💍10)─1─日本のリベラルは、フランス啓蒙思想とフランス革命に感化されている。ルソー。中江兆民。〜No.55No.56No.57 ⑩ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 仏風刺画週刊誌『シャルリーエブド』は、ムハンマドの風刺画を掲載した為にイスラム原理主義者に襲撃された。
   ・   ・    ・   
 あいちトリエンナーレ2019は、「昭和天皇肖像画を焼き、その灰を踏み付ける」映像を現代アートとして公金(税金)を使って公開したが、日本国民は昭和天皇の名誉と皇室の尊厳を守る為の展示反対デモを起こさず、国民世論は見向きもしなかった。
 あいちトリエンナーレ2019は、国内外で話題を呼び、入場者数は75日間で過去最高の65万人以上の大盛況で成功して終わった。
   ・   ・   ・   
 仏風刺画週刊誌『シャルリーエブド』襲撃とあいちトリエンナーレ2019の類似点は、リベラルな「表現の自由」である。
   ・   ・   ・   
 日本のリベラルは、グローバル思考で日本国家と日本市民を考えても、ローカル思考の源になる天皇日本民族は考えない。
 過激派共産主義者は、天皇・皇族・皇室に対してテロを繰り返していた。
   ・   ・   ・   
 マクロン大統領
 「表現の自由のもとでは宗教の冒涜も許される」
 「フランスは風刺画を含む表現の自由を諦めるつもりはない」。
   ・   ・   ・   
 2021年1月号 正論「仏社会を蝕む表現の自由 安部雅延
 フランスは9月から10月にかけて三度のテロに見舞われた。おりしも2015年1月に起きたイスラム過激派による風刺週刊誌『シャルリーエブド』(以下シャルリ)編集部襲撃事件の公判が始まった時期と重なる。
 このテロは、イスラムスンニ派が禁じる予言者ムハンマドの表象、特に風刺画を繰り返し掲載するシャルリに対して、編集長を含む風刺漫画家、コラムニスト、警察官など12人が殺害された事件だった。今回の裁判は、実行犯は死亡したものの、テロに協力したとされる数人の被告に対する裁判で、シャルリ側は『表現の自由の正当性の是非を問う裁判』と主張している。
 シャルリはこの裁判に合わせて、ムハンマドの風刺画を再掲載した。これを受け9月25日に発生したテロでは、パキスタン出身の18歳の男が旧シャルリ本社前で2人を刃物で殺害した。逮捕された男の話ではシャルリが引っ越ししたことを知らず、ビルに入っていたテレビ番組制作会社の社員2人を人違いで殺害したとされる。
 10月16日にはパリ西郊外のコンスタン゠サントノリーヌで、中学校の男性歴史教師、サムエル・パティ氏が授業でムハンマドの風刺画を生徒に見せたことから、学校近くで首を切断され殺害される事件が発生した。容疑者のチェチェン出身の18歳の男は、シリアの過激派組織と接触していたことが明らかになっている。
 パティ氏は『表現の自由』を扱う授業で、シャルリ紙に掲載されたムハンマドのグロテスクな風刺画を生徒に見せた。憤慨したイスラム教徒の保護者がSNSで非難を拡散させ、その結果、聖戦思想に影響を受ける若者が聖戦の処刑方法でパティ氏を殺害した。
 パティ氏は表現の自由の『殉教者』と讃えられ、マクロン大統領が主宰して国葬が営まれ、最高位の勲章まで授与された。マクロン氏はシャルリ公判開始の9月に『表現の自由のもとでは宗教の冒涜も許される』と発言し、さらに葬儀でも『フランスは風刺画を含む表現の自由を諦めるつもりはない』と延べた。
 事件後、パリ北郊外の低所得者層が住むパンタンにあるモスクが警察当局によって強制的に一時閉鎖された。モスクの指導者のイマームが、パティ氏殺害を支持するようなコメントをSNSに投稿したことが理由だった。その後も仏全土の10ヵ所以上のモスクがテロを助長するという理由で一時強制閉鎖された。
 トルコのエルドアン大統領は、表現の自由のもとにイスラム教を冒涜する行為を擁護したマクロン大統領に『精神治療が必要だ』と批判し、マレーシアのマハティー前首相も『イスラム教徒はフランス人を殺す権利がある』と発言した。中東では仏製品の不買運動、サウジラビアでは仏権益施設で爆弾テロも起きた。
 仏国内外でパティ氏に苦言も
 SNSでのパティ氏の行為を『行き過ぎ』と批判する議論が封殺(ふうさつ)された感のある中、国内外の宗教界の意見は興味深い。カトリック系の仏紙『ラ・クロワ』は、事件が起きる数時間前に発行された紙面にシャルリ裁判に関するロジェ・ピーター神父の寄稿を掲載した。
 神父は『表現の自由行使するには、その表現への責任が伴うはず』とコメントし、『ムハンマドを冒涜する風刺画によって、フランスで生まれる選択をしたイスラム教徒が傷ついている』と指摘、『彼らの気持ちに寄り添いたい』とした。同時に『過去にシャルリ紙がイエス・キリストやローマ教会を冒涜した風刺画を掲載したことでカトリック教徒も深く心を痛めたが、武器で襲撃したことは一度もない』とテロを非難した。
 一方、ローマの多宗教指導者会議で10月20日に演説したエジプトのグラン・イマームのシェイク・アフメド・アル・タイブ師は『私はイスラム教とその教え、そしてその預言者が、この凶悪な犯罪行為とは何の関係もないことを宣言する』と断ったうえで『表現の自由の名の下に宗教を冒涜し、その神聖なシンボルを攻撃することは、憎しみへの呼びかけであると私は言いたい』と述べたと仏『ル・フィガロ紙』が伝えた。
 フランスの哲学者で元国民教育相のリュック・フェリー氏は、ムハンマドの風刺画について『表現の自由を教えるために、ポルノに近い風刺画を見せる必要はない』と述べ、13歳の中学生にポルノまがいのムハンマドの風刺画を見せたことに疑問を呈した。
 その一方で政府を含め左派が支配する仏職員組合は、この事件を表現の自由だけでなく、無制限な宗教の冒涜の正統性を永続的に教えたいとしている。
 教師の意図とは別に残虐行為が一人歩きする危険性もある。児童心理学者セルジュ・ティセロン氏など複数の専門家は『親や教員が残虐さについて説明しよとしても、子供たちの心に大人が思うことと別のイメージを定着させるリスクがある』と警告した。
 小中学生に表現の自由を教えるために、今後も性的にグロテスクなムハンマドの風刺画を見せ、なおかつパティ氏の斬首事件を伝える危険性は議論されていない。現在、公立校が押しつけるスカーフ着用禁止などに反対するイスラム教徒の親は、5万人の子供を学校に通わせていない。
 11月に入り、授業を再会し小中高では、パティ氏と表現の自由について考える授業を行った政府の指示で、フランス社会党の基礎を築いた社会主義者、ジャン・ジョレスの手紙を教師が朗読した。ジョレスは1914年、国粋主義者に殺害された左派の英雄だ。
 多くのメディアが表現の自由の正当性と分離主義を批判する論調で埋め尽くされる中、保守系全国紙、ル・フィガロは極右・国民連合のマリーヌ・ルベン党首の姪で元同党の国民議会議員、マリオ・マレシャ・ルペン氏の『法や政教分離は、イスラム過激主義と闘うには不十分』『分離主義は、フランスそのもへの挑戦だ』と指摘した論文を記載した。
 彼女は『フランス国内のカトリックプロテスタント教会ユダヤ教、仏教は社会問題を起こしていない』『問題はイスラム原理主義者がフランスをイスラム化し、支配する明確な意図を持っていることだ』と述べ、極左を含め、フランスに脅威を与える勢力とどう闘うかが問題で『表現の自由政教分離は問題のすり替えだ』と批判した。
 共産主義と長年闘ってきた国民連合(前身の国民戦線)は、フランスを根底から変える共産化もイスラム化も許してはならないという立場だ。いずれも民主主義の否定につながり、中国のような中華思想共産党一党独裁か、イランのようにイスラム国家になることを意味する。シャルリのように過激な共産主義無政府主義を標榜し、完全な無宗教、唯物主義の価値観を持つ勢力と、イスラム国家建設をめざす勢力は同根という主張と言える。
 過去にイスラム冒涜で教師停職
 實はテロは起きなかったものの、教師がムハンマドの風刺画を授業中に見せたことが問題になったのは、フランスでは初めてではない。ちょうど、2015年1月にシャルリ襲撃テロが起きた10日後、フランス東部ミュルーズで教師がムハンマドの風刺画を見せ、4ヵ月の停職処分を受けている。
 ドイツとスイスの国境に近いミュルーズは、昨年、モダンなモスクが開館したばかりでイスラム教徒の多い地域だ。同時にユダヤ人も多く当時、イスラム教徒たちが教師の行為に猛抗議した。教職員組合は教師の処分に抵抗したが、自治体は停職を決めた。
 ミュルーズという地域は宗教的対立が起きやすく、当時テロの懸念があった。これが自治体が処分を下した理由と見られる。

 フランス社会には反ユダヤ・反イスラムの極右ネオナチと、過激なイスラム教徒ユダヤ教徒の対立が長年存在し続けていること、啓蒙思想との関係は、日本人には縁遠い。だが、実は今回の表現の自由をめぐる問題は、日本人にとってよその国で起きている、自分とは関係のない出来事では決してないと考えている。
 ……
 仏政府が一歩も引かない理由
 現代のフランスには常に二つの顔がある。一方は18世紀の啓蒙思想の流布から大革命によって絶対君主制カトリック教会権威を排した『権力=悪』という近代市民革命を是とする左派勢力だ。他方、旧来のカトリック信仰に育まれた伝統的道徳観を大切にする保守勢力も存在する。
 英国などと違い、権力者を反権力思想で処刑しようとしたフランスでは、革命を正当化する左派系の人たちは、自分たちが勝ち取った権力の擁護に余念がない。フランスの啓蒙思想を受けた左派系知識人は日本にも多く、表現の自由の起源をフランス革命の1789年の『人間と市民の権利の宣言』に置いている。
 当時のフランスは今のアメリカどころでないほどの分断の中にあって、革命を主導した政府は既得権益を持っていた王侯貴族やカトリック教会に2度と権力を行使させないために、市民の多様な表現を『抵抗』のツールとして用いた経緯がある。つまり、表現の自由の保障は権力の横暴を監視する役割として、既存の階級から切り離され、自由と平等を保障するものだった。
 フランスは大革命で国王や教会権力者を処刑することで、紀元前から自然発生的にできた国家を捨て、啓蒙思想にもとづく共和国の価値と呼ばれる理念で国づくりを行った。しかし、その後も何度もフランスは左右に揺れ、現在に至っている。左派は理論に饒舌で反権力的で戦闘的なのに対して、保守は左派に違和感を抱きながらも理論や戦略に乏しい。
 例えば、保守派を代表するドゴール主義者は、フランス人の高いモラルや規範を重視してきた。ドゴールは大統領時代、支持率が5割切ったら政治家を辞めるといい、モラルを保った。かつてパリ政治学院で日本学の教鞭をとった故ジャン・エスマン教授は『カトリックの伝統的道徳はフランスの民主主義の生命線だ』と私に語った。
 王を殺害したリベラル派は、カトリック信仰を捨て啓蒙主義から社会主義に身を移していった。
 ……
 日本でもそうだが、リベラル派はあくまで法律論で戦うとし、保守派は道徳論も考慮に入れるべきと主張する。リベラル派から見ればイスラム教は人間の自由の権利を剥奪し、男性は女性を隷属させ、ブルカやチャドルで女性の美の表情を著しく制限し、さまざまな規律で人間を抑制しているとしか映らない。
 ……
 フランスの政教分離(ライシテ)は宗教権力を最も警戒すべき存在の一つとして扱い続けている。
 イスラム教はその最たるもので、フランスの共和国の価値観からは嫌悪すべき存在とされる。だから、イスラム教はフランスでは目の仇にされる。国王と教会権力者を殺害しなかった英国は、イスラム教徒のためにの学校もあり、女性はスカーフやブルガを着用し、シーク教徒はターバンを巻いて病院や空港で働いている。
 リベラル思想漬けに学ぶもの
 ……
 フランス大革命を正当化する勢力にとって、フランスにおけるライシテと表現の自由は民主政体を構築する砦のような存在だ。しかし、それでイスラム過激派と戦えるかどうかは、ルペン女史が言うように全く別問題だろう。
 日本は一神教の国ではないので、この議論は無縁のように見えるが、60年安保、70年安保で左翼思想の洗礼を受けた世代なら、国民の権利の主張や学校に蔓延った日教組の背後にフランスの啓蒙思想が深く影響したことは否定しないだろう。公共セクターに巧妙に浸透を図り、税金を食いつぶし、左翼思想を蔓延らせている。
 フランス革命で権力を手にした人間による社会の混迷は歴史を見れば明らかだ。既得権益を持つ権力者を倒して生まれたソ連帝国は、皮肉にも権力中枢の腐敗のもとに70年後に消滅した。権力=悪ではなく、権力が人を堕落させることを防ぐ手だての一つが良心を育てる宗教や伝統規範のはずだ。法律やルールだけで国家を管理できないことは明白だ。
 無論、イスラム教と国家権力が結びついたイランやサウジアラビアにも問題はあるが、だから宗教は危険だというのは問題のすり替えにしか過ぎないだろう。フランスに持ち込まれたイスラム教は、革命で王と宗教指導者をギロチンにかけた国に本質的問いかけをしているように見える。
 ポストコロナは、中国やロシア、イラン、北朝鮮といった権威主義独裁国家との闘いが先鋭化す可能性が高い。西洋生まれの啓蒙主義では、到底、彼らには太刀打ちできない。西洋がリベラル思想によりキリスト教的道徳観や、伝統的価値観を完全に失い、アメリカの民主党左派が勢いづけば、世界はさらに危険な状況に置かれる可能性は高いといえる。」
   ・   ・   ・   
 2017年10月13日 産経WEST「【衆院選】日本だけ特殊、「リベラル」の意味-本来の語義から外れ「憲法9条信奉」「空想的平和主義」か
 「私は現実的なリベラル」と辻元氏は言うが…
 衆院選の直前から「リベラル」(liberal)という言葉に接する機会が増えた。民進党が分裂し、保守を掲げる「希望の党」への合流組と、民進リベラル派を集めた「立憲民主党」などに分かれたのがきっかけだ。専門家は「個人の自由を尊重する思想的な立場」という本来の意味から外れて、日本ではある特定の「平和主義者」や「左派」を指すと指摘する。
 「私は現実的なリベラルです」。立憲民主党の前職、辻元清美氏(57)=大阪10区=は5日、大阪市内の街頭演説でこう宣言し、「信念に従って憲法改正や安全保障関連法に反対してきた」と語った。
 リベラルという言葉が盛んに使われるようになったのは、衆院解散が目前に迫った先月下旬、民進前原誠司代表が「安倍晋三政権に勝つため、野党勢力を結集させる」と、小池百合子東京都知事が代表を務める希望の党への合流を模索して以降のことだ。
 小池氏は、憲法観の一致や集団的自衛権の限定的な行使を認める安全保障関連法への賛成を「踏み絵」として提示。受け入れを拒否した左派が「リベラル派」と呼ばれるようになり、枝野幸男氏(53)=埼玉5区=による「リベラル新党」立民の設立につながった。立民は主張が近い共産や社民と連携を深め、全国の249選挙区で候補者を一本化。これら3党がリベラル勢力と呼ばれている。
 東西冷戦下、「長い平和」享受した日本ならではの事情 
 『広辞苑』によると、「リベラル」とは、「個人の自由、個性を重んずるさま。自由主義的」、『大辞泉』は「政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま」とする。実際に使われている意味と語義が異なる背景には、「リベラル」が特殊な意味で語られることが多かった日本ならではの事情があるという。
 大和大の岩田温(あつし)専任講師(政治哲学)によると、先の大戦後の「長い平和」とも呼ばれる安定した東西冷戦の下で、日本には「憲法9条を守っていれば平和が維持できる」「集団的自衛権を行使すれば徴兵制になる」という「空想的平和主義」が広がり、その主唱者をリベラルと呼ぶことが多かったという。
 公約見極め投票先を選ぶことが重要 
 外国でのリベラルという言葉の使われ方は日本と異なる。日本大の岩井奉信(ともあき)教授(政治学)によると、米国では少数者の権利や福祉政策を重視する立場を指すことが多く、欧州では国家の市場への介入を防ぐ経済的な意味が強い。「個人の自由と権利を求める思想」がリベラル本来の意味で、「個人より国家、国家より党を重んずる共産党を除き、日本の政党は全てが個人の自由と権利を尊重するリベラルだ」と指摘する。自民(自由民主党)の英語表記は「Liberal Democratic Party」だ。
 今回の衆院選では、自民、公明、希望、維新4党を「保守派」、共産、立民、社民3党を「リベラル派」と位置づけて語られるケースが多いが、岩井教授は「対決の構図を作るための色分けにすぎず、本来の意味からかけ離れている」と批判。「政治家の発言や政党の公約を見極めて投票先を選ぶことが重要だ」と有権者に呼びかけている。」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 啓蒙思想(英: Enlightenment、仏: Lumières、独: Aufklärung)とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。その主義性を強調して啓蒙主義(けいもうしゅぎ)ともいう。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること」である。自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味である。
 時代的に先行するルネサンスを引き継ぐ側面もあり、科学革命や近代哲学の勃興とも連動し、一部重複もするが、一般的には専ら(経験論的)認識論、政治思想・社会思想や道徳哲学(倫理学)、文芸活動などを指すことが多い。17世紀後半にイギリスで興り、18世紀のヨーロッパにおいて主流となった。フランスで最も大きな政治的影響力を持ち、フランス革命に影響を与えたとされる。ヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のことを啓蒙時代という。

 フランス
 18世紀にイギリスから伝播して始まったフランスの啓蒙思想は、イギリスより旧弊批判が激しい過激なものとなって発展・普及し、フランスを啓蒙思想の中心地へと押し上げることになった。そして、やがて起こることになるフランス革命やその後の共和主義的近代化改革の思想的基盤ともなった。
 主な啓蒙思想家は以下の通り。
 シャルル・ド・モンテスキュー
 ジャン=ジャック・ルソー
 ヴォルテール
 ドゥニ・ディドロ
 エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック
 ニコラ・ド・コンドルセ
   ・   ・   ・   
 世界史の窓
 ルソー
 18世紀フランスの啓蒙思想家。社会契約説にもとずいて封建社会絶対王政を鋭く批判し、フランス革命などの市民革命に大きな影響を与えた。
 ジャン=ジャック=ルソー Jean-Jacques Rousseau 1712-1778 はジュネーヴでフランス人時計職人の子として生まれた。母を生後10日でなくし、父は10歳の時に失踪して孤児となり、徒弟奉公に出された。あるときジュネーヴ市門の閉門時間に遅れたためそのまま出奔、放浪生活を送る。ある男爵夫人に助けられ、愛人となった。苦難に充ちた青年期であったが、男爵夫人の庇護で文学、哲学、歴史などを独学し、社会を見る眼を養っていった。男爵夫人と別れてからリヨンで家庭教師となり、1742年に30歳でパリに出た。サロンに出入りしながら当時の最先端の思想家たちであった百科全書派の人びとと交流し、音楽にも才能を発揮した。1750年、アカデミーの懸賞論文で『学問芸術論』が一等となって一躍有名になり、それ以後文明社会に対する鋭い批評を立て続けに発表し、最も先進的な啓蒙思想の代表的思想家家とみなされるようになった。
 社会契約論を発表
 1760年代に、その主著『新エロイーズ』、『社会契約論』、『人間不平等起源論』、『エミール』立て続けに発表した。特に1762年に発表した『社会契約論』は、人間社会の成り立ちを、自由で平等な個人間の相互の契約を基礎としていると論じ、国家と政治も人間観の契約基づいているとして、従来のキリスト教的な世界観や、王権神授説の国家論を否定する新しい視角を人びとに与えた。
