zhé)、洗(xiǎn、xǐ)、解(xiè、jiě)、員(yùn、yuán)、 査(zhā、chá)、単(shàn、dān)などの類である。(前者は姓としての読み方で、後者は普通の読み方。)
 最新の統計によれば、上位5つの姓は王(9468万人)、李(9276万人)、張(8550万人)、劉(6882万人)、陳(5673万人)となっている。
 姓の由来は、原始社会の部落の首領の名を姓としたもの、古来人々が拝んだ動物の名前を姓としたもの、祖先の国や爵位、官職名などを姓としたもの、住んでいる地域の方位や周囲の景物などを姓としたもの、職業を姓としたもの、などさまざまである。
 姓名の語順は簡単で、姓が先で名が後に置かれる。名は二字のものが最も多くて、次いでは一字のものもある。従来、一家族の同世代の兄弟や姉妹の名には共通した一字をつける習わしがあった。これは家族における長幼の序列を明確にするもので、名前の第一字は必ず宗族が決めた字を用いなければならない家族が多かった。そうして、宗族間の親戚関係や対人呼称などが自ずと分かり、家族の絆もより強固なものになるのである。しかし、一人っ子政策、人口の流動化、名づけの個性重視などの影響で、そういうネーミングの方法に拘らない家庭も数多くあった。
 「名」以外に「字」(あざな)または「号」(ごう、「別号」とも)をつける人もいた。「字」は成人した時に(昔は男子20歳、女子15歳)家族が付けてくれるもう一つの呼び名である。「字」にはその人の人徳を称賛し、又は出世してほしいという期待が込められていた。昔の人はほとんど、「名」と「字」の両方を持っていた。例えば、孔子は名が「丘」、字が「仲尼」である。自ら名乗る時には「名」を使い、他人を呼ぶときにその人の「字」で呼ぶのが普通だった。1919年に勃発した新文化運動によって、一人一名制度が提唱され、「字」をつける習慣が次第に廃止されてしまったのである。
 更に、昔の文人たちは、「字」以外に「号」をつける人も多くて、それを文章や書画など創作発表する際に使用していた。言わば、現代のペンネーム、筆名に当たるものである。「号」は自ら付けて、パーソナリティーなどを示すものが多く見られる。唐の大詩人李白は名が「白」、字が「太白」、号が「青蓮居士」であり、北宋の文学者蘇軾(そしょく)は、名が「軾」、字が「子瞻(しせん)」、号が「東坡居士」で、後世の人は、彼のことを蘇東坡(そとうば)と呼ぶことが多い。「居士」は出家をせずに家で修行を行う仏教の信者のことであり、唐、宋の時代にどれだけ仏教が盛んであったかが窺える。「居士、山人、隠士、道人」など隠逸志向を匂わせる言葉は「別号」として文人たちに愛用されていた。
 現代中国人の名には何かの意味を含む漢字が多く使用されている。例えば、たくましく育ってほしいという親の希望を示す「健康の健、偉人の偉、英雄の雄、豪傑の傑、剛胆の剛、天に昇る龍」とか、綺麗で淑やかな女の子になるようにという親の期待が込められた漢字には、「華麗の麗、みやびの雅、佳人の佳」といったようなものが挙げられる。
 中国では「夫婦別姓」で、子供は父親かまたは母親のどちらかの姓を名乗らなければならないという決まりがある。最近は、同名になることが回避できるように、父親と母親の姓を組み合わせ「子供の姓」にして名前を付けるケースもあるが、ただし、法律では新しい「複姓」とは認められておらず、やはり最初の一字だけは子供の姓としてみなされている。最も人口が多い姓名の上位3つは張偉、王偉、王芳で、どれも30万人前後の使用人口を有しているが、中国では皆マイナンバーを持っているので、社会生活を営む上ではさほど支障が生じることがないだろう。
 昔は女性の社会的地位が低かったので、一部の人は苗字だけで、名はなかった。結婚後、自分の苗字を旦那さんの苗字の後ろに付け加えて、例えば、劉家の娘が趙家に嫁入りしたら「趙劉氏」と呼ばれていた。
 名付けにはいろいろなタブーも存在していた。皇室、貴族、高官、祖先、親、尊敬されるべき人などの名前を直接に口に出すことは禁物で、そういう人達の名の漢字を自分の子供の名前に使うことも認められなかった。
 歴史上の人物、あるいは文学作品の主人公の名前に、特別な意味を付与されることがあり、これらは一種の文化的符号と言えよう。例えば、「西施」は春秋時代(紀元前770年~紀元前476年)の越国の美人で、後になって美人を象徴する言葉になっている。また小説『三國演義』のキャラクターとして登場する三國の豪傑勇将の関羽は、義を重んじるシンボルで、彼を記念するために各地で関帝廟が建立されている。一方、同じ時代の諸葛亮は知恵を備え、賢明な知恵者で計略に富む人の化身になっており、「三个臭皮匠、顶个诸葛亮」(三人寄れば文殊の知恵)の格言として言い伝えられている。これらの言い回しを修辞手段として文章などに使用すると、言葉を生き生きさせることができるのみならず、言葉に秘められた深層的で文化的意味の理解にもつながるに相違あるまい。
 昔から姓に関する資料を蒐集し、それぞれのルーツや人口分布などを検証する書物は数多く刊行されているが、最も影響力が大きかったものは『百家姓』である。この本は今から千年ほど前の北宋時代(960年~1127年)の初頭に編纂され、作者は不詳である。後世に追加された部分も含め、現在の流布本には単姓444、二字の復姓60の合計504個の漢姓が掲載されている。韻を踏みながら4文字を1句として書いており、しめくくりの「百家姓終」という文言を含め全体で568文字となる。『百家姓』は学びやすく覚えやすいため、『三字経』や『千字文』と同様に私塾の啓蒙教育などで学童に漢字を教える学習書の一つとしても広く利用されていた。宋の国姓は趙であったので、趙の苗字から書き出されている。冒頭の部分はこんな具合である。「趙銭孫李、周呉鄭王。馮陳褚衛、蔣沈韓楊。朱秦尤許、何呂施張。孔曹厳華、金魏陶姜。⋯」(掲載部分は全て単姓)。
 家族の結束やコミュニケーションを図るため「族譜」を編纂、又は改訂・増訂する作業が昔から各地で盛んに行われている。「族譜」とは同姓一族の家系図に当たり、家族のルーツ、血縁関係、構成序列、親族関係、重要人物、重要事件、人口流動などを記載した文書である。「族譜」にはその一族の家訓なども載せられている。なお、最近では社会的気風をより豊かにするために、代々承継されてきたその家その家の「家訓・家風」の重要性を改めて意識するようになっている。           2020年11月 
  福山大学孔子学院副学院長(中方院長) 郭 徳玉 記
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 YAHOO!JAPANニュース
 夫婦別姓、子どもは父親の姓を名乗ることが多い中国で、今起きている「想定外」の現象
 中島恵 | ジャーナリスト
 6月23日、「夫婦別姓」を認めない民法と戸籍法の規定が、憲法に違反するかどうかについて争われた日本の特別抗告審で、最高裁大法廷が両規定を「合憲」とする決定を下しました。日本では「夫婦別姓」を認めないという判断です。
 日本のような夫婦同氏制は世界的に見て珍しいといわれていますが、隣国の中国ではどうなのでしょうか。
 中国では夫婦別姓
 中国では原則として「夫婦別姓」です。1950年に定められた「婚姻法」によると、男女平等の観点から、自分の姓名を使用する権利が認められ、夫婦双方が自分の姓名を用いることができる、と規定されました。
 中国では「王」さん(男性)と「李」さん(女性)が結婚しても、李さん(女性)の姓は一生変わりません。
 同法は1980年に改正され、子どもが生まれた場合、子どもの姓は両親のどちらかの姓を選択することになっています。2001年にさらに改正され、夫婦平等がより強調されましたが、中国では法律が定められる以前から、伝統的に、子どもは父親の姓を名乗ることが多い、といわれてきました。
 しかし、1979年から2015年まで続いた「一人っ子政策」の弊害により、近年はこれまでになかった、まったく新しい現象が起きています。
 中国では2016年から子どもは2人まで認める、いわゆる「2人っ子政策」を実施してきましたが、これにより、子どもが2人できた場合、1人目は父親の姓にし、2人目は母親の姓にする、という動きが起きたのです(5月31日、政府は産児制限をさらに緩和して、3人目まで認める方針を発表)。
 なぜなら、現在、出産可能な年齢にある夫婦はたいてい1980年以降の生まれで、両親自身がすでに一人っ子。その子どもが父親の姓を名乗った場合、母親の姓はそこで途絶えてしまうという問題が発生するからです。
 法律では、子どもは夫婦どちらの姓を名乗ってもいいということになっているため、たとえば長男は父親の姓、2人目の長女は母親の姓を名乗るという人が、2016年頃から、北京や上海などの大都市で少しずつ増えてきています。
 きょうだいの姓が違うことで起きる諸問題
