⛩68)─1─うちのカミさん(妻)は怖ろしく嫉妬深い「山の神」。女性神と山岳信仰・森の神・女人禁制。〜No.153No.154 

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やま‐の‐かみ【山の神】 の解説
 1 山を守り、支配する神。多く、女性神として信仰され、農民・狩猟民・鉱業者などに祭られる。→田の神
 2 妻のこと。特に、結婚してから何年もたち、口やかましくなった妻。
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 「うちのカミさん」は神様だった!
 実はかなり嫉妬深い?!「山の神」
 恐くて怖ろしい相手は、神様として祀り上げ、逆らわず、口答えせず、ハイハイと言うことを聞いて、近寄らず遠ざけるに限る。
 触らぬ神に祟りなし。
 くわばら くわばら。
 日本人の女性は恐い。
 日本人女性は怨みをのんで死ぬと、怨霊・幽霊となり恨む相手に対して祟り、呪い殺す。
 日本の女性差別は、女性への恐怖が原因であった。
 男の一部は、女性への恐怖から女遊びはしても女性と結婚したいという気がなかった。
 その為に、結婚しない男性が多かった。
 日本人男性は、男達だけの「群(む)れ」を作り、男達は金を浪費し面白おかしく楽しんでいた。
 それが、男が自慢する「粋」であり「男伊達」であった。
 男達の遊びを女が呆れてバカにするから、女を排除する為に「女人禁制」とした。
 女達も男達が煩わしい為に、女達だけで楽しむ為に「男子禁制」として女の集まりから男を排除した。
 男は男だけで、女は女だけで、異姓には判らない遊びで日々を楽しみでいた。
 日本人男性の楽しみとは、金を浪費する「のむ・うつ・かう」という道楽であった。
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 ニコニコ大百科
 山の神 ヤマノカミ
 「山の神」という語が持つ意味は複数あるので、以下それぞれについて詳述する。
 概要
 読んで字のごとく、山の神様という意味。山に住む神だったり、山そのものが神であったりなど、土地によって解釈は異なる。日本ではほとんどの場合において女神であるとされ、ことに若い女性が山に入ると、山の神が嫉妬して事故が起こったり天気が荒れたりするといった言い伝えは全国的に見られる。現在でも、信心深い猟師やトンネル作業員などには、女性が山に入るのを快く思わない人々がいるとされる。
 山の神が女神であるとされることから転じて、恐妻家の男性が自分の妻を指して用いる三人称代名詞。「山の神がお怒りなんで、このへんで失礼します」といったように用いる。この用法そのものはほとんど廃れているが、この言葉の省略形である「かみさん」は現在もよく使われている(「かみさん」が「山の神」の省略形であることについては異論もある)。
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 森学ベーシック:2.日本人と森:日本の森と神さま - 私の森.jp
 2 日本人の森 
 日本の森と神さま
 古くから信仰の対象だった日本の森
 日本の民俗宗教には、八百万(やおよろず)、と言われる程多種多様な神さまがいますが、それは、古代より日本人が山や海や木や岩など、身近な自然物のすべて、森羅万象を信仰の対象としてきたことと関係します。 また、古代の日本では、世界は人々が毎日を暮らす現実世界「ウツシヨ(現世、またはこの世)」と、永遠に変わらない、神や死者の世界「トコヨ(常世・常夜、またはあの世)」で成っていると考えられていました。興味深いことに「トコヨ」「あの世」は山の彼方や、海の彼方などにあるとされていて、大きな自然を「人知を越える境界」として怖れ敬っていた、と想像することができます。
 (※1)出雲大社島根県)。神無月には全国から八百万の神が集まり神議を行うとされる。
 山や森を信仰の対象とした山岳信仰
 古い日本の神道では、山や森を神が宿ったり降臨したりする場所としてまつってきました。これが山岳信仰です。雄大な山の威容や火山の圧倒的な力などに対する畏怖・畏敬の念や、水源・狩猟の場・鉱山・林業の場として、森林が人間の生活に多くの恵みをもたらしてくれることなどから、山や森を信仰の対象としたのでしょう。
