🕯143)─1─日本民族の死生観・人生観・宗教観・自然観の最古層は縄文人である。~No.303No.304 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族は、琉球民族アイヌ民族と同様に南方系海洋民縄文人の直系の子孫で、漢族系中国人や朝鮮人・韓国人とは血の繋がりは薄い。
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 2021年8月号 WiLL「目からウロコ『土偶を読む』の破壊力
 中村彰彦 竹倉史人
 ミステリ以上の面白さ
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 中村 随分昔になりますが、1977年、米考古学者のラルフ・S・ソレッキによる『シャニダール洞窟の謎』(蒼樹書房)という本が出版されました。
 イラク北部の考古遺跡であるシャニダール洞窟から3万5000年前から6万5000年前にかけての、ネアンデルタール人の人骨10体(うち4体はほぼ完全な骨格)で発掘されたことを記した本で、とても感動したことを覚えています。彼らの墓を調べると、花粉が採取され、きれいな花が覆われていたのがわかった。つまり、人類史上、最初に献花をしていたことが判明した。こういった話から古代人とは何か、縄文人とは何か、関心と興味を深めていったのです。
 竹倉さんは、縄文時代にどのようにアプローチされたのですか。
 竹倉 世界の神話や儀礼について興味がありました。それを調べていく中で、日本の縄文時代における神話とは何だったんだろうかと疑問に突き当たったのです。ですが、縄文時代は文字がない。だから、その当時、どのような神話が伝承されていたのか、現代人にとってわかる術がありません。さて、どうしたものかと思案したとき、『あ、土偶があるな』と。土偶を調べることで、そこには縄文人の精神世界が何かしら反映されているのではないか。そこからスタートしました。
 やっぱりこれだ!
 竹倉 ……調査した14冊(中学校8冊、高校6冊)のうち、計10冊が『土偶は女性をかたどっている』、うち2冊は『妊娠女性』と明記されていたのです。確かに人間ぽく見える土偶もないことはない。でもほとんどの土偶は、頭にせよ四肢にせよ、人体とするにあまりにもデフォルメされすぎています。これを『人間をかたどったもの』と考えるのは無理があると思ったのです。
 中村 有名な『遮光器土偶』(亀ヶ岡遺跡/青森県つがる市)は、目にあたる部分がイヌイットエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしている事から、こう名称がつけられたと説明されています。……
 竹倉 この土偶こそ食用植物モチーフとの初めての出会いでした。最初、『あれは植物を模したものではないか』と直観的に仮説を立てたのです。土偶の四肢の形態がサトイモに酷似していることに気付いたからです。
 ……かの有名な『ハート形土偶』(群馬県吾妻郡郷原)です。長野県の山中の渓流を歩いていると、ある木の実を見つけました。それがオニグルミだった。石の上にオニグルミを縦に置いて、もう一つの石をハンマーのように使って割ったところ、中からハート形が見つかったのです。まさにハート形土偶はオニグルミそのものだった。
 中村 ざざむしやイナゴなどが代表的ですが、長野県は縄文以来の食べ物を食べている土地と言われています。……
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 中村 『縄文ビーナス』(棚畑遺跡/長野県茅野市)も取り上げておられますが、この土偶は豊饒(ほうじょう)性を象徴する『妊婦説』『地母神説』『宇宙人説』などで説明されていました。でも、それらの説には何ら根拠がなく、ただ思い付きでしかないことが、竹倉さんの説明でよくわかる。
 竹倉 縄文のビーナスのような土偶のことを、私はカモメライン(眉弓の位置にあるカモメのような造形)土偶と名づけています。中村さんが仰るように、妊娠説や地母神説の説明で片づけられていた。でも、それ以外のカモメライン土偶を調べると、ウエストが豊満なものばかりではなかったのです。それに『女性』といってもその証拠は何もない。むしろ、とても女性には見えない土偶もたくさんあります。
 となれば、私自身の仮説に紐づけて、半信半疑ながらも調べてみる価値はあると思ったのです。土偶が発見された地域でフィールドワークをしていると、まさにカモメライン土偶にそっくりの植物を発見しました。それがトチノミです。トチノミを頭部に見立てると、そこには土偶同様のカモメラインがあったのです。
 食物連鎖の世界が土偶