 ところが、ここで新たな問題も生じてきました。母親の姓を名乗るというケースがまだ一般的ではないため、たとえば「同じ父母から生まれたきょうだいなのに、父親が違うのではないかと勘違いされて、学校でいじめられる」、「1人目が女の子で父親の姓を名乗ったが、2人目に男の子が生まれたので、母親の姓にしようとした。すると、父親側の親族一同から猛反対に遭ってしまい、大問題となった」、「母親が離婚し、再婚後に2人目が生まれたのだろうと、勝手に誤解されてしまう」「きょうだいや家族の連帯感が生まれにくい」といった問題です。
 そのため、やはり基本的には、子どもは父親の姓を名乗ることがまだ多いのですが、中には苦肉の策として、こんなケースもあります。
 それは、子どもが父母双方の姓をダブルで名乗るダブル姓、というものです。父親が「陳」、母親が「王」だった場合、通常なら子どもはどちらかの姓を名乗って「陳、あるいは王(姓)+(名前)」になるはずですが、「陳王+(名前)」にしてしまう、ということ。
 しかし、「陳王」という姓にはできないので、実際はどちらかの姓を選ぶしかないのです。つまり、「陳(姓)+王+名前(名前)」という奇妙なやり方。実際の日常生活では、「王」はつけず、下の名前部分のみ名乗ることが多いようです。この場合、「王」は姓ではなく名前のほうに組み込まれるわけですが、形式上、フルネームには「王」という文字は残り、双方の親もある程度、満足するというのです。
 中国メディアの報道を見ると、このように、双方の姓を残そうとする例も一部で出てきているようです。
 また、どちらかの祖父母のきょうだいが女性しかいない場合で、父母に2人目の子どもが生まれた場合、2人目は父親か母親の姓を名乗らず、1つ前の代、つまり祖父の姓を名乗ることもある、という話も聞いたことがあります。家族の人数が少なくなり、姓をついでいくことが難しくなってきたからこその策、といえるでしょう。
 中国の姓は少ないのだが……
 中国では日本と比較して姓の数が非常に少なく、約6000といわれています(日本では約30万)。しかし、実際に多い姓は王、李、張など100程度しかなく(百家姓と呼ばれる)、約100個の姓が人口の9割を占めています。
 中国の姓は漢字一文字の単姓(王、李など)が多いですが、漢字二文字の復姓(欧陽、司馬など)もあります。復姓は数が少ないですから、もし子どもが1人だった場合で、母親が復姓なら、母親の姓を名乗らせる、という人が増えていくかもしれません。
 私の知人の在日中国人で、現在は日本名を名乗っていますが、本来の姓から「楊」の字を取って「楊子」さん、としている方がいます。このような形で自分の姓をずっと残していく方法もあるのか、と感心しました。
 香港の行政長官の姓
 さて、夫婦別姓という元の話に戻すと、かつて、中国では「冠夫姓」という、女性の姓の前に、結婚相手の男性の姓をつけることがありました。「劉」という女性が「呉」という男性と結婚した場合、呉+劉+名前と名乗るやり方です。
 これは香港などで現在でも一部、その風習が残っており、香港の行政長官である林鄭月娥氏(キャリー・ラム氏)は夫の姓が「林」で、自身の姓は「鄭」。結婚後に夫の姓を自分の姓名の前につけた「冠夫姓」を今も使っています。林鄭月娥長官のような「強い女性」でも、夫の姓をつけていることに意外な印象を持ちましたが、香港で50代以上の女性では、ときどき見かけます(ちなみに、彼女の英語名、Carrie Lam の Lamは「林」(広東語読み)で夫の姓です)。
 中国の姓はそれ自体、数は多くないのですが、自分が生まれたときから使ってきた姓を大事にし、それを子孫にも残したいという気持ちを持っている人は多いと思います。その結果、子どもの姓を夫婦どちらの姓にするかという問題で悩む人は、これから先、もっと増えていくのではないかと思います。
 中島恵
 ジャーナリスト
 山梨県生まれ。フリージャーナリスト。著書は最新刊から順に「中国人のお金の使い道」(PHP研究所)、「中国人は見ている。」、「日本の『中国人』社会」、「なぜ中国人は財布を持たないのか」「中国人の誤解 日本人の誤解」、「中国人エリートは日本人をこう見る」(以上、日本経済新聞出版社)、「なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?」、「中国人エリートは日本をめざす」(以上、中央公論新社)、「『爆買い』後、彼らはどこに向かうのか」、「中国人富裕層はなぜ『日本の老舗』が好きなのか」(以上、プレジデント社)など。中国、香港、台湾、韓国などの文化、社会事情&ビジネス事情を取材し、ネットや書籍に執筆している。
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 朝鮮人の姓の一覧
 現在使われている朝鮮人の姓は286種類である。最も一般的な朝鮮人の姓(特に韓国)は金であり、李と朴、崔、鄭がそれに続く。この5つの姓が朝鮮民族の人口の半数を占める。
 朝鮮の姓
「漢姓#朝鮮」および「人名#朝鮮半島の人の名前」も参照
同じ姓の中でも、共通の始祖を持つとする氏族集団(門中、本貫)に分かれている。本貫とはもともと始祖に所縁の地を表示するもので、氏族を示す際には「金海金氏」「安東金氏」などと本貫を共に名乗るのが一般的である。
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🌈76)─1─日本の地名には多様文化・言霊・神話・物語が詰まっている。~No.130No.131 

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 2021年7月12日 MicrosoftNews 岐阜新聞織田信長が名付けたとされる「岐阜」が県外にも 県内からの移住が背景
 © 岐阜新聞社 岐阜県外にある「岐阜」の地名(国土地理院地理院地図」)
 © 岐阜新聞社 笠松町の案内標識=三重県松阪市笠松町
 岐阜県内には42の市町村がある。それぞれ歴史的な経緯をたどって今の市町村名になったわけだが、偶然か縁があってか、県外でも同じ地名を見かけることがある。どんな由来があるのだろう。どこにでもありそうな地名だけでなく、本来なさそうな「岐阜」もある。背景にあるのは県民の歴史とのつながりだった。
 まずは、全国の地名と読み方が一覧になった日本郵便の郵便番号データを検索だ。先に県外になかった地名から。多治見、瑞浪、恵那、美濃加茂、土岐、各務原、可児、本巣、下呂関ケ原、輪之内、安八、揖斐川、坂祝、富加、七宗、八百津、東白川、御嵩。東白川は郡名ならあり、美濃加茂も「加茂」に限れば複数あった。それ以外は県外にある。岐阜もある。織田信長命名したのでは? と疑いたくなるほどだ。
 主なところでは、大野や池田は福井県大野市や池田町をはじめとして複数ある。高山も長野県と群馬県に高山村がある。大垣、北方、中津川、川辺、白川といった地名は、字名に多く見られる。山県は長崎県佐世保市に山県町、郡上は滋賀県長浜市に小谷郡上町があった。
 意外なのが、笠松岐南、垂井だ。三重県松阪市笠松町山口県周南市岐南町兵庫県小野市垂井町とある。「角川日本地名大辞典」で由来を調べると、三重の笠松町が地元の神社に傘形の松があったから。山口の岐南町は詳しく書かれていないが地図を見ると「岐山」の名が付く学校や公園が見られるので、それが由来だろう。兵庫の垂井町は湧き水が多い地区といい、県内の垂井と由来が似ている。
 さて神戸。兵庫県神戸市をはじめ、愛知県一宮市神戸町名古屋市熱田区神戸町横浜市保土ケ谷区神戸町などがある。だが、よく見ると読み方がそれぞれ違う。もちろん兵庫の神戸は「こうべ」、県内と名古屋と横浜は「ごうど」、一宮は「かんべ」。さらに「じんご」や「かのと」と読む地区もある。神社由来の地名が多いようだ。
 旧国名でもある美濃と飛騨も各地にある。岡山県津山市美濃町は1603年に美濃国出身の森忠政津山藩主として入り、美濃から大工を連れてきたのが始まりという。京都市下京区美濃屋町は、江戸前期に町を開発したのが美濃屋源右衛門という人物。奈良県橿原市飛騨町は、飛鳥時代藤原京造営のため飛騨国から招集された木工集団「飛騨匠(ひだのたくみ)」が住んだと伝わる。富山県黒部市飛騨と南砺市飛騨屋は、飛騨国出身者が開拓したという説が有力そうだ。
 そして岐阜。実は北海道にある。岩見沢栗沢町岐阜、北見市常呂町岐阜、南富良野町幾寅岐阜。いずれも明治期に岐阜県から開拓者が入った地区だ。ちなみに養老も全国各地に見られるが、北海道浦幌町にも養老がある。ここも開拓が起源で「故郷の養老の滝にちなんで名付けた」という。同じく中標津町には「養老牛(ようろううし)」という地名も。アイヌ語で水に漬けるという意味の「イオロウシ」などに由来するらしい。
 北海道の岐阜に住む人は、今も"故郷"の岐阜県を意識しているのだろうか。電話帳には北見市の岐阜に「不破」の名字。電話口で不破利和さん(72)が「一度だけ母方の本家を訪れたことがあるが、つながりが消えかけている。元々、遠方で開拓移民は故郷に帰れず、付き合いが深くなかったのも背景」と話す。