 多くの日本の山には神社があり、神社がない山を探す方が難しいといわれるほどですが、奈良県の大神(おおみわ)神社のように本殿を設けず、山そのものを神体として信仰の対象としているところもあります。また、神道だけでなく仏教でも、空海高野山を、最澄比叡山を開いたことなどは良く知られ、山を特別な霊場と考えていたことがわかります。密教道教の流れをくんだ山伏などが、悟りを開くために山深くに入り修行を行い、山岳仏教も盛んになりました。
 (※2)熊野山中でほら貝を吹き修行中の山伏
 手つかずの自然を残す神域・禁足の地
 神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさす言葉に「カムナビ(神奈備、カンナビ、カミナビとも)」という言葉があります。「カムナビ」は、神が宿るとされる巨岩や木などの自然物を指すことも、また、那智の滝和歌山県)のように、特徴的な自然物のある場所一帯を指すこともあります。神社を囲む「鎮守の森」も「カムナビ」を代表する神域の一つです。
 (※3)出雲大神宮京都府)に祀られた岩。これも磐座(いわくら)というカムナビのひとつ。
 (※4)由岐神社(京都府)近くに祀られている樹齢800年の杉の大木。
 カムナビには、「この世」と「あの世」の境界や、人が踏み込んではならない結界という意味もあり、古くからの自然をそのままにに残す役割も果たしてきました。このため鎮守の森には、人間が手を入れる以前からあるその土地本来の植生がいまも残されているとされ、植物生態学の研究対象ともなっています。奈良県大神神社のご神体の三輪山では、いまでも「山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧(おの)をいれることをせず」とうたっています。
 (※5)本殿を持たない大神神社。大鳥居は大三輪の神体山聖域への入り口です。
 暮らしに関わる山の神と霊や妖怪
 いろいろな顔を持つ、山の神
 日本各地の農村部では、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという信仰があります。これは、山には農耕に欠かせない水の源があることと結びつくと思われます。
 桜(サクラ)という言葉の「サ」は、穀物の神(田の神)を意味するという説があります。山の神が里に下りるとき、山と里との中間領域で休息する場所を、「サ」の「クラ」(鞍)、「サクラ」と呼び、それはちょうど山桜が色づいている頃の場所を示すというのです。ちなみに、田植え始めに田の神を迎える儀礼を「サ・オリ」、田植えが終わって、田の神を送る儀礼を「サ・ノボリ」と言い、田植えをする女(または田植え祭りに田の神に扮する少女)を「サ・オトメ」、この時期を「サ・ツキ」と呼ぶことなど、みんな田の神「サ」にちなんでいるそうです。
 一方、猟師・木樵・炭焼きなどを生業とする山の民の場合、山の神は仕事の場である山を守護する神で、農民の田の神とはちがって常にその山にいるとされます。そして山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日(一般に毎月12日など12にまつわる日)は山に入ることが禁止されています。この日は山の神が木の数を数える日なので、山に入ると木の下敷きになって死んでしまうといわれています。
 山の神の性別は地域によって様々ですが、恐妻家が口にする「うちの山の神が」という言葉では女神として知られています。関東から東北にかけて山の神を安産の神とする地域も多く、出産時に夫が馬を引いて山へ入り山の神を迎える習慣がありました。山で馬が急に身震いして立ち止まると山の神が馬に乗ったしるしとされたそうです。
 (※6)田の神
 田んぼの畦に祀られた田の神。形はさまざまなものがあります。
 (※7)山の神
 吉野川上村に祀られた山の神。ここは女性の神様だそう。
 死者の世界としての森
 死者の魂(祖霊)は山の上の彼方から「トコヨ」に行ってしまうと信じられていたことから(「山上他界」という)、山や森を死者の霊の集まる異界や、その境界と位置づけることもあります。また、「常夜」と書く場合のトコヨは、暗い闇に閉ざされた黄泉の国や地獄を表すとされたので、山や森のそうした「異界」には、禍や災厄をもたらす恐ろしいものが現れるという伝承もたくさん残っています。