 中村 もう一つ感心したのは、縄文のビーナスの頭はマムシを模したものと指摘されたことでした。私自身もこの像がなぜ細い吊り目と鼻孔なのか、気になっていたんです。竹倉さんの説明を読み、一気にストンと腑に落ちました。
 竹倉 ありがとうございます。同じ地域から見つかる土偶に、頭の上に蛇が載っているものがいくつも発掘されています。同体の模様からマムシだろうと以前から言われていました。そこからさらに私が進めたのは、土偶の顔、正確には仮面ですが、これもマムシだろうと。その結論に至った決定打は瞳孔です。というのも、本州に生息する蛇のうち、瞳孔が猫の目のように縦に細くなるのはマムシの特徴なのです。自然の中で暮らす縄文人もこの特徴に注目して、土偶の顔に表現したのだと思います。ビーナスの吊り目もマムシだと考えれば腑に落ちますよね。
 中村 マムシをモチーフにした理由は何でしょうか。
 竹倉 トチノミが主食級のメジャーフードになったことが大きいと思います。トチノミは9月になると地上に落ちますが、放っておくと全部アカネズミに持ち去られてしまいます。つまり、アカネズミは縄文人にとっれ獣害そのもの。ところが、このアカネズミにも天敵がいます。それがマムシ。トチノミ食に依存する人間にとってまさに救世主ですね。だから、縄文人マムシをトチノミの精霊の使いとして表象し、マムシの仮面を装着したトチノミの精霊像、すなわちカモメライン土偶を生み出したと考えられます。
 中村 土偶には『人・植物・動物』の食物連鎖の世界が描かれているわけですね。
 竹倉 このシナリオはあまりにもよくできているので、我ながら『単なるこいつけじゃないか』と思っていました。でも、実証的に、現在ある条件・情報を積み重ねていくと、私の仮説以上に土偶の造形を合理的に説明するものは見つかりません。
 平和な縄文時代
 中村 興味深いのは、細め吊り目の土偶はカモメライン土偶だけで、ほかの土偶は実に穏やかな表情をしたものばかり。
 考えてみると、縄文時代は1万年以上、戦争をした形跡が残っていません。刀傷のある遺骨が出てきていないのです。むしろ、命を大切にする文化だった。北海道の入江貝塚土人骨からは筋萎縮症の遺骨が発掘されています。ですが、そういう病気を抱えながら成人していることがわかった。縄文社会では、障害を負った子供でも生かすための工夫がなされていたのです。実はネアンデルタール人にも、同じような遺骨が見つかっています。それは歯がひどく摩耗していた。ネアンデルタール人は狩猟民族ですが、不自由な体だったら狩猟に行くことはできない。そこで健康な男子が取ってきた獲物の皮を、体の不自由な人が噛んでなめしていた。そのため歯が摩耗したと考えられています。縄文時代にはそのように命を大切にする文化が根付いていましたが、弥生時代に入ると一変する。人類学者の金関丈夫氏(故人)の調査によると、弥生時代の土井ヶ浜遺跡(山口県)の人骨お調べたところ、15本もの石鏃(せきぞく)を射込まれた遺骨があったとか。
 竹倉 土偶が消える弥生時代になると、社会状況も一変したのでしょうね。
 中村 縄文時代土偶をつくる専門職があったとも考えられています。それは平和だったからできたことでしょう。
 竹倉 文化的に豊かな社会だったのは間違いありません。
 中村 三内丸山遺跡青森県)からは針葉樹の樹皮を編んだ『縄文ポシェット』が見つかっており、その中にクルミを入れていたことが判明しています。今の視点から見ても、実にオシャレ。漆工芸も発達していました。
 竹倉 服装も凝っていて、タトゥー(刺青)を入れていた。ニワトコの果実から酒をつくっていたこともわかっています。そもそも縄文時代のイメージは、漫画『ギャートルズ』(園山俊二作)に代表されるように、皮の腰巻きに輪切りの肉、マンモスと共存しているなど、狩猟中心の原始社会というイメージを持つ人も少なくなかった。ところが、三内丸山遺跡が発掘されて以降、縄文時代の見方が徐々に変わっていきました。6本柱建物のように巨大建築物があり、さらに植物の繊維から網を編んで漁をしていたこともわかっています。回遊魚であるブリの骨がたくさん見つかったからです。 
 中村 クリ林がまわりにありますが、明らかに人工的につくられた形跡があります。縄文人はクリ林を半栽培していたことがわかる。
 竹倉 そう考えると『ギャートルズ』のような原始的な世界とは、まったくかけ離れていたことがわかります。 
 中村 土偶から縄文人の生命観が読み解けることも、指摘されている。土偶には埋葬されたような形跡や、意図的に足を1本折ったような形跡があるのがその証拠だと。
 竹倉 凶作や災害などがあったとき、精霊に祈りを込めるため、古い土偶を破壊し、新しい土偶をつくる。そうすることで元気な若い精霊を呼び込み、凶作や災害を鎮めようとしたこともあったと思います。道具をずっと使っていると、魂が宿ると考えられていました。