 窓からオホーツク海が見えるという自宅。曽祖父の時代に北海道へ。父方は現本巣市、母方は現揖斐郡大野町からだった。祖父からは「岐阜県には不破郡があり、不破という名字の人も多い」と聞いていた。
 岐阜県から北海道の子孫への電話。岐阜という地名を残していてくれたからこそ話せたと伝えると、なんだかうれしそうで誇らしそうだった。各地に残る「地名」。それは、その土地の歴史を今に伝えるタイムカプセルなのだ。」
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 地名を姓名に使う日本人がいる。
 一国内、一民族内での姓名の数は、日本は多い方である。
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 日本民族を日本人たらしめているのは、日本国語の言語(音・声)と文字による名前である。
 日本国語の名前は、時空を超え、民族の歴史と民族の足跡を日本列島に刻み込んでいる。
 地名とは、民族の文化・伝統・宗教・歴史そして日本列島の自然、神々の息吹きである。
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 現代の日本人は、民族の歴史・文化・伝統・宗教に関心もなく愛着もない為に、祖先が付けた地名を意味もなく好き勝手に書き換えている。
 日本人は古いモノを大切して護り受け継いできた、はウソである。
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 昔の地名には、正統男系父系天皇を核とした民族中心神話・血の神話が埋め込まれていた。
 つまり、祖先から受け継いできた古い地名は皇室と宗教が一体化している。
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 現代日本人は、平成の大合併で昔ながらの地名を破棄する事で民族の多様文化を破壊した。
 現代日本は、行政などの事務手続き簡略化の一環として昔ながら地名を現代風の地名に変更し、日本国土から石器時代縄文時代から続く民族の文化・宗教・歴史を抹消している。
 由来や縁起を持った伝統的名前を抹殺して国土を無意味な無味乾燥の不毛地帯に変えようとしているのは、反宗教無神論・反天皇反日本のマルクス主義共産主義)である。
 つまり、彼らは民族を表記する地名や氏名・名前に愛着を持たず嫌いこの世・この地上から消し去ろうとしている。
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日本の地名の意外な由来 (PHP文庫)
本当は怖い日本の地名 イースト雑学シリーズ
地名から読み解く日本列島
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の情緒的な文系的現実思考はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の理論的な理系論理思考はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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💖30)─1─下層身分の海の民は難破船の遭難者・漂流者を助けていた。正統男系父系天皇と悪人正機説。〜No.123No.124No.125 

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 他利他愛で人を助ける日本人は2割、自利自愛で人を助けない日本人は3割、助けたいと思いながら立ちつくして何もせず傍観する日本人は5割。
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 縄文人の血を一番濃く受け継いでいるのは、部落民の中の海の民・海人である。
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 海難事故の一覧(一部抜粋)
・1821年(文政4年 / 道光元年) 唐船(17人乗組)が紀伊熊野に漂着。
・1850年4月 濠捕鯨船イーモント号が厚岸沖で難破。32人救助。
・1852年2月19日 アメリカの奴隷貿易船、ロバート・バウン号が、中国アモイからカリフォルニア州へ航行中に、沖縄県石垣島の崎枝村沖合で座礁し380人の中国人苦力が上陸した。
・1866年6月1日 イギリスの奴隷貿易船が、清の広東省からカリフォルニアに行く途中に、中国人苦力340人を乗せ、沖縄県竹富島蔵元前の浜で台風に遭って座礁し溺死者114人、行方不明者62人の犠牲者を出した。
明治元年=1868年}
・1873(明治6)年1月 仏商船ヲールアー号南房総沖で破船、17名救助。
。1873年7月 独商船ロベルトソン号宮古島沖で遭難、8人を救助。
・1874年3月20日 フランスの郵便船ニール号が、伊豆半島沖で座礁沈没、乗員乗客90人のうち助かったのは4人だけだった。積荷は日本政府がウィーン万博に出品した美術工芸品などで、ほとんどが水没した。
・1875年8月 英商船ジェームズ・ペイトン号浜松沖で座礁、難破。15人全員救助。
・1877(明治10)年11月19日 北海道瀬棚海岸沖にてロシア軍艦「アレウト」がおりからの暴風に煽られ座礁。乗組員60人全員が地元住民により救助されるも、翌78年4月20日迎えに来た軍艦「エルマック」へ「アレウト」乗組員がボートで向かう途中高波により転覆、12人が犠牲になった。
・1885年9月20日 米商船カシミア号種子島の東南海上で遭難沈没、12名救護。
・1886(明治19)年10月24日 イギリス商船「ノルマントン号」が、和歌山県潮岬沖で沈没、日本人乗客25人ほか、中国人、インド人乗組員12人が死亡。イギリス人船員は全員生存し、当時の日本で社会問題になった。
・1890(明治23)年9月16日  和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦「エルトゥールル号」が座礁沈没。乗員約600人中、地元の漁民らによって69人が救出されたが、587名が死亡または行方不明となった。
・1894年4月 英商船ドラメルタン号が種子島に漂着。29名救出。
・1905(明治38)年8月22日 瀬戸内海姫島灯台付近でイギリス船「バラロング」と軍用船「金城丸」が衝突し「金城丸」が沈没。165人が死亡・行方不明。
   ・   ・   ・   
 周辺諸国の中国人・朝鮮人・ロシア人は、海難事故で遭難し漂流している所を危険を顧みない日本人に助けられても、恩義を感じず、感謝もせず、日本人に恩を仇で返しても平気で恥じる所がなかった。
 彼らとは、人の心を持たない恩知らずな人間である。
   ・   ・   ・   
 人類史において、地球的に国際的に世界的に、日本民族が行った全ての貢献で報われた事・得をした事・良かった事・ためになった事など唯の一度もなく、犠牲を強いられ被害を被る損ばかりであった。
 それが、縄文人の子孫である日本民族の運命・宿命、逃れられない過酷な定めであったが、愚痴をこぼし、弱音を吐いても、八つ当たりせず、避ける事なく、無言で耐えて引き受ける。
 日本民族は、各種貢献、人助けを、公言して自慢する事を「恥」として嫌い、「天知る、神知る、我知る、子知る」で満足した。
 現代の日本国民と昔の日本民族は違う日本人である。
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 日本民族は、自己犠牲ではなく繋がる命、この場での縁と絆ゆえに助けた。
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 日本民族は、「情けは人の為ならず」である。
 因果応報。
 善因善果。
 悪因悪果。
 親鸞、「悪人正機説」。
 『歎異抄』第3章 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
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 悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。
 阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。
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 人生は目の前にあるがままで、奇跡も恩恵も恩寵もない、勢いがある所に偶然と必然、幸運と不運と悪運があるのみ。
 善人でも、悪人でも、死ぬ時はアッサリと死ぬが、人はなかなか死なないし死ねない。
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 漁民・漁師にとって、「海は国境はなく世界に通じる」ではなく「船板一枚下は地獄」であった。