 山や森に棲む妖怪の代表的なものとしては、大江山酒呑童子のような鬼、山の支配者である天狗、人をとって食うという山姥、とてつもない巨人のダイダラボッチ(大太法師)、山の上から長い手足を伸ばして海を行く船や麓の村人をとって食う手長足長、人の心を見抜いて言い当てるサトリ(覚)などがあります。他にも、古木に隠れている砂かけ婆、古い大木の下で算盤をはじくような音を立てる算盤坊主や人面樹など木にまつわる妖怪もたくさんいます。
 八百万の神の国・日本では、神さまから妖怪まで、その形はさまざまですが、わたしたち日本人は、山や森そのものや、森の奥に住む存在を常に身近に感じて、崇拝したり畏れたりしてきたことがよくわかります。そしてこのような深い精神的な結びつきこそが、山や森が日本人の心のふるさとの一つであり、文化的な豊かさの根っこであることを感じさせてくれるのです。
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 山岳信仰   2006年6月11日更新
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 山岳信仰について
山岳信仰の概要
 山岳信仰とは、山を崇め奉る信仰である。基本的には山や、山にある大木、巨大な岩を信仰母体とすることが多い。  
 山岳信仰の始まり                
 山岳信仰縄文時代に狩りの獲物をもたらし、家屋の材料や燃料を与えてくれるのは山であるから、縄文人が山に対する感謝と畏敬の念をもっていたことから始まり、山を神として崇拝し、一方で恐れるということは、農耕の伝播以降に始まったと考えられる。
 山に対する信仰の基本は、豊かな収穫を祈ることにあったから、山の神は実際には田の神であった。山の神が農作業の時期に山から降りてきて田の神になるというところも少なくなかった。
 琵琶湖の南には太神山(たなかみやま)(600メートル)という山があり、田上山地の最高峰となっているが、これなど文字通り山が田の神であったことを示しているといえよう。
 宗教民俗学者堀一郎は、わが国における山岳信仰の始まりを火山系、水分(みくまり)系、葬所系の三つの型に分けて考えている。
 火山系とは火山が噴火し、爆発することに人間が畏怖の念を抱いたことに起源するものである。激しく活動する火山の姿は、それだけでも何か超自然的な力の存在を感じさせる。噴火の原因やメカニズムを知っている私たちですらそうなのであるから、当時、火山そばに住んでいた人たちが火山を崇拝するようになるのはごく自然ななりゆきといえよう。
 水分系というのは、分水嶺即ち水源の山に対する信仰である。農耕を営む人々にとっては山は生命の源であり、かつ水害を引き起こす脅威でもあった。こうした山に対する感謝の念と畏敬の念が山岳信仰を発生させてのである。
 葬所系というのは、人が死ぬとその霊は高いところに行くという考えから出てきたものである。山は霊の棲む場所とされ、さらに使者を葬る場所にもなったことから祖霊の居場所ともなり、人が最期の還っていく場所ともみなされるようになった。
 各地の著名な山岳信仰はこの分類の何れかにあてはまるといえる。
   小泉 武栄著「登山の誕生」中央公論新社刊 2001年6月25日
 宗教と信仰の違い            山岳信仰概要の表題へ戻る
  ”靖国問題を考える”という特集記事の中から、宗教と信仰の関わりについてその要旨を紹介する。
 政治と権力、経済と利殖が違うように、宗教と信仰も実は別個のものである。信仰のない宗教は空虚だが、宗教なしにでも信仰は成りたつ。
 本来、宗教は世俗の形式に過ぎず、したがって政治と経済と宗教はさまざまな形で密接な関係をもっている。ただ信仰は人の内面に根ざす厳粛な精神上の問題であり、安易に他人の容喙(ようかい)すべきものではない。戦後およそ半世紀、靖国問題はもっぱら国内・国際両面で政治問題、つまり政治と宗教の問題として語られてきた。信仰の問題として語られることはほとんどなかった。・・・・・中略
 宗教には信仰、政治には信義、経済の信用、他者への信頼、そして自らの自信と信念ーー「信」とはこれらすべての融合体である。一つが欠けても全体が崩れる。だから信仰と敬虔(けいけん)抜きの靖国論議は、「信」を忘れた戦後日本の精神的荒廃を省象徴している。・・・・・中略