 『社会契約論』以外の著作でも、それまでの家庭道徳や教会、教育、そして国王の専制政治を批判し、その桎梏からの脱却を説いたため、当時においては危険思想とミナされ、次々と発禁とされ、ルソー自身にも逮捕の恐れがあったので、ヨーロッパ各地で亡命生活を送らなければならなかった。1770年パリに戻り、自伝的小説『告白』を執筆(発表はその死後だった)、『孤独な散歩者の夢想』を絶筆として死去した。
 こうして生前は名誉を顕彰されることはなかったが、次の世代に大きな影響を与え、フランス革命が起きると、1789年に出された「フランス人権宣言」にその思想に基づいて書かれており、フランス革命の思想的な提唱者と見なされるようになって名声が高まり、1794年にはその遺骸がパンテオンに改葬された。
   ・   ・   ・   
 中江兆民。東洋のルソー。
 朝日日本歴史人物事典の解説
 没年:明治34.12.13(1901)
 生年:弘化4.11.1(1847.12.8)
 明治期の思想家,民権運動家。土佐(高知)藩の足軽元助と妻柳の子。高知城下に誕生。諱は篤助,通称竹馬。兆民は号。年少より学に親しみ,慶応1(1865)年,藩給費生として長崎に留学,フランス学に接し,土佐藩浪人坂本竜馬に私淑。3年,江戸に遊学,フランス学を習得,明治1(1868)年,箕作麟祥の塾に学び,大学南校(東京大学)でフランス学を講義。4年,岩倉遣外使節団同行の司法省派遣留学生になり渡仏。哲学,文学,史学を学び7年帰国。東京に仏学塾を開業。8年,外国語学校校長。間もなく辞職し元老院権少書記官に転じたが,10年退職。仏学塾でルソーの『民約論』などを講義,民権思想の紹介に努めた。14年西園寺公望主宰の『東洋自由新聞』主筆。政府の掣肘で廃刊。15年,仏学塾より雑誌『政理叢談』を刊行し西欧近代思想を紹介。ルソー著『社会契約論』の翻訳「民約訳解」の連載は政治青年層に大きな影響を与え,「東洋のルソー」と渾名された。19年大同団結運動に参加。20年『三酔人経綸問答』で鋭い政治分析,展望を試みた。三大事件建白運動に関与,封事を執筆,12月保安条例で東京を追放され大阪で『東雲新聞』を創刊,主筆。23年7月,第1回衆議院議員総選挙に当選,立憲自由党に加盟,『立憲自由党新聞』の主筆。第一議会の予算問題で自由党土佐派が妥協したのを憤慨し議員を辞職。雑誌『自由平等経綸』を創刊。小樽の『北門新報』に招かれ渡道,26年大阪に戻り,種々の実業に手を出すが,失敗。30年国民党を結成したが不調。33年,国民同盟会に参加。翌年食道がんを発病,病床で合理主義・唯物論の中江哲学の骨格を記した随想集『一年有半』『続一年有半』を執筆,遺稿となった。<著作>『中江兆民全集』全18巻<参考文献>桑原武夫編『中江兆民の研究』
(福地惇)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、ローカル宗教・日本神道の最高祭祀王で、日本民族を愛し幸せと健やかな日々を願い、日本国の安寧と発展を祈り、平和を愛して戦争回避を切望し、人を差別せず、原爆を非人道的大量虐殺兵器として猛反対し、歴史的人道貢献に努め、過去・現在・未来の重責と義務から逃げず、国家と国民の罪科そして責めを言い訳せず逃げ隠れせず真っ正面から全てを引き受けた。
 昭和天皇は、国體(正統な血統・皇統の男系父系天皇制度と神の裔である血統の現皇室)を守るべく、孤立無援の逆境の中で一人孤独に戦っていた。
   ・   ・   ・   
 フランス・リベラルの「表現の自由」は、フランス革命専制君主の政治権力とキリスト教会の宗教権威を否定し破壊して生まれた。
   ・   ・   ・   
 欧州諸国は、人口減少と人材不足・労働者不足を解消する為に、旧植民地の住人やイスラム教徒を大量に移民させた。
 が、白人キリスト教徒は増え過ぎた外国人移民に対する恐怖心から、旧植民地の住人を人種差別し、イスラム教徒を宗教差別し、差別された人々は人権による改善を求めて暴動を起こしている。
   ・   ・   ・   
 フランスには、「中世において、イスラム軍に祖国を侵略され滅亡の危機に陥った」という潜在意識が存在する。
 フランス人の人種差別・宗教差別の根は、DNAに刻まれた他者に対する恐怖心である。
   ・   ・   ・   
 日本の中道リベラル派は、フランス革命の精神である「自由・平等・博愛」を日本国内で実現しようとしている。
 日本のリベラルが目標としているのはアメリカ流ではなくフランス流で、フランス流リベラルは国王・王妃を公開ギロチン刑で処刑し教会を破壊し宗教弾圧を行ったフランス革命が源流である。
 日本の高学歴知識人は、カラオケで日本の演歌よりフランスのシャンソンを歌い、日本の「君が代」よりフランス国歌のラ‐マルセイエーズ(革命歌)が好きである。
 彼らは、内心、非現実的な民族中心神話・日本神道を正統の根拠とする天皇・皇室が嫌いで、人の世は人が理性で作る憲法や法律に基づく合理的論理的理屈に合った正当であるべきであると考えている。
 その意味で、日本のリベラル派は共産主義者と同様に反宗教無神論者である。
   ・   ・   ・   
 日本のリベラルには、右派系、中道系、左派系の三派が存在する。
 天皇家・皇室には、宗教と哲学はあるが、思想や主義主張はなく、革新はもちろんリベラルや保守とも関係ない。
 が、天皇の宗教は、布教拡散がない民族限定宗教で、身を慎み畏れて尊ぶ崇拝はあっても帰依・契約・宣誓して守る信仰はない。
 天皇が持っていたのは神聖不可侵の「天皇の御威光」(御一人)であって、取り換え可能な私欲・俗欲・強欲の政治権力(利権団体)や宗教権威(信徒教団)でもなかった。
 日本のリベラル派には、西洋の哲学的倫理は存在するが民族の伝統的道徳はないが、西洋の哲学的倫理にはキリスト教の正邪・善悪論はない。
   ・   ・   ・   
 日本リベラルの多数派として主導的立場に立っているのが団塊の世代団塊ジュニアであるが、そえより若い世代にはリベラル思想は響かず感化される者が少ない。
 つまり、日本リベラルは支持者を失い衰退の道を辿っている。
   ・   ・   ・   
 現実問題、天皇・皇族・皇室を、口に出さなくても命を捨てても守る日本人は2割で、口先で守るといいなが実際は守らない日本人は5割で、初めっから守る気がない日本人は3割。
 天皇を、本気で自己犠牲で守る2割とは約2,400万人で、天皇など必要でないと確信しているある3割とは約3,600万人で、没個性で信念を持たず空気圧・同調圧力に根なし草・浮き草のように流される5割とは約6,000万人である。
 右寄りの有志による、あいちトリエンナーレ2019に公金を出した開催を続けた大村知事に対するリコール署名運動は、政府・国会・政治家・官僚は重大問題とせず、メディア・報道機関は報道せず、国民世論の盛り上がりもなく失敗に終わった。
 昔の日本人と現代の日本人は、別人と言ってもいいほどの日本人である。
 現代日本人には、数千年受け継がれてきた民族の歴史力・文化力・宗教力はない。
 国民の8割近くが天皇制度存続な為に、血(Y染色体)の神話に基づく正統な現皇室の男系父系天皇継承を廃止し、血の神話を否定した法理の憲法・法律に基づく正当な新皇室の女系母系継承を採用する事を求めている。
 現代の日本人が優先的に求めるのは、経済であり、自分一人の老後の安心である。
 天皇と共に生きてきた日本民族は、少子高齢化によって人口が急速に激減していく。
   ・   ・   ・    
 世界の常識と日本のリベラル派・革新派が、何故、あいちトリエンナーレ2019で展示された「昭和天皇肖像画を焼き、その灰を踏み付ける」映像を「表現の自由」で守ろうとした、その理由は人民の権利にある。
 日本の革新派(日本社会党日本共産党・その他マルクス主義者)は、ソ連中国共産党の反宗教無神論専制君主打倒という暴力的共産主義革命思想に強い影響を受けていた。
 ロシア人共産主義者は、暴力的共産主義革命でロシア帝国を打倒し、人民の正義でニコライ2世とその家族を惨殺して、革命の大義で皇帝資産を全て没収し自分の私物にし私腹を肥やした。
   ・   ・   ・   
 現代日本のメディア・報道機関は「報道の自由」として、天皇・皇族・皇室の印象を悪化させる捏造・歪曲・虚偽のスキャンダル記事を垂れ流し、バッシングを意図的に煽り、公人を理由にしてプライバシーを否定し、悪意を持って人格を侵害し傷付けている。
 日本人は天皇・皇族・皇室を敬愛している、はウソである。
 日本人は、そうしたスキャンダル記事を読んで面白おかしく天皇・皇族・皇室批判談義をおこなっている。
 国民の8割近くが天皇制度存続な為に、正統な現皇室の男系父系天皇継承を廃止し正当な新皇室の女系母系継承を採用する事を求めている。
 現代の戦後憲法・法律には、戦前の様な天皇・皇族・皇室を守る不敬罪は存在しないし、名誉毀損の告発ができないなっている。
 戦前では、天皇・皇族を惨殺しようとした日本人及び朝鮮人のテロリストは不敬罪・大逆罪で問答無用で処刑された。
 現代では、天皇・皇族を危害を加えても一般人と同じ罪で裁かれ、死刑などの極刑は存在しない。
 現代の裁判では、一人の殺人では死刑はなく有期刑だけで、終身刑・無期刑と言ってもある年数を終えれば出所できる。
 現代の憲法・法律には、天皇・皇族・皇室の自由・人権なき公的地位を定めているが天皇・皇族としての命を守ってはいない。
   ・   ・   ・   
 日本人以上に中国人や韓国人・朝鮮人は、天皇・皇族・皇室が嫌いである。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙ったいた。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、中国人の支援を受けて上海のフランス租界の教会に潜んで反天皇反日活動を続けていた。
 日本軍は、昭和天皇や皇族をキリスト教朝鮮人テロリストから守るべく昭和7(1932)年1月に第一次上海事変を起こし、上海にあった朝鮮人テロ組織・大韓民国臨時政府(現・韓国の前身)に軍事的圧力を加えた。
 満州事変は、昭和6(1931)年9月18日に勃発した。
 アメリカ・キリスト教会やソ連コミンテルン共産主義勢力は、日本と戦う中国や朝鮮を支えた。
 中心的役割を果たしていたのが中国共産党で、中国共産党の手足となって暗躍したのが日本人共産主義テロリストであった。
 中国共産党の支配地にあった日本共産党は、日本人兵士捕虜を反天皇反日の革命戦士に改造する洗脳再教育を行い、拒絶して天皇の忠誠と日本国へ愛国心を捨てない者は見せしめに身の毛がよだつ猟奇的な方法で惨殺した。
 日本共産党は、洗脳した日本人を革命兵士として日本軍を攻撃する中国共産党軍(八路軍)に参加さ、皇軍天皇の軍隊)の日本人兵士を殺させた。
 共産主義者は、共産主義大義・人民の正義の実現の為なら平気で「ウソ」をついて人騙す。
 日本人革命兵士は中国人や朝鮮人と共に、国家元首昭和天皇肖像画や日本国旗「日の丸」・軍旗「旭日旗」など日本を象徴するモノを引き裂き・砕き・踏みつけ・焼いて、反天皇反日本の気勢を上げていた。
 洗脳された日本人革命兵士は、帰国後、天皇制度打倒・皇室消滅の為に、日本共産党日本社会党などに入党て政治活動を始め、そしてリベラル派、革新派、一部の保守派、メディア関係者、反天皇反日的日本人、反宗教無神論者となった。
   ・   ・   ・   
リベラルとは何か-17世紀の自由主義から現代日本まで (中公新書)

💄32)─1─日本の家庭はカカァ天下で夫婦は円満になり家族は幸せになれる。〜No.66No.67 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の男・亭主は、日本の女性・妻と比べると、浅はかで、愚かで、だらしない。
   ・   ・   ・   
 デジタル大辞泉 > かかあ天下の意味・解説
 かかあ‐でんか【×嚊天下】
 一家の中で妻が夫よりも強い権力を振るっていること。⇔亭主関白。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 かかあ天下(嬶天下)(かかあでんか)とは、妻の権威・権力・威厳が夫を上回っている家庭を指す。
「からっ風」と並んで、上州名物と言われる。かつて上州と呼ばれた地域(群馬県)は養蚕が盛んであり、妻の経済力が夫より高い家庭が多かったことによる。2015年(平成27年)4月24日、文化庁は日本遺産の最初の18件の一つとして「かかあ天下 ―ぐんまの絹物語―」を選んだと発表した。
 概要
 本来は「夫が出かけている間の家を(からっ風などから)守る強い妻」や「うちのかかあは(働き者で)天下一」の意味であるが、「夫を尻に敷く強い妻」という意味で使われることがほとんどで、亭主関白の対義語として用いられることがある。
 上州のかかあ天下
 かかあ天下が上州(群馬県)の名物とされる理由として、上州の女性は養蚕・製糸・織物といった絹産業の担い手であり、男性よりも高い経済力があったことがあげられる。雷や空っ風といった上州の厳しい気象環境や、気性の荒い上州人気質(県民性#関東地方)に対する印象から、活発で働き者の上州女性を表す言葉として用いられる。
 古代説話に見られるかかあ天下
 考古学では、上毛野君形名(かみつけのきみ かたな)の妻が、かかあ天下との関連で引きあいに出される。東北蝦夷に追い詰められ、弱腰になっている形名に対し、酒を飲ませ、叱咤激励すると共に自分達は弓を持ち、弦を鳴らすことで、相手に大軍が来たと錯覚させる機知を行い、手助けをした。古墳時代における抜歯の風習からも、女性が家長と成りえたのは、5世紀までと考えられており、女性の立場が強いのはその名残とも考えられる。
   ・   ・   ・   
 日本の最高神は、天皇家・皇室の祖先神である女性神天照大神伊勢神宮内宮)である。
 天照大神は、太陽の化身である。
 太陽の恵みを受けて食べ物を生み出すのは、女性神豊受大御神伊勢神宮外宮)である。
 日本中心神話によれば、日本列島・日本国・日本民族天皇家・皇室の祖先神である女性神によって生かされている。
 日本を覆っているのは、邪馬台国の女王・卑弥呼の鬼道(呪術)ではなく、天皇家・皇室の祖先神である女性神天照大神の御神徳である。
 つまり、昔の日本で重要な人間とは男性でなく女性であった。
 その証拠が、土偶である。
 縄文時代土偶は、女性土偶であった。
 弥生時代土偶は男女の夫婦土偶で、最初は同じ大きさであったが時代と共に次第に男性像が大きく女性像が小さくなり、弥生の大乱で兵士土偶や稲作の普及で農夫土偶が増えていった。
 男性土偶が女性土偶より大きくなったのは、殺し合いや田畑を切り開くなどの力仕事が増えたからである。
 日本に、女性蔑視を持ち込んだのは儒教であり、女性差別を持ち込んだのは仏教であり、女性軽視を持ち込んだのはキリスト教であった。
 女性を兵士にして戦場・革命に狩り出したのは、イデオロギーマルクス主義共産主義であった。
 女性神最高神として崇めていた縄文人日本民族には、男尊女卑は存在しなかった。
   ・   ・   ・   
 スタイルいろいろ家族挙式
 かかあ天下で夫婦円満!女性優位でうまくいく、その理由とは?
 2017年09月09日
 「かかあ天下の方が家庭は円満」、という話を聞いたことがありませんか?
 「かかあ天下」というと、奥さんが旦那さんを尻に敷いて威張り散らしているイメージがありますが、現代の「かかあ天下」は少しイメージが違うようです。
 現代の「かかあ天下」とは、妻が物事をリードしている、程度の意味合いのようです。
 昔ほどでーんっと威張り散らした奥様は減ってきているのかもしれませんが、ともかく「かかあ天下の方が家庭は円満」と言われているのはなぜでしょうか。
 今回は、「かかあ天下」の方がうまくいくのはなぜか、その理由を探ってみようと思います。
 結婚したら「かかあ天下」になりそうだな・・・と思っている女性の方や、自分の彼女は絶対に「かかあ天下」になるだろうなぁとお考えの男性にはぜひチェックしていただきたいポイントが満載ですので、一緒に確認していきましょうね。
 ◇2019年10月1日の挙式披露宴より、料金改定致しました。
 https://kazoku-wedding.jp/plan01/
 「かかあ天下」が増えた原因は まずは、「かかあ天下」が増えた理由を探ってみましょう。
 女性をとりまく環境の変化
 「かかあ天下」は昔からずっと存在していましたが、かつて「かかあ天下」というと働いているのは旦那さまなのに、なぜだか奥さんが偉そうにしていて旦那さまが小さくなっているイメージでした。
 しかし、現代は専業主婦の割合が減り、女性の社会進出が増えてきました。それは、結婚してからもそうです。
 女性も外に出るようになったので男性とも対等な関係が築けるようになり、女性は家を守るだけ、男性に言われるがままという関係が風化してきました。
 そのため、家庭のことについても男性と対等に話せる女性が増えてきたのです。そうして発言権が増していくうちに、いつしか男性よりも強くなってしまったことが現代の「かかあ天下」の増加をもたらしています。
 家計管理・予定管理が女性中心に
 コンピュータやスマートフォンを使いこなすことが当たり前の現代では、家にいながら買い物やさまざまな予約などを行えるようになりました。
 往々にして、女性は男性よりも経済観念が発達しており、買い物ひとつするにしても、どこで購入した方がお得かを瞬時に割り出します。
 インターネットを用いての買い物や予約では、さまざまな会社や小売店を比較し適切な利用をすることができます。
 もちろん男性の中にもきちっとお金を管理できる方も多いのですが、割合としては女性のほうがお金に対して「几帳面」なことが多く、男性の中には1円単位で少しでも安く何かを手に入れようとすることが億劫に感じる人もいるのです。
 独身の間であれば問題ありませんが、それが夫婦の、そして家族のお金となればキッチリ管理したくなるのは当たり前かもしれません。
 もともと日本では家計の管理を女性に任せていることが多かったので、その風習が現代にも残っています。
 さらに現代ではインターネット等を使ってお金の管理ができるようになってきたので、お金がどんな動きをしているのか瞬時にわかるようになりました。
 そういった情報をもとに女性が発言できるようになり、家庭内での女性の発言権が多くなってきているのです。
 親戚付き合いなどの細かなケアが得意
 自分の親や親戚だけでなく、義理のご両親への誕生日プレゼントやイベントごとの贈り物、または帰省の際のお土産など、気づかいや事前に計画が必要なことは、女性の方が良く気がつきます。
 そのため、旦那さまは無頓着であったことも、結婚すると妻が率先して行うようになります。
 男性側にしてみれば「適当でいいよ」と思う事でも、夫婦となればそういうわけにはいきません。
 ここでも必然的に妻がリードするので、「かかあ天下」の構図となるわけです。
 これらのことから、家庭の中で女性の立場が強くなってきたことが分かります。
 「かかあ天下」がうまくいく秘訣は
 それでは、そんな「かかあ天下」の家庭が円満に過ごせる秘訣はいったいどこにあるのかを見ていきましょう。
 「かかあ天下」の女性はポジティブで明るい
 「かかあ天下」の女性には、少々のことでは動じないような、どしっと構えた様子が共通してうかがえます。それは、常にポジティブにとらえ、明るく振る舞うことが身についている方が多いからでしょう。
 やっぱり誰でも、明るい人のそばにいると楽しい気分になりますし笑顔で毎日を過ごせそうですよね。
 そういう方と一緒にいると自然とケンカの回数なども減っていきそうですし、結果的に円満な夫婦生活が送れるのでしょう。
 「一見かかあ天下」がポイント
 率先して物事を判断したり、家計を管理したりできる奥様はテキパキした女性というイメージがあります。そういう女性は、何事に対しても手際よくこなすことができる方が多く、対人関係においてもコミュニケーション力が高い方が多いのが特徴です。
 コミュニケーション力が高い奥様は、決して自分の旦那様を下げることはせず、一見女性の方が強そうに見せかけていても、実は旦那様の意見も尊重して立てるようにしているのです。
 例えば、日用品などの細かい買い物など良く調べてお得に買い物をする奥様も、家具や車などの大きな買い物になると、最後の決定権を旦那様にゆだねる、というように旦那様を上手に立てる奥様などが現代の「かかあ天下」です。
 男性のことを本当に尻に敷いて支配してしまう夫婦関係はうまくいきにくいですが、相手のことを尊重しながら物事を決めていくと円満な夫婦関係が送れるでしょう。
いかがでしたか?