 つまり、海は命が満ち溢れる豊な領域であったが、同時に死が支配する殺伐とした不毛の領域であった。
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 助けた日本人漁民は、無報酬で、打ち上げられた積み荷は助けた遭難者と共に引き渡して盗む事はなかった。
 「難破船の積み荷は盗まず返す」それは、徳川幕府時代から厳しい御法度(法律)で徹底されていた。
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 日本民族の古典的民主主義は、神社の神前で行う、責任の所在を消し去る百姓根性・ムラ根性による傘連判である。
 つまり、一蓮托生である。
 それは、共同体参加者一同が生死を共にする、舟が沈没して死ぬ時は皆一緒という「船乗りの掟」である。
 その意気込みは、諦めない・挫けない、不屈の精神・全身全霊で舟を守り、最後には勝つ・絶対生き残る、奇跡を信じず、あてにせず、自分(船員)達だけで死力を尽くして九死に一生を得る、である。
 そこから生まれるのが、前を向いて突き進む万歳突撃、一億総玉砕、カミカゼ特攻であって、自暴自棄的な集団自殺、陰気陰湿な死の美学、絶望的滅びの笛、狂乱のハーメルンの笛などとは関係である。
 全員参加・全体責任・全員賛成・全会一致という神前の傘連判を制度化したのが、伝統的天皇制度である。
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 日本民族の祖先である手漕ぎ丸木舟で海を行き来していた縄文人は、武装し略奪を生業としていた競争心・向上心の強い勇ましい海賊・倭寇・バイキングではなく、武器を持たず争いを嫌い気弱で穏やで陽気で器用な船乗りであった。
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 いい日本人は2割、悪い日本人は3割、あやふやな日本人は5割。
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 日本民族は、中国人や朝鮮人を付き合うほどの相手ではないとして敬して遠ざけ、友・友人・親友とはせず、信用・信頼できない人間として間違っても戦友などにはしなかった。
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 日本民族と漢族系中国人・朝鮮人とは、別種のようなアジア人で、古代から敵同士として友情はなく、お互い心の中で相手に対する消し去る事のできない嫌悪あるいは殺したいという憎悪を秘めて、相手に対する愛情・友情などは微塵もなかった。
 血は水より濃い。
 血は争えない。
 日本民族琉球民族アイヌ民族は、縄文人の直系子孫として血の繋がりがある兄弟民族で、共通の夷狄であるロシア、中国、朝鮮、ソ連、国際共産主義勢力そしてアメリカに対して仲間として戦友として戦った。
 そして、攻撃してくる外敵に味方して仲間・友・友人・親友・戦友を売る物は裏切り者として排除した。
 日本にとっての裏切り者が共産主義者マルクス主義者)であった。
 日本人共産主義テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を暗殺する為につけ狙っていた。
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 人は他人の助けを借りずとも一人で孤独に生きていける生物だが、海上では一人では生きていけない、が、陸上では一人で生きていける。
 事実、人は無人島でも動物や植物の食べ物と綺麗な飲み水があれば何年でも、一人で孤独を楽しみながら死ぬまで自由気ままに生きていける。
 海上では、数年どころか、数ヵ月、或いは数日、それこそ食べ物や水を大量に積んだ不沈船のような巨大な豪華客船・軍艦であっても嵐に遭えば一瞬で沈没すれば、宗教・哲学・思想・イデオロギーに関係なく全員が例外なく溺死する。
 土の上は神・天使の天国であり、水の上は死神・悪魔の地獄であった。
 日本民族社会は、海上生活に適している。
 中華(中国・朝鮮)社会は、陸上生活に適している。
 武漢肺炎(新型コロナウイルス)蔓延によって、昔の日本民族と現代の日本人が別人である事が明らかとなった。
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 日本沿岸には舟が難破する危険のある海域が多く、日本人漁民達は舟が難破すれば命の危険を顧みず、二次遭難を恐れず、漂流する遭難者を助け、拾える荷物は陸に揚げた。
 それは、強奪する為ではなかった。
 海に生きる仲間(海の人)として、遭難者が元気になったら預かった荷を返し、国元に帰るか目的地に向かうかは自由にさせた。
 日本を歴史に登場する海賊は、中国や朝鮮、西洋や中東、その他の世界で暴れまわる残虐な犯罪を生業とする海賊とは違う。
 日本民族の船乗り・漁師・海賊・海の人は、海を恵みをもたらしてくれる善神・神・和魂・御霊の神域と敬い、同時に、人を死に引き摺り込んで魂を喰らう悪神・荒魂・怨霊・物の怪・妖怪・亡霊・幽霊らが巣食う黄泉の領域と怖れた、それゆえに河川・沼・池・湖・海など「水」を穢す事は禁忌とした。
 が、全ての日本人が善人ではなく、悪人も少なからずいて犯罪を行っていた。
 良い日本人は2割、悪い日本人は3割、何れかに引き摺られやすい軟弱な日本人が5割。
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 科学的遺伝子(染色体)特性相続としての世襲継承には意味があるが、それは優劣ではなく、単なる得意不得意の差に過ぎない。
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 日本民族は商い舟難破の子孫で、他利で他者に依存する共助的である。
 漢族系中国人・朝鮮人は隊商崩れ盗賊の子孫で、自利で他人に依存しない自助的である。
 「人は一人では生きられない」と言っても、両者の協調・協力は同じように見えて本質から違う。
 現代の日本には、その違いが理解できない日本人が増えている。
 何故、そうした日本人が増えてきたのか、それは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力を失ってきているからである。
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 同じ日本人と言っても、現代の日本国民と昔の日本民族は別人である。
 よって、昔の日本民族を例えて現代の日本国民を説明する事は不可能である。
 現代の日本人論の多くが的外れで、現代日本人像が分かりづらい・見えづらいのはこの為である。
 特に、日本民族と漢族系中国人・朝鮮人を同じ人間、同種同文だと語る暴論には目眩がして吐き気がする。
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 日本人漁民は、漁村に近い沿岸で海難事故が起きれば難破船が日本国籍・外国籍に関係なく、「同じ海で生きる仲間は助け合い」との認識から見過ごしにせず、見捨てず、救助活動が命の危険をともなう事を承知で、遭難者・漂流民の救助にあたった。
 本音は、助けず見殺しにした事で溺死者の霊魂が怨霊となって祟り、その怨念で魚介類が消えたり、大型台風や高波、大地震や巨大津波など甚大なな被害をもたらす自然災害が起きる事を恐れたからである。
 それは、海洋民である日本民族が持つ大漁の魚介類の恵を与えてくれる海信仰、それは常世の国(神住む国・死者の国)信仰、海神(ワダツミ)信仰、客人(マレビト)信仰からくる怖れゆえに、目の前の海を穢さない汚さないであった。
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 自国の遭難者・漂流民が日本人に救助された事に対して、日本に対して感謝し恩義を感じる国もあれば、感謝せず無視する国もある。
 感謝せず無視する国は、ソ連以降のロシア人、中国人、朝鮮人など日本にとっての仮想敵国人である。
 帝政ロシア時代のロシア人は日本の敵国人ではあったが、礼儀正しく、助けてくれた事に対しては感謝した。
 ソ連時代のロシア人は、撃沈した避難民船から海上の逃れて漂流する日本人特に女性や子供を射殺して虐殺した。
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 中日新聞
 地域特集 浜松歴史のとびら
 ジェームズ・ペイトン号事件 沈没寸前の帆船 船員を救助 
 2019年8月23日 02時00分 (12月8日 10時33分更新)
 1875(明治8)年8月のことです。
 福島村(今の南区福島町)の沖を航海していたジェームズ・ペイトン号が、台風によって荒れ狂った波に押し流され、浅瀬に乗り上げてしまいました。ジェームズ・ペイトン号はイギリスで造られた帆船で、積載量380トン、全長約41メートルほどです。
