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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本列島に最適な宗教とは、教祖・信者・教徒、経典・聖典、布教を持たない自然崇拝宗教(御利益は安心・安定で安全・安全神話ではない)の神道であって、唯一絶対神と信仰契約(報酬は恩寵、奇蹟、恵、永遠の命、その他)をする啓示宗教ではなかった。
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日本民族は、数万年前から日本列島で生きてきた。
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日本神道におけるは、自然崇拝は石器時代・縄文時代の数万年前から受け継ぎ、人神崇拝は弥生時代・古墳時代の数千年前から受け継いでいる。
日本の自然は、数万年前の石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
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2022年5月13日 MicrosoftNews 東洋経済オンライン「「神道」が1300年も生きのびてきた本当の理由 世界でも珍しい「古代以前の神々」と「神仏習合」
島薗 進
現在の私たちが知っている「神道」のイメージはどのようなものでしょうか。たとえば村や町の地域に必ずある鳥居と社殿。これが古代からあったもので、お寺と神社はまったく別のものというイメージではないでしょうか。
© (C)東洋経済オンライン
「神道」のイメージはどのようなものでしょうか? 写真は京都・伏見稲荷大社の千本鳥居 (tomcat/PIXTA)
しかし、その実際はかなり違います。このたび『教養としての神道:生きのびる神々』を上梓した神道研究の第一人者・島薗進氏が、その歴史を通して、神道の実像を解き明かしていきます。
神仏習合によってこそ神々は生きのびてきた
神道は日本で生まれ育った宗教だ。多くの日本人がそう思っている。だが、「神道とは何か?」と聞かれると、うまく答えられない。この問いへの答えを集めてみても、その中身は思い思いであり、立場ごとにバラバラという感じだ。
試みに「神道はいつからあるのか?」という問いを投げかけてみよう。「神道の起源」についての問いである。農業が進む以前の縄文時代、列島の広い地域が森で覆われていた時代だ、という答えがある。神社には森(鎮守の森)が伴うこと、社殿ができる前の、自然の神秘のなかでの神々の祭りにこそ神道の原型があるという考えだ。いやいや、稲作農耕の儀礼とそれを代表する朝廷の祀りこそが神道の原型で、それが確立したのは7世紀の終わり頃だという議論がある。
それらに対して、朝廷の祀りは全国の神祇祭祀に受け入れられたわけではなく、神道とよべるようなまとまりができてくるのはせいぜい平安時代だという議論もある。さらに、平安時代はもちろん鎌倉時代になっても、神道が自立した宗教となるには至っていない、室町時代になってはじめて教義や組織も備えた神道が成立する、といった議論もある。
このように「神道とは何か」について意見が多様になる大きな理由の1つは、明治維新後に神道がどう変わったかが、わかりにくくなっていることにある。神仏分離が起こったために、それまでの神祗信仰のあり方がわかりにくくなってしまっていることが大きい。神仏習合によってこそ、神々は生きのびてきたという一面がある。
祇園祭で知られる八坂神社は、かつて祇園感神院とよばれていた。「祇園」はお釈迦様が説法をした祇園精舎から来ている。人々は仏教の守護神、牛頭(ごず)天王のご利益を求めて参詣していた。スサノオノミコトが祭神というのはまったく新しいわけではないが、牛が頭に乗った牛頭天王の像が親しみ深かった時代が長かった。
天竜川上流の秋葉神社は火伏せ(火災防止)の神として知られる三尺坊大権現を祀る施設として参拝者を集めていた。三尺坊というのは平安時代初期に実在したとされる密教的な行者だという。神仏分離後、秋葉神社には三尺坊大権現はいなくなり、迦具土神を祀っている。記紀神話に記載されているが、民間にはあまり知られていなかった神を祭神としたのは明治維新後のことだ。
この例のように山岳信仰は神道の歴史で大きな役割を果たしてきた。その山岳信仰は神仏習合の修験道が導き手だった。明治維新後の神仏分離で、これらの礼拝施設から仏教色が排除された。儒学を学んだ武士が江戸時代にいくつかの藩で行ったことを維新政府が旗を振って強引に推し進めたのだ。
神仏習合で生きのびた神々
では、八坂神社や秋葉神社の神道信仰の歴史は、明治維新後に始まるのだろうか。もちろんそんなことはない。八幡信仰、稲荷信仰、山岳信仰などの歴史は奈良時代、あるいはそれ以前までさかのぼる。神道の歴史を語るとき、奈良時代の神仏習合の傾向が強い八幡信仰や稲荷信仰を語らないわけにいかないだろう。その頃からすでに神仏習合が始まっており、それによってこそ、八幡や稲荷は、霊威ある神祇として崇敬を集めてきた。今でも稲荷神(ダキニ天)を祀って参詣者が多い豊川稲荷妙厳寺のようなお寺もある。
しかし、さらにそれ以前はどうか。たとえば、宗像大社、大神神社、出雲大社、諏訪大社などの神祇信仰には古代国家以前の信仰の面影がうかがえる。社殿のない聖地や訪れる神の面影が後代にも残ってきた。沖縄やアイヌの信仰とも、縄文時代の信仰にも通じるのではないかと考えられている。
こんな古代国家や文字文明以前の信仰が、神祇信仰を通して古代、中世、近世、近代と生きのびて、現代にまで大きな力を及ぼしてきている。古代国家以前からの神々がこのように生きのびてきたのは、世界のなかでもあまり例がないことだ。自然のなかの霊や霊的な力、また死者の霊を身近に感じる日本の文化はアニミズム的とよばれることもある。アニミズム的な文化と、古代以前の神々が生きのびてきたことには深い関わりがある。
神仏習合と朝廷・国家祭祀
では、どのようにして神々は生きのびてきたのか。仏教の力を借りて、神仏習合の形をとることによってという要因を考えなくてはならない。神仏習合は神祗信仰の歴史の一部だし、神道の歴史の一部でもある。
だが、神道が長い歴史を生きのびてきたもう1つの大きな要因がある。それは古代において、国家と朝廷の祭祀が組織化されたということだ。この組織化の画期と言えるのは、7世紀の末、天武・持統朝であり、中国にならって律令制度が組み立てられたときだ。
