🌏13)─3─近代天皇家の私有財産は乏しく仏教教団や豪商に比べても貧しかった。~No.39  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 皇室が私有財産を増やしたのは、天皇廃止論のマルクス主義者(共産主義者)が辛辣に批判するような、悪政を行って国民に重税を課しわけではなく、暴政を行い人民から搾取したわけでもなかったし、ましてやアジア諸国を侵略し占領して、軍事力で他国から略奪したわけではなく、暴力で他国民から強奪したわけでもない。
 皇室の私有財産は、世界の王族貴族の個人資産とは違うのである。
 歴史力のない現代日本人には、その歴史的事実が理解できない。
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 左翼・左派・ネットサハに近い反天皇反日的メディア・報道機関は、皇室資産=皇室の家計簿をあれこれ細かい事まで計算して報じ、皇族らの生活を根掘り葉掘りほじくって書き立て、国民の間に天皇・皇族・皇室への嫌悪感を醸し出そうとしている。
 現代日本では、報道する自由・知らせる自由・知る権利から、天皇・皇族・皇室に対するヘイト報道がまかり通っている。
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 2020年9月6日号 サンデー毎日「皇后の覚悟
 貞明皇后からたどるプリンセスたち
 第3部 軋轢 (四) スキャンダル
 ご成婚後、すぐにお世継ぎに恵まれ、母としてもプリンセスとしても落ち着いたできると思われた矢先、次々と起こった近しい人たちの死。そんな貞明皇后に新たに降りかかってきたのは、身内のスキャンダルだった。
 工藤美代子
 ……
 盤石な財政を誇る本願寺の威光
 現在では、あまり知る人も少なくなったが、明治期の本願寺の威光たるや絶大なものがあった。かつては西本願寺東本願寺に分かれての権力闘争もあったが、明治以降はもっぱら融和の姿勢に転じている。
 明治天皇即位式を挙げる時、その費用の3,000両の出所がなかった。なんとか用立ててもらえないかと西本願寺は内々に申し込まれている。しかし、とても急には難しいと一度は断った。しばらく後に、西国のある大藩から1,000両は都合してもらったので、残りの2,000両を出してくれないかと再び頼まれた。それでは東西の不和の原因とならないようにと考えた大谷光瑞(こうずい)の父、明如(みょうにょ)が、東本願寺にも相談して、それぞれ1,000両ずつ負担したという。
 当時の西本願寺の財政状態は盤石であり、『国君の富』に匹敵すると言われた。
 あるいは明治の初期はそれ以上だったのかもしれない。質素倹約で知られる明治天皇が、側近に対してユーモラスな言葉をもらしている。
 『わたしの地方巡幸には大分金もかかるようだから、これからは東本願寺侍従長に、西本願寺内大臣にしようと思う。二人の法主を連れて歩けば、さぞお賽銭が上がることだろうなあ』(『三代の天皇と私』梨本伊都子)
 西本願寺の1年間の予算は京都市のそれを超えていた。いかに懐中が潤沢かを知っている上での明治天皇の冗談だった。
 ……
 日露戦争の際、光瑞は開戦が決まると、ぽんと500万円の国債募集に応じ、従軍布教僧700人の派遣を決定した。
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 皇后を悩ませる不肖の弟
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 危ういバランスを保つ皇族
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 大正とは華族も皇族も危ういバランスを保って生きていた時代だったのがわかる。だが、報道も表現も現代とは少し違うようだ。九條良致と武子の場合、マスコミはあくまで裏付けを取り、事実のみを批判した。
 令和を迎えた今の日本はどうだろうか。情報源も特定できないニュースが多い気がする。それは時として印象操作のための報道とも感じられる。また皇族全体が必ずしも一枚岩とは言えないことを示しているようだ。そうなると、プリンセスの覚悟はさらに厳しくなっているのではあるまいか。」
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 日本には、政治権力・宗教権威・天皇の御威光が存在していた。
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 新生近代日本の国際的信用は、日本帝国政府でもなく、日本国民でもなく、ましてや現代日本人が確信する日本人民でもない。
 世界が、諸外国が認める日本の信用の源泉は、国家元首である明治天皇であった。
 明治天皇の裏付けがない旅券は無効であり、正式な旅券を持たない者は無国籍者=違法入国者=犯罪者として逮捕され最悪処刑された。
 つまり、日本天皇が日本国の主権者・統治者であった。
 その天皇家・皇室は、王侯貴族としての真面な食事ができないほど貧乏であった。 
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 現代日本の同和の部落民は、昔の被差別民の下層民とは違う。
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 皇室に受け継がれてきた伝統文化の宮中祭祀は、数万年前の縄文時代に行われていた自然崇拝を源流としている。
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 徳川幕府は、正統の根拠を民族中心神話に定めている天皇の御威光が世に出る事は天下の乱れの原因になるとして、皇室に食えるだけの捨て扶持を与えて京都御所に軟禁し、天皇・皇后・皇太子・親王が御所から出る事を許さず、京都所司代の監視を置いて皇室を厳しく監視し、御所に出入りする人間に目を光らせていた。
 京の庶民は、貧しい食生活を続ける皇室を救うべく、京都所司代の目を盗んで食べ物をこっそりと差し入れていた。
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 天皇・皇室とは、貧しく差別され虐げられた哀れな下層民の心の支えであった。