 世界の海を航海する船の中では小型ではあったものの、当時としては最速の貨物船でした。
 台風による被害がないか浜を見回りしていた福島村の村長親子が、浅瀬で身動きがとれなくなったジェームズ・ペイトン号を見つけました。
「黒船だ。船の底が砂にめり込んでいる。船がどんどん傾き、このままでは沈没する。一軒に一人、村中から残らず人を集め、みんなで助けよう」
 村長がそう叫ぶと、息子はみんなを呼びに駆け出しました。
 船が今にも倒れそうになった時、たるを浮き代わりに結びつけた一本の綱が船から海に投げられました。
 「あの綱を浜までたぐり寄せることができれば、船員を助けることができる」
 浜に集まった村人は、次々に海に飛び込み、船と浜を命綱で結びました。こうして15人の船員全員を助けることができました。
 ジェームズ・ペイトン号の船員は、体調が落ち着くまで村人の家で過ごしました。
 船長はイギリスに帰った後、「日本人の家で服や食料を提供された。日本人の親切に心から感謝したい」と報告しています。
 福島村の記録では、言葉も通じず、生活習慣も違う船員への対応に悩みながらも精いっぱい尽くしたことが伺えます。今では日本人の誰もが知っている卵料理や牛乳を船員に要望され、右往左往した村人の記録も残っています。
◆イギリス政府が村民に感謝の品
 事件後、イギリス政府は、福島村に感謝の気持ちを伝えると共に、お礼のお金や記念品を贈りました。
 当時の村長の家には、その時、イギリス政府から贈られた水差しなどが、今でも残っています。
 <もっと知りたい人へ>
 参考文献:『英国難破船ジェームズ・ペイトン号事件』南区役所 区役所のホームページからダウンロードできます。
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⛩17)─2─1万年聖地の縄文神社。日本民族の縄文信仰と天皇の大嘗祭。~No.33 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族特殊論とは、自然ファーストとして日本列島の自然であって人間・日本人ではなく、生物・動物の日本人ごときは二の次に過ぎない。 
   ・   ・   ・   
 縄文神社と縄文信仰は、日本民族琉球民族アイヌ民族に共通するローカル宗教で、中国や朝鮮とは無縁の宗教で、世界的にも特殊な宗教である。
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 日本民族琉球民族アイヌ民族は、石器時代縄文時代から繋がっている。
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 祭祀王・正統男系父系天皇が行う宗教儀式は、全て国家行事・国事行為で、政教分離の原則とは別次元で制約を受けない。
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 日本民族宗教の原型を正しく継承し守護してきたのは、万世一系の正統男系父系天皇だけである。
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 YAHOO!JAPANニュース
 105社から40社を厳選。「1万年続く聖地」に行けば五感で癒やされ、ととのいまくる!
 6/29(火) 6:00配信
 週プレNEWS
 「安房神社は暴風雨を避けられそうな谷間にあるから、安心できて心が満たされる。野生動物だったら、命が危ないときに身を隠す安全な場所があるじゃないですか。それと同じ感覚です」と語る武藤郁子氏
縄文×神社――。
 そんなありそうでなかった組み合わせの"最強の聖地"を紹介しているのが武藤郁子氏が上梓(じょうし)した『縄文神社 首都圏篇』。
 武藤氏は「縄文神社とは、縄文遺跡と神社が重なっている場所」と定義。本書では、数千年から1万年近い歴史を持ちながら、いまだ"現役"としてあり続ける首都圏の縄文神社を40社厳選。「理屈抜きに気持ちいい」と感じる縄文神社の奥ゆかしき魅力に迫る!
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――本書の構成は大まかにいえば、縄文時代の文化や特色を中心にまとめたパート1、都県別に神社をまとめたパート2に分けられます。勝手にビジュアルメインのガイドブックをイメージしていたんですが、ルポ要素が強い読み物で驚きました。
 武藤 けっこう驚かれます(笑)。もっとシンプルな作りにもできたんですけど、それだともったいないなと。私、この本を書くために、今まで行ったことがあるところも含めて、昨年6月以降に105社お参りしたんですよ。
 それプラス、お寺さんとか、その近くの資料館にいくつも行って40社に絞りました。実際にその場所に自分が立ったときにどう感じるか、ということにこだわりました。
――ランク付けをしたり、御利益別にカテゴリー分けしたり、そういったことは一切しない、ストロングスタイルですよね。
 武藤 もちろん、構想段階では「リラックス度5つ星」とか、そういうまとめ方も考えました。でも、いい意味でどこも似ていたんです。どの神社もめちゃくちゃ気持ちよくて。泣く泣く40社に絞ったんですが、縄文時代から続いているという条件に合うところをリストアップして、そのなかで""いいところ"を選ばせていただきました。
――"いいところ"というのは武藤さんが現地に行って、"気持ちいい"と感じたところ?
 武藤 そうです、そうです。同業者の先輩には苦笑されたんですけど(笑)。もちろん、縄文遺跡や神社のご由緒、現地ルポのような部分は事実を固めていますが、そういう理屈を抜きにして、今回選んだ40社はどこもとにかく気持ちいいんです。数千年から1万年くらいずっとその場所にあり続けて、大事にされてきた場所ですからね。
――すみません、気持ちよさって具体的には?
 武藤 ひとつは風ですね。どこも風通しがいいんです。空気が循環しているような感じというか。フッと撫(な)でられるような風が吹くんですよね。神社ってもともと気持ちいい場所が多いですけど、特に縄文神社はそう感じます。
 あとは湧水に関わる場所が多いのも特徴ですね。マイナスイオンとか出てるんですかね? 透明な池だったり、チョロチョロと流れる音だったり、癒やされるんですよね。
――五感で癒やされるんですね。
 武藤 あとは安定感があるんです。安心感ともいえるかもしれません。安房(あわ)神社(千葉県館山市)さんがわかりやすいですね。房総半島って高い山がなくて丘陵地帯ばっかりなので、台風が来ると大変なことになるんですけど、安房神社は暴風雨を避けられそうな谷間にあるんですよ。
 だから、実際にお参りに行ってみるとすごく安心できて、心が満たされる感覚があって。身を寄せられる場所というか。野生動物だったら、自分の命が危ないときに身を隠す安全な場所があったりするじゃないですか。それと同じ感覚です。
――初心者がまず行くべき縄文神社を教えていただけますか?
 武藤 最初は本書でご紹介している2、3社に行ってみてほしいんです。すると、「なるほどね」と思ってもらえると思います。一応、「最初にどこに行ったらいい?」と聞かれたときにオススメしているのは二宮(にのみや)神社(東京都あきる野市)。都心から近いし、しかも東秋留(あきる)駅から徒歩5分くらいとアクセスもいい。
 あと本文でも書いてますが、もう神社自体がめっちゃきれいです。境内の横に考古館があるのもいい。縄文マインドをととのわせるためには土器とか土偶を見たほうがいいんですよね。
 境内で出土したものが見られるので盛り上がります。湧水も、引くくらいきれいです。普通もうちょっと藻がありますけど、透明感がすごいし、キラキラしていて絵になる美しさですね。
――東京以外だと、どこかオススメの場所はありますか?
 武藤 正直絞り切れないんですけど......二宮神社と並ぶ、王道中の王道といえば比々多(ひびた)神社(神奈川県伊勢原市)。ここも境内に博物館があるので見られます。数千年前から同じ場所で祭祀(さいし)が行なわれていたということですから、気分が上がりますよね(笑)。
 実際に行ってみると、これがまた実に朗らかで。ものすごく明るいんです。境内の雰囲気も厳かだけど怖くないし、優しい雰囲気でホッとするんですよ。本殿の裏にある坂道を10分くらい上っていくと果樹園があって、そこを抜けていくと小さな奥宮がありますが、その高台から相模(さがみ)湾とか江の島とかが一望できるんです。まあ気持ちがいいですよ。
 神社って陰陽でいうと陰のイメージもあると思うんですけど、縄文神社はどちらかというと陽が強いですね。だからこそ明るいし、実に朗らか。気が滞っていないから空気も新鮮なんです。
――縄文神社探訪の第一人者である武藤さんが、一番そのパワーを浴びていると思うんですが、コロナ禍で105社を巡られてみて、今どんな心境ですか?