 亭主関白という言葉もありますが、現代ではあまり現実的ではありません。何もかもを旦那さまが決めては、女性は自分の扱われ方に疑問を抱いてしまいます。
 夫婦のどちらもの意見が尊重され、お互いが得意なことを担う、「一見かかあ天下」の方が、何事もうまく運びます。
 女性は日常の細かなことに気づき、それに対する配慮をし、男性がゴーサインを出す。こうした構図で家庭のさまざまなことを上手に回すようにしましょう。
   ・   ・   ・    
 日本人男性は、日本人女性との口喧嘩では完敗し、追い詰められ逃げ切れなくなると、その気の弱さから暴力を振るう。
 DVを行う日本人男性は、肉体的優位差と精神性の脆弱・貧弱・幼稚・拙さ・未成長が原因である。
 つまり、ハッキリ言ってバカである。
 賢い日本人男性は、逆らうは無駄な事と認識し、「負けるが勝ち」か「逃げるが勝ち」で土下座し平謝してひたすら赦しを請うのである。
 子供や孫は、高い確率で父親や祖父ではなく母親や祖母の味方をする。
 日本人男性・父親・祖父は、家庭では孤立無援で肩身の狭い生活を強いられる。
   ・   ・   ・   
 東洋経済
 イクメンを期待せず、カカァ天下を目指すべし
 結婚前に抱いていた理想の夫婦像を捨てよ
 ミセス・パンプキン : 『最強の人生相談』『一流の育て方』著者
 2013/11/25 6:00
 カカァ天下の仲間入りを
 育児の責任が全部貴女にかかり、父親となる人の協力が得られないために、夫婦喧嘩になるのですね。子供の父親に威厳がないために、家庭の秩序が滅茶苦茶になったと思われているのですね。窪氏のコラムに意を強くし、私はここで貴女に発想の転換をお勧めします。
 円満な家庭の多くは、母親中心です。厳格な父親がいても母親の発言権が小さい家庭より、細かいところに気配りができる母性中心に営まれる家庭のほうが上手くいっています。昔からカカァ天下が家庭円満の秘訣というではありませんか。
 窪氏はまた「他人の子育て中の成功談、失敗談には耳を貸さないほうが良い」と書いておられました。どうしても大げさになり当てにならない、というのです。「東洋経済オンライン」で連載中の中島義道氏の言葉「他人の成功談は、おとぎ話だと思いなさい」というのも私は好きです。他者の成功談が自分に当てはまると思うな、自分の人生は自分で切り開くしかない、という意見です。同感です。
 パートナーは仕事をしっかりし、経済的な責任は一人で担っておられるのですね。その基本的な義務さえ果すこと叶わず、苦労している家庭の多いことを考えれば、一家の大黒柱が仕事熱心なのも、あなたにとっては当然のようですが感謝すべきことです。
 結婚前に抱いていた理想の夫婦像を捨てよ
 パートナーのお陰で経済活動から解放されている貴女自身も、子育てと両立できる趣味か楽しみを持ち、余裕をもって、子供たちへの関心を少し減らしてみてはいかがですか。パートナーに求めていた威厳も貴女が持ち、貴女中心の家庭内秩序をしっかり作り直す、というのはどうでしょうか。一番優しいのはママ、一番怖いのもママと多くの子供さんは言います、あのような存在です。
 パートナーに育児の関心をもってもらう妙案は、私にもありません。しばらくは分業と割り切り、余裕ができた頃に貴女自身に、貴女のご家族にマッチした良いアイディアが浮かぶといいですね。それまでは堂々とカカァ天下を自覚し、プラス思考で家庭を切り盛りされる方向に関心を向ける、急には難しいですが序々にゆっくりとね。
 永年トップシンガーとして走り続けてこられた矢沢永吉さんが、還暦を過ぎてふと振り還ったら、そこに(仕事一筋で顧みることのなかった)家族が待っていてくれて嬉しかった、という風なことを言っておられました。
 筑紫哲也氏は、家族と密に過ごされたのは癌の終末ケアの最後の数ヶ月間だけでした。その貴重だった時間を振り返り「家族ともっと過ごすべきだった」と残念がられたそうです。夫人は「仕事一筋の人だったけれど、(この時期のお陰で)父親の想いは子供たちに伝わったと思う」と言っておられました。
 おとぎ話にもなりませんがお二人とも、子供のことは妻に丸投げで、そのお陰であの偉大な仕事ができている、あるいはできていたのですね。割愛させていただきましたが、あなたが最初に羨ましいと言ってくださった我が家も似たようなものでした。私には大変でしたが世間的にはありふれていて、お聞きになりたくもないでしょうし目障りなことは書かないだけです。貴女が羨ましく読まれた部分もまさに、おとぎ話だったというわけです。
 子育ても永遠には続かず期間限定です。あっという間に時は流れ、巣立っていきます。親離れした子供との付き合いのほうが長いことも視野に入れましょう。「まずはガミガミを減らし、結婚前の貴女の理想の夫婦像を忘れて発想の転換を」、というのが私の感想です。
 ミセス・パンプキンさんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー)
   ・   ・   ・   
 産経WEST 
 2015.5.27 13:19
 【浪速風】
 「かかあ天下」もいいじゃないか(5月27日)
 第一生命保険サラリーマン川柳コンクールにはいつもニヤリとさせられる。今年は妻を題材にした作品が多かった。「湧きました 妻よりやさしい 風呂の声」「壁ドンを 妻にやったら 平手打ち」。長年一緒だと家庭での地位も逆転する。「あゝ定年 これから妻が 我が上司」
 ▼先月、文化庁が初めて認定した全国18件の「日本遺産」に「かかあ天下-ぐんまの絹物語-」が選ばれた。上州(群馬県)名物の「かかあ天下にからっ風」は「夫を尻に敷く強い妻」の意味ではない。古くから絹産業が盛んで、女性が養蚕、製糸、織物で家計を支え、男たちは「おれのかかあは天下一」と呼んだそうだ。
 ▼サラリーマン川柳も悪妻を詠んだわけではなかろう。恐妻家と称するのは妻に頭が上がらないのではなく、実は惚れた弱みで愛妻家の照れ隠しなのだという。「妖怪か ヨー出るヨー出る 妻の愚痴」も聞いてやろう。でもこの原稿、できれば妻に読ませたくないなあ。
   ・   ・   ・   

✨36)─4─貞明皇后と昭和天皇は神話からの正統な男系父系血筋・血統・皇統を守り通した。〜No.156 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
   ・   ・   ・   
 天皇の正統性とは、最高神の女性神天照大神の血・心・志を一系の一族が男系父系の血筋・血統・皇統として受け継ぐ事である。
 天皇の正統性の源は、永遠に不変な民族宗教の民族神話であり、数万年の民族の歴史と数千年の伝統文化である。
 そこに、女系母系は存在しない。
 重要な事は、人の意思で法の正当性は変えられるが血の正統性は変えられない、と言う事である。
   ・   ・   ・   
 現代の政治家や官僚は、昔の政治家や官僚と比べて歴史力・文化力・宗教力・科学理解力など全ての面で劣っている。
   ・   ・   ・   
 2020年11月22日号 サンデー毎日「皇后の覚悟 工藤美代子
 貞明皇后からたどるプリンセスたち
 第4部 賢母 (5)国家の礎
 病弱だった大正天皇を皇后として支え、若い昭和天皇を皇太后として支え、皇室の将来、この国の未来のためになすべきことを判断し実行してきた貞明皇后。連載の最後に、その核となる思いに迫る。
 秩父宮高松宮三笠宮の妃殿下たちは、嫁として節子(さだこ)皇太后に心酔していた。では、昭和天皇の后(きさき)だった良子({ながこ}追号香淳皇后)はどうだったのだろう。往年を知る人たちに聞いてみると、とくに波風は立たなかった、何より節子皇太后は両陛下を支える姿勢を常に示していたという言葉が返ってくる。
 一方、『高松宮日記・第8巻』には気になる記述もある。昭和20(1945)年の2月になると、宮城(きゅうじょう)や皇太后の住む大宮御所周辺はアメリカ軍の空襲の標的となった。そして4月15日には大宮御所の庭に『百数十発焼夷弾ガオチテ大サワギ』の事態となる。皇太后天皇皇后の疎開も検討されたが、3人とも動こうとはしなかった。
 ついに5月25日の空襲で、大宮御所は全焼した。節子皇太后は御所から庭づたいに下りたところにある防空壕へ避難をして助かった。防空壕に移ろうと廂(ひさし)の下に入った直後、廂の上で焼夷弾が炸裂したというのだから、まさに危機一髪である。
 炎上したのは両陛下のいる御所も三笠宮邸も同じだった。東京にあった秩父宮邸も日本館と倉庫のみ残して焼けた。高松宮邸だけがかろうじて被爆を免られたため、翌朝には喜久子妃が車で大宮御所に駆け付けた。市中の電線は垂れ下がり、御所の建物は跡形もなく、左横の庫からは、まだぼうぼうと火が燃え盛っている。御所から少し坂を下ったお茶畑の中にある防空壕に、節子皇太后が端座していた。宮城も大宮御所も焼け落ちたと喜久子妃が知らせたところ、皇太后は驚いたふうもなく、『これで国民といっしょになった』と、満足そうに言った。
 それからは、秩父宮妃、高松宮妃、三笠宮妃の3人は、乏しい食材をやりくりして料理を作り、毎日のように皇太后に食事を届けた。この空襲で電気、水道、ガス、電気のインフラが破壊され、家を焼き出された人々は塗炭の苦しみを味わっている。皇族とて同じだが、嫁たちは助け合いながら姑(しゅうとめ)の身を案じる毎日。それはそのまま、どこにでもある普通の家庭の情景と変わらなかった。
 その間、天皇皇后はどうしていたのだろう。5月28日の『高松宮日記』を引用してみたい。
 『大宮ト御所トノ御仲ヨクスル絶好ノ機会ナレバオ上カラ御見舞ニ行ラツシヤルナリ赤坂離宮ニオ住ミニナル様御ススメナリ遊バシタ(ラ)ヨイトノ事カラ、マタ私手紙カイテソノ事申シ上グ』
 つまり大宮御所が焼けたとなると、皇太后がどこに御動座するかが問題だった。天皇が東京にいる限り自分は疎開しないと皇太后は決意している。しかし、敵軍の爆撃が帝都に雨霰(あめあられ)と降って御所も炎上するようでは、そんな建前を聞き入れてばかりはいられない。
 国家の危機が家族の危機へと
 これを機会に両陛下が防空壕の皇太后を御見舞いに上がれば、両者の関係が改善する絶好の機会だと高松宮は思って手紙を認(したた)めた。戦争末期となると、それぞれの皇族の緊張感も極限に達していて、天皇と皇太后の『御仲』も良好ではなかったのがわかる。それを取り持とうとする高松宮の努力は、残念ながら報われなかった。
 5月31日の高松宮日記には、御所から連絡があり、両陛下が皇太后のところを訪れるか、あるいは皇太后を招待するかと提案した件は『宮相等も相談した結果、当分のうちは実行不可能となり』というすげない返事だった。赤坂離宮のこともやんわりと断られ、高松宮は大いに意気消沈する。時節柄、自分がややもすれば筋を離れていろいろ提言することに、天皇はことさら反対の意を示したのかもしれないと思った。
 『悲シイ、眼ノ裏ガニジム心地ス』という言葉に、この時期の難しい家族関係が読み取れる。戦争によって、情と理が冷たく切り離されていた。国家の危機は家族の危機にも及んでいたのではないか。
 とはいえ、天皇もいつまでも皇太后に会わないわけにはいかなかった。なんとしても皇太后疎開を説得する必要があった。
 両者の往来が急に活発になるのは6月14日からである。小田部雄次昭憲皇太后貞明皇后』には、この時期の流れが克明に記されている。すでに皇太后疎開のために、軽井沢に近藤別邸の改造工事が始められていた。
 空襲の合間を縫って天皇皇后が防空壕を訪ねたのは6月14日だった。ここで、軽井沢へ疎開の話が出たらしい。興味深いのは、同行した入江相政の日記に書き記された内容だ。午後1時半に出発して、3時半頃まで防空壕で話し合った。よほど天皇にとって負担だったようで、帰邸すると『夕方まで御寝、御気分がお悪さうである』と書いてある。6月25日の皇太后の誕生日も、入江日記には『午后大宮御所へ恐悦を申入に出る』とあるのみだ。特に両陛下が心を込めたお祝いを贈ったという記述はない。
 ふたたび『昭憲皇太后貞明皇后』に戻ると、6月28日に今度は皇太后が皇居に挨拶に行った。疎開についての返事だったろうとある。さらに7月19日に良子皇后が単身で皇太后のもとを訪ねた。その後、7月31日になって皇太后疎開は8月20日に決まり、8月6日にはまた良子皇后が単独で大宮御所を行啓している。
 こうして見ると、もちろん皇后が簡単に外出もできないのは理解するにしても、3人の弟宮の妃殿下たちに比べて、良子皇后との距離はかなり隔たっていたと推測できる。良子皇后は何事もおっとりとしていた。すべてにおいて万全を気配りをする皇太后とは、その性格に水と油ほどの違いがあった。
 8月15日の玉音放送で国民に終戦が知らされた。衝撃、不安、悲哀、憤怒、悔恨などさまざまな情念が日本本土を駆け巡った。16日に高松宮は皇太后を訪れている。午後5時半に行って、9時40分に帰ったと記されているので、じっくりとこの先のことを話し合ったのだろう。他に誰が同席したかは不明だ。
 予定通り20日に皇太后は軽井沢に出発した。午後2時40分、秩父宮妃、高松宮夫妻、三笠宮夫妻は、軽井沢へ旅立つ皇太后を見送り、それから御所へと向かった。
 戦争に敗れたとなれば、待ち受けているのは苦難の日々である。それでも皇族としての絶対的な責務からはある意味で自由になった。国家を勝利に導くのが戦争中に課せられた皇族の義務だったからである。
 『爆弾にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも』
 昭和20年に詠んだとされる天皇の御製(ぎょせい)だ。とにかく終戦に持ち込むことが目的であり、わが身はどうなってもよいと思ったという言葉に偽りはなかったろう。
 やがてマッカーサー連合軍最高司令官が日本に乗り込んできて、社会は大きな変革を遂げる。それとは別に、皇太后にはやらなければならないことがあった。それは、戦争中にこじれてしまった家族関係の修復だった。それぞれの宮家に仕える職員たちも承知していたろう。
 家長の天皇を仰ぎ見て歩んだ
 皇太后は軽井沢に同年12月まで滞在した後、東京経由で沼津の御用邸に移っている。沼津滞在中の皇太后について、坊城俊良(皇太后宮大夫)が自著『宮中50年』の中で、きわめて印象的なエピソードを紹介している。
 昭和21(1946)年6月のこと。天皇皇后による静岡県の戦災地への御巡行があった時、久々に沼津の御用邸で皇太后と対面した。その晩は良子皇后だけが沼津に残って一泊している。皇太后と皇后が一緒に泊まることは未(いま)だかつてなかった。2人は深夜までずっと話し込んだ。戦争中を知っていた職員たちは、特別な思いでその情景を見守っている。
 『晴れ晴れと、そして柔く温い光のもれるお部屋を仰いでは、奉仕の者も、警衛の者も、その夜はひとしおもの静かに、それぞれもの思いにふけった』のだった。
 翌日になって、行幸日程を終わられた天皇の乗ったお召し列車は沼津に停(と)まった。列車を降りた天皇は、駅で出迎える皇太后を中へ招き入れ、皇后と3人で食卓を囲んで話し始めた。
 そんな姿が一般の人の目に触れるのはまさに前代未聞のことだつた。駅に集まっていた人々は万感胸に迫るものがあったのだろう。あの戦争が終わってまだ1年もたっていない。
 やがて群集の中から『天皇陛下万歳』の叫びが聞こえ、誰かが歌い出すともなく『君が代』の大合唱が沼津駅のホームに響いた。天皇は立ち上がり、皇太后も皇后も一緒に群集の方へ向かった。気がつけば、歌っている人々も駅員たちも職員も、皆が滂沱(ぼうだ)の涙に暮れていた。とにもかくにも戦争は終わり、天皇一家が仲良く語らう姿が、平和の訪れを実感させたのだろう。著者の坊城には、これが天皇と皇太后との和解だと映ったのかもしれない。
 皇太后が皇室に入内(じゅだい)したのは15歳の時だった。その後の生涯のすべてを懸けて、彼女が残したかったのは、親から子へと引き継がれる家族の形ではなかったろうか。
 何があっても家族が支え合えば国家の礎となる。その家族の中には宗教、儀式、思想、道徳、言葉などさまざまな分野があった。それを載せた土台をより強固にするのが、自分の使命だと思っていた。なぜなら、皇太后は国家の母であり、国民の母だからである。時には狂信的と言われ、好戦的と評価され、権力志向が強いと批判されても皇太后は一途(いちず)の家長の天皇を仰ぎ見て歩んだのだろう。
 あの明治維新で、皇室が目指したのは帝国の隆盛であり、西欧の先進国の仲間入りをして、アジアの盟主となることだった。その夢は敗戦によって空(むな)しく潰(つい)えたが、皇太后が最後まで守りたかった家族の絆は、ふたたび温かい情が通い合うようになっていた。
 そして迎えた昭和22(1947)年10月、直宮(じきみや)以外の皇族の皇籍剥奪が決まった。実に11宮家・51人の皇族が一般人となったのである。残ったのは秩父宮高松宮三笠宮の3家だ。元皇族の将来はどうなるのか。暮らし向きはどうなるのだろうといった不安は募ったはずである。しかし、皇太后の態度は毅然としていた。
 自分の言葉で語る
 皇籍離脱を伝えるラジオ放送を聴いた時、皇太后宮職事務主管の筧素彦に言った。
 『これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました』
 同じく、三笠宮妃には『昔の4親王家になるわけですね』と言い切った。かつて有栖川宮伏見宮桂宮閑院宮(かんいんのみや)の4家が代々親王の称号を与えられた時代があった。その頃に戻ればよいという意味である。
 こうした言葉は、すでに皇太后が皇室の変転を予測していたと思わせる。あるいは、あの大空襲で大宮御所も宮城の賢所(かしこどころ)も豊明殿も紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた時に、明治時代から続いた近代皇室もまた、燃え盛る火の中で滅亡したと感じ取っていたのかもしれない。後は、自分のあずかり知らぬ皇室となる。それは維新前に戻ったと考えればよいと自分自身を納得させたのではないだろうか。
 戦後の皇太后は一般の人々との触れ合いを喜び、質素な生活すら楽しんでいるように見えた。昭和26(1951)年5月17日、突然この世を去っている。享年66.追号貞明皇后と定められた。
 この日から8年後の昭和34(1959)年4月10日、明仁皇太子と正田美智子さんの婚儀が執り行われた。現在の上皇上皇后である。すでに皇族も直宮の家族しかいなくなり、華族制度も廃止になっていた。そこに一般家庭から入内した美智子さんに対する国民の期待は大きかった。美しく賢く、何よりも自分の言葉で思いを語る皇太子妃の出現に、誰もが感銘を受けた。
 戦後の象徴天皇としての有りようを模索したのは昭和天皇だった。それをはっきりと国民の前に可視化して示したのが、平成の天皇と皇后である。新たな皇室には新たな時間が流れ始めた。天皇、皇后はこうあるべきだとか、妃殿下はこうすべきだといった規定を社会が押しつけるのは難しい時代に突入した。これからは、より自由に、より多彩に、それぞれの皇族が自分の人生観に沿った生き方をして、そこに幸せを見いだすようになるのだろう」
   ・   ・   ・   
 天皇家・皇室を、敬意を持ち守り弥栄を願う日本人は2割、税金泥棒として憎む日本人は3割、好きでもなければ嫌いでもなくその時代の空気圧・同調圧力に流される中身のない日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 日本国民の7割以上が、民意はジェンダー女性差別の元凶になっている、正統な血筋・血統・皇統を原則とする男系父系継承天皇を止め、皇統のみを正当性とする非血筋・非血統の女系母系継承天皇に変える事に賛成している。
   ・   ・   ・   
 日本民族縄文人の子孫として日本列島に住んできた。
 天皇家・皇室は、制度としては約2000年と短い歴史だが、皇室祭祀は数万年前の縄文時代アニミズム(自然崇拝・精霊崇拝・大地母神崇拝・産土神崇拝)から受け継がれている。
 皇室祭祀とは、私的宗教儀式ではなく、公的宗教儀式でもなく、くだらない国家的政教分離の原則を遥かに超えた超次元の超時空の自然崇拝と生命讃歌の高尚な根源祭祀である。
 現代日本から、愚かしい国家的政教分離の原則によって、皇室の根源祭祀が低俗な私的宗教祭祀として葬り去られようとしている。
 現代の日本人のグローバルな思考力では、この重みは理解できなくなっている。
   ・   ・  ・   
 特殊な一族(例えば天皇家・皇室)であっても、民族・国民であっても、生物の種・
族であっても、子孫を残す為には最小限の個体数が必要で、その最小限の個体数を割れば自然消滅する。
 そうして死滅したのが、古くはネアンデルタール人であり、近くは北米大陸の空を飛んでいた旅行鳩である。
 その運命は、日本民族でも同じである。
 一対のオス・メスから種は増えないし、一組の男女から民族は生まれない。
   ・   ・   ・   
 貞明皇后は、シベリア出兵時に日本陸軍がロシア人共産主義者の虐殺から救出したポーランド人戦争孤児を収容した東京の施設を訪し、栄養不足と病気で衰弱していたポーランド人戦争孤児を慰め、祖国に帰った後の未来に夢・希望を持つように励ました。
 ポーランド戦争孤児達は、皇室と軍国日本に感謝して「日の丸」の小旗を振り、帰国する船の上で涙を流しながら「君が代」を斉唱し別れを惜しんだ。
 国旗「日の丸」と国歌「君が代」には、歴史的重みがあった。
 日本人軍国主義者は、手弁当で、責任を持ってポーランド戦争孤児達を本国に送り届けた。
 1939年9月のナチス・ドイツポーランド侵攻に際して、ポーランド日本大使館と陸軍武官は大きくなった元ポーランド戦争孤児達をドイツ軍から助けた。
   ・   ・   ・  
 シベリア出兵時、ロシア人避難学童やユダヤ人やロシア人の難民も日本軍によって助け出された。
 が、ロシアは、日本軍に感謝しないどころかその事実を認めず、日本を軍国主義であったと罵詈雑言を投げかけ、日本人(主に女性や子供)の大虐殺を謝罪せず、暴力的犯罪的に不法占拠した北方領土4島の返還を拒否し軍事要塞化している。
   ・   ・   ・  
 昭和天皇は、親ユダヤ派で、人種差別に反対し、原爆に反対し、平和を望んで戦争に反対し、ヒトラーファシズムスターリン共産主義が嫌いで、ナチス・ドイツから逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人難民の保護を陸軍に望んだ。
 昭和天皇は、日中戦争や対米英戦争=太平洋戦争を回避する事を望んだし、1945年6月の沖縄戦敗北により早期戦争終結を望んだ。
 アメリカ・イギリス・ソ連は、昭和天皇が何を考え何を望んでいるかを全て知った上で、日本を戦争に追い込むべく対日強硬策を講じていた。
 連合国側が、昭和天皇の降伏の意思を認めれば二発の原爆投下とソ連参戦前に戦争は終わっていた。
 問題は、昭和天皇の命と天皇制度の存続、つまり2000年以上の歴史を持つ民族伝統文化である国體の護持であった。
 国際世論は、日本文化を邪悪とし、昭和天皇を自殺したヒトラーと同罪の戦争犯罪者として死刑を含む極刑を強要し、天皇制度を廃絶する事を求めていた。
 昭和天皇は、命の危険があろうとも国家元首大元帥として一人毅然と立ち逃げ隠れせず、ウソ詭弁を労して言い訳せず、退位して逃げず、全ての責任と負うべき義務・果たすべき義務は全て引き受けた。
 全ての責任や義務から解放されるのは退位する時で、退位する時は死ぬ時との覚悟から、国内外からの罵詈雑言に耐え、息を引き取るまで非難・批判という針のむしろを孤独に歩き続けた。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、昭和天皇・皇族・皇室を守る為(国體護持)に死を覚悟して絶望的な戦争を「最後の勝利」と「神風」を信じて戦った。
 それが、靖国神社の心・志であった。
   ・   ・   ・   
 東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯達は、親ユダヤ派の昭和天皇の想いを忖度して、自己犠牲精神でポーランドユダヤ人難民達をホロコーストから守り通した。
 それが、靖国神社の精神である。
   ・   ・   ・   
 その時、反天皇・反宗教無神論の日本人共産主義者や反天皇反日的日本人達は?