 中村 現代でも神社や寺などに『人形』を託す人がたくさんいます。人形には魂(プシュケー)が宿り、粗末に扱うことは祟(たた)りのような怒りを買うことがないように、という思いから、人形供養をするケースが多々見られます。
 竹倉 縄文人土偶に対して同じような気持ちを抱いていたと思います。彼らは破壊することで、中に宿っている魂を解放させる意図があった。また、副葬品として用いられたと思われる土偶もあります。縄文のビーナスは破壊箇所がなく、土杭と呼ばれる小さな穴の中に埋められていました。土杭のサイズから、幼児が埋葬されていたと考えられています。縄文のビーナスを入れることで、精霊の力を借りて、子供の冥福が祈られたのかもしれません。
 中村 三内丸山遺跡では円筒形の土器がたくさん見つかっています。三内丸山遺跡対策室の元室長、近藤康博氏によれば、多産多死の時代なので、早死にしたり、流産した子供たちをその中に入れて、埋葬したのではないかとのことでした。しかも、その筒を見ると人為的に壊された形跡がある。これは魂の通り穴で、母親のところに霊として帰ってこられるための呪(まじな)いではないかと。
 竹倉 長野で発掘された土器には、乳幼児の遺体や胞衣(えな)を入れたのではないかと推定されるものもあります。その土器は底に穴が開いており、逆さにして入れていた。日本の民俗社会でも、近世までは成人と乳幼児では埋葬の方法が異なる地域がありました。乳幼児は一日でも早く母親のところに生まれ変われるように埋葬方法がとられた。
 中村 一方で多産多死の哀しみは土偶から読み取れません。負のイメージはない。四季の花々は一度枯れても、時期がきたらまた花を咲かせる。そのように時間や生命は円環として循環していることを、縄文人は自然現象から学んでいたはずです。
 竹倉 死をネガティヴにとらえていなかったのではないでしょうか。
 中村 ちなみに台湾でも古代人骨が発掘されています。それを見ると、アワビの殻を使って、マスクのように口を塞(ふさ)いでいたものが出てきた。口から魂が逃げ出さないように押さえるための呪術だと考えられています。それ以外にも、犬が寝た状態のままミイラ化したものが発掘された。古代の台湾人はイヌ食をせず、狩猟の仲間として大切に扱っていたのです。中国や韓国とは違い、日本人に近い精神性を持っていたんですね。
 土偶が身近に
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 竹倉 ……なぜ土偶みたいなものをつくったのか、その理由がわからなかったわけです。ところが、私の本を読んでみると、『現代の私たちと変わらないことがわかり、すごく身近に感じられるようになった』というった感想をくださる。
 中村 日本は幕末、西洋列強の威力にまざまざと出会い、維新を成し遂げ明治という時代を迎えました。とにかく近代国家になろうと、過去を否定し、富国強兵・殖産興業をスローガンに、最新技術や文化を積極的に取り入れた。一方、その反動で、縄文時代は未開の時代でしかなかったという一種の偏見と蔑視が生まれてしまった。以来、130年間、そういった考え方が続いてきたのですね。
 竹倉 しかもかつて、縄文人(当時は『石器時代人』)と日本人とはまったくの異民族だと考えられていた。建国以前の日本にいた野蛮人を神武天皇が征服し、日本という国をつくり上げたという歴史観です。ところが、近年の分子生物学の研究成果によって、多くの日本人に縄文人の血が流れていることが判明した。それもあってか、手のひらを返すように縄文人は立派だったと言われることに。そのほうがわれわれにとっても都合がいいですがね。
 中村 正常にもどったと言えます。むしろ弥生時代のほうが、日本史にとって異質の時代でしたよね。竹倉さんは、今後どのような研究をされるのですか。
 竹倉 縄文の土偶は破片も含めると約2万点あると考えられています。縄文の中期から多くつくられるようになり、その後3000年にもわたって土偶がつくられてきた。しかしそれだけの年月があったおとを考えると、じつは2万点という数は決して多いとは言えません。植物利用があっても土偶がつくられない地域も数多くある。では、土偶祭祀が行われるための要件とは何なのか。植物資源の利用以外にも土偶が製作されるための条件があっらと思われます。この点の考察も重要ですね。
 閉ざされた学界
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 竹倉 土偶を調べていくにつれ、これは日本だけの文化遺産ではなく、人類史的に価値のあるものだということが深く実感できました。ところが、日本の狭い学界はタコツボ化しており、新説や異説を排除する傾向が強い。そのため、土偶を世界的に紹介する機を逸しているような気がしてなりません。学界内で意地の張り合いをしても意味がない。みんあで盛り上げて、土偶の世界的価値を広く伝えられればと思います。