 武藤 縄文神社という祈りの場所は数千年から1万年くらいずっとそこにあり続けるものですけど、1万年の間にどれだけ価値観が変わってきたのか、あるいは変わらなかったのか。そういうことに思いを馳(は)せると大概のことが許せるようになるんです。
 コロナもあって大変な状況でつらい人も多いと思うけど、そういう状況からいったん離れてみるというのは大事だし、縄文神社はすごく助けてくれると思います。そんな遠出をしなくても、割と身近にあるので行きやすいですしね。
――縄文神社を訪れるときに意識すべきことはありますか?
 武藤 ある程度、自分の頭をそういうモードにしたほうがいいですよ。「ここって実は数千年前からあるんだよな」というのを頭に入れて、自分でコンディションをつくって行くと絶対ととのいます。そうすると、今まで行ったことのあるところでも、ちょっと違うものに感じると思うんですよ。
 ●武藤郁子(むとう・いくこ)1973年生まれ、埼玉県出身。神仏や歴史を偏愛し、縄文人に憧れる少女時代を送る。立教大学社会学部産業関係学科卒業後、出版社に入社し、単行本編集に携わる。独立後、2011年ありをる企画制作所を設立。現在、ベストセラー作家の時代・歴史小説やエッセイなどの編集に携わるかたわら、文化系アウトドアライターを名乗り、本質的な美や「場」に残された古い記憶を探し求める旅を続けている。webサイト『ありをりある.com』と『縄文神社.jp』を運営。共著に『今を生きるための密教』(天夢人)がある
 ■『縄文神社 首都圏篇』(飛鳥新社 1760円)境内から縄文時代の遺跡が発掘された神社は実は日本にかなり存在する。縄文期から聖地だった証であり、「祈りの場として現在までつながってきた」という点で、世界的にもほとんど例がない。本書を上梓した武藤郁子氏は、そうした神社を「縄文神社」と定義。コロナ禍の昨年6月以降、東京、神奈川、埼玉、千葉の縄文神社105社を来訪し、「気持ちよさ」を基準に40社厳選
 取材・文/草作
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 (一社) 隠岐ユネスコ世界ジオパーク推進協議会
 〒685-0013 島根県隠岐隠岐の島町中町目貫の四61番地
 E-mail: info@oki-geopark.jp
 Tel: 08512-3-1321 Fax: 08512-3-1322
 ホーム 人の営み 隠岐だからこそ生まれた文化 今も伝える縄文信仰
 今も伝える縄文信仰
 隠岐の風景の中には、宗教のルーツを感じさせるような場所もあります。
 日本固有の宗教である神道のルーツとされる自然信仰(山岳信仰や巨木信仰)の形を現在に伝えるような祭りや神社があります。島後布施地区の大山神社には社殿がなく、鳥居をくぐるとご神体である樹齢400年の杉の大木があり、一山全体が神社として祀られています。
 その杉の巨木にカズラ(サルナシのつた)を七回り半巻き付ける神事は、恵みを与えてくれる山や自然に対しての感謝の証であり、これから始まる山仕事での安全祈願と子孫繁栄を願うためであるとも考えられています。
 布施の大山神社
 大山神社の山祭り
 その近くにある、隠岐の三大杉としても知られている乳房杉も巨木信仰の対象であり、社殿のない岩倉神社のご神体となっています。
 また、銚子地区にある御客神社も大山神社や岩倉神社と同様に社殿がなく、巨岩に注連縄を張りその前に鳥居を建てています。
 岩倉神社(乳房杉)
 御客(おんぎゃく)神社
昔の人は、今の私たちにとってのジオサイトジオパークの見どころ)と同じように、驚くような自然の景観を特別に大事にしていたということがわかります。
 ポイント
・巨木信仰、巨岩信仰などの、古代の自然信仰の名残が見られる
・御客神社、大山神社、岩倉神社などの社のない神社がある
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 ダ・ヴィンチニュース
 トップレビュー縄文時代から現代、歴史の神秘に想いを馳せる旅へ。首都圏各地の「縄文神社」を訪ねて
 縄文時代から現代、歴史の神秘に想いを馳せる旅へ。首都圏各地の「縄文神社」を訪ねて
 暮らし 公開日:2021/7/7
 縄文神社 首都圏篇
 著: 武藤郁子 出版社: 飛鳥新社 発売日: 2021/06/07
「縄文神社」とは、「縄文時代の遺跡と神社が重なっている場所」を指します。
 そう定義し、日本各地に存在すると提唱しているのが、幼少期からの歴史好きが高じて “文化系アウトドアライター”として本質的な美や「場」に残された古い記憶を探し求める旅を続けている武藤郁子さん。各地の神社を参拝する中で、境内やその周辺から縄文遺跡が出土している場所が多いことに気づき、何か関係があるのではないかと調査しはじめたといいます。
 調査の結果、なんとその数は関東だけで100社以上にも上ると発覚。首都圏にある「縄文神社」を『縄文神社 首都圏篇』(武藤郁子/飛鳥新社)にまとめ、厳選して紹介しています。
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 大嘗祭は「稲の祭祀」ではなかった!
 2019/10/ 8
 型通りの神社ガイド本――なのかと思っていたら、もっと深く掘り下げられていた。『縄文の神が息づく 一宮の秘密』(方丈社)。なかなかの力作だと思う。全国の神社について、なるほど、そうだったのか、という興味深い話が満載されている。11月に大嘗祭が行われるが、その前に一読しておくと、謎の行事に対する理解がいちだんと深まるはずだ。
 48社を厳選
 一宮、二宮、三宮、四宮。あるいは大宮、小宮など「宮」が付く人名や地名は多い。本書は「宮」=「神社」をテーマにして考察したものだ。
 全国にはざっと8万社の神社がある。各地域でいちばんの神社を「一宮」というそうだ。根拠は何か。ひとつは、927年に完成した全50巻に及ぶ平安時代法令集延喜式』。その中に「延喜式神名帳」というのがあって、そこに全国で2861社の神社名が記されている。さらにその中で224社が「名神大社」(とくに霊験あらたかとされる神)になっている。これが神社についての最古の公式記録、ランキングだという。
 一方で、地域ごとに古くから「一宮」と呼ばれている神社がある。主として民間レベルの呼び方だ。「名神大社」と重なる神社が多い。あるいは、正式な神社名そのものに「一宮」が含まれているものもある。室町時代に成立したとされる一宮神社についての最古の資料『大日本国一宮記』には67社が掲載されている。
 これら各種の資料から、本書が絞り込んだ名実ともに地域を代表する「一宮」は全国で48社。出雲大社諏訪大社鹿島神宮住吉大社宇佐神宮厳島神社などの有名どころから、全国的な知名度では劣るものまで多彩だ。各種の神社ガイド本の数字よりも厳選している。
 著者の戸矢学さんは1953年生まれ。國學院大學文学部神道学科卒。『神道入門』『氏神事典』『怨霊の古代史』『深読み古事記』など多数の関連書がある。
 埼玉県民は元気づく
 本書は8章に分けて、地域ごとの代表的な「一宮」の由緒をたどっていく。関東地方、とりわけ埼玉県民にとって大いに興味をひかれるのは「氷川神社」についての説明だろう。本書では、さいたま市(旧・大宮市)にある氷川神社武蔵国の一宮とされているからだ。
 かつての武蔵国は現在の埼玉県と東京都を合わせたエリアとほぼ同じだ。武蔵国の中心は府中(東京都府中市)だったが、国府が設けられたのは8世紀の初めのこと。それまでは、武蔵国造の依拠する大宮が中心地だった。したがって「一宮」は府中の大国魂神社ではなく、大宮の氷川神社というわけだ。つまり東京よりも埼玉が由緒があるということを明かす。たしかに神社のHPを見ると、「2400年以上の歴史をもつといわれ、大いなる宮居として大宮の地名の由来にもなった日本でも指折りの古社。武蔵一宮として関東一円の信仰を集め・・・」と記されている。
 大宮の氷川神社は、全国に291社ある氷川神社の総本山。このうち251社は武蔵国にある。氷川神社は「武蔵ローカル」で圧倒的な存在感を持つ特異な神社でもある。
 明治天皇は東京に入ってわずか4日目の明治元年10月17日、大宮の氷川神社武蔵国の総鎮守とし「勅祭社」と定めた。10日目には早くも大宮に行幸、翌日にはみずから御親祭を執りおこなったというから、重視ぶりには何か特別なものを感じる。
 著者は以下のように推測している。氷川神社の神として祀られた人物は、かなり早い時期に武蔵一帯を統治していたに違いない。周囲を見渡すと、大宮の北方約30キロに「鉄剣」で有名になった稲荷山古墳がある。一帯の「埼玉古墳群」は前方後円墳8基などを持つ全国有数の規模だ。この近辺にかつて"小国家"、もしくは"地方政権"が存在していたことは確かだろう・・・。