   ・   ・   ・   
 敗戦後の日本は、焦土の中からの戦後復興資金に、皇室・宮家の私有財産を没収してあてた。
 皇室・宮家の私有財産とは、国民に重税を課して搾り取った財産でもなく、他国を侵略し暴力的に略奪した財産でもなく、まして賄賂・横領などの不法行為で貯めた財産でもなく、日本を世界レベルの近代国家にする為に築いた個人資産である。
 つまり、明治後の近代国家日本も敗戦後の経済大国日本も、全て天皇家の上に皇室の私有財産を栄養源として築かれたのである。
 それは、大正9(1920)年創建の明治神宮(祭神は明治天皇昭憲皇太后)に国民による植林で生まれた人工森に似ている。
   ・   ・   ・   
 歴史力・文化力・宗教力・科学力がない現代日本人には、知能指数が高くテストで高得点をとっても、昭和天皇の「文学的アヤ」発言の真意が理解できない。
   ・   ・   ・   
 近代天皇家は、皇室の私有財産を使い、国内外で歴史的な人道貢献・人道支援を幾つも率先して行っていた。
 明治天皇は、世界でも最優秀の理想的君主であろうとした。
 昭憲皇后もまた、国民から愛され、世界から称賛される理想的皇后たらんと行動していた。
 明治の日本が近代国家として世界に認められた、近代化に成功したからではなく、近代天皇家の存在があったがゆえである。
 世界は、新参者である日本国の国家としての信用を万世一系の男系父系継承の近代天皇家が保持している不変の正統性で承認していた。
 近代天皇家以前の700年軟禁天皇家は、武士政権(幕府)からの捨て扶持で貧困生活を強いられていた為に庶民を助ける財力がなかった。
 日本を国際法を遵守する近代国家として世界に認めさせたのは、近代天皇家である。
 が、現代日本のリベラル派・革新派そして一部の保守派が進めている歴史教育は、近代天皇家軍国主義を生み出した元凶として完全否定し、近代天皇家が国内外でおこなった歴史的な人道貢献・人道支援を跡形もなく抹消している。
   ・   ・   ・   
 日本共産党、左翼・左派・ネットサハ、人権派、反天皇反日的日本人達は、天皇制度を廃絶し、天皇家を消滅させる為の国民活動を続けている。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、昭和天皇貞明皇后など明治から昭和前期にかけての近代天皇家・宮家・皇室、天皇・皇族に対する感謝の気持ちはない、若しくは極めて少ない。
 特に、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者・学者らにそうした日本人が多い。
 彼らの暗躍によって、最高神を女性神とする民族中心神話を源とした、神の裔の血筋・血統・皇統を正統とする万世一系の男系父系天皇家は風前の灯となっている。
 女系母系継承には、不変の正統性は存在しない。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は昔の日本人に比べて歴史力・文化力・宗教力がない。
 その違いは、民族的皇国史観による愛国教育と世界的西洋史観による近代歴史学教育及び中華的近隣諸国史観による日本人凶悪重罪人歴史教育である。
   ・   ・   ・   
 皇室とは波間に漂う粗末な小舟で、いつ荒波にのまれて転覆して沈んでしまいかわからない儚い存在である。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、本心から天皇・皇族・皇室の事など考えてはいない。
 三島由紀夫が、皇室の未来、日本の将来で怖れたのは時代の空気圧・同調圧力に流される中身のない日本人の急増であった。
 現代日本は、三島由紀夫が命を捨ててまで警鐘した怖ろしい日本になり、その深刻度・悲惨度は日本人の無能に近い無自覚によって増している。
 反天皇反日的日本人は、確実に増えている。
 その証拠が、学校の歴史教育昭和天皇の戦争責任や戦争犯罪が教え、メディア・報道機関も同様の特集を組んで報じている。
 従軍慰安婦問題も、昭和天皇の非人道的犯罪とされている。
 現代日本歴史教育は、昭和天皇が関わった数々の歴史的人道貢献を歴史の表舞台から抹消し、周辺諸国に配慮し昭和天皇を諸悪の根源と子供達に教えている。
 そうした反天皇歴史教育を先頭に立って推し進めているのは、リベラル派・革新派ではなく保守派である。
   ・   ・   ・   
 昭和22(1947)年10月、GHQによる11宮家・51人の皇族の皇籍離脱とは、強制的皇籍剥奪であり、天皇家・皇室を衰退させる為の皇族追放である。
 その隠された意図は、マルクス主義共産主義・共和主義による男系父系継承の天皇家・皇室を消滅させる事であった。
 現代日本のメディア・報道機関は、そのお先棒を担ぎ、国民と天皇・皇室との絆を絶ち切るべく、天皇家・皇室、天皇・皇后や皇族の虚偽の報道や悪意あるスキャンダルを作って大量に垂れ流していた。
   ・   ・   ・   
 戦後教育は、子供達を反天皇反日本へと洗脳し続けた。
 現代の日本で、戦前の日本人、幕末時の日本人のように天皇・皇族・皇室を守る為ならば死んでも構わないという覚悟を持った日本人は、たぶんいない。
 その証拠が、美智子上皇后・雅子皇后や皇女に対する悪意あるバッシングは、「ひどい」の一言であり、それを喜ぶ日本人が多かった。
 そして、借金を踏み倒したK氏と眞子内親王との結婚問題であり、女系母系継承天皇制度変更問題である。
 日本人の中に少なからず、女系母系継承天皇制度変更賛成が存在する。
 現代の日本人は、昔の日本人、幕末期の日本人とは全然違う。
 現代の日本人には、坂本龍馬西郷隆盛高杉晋作など数多の幕末期の偉人を口にする資格はない。
 その分岐点は、1980年代であった。
   ・   ・   ・   
 あいちトリエンナーレ2019で、「昭和天皇肖像画を焼いて灰を踏み付ける」映像を現代アートとして公開展示された。
 現代日本や国際社会は、「昭和天皇の写真を焼いて灰を踏み付ける」映像に対する国内の少数派による猛反対に対して、「表現の自由」を守れと声を上げ擁護した。
 昭和天皇の尊厳に対する冒瀆行為は、イスラム原理主義者が2015年1月にフランスで起こした風刺週刊誌「シャルリーエブド」編集部襲撃テロ事件に通じるところがある。
 マクロン仏大統領「表現の自由の下では宗教の冒瀆も許される」「フランスは風刺画を含む表現の自由を諦めるつもりはない」
 日本のリベラル派と一部の保守派は、中江兆民以来、国王・王妃をフランス革命で公開ギロチン処刑したフランス革命精神(自由・平等・博愛)の影響を強く受けている。
 安倍首相が伊勢志摩サミットでG7首脳を伊勢神宮に招いて参拝した事は、政治ショーとして成功であり失敗であった。
 日本の革新派・左翼・左派のルーツは、アメリカ左派、ソ連コミンテルンなどの国際共産主義ではなく亡命先の中国共産党にある。
   ・   ・   ・   
 日本人共産主義者は、日本民族天皇と国家を守る為に特攻や玉砕などで絶望的死闘を繰り返している時に、刑務所に収監されるか、中国共産党の下に逃げて庇護を受けていた。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、男はもちろん女性も子供も老人までも竹槍を振り回して絶対優位の連合軍に向けて突撃し、容赦なく殺されていった。
 その姿は、ネズミの大群が崖から海に飛び込んで大量溺死するのににていた。
 日本民族にとって、天皇と日本国は命を犠牲にしても守らねばならない存在であったからである。
 一等国民である日本人は、赤紙一枚で戦場に送り出された。
 二等国民の朝鮮人は、徴兵が免除され、戦場に送り出される事がなかった。
 愛すべき夫・息子・父親が戦死した日本人は、目の前に、同じ年代の朝鮮人男性が家族に囲まれ幸せな家庭で平和に生きている姿を見ながら生きていた。
 朝鮮人の多くは、心の中に反日・敵日の刃を隠し持っていた。
   ・   ・   ・   
 近代以降、世界は黄禍論で日本国と日本天皇は滅ぼすべき悪の権化と見做していた。
 日本に敵は幾万いても味方はいなかった。
 世界中に、反天皇反日本が存在していた。
 それは、現代においても変わってはいない。
 日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売る買いしていた。
   ・   ・   ・   
 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 キリスト教朝鮮人テロリストの後ろには、蔣介石のファシスト中国(中国国民党)とアメリカ・キリスト教会がいた。
 日本人共産主義テロリストの後ろには、ソ連コミンテルン中国共産党などの国際的共産主義勢力がいた。
 ファシスト中国や国際的共産主義勢力の後ろに、ユダヤ系の国際金融資本や国際報道機関とアメリカ、イギリス、ナチス・ドイツ、イタリア、フランス、チェコスロバキアなどの世界的軍需産業がいた。
 戦前の日本は、国際的反天皇反日本勢力に戦争へと追い込まれていった。
 日本を戦争に追い込んだ張本人は、ロシア人共産主義者であった。
 ロシア人共産主義者の指示を実行したのが、中国共産党であった。
 彼らが狙ったのは、ロシア革命の再演として、日本で暴力的人民革命を起こし、日本を反宗教無神論共産主義国家に作り変え、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を皆殺しにし、日本文化など民族色を完全消滅させる事であった。
 つまり、数万年の歴史を持つ日本民族の絶滅である。
 それが、ロシア革命やドイツ革命などの敗戦革命である。
 ロシア人もドイツ人も、自国の君主・皇帝を捨てた。
   ・   ・   ・   
 韓国は、昭和天皇戦争犯罪者と糾弾し、昭和天皇の子や孫に対し朝鮮人テロリストを処刑した事に対して、屈辱的な土下座をし心の底から謝罪する事を要求している。
   ・   ・   ・   
 天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、皇族が公私共に訪問してはならい国が中国共産党政府、韓国、北朝鮮、ロシアでる。
 その逆に是非とも訪問すべき国が台湾である。
   ・   ・   ・   

 日本の男系父系継承は、中華儒教に基づく中国や朝鮮の男系父系継承とは違う。
   ・   ・   ・   
 男系父系天皇の大権とは、弥生の大乱の中から生まれた戦争を鎮め平和を請来させる統治権である。
 その為に必要だったのが、神聖不可侵にして変更不可能な神話の正統性であって、恣意的に変更可能な宗教の正当性ではなかった。
 宗教は対立を生み消えるが、神話は対立を生まず消えない。
 憲法・法律は、意図的に絶えず書き換えられる為に正当性はあっても正統性はない。
   ・   ・   ・   

 昭和7(1932)年の上海事変第一次上海事変から昭和16(1941)年の太平洋戦争勃発までの日中戦争において。
 ファシスト中国を軍事支援したのはナチス・ドイツの保守派と軍需産業で、抗日軍を世界最強レベルのの軍隊に育成したはドイツ軍であった。
 ファシスト中国を金融・経済支援したのは、アメリカの金融資本と軍需産業であった。
 アメリカ陸軍航空部隊とソ連軍は、日本軍と戦うファシスト中国軍に正規兵を派遣していた。
   ・   ・   ・   
 日本と友好関係にあったのは、ソ連コミンテルン中国共産党などの国際的共産主義勢力に対抗するバチカンポーランドフィンランド、トルコ、ペルシャなどの諸外国と中央アジアイスラム教徒(ウイグル人ら)、モンゴル人、満州族などであった。
   ・   ・   ・   
 獅子身中の虫として油断できなかったのは、日本支配下に住んでいる中国人(大陸系漢族)や朝鮮人であつた。
 彼らは、信用して深く付き合える友人や親友ではなかったし、信頼して背後を任せて共に戦える戦友でもかった。
 中国人や朝鮮人は、いつ何時、こっそりと忍び寄り「寝首を掻(か)きに来るか判らない」油断も隙もない恐ろしい敵であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本では、子は親を捨て、死んだ親の遺産を兄弟親族がより多く手に入れるべく奪い合う、親は子を愛玩具のように扱い、虐待し、育児放棄し、そして虐待死させている。
 家・家庭・家族は崩壊している。
 親は子を、子は親を、当てにしない、切り離して頼らない。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人が優先に考えているのは、今・現代の自分の事であり、未来・将来の子孫の事でもないし、ましてや昔・過去の祖先ではない。
   ・   ・   ・   
 現代の日本国民日本人は、将来において、何時かは、神話からの血筋・血統・皇統を正統とする男系父系継承天皇から皇統のみを正当性とする非血筋・非血統の女系母系継承天皇に切り替え、最終的には物をゴミとして捨てるように天皇制度自体を無価値として廃止する。
 そんな兆候が、日本国内に散見できる。
   ・   ・   ・   
 生物はおろか地球・太陽・銀河そして宇宙まで、全てに寿命があり寿命が尽きれば絶滅・死滅・消滅し、生きていたという記憶も記録もなく痕跡もなく跡形もなく綺麗サッパリと消え失せる。
 それは、日本国・日本民族そして天皇家・皇室も同様で、早いか近いかの時間の差だけである。
   ・   ・   ・   

⛩68)─1─うちのカミさん(妻)は怖ろしく嫉妬深い「山の神」。女性神と山岳信仰・森の神・女人禁制。〜No.153No.154 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 goo辞書
やま‐の‐かみ【山の神】 の解説
 1 山を守り、支配する神。多く、女性神として信仰され、農民・狩猟民・鉱業者などに祭られる。→田の神
 2 妻のこと。特に、結婚してから何年もたち、口やかましくなった妻。
   ・   ・   ・   
 「うちのカミさん」は神様だった!
 実はかなり嫉妬深い?!「山の神」
 恐くて怖ろしい相手は、神様として祀り上げ、逆らわず、口答えせず、ハイハイと言うことを聞いて、近寄らず遠ざけるに限る。
 触らぬ神に祟りなし。
 くわばら くわばら。
 日本人の女性は恐い。
 日本人女性は怨みをのんで死ぬと、怨霊・幽霊となり恨む相手に対して祟り、呪い殺す。
 日本の女性差別は、女性への恐怖が原因であった。
 男の一部は、女性への恐怖から女遊びはしても女性と結婚したいという気がなかった。
 その為に、結婚しない男性が多かった。
 日本人男性は、男達だけの「群(む)れ」を作り、男達は金を浪費し面白おかしく楽しんでいた。
 それが、男が自慢する「粋」であり「男伊達」であった。
 男達の遊びを女が呆れてバカにするから、女を排除する為に「女人禁制」とした。
 女達も男達が煩わしい為に、女達だけで楽しむ為に「男子禁制」として女の集まりから男を排除した。
 男は男だけで、女は女だけで、異姓には判らない遊びで日々を楽しみでいた。
 日本人男性の楽しみとは、金を浪費する「のむ・うつ・かう」という道楽であった。
   ・   ・   ・   
 ニコニコ大百科
 山の神 ヤマノカミ
 「山の神」という語が持つ意味は複数あるので、以下それぞれについて詳述する。
 概要
 読んで字のごとく、山の神様という意味。山に住む神だったり、山そのものが神であったりなど、土地によって解釈は異なる。日本ではほとんどの場合において女神であるとされ、ことに若い女性が山に入ると、山の神が嫉妬して事故が起こったり天気が荒れたりするといった言い伝えは全国的に見られる。現在でも、信心深い猟師やトンネル作業員などには、女性が山に入るのを快く思わない人々がいるとされる。
 山の神が女神であるとされることから転じて、恐妻家の男性が自分の妻を指して用いる三人称代名詞。「山の神がお怒りなんで、このへんで失礼します」といったように用いる。この用法そのものはほとんど廃れているが、この言葉の省略形である「かみさん」は現在もよく使われている(「かみさん」が「山の神」の省略形であることについては異論もある)。
   ・   ・   ・   
 森学ベーシック:2.日本人と森:日本の森と神さま - 私の森.jp
 2 日本人の森 
 日本の森と神さま
 古くから信仰の対象だった日本の森
 日本の民俗宗教には、八百万(やおよろず)、と言われる程多種多様な神さまがいますが、それは、古代より日本人が山や海や木や岩など、身近な自然物のすべて、森羅万象を信仰の対象としてきたことと関係します。 また、古代の日本では、世界は人々が毎日を暮らす現実世界「ウツシヨ(現世、またはこの世)」と、永遠に変わらない、神や死者の世界「トコヨ(常世・常夜、またはあの世)」で成っていると考えられていました。興味深いことに「トコヨ」「あの世」は山の彼方や、海の彼方などにあるとされていて、大きな自然を「人知を越える境界」として怖れ敬っていた、と想像することができます。
 (※1)出雲大社島根県)。神無月には全国から八百万の神が集まり神議を行うとされる。
 山や森を信仰の対象とした山岳信仰
 古い日本の神道では、山や森を神が宿ったり降臨したりする場所としてまつってきました。これが山岳信仰です。雄大な山の威容や火山の圧倒的な力などに対する畏怖・畏敬の念や、水源・狩猟の場・鉱山・林業の場として、森林が人間の生活に多くの恵みをもたらしてくれることなどから、山や森を信仰の対象としたのでしょう。
 多くの日本の山には神社があり、神社がない山を探す方が難しいといわれるほどですが、奈良県の大神(おおみわ)神社のように本殿を設けず、山そのものを神体として信仰の対象としているところもあります。また、神道だけでなく仏教でも、空海高野山を、最澄比叡山を開いたことなどは良く知られ、山を特別な霊場と考えていたことがわかります。密教道教の流れをくんだ山伏などが、悟りを開くために山深くに入り修行を行い、山岳仏教も盛んになりました。
 (※2)熊野山中でほら貝を吹き修行中の山伏
 手つかずの自然を残す神域・禁足の地
 神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさす言葉に「カムナビ(神奈備、カンナビ、カミナビとも)」という言葉があります。「カムナビ」は、神が宿るとされる巨岩や木などの自然物を指すことも、また、那智の滝和歌山県)のように、特徴的な自然物のある場所一帯を指すこともあります。神社を囲む「鎮守の森」も「カムナビ」を代表する神域の一つです。
 (※3)出雲大神宮京都府)に祀られた岩。これも磐座(いわくら)というカムナビのひとつ。
 (※4)由岐神社(京都府)近くに祀られている樹齢800年の杉の大木。
 カムナビには、「この世」と「あの世」の境界や、人が踏み込んではならない結界という意味もあり、古くからの自然をそのままにに残す役割も果たしてきました。このため鎮守の森には、人間が手を入れる以前からあるその土地本来の植生がいまも残されているとされ、植物生態学の研究対象ともなっています。奈良県大神神社のご神体の三輪山では、いまでも「山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧(おの)をいれることをせず」とうたっています。
 (※5)本殿を持たない大神神社。大鳥居は大三輪の神体山聖域への入り口です。
 暮らしに関わる山の神と霊や妖怪
 いろいろな顔を持つ、山の神
 日本各地の農村部では、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという信仰があります。これは、山には農耕に欠かせない水の源があることと結びつくと思われます。
 桜(サクラ)という言葉の「サ」は、穀物の神(田の神)を意味するという説があります。山の神が里に下りるとき、山と里との中間領域で休息する場所を、「サ」の「クラ」(鞍)、「サクラ」と呼び、それはちょうど山桜が色づいている頃の場所を示すというのです。ちなみに、田植え始めに田の神を迎える儀礼を「サ・オリ」、田植えが終わって、田の神を送る儀礼を「サ・ノボリ」と言い、田植えをする女(または田植え祭りに田の神に扮する少女)を「サ・オトメ」、この時期を「サ・ツキ」と呼ぶことなど、みんな田の神「サ」にちなんでいるそうです。
 一方、猟師・木樵・炭焼きなどを生業とする山の民の場合、山の神は仕事の場である山を守護する神で、農民の田の神とはちがって常にその山にいるとされます。そして山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日(一般に毎月12日など12にまつわる日)は山に入ることが禁止されています。この日は山の神が木の数を数える日なので、山に入ると木の下敷きになって死んでしまうといわれています。
 山の神の性別は地域によって様々ですが、恐妻家が口にする「うちの山の神が」という言葉では女神として知られています。関東から東北にかけて山の神を安産の神とする地域も多く、出産時に夫が馬を引いて山へ入り山の神を迎える習慣がありました。山で馬が急に身震いして立ち止まると山の神が馬に乗ったしるしとされたそうです。
 (※6)田の神
 田んぼの畦に祀られた田の神。形はさまざまなものがあります。
 (※7)山の神
 吉野川上村に祀られた山の神。ここは女性の神様だそう。
 死者の世界としての森
 死者の魂(祖霊)は山の上の彼方から「トコヨ」に行ってしまうと信じられていたことから(「山上他界」という)、山や森を死者の霊の集まる異界や、その境界と位置づけることもあります。また、「常夜」と書く場合のトコヨは、暗い闇に閉ざされた黄泉の国や地獄を表すとされたので、山や森のそうした「異界」には、禍や災厄をもたらす恐ろしいものが現れるという伝承もたくさん残っています。
 山や森に棲む妖怪の代表的なものとしては、大江山酒呑童子のような鬼、山の支配者である天狗、人をとって食うという山姥、とてつもない巨人のダイダラボッチ(大太法師)、山の上から長い手足を伸ばして海を行く船や麓の村人をとって食う手長足長、人の心を見抜いて言い当てるサトリ(覚)などがあります。他にも、古木に隠れている砂かけ婆、古い大木の下で算盤をはじくような音を立てる算盤坊主や人面樹など木にまつわる妖怪もたくさんいます。
 八百万の神の国・日本では、神さまから妖怪まで、その形はさまざまですが、わたしたち日本人は、山や森そのものや、森の奥に住む存在を常に身近に感じて、崇拝したり畏れたりしてきたことがよくわかります。そしてこのような深い精神的な結びつきこそが、山や森が日本人の心のふるさとの一つであり、文化的な豊かさの根っこであることを感じさせてくれるのです。
   ・   ・   ・   
 山岳信仰   2006年6月11日更新
 ホーム 自己紹介
 山歩きの御利益 健康チェック
 山岳信仰 再び登りたい山
 山・山歩き考 山・新着情報
 山バッジ トリビアの山
 山歩きデータ リンク集
 ハイキング情報 〒 ご意見・ご質問
 山岳信仰について
山岳信仰の概要
 山岳信仰とは、山を崇め奉る信仰である。基本的には山や、山にある大木、巨大な岩を信仰母体とすることが多い。  
 山岳信仰の始まり                
 山岳信仰縄文時代に狩りの獲物をもたらし、家屋の材料や燃料を与えてくれるのは山であるから、縄文人が山に対する感謝と畏敬の念をもっていたことから始まり、山を神として崇拝し、一方で恐れるということは、農耕の伝播以降に始まったと考えられる。
 山に対する信仰の基本は、豊かな収穫を祈ることにあったから、山の神は実際には田の神であった。山の神が農作業の時期に山から降りてきて田の神になるというところも少なくなかった。
 琵琶湖の南には太神山(たなかみやま)(600メートル)という山があり、田上山地の最高峰となっているが、これなど文字通り山が田の神であったことを示しているといえよう。
 宗教民俗学者堀一郎は、わが国における山岳信仰の始まりを火山系、水分(みくまり)系、葬所系の三つの型に分けて考えている。
 火山系とは火山が噴火し、爆発することに人間が畏怖の念を抱いたことに起源するものである。激しく活動する火山の姿は、それだけでも何か超自然的な力の存在を感じさせる。噴火の原因やメカニズムを知っている私たちですらそうなのであるから、当時、火山そばに住んでいた人たちが火山を崇拝するようになるのはごく自然ななりゆきといえよう。
 水分系というのは、分水嶺即ち水源の山に対する信仰である。農耕を営む人々にとっては山は生命の源であり、かつ水害を引き起こす脅威でもあった。こうした山に対する感謝の念と畏敬の念が山岳信仰を発生させてのである。
 葬所系というのは、人が死ぬとその霊は高いところに行くという考えから出てきたものである。山は霊の棲む場所とされ、さらに使者を葬る場所にもなったことから祖霊の居場所ともなり、人が最期の還っていく場所ともみなされるようになった。
 各地の著名な山岳信仰はこの分類の何れかにあてはまるといえる。
   小泉 武栄著「登山の誕生」中央公論新社刊 2001年6月25日
 宗教と信仰の違い            山岳信仰概要の表題へ戻る
  ”靖国問題を考える”という特集記事の中から、宗教と信仰の関わりについてその要旨を紹介する。
 政治と権力、経済と利殖が違うように、宗教と信仰も実は別個のものである。信仰のない宗教は空虚だが、宗教なしにでも信仰は成りたつ。