 元寇は、近代以前の日本にとって最大の対外戦争だった。それでもかつての日本人にはこれだけの度量と深い宗教心があった。今の日本人もこの精神を受け継ぐことはできる。・・・・・後略
  2002年8月5日 読売新聞朝刊 筆者は 早大名誉教授 河原 宏氏「靖国問題を考える」 
 宗教意識調査結果                山岳信仰概要の表題へ戻る
 1978年に実施されたNHKの放送世論調査の「全国県民調査」結果、日本国民のうち、特定の信仰や信心を持っている人は30%であって、残りの70%は宗教無関心者であるというのである。
 笑い話的にいえば、前の文化庁統計では、日本人は一人で、二つも三つも信仰を持っているほど宗教熱心な国民であるのに、一人一人の面接調査になると、なんと信者はわずが30%であるであって、70%は宗教無関心者であるという。しかもこの調査によれば、この70%の無関心派が、自分は無関心でありながら、「人間にとって宗教心は大切か否か」という問いに、そのうちの75%の人が「大切である」と答えたというのであるから、奇々怪々と言わざるを得ない。要するにこのようなアンケート結果だけでは、答えを引き出すには至らない。  
    梶村 昇 著  「日本人の信仰」   中央公論社 1988年8月25日
 宗教史全般                山岳信仰概要の表題へ戻る
 宗教は我々が生まれる前から好むと好まざるとに関わらず、現在ここにあるのである。 宗教という言葉自体は”RiIigion”の訳語として明治以降に使われ始めたのであり、これを研究する宗教学や宗教哲学は、ヨーロッパのキリスト教国で始まったものである。だからヨーロッパ人の宗教に関する定義は、「宗教とはキリスト教及びこれに類似するものである」ということになってしまう。
 「仏教は宗教に非ず」とも言い得ようし、「神道は宗教に非ず」とも言い得よう。しかしたとえキリスト教嫌いの者でも「キリスト教は宗教に非ず」とは言っていないのである。ヨーロッパ人はキリスト教だけが宗教になってしまう。
 一方、日本の場合は幸いにして宗教博物館のような国である。
 日本人のうち、宗教嫌いの者に完全な食わず嫌いは稀で多少は食いかじった上での嫌いなのだから話はしやすい。生まれてから死ぬまでの間に、誰しも何度かは宗教的な環境に入らされるのである。
 現在は江戸時代のような宗門改めはなく、信教は自由である。そこには信じない自由もあり、宗教生活を一切拒否することもできる。
 ほとんどの人は産婦人科の病室で生まれ落ちて青年期には、異性と婚姻届けに署名捺印して届け出て結婚生活に入り、死んだら公営の火葬場で焼いてもらって、公営墓地に葬ってもらえば宗教と無縁で一生を終わる。
 農村や漁村のような地域社会の結合が強く、社会慣習の拘束力の強い土地では、実際問題として実行困難かも知れないが、隣同志がお互いに顔も知らないような都会生活では、できないこともないだろう。しかし、実際問題として、完全に宗教生活と絶縁をして生活している人は、ほとんど皆無に近いだろう。
 神社は祭のためのもの
 神が祀られるのは神社であるが、著名な神社は別として、大部分の神社は、誰一人として人影が見えず子供の遊び場ぐらいになっている。これは祭り以外の時は神がおられないのであって、神社はあき家なのである。神は祭りの時だけ神社に迎えられる。では神社はふだんはどこに居られるのか。
 それはトコヨにちがいないが、その位置にはいろいろな説がある。山の上という説と天という説は関係があり、天の場合には山を依坐と考えるのである。その他に海の彼方という説もある。その神社ごとに伝承があっていちがいには言えないのである。
 柳田説によると、伊勢神宮なども神は常在せず、神迎えが行われていたらしい。神社参拝はそのつど神を迎える臨時祭に相当するものである。
 人は平野、神は山
 山といっても奥深い山ではない。農民が平野に住んでいて、朝、雨戸をあけると先ず目に映るような山である。関東平野の西郊、関東山脈のとっつきにある、青梅や五日市付近ではどこの山にも神が祀られているが、多摩川や秋川の上流の方に入ると高い山にも神は祀られていない。日本アルプスの奥深い山にも神は祀られていない。平野からとっつきの山で目に立つものはどうしても火山の方が多い。今日、汽車で旅をして、あれは何山ですかと目につくような山には地方神が祀られて信仰の中心になっている。  