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ときめく縄文図鑑 (ときめく図鑑+)
土偶のリアル――発見・発掘から蒐集・国宝誕生まで
土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎
ビジュアル版 縄文時代ガイドブック (シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊03)
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 日本民族は、縄文人の子孫として、縄文時代の神話・宗教で生きてきた人々である。
 日本民族の古層とは、石器時代縄文時代である。
 現代の日本社会には、石器時代縄文時代がそこかしこにカサブタのように貼り付き、しぶとい生命力と旺盛な活力を持って今も息づいている。
 日本民族が持っている秘めた底力の源泉はそこにある。
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 日本には、石器文化・縄文文化を最古層に弥生文化古墳文化、飛鳥文化、白鳳文化など数多くの文化が積み重なり、その多重文化層を貫き深く根を張った万世一系の宗教的正統男系父系天皇神話という大樹が1本生えている。
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 天皇神話とは、血の神話(Y染色体神話)で、民族の地層から命、心、志・精神・気概、魂・霊魂を原始から現代へと断絶させず・絶やす事なく供給している。
 その象徴が、20年ごとに行われる伊勢神宮式年遷宮祭で、その行為は縄文時代に魂の入れ物である古い土偶を壊して新しい土偶をつくり繋いできた事ににている。
 民間では、古くなった人形や道具の供養祭である。
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 現代日本の宗教否定無神論の科学万能マルクス主義、自然崇拝宗教排除の不寛容なキリスト教、神・仏・神話・言い伝えを認めない頑迷固陋な儒教などは、自然に抱かれた日本民族心神話を破壊し消滅しようとしている。
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 縄文人は、南方系海洋民の子孫として、山・森、川、海を神聖視していた。
 日本近海漁業において、無計画な乱伐などで山や森が荒れると、川は洪水を起こし栄養がなくなって川魚が消え、沿岸・近海でも魚介類がいなくなり不毛な死の海となる。
 日本民族心神話には、神霊が宿る神奈備山=山神、海神(神綿津見{わたつみ})、海幸彦(別名・火照命{ほでりのみこ})、山幸彦(別名・彦火火出見尊{ひこほほでのみこと})、お椀に乗って川を下る少彦名尊などの山・森、川、海に関する話が重要な物語として存在する。
 そこへ、弥生時代揚子江流域・長江文明の高温多湿由来稲神話・コメ食文化と黄河流域・黄河文明の温帯乾燥由来麦神話・ムギ食文化が加わり、農業技術の進歩によって鎌倉時代から二毛作が広がっていった。
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 天皇家高天原神話・天孫降臨神話は、縄文食文化に南方系稲神話・コメ食文化を神聖化して加え子孫に伝えた。
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 天皇が即位して最初に行う新嘗祭大嘗祭といい、血の繋がりを正統(正当とは関係ない)として、その年に収穫できた山海の食べ物を祖先神・天皇霊天皇神と一人で共に食べ、国家と国民・民族の為に五穀豊穣を祈る宗教儀式である。
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 天皇は、凶作や災害などで甚大な被害が起きると、詔を発して元号を改める災厄を言霊で鎮め、国の安寧と民の幸せを神々に祈った。
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 縄文人は、自然の営みから死は忌み嫌うものではなく、そして死後の世界を持ってはいなかった。
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 日本文化とは、食べ物を「ありがたく」食して生きる文化で、世界では類例がない特殊な食べる文化である。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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