 本来、宗教は世俗の形式に過ぎず、したがって政治と経済と宗教はさまざまな形で密接な関係をもっている。ただ信仰は人の内面に根ざす厳粛な精神上の問題であり、安易に他人の容喙(ようかい)すべきものではない。戦後およそ半世紀、靖国問題はもっぱら国内・国際両面で政治問題、つまり政治と宗教の問題として語られてきた。信仰の問題として語られることはほとんどなかった。・・・・・中略
 宗教には信仰、政治には信義、経済の信用、他者への信頼、そして自らの自信と信念ーー「信」とはこれらすべての融合体である。一つが欠けても全体が崩れる。だから信仰と敬虔(けいけん)抜きの靖国論議は、「信」を忘れた戦後日本の精神的荒廃を省象徴している。・・・・・中略
 元寇は、近代以前の日本にとって最大の対外戦争だった。それでもかつての日本人にはこれだけの度量と深い宗教心があった。今の日本人もこの精神を受け継ぐことはできる。・・・・・後略
  2002年8月5日 読売新聞朝刊 筆者は 早大名誉教授 河原 宏氏「靖国問題を考える」 
 宗教意識調査結果                山岳信仰概要の表題へ戻る
 1978年に実施されたNHKの放送世論調査の「全国県民調査」結果、日本国民のうち、特定の信仰や信心を持っている人は30%であって、残りの70%は宗教無関心者であるというのである。
 笑い話的にいえば、前の文化庁統計では、日本人は一人で、二つも三つも信仰を持っているほど宗教熱心な国民であるのに、一人一人の面接調査になると、なんと信者はわずが30%であるであって、70%は宗教無関心者であるという。しかもこの調査によれば、この70%の無関心派が、自分は無関心でありながら、「人間にとって宗教心は大切か否か」という問いに、そのうちの75%の人が「大切である」と答えたというのであるから、奇々怪々と言わざるを得ない。要するにこのようなアンケート結果だけでは、答えを引き出すには至らない。  
    梶村 昇 著  「日本人の信仰」   中央公論社 1988年8月25日
 宗教史全般                山岳信仰概要の表題へ戻る
 宗教は我々が生まれる前から好むと好まざるとに関わらず、現在ここにあるのである。 宗教という言葉自体は”RiIigion”の訳語として明治以降に使われ始めたのであり、これを研究する宗教学や宗教哲学は、ヨーロッパのキリスト教国で始まったものである。だからヨーロッパ人の宗教に関する定義は、「宗教とはキリスト教及びこれに類似するものである」ということになってしまう。
 「仏教は宗教に非ず」とも言い得ようし、「神道は宗教に非ず」とも言い得よう。しかしたとえキリスト教嫌いの者でも「キリスト教は宗教に非ず」とは言っていないのである。ヨーロッパ人はキリスト教だけが宗教になってしまう。
 一方、日本の場合は幸いにして宗教博物館のような国である。
 日本人のうち、宗教嫌いの者に完全な食わず嫌いは稀で多少は食いかじった上での嫌いなのだから話はしやすい。生まれてから死ぬまでの間に、誰しも何度かは宗教的な環境に入らされるのである。
 現在は江戸時代のような宗門改めはなく、信教は自由である。そこには信じない自由もあり、宗教生活を一切拒否することもできる。
 ほとんどの人は産婦人科の病室で生まれ落ちて青年期には、異性と婚姻届けに署名捺印して届け出て結婚生活に入り、死んだら公営の火葬場で焼いてもらって、公営墓地に葬ってもらえば宗教と無縁で一生を終わる。
 農村や漁村のような地域社会の結合が強く、社会慣習の拘束力の強い土地では、実際問題として実行困難かも知れないが、隣同志がお互いに顔も知らないような都会生活では、できないこともないだろう。しかし、実際問題として、完全に宗教生活と絶縁をして生活している人は、ほとんど皆無に近いだろう。
 神社は祭のためのもの
 神が祀られるのは神社であるが、著名な神社は別として、大部分の神社は、誰一人として人影が見えず子供の遊び場ぐらいになっている。これは祭り以外の時は神がおられないのであって、神社はあき家なのである。神は祭りの時だけ神社に迎えられる。では神社はふだんはどこに居られるのか。
 それはトコヨにちがいないが、その位置にはいろいろな説がある。山の上という説と天という説は関係があり、天の場合には山を依坐と考えるのである。その他に海の彼方という説もある。その神社ごとに伝承があっていちがいには言えないのである。
 柳田説によると、伊勢神宮なども神は常在せず、神迎えが行われていたらしい。神社参拝はそのつど神を迎える臨時祭に相当するものである。
 人は平野、神は山
 山といっても奥深い山ではない。農民が平野に住んでいて、朝、雨戸をあけると先ず目に映るような山である。関東平野の西郊、関東山脈のとっつきにある、青梅や五日市付近ではどこの山にも神が祀られているが、多摩川や秋川の上流の方に入ると高い山にも神は祀られていない。日本アルプスの奥深い山にも神は祀られていない。平野からとっつきの山で目に立つものはどうしても火山の方が多い。今日、汽車で旅をして、あれは何山ですかと目につくような山には地方神が祀られて信仰の中心になっている。  
 2山と神
 古代山岳信仰              山と神表題へ戻る
 山は未知と危険とに満ちた存在である。その存在が、四時の美しいよそおいをもって、人々に限りない魅力をなげかける。
 山は、日本人の生活に深く結ばれていた。山の信仰が生まれ、説話が生まれ、文学と歴史が生まれたのは、そのためであった。日本における山の信仰が、特色ある内容をもつがゆえに、欧米人のまなこをみはらせたことがある。
 たとえば、1878(明治11)年7月3日、日光の男体山に登ったアメリカの生物学者モースは、この山の頂上に祀られた神社があるのに瞠目し、さっそく得意のスケッチに描くとともに、その著「日本その日その日」のなかで次のように記した。
 聞くところによると、日本の高山の全部とまでは行かずとも、殆んどすべてには、神社があるそうである。驚くべき意想であり、彼等の宗教に対する帰依である。8月にはかかる場所へ、日の出とともに祈祷をささげんとする人々が、何千人と集まる。その中には難苦を堪え忍んで、何千哩の旅をする者も多い。私は我々の宗教的修業で、メソディストの幕営集合以外、これに比すべきものは何も思い出せない。
 山の頂上に神社があり、そこへ何千人という巡礼者や修行者が集まってくるということは、モースにとって大変な驚きであったことが察せられる。
 また、1893(明治26)年の夏、立山の頂上にある雄山神社の社前で行われた敬虔な宗教的儀礼をみた時の、英人ウェストンの驚きも、同様であった。彼の著「日本アルプス-登山と探検-」は次のように記す。
 頂上近くには、疲労者が登り易いようにと、鉄の鎖が二つ三つ一番険しい岩々にぶら下がっている。鋭い岩の円錐形山頂には、絵のような朱塗の社が、あたりを睥睨(へいげい)して、最高点を示している。この素晴らしい景色を眺めようとしていると、この聖山の守り役をしている神主に連れられた巡礼者の一行が登って来るのが見えた。神主はいかにも形式張って、その社の前にかけられた鷲の羽の組み合わせ模様が、金で染めてある真紅の錦欄の幕を開いた。それから彼は扉を開け、かずかずの霊宝をとりだし、不思議そうに眺めている巡礼者に見せた。
 ウェストンが19世紀の末に目撃した立山山頂の宗教儀礼は、20世紀後半のいまも変わることなく行われている。
 しかし、標高3000メートルの高山の頂上において、人と自然との結びつきがあやなす特殊な儀礼をもつ山の信仰は、もともとどのような内容をふくみ、どのような経過によって形成されたのであろうか。こうした観点から、日本古代における山岳信仰の位相を史学の立場から究明してみたい。
 山と神の特性                   山と神表題へ戻る 
 日本は、その面積三十七万平方キロメートルに過ぎない狭い面積であるにもかかわらず、やまがちの国土である。どこへ行っても、山の見えないところはない。しかも山の高度は、相当に高い。
 日本の代表的なひとつである富士山は、その高さ3776メートルにおよび、その優美な姿をもって、町や村を見下ろしている。このような山及び山地が占める面積は、国全体の76%に達する。そして平野は、山および山地にへだてられながら、各地に散在するにすぎない。
 このような地形・地質の特性を反映して、日本の湖は、火山の活動によって生じたものが多いという。そして火山のなかには、いまも濛々(もうもう)たる煙を吐いてやまぬ活火山がある。桜島阿蘇・浅間・立山などがそれである。高度の高い山地に源を発する河川は、比較的狭い平野を貫き流れて海にそそぐ。したがって急流をなすものが多い。このように考えてくると、山または山地の状況こそ、日本の地形を特色づけているのであって、日本はまた山国であるということができる。
 しかし山という山地が特色づけるのは、単に地形ばかりではない。気象も当然、山と山地の影響を受ける。気象ばかりでもない。日本に住む人々の思想や文化の発達の仕方、あるいは日本人の宗教生活にも、山と山地が関連しなかったとはいえないのではないか。現に日本の小学校や中学校の校歌にして、その土地の山を讃美していないものはほとんどない。
 国民は、山を仰ぎ、山に親しんで育ったといっても過言ではない。日本の和歌や俳句や絵画の分野に、山がとりあつかわれなかった時代はない。山と山地の多い自然環境の中に生をうけ、やがては再びそうした自然の中へ帰入していった人々にとって、それは当然の結果であったのかも知れない。
 山を仰ぎ、山を望んで、人々は何を考えたか。山に対し、山に入って、人々は何を思ったか。山に関し、山について人々は何を信じたか。
 山の思念や山の信仰は、ときとところによって異なり、人によっても違ったのかも知れない。けれども、なかんずく時代よって異なるところがあるに違いない。
 しかるに、民間信仰としての山岳意識を考える場合、古代の山岳信仰や固有の山の神の信仰に対する仏教や儒教道教の影響、またそうした諸要素を包含しながら成立する修験道を通じて、その複雑な内容を探っても、容易に解明しうるものではない、と思われるが、あえてその解明を試みることに意義がある。
 山の神とは             山と神表題へ戻る     
 山の神は山に宿る神のことである。木樵、猟師、木地師、鋳物師など山民が信仰する山の神は、山の動植物、鉱物を支配し、山民の生業にたいし恵ともたらす神である。生業に種により神徳が異なり、神のまつり方も違う。山の神が女性であったという伝承は、北から南にかけ国土山地に広く分布する。必ずしも女性と考えなかった土地もあるが、女神であるとするのが圧倒的に多い。
 農耕民の信仰する山の神は、農神である。多くの地方で、山の神は年々歳々山と里のあいだを去来するという了解があった。すなわち、山の神は春に山から里に下り、田の神となって稲作と守り、秋には収穫をもたらして山に帰り、また山の神になる。このことにもとづいて日本の祭りの主要な部分がかたちづくられている。
 山の口および山中には山の神の祭場がある。猟師や木樵は山中随所に山の神を祭ることがあった。だから、私たちは一回の登山で数カ所の山の神祭場を通り過ぎることも間々ある。それらはだいたい、大木(枝振りが尋常でない木)、岩、小祠、石塔などによるささやかなものである。
 一方、「山の神」といえば、男性が自分の妻のこと、特に結婚後、年を経てから口やかましくなった女房を指して人に話す代名詞にも使われている。
 しかし、もとの意味は、山を支配する守護神のことである。
 日本語大辞典によれば、この二つの結びつきについて次のように記されている。
 1 恐ろしいものの代表としての山の神。その神が山ばばであるということから。
 2 多くの神は女性だから。また、山ばばの子育て伝説などで、山との関係が深かった。
 3 女の取り乱した姿が山の神に似ている。
 4 人の妻を指す敬称としてカミサマ(上様)と言う。これを「神様」としゃれ、これを「山の神」とした。
 5 農村では山の神をまつるのは女性がつかさどっていた。
 6 山の神は女神であり、山全体の主導権を握っていた。
 7 醜女のイワナガ姫が姫の山の神の一員であったという「古事記」による。
          「定本柳田国男集」巻四 光書房
           堀田吉雄著「山の神信仰の研究」光書房
          日本山岳ルーツ大辞典  日本語大辞典
 山の神という言葉
 「古事記」には山の神ということばが四回出ている。
 第一は、神々の生成のく だりに「次に山の神、名は大山津見の神を生みたまひ」とある。
 第二は倭建(やまとたける)
 命(のみこと)の西征を叙した最後に、「山の神河の神また宍戸の神をみな言向けし和してまい上りたまひき」とある。
 第三は「同じく倭建命の東征を叙したところに、かれここに御合したまひて、その御刀の草薙の剣を、その美夜受比売(みやずひめ)のもとに置きて、伊服岐の山の神を取りに幸でましき」とあるのである。
 第四は、神功皇后の条に、「今まことにその国を求と思ほさば、天つ神地(くに)つ神、また山の神海河の神たちまでに、ことごとに幣奉(ぬさたて)り、我が御魂を御船の上にませて、真木の灰を瓢(ひさご)に納(い)れ、また箸と葉盤(ひらで)とを多(さわ)に作りて、皆々大海に散らし浮 けて、度(わた)りますべし」たあるのがそれである。
 神は山だけでなく、峠にもあると考えられた。峠の神は、旅行者の安全を守る神とされたらしく、「万葉集」の、周防なる磐国山を越えむる日は手向(たむけ)よくせよ荒しその道(567)という歌は、旅の安全のために峠の神に手向をよくせよといったものと解されている。
   高瀬 重雄著「古代山岳信仰の史的考察」名著出版 1989年8月30日     
 岩木山のお山参詣                  山と神表題へ戻る
 山という空間は、古来から日本人にとってある特権的な信仰の場であり、対象の場であったようにみえる。
 津軽に暮らす人々の信仰の中心は、岩木山である。岩木山信仰は岩木山の見えるところに限られている、という。津軽の人々ははるかな昔から、お岩木様を眺めつつ生き死にを重ねてきたのだ。この、標高1600メートルあまりの、女性的な美しい稜線をもつ山は、農耕や水にかかわる大地の象徴として、また祖霊のこもる山として、篤い信仰の対象となってきた。「おなご山だ」ともいわれ、森鴎外の「山椒大夫」で知られる安寿と厨子王伝説とかかわり深く、安寿を童女=女神として祀る山でもある。
 旧暦の8月1日、津軽の人々は精進潔斎して、岩木山山頂の奥宮に参拝する。このお山参詣は、五穀豊穣の祈願と、祖霊への感謝のための行事であるという。
    赤坂憲雄著   「山の精神史」  小学館  1991年10月20日
 山岳信仰と山歩き                山と神表題へ戻る 
 この国土に人の信仰に関わる山で、霊山といわれる山は奥羽から九州にわたって満遍なく点在し、その数は351座におよぶという。今後山岳宗教の研究が進めば、またあらたに霊山が発見され、その総数は増えていくものと思われる。
 山々の高さは富士山を筆頭に、300メートルそこそこの山も含まれており、信仰に関して山の高さは問題でないことが明らかである。
 この中で、生き生きとした信仰活動が現在も続いている山は、ほんの一握りで、大多数の山において、信仰は影が薄くなってしまった。しかしどの山も、長い歳月の間、さまざまな人達と関わりをもってきたのである。
 信仰の山の多さをとるだけでも、山の信仰が広汎なものであったことが分かるが、山を信仰した人達も多岐にわたる。
 直接山によって暮らした山の民、山の周辺の地元農漁民、講や教団に属した人達、あるいは聖(ひじり)、山伏、御師といった専門の宗教者など、その流れは次から次へと山の信仰を生み出し、山岳信仰時代は途方もなく長いものになった。
 山岳信仰は、入山のうえ直接に神々と交信するという実践面を伴っていた。ところが、入山には精進が不可欠で、また女性は入れさせないとする制限付きであったけれど、人はさかんに登拝を繰り返し、また山での修行に勤めた。
 しかし山での実践的行為のみが山岳信仰ではない。つまり、人々の日々の暮らし、一年一年の暮らし、人の一生が、山を信仰しなければならない事情を生じさせていた。
 また山の宗教者のうちには、山林修行を通じて自らの宗教的目的を達成する者もいたが、多くは世俗に交わり、山で獲得した超自然力を駆使して、呪術的な宗教活動をおこなった。
 このような人々の生きざまこそが山岳信仰にとって大事であり、人々の生きざまを規定する時代的背景も山岳信仰のあり方と深い関係にある。
 また、山岳信仰は多彩な文化を生み出していった。信仰を携えて民間を遊行した人達は、また文化の運搬者として重要なはたらきをした。山の文化は広く深く人々のなかに浸透し、日本文化の形成に大きな影響を与え続けた。
 以上のように、山岳信仰は山を頂点としつつも、裾が広くひとくちに山岳信仰といっても、これに一つの枠組みを設定することは不可能である。
        吉村 迪(すすむ)「信仰の山」東京新聞出版局1995年4月8日
 私が、山を舞台とした山岳信仰に興味と関心をもったのは、これでよいという限度がなく、その理解が決して生易しいものではない、ということである。だからといって、山岳信仰は遠く離れたものではなく、身近に点在し、山を一歩一歩踏みしめながら、先人の霊を肌に感じるのである。
 先人の足取りを追い、山岳信仰を理解することは、山歩きを愛する人々が一度は試みなければならない、山への大事な礼儀かもしれない。
 「山岳信仰を知らずして、山に入る事なかれ。」私にはそのような叫び声が、山を歩く度に山の大地から聞こえるような気がする。
  ホーム  2006年3月1日から
   ・   ・   ・   

🌈29)─1─江戸の結婚しない草食男子(独身男性)社会を支えた食い道楽の外食産業。~No.57No.57  

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 東洋経済
 「独身男性が多い都市で、どうしたら便利に快適に暮らせるのか、ということで、江戸のインフラが整っていった」と堀口氏(写真右)(写真:ソロ男プロジェクト提供)
 「江戸時代のソロ男は、子どもは残せなくても今に続く産業を残したと思う」(荒川氏)(写真:ソロ男プロジェクト提供)
 「独り身大国」江戸と現代の知られざる共通点
 コスプレに熱中、食事はデリバリーを頼む
 荒川 和久 : ソロもんラボ・リーダー、独身研究家
 2017/06/21 6:00
 究極の単身男性社会だったお江戸。独り身男たちの生活には、現代の独身男性との多くの共通点が見いだせます(写真:chombosan / PIXTA
 未婚化・非婚化の進行が叫ばれる現代の日本ですが、江戸時代の江戸もまた独身大国だったという事実はあまり知られていません。
 江戸時代の庶民の結婚観、そして消費や文化などを探ることで、江戸と現代の共通点を見いだし、これからやってくる「ソロ社会」へのヒントを見いだすことはできるのでしょうか。
 今回は、「ソロモンの時代・番外編」として、独身研究家として著書『超ソロ社会』(PHP新書)などがある荒川和久氏と、『江戸はスゴイ』(PHP新書)など江戸時代を中心とした著書を数多く持ち、江戸文化歴史検定1級を最年少で取得するなど「お江戸ル」としてもご活躍中の堀口茉純さんとの対談をお送りします。
 「男の街」だった江戸
 荒川和久(以下、荒川):現在、未婚化が大きな社会問題になっています。直近の2015年では、男性の生涯未婚率が23.4%、女性が14.1%と、過去最高を更新(国立社会保障・人口問題研究所調べ)。2035年には人口の5割が独身になるともいわれています。しかも、未婚男性の数が未婚女性よりも大幅に多い、「男余り」の状況があります。
 これは現代社会特有の現象ではなく、江戸にも同様な状況がありましたよね。そもそも、江戸という都市は男性の都市だった。享保6年(1721年)の江戸の町人人口は約50万人でしたが、男性32万人、女性18万人と圧倒的に男性人口が多かったわけです(南和男『江戸の社会構造』塙書房)。
 堀口茉純(以下、堀口):確かに、江戸時代の江戸は異常な男性過多でした。
 ほぼ何もない状態から100万人が暮らす大都市をつくるということで、極端な説明の仕方をすれば、江戸の住民の半分は都市づくりの担い手である男性、そしてもう半分は、単身赴任で地方からやってくる武士。男性の都市といっても過言ではありません。
 荒川:そうでしたね。
 しかも、明らかに独身男性が多かった。幕末慶応年間(1865~68年)の史料では、町人16~60歳の男性の有配偶率は、麹町地区で47.3%、渋谷宮益町地区でも46.5%と半分にも達していない状況でした。
 独身男が暮らした「長屋」の実態
堀口:独身男性が多い都市で、どうしたら便利に快適に暮らせるのかということで、インフラが整っていく流れが面白いんです。
 庶民の独身男性は、独身のまま人生が終わることが多いので、男が1人でも生活していけるコミュニティに所属する必要がありました。それが、互いに持ちつ持たれつの関係でできている長屋です。
 長屋は、お手洗いも炊事場も共同で、1人4畳半くらいのスペースで暮らしています。長屋の中で、家事や力仕事を分担し合っていました。そうやって、いろいろな世代やタイプの人が緩やかに生活しているのが長屋で、庶民の生活の最小単位でもあったんです。
 荒川:今でいうシェアハウスの多世代型ですよね。若い男も夫婦もおじいちゃんおばあちゃんも、いろんな世代の人がいたわけじゃないですか、長屋って。それがすごくいいなと思うんですよね。
 堀口:そうなんですよね。ただ、江戸の人はプライバシーという概念がなかったから大丈夫だったのだと思います。今のわれわれからすると、ふすまを開けたら隣の人が住んでいるという環境は、なかなか慣れないと思うんですけど。
 荒川:でも、僕が小学生の頃ですら、家の鍵はいつも開いていましたし、学校から帰って家に家族が誰もいないのに、たまに隣のおじさんが僕の家の縁側でお茶飲んでいるんですよ。それで違和感がなかった。昭和のあるときまでは、そんな感じだったんじゃないでしょうか。
 堀口:そうなのですね(笑)。
 当時は年間を通じて何らかの全員参加行事があって、それがコミュニティ内の人を結び付けていたんです。
 長屋だと、七夕は井戸を掃除する日って決まっているので、全員で掃除して、皆でそうめん食べて、お酒を飲む、なんてことをしていました。年間を通じて行事が決まっていたので、そのときには嫌でも顔を合わせて互いを知っていたんですが、今は会社でもイベントに強制参加させるのはなかなか難しいでしょうね。
 荒川:そうですね。だからこそ、長屋のようなコミュニティは、ソロ化するこれからの時代に必要なのかもしれません。
 一方、江戸の独身男性と現代の「ソロ男」の生態系には、類似点も多いと思います。たとえば、江戸の独身男性はオタク的な趣味もたくさんやっています。ある意味、今のアキバと江戸って似ていると思うんですよ。
 堀口:そうですね。江戸には今でいうオタクっぽい人が多くいました。浮世絵の絵師なんて、ずっと虫のことを観察していたりと「社会人としてどうなの?」と言いたくなるような人もいますが、とてつもない芸術作品を作っているんです。
 荒川:現代においても、独身のオタクの人たちのパワーはすごいと思います。中には自己肯定感が低く、ネガティブで内向的な人もいますが、むしろ、だからこそ、ものすごいクリエーティビティを発揮する人が出てくる。
 美人画は吉原に行けない男の欲望が生んだ?
 堀口:浮世絵といえば、美人画を鑑賞するのは疑似恋愛ですよね。実際に吉原に行けない人のために美人を描いたものが最初なので、独身男性の欲望がベースにあるんです。
 そういえば、コスプレも江戸時代にすごくはやっているんですよ。
 荒川:そうなんですか!
 堀口:仮装ができるかできないかで盛り場での人気度が違うので、頑張っていたみたいですよ。歌舞伎役者や、有名な歴史上の英雄などの仮装をしていたようです。男性も女性も。
 いちばん大きな仮装のイベントは、吉原で1カ月間仮装パレードをする「吉原俄(よしわらにわか)」というイベントでした。そのときは花魁(おいらん)ではなく、吉原の裏方で働いている芸者たちが出し物をするんですよ。仮装をして踊ってと、まさにハロウィンのパレードみたいな感じです。
 荒川:まさにハロウィンですね。
 堀口:お花見でも仮装をやっていたみたいです。イベントの日に一生懸命仮装で趣向を凝らすというのはあの当時からすでにやっていたんですね。
 荒川:歌舞伎役者のデフォルメされた浮世絵も、今でいうパロディ画ですよね。黄表紙も、今でいうラノベライトノベル)やマンガですね。そうした芸術がどんどん生み出されたのは、やはり江戸中期以降のあの時代じゃないですか。
 堀口:平和で戦争に行く必要がないから、文化面にやたらと力が行くんです。今を充実させるために貪欲な人たちだったので、今を楽しくしたいということでさまざまな芸術が発達したんです。
 荒川:現代のソロ男も、今を生きるために貪欲で、消費や趣味で今この瞬間を楽しもうとしているので、感覚は一緒です。
 お江戸の食文化は独身男が支えた
 堀口:それから、食文化も栄えました。独身男性が多い江戸。しかも、みんな働いているため自炊するのは大変です。そこで食べ物の行商がはやるんですよ。お総菜やおつゆとかですね。しかも、仕事前に食べられるように、完成したご飯のデリバリーが家にまで来ていたんです。
 荒川:そんなサービスがすでに江戸時代にあったんですね。
 堀口:和食は江戸時代に発達しましたが、要因は外食産業なんですよ。食事を家で食べられない男性に向けたサービスとして、仕事に出ていった先で軽食を取るために屋台が発達したり、行商があったりと、コンビニエンスな食べ物が発達していきました。
 荒川:江戸時代の男性はまったく自炊をしなかったのですか?