 2山と神
 古代山岳信仰              山と神表題へ戻る
 山は未知と危険とに満ちた存在である。その存在が、四時の美しいよそおいをもって、人々に限りない魅力をなげかける。
 山は、日本人の生活に深く結ばれていた。山の信仰が生まれ、説話が生まれ、文学と歴史が生まれたのは、そのためであった。日本における山の信仰が、特色ある内容をもつがゆえに、欧米人のまなこをみはらせたことがある。
 たとえば、1878(明治11)年7月3日、日光の男体山に登ったアメリカの生物学者モースは、この山の頂上に祀られた神社があるのに瞠目し、さっそく得意のスケッチに描くとともに、その著「日本その日その日」のなかで次のように記した。
 聞くところによると、日本の高山の全部とまでは行かずとも、殆んどすべてには、神社があるそうである。驚くべき意想であり、彼等の宗教に対する帰依である。8月にはかかる場所へ、日の出とともに祈祷をささげんとする人々が、何千人と集まる。その中には難苦を堪え忍んで、何千哩の旅をする者も多い。私は我々の宗教的修業で、メソディストの幕営集合以外、これに比すべきものは何も思い出せない。
 山の頂上に神社があり、そこへ何千人という巡礼者や修行者が集まってくるということは、モースにとって大変な驚きであったことが察せられる。
 また、1893(明治26)年の夏、立山の頂上にある雄山神社の社前で行われた敬虔な宗教的儀礼をみた時の、英人ウェストンの驚きも、同様であった。彼の著「日本アルプス-登山と探検-」は次のように記す。
 頂上近くには、疲労者が登り易いようにと、鉄の鎖が二つ三つ一番険しい岩々にぶら下がっている。鋭い岩の円錐形山頂には、絵のような朱塗の社が、あたりを睥睨(へいげい)して、最高点を示している。この素晴らしい景色を眺めようとしていると、この聖山の守り役をしている神主に連れられた巡礼者の一行が登って来るのが見えた。神主はいかにも形式張って、その社の前にかけられた鷲の羽の組み合わせ模様が、金で染めてある真紅の錦欄の幕を開いた。それから彼は扉を開け、かずかずの霊宝をとりだし、不思議そうに眺めている巡礼者に見せた。
 ウェストンが19世紀の末に目撃した立山山頂の宗教儀礼は、20世紀後半のいまも変わることなく行われている。
 しかし、標高3000メートルの高山の頂上において、人と自然との結びつきがあやなす特殊な儀礼をもつ山の信仰は、もともとどのような内容をふくみ、どのような経過によって形成されたのであろうか。こうした観点から、日本古代における山岳信仰の位相を史学の立場から究明してみたい。
 山と神の特性                   山と神表題へ戻る 
 日本は、その面積三十七万平方キロメートルに過ぎない狭い面積であるにもかかわらず、やまがちの国土である。どこへ行っても、山の見えないところはない。しかも山の高度は、相当に高い。
 日本の代表的なひとつである富士山は、その高さ3776メートルにおよび、その優美な姿をもって、町や村を見下ろしている。このような山及び山地が占める面積は、国全体の76%に達する。そして平野は、山および山地にへだてられながら、各地に散在するにすぎない。
 このような地形・地質の特性を反映して、日本の湖は、火山の活動によって生じたものが多いという。そして火山のなかには、いまも濛々(もうもう)たる煙を吐いてやまぬ活火山がある。桜島阿蘇・浅間・立山などがそれである。高度の高い山地に源を発する河川は、比較的狭い平野を貫き流れて海にそそぐ。したがって急流をなすものが多い。このように考えてくると、山または山地の状況こそ、日本の地形を特色づけているのであって、日本はまた山国であるということができる。
 しかし山という山地が特色づけるのは、単に地形ばかりではない。気象も当然、山と山地の影響を受ける。気象ばかりでもない。日本に住む人々の思想や文化の発達の仕方、あるいは日本人の宗教生活にも、山と山地が関連しなかったとはいえないのではないか。現に日本の小学校や中学校の校歌にして、その土地の山を讃美していないものはほとんどない。