 氷川神社自身の「由緒」には、「大和朝廷の威光が東方に及ぶにつれて、当神社の地位も重くなった」とあるそうだ。著者は、朝廷が東国を支配するために氷川神社を利用したと見ている。征服ではなく「共存共栄」の道を選んだのだ。それほどの勢力があったということなのだろう。映画などで何かとバカにされる「埼玉」だが、郷土史を見つめ直してみる契機にもなりそうだ。
 縄文と弥生の共生
 本書ではもう一つ、徳島の大麻比古神社についての話が面白かった。徳島の旧名は阿波。それは「粟(アワ)」の産地だったから。粟は、稲の栽培が盛んになる前から食料として利用され、大地の恵みの最たるもの。すなわち神前に供えて感謝する産物だった。考古学的には、日本には縄文時代から存在していたことが分かっている。
 この「縄文」とは、表面に縄目を記した土器に由来する。この「縄」は麻縄で付けられた。縄文時代において「麻」はそれほどポピュラーな植物だった。麻は神事でも、きわめて重要な役回りがある。神具のいくつかには必須であり、大麻でつくられた巨大なハタキのようなものによるお祓いの儀式は今も地鎮祭などで見られる。
 そして大嘗祭。そこでは麻の織物「あらたえ」と、絹の織物「にぎたえ」が献納される。神前に供える食物は「粟」と「稲」をともに献上する。一般的には、「大嘗祭は稲の祭祀」と思われているが、著者は、「粟+麻」と「稲+絹」の儀式と見なす。「粟」と「麻」は縄文の、「稲」と「絹」は弥生の象徴であり、「大嘗祭は、この両者の共生を示す祭祀」というわけだ。
 著者は、麻は大麻でもあり、古代の人びとは麻を単に縄や衣服で用いただけではなく、「麻酔い」で神がかり状態になったり、薬にもなるという特別の効能についても知っていたはずだと見ている。
 今度の大嘗祭に使う麻は、そのためにわざわざ徳島で種を撒かれ栽培されたもの。麻織物を手掛けるのは古代の職能集団「阿波忌部」の末裔だという。「大麻比古神社」を一宮とする徳島(阿波)における「粟」や「麻」、神事とのつながりは今も続いていることを知る。
 本書はこのように、意外な事実が次々と登場して飽きない。地域の「一宮」の背後から古代史のミステリーゾーンが壮大な物語となって浮上する。タイトルに「秘密」とあることに偽りはないといえる。いま観光客などでにぎわっている有名な神社が、必ずしも長い伝統を持つわけではないことなども分かる。ちなみに、「二礼二拍手一礼」など、現在の神社についての私たちの常識の多くは、明治政府によってつくられたものだという。全国のほとんどの神社の御神体も、明治になって「鏡」に変更させられているそうだ。
 本書ではこのほか、富士山本宮浅間大社、奈良の大神神社、大分の宇佐神宮などの解釈も新鮮だった。鹿児島から宮城までほぼ各県の一宮が登場するので、自分にゆかりのところだけ読んでも楽しめる。
   ・   ・   ・   
 書名
 縄文の神が息づく 一宮の秘密
 監修・編集・著者名
 戸矢学 著
 出版社名 方丈社
 出版年月日 2019年9月13日
 定価 本体1850円+税
 判型・ページ数
 四六判・256ページ
ISBN
9784908925511
   ・   ・   ・   
縄文神社 首都圏篇
縄文の神が息づく一宮の秘密

💖15)─1─『善き社会』をつくる人類の本質。日本人はなぜ愚かにも「お人好し」なのか?~No.59No.60No.61 

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 日本民族は漂着民の子孫で、目の前で船が難破すればムラ人総出で遭難者を助けた。
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 2021年7月号 Voice「『善き社会』をつくる人類の本質
 先祖から受け継がれた遺伝子が、友人や恋人の選択に影響を与え、社会の構造や機能をも形成する。
 ニコラス・クリスタキス  (取材・構成 大野和基)
 遺伝子に刻み込まれた『善』の性質
 ──(大野)著書『ブループリント』は、異文化間で生きる人類の類似性を示すながら、人類がどのようにして社会を創造してきたのかを、進化の視点から分析していますね。また、人間の性質を決めるのは、遺伝子に刻まれた『普遍的特徴』と、後発的に社会のなかで獲得した『文化的要素』とがあり、両者は厳密には分けられず、お互いに相関し合っていると説いています。まずあなたは、人間性の源泉にはどのような性質が備わっていると考えていますか。
 クリスタキス その質問に答えるには、一歩下がって考えてみる必要があります。多くの一般人あるいは科学者が人間の本質について考える際には、利己的や暴力的な性質、残酷さや嘘をつく性質など、人間性の悪の部分に焦点を当ててきた。他方で注目すべき人間性の善い面は無視されてきたといえるでしょう。しかしわれわれは、愛し、友情を育(はぐく)み、助け合い、相手の独自性を認めるほどの性質を備えています。そして、このような人間の善い性質は、悪い性質を上回るのです。
 私が『ブループリント』を執筆した目的は、進化生物学や人類学、考古学や遺伝学といった実証的な根拠に基づいて、われわれがどのようにして善き人間になったかを説明することでした。そしてわれわれの遺伝子が、身体の構造を形成するのと同じように、マインド(思考)や行動の在り方に影響し、社会の構造や機能さえも形成していることを証明しました。
 いま私は『社会』といいましたが、それぞれの社会によって相違点があります。誰しもが日本社会とエジプトやギリシャアメリカ社会には文化的相違点があることを認識します。その一方で、根本的な類似点を見落としてしまっている。私が重要視しているのは、表面上に現れる違いではなく、その内側に存在する『人間の共通の本質』なのです。
 では、私たち人類の遺伝子に刻まれている普遍的特徴とは何でしょうか。それを私は『社会性一式』(socialsuite)と呼んでいます。『社会性一式』には、①個人のアイデンティティをもつ、またはそれを認識する能力、②愛情、③交友、④社会的ネットワーク、⑤協力、⑥所属する集団への好意、⑦緩やかな階級制(相対的な平等主義)、⑧社会的な学習と指導、という8つの非常に重要な性質があります。これらは進化のなかで形成され、われわれの遺伝子に刻まれています。つまり、すべての人間社会がその性質を示していると捉えられます。
 異なる結果を生んだ2つの事件
 ──現代においては、社会的ネットワークが希薄化したことで、集団への好意などは芽生えにくく、むしろ孤立を好む人も存在するのではないでしょうか。遺伝子に刻まれた性質に抗(あらが)うような行動をとる人には、どのような要因があるとお考えですか。
 クリスタキス 理解すべき重要なことは、『社会性一式』は人間の本来の性質として存在するが、異なるすべての社会で現れるとはかぎらない、ということです。自然選択(自然淘汰)によって適応してきたわれわれの腎臓は、みな同じように機能します。しかし腎臓が適切に働くか、腎臓病になるか否かは人によって異なります。すなわち、どの社会に生きる人びとにも、つねに愛情があり、協力的であるわけではありません。ただし、本来備わっている遺伝子的性質によって、人間が共に生きていくことを可能にしているのも事実です。
 ……
 ──本書で紹介された興味深い事例は、難破船の事例です。どこかの島に投げ出された、異なる文化背景をもつ人たちが、強制的に新しい社会をつくらなければならなくなった場合、善い社会をつくるか否かには、何が関係しているのでしょうか。
 クリスタキス 偶然にせよ意図的にせよ、組織をつくる際に、『社会性一式』のルールに沿っている人のグループは、成功する確率が高くなります。自然の性質に逆らっていないためです。ですから、難破船の乗組員が『社会性一式』に則(のっと)って行動する能力がより高ければ、相手を認め、協力し合う社会が創出されるといえる。
 多くの難破船の事例が報告されているなか、とくにお気に入りの2つの事例があります。それらは、無作為につくりだされた完璧な実験であるといえます。それらは1984年にニュージーランドの南にある島で同時期に起きました。島の南側では、グラフトン船が難破し、5人が漂着します。彼らは2年間の生活を島で過ごし、全員が無事に生還しました。。
 一方、島の反対側のはイヴァコールド号が漂着しました。乗員25人のうち19人が漂着し、1年間生存することができましたが、最終的に生き残ったのは3人だけでした。つまり、同時期に同じ島に生存した2つのグループが、真逆の結果を生み出していたことになります。