 堀口:おコメくらいは炊くんですけど、それ以外の物は安い値段で買えてしまえるので、作る必要がなかったんですね。
 ただ、江戸時代も260年間あるので、後半になると料理男子が出てくるんですよ。趣味として料理をする男子ですね。すると、レシピ集も出版されるようになって。
 荒川:その流れってすごく今と似ていますね。今も外食産業はソロ男たちが支えていて、1人で1家族以上に外食費をかけています(外食費は1家族以上!独身男は「よき消費者」だ)。コンビニなどの中食もそうですね。その反動で、自分で作りたがる料理男子も出てきた。
 堀口:本当だ、すごく似ていますね。
 荒川:男余りだったこと、オタクがいたこと、独身男性たちによって食文化が栄えたこと。今の日本と江戸時代の江戸は共通点がたくさんありますね。
 結婚しない独身男性に対して「結婚して子どもを残してこそ一人前だ」と説教する人がいるんですが、江戸時代のソロ男たちって、「子孫は残せなかったけど、今に続く文化や産業を残した」と思うんですよ。未婚化や非婚化は決してマイナス部分だけではなく、そうした力もあるんじゃないかと思います。
 荒川 和久さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー)
   ・   ・   ・   
 江戸時代の日本文化とは、男子独身者(草食男子)文化であった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の総人口は、増減が少ない安定時代であった。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府や諸大名は、人口を増やす為に子沢山を奨励したが、庶民は貧しくて子供を産み育てるゆとりがなかった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の日本は、人生50年で若者は多く老人は少なかった。
   ・   ・   ・   
 金持ちは結婚できて、貧乏人は結婚できなかった。
   ・   ・   ・   
 独身男性の楽しみは、金を残す必要がなく、将来・老後の心配する気もなく、今が愉しければそれでいいとして、金は貯め込むより稼いだ金は全て女遊びや食道楽で散財していた。
 草食男子にとって、結婚は憧れでもなく、家族を持ち子どもを育てる事は幸せでもなかった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代は、ブラック社会であった。
 女の争いは醜く、女は山の神・夜叉(鬼)と怖れられ、女性は人を呪い殺すと考えられていた。
 男尊女卑の社会では、女性が自立し自活し一人で金を稼げる仕事が少なかった為に生活力のある男性と結婚するしか生きられなかった。
 結婚は、愛ではなく金で行っていた。
 金持ちは、何人でも妾({めかけ}愛人)を抱えていた。
 金持ちの妻は資産と本業を貰えるのなら、夫が何人も妾を持ち浮気しようとも許していた。
 妾は、隙あらば資産と本業を乗っ取る為に、金持ちに妻を離婚し追放するよう囁いていた。
 妻が家から追い出されるかどうかは、跡取りの子供を生んでいるかどうかにかかっていて、生む子は男の子より女の子の方が良かった。
 農家は男の子を喜ばれたが、商家では女の子が喜ばれた。
 亭主関白は、女の掌の上で踊らされているだけであった。
 山の神・夜叉の女性から見れば、亭主関白と威張っている男性は単純バカであった。
 江戸時代の家庭では、カカァ天下であった。
 夫にとって、家・家庭・家族は針の蓆のようで憩いの場ではなかった。
 日本人男性にとって、結婚し子供を生む事は地獄であった。
   ・   ・   ・   
 PHPオンライン衆知 
 江戸の外食産業が異常に発達したわけ
 江戸時代初期、新興都市である江戸の町は男性があふれ、女性が少ないという特殊な人口構成でスタートしたのだが、男女比が半々になるのは結局、幕末になってから。つまり、江戸時代を通じて慢性的に女性不足だった。
 たとえば江戸時代中期、享保6年(1721)11月の統計によると、江戸の町方人口は、女178109 人(35.5%)+男323285 人(64.5%)= 501394 人(100%)。
 これに寺社門前人口と、武家人口およそ50万人を加えたものが、江戸の総人口なわけだが、こちらは残念ながら正確な統計がない。ただ、寺社地の住人は基本男性だし、武家は各藩から単身赴任でやってきているケースがほとんどなので、町方よりも、さらに男性比率が高かったことは間違いないだろう。
 このような状況から、きわめて現実的な問題が発生する。食事の問題である。
 現代のような家電製品がない当時は、米を炊くだけで、そうとうな時間がかかった。食事を作るのも大仕事で、寺社や武家では専門の調理方を置くこともできたが、町方では、なかなかそうもいかない。
 紅のついたる火吹き竹長屋暮らしの庶民がまともな食生活を送ろうと思ったら、所帯を持って男が外で働くあいだに家で女性が食事を作る、といった役割分担が不可欠だったが、都都逸にも「九尺二間に過ぎたるものは 紅のついたる火吹き竹」(解説・九尺二間とは四畳半+土間の江戸庶民が暮らす裏長屋の一般的な間取り。そこに紅をつけた奥さんがいて、火吹き竹を使って飯を炊いてくれるなんて贅沢な話だ、リア充爆発しろ! という意味) とあるように、残念ながらそんな例は稀だった。頑張って自炊したとしても、一人分の食事のために薪や油などの燃料や食材、調味料を揃えるのは非効率的である。
 このために発達を遂げたのが外食産業だ。
 その大きなきっかけになったのが明暦の大火。
 大半が灰燼に帰した江戸の町は、幕府の主導により驚異的な勢いで復興するが、実際に汗を流して現場で働いたのは、土木人足や職人たち(多くが地方から単身江戸にやってきた独身男性)である。日中の過酷な肉体労働を乗り切るために、仕事の合間に食事をとってエネルギー補給がしたい……。そんな彼らのニーズに応えるように、江戸の町には大量の煮売り屋が軒を連ねるようになった。煮売り屋とは煮物や惣菜や団子などの軽食に、茶や酒をつけて出す、ファストフード店のような業態である。
 当時、食事は基本的に自宅で済ませるもので、外食の機会は旅などの特殊事情の際に限られていたから、町中で誰もが手軽に食事をとれる煮売り屋の出現は、そうとう画期的だった。
 煮売り屋は、瞬く間に江戸中に広がるが、あまりに流行りすぎて火災の原因になり、明暦の大火からわずか3年後の万治3年(1660)には、正月からの3カ月間で105回も火事が起こったというから、本末転倒な話である。
 このため、幕府は煮売り屋の夜間営業を禁止する法令をたびたび出しているが、たびたび出しているということは、たびたび破られていたということ。焼けたら建てればいいじゃない、といわんばかりのたくましさだ。
 復興のなかで生まれたもう一つの飲食業が、料理茶屋。料理を出すことを専門にした飲食店のことで、茶を使って大豆や米を一緒に炊いた一膳飯と、豆腐汁、煮物、香の物をセットで提供する店が浅草寺門前の並木町で生まれたのが、その始まり。現在の定食屋のような業態だった。このようにガッツリ昼食を食べさせる店というのは、実は当時は世界的に見てもとても珍しく、日本でも初めての事例だった。
 というか昼食自体が、明暦の大火後のこのような外食産業の充実により定着した食習慣と考えられている。それまでは朝、夕の一日二食が基本だったが、出先で昼食をとるのが当たり前になり、一日三食が一般化したというのだ。
 腹が減っては復興はできぬ、だったのかもしれない。
 ※PHP新書『江戸はスゴイ』 より抜粋編集
 著者紹介
 堀口茉純(ほりぐち・ますみ)
 お江戸ル/歴史作家
 東京都足立区生まれ。明治大学在学中に文学座付属演劇研究所で演技の勉強を始め、卒業後、女優として舞台やテレビドラマに多数出演。一方、2008年に江戸文化歴史検定一級を最年少で取得すると、「江戸に詳しすぎるタレント=お江戸ル」として注目を集め、執筆、イベント、講演活動にも精力的に取り組む。著書に『TOKUGAWA15』(草思社)、『UKIYOE17』(中経出版)、『EDO-100』(小学館)、『新選組グラフィティ1834‐1868』(実業之日本社)がある。
   ・   ・   ・   
 東洋経済
 独身が5割超、江戸男子に学ぶシングルライフ 吉原、居酒屋、コスプレ…今に続く文化を量産
 荒川 和久 2018/04/01 08:00
 © 東洋経済オンライン 江戸は現代以上に「未婚社会」だった(写真:RoBeDeRo/iStock)
 日本の未婚率や離婚率の上昇を近年の特殊な状態だと勘違いされている方が多いようですが、むしろ逆で、明治末期から大正・昭和にかけての「皆婚と非離婚」のほうが異常値だったと言えます。
 もともと未婚も離婚も多かった
 もともと日本人は未婚も離婚も多い人々でした。江戸時代から明治初期にかけての離婚率に関して言えば、当時の世界一だったかもしれません。現代の離婚率世界一はロシアの4.5(人口1000人当たりの離婚者数、2012年)ですが、江戸時代はそれを超える4.8だったといわれています(2006年参議院調査局第三特別調査室「歴史的に見た日本の人口と家族」より)。江戸期の離婚率の高さについてはこちらの記事(「夫婦は一生添うべし」が当然ではない理由)を参照ください。
 未婚についても同様です。先日、歴史人口学者の鬼頭宏先生と対談させていただいたのですが、17世紀くらいまでは日本の農村地域でさえ未婚が多かったそうです。
 結婚して子孫を残すというのはどちらかいえば身分や階層の高い者に限られていて、本家ではない傍系の親族や使用人などの隷属農民たちは生涯未婚で過ごした人が多かったのだとか。たとえば、1675年の信濃国湯舟沢村の記録によれば、男の未婚率は全体で46%であるのに対して、傍系親族は62%、隷属農民は67%が未婚でした。
 それが、18世紀頃から傍系親族の分家や小農民自立の現象が活発化したことで、世帯構造そのものが分裂縮小化していきます。それが未婚化解消につながったひとつの要因と言われています。つまり、今まで労働力としてのみ機能していた隷属農民たちが独立し、自分の農地を家族経営によって賄わなければならなくなると、妻や子は貴重な労働力として必須となるからです。結婚とは、農業という経済生活を営むうえで欠くべからざる運営体の形成だったのです。
 こうして農村地域の未婚率は改善されていくわけですが、それにしてもまだ1771年時点の男の未婚率は30%(前述信濃国湯舟沢村)もありました。農村よりも未婚化が激しかったのが江戸などの都市部です。幕末における男の有配偶率を見てみると、現代の東京の有配偶率よりも低いことがわかります。
 このグラフを見ておわかりのとおり、男女で有配偶率が大きく違います。それは、江戸が相当な男余りの都市だったからです。1721(享保6)年の江戸の町人人口(武家を除く)は約50万人ですが、男性32万人に対し、女性18万人と圧倒的に男性人口が多かったのです。女性の2倍、圧倒的に男余りでした。つまり、江戸の男たちは、結婚したくても相手がいなかったのです。「茨城県が1位!『ニッポン男余り現象』の正体」という記事にも書いたとおり、現代の日本も未婚男性が未婚女性に比べ300万人も多い男余り状態です。江戸と今の日本はとても似ていると言えます。
 独身男性であふれていた江戸だからこそ、最も栄えたのが食産業でした。今も独身男性は消費支出に占める食費の割合(エンゲル係数)が30%近くあります。特に外食費比率が高いのですが、ソロ男たちは、外食費や調理食品、飲料や酒の消費額は、実額で一家族分以上消費しています(外食費は1家族以上!独身男は「よき消費者」だ)。
 ファストフードも居酒屋も
 独身男の食欲が旺盛なのは江戸時代とて一緒で、握りずしは今でいうファストフードとして生まれたものです。当時の握りずしは、今のおにぎり大のサイズがあり、江戸の男たちは歩きながらそれをほお張ったのでしょう。屋台のそば屋も天ぷら屋も対象ターゲットは江戸の独身男たちでした。酒屋で酒を買ったせっかちな江戸っ子たちが、店先で飲み始めたことから、つまみのサービスが始まり、そこから「酒屋に居る」という意味の居酒屋業態が栄えることにもなりました。
 当時長屋に住む独身男たちは、自炊こそあまりしませんでしたが、家で米だけは炊いていたようです。何も米だけを食べていたわけではありません。おかずとなる総菜は「棒手振り(ぼてふり)」という行商が売りに来てくれたため、料理の必要性がなかったのです。今風に言えば、デリバリー型フードサービスが充実していたわけです。
 また、独身男性たちはほとんどモノを所有しませんでした。生活に必要な物はレンタルで賄うのが普通だったのです。そのためのサービスが、損料屋です。使用に際する代償を損料として受け取る商売でした。衣料品、布団、蚊帳、食器、冠婚葬祭具、雨具、道具、家具、畳、大八車などのほか下着のふんどしでさえレンタルするのが当たり前でした。これこそ現代でいうシェアリングエコノミーで、すでに江戸時代からあったのです。
 元祖「会いに行けるアイドル」
 江戸時代にもアイドルが存在していたことをご存じですか? 1760年代、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘笠森お仙がそうでした。要はカフェのウェートレスなんですが、美人だと評判になり、美人画で有名な鈴木春信が彼女を描いたことで江戸中に拡散し、大人気となりました。
 「会いに行けるアイドル」の元祖です。あまりの人気に、茶屋では彼女の絵や手ぬぐい、人形などお仙グッズも売り出し、それがまた大ヒットしたそうです。まさに現代のアイドル商法と同じではありませんか。
 ちなみに、笠森お仙は、人気絶頂期に突然姿を消したためストーカーによる誘拐拉致説も流れ、ファンの男たちは騒然となりました。が、真実は幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁いだとのこと。今でいえば、金持ちエリート実業家と結婚してアイドルを引退したというところでしょうか。オタクたちの純粋な恋が悲しい結末を迎えるのは江戸時代も今も変わらないようです。
 さらに、江戸時代はコスプレ文化さえありました。歌川広重が描いた「東都名所高輪二十六夜待遊興之図」という浮世絵があります(江戸東京博物館所蔵)。二十六夜待ちとは、旧暦七月二十六日(現代だと八月中旬から九月中旬の間)の夜に、念仏を唱えながら昇ってくる月を待つというイベントですが、信仰的な意味合いより、月が昇る明け方まで飲んで騒ぐオールナイトのお祭りとして栄えました。当日は、先にご紹介したすしや天ぷらなどの屋台が並び、タコのコスプレで参加した男たちが楽しむ様子も浮世絵に描かれています。
 江戸時代のコスプレのクオリティの高さは、『蝶々踊図屏風』にも見られます。これは、江戸ではなく京都で1840(天保10)年ごろ大流行した仮装踊りのお祭りですが、タコやすっぽん、なまずのコスプレをして踊る大勢の人達が描かれています。まさに現代の渋谷のスクランブル交差点でのハロウィンのようなにぎわいです。
 ほかにも、挿絵の入った読み物の黄表紙は、今でいうマンガのようなものですし、当然ながら、吉原や岡場所という性風俗産業、春画などアダルト産業は、独身男性過多の需要に応じて発展した産業でもあります。
 現代の結婚しない男たちに通じるもの
 「宵越しのカネは持たない」という江戸のソロ男たちの消費意欲は旺盛でしたが、それは決してモノ消費のような所有価値を重視した価値観ではありません。むしろ、承認や達成という人間の根源的な欲求を満足させようとする意欲が強く、彼らにとって消費行動とは「幸せ感の獲得」という精神価値充足の手段でした。これもまた、現代の結婚しない男たちに通じるものがあります。
 このように独身男性が多かった江戸と現代は共通点が多く、日本はすでに一度大きなソロ社会を経験していると言えます。だからといって国が滅びたわけではありません。むしろ、彼ら江戸の独身男性たちは、子孫こそ残せなかったものの、今に続く多くの文化や産業を残したとも言えるでしょう。
 さらに、もうひとつ重要な視点。江戸は循環性のある「つながる社会」でもありました。灰買いや肥汲みはもちろん、古紙や古釘、抜けた毛髪に至るまでリサイクルしていました。それは、人々の価値観も、物事や人はすべてつながっており、自分の行いは巡り巡って自分に戻ってくるという概念に基づいています。
 一人で暮らす人たちが多い社会だからこそ、個人単位で人とつながる意識を大事にする。それこそが、これから訪れる未来のソロ社会において、私たち一人ひとりの生き方のヒントがある気がします。もちろん、江戸時代がすべてバラ色の時代とは言えませんし、江戸回帰を推奨するものでもないですが、これほどまでに現代との類似点があったことは興味深いと思います。
  ・   ・   ・   
江戸はスゴイ 世界一幸せな人びとの浮世ぐらし (PHP新書)
「一人で生きる」が当たり前になる社会

⛩20)─4─貧しい庶民の食事が和食文化になったのは「もったいない」と「粗末にしない」であった。〜No.43 

   .・    ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 「もったいない」と「粗末にしない」の意味と行動は、昔の日本人と現代の日本人では違う。   
   ・   ・   ・   
 現代日本は、好きなだけ食糧が自由に輸入できる時代であり、料理の好き嫌いが言える飽食の時代であり、食べられるのに食料を捨てる食品ロスの時代である。
   ・   ・   ・   
 江戸時代。異常気象で凶作になると広範囲で飢餓が発生した。
 鎖国政策で中国や朝鮮など周辺諸国から食糧を緊急輸入できなかった為に、飢餓地帯で夥しい被災者が餓死した。
 昔の日本人は、現代の日本人とは違って、生きる為の食べ物を確保するべく「もったいない」と「粗末にしない」を最重要の教訓としていた。
 昔の日本人は、「人はパンのみの為に生きるのではない」といったキリスト教や「人は武器や食糧ではなく礼節の為に生きるべきである」といった儒教とは違い、「人は生きる為に食べる」事を最優先していた。
   ・   ・   ・   
 平和な時代となった江戸時代、庶民は一日2食の食事を旨く美味しく愉しく食べられるかを、遊びと好奇心で工夫を楽しみながら、食材一つから多種多様な創作料理を数多く作り続けた。
   ・   ・   ・   
 江戸時代。金持ちの寿司は、米糟から米酢が作る事で庶民の食べも物になって発展した。
 日本文化は、金持ちや特権階級の文化ではなく身分低い貧しい庶民の文化であった。
 現代日本には、生きた日本文化はない。
   ・   ・   ・   
 NHK知恵泉
 チャンネル[Eテレ]
 2020年12月22日(火) 午後0:00~午後0:45(45分)
 ジャンルドキュメンタリー/教養>歴史・紀行
 ドキュメンタリー/教養>カルチャー・伝統文化
 ドキュメンタリー/教養>ドキュメンタリー全般
 番組内容新米の季節。日本人とコメの長い付き合いから、先人の知恵を探る。稲作と古墳の知られざる結びつき、将軍を救った御膳…美味(おい)しくて真似(まね)したい知恵満載
 出演者ほか【出演】作家…平松洋子はなわ京都府立大学教授…佐藤洋一郎,【司会】新井秀和
 詳細新米の季節。コメの神様・稲荷神社を訪ね、稲穂が刻まれた5円玉でお参りし、小腹がすいたらおいなりさんをほおばる。春は田の神様をもてなすために「花見」をし、秋は収穫を感謝して「月見」を行う。日本人とコメの長い付き合いから、先人たちの知恵を探る。稲作と古墳の知られざる結びつき、将軍を救った御膳、寿司(すし)を生んだコメの二次利用…美味(おい)しくて真似(まね)したい知恵満載。
   ・   ・   ・   
 勿体ない精神とは。
 食料ロスとして、まだ食べられる食べ物を粗末にして捨てる事がもったいないのではない。
 使い途がないとしてゴミとして捨てているものがもったいないのである。もったいないから別の用途として再利用できないかと考え、創意工夫するのが勿体ない精神である。
 もったいないとは、物を大事にする事ではなく、無駄なモノ・古い価値として捨てる中から新しいモノ・新しい価値を生み出すイノベーションの事である。
 日本の伝統文化とは、尽きる事がないイノベーションの宝庫であった。
 今・現在においてもったいない、のではなく、明日・将来に対してもったいなのである。
 食べ物を捨てても恥じない現代の日本人には、昔の日本人が持っていたもったいない、勿体ない精神はない。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 もったいない(勿体無い)とは、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表している、日本語の単語である。
 「物体(もったい)」とは、元来は仏教用語である。また、「勿体無い」は、もともと「不都合である」、「かたじけない」などの意味で使用されていた。現在では、それらから転じて、一般的に「物の価値を十分に生かしきれておらず無駄になっている」状態やそのような状態にしてしまう行為を、戒める意味で使用される。
   ・   ・   ・   
 mizkan
 すしラボ HOME▶歴史
 すしの歴史
 今世界中で人気の握りずしは、1800年代前半に江戸で誕生しました。
 当時の握りずしは、江戸前の魚と、飯に酢と塩で味付けしたすし飯を握ったもの。
 握ってすぐに食べられる握りずしは、江戸っ子のハートを掴みました。
 この握りずしのおいしさを支えた酢は、米酢に代わり新しく開発された赤酢。
 この赤酢は、1804年に創業したミツカンの初代中野又左衛門が、尾州半田で研究を重ね、世界で初めて熟成した酒粕を原料に使って造られた酢です。
 熟成した酒粕の風味や旨みが、すし飯に良く合うと評判となり、江戸でも「人気のすし屋」が次々に使い、今に至っています。
 こちらでは、当時の資料とともにおすしの歴史を振り返ります。
 すしの歴史(1) 日本古来の「発酵ずし」と、最古のすし屋「つるべすし 弥助」
 日本古来の「発酵ずし」
 1200年以上の歴史を持つ日本のおすし。
 その最も古いかたちは、酢は使わない、そしてご飯は食べずに、発酵のために使うもの。ご飯を発酵させ、酸っぱくする保存食・発酵ずしでした。発酵ずしの起源は東南アジアでの魚、肉の保存食に由来します。
 今、皆さんがイメージされるおすしとは違って、漬物にも似ています。 滋賀県の鮒ずしの由来でもあります。
 魚を米飯と塩で発酵させた食べ物を「熟(な)れずし」と呼び、奈良時代の高貴な方々の食べ物として定着していました。
 そういう「熟れずし」の時代は長く続きますが、外見的にも内容的にも姿を変えるのは室町時代のことです。まず発酵期間を短くして、ご飯も食べるようになります。
 発酵を浅くてやめてしまいますから、魚もどことなくなまなましい。そこでこのような形態のおすしを「なまなれ」といいます。「なまなれ」の出現で、おすしには食べどきというものができ、食べる日から逆算して、おすしを作ることも可能になりました。
 また、おすしが広く知られるようになったのもこの頃です。
 続く江戸時代になりますと、おすしはさらに庶民へと浸透してゆきました。江戸半ばにはご飯を発酵させつつも、酢を混ぜることがめずらしくなくなり、18世紀になって、早ずしの完成となります。
 ところがこれは一般庶民の話で、天皇家とか将軍家、大名家などでは、あい変わらずの「なまなれ」を食べていました。彼らにとって、伝統とは守るものであり、おすしも例外ではなかったのです。
 ですから、幕末になっても、江戸初期以前の「なまなれ」を作ったり売ったりする店が、数少ないながらも残っていました。
 古くから幕府御用や仙洞御所(譲位した上皇の御所)御用になっていた奈良の「つるべすし 弥助」も、そのうちの一軒でした。
 最古のすし屋「つるべすし 弥助」
 奈良県吉野郡下市町に現存する「つるべすし 弥助」は現在は「熟れずし」は作っていません。
 鮎の押しずし中心の料理屋となっています。
 49代弥助さんによると大昔から下市村界隈で鮎の熟れずしは作られていましたが、商売の記録としては400年ほど前の1600年、関ケ原の戦いの頃に京の朝廷に上納したのが最初らしいです。
 鮎は身が薄いので、発酵熟成させる期間は5日ほどとのことでした。
 今の店舗は昭和12年に火災で焼失し、翌年に建てられたものです。べんがら塗りの朱色の建物は、風情にあふれています。
 館内には「すし桶」など、歴史を感じさせてくれるものが多く飾られており、歌舞伎ファンの聖地となっています。
 歌舞伎の演目にも
 「義経千本桜 鮓屋の段」に出てくるのは、「つるべすし 弥助」です。
 歌舞伎や人形浄瑠璃の、「義経千本桜 鮓屋の段」に出てくる「つるべすし」は、鮎の熟れずし(なまなれ)で、入れていた桶が井戸水を汲む釣瓶(つるべ)に似ていたのが由来です。 現代の鮎の押しずし、箱ずしの源流です。
 源平の戦いに敗れ、源氏の追手から逃れた「平維盛(これもり)」は、奈良吉野下市村の、つるべすし屋に匿われ、名を「弥助」と改めます。そこで看板娘の「お里」に惚れられながら平穏な生活を送りますが・・・
 物語は源氏の追手、梶原景時がこのすし屋に来ることで急展開します。札付きの悪で勘当されたお里の兄「いがみの権太」が改心し、弥助を守ろうと奮闘する中、すし桶が重要な鍵となって佳境に入ります。
 すし屋のことは俗に「弥助」と呼ばれ、「乱暴者」の意味で使われる「ごんたくれ」は権太に由来します。
 すしの歴史(2) 江戸の握りずし文化と華屋与兵衛
 それでは、すし飯で作る現在のおすしは、いつ頃生まれたのでしょうか?
 それは、江戸時代中期1700年代前半頃になります。現在のおすしの原型となるお酢を使った『早ずし』が誕生しました。
 『早ずし』は、飯にお酢と塩で味付けしたものです。
 江戸時代中期には『箱ずし』『巻きずし』『棒ずし』など今でも愛されている様々なおすしが作られるようになりました。
 ちなみに、江戸の街は『握りずし』が誕生する前は、『箱ずし』が人気だったそうです。
それでは『握りずし』はいつ頃生まれたのでしょうか?