 国民は、山を仰ぎ、山に親しんで育ったといっても過言ではない。日本の和歌や俳句や絵画の分野に、山がとりあつかわれなかった時代はない。山と山地の多い自然環境の中に生をうけ、やがては再びそうした自然の中へ帰入していった人々にとって、それは当然の結果であったのかも知れない。
 山を仰ぎ、山を望んで、人々は何を考えたか。山に対し、山に入って、人々は何を思ったか。山に関し、山について人々は何を信じたか。
 山の思念や山の信仰は、ときとところによって異なり、人によっても違ったのかも知れない。けれども、なかんずく時代よって異なるところがあるに違いない。
 しかるに、民間信仰としての山岳意識を考える場合、古代の山岳信仰や固有の山の神の信仰に対する仏教や儒教道教の影響、またそうした諸要素を包含しながら成立する修験道を通じて、その複雑な内容を探っても、容易に解明しうるものではない、と思われるが、あえてその解明を試みることに意義がある。
 山の神とは             山と神表題へ戻る     
 山の神は山に宿る神のことである。木樵、猟師、木地師、鋳物師など山民が信仰する山の神は、山の動植物、鉱物を支配し、山民の生業にたいし恵ともたらす神である。生業に種により神徳が異なり、神のまつり方も違う。山の神が女性であったという伝承は、北から南にかけ国土山地に広く分布する。必ずしも女性と考えなかった土地もあるが、女神であるとするのが圧倒的に多い。
 農耕民の信仰する山の神は、農神である。多くの地方で、山の神は年々歳々山と里のあいだを去来するという了解があった。すなわち、山の神は春に山から里に下り、田の神となって稲作と守り、秋には収穫をもたらして山に帰り、また山の神になる。このことにもとづいて日本の祭りの主要な部分がかたちづくられている。
 山の口および山中には山の神の祭場がある。猟師や木樵は山中随所に山の神を祭ることがあった。だから、私たちは一回の登山で数カ所の山の神祭場を通り過ぎることも間々ある。それらはだいたい、大木(枝振りが尋常でない木)、岩、小祠、石塔などによるささやかなものである。
 一方、「山の神」といえば、男性が自分の妻のこと、特に結婚後、年を経てから口やかましくなった女房を指して人に話す代名詞にも使われている。
 しかし、もとの意味は、山を支配する守護神のことである。
 日本語大辞典によれば、この二つの結びつきについて次のように記されている。
 1 恐ろしいものの代表としての山の神。その神が山ばばであるということから。
 2 多くの神は女性だから。また、山ばばの子育て伝説などで、山との関係が深かった。
 3 女の取り乱した姿が山の神に似ている。
 4 人の妻を指す敬称としてカミサマ(上様)と言う。これを「神様」としゃれ、これを「山の神」とした。
 5 農村では山の神をまつるのは女性がつかさどっていた。
 6 山の神は女神であり、山全体の主導権を握っていた。
 7 醜女のイワナガ姫が姫の山の神の一員であったという「古事記」による。
          「定本柳田国男集」巻四 光書房
           堀田吉雄著「山の神信仰の研究」光書房
          日本山岳ルーツ大辞典  日本語大辞典
 山の神という言葉
 「古事記」には山の神ということばが四回出ている。
 第一は、神々の生成のく だりに「次に山の神、名は大山津見の神を生みたまひ」とある。
 第二は倭建(やまとたける)
 命(のみこと)の西征を叙した最後に、「山の神河の神また宍戸の神をみな言向けし和してまい上りたまひき」とある。
 第三は「同じく倭建命の東征を叙したところに、かれここに御合したまひて、その御刀の草薙の剣を、その美夜受比売(みやずひめ)のもとに置きて、伊服岐の山の神を取りに幸でましき」とあるのである。
 第四は、神功皇后の条に、「今まことにその国を求と思ほさば、天つ神地(くに)つ神、また山の神海河の神たちまでに、ことごとに幣奉(ぬさたて)り、我が御魂を御船の上にませて、真木の灰を瓢(ひさご)に納(い)れ、また箸と葉盤(ひらで)とを多(さわ)に作りて、皆々大海に散らし浮 けて、度(わた)りますべし」たあるのがそれである。
 神は山だけでなく、峠にもあると考えられた。峠の神は、旅行者の安全を守る神とされたらしく、「万葉集」の、周防なる磐国山を越えむる日は手向(たむけ)よくせよ荒しその道(567)という歌は、旅の安全のために峠の神に手向をよくせよといったものと解されている。