太政官と並んで神祇官が設けられ、朝廷の稲作儀礼の祭祀を軸に全国の神祇への班幣(幣帛の班給)の制度が作られ、天照大神の下での天皇による国家統治を説く記紀が編纂され、皇室の祖先神を祀る伊勢神宮の祭祀と国家の連携が堅固なものとなった。古代国家が神道儀礼と神道の神話を備えたシステムを作ったのだ。
この古代の律令国家の神道システムは、「天」を祀る中国の国家体制にならったが、遠い「天」よりも「土」の匂いがする神々をも祀ったのは日本風だ。ただし、当時は朝廷や国家の儀礼が多くの人々の生活に影響を与えるようなものではなかった。だが、祭祀システムと神話的な伝承が王権を支え、政治体制の背後で神聖な国家秩序の基礎にあるという意識は続いてきた。
このように考えると、7世紀末以来、神道には国家祭祀と神仏習合の信仰という2本の大きな柱があって、双方はしばしばまるで別個のもののように展開し、対立することもあったが、実は影響し合い、支え合うような関係にもあったと捉えることができる。
興味深いことは、すでに記紀神話にこの2本立ての体制が自ら描き出されていることだ。王権の神的起源を描くことに主眼がある記紀神話だが、それにしては出雲神話に多くのスペースがさかれている。アマテラスよりも、スサノオやオオクニヌシのほうが活躍し、心に焼き付くキャラクターなのだ。つまり、記紀神話は天津神よりも国津神のほうに親しみがもてるように描かれており、その両者がともに主役というような構成になっている。
実際、古代律令体制の下の国家的な神道祭祀は、ややさえない出発だった。幣帛を全国の神祇に班給する制度は長続きしなかった。記紀神話が人々の生活に影響を及ぼすような事態も少なかった。だが、後代にいくつかの大きな転機を経て、記紀神話や朝廷や国家の神道祭祀は強化され、影響力を強めていく。
儒学者らが育てた国体論
本地垂迹説や中世神話とよばれるような記紀解釈の新たな展開があり、やがて国家の枠の外での神道独自の組織や思想の展開があり、15世紀には吉田神道のような政治力をもった組織も形成される。他方、中国の儒学思想の影響を受けながら、日本の国家秩序の神聖性について理論化する試みも起こる。14世紀の北畠親房はその早い例だが、江戸時代には儒家神道や水戸学を尊ぶ歴史研究が進み、やがて神権的国体論が形成されていく。
織豊政権から江戸時代の初期に至る時期、そして明治維新と、2つの大きな転機を経て、国家祭祀と国家中枢の神聖性は強化されていった。神道はじわじわと力を付けていき、近代の国家神道や神権的国体論に至る。ついには小学校に教育勅語や天皇の肖像を収めた奉安殿ができ、子どもたちが毎日、礼拝するまでに至ったのだ。水戸学のような儒学思想の影響が大きかったが、万世一系の天皇統治を裏付ける「天壌無窮の神勅」は記紀神話に由来するものだ。
日本の宗教文化の特徴を語るには、国家神道とアニミズムに触れざるをえない。そして、そのどちらも、神道の歴史を振り返り、仏教や儒教にも言及しないとなかなか説明しにくいのだ。しかし、神道史の大きな流れを捉えるとぐっと視界が開け、説明しやすくなるだろう。
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人類の誕生と大移動は運命である。
日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
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600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジー、ボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
数万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
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日本土人である縄文人(ヤポネシア人=石器人の子孫)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土、南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海(縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
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日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明の揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
数万年続いた日本列島の石器時代・縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
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日本民族・琉球民族・アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
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日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州・樺太、北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
蝦夷地・北方領土アイヌ、樺太アイヌ、千島列島アイヌ、カムチャツカ半島アイヌ、その他。
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琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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日本民族は、石器時代・縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
生への渇望。
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日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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