 それは、江戸時代後期にさかのぼります。1800年代前半頃、江戸の街で誕生しました。
 当時の江戸の街は、100万の人々が暮らす大都会。
 単身の男性が多く、『すし』『蕎麦』『天ぷら』などの屋台が人気でした。
 では、屋台で人気の『握りずし』は、いったい誰が考案したのでしょうか?
 残念ながら考案者は不明ですが、『与兵衛鮓』の主人、初代華屋与兵衛が大成したと考えられています。
 当時の『握りずし』は、江戸前で獲れた魚貝を下処理したタネと、お酢と塩で味付けしたすし飯が握られており、その大きさは現在の2倍から3倍も大きかったようです。
 すしの歴史(3) 握りずし文化を支えた半田の赤酢と中野又左衛門
 1804年、ミツカンの創業者、尾州半田の中野又左衛門は江戸に下り、江戸の街で人気の『早ずし』に出会いました。
 そのころ『早ずし』に使われていた酢は米酢。
 又左衛門は、「米酢を粕酢にすることができたら、もっとおいしく手軽なすしが作れるはずだ」と考えました。
 そして、半田に戻った又左衛門は粕酢の開発に力を入れ、熟成した酒粕を原料に使った粕酢を完成させました。
 1845年頃には、最高級粕酢『山吹』が誕生しています。
 又左衛門が作った粕酢は、粕酢の風味や旨みがすし飯に良く合うと、江戸でも人気の握りずし屋が使うようになりました。
 そして、粕酢は、江戸っ子のハートを掴み、半田の港から江戸の港に弁才船で運ばれ、江戸の握りずし文化を支えました。
 握りずしを大成させた華屋与兵衛の四代目の弟、小泉清三郎が書いた『家庭 鮓のつけかた』の中で、「鮓に使うのは尾州半田の山吹に限る」と称えました。かの北大路魯山人も『魯山人料理王国』の中で、「上等な寿司」の条件の一つとして、「最上の酢(愛知赤酢・米酢)」を挙げています。
 江戸の街から世界に広がるすし文化とミツカン
 酢の切っても切れない関係は、江戸の昔から始まったのです。
 すしの歴史(4) 各種すしの歴史
 箱ずし
すしが酢を使わず、発酵させていた時代。作り方としては2通りありました。一つは、できあがりが1匹の魚の形をしている「姿ずし」。ほら、アユずしとかフナずしを想像してみてください。頭も尻尾もついていて、まるで一匹の魚のようでしょう? でも、たとえばサケのおすしなんかはどうでしょう。あれは漬ける魚が大きすぎますから、サケを切り身にしてからご飯に混ぜて漬けますね。これを「切り身ずし」といいます。
 発酵させるすしは、やがてご飯に酢を混ぜた早ずしへと変わってゆきます。この「切り身ずし」は容器の中に、すしご飯と魚の切り身が入っている、つまり「箱ずし」になりました。はじめは、具は生の魚ばかりでしたが、次第に、煮た野菜なども使われるようになります。押す箱も、うんと大きくなったり、逆に小さくなったり。さまざまなバリエーションが生まれます。
 箱を大きくしたのが、山口県の「岩国ずし」や高知県の「こけらずし」でしょう。深い箱の中で何段ものすしを作り、切るときはノコギリのような大きな包丁を使います。長崎県の「大村ずし」は、昔は脇差を使って、すしを分け与えたそうです。
最も進化したといわれるのが、大阪の箱ずしです。江戸時代の半ばになると具の量を増やし、明治時代には2寸6分(8.5センチ)角の箱の中にサバやアナゴ、玉子焼きなどをきれいに並べつけ、「2寸6分の懐石料理」と賞されるものまで現れました。
 巻きずし
 江戸時代の半ば、宝暦から天明年間の頃でしょうか。とある昼間、江戸の町の料理屋の2階で、ひとり、酒を飲んでいる商店の主人がおりました。商店とはいっても大坂の大店ではなく、江戸の札差(米の売買の仲介人)の当主くらいなものです。そんな男が、酔いも回ってきたのか、料理人に文句をつけています。曰く、「オレはここにある料理なんか、食い飽きた。今までに食ったこともないようなもの、たとえばこのサバずし。メシと魚とがひっくり返ったすしにしてみろい」と。
 いくら酔っているとはいえ客は客。料理人は一生懸命考えて、すしご飯とサバの位置を逆転させます。魚にご飯を抱かせるのではなく、魚を細い芯にして、その周りをご飯で固め、輪切りにして出そうとしました。ところがそれでは外側にご飯が出るため、手にべたつきます。そこですしの外側に、和紙や魚の皮を巻きつけました。しかし今度は、いちいち口の中から和紙や魚の皮などを出さなければなりません。同じことなら、そのまま食べられるもので巻いたらどうか?
 こうして生まれたのが巻きずしで、やがて全国に広がります。海に近いところではノリやコンブ、ワカメなどが、山の中ではタカナの漬け物などが巻く材料として使われました。芯も、魚から卵焼きやかんぴょう、ニンジンなどへと、精進モノに変わってゆきました。
 稲荷ずし
 油揚げの中にすしご飯。私はこれも、姿ずしの変形であると思っています。というのも、この稲荷ずしは、出始めた江戸末期には、切られて売っていたのです。たとえば嘉永5年(1852)に出た『近世商賈尽狂歌合』には、提灯を灯した露天店で、稲荷ずし売りが包丁を前にしながら「一本が16文、半分が8文、ひと切れ4文」と歌うところが見えています。包丁を持って稲荷ずしを売り歩くのは、ほかの資料でもよくみられることでした。
 このように稲荷ずしは切って売るのですから、油揚げは四角いのが決まりでした。しかし今日では、東日本は四角なのに対し、西日本は三角。境界線は石川県から岐阜県、そして三重県へと抜けています。このラインは「関東」と「関西」を分ける線(愛発、不破、鈴鹿の関を結ぶ線)とも一致し、正月雑煮の四角と丸の境界もほぼ同じです。
 油揚げの形だけではありません。中に詰めるすしご飯も、何も混ぜないか、混ぜても麻の実やゴマていどの白いすしご飯である東方に対し、さまざまな具を混ぜた五目ずしを詰める西方と、これまたきれいに東西が別れます。
 なお、稲荷ずしはふつうのすし屋では、あまり好まれるものではありませんでした。一つは油で、手がベタつくから。もうひとつの理由は、稲荷ずしはあまりに安いため、自分たちの握るすしとは違うのだと、黙って主張していたのかもしれませんね。
 ちらしずし
 江戸時代後期の料理本『名飯部類』(享和2年 1802)に「おこしずし」「すくひずし」というすしが出ています。すしご飯に具を切り入れて混ぜ合わせ、箱に詰めて重石をかけておくもので、食べるときはご飯をヘラで掘り起こします。今の時代にはほとんど見られませんが、それでも静岡県伊豆地方や京都府北部、佐賀県白石地方などには、わずかに残っています。
 これらのすしは、宴席にはこのまま出されます。掘り起こすのは宴席にいる人、つまり昔は男の人でした。しかも、お酒が入っています。そういう人がスプーンを使いこなすのは結構むずかしい。酔った手で四苦八苦しながら、ようやく小皿にとりますが、とったすしは、せっかく押さえたのにグチャグチャ。見るも無残な姿です。
 「それだったら、最初から押さなくてもいいんじゃない?」 こうして、すしの中ではただひとつ。めずらしい「押さないすし」ができたのです。これがちらしずしです。具材は「シンプルでもよし、豪華ならなおよし」。今では最も簡単にできるおすしとして知られています。
 「ちらしずし」の類語に「五目ずし」というのがあります。「どちらも同じ」とするのが今の日本ですが、ある地方だけ、「このふたつのすしは違う」というところがあります。それは静岡県。ここでは、白いすしご飯の上から具をふりかけるのがちらしずし、具を混ぜてしまうのが五目ずし、なのだそうです。
   ・   ・   ・   
 読むカウンセリング(ピュアハート・カウンセリング 大阪・吹田・豊中
 心理カウンセラーのブログ
 Home>これからの社会>食べ物を粗末にしない
 食べ物を粗末にしない
 ちょっと、心には直接関係ないのですが、経済的なことを書いてみたいと思います。
 最近の若い人たちはどうか分かりませんが、私たちの世代が子供だった頃は、
・食べ物を粗末にしない
・お年寄りを大切にする
 といったことを、身近な大人たちやテレビドラマのセリフなどを通して、よく聞かされたものです。
 その頃は、あまりそれらの言葉の意味を理解できずにいましたが、年を重ねた今、ようやく、それらの言葉の大切さが分かり始めたような気がしています。
 今回は、このうち「食べ物を粗末にしない」について書きます。
 デフレ経済に突入して以来、20年近くの間、テレビや新聞、雑誌などを見ていると
・経済を良くしなければならない
・株価を戻さなければならない
 というようなことばかりに社会的な意識が向かい、何かといえば「景気対策」が話題になります。
 (いまだに、「株価を戻す」という表現をしていることは滑稽です。)
 詳しく説明しませんが、極論すれば、
・経済とは、お金を利用して、食物を配給するしくみ
 ということが出来ます。
・働かざる者食うべからず
 という言葉がありますが、この言葉もそのようなことを表わしているのかもしれないと思えます。
 なぜなら、逆から言えば、
・働いた人は食べなさい
 と解釈できるからです。
 食事の後、お茶碗にご飯粒がついていると
・お百姓さんが一生懸命に働いて作ってくれたものだから、感謝して残さずきれいに食べなさい
・たった一粒と思うかもしれないけど、日本人が全員、ご飯を一粒ずつ残すと、ものすごい量になる。だから、残さずに食べなさい
 といった話も、繰り返し聞かされました。
 これらの言葉は、日本の歴史の中で、私たちの祖先が、「食べ物を粗末にすると、世の中の人が幸せになれない」と学びとり、日本の文化として根付いたもの(根付いていたもの)ではないかと思います。
 「食べるために働く」という言葉は、一応、今でも使われていますが、「食べる」という意味が曖昧になってしまい、「お金のために働く」というニュアンスになってしまっているように感じます。
 (「食べ物を買うために働く」という方が本質に近いと思います。)
 そして、結局、お金の世界になってしまったように思います。
 アベノミクスも良いですが、この国の舵を取る役割を担っている人たちは、まず、「経済の役割は、食べ物を人々に行き渡らせること」ということを押さえた上で、進むべき方向を定めていくべきだと思います。
 大きなくくりで言えば、例えば、次のような考え方を取り払うことは大切です。
・「賞味期限」という考え方
・「規格外」という考え方
・「食べられるものを廃棄する」という考え方
 全て、「食べ物を人々に行き渡らさせる」という経済の根本に逆行する考え方です。
 細かいところを言えば、
・納豆に、使われるかどうか分からない「からし」を一律につける
 ということも、食べられるものを捨てることと同じなので、そのような慣習がなくなるように働きかけた方が良いと思います。
 「食べ物を粗末にしない」と似たような言葉に「ものを大切にする」というものもあります。
・捨てるものを作ること
・直ぐに壊れて捨てるものを作ること
・使えるものを捨てること
 をやめれば、人々が過労死するような労働から解放されると思います。
 日本はもともと、
・「ものを大切に作り、大切に使う」
・「食べ物を、ありがたいと思って食べる」
 という八百万の神に感謝するような文化だったはずです。
 そして、捨てる文化ではなかったはずです。
 日本の舵取りをする人は、日本文化の流れを生かした舵取りは出来ないものかと思います。
 「改革には痛みが伴う」とよく言われますが、貨幣経済にばかりこだわった改革もどきでは、痛みはあっても、次に待っているのは、次の「痛みをともなう改革もどき」、つまり、いつまで経っても痛みだけしかないような気がします。
 経済の本質(食べ物を人々に行き渡らせること)を押さえない経済対策は、それを繰り返すだけだと思います。
 そうやって、20年もの月日を費やしてきたのです。
 FacebookTwitterLineHatenaPinterestEvernotePocket
 この記事は、ピュアハート・カウンセリングの心理カウンセラー 田中 順平 が書いています。
 心理カウンセラー 田中 順平
 〒561-0871 大阪府豊中市寺内町3−7 エーデル緑地101 → アクセス
 
   ・   ・   ・   
 天台宗
 TOP一隅を照らす運動とは実践3つの柱と一隅を照らす日MOTTAINAI(もったいない)
 3.共生 MOTTAINAI(もったいない)
 今、「MOTTAINAI(もったいない)」という言葉が世界の注目を浴びています。
 アフリカ人女性として初のノーベル賞を受賞したケニアワンガリ・マータイさん(※注1)は、「もったいない」という日本語を知り、「ものを大切にし、心豊かに生きてきた日本人の心・生き方そのものだ」と感激されました。そして、「この言葉を考え直すことで、大量生産・消費型のライフスタイルを変革できる」と考えて「もったいないを世界に」と提唱されました。今、その輪が国内外に広がっています。
 「地球環境保全」というと、あまりに大きなことで、自分が関われることだろうかと思ってしまいます。また、「大切なことはわかるけれど、面倒なことはしたくない」と思う方もおられるでしょう。
 「もったいない」…日本人でさえ忘れかけているようなこの言葉を、もう一度私たちの意識に呼び覚ますことで、環境問題やゴミ問題などにごく自然に関わっていくことができるのではないでしょうか。
※注1 … アフリカの植林活動に尽力し、環境分野の活動家として史上初のノーベル平和賞を受賞したケニアの女性活動家。
 食べ物を残したらもったいない
 子供の頃などに、「ご飯を粗末にするとバチがあたる」と言われたことがある方も多いのではないでしょうか?
 お米の中に神様が何人もいる、お米は八十八の手間をかけて作られているなど、様々な理由で私たちは食べ物の大切さ、食べ物のいのちを粗末にしないこと、食べ物やそれを作ってくださった方への感謝の気持を教えられてきました。
 今、日本は飽食の時代。お金さえ出せばどんな食べ物でも手に入り、食べるに困ることはありません。「グルメ番組」が流行り、食べることに時間とお金をかけるのを厭(いと)わないことがもてはやされています。
 そんな中で、お茶碗の中のお米を最後の一粒まで残さずに食べることは当たり前ではなく、むしろ「格好の悪いこと」と思う人も増えているのではないでしょうか? 食べきれないほどの食べ物を注文し、残してしまうことに何の後ろめたさも感じないばかりか、残さずに食べきることは「恥ずかしい」ことだと考える人も増えているのではないでしょうか?(※注2)
 食べ物をありがたくいただき、残したら「もったいない」と考えることは、すべての環境問題の出発点であるように思います。
 家庭での実践例
 余分な食材は、冷蔵庫で保存する時、調理する時、処分する時、すべていのちとエネルギーの無駄遣いになってしまいます。自分の食べられる量だけ買い求めましょう。冷蔵庫の中やストックしてある食品の賞味期限を確かめましょう。
※注2 … 日本では、年間2千万トンの食品廃棄物が飲食店・コンビニ・家庭などから放出されます。
 家庭の調理くず・食べ残しなどはその半分の約1千万トンで、その90%(食べ残し40%、調理くず37%、賞味期限切れ13%)は生ゴミです。食べ残しの内訳は、多い順から、手つかず食品38%、ご飯8%、パン類5%、肉類3%などとなっています。
今、世界では8億以上の人々が、毎日を空腹のまま終える生活を余儀なくされています。人災や自然災害の被災者およそ5千万人が、深刻な飢餓の脅威にさらされています。毎日5歳未満の子どもが1万6千人亡くなっていますが、その主な原因は栄養失調です。飢えのために5秒に1人のペースで子どもが亡くなっています。
 「もったいない」を探そう!
 不要なアイドリングはストップしよう
 コンビニなどに行くと、ガムを一つだけ買ってもレジ袋に入れてくれることがあります。ガムに買ったことがわかるようにシールを貼ってもらえば、レジ袋は必要ありません。レジ袋をもらっても、たちまちゴミになってしまうだけです。
 たとえば、見てもいないのにテレビをつけっぱなしにしたり、電灯をつけたままにしていることはありませんか? たった一杯のお茶を飲むのに、ヤカンに半分ほどのお湯を沸かしていませんか? 1枚着込んだだけで充分温かいのに、薄着のままで暖房をつけていませんか? 車を停めている間のアイドリングは必要ですか?………
 家庭での実践例
 エアコンの設定温度を適正(夏は28度以上、冬は20度以下)にして、衣服で調整しましょう。(※注4)
 電気はこまめに消し、あまり使わない電気器具はコンセントを抜きましょう。(※注5)
冷蔵庫に食品を詰め込み過ぎないでおきましょう。(※注6)
不要な車のアイドリングはやめましょう。(※注7)
※注3 … 家庭でのエネルギーの消費量は、多い順にエアコン、冷蔵庫、照明器具で、この3つで60%近くを占めています。これらで省エネをすれば大きなエネルギー節約になります。古いエアコンや冷蔵庫などは効率が悪いうえに、大きな電力を消費します。場合によっては大事に使うより、買い替えたほうが省エネになることがあります。
※注4 … エアコンの温度設定は、暖房を2度低く、冷房を1度高くすることで、約10%の電気代節約になります。
※注5 … 機器を使用していないときにも消費される「待機電力」は、家庭の全消費電力量の10%台といわれています。
※注6 … 冷蔵庫内に食品を詰め込みすぎると、庫内の冷気の循環が悪くなり、消費電力量が増加します。また、庫内にものを詰め込みすぎると、どこに何が入っているのかわからず、扉を開けている時間も長くなりますし、食品の使い残しを出す原因にもなります。
※注7 … 乗用車(2000ccガソリン車)で10分間アイドリングをすると、0.14リットルの燃料を消費し、90グラムの二酸化炭素を排出します。一般家庭用のガソリン車なら、厳寒期以外暖機運転は必要なく、1キロ程度はゆっくり運転をすれば充分です。
 まだ使えるものを捨ててしまうのは「もったいない」
 兄弟姉妹で服のお下がり「お下がり」という風習があります。兄弟・姉妹や親戚、近所の人などで、一つのものを大切に使い切る風習でした。
 今は一つの物を長く大切に使うのが困難な時代かもしれません。電気製品を修理しようと思っても、「買ったほうがお安いですよ」とか、「新しい製品のほうが電気代が安いですよ」などと言われたりすることがあります。パソコンなどは「寿命は3年」と言われ、最初から長く使うことは期待できません。
 最近はガレージセールやフリーマーケットなどが盛んに開かれるようになって、使う予定のない新品、中古ながらまだ充分使えるものなどを「流通」させる機会が増えました。また、インターネットのオークションなども盛んです。
 出品されている物には、新品や新品同然のものはもちろん、「こんなもの、誰が買うだろう?」と思うような品物までありますが、不思議と欲しい人が現れてなくなっていきます。
 品物を活かすことができるフリーマーケットも盛ん
 「もったいない」という視線で見てみると、いろいろな物が再利用できたり、リサイクルできます。
 例えば、毎日家庭から出るゴミの約35%は生ゴミだといわれていますが、この生ゴミも処理をすると、堆肥などとして再利用することができます。
 生き物だけではなく、「物」のいのちも大切に生かす、「もったいない」という気持ちが大切です。
 家庭での実践例
 自分は要らなくなったけれどまだ使えるものは、知人などに譲るか、バザーやフリーマーケット、ガレージセール、リサイクルショップなどへ提供・交換・出品しましょう。また、提供されたものを使いましょう。インターネットのオークションも試してみては? 最近は、古い和服を欲しがっている人も増えています。
 自治体の資源ゴミの対象になっているものは、できるだけ回収に回しましょう。
 食品トレイ・牛乳パック・古紙など、大型店舗や地域の学校が回収しているものは、捨てずに回収に出しましょう。
 家庭から出されるゴミの約半分は、食べ残しや調理くずなどのいわゆる生ゴミです。生ゴミ処理機やコンポストなどを使って、生ゴミを減らすと共に、堆肥を作ってみませんか?(※注8)
 割り箸のリサイクルも行われています。日本人が1年間に使い捨てている割り箸は、約250億膳。これに使われる木材で120平米の家が1万7千戸建てられます。
王子製紙株式会社|割り箸回収活動
http://www.ojipaper.co.jp/culture_sports/community/chopstick_2.html
一隅を照らす運動では使用済の切手のリサイクルを行っています。
※注8 … 家庭用生ゴミ処理機の購入に対し、その費用の一部を補助する自治体が増えています。お住まいの自治体にお尋ねになってみてはいかがでしょうか。
 もう一度、「勿体ない」
 「勿体」(もったい)とは、世の中のすべてものは繋がりあって成り立っている、それ単独で成り立っているのではないという仏教の言葉です。「もったいない」はそんな存在価値や意義が、ないがしろにされ、あるいは十分に活かされていなくて惜しいという意味です。
 繋がりあって成り立っているせっかくのものであるのに、その縁を断ち切って空しくしてしまう行い。たとえば、まだ使えるものを捨ててしまったり、価値があるものの価値を損なって無駄にしてしまうような行い。それらはすべて、私たちと繋がりつつ共に生きている「いのち」を粗末にする、あるいは、ものを生かすことをしない「もったいない」行為です。
 ただ「物」を大切にするというのではなく、私たちと繋がりあって生きている森羅万象(しんらばんしょう)の「いのち」を大切にする行い、それが一隅を照らす運動がおすすめする「もったいない」です。
   ・   ・   ・   
 アルファポリスビジネス(運営:アルファポリス)の提供記事です
 東洋経済
 「もったいない」の日本語に隠れた本当の意味
 私たちは支え合って「生かされている」
 大來 尚順 : 浄土真宗本願寺派僧侶
 2017/01/16 15:00
 {浄土真宗本願寺派僧侶でありながら、通訳や翻訳も手掛ける大來尚順氏による連載『訳せない日本語~日本人の言葉と心~』。エンターテインメントコンテンツのポータルサイトアルファポリス」とのコラボによりお届けする。}
 注目された言葉
 2004年に環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア出身のワンガリ・マータイさん。この方が環境を守る世界共通語として「MOTTAINAI(もったいない)」を広めることを提唱し、国内外で「もったいない」という言葉が注目を浴びたことは、多くの方がご存知だと思います。
 その後、地球環境に負担をかけないライフスタイルを通して、持続可能な循環型社会の構築を目指す活動として「MOTTAINAIキャンペーン」がスタートしました。そのキャンペーンの説明によれば、マータイさんは、日本語の「もったいない」という言葉を知り、この言葉の意味に該当する別の言葉を他言語にも探したそうです。しかし、「3R+Respect」という精神のすべてを網羅する言葉を、「もったいない」以外には見つけることはできなかったそうです。
 「3R」とは、「Reduce(ゴミ削減)」「Reuse(再利用)」「Recycle(再資源化)」のことを指し、最後の「Respect」はかけがえのない地球資源に対する尊敬の念のことです。マータイさんは、これらをすべて包括するのが「もったいない」という言葉だと定義されたのです。こうして日本語が大切な精神として世界から注目を受けたことはとても誇らしいことだと思います。
しかし、私たち日本人にとって「もったいない」という言葉がどのようなものか振り返ってみると、ごく当たり前の言葉として日常生活の中で使い、時には心の中で呟くような言葉だということに気がつくと思います。
 「もったいない」の意味のいろいろ
 実際、どのような場面で「もったいない」という言葉を使うか整理してみます。一番多いのが、①食事の際の食べ残しや、何か物を処分するときだと思います。そして、②無駄な時間や物を使うときにも、つい口にすると思います。また、③過分なお気持ちや物、チャンスや機会などを得たときにも使います。さらに、④それらを失ったときにも「もったいない」を使います。これらは「もったいない」を使う代表的な場面だと思いますが、こうしてみてみると、「もったいない」にも場面によって微妙に日本語の意味が異なることに気がつきます。
 四つの代表的な場面での「もったいない」を英語に訳すと、その意味の違いが明確になります。
{① It’s wasteful.  (それは粗末にすることだ)
 ② That’s a waste of time. (時間の無駄だ)
 ③ It’s too good for me. (私には良すぎる)
 ④ How stupid of me! (私はなんて愚かなんだ)}
 英語での表現はすべて異なるものです。しかし、日本語の「もったいない」は、これらの意味をすべて一単語で表すのです。日本語で使う場合は、一単語で複数の意図が伝えられる便利な言葉だと思いますが、英語で「もったいない」ということを伝えようと思うとき、これらの意味を把握しておかなければトンチンカンな表現になりかねません。
 これは私自身の経験ですが、渡米して間もないころ、「もったいない」という日本語を「粗末にしてならない」という意味でしか理解しておらず、常に「That’s wasteful.」という表現で英語を話していました。しかし、どうもしっくりこないと思うようになり、その原因が私の日本語の理解力の低さにあったときは、恥ずかしい思いでいっぱいでした。
そして、改めて「もったいない」という言葉を学び直すため国語辞典で調べてみると、新たな発見がありました。それは、「もったいない」という言葉は、仏教思想に由来していたということです。
 「もったいない」の根底
 国語辞典では「もったいない」は「神仏・貴人などに対して不都合であること」「不届きであること」「過分のことで畏れ多いこと」「かたじけない」「ありがたい」「無駄になることが惜しい」を意味するとあります。今日、私たちが使用している意味とは異なる意味もあることが分かります。
 しかし、語源を辿ると「もったいない」は「勿体無い」という漢字になります。これは和製漢語のようです。「勿体」とは、「重々しい」「尊大なさま」を意味するようですが、元来は異なる意味だったようです。
 本来、「勿体」は「物体」と書き、「物のあるべき姿/物の本質的なもの」を意味していたようです。これが派生し、「重々しい」「尊大なさま」という意味になったと説明があります。
 よって、この「物のあるべき姿/物の本質的なもの」を「無い」で否定するわけなので、「もったいない」というは「物の本体はない」ということを意味していたことになるのです。
 ここで注目すべきことは、この「もったいない」の本来の意味が仏教の「この世に何一つとして独立して存在しているものはない」という「空」(くう)の思想や「物事はすべて繋がって存在している」という「縁起」(えんぎ)の思想に通ずるということです。
 つまり、すべて当たり前ではなく、何一つとってもすべては有難い(有ることが難い)ことであり、私たちは支えあって「生かされている」という真実が「もったいない」という言葉の根底にあるのです。
 こう理解すると、「もったいない」の意味に「神仏・貴人などに対して不都合であること」が含まれていることに納得できます。つまり、目には見えない力や働きに助けられていることへの懺悔の念と感謝の気持ちです。
 これらの意味をすべて含めた場合、「もったいない」を英語にすることはできません。ひょっとしたら、マータイさんは、この「もったいない」という言葉の奥深さにも触れられたのかもしれません。いつか、「もったいない」が「MOTTAINAI」として英単語になることを願い、その意味を多くの方と共有できる日がくればと願っております。
 アルファポリスビジネスの関連記事
 大來尚順 訳せない日本語 「こつこつ」
 大來尚順 訳せない日本語 「おかげさまで」
 大來尚順 訳せない日本語 「いただきます」
 大來 尚順さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー)
   ・   ・   ・   

💍9)─3─日本の皇室が手本とすべき欧州の男系女系双系継承制度。〜No.52No.53No.54 ⑨ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 欧州の男系女系双系継承制度は、王女が結婚した外国人との間に生まれた子供に継承権を与えていた。
 欧州では、外国人でも自国の国王に即位する事を認めていた。
 つまり、中国人や朝鮮人が日本天皇に即位し日本国を統治し日本人を支配する事を認める、と言う事である。
 女系母系継承賛成派とは、それを認める日本人である。
   ・   ・   ・   
 東洋経済
 なぜ「女系・女王」をイギリスは容認してきたか
 「男系・男子」に限る日本との歴史的な違い
 宇山 卓栄 : 著作家
 著者フォロー
 2019/06/09 6:00
 日本皇室と女王・女系王容認のイギリス王室とはどのような違いがあるのでしょうか(写真:oversnap/iStock)
 日本とイギリスでは何が異なるのか?