   高瀬 重雄著「古代山岳信仰の史的考察」名著出版 1989年8月30日     
 岩木山のお山参詣                  山と神表題へ戻る
 山という空間は、古来から日本人にとってある特権的な信仰の場であり、対象の場であったようにみえる。
 津軽に暮らす人々の信仰の中心は、岩木山である。岩木山信仰は岩木山の見えるところに限られている、という。津軽の人々ははるかな昔から、お岩木様を眺めつつ生き死にを重ねてきたのだ。この、標高1600メートルあまりの、女性的な美しい稜線をもつ山は、農耕や水にかかわる大地の象徴として、また祖霊のこもる山として、篤い信仰の対象となってきた。「おなご山だ」ともいわれ、森鴎外の「山椒大夫」で知られる安寿と厨子王伝説とかかわり深く、安寿を童女=女神として祀る山でもある。
 旧暦の8月1日、津軽の人々は精進潔斎して、岩木山山頂の奥宮に参拝する。このお山参詣は、五穀豊穣の祈願と、祖霊への感謝のための行事であるという。
    赤坂憲雄著   「山の精神史」  小学館  1991年10月20日
 山岳信仰と山歩き                山と神表題へ戻る 
 この国土に人の信仰に関わる山で、霊山といわれる山は奥羽から九州にわたって満遍なく点在し、その数は351座におよぶという。今後山岳宗教の研究が進めば、またあらたに霊山が発見され、その総数は増えていくものと思われる。
 山々の高さは富士山を筆頭に、300メートルそこそこの山も含まれており、信仰に関して山の高さは問題でないことが明らかである。
 この中で、生き生きとした信仰活動が現在も続いている山は、ほんの一握りで、大多数の山において、信仰は影が薄くなってしまった。しかしどの山も、長い歳月の間、さまざまな人達と関わりをもってきたのである。
 信仰の山の多さをとるだけでも、山の信仰が広汎なものであったことが分かるが、山を信仰した人達も多岐にわたる。
 直接山によって暮らした山の民、山の周辺の地元農漁民、講や教団に属した人達、あるいは聖(ひじり)、山伏、御師といった専門の宗教者など、その流れは次から次へと山の信仰を生み出し、山岳信仰時代は途方もなく長いものになった。
 山岳信仰は、入山のうえ直接に神々と交信するという実践面を伴っていた。ところが、入山には精進が不可欠で、また女性は入れさせないとする制限付きであったけれど、人はさかんに登拝を繰り返し、また山での修行に勤めた。
 しかし山での実践的行為のみが山岳信仰ではない。つまり、人々の日々の暮らし、一年一年の暮らし、人の一生が、山を信仰しなければならない事情を生じさせていた。
 また山の宗教者のうちには、山林修行を通じて自らの宗教的目的を達成する者もいたが、多くは世俗に交わり、山で獲得した超自然力を駆使して、呪術的な宗教活動をおこなった。
 このような人々の生きざまこそが山岳信仰にとって大事であり、人々の生きざまを規定する時代的背景も山岳信仰のあり方と深い関係にある。
 また、山岳信仰は多彩な文化を生み出していった。信仰を携えて民間を遊行した人達は、また文化の運搬者として重要なはたらきをした。山の文化は広く深く人々のなかに浸透し、日本文化の形成に大きな影響を与え続けた。
 以上のように、山岳信仰は山を頂点としつつも、裾が広くひとくちに山岳信仰といっても、これに一つの枠組みを設定することは不可能である。
        吉村 迪(すすむ)「信仰の山」東京新聞出版局1995年4月8日
 私が、山を舞台とした山岳信仰に興味と関心をもったのは、これでよいという限度がなく、その理解が決して生易しいものではない、ということである。だからといって、山岳信仰は遠く離れたものではなく、身近に点在し、山を一歩一歩踏みしめながら、先人の霊を肌に感じるのである。
 先人の足取りを追い、山岳信仰を理解することは、山歩きを愛する人々が一度は試みなければならない、山への大事な礼儀かもしれない。
 「山岳信仰を知らずして、山に入る事なかれ。」私にはそのような叫び声が、山を歩く度に山の大地から聞こえるような気がする。
  ホーム  2006年3月1日から
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