 何がその違いを説明するのでしょうか。私の考えでは、船員たちがどれほど『社会性一式』に従ったかに拠(よ)るとみています。1つ目事例であるグラフトン船が難破した際、船長は高熱を出して、船長室で一人横になっていたそうです。船が沈没しかかっている状況のなか、残りの4人は自分の命を顧(かえり)みず、船長の命を助け出しました。この難破船物語は、みなが協力し、船長の命を救ったことからスタートしたのです。
 島においても、彼らは、民主的な投票によってリーダーを選出し、残るメンバーにはそれぞれの役割を与えました。またお互いの知恵を教え合い、代わる代わる教師や生徒になることで、緩やかな上下関係を構築しながら、実際には対等な地位を保つことで、信頼や敬意、そして結束を築いたといえます。
 もう一つの事例では、漂着した19人の船員のなかに『自分の命は自分で守れ』というスタンスが存在していました。そこではお互いが争い合い、共食いも行われていたそうです。誰かが負傷しても見捨て、メンバー全員で社会を築き上げていく姿勢を見せなかった。人間の『社会性一式』という性質が現れなかった事例だといえるでしょう。
 友選びと遺伝子
 ──あなたは、人間の友情や、友人の選択方法に関しても遺伝子的影響が」あると説いていますね。
 クリスタキス そもそもなぜ人間は友人を必要とするのでしょうか。ほかの動物と同じように人間もセックスをしますが、それは生殖のためだけではありません。加えて、セックスをせずとも他人との心を通わせ、長期的なnon-reproductive union(非生殖の繋がり)を生み出します。なかにはゾウや鯨(くじら)のように友情をもつ動物もいますが、長期的な繋がりを構築するのは非常に稀(まれ)です。
 ですから、人類が誕生したときから友情を育む種(species)であったと当然のように考えるべきではありません。どのような人を好きになり、友人に選ぶかという能力は、進化の過程でかたちづかれたのです。
 読者のなかにも、一目惚れの経験をもつ人がいるかもしれません。人類は5~10%の人は一目惚れを経験しています。なぜすばやく相手を選ぶ能力を与えられているのかを、生物進化の視点から説明することは難しいことではありません。選ぶ相手によって、自分の家系の継続が決定されるためです。多くの動物が、どの相手を選ぶかは遺伝子によって決められていますが、同じことが人間にも当てはまります。
 逆に、初対面で『なんだか気に食わない』と感じてしまう相手もいますね。多くの情報がないまま、この人は信用できるか、自分と波長が合うかなどをすぐに判断できるのは、自然選択(淘汰)のなかで培われた能力だといえます。
 ……私たちの祖先が、種の生存のためにどういった相手を選び、適切な社会ネットワークを構築してきたかが、子孫にも遺伝していくと考えられます。もちろん、育った環境や学校など、遺伝子以外の文化的な要因も、友人を選ぶ際に大きな影響を及ぼしているのはいうまでもありません。
 ──無意識のうちに、誰であれば自分の所属する社会を存続させられるかを考慮しているわけですね。
 クリスタキス 社会生活を営むためには、われわれが個人として区別される必要があります。社会生活をする際に、自分にとって誰が危険な存在かを知る必要がある。そのため、人類の進化のなかで異なる顔をもつようになり、その違いを認識する『認知能力』が備わったのです。実際に脳の大部分は、個々の異なるアイデンティティを認識することに『仕事』を割(さ)いています。
 ……
 たとえば知っている人が亡くなった場合は悲しみが、知らない人の場合は悲しみません。そこには個人の独自性が関係しています。独自性がなければお互いの共通の属性をみつけにくいため、相手に共感を抱くのも難しい。そのため、人びとの独自性と個別性を強調し、個人的な特定の関係に基づいて友情を深める豊かな土壌を提供している社会ほど、人間の遺伝子に備わっている『共通』の属性が出現できるようになるのです。
 ──現在、世界では分断が進んでおり、とくにアメリカではいままで以上にそれが深刻化しているというます。生物進化的視点でみると、人類の分断にはどのような要因があるとお考えですか。
 クリスタキス 『内集団バイアス』が関係しています。これは、われわれはどんな特色をもったグループであれ、自分が属するグループのメンバーを好む傾向になるという心理です。そして、集団の結束をより強固にする方法は、『共通の敵』をもつことです。それは必ずしもべつのグループの人である必要はなく、大災害の場合もあります。個々の日本人のなかで政治的な相違があったとしても、津波がやってきたときは、誰もその相違を考えませんね。それは津波という共通の敵があるからです。
 ……
 何十万年ものあいだ、われわれは狩猟採取民でした。人びとは小さなグループを形成していて、国民国家というかたちは存在していなくとも、グループのメンバーと一緒に生き延びるという願望を育成してきたのです。そして、現代にもその特徴が現れています。たとえば、狩猟が上手くいかず、食料が乏しい状況に置かれた人類は、『より多くの栄養を蓄(たくわ)えなければならない』という生理機能が発達した。一方で、現代社会では食料が有り余っており、その結果、肥満が蔓延しています。欲しいものが何でも買える食料品店がない時代に進化したわれわれの肉体は、カロリーをいつでも補(おぎな)える現代には適応しなくなっているのです。同様に、古代の進化の果てに培ったバイアスや偏見という特性も、現代では有利に働かなくなってしまったといえるでしょう。
 生物にとって適切なシステム
 ──どの国においても、民主主義や社会主義といった国家システムを所有しています。とくにアメリカは民主主義がもっとも最適なシステムであると考えていますね。生物進化の視点からみるといかがでしょうか。
 クリスタキス アメリカ合衆国の建国の父が憲法を立案した際、『社会性一式』の要素が多く含まれていました。憲法で保障される権利の1つには 『集会の自由』がありますね。ここには、自分が好きな人を選んで集まっていいという意味が込められており、国は市民の社会的交流について一切の関与をせず、各々が遺伝子や文化的背景によって選択した友人を選んでよい。これは私が『ブループリント』の『友情の進化』について述べた原理と同じです。
 ほかには『言論の自由』も保障されています。人は互いに何をいうかについて、国が規制するべきではない。これは『社会性一式』の進化の要素の一つ、互いのアイデンティティを認め、学習と指導をし合う要素に関係しています。互いに知恵を共有するように進化した人類が自由に言論し合うことは、人間の本質に合致しているということです。流れに逆らって泳ぐのではなく、流れに従ったほうがよりスムーズに泳げます。社会も同様にできているのです。
 民主主義は、進化の性質に沿って泳ぐようなものです。一方で独裁政治や全体主義はその流れに沿って泳がないことです。毛沢東スターリンの政治は、アリに向かって、ミツバチの巣をつくるように命令するようなものでしょう。ですから、生物の性質に逆らう政治には、限界があります。そういった意味では民主主義は最善のシステムだと思います。
 ──あなたは、人間の社会を説明するときに、進化的な力よりも歴史的な力のほうが突出しているとみなすことには重大な危うさがある、と説いています。それはなぜでしょうか。
 クリスタキス 人類の物語がもろくなってしまうためです。生物の本質よりも、あとから築き上げた歴史的な力のほうが上だと思えば、諦めが生じて、よい社会秩序は不自然なのもだとまで思ってしまうかもしれません。
 私の主張は、人類のポジティブな面を説明するには、歴史的な力に頼る必要はないということです。たしかに歴史が作用して、人間ないしは社会の在り方が決定されたこともあります。しかし、それよりもはるかに長期的な、何十万年という進化の過程のなかで、人類は善い社会をつくる能力を与えられてきたのです。繰り返すようですが、民主主義社会に生物進化において論理的根拠が存在しています。ですから、見通しうる将来において、われわれ本来の性質に沿う民主主義のシステムが没落することは当分のあいだないでしょう。」
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ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(上下合本版) (NewsPicksパブリッシング)
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