 先月、令和の時代が幕開けました。新天皇の御即位とともに、皇位継承に関する報道なども増え、この問題に注目が集まっています。
 現在、わが国では、皇室典範の規定により、男系男子にしか皇位継承を認めていません。男系で、かつ男子の皇位継承者を永続的に多人数、確保することは容易ではないため、男系男子以外にも皇位継承権を広げるかどうかという問題提起や議論がなされています。
 なお女系天皇は、母のみが皇統に属する天皇を指します。天皇個人の性別についての「女性天皇」とは異なる概念です。つまり男系男子とは、父が皇統に属し、かつ天皇個人の性別が男性であるということです。
 先般もある通信社の世論調査によると、「女系・女性天皇に賛成7割」という結果が出ました。
 この問題を考えるうえで、イギリス王室の例がよく引き合いに出されます。「イギリスにはエリザベス女王がおられるのに、なぜ、日本では女性天皇が認められないのか」「チャールズ皇太子が即位すれば女系王になる、なぜ、日本では女系天皇が認められないのか」などの声があります。
 イギリス王室と日本皇室とでは、歴史背景、文化・伝統、制度・政治などすべてが異なり、単純比較することはできません。それでも、イギリス王室が歴史的に女王や女系王を認めたという事実や経緯を知ることは、日本皇室との違いを認識するうえで役立ちます。
 12世紀、イギリスで初めて女王が出ました。イングランド王ヘンリー1世は男子の継承者がなく、娘のマティルダを王位継承者としたのです。しかし、マティルダは従兄との王位継承戦争に巻き込まれたため、父王の死後、ほんのわずかな期間、在位したにすぎず、追い出されてしまいます。
 マティルダはフランス貴族のアンジュー伯と結婚しており、男子がいました。このマティルダの子が力をつけ、イギリスに攻め込み、イギリスの王位継承権を獲得、1154年、イギリス国王ヘンリー2世となります。ヘンリー2世は女系王として、プランタジネット朝を創始します。
 こうして、イギリスでは、女王(マティルダ)と女系王(ヘンリー2世)の前例がつくられました。この前例から派生したイギリスの王族子孫らは、女王や女系王を否定することができなくなります。それでも、王位継承の男子優先という原則が守られたため、その後、しばらく女王は出ませんでした。
 女系で広がった王位継承権の拡大
 14世紀、フランス王シャルル4世が継承者を残さず没すると、イギリス王エドワード3世は自らの母がフランス王家の出身であることを理由にフランス王位を要求します。フランスはこれを認めず対立、百年戦争がはじまります。
 エドワード3世はフランスにおいては女系になります。イギリスでは、女系にも王位継承権が認められていたので、エドワード3世はフランス王位継承権を自らの権利であると主張したのです。
 イギリスのように、女系王容認という立場であれば、母が外国からやってきた場合、その子には母の出身国の王位継承権があるということになります。母、祖母、祖々母とさかのぼって、母系の出身国のすべてに、王位継承権があるという理屈になります。
 そして、ここが非常に大事なところなのですが、逆に、他国に嫁いだイギリス王族女性の子にも、王位継承権があるということです。例えば、スペイン王に嫁いだイギリス王族出身の女性から生まれた子孫はすべて、女系子孫として、イギリス王位継承権があるということになります。つまり、その場合、スペイン王族がイギリス王位継承権を主張することができるわけです。このように、女系継承により、際限なく、王位継承者が広がるのです。
 実際、現在のイギリスの王位継承者は約5000人もいます。その中には他国の王も含まれます。
 主な継承者とその順位の例として、ノルウェー国王ハーラル5世は第68位、プロイセン王家家長ゲオルク・フリードリヒ・フェルディナントは第170位、スウェーデン国王カール16世グスタフは第192位、デンマーク女王マルグレーテ2世は第221位、ギリシャ王妃アンナ=マリアは第235位、ギリシャ国王コンスタンティノス2世は第422位、オランダ前女王ベアトリクスは第812位、オランダ国王ウィレム=アレクサンダーは第813位となっています。
 男系家系の派生範囲は限定的であるけれども、そこに女系が加わるとその範囲は膨大になります。このような継承者の範囲拡大を防ぐため、日本皇室では、皇族女性が嫁いだ際には、皇籍を離脱させます。女系継承を認めないという皇室の原理は天皇家の外に対しては際限のない継承者拡大を防ぐためであり、天皇家の内に対しては王朝の断絶を防ぐためであるのです(女系王即位による王朝断絶については、具体的にはヴィクトリア女王の子が即位したときに起りましたが、後段で改めて紹介します)。
16世紀前半に絶対君主として、ヘンリー8世テューダー朝)が君臨しました。ヘンリー8世の死後、嫡男のエドワード6世が王位を継ぎますが、病弱であったため、15歳で逝去します。ヘンリー8世の子は、エドワード6世以外は女子であったため、メアリー1世エリザベス1世の姉妹が王位を継ぎます。
 メアリー1世エリザベス1世の2人の女王には子がなかったため、女系王はこの時代、誕生しませんでした。2人の女王は国内外の政治的事情が複雑に絡み、結婚できませんでした。エリザベス1世は「私は国と結婚した」という有名な言葉を残しています。ただし、レスター伯をはじめ愛人とされる男は多くいました。それでも、子に恵まれず、テューダー朝は断絶します。
 次のステュアート朝でも、17世紀末から18世紀初頭、メアリー2世とアンの姉妹が王位を継ぎますが、後継者に恵まれず、断絶します。やはり、ここでも女系王は誕生しませんでした。
 女系継承容認という価値観が国民にも共有されてきた
 そして、19世紀に登場する女王がヴィクトリア(ハノーヴァー朝)です。ヴィクトリア女王大英帝国の最盛期を担い、1837~1901年の64年間にわたり、君臨しました。ヴィクトリア女王1840年ザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルバート公と結婚します。ザクセン=コーブルク=ゴータ家はドイツのザクセン家という有名な貴族の家系から派生した分家です。
 コーブルク(ドイツ、バイエルン州北部の都市)とゴータ(テューリンゲン州の郡)を領有していたため、このような家名で呼ばれます。この家系が1831年以降、新たに独立したベルギー王位を世襲し、今日のベルギー王室に至っています。
 ヴィクトリア女王が逝去すると、アルバート公との間に生まれた長男のエドワード7世が即位します。エドワード7世は女系王です。女系王であるため、父の家名に変更され、イギリスはザクセンコーブルク=ゴータ朝(英語読みでサクス=コバータ=ゴータ朝)となります。つまり、ハノーヴァー朝の断絶です。
 しかし、イギリスでは、女系継承容認の立場から、ヴィクトリア女王の直系血筋が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続を主張する人もいます。また、ハノーヴァー=サクス=コバータ=ゴータ朝という折衷名が使われることもあります。
 現在のイギリスはウィンザー朝です。エリザベス女王の後を、チャールズ皇太子が継ぐと、エリザベス女王の夫で、チャールズ皇太子の父であるエジンバラ公の家名を加えたマウントバッテン=ウィンザー朝と家名を変える予定です。
 マウントバッテン朝ではなく、マウントバッテン=ウィンザー朝という折衷名にするのはやはり、ヴィクトリア女王の時代と同じく、エリザベス女王の直系血筋が絶えるわけではないという考え方で、ウィンザー朝の継続というニュアンスを出すために、この王朝名を引き続き使おうとしていると考えられます。
 このように、女系継承容認というのがイギリス王室の歴史的文化・原理として長い間培われ、国民にもその価値観が共有されてきたのです。
 イギリス王室はその歴史背景において、日本皇室とまったく異なります。その差異がどのようなものであるかを再認識することによって、皇室の歴史文脈の独自性が色濃く浮かび上がります。皇位継承問題を考えるにあたり、こうした観点は有用な視座を与えてくれるものであると思います。
 宇山 卓栄さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー)」
   ・   ・   ・   
 日本において子供の親の名前を聞いた時、教えてくれるのは父親の名前・姓名であって、母親の名前ではない。
 つまり、細川忠興と答えても、お玉(細川ガラシャ)とは答えない。
 もし、お玉(細川ガラシャ)と答えたら、日本人は父親の主君殺しの明智光秀を思い出すが、病死した母親の煕子(ひろこ)を思い出さない。
 お玉(細川ガラシャ)のな名から、夫の細川忠興の父親である細川藤孝細川幽斎)を思い出すことはない。
 親の名前に、男系父系として徳川秀忠と答えれば徳川家康であり清和源氏清和天皇で、女系母系としてお江と答えれば浅井長政であり織田信長の妹・お市その親の織田信秀であり、浅井長政の母となってその女性の名前も生家も分からなくなる。
   ・   ・   ・   
 男系父系では一筋の家系図になり何処までも辿る事ができるが、女系母系では複数の筋となって家系図は作成できず祖先が辿れず血筋は自然消滅する。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇の、父親は大正天皇・母親は貞明皇后で、祖父は明治天皇・祖母は昭憲皇后で、曾祖父は孝明天皇・曾祖母は不明である。
 貞明皇后や昭憲皇后の、親や実家の事を知る者は少ないし、祖先の事は誰も知らない。
   ・   ・   ・   
 日本人は、子供の性格・人格・才能・人となりを父親の名前を聞いて判断するが、母親の名前から情報を引き出す事はないし、それ以前に気にはしない。
   ・   ・   ・   
 日本には昔から「親の因果が子に報(むく)う」という諺があるが、子供に祟りをもたらす親の因果とは父親の悪因・悪業の方が母親の悪因・悪業より多く重い。
 親の愛情は、母親の方が深く、父親は浅い。
 何故か、それは日本民族縄文時代の昔から母性崇拝・母胎信仰を持っていたからである。
 その証拠が、縄文土偶である。
 縄文土偶には、女性像がほとんどで男性像が少ない。
 日本の歴史・文化・伝統・宗教の深層には、母性崇拝・母胎信仰がある。
   ・   ・   ・   
 正統性は、軍事力や経済力ではなく、長い歴史・文化・伝統・宗教によって与えられ、男系父系にあって女系母系にはない。
   ・   ・   ・   
 正統性とは途切れる事のない永続性であり、正当性は断絶を伴う限定性である。
   ・   ・   ・   
 正当性は、その時代の実力者、その時の権力者の思いや一存や閃きで作られ、絶えず変化する。
   ・   ・   ・   
 女系母系にあるのは、人間としての正当性のみである。
   ・   ・   ・   
 東洋経済
 世界の王室から読む「女系・女性天皇」の可能性
 皇位継承問題を考えるうえで知っておきたい
 宇山 卓栄 : 著作家
 著者フォロー
 2019/11/03 8:00
 国民の多数は女系・女性天皇に賛成していますが、男系継承を維持すべきと考える人々も一定数います。世論や政治が継承問題に及ぼした影響や結果を世界王室の事例から読み解いていきます。(写真:TTwings/PIXTA
 「即位礼正殿の儀」や「大嘗祭」など、皇位継承に伴う儀式が続きます。政府は「安定的な皇位継承を確保するための諸課題」に取り組み、有識者会議を開き、議論を進める予定です。
 有識者会議などの検討結果については、「速やかな国会への報告」も求められています。有識者会議では、女性および女系天皇皇位継承についての是非も議論されると想定されています。
 どうなる?皇位継承
 2005年の「皇室典範に関する有識者会議」では、女性天皇および女系天皇を認め、皇位継承順位は男女を問わず第1子を優先とするべきという報告書が出されています。この報告書には、女性宮家の設立を認め、女性天皇および女性の皇族の配偶者も皇族とするべきということも含まれていました。仮にこの報告書のとおりに法改正されていたならば、小室圭氏が眞子さまと結婚すれば、皇族になれるということです。
 ただ、この報告書は悠仁さまの誕生(2006年)により、白紙となりました。その後、安倍首相は2006年10月3日の参議院本会議で、「慎重に冷静に、国民の賛同が得られるように議論を重ねる必要がある」と発言しています。
 国民の多数は女系・女性天皇に賛成しています。2019年4月の時事通信社世論調査によると、女系・女性天皇に賛成69.8%、反対11.2%という結果が出ました。この調査では、女系天皇女性天皇の区別を明確にせず、一緒にして質問をしていました。
 その後、朝日新聞(4月)や産経新聞・FNN(5月)の調査では、女性天皇女系天皇を分けて、調査がされました。女性天皇については、朝日新聞で76%が賛成、産経新聞・FNNで78.3%が賛成、女系天皇についてはそれぞれ、74%と64.2%が賛成と出ました。女性天皇については圧倒的多数が賛成、女系天皇についても多数が賛成でした。
 男系継承を維持すべきと考える人々(男系派)は、歴史的な男系の皇統を維持するのに、世論調査を考慮する必要などあるのかという疑問を呈しています。
 国民世論や政治が皇統の継承の伝統を変えることなどできないという主張もありますが、必ずしも、そうではないのです。
 戦前までの典憲体制(皇室典範憲法が同等に置かれた法体系)と異なり、現在、皇室典範憲法の下位に事実上あると解されます。国民に選ばれた国会議員が皇室典範を改正することもできます。その意味において、「国民主権」に委ねられている範疇に、皇位継承問題もあると法理的に解することもできます。
 主権者たる国民の意志をまったく無視することは難しいでしょう。政府も「慎重に冷静に、国民の賛同が得られるように議論を重ねる必要がある」というスタンスを維持しています。
 世論戦では、男系派は女系派に勝てないので、もはや政治判断で、政権が旧宮家復帰のための法整備を整えるなど、粛々とやるべきことをやるべしとする意見もあります。たとえ世論に反することであっても、政治判断で行動することは代議制において認められる民主主義の一つの形態であるとされます。しかし、世論に反することを行えば、激しい反発を食らうことが避けられないので、これまで、誰もやりたがらなかったのです。
 安倍首相は10月8日、参議院本会議で、「男系継承が古来例外なく維持されてきたことの重みを踏まえ、慎重かつ丁寧に検討を行う必要がある」と述べています。
 世論が継承問題を主導した
 世論や政治が継承問題に及ぼした影響や結果を世界王室の事例から読み解いていけば、今後、日本で、どのようなことが起こるかが見えてきます。
 直近の例として、イギリスを見てみましょう。2013年、王位継承法制定で、男女の区別のない長子継承へと移行しました。それまで、イギリスでは、女王も女系王も認められていましたが、男子がいる場合は、男子が優先的に王位を継承することになっていました。その条件が2013年以降、廃止されたのです。
 2010年、ウィリアム王子とキャサリン妃が婚約したとき、世論調査が実施されます。YouGov(ユーガブ)とサンデー・タイムズ紙の合同調査で、「王位継承順位において、男女は平等であるべきですか」と問われ、そう思うと回答した人が70%、そう思わないと回答した人が17%、わからないと回答した人が12%でした。
 こうした世論調査を受けて、当時の保守党デービッド・キャメロン首相は男性優先の王位継承について、「異常であり、男女平等に反する」と述べました。ニック・クレッグ副首相も「時代遅れ」と断じました。そして2011年、議会で王位継承法の改正が通過し、2013年にエリザベス女王の裁可を得て、施行されます。
 このような法制定を主導したのが左派の労働党ではなく、保守党であったということ、そして、政治が多数派の世論に従ったということは留意されるべきです。
デンマークでも、王位継承は「男子の継承者がいない場合に限り、女子も認める」という条件がつけられていました。しかし、男女同権の観点から、2009年の王位継承法改正で、その条件が撤廃されて、男女の区別のない長子継承制に変更されました。
 他の北欧諸国では、すでに長子継承制が導入されていました(1980年にスウェーデンが、1990年にノルウェー)。デンマークで、長子継承制が導入されていないのは、「後進的で不条理」、男女同権という観点からも「甚だ問題がある」という批判が巻き起こっていました。
 一部、保守派からの強い反対がありましたが、世論に押され、議会は改正へと動きました。法改正を、左派の社会民主党が主導したのではなく、右派の自由党(「ヴェンスタ」)が主導したということは特筆されるべきことです。自由党の強硬派議員はいずれの改正にも、当初、反対していましたが、結局は世論に屈しました。
 国民投票の結果は改正に賛成が85.4%で、反対が14.6%で、圧倒的多数で可決されました。法改正されたものの、マルグレーテ2世の長子のフレデリック王太子がすでに王位継承者であったため、王太子に変更はありませんでした。
 国民投票の前に、マルグレーテ2世自身は改正に反対であったと伝えられていましたが、当時の首相アナス・フォー・ラスムセンは2005年、議会に改正案を提出する前に、マルグレーテ2世をはじめ王室のメンバーと話し合いをしたと証言しています。しかし、マルグレーテ2世がこの問題について、公式に発言したことはありません。
 男系継承が残るのはスペインだけ
 ヨーロッパ王室は次々と男女の区別のない長子継承制に移行しました。スウェーデンが1980年、オランダが1983年、ノルウェーが1990年、ベルギーが1991年、そして、前述のデンマークが2009年、イギリスが2013年と続きます。
 現在、ヨーロッパで王室のある国は7カ国あります。この7カ国は上記の6カ国とスペインです(ルクセンブルクモナコリヒテンシュタインの3公国は除く)。つまり、スペイン以外、ほかのヨーロッパ王室はすべて長子継承に移行しました。
 スペインの王位継承は日本と同じく、原則として男系男子による継承です。しかし、日本と異なるのは、直系の男子がいない場合に限り、女王が認められます。この規定により、現在、スペインの王位継承者はレオノール王女となっています。スペインは19世紀の8代目国王イサベル2世の時以来の女王の登場となる見込みです。
 スペインではかつて、男女平等の観点から男子優先を廃止し、長子優先にしようとする動きが国会でありました。
 レティシア王妃(当時は王太子妃)が男子を生む可能性が想定されて、長女のレオノール王女の継承順位が下がるのを防ぐため、早期に、法改正をすべきということでしたが、2006年にレティシア王妃の第2子が王女であると発表されたため、法改正は行われませんでした。現在のところ、国王のフェリペ6世に男子はありません。
 各国で長子継承制が導入されたことにより、今後、続々と新女王が誕生する見込みです。スウェーデン、オランダ、ベルギー、スペイン、これらの国々で、王女が第1位の王位継承者となっています。ヨーロッパで王室のある7カ国のうち4カ国で、新たに女王が誕生する見込みというのは少なからず、インパクトがあります。
 こうしたヨーロッパの王位継承法の改革と長子継承は、主に男女同権という観点から推進されました。これは一般社会で男女共同参画が進んだことと呼応しています。
 男系派・女系派ともに真摯な議論を
 ヨーロッパのこうした動向は日本の皇室とは関係がないとする見方が保守派を中心にあります。「天皇は別格」としたい人々の気持ちもよくわかりますが、民主主義において、君主を頂くという社会構造について、日本はヨーロッパと同じです。ヨーロッパで起こったことは日本でも起こりえます。
 皇統の男系継承派は不利な状況になっています。男系継承の合理性とは何か、また、それを維持するための戦略はあるのか。男系継承は「伝統だから」「理屈じゃない」というのは議論や思考の放棄にも見えてしまいます。
 一方、女系派は世論を味方につけ、今後も、その勢いを増していくのか、改革の論拠をどこに求めていくのか。また、女性天皇には賛成するが、女系天皇には賛成できないという人も少なからずいると思います。国民全体を含めた、それぞれの立場からの活発で真摯な議論が求められます。
 宇山 卓栄さんの最新公開記事をメールで受け取る(著者フォロー)
   ・   ・   ・   
女系皇位継承は日本の伝統