 下層民とは、下級武士、身分低い庶民(百姓や町人)、芸能の民(歌舞伎役者・旅芸人・傀儡師・曲芸師・落語家・講談師)、異様の民・異形の民(身体障害者・病人)、賤民(非人・穢多・河原乞食)、部落民(山の民・川の民・海の民)、異能の民(匠の職人・修験者・山伏・渡り祈祷師・占い師・虚無僧・力士{相撲取り})などであった。
 故に、命を捨てても天皇・皇族・皇室を守ろうとした勤皇派・尊皇派とはそうした下層民であった。
 下層民こそが国體護持を願っていた。
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 貞明皇后は、日本軍がシベリアで保護したポーランド戦争孤児を収容した施設を訪れ慈母の如く接して慰め、関東大震災では被災者を収容した病院を慰問して励ましていた。
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 東本願寺は、徳川家康の後援で本願寺から分派し独立した為に佐幕派であった。
 西本願寺は、本願寺の本派として勤皇派であった。
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 天皇崇拝原理主義の下層民・被差別民は、心の支えであった天皇・皇室を滅ぼそうとした外来のキリスト教マルクス主義共産主義を拒否し激しく攻撃した。
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 日本には、宗教としての祈り儀式はあったが契約する排他的不寛容な信仰はなく、思想や哲学はあったが攻撃的な教条的狂信的イデオロギーとしての主義主張はなかった。
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 日本で最も裕福なのは仏教寺院で、次に裕福なのが商人であった。
 貧しい天皇家は、重要祭祀を資金を得るべく、恥を忍んで仏教寺院や商人に金の無心を行っていた。
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 政教分離儒教近代国家を建設するに当たり、信仰の力を持つ宗教権威を失墜させ、裕福な宗教勢力を弱体化させねばならなかった。
 そして、宗教侵略してくるキリスト教に対抗する為に非宗教的国家神道を新たに作る必要があった。
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 現代日本人には、天皇・皇族・皇室に対して時空を超えた畏怖の念も畏敬の心もなく、今この時の好みのアイドルとして眺め虚実のスキャンダルや無作法をあげつらって楽しんでいる。
 メディア・報道機関は、天皇・皇族のイメージを貶めるような嘘を含んだ皇室ヘイト報道を増産している。
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 現代日本には、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇族を消滅させようとする反天皇反日勢力が存在し、そうした勢力は高学歴出身知的エリートに多く、政界・官界・学界・経済界に広がっている。
 そして、反天皇勢力は周辺諸国はもちろん世界中に数多く存在する。
 その証拠が、昭和天皇のありもしない天皇の戦争責任や天皇戦争犯罪を糾弾している、事である。
 反天皇の急先鋒が、韓国・北朝鮮中国共産党である。
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 敗戦後の日本に赤い僧侶や赤い神父・赤い牧師が急増し、天皇打倒・日本崩壊の人民共産主義暴力革命を起こすべく活発に布教活動を行った。
 が、彼等の目論見は失敗した。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として世界中に売って金を儲けていた。
 日本人の命は金で買えた。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、日本を滅ぼす為に、昭和天皇と皇族を惨殺するべくつけ狙っていた。
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 皇室財産は、天皇の家産である。三種の神器など皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣が受けることが皇室経済法第7条に定められている。 
 
 近世
 織田信長豊臣秀吉は皇室に所領の一部を献上して漸く7千石分の禁裏御料を確保した。1601年に徳川家康は改めて1万石を禁裏御料として確定させ、以後江戸幕府は1623年と1705年にそれぞれ1万石ずつ所領を献上して以後3万石の禁裏御料が確定する。その他に豊臣政権時代に定められてそのまま継承された京都の銀地子や宇治・田原の茶に対する賦課(茶役)などによる収入があった。この他に朝廷に奉仕する公家にも公家領が与えられ、それが約10万石あったとされている。大政奉還直前の1867年、徳川慶喜は山城一国23万石を禁裏御料として献上する事で朝廷との関係をつなぎ止めようとするが、失敗に終わっている。戊辰戦争によって朝廷は幕府及び佐幕派諸藩より計150万石を没収して禁裏御料に編入している。これが明治政府の国有財産としてその財政基盤となる。
 近代(大日本帝国憲法
 大日本帝国憲法下では、天皇の個人的財産は御料(ごりょう)あるいは御料地(ごりょうち)と呼ばれ、帝国議会の統制外にあった。御料そのものは憲法制定以前から存在し、明治維新後に木戸孝允徳大寺実則元田永孚らによってその充実を求める意見書が出されていたが、大部分の御料の形成は憲法制定に深いかかわりがあった。日本における国会開設と憲法制定は、自由民権運動への譲歩という側面を持ち、そこでは国家予算が国会の承認を要することになった。これを嫌った岩倉具視は、国会開設前に国有財産の相当部分を皇室財産に移し、国会から遮断することを考えた。そこで、1898年(明治22年)頃にそれまでの官有林(国有林)は大部分が御料林にされ、他の形でも国の財産が皇室財産に大規模に転換された。また、1884年に大蔵卿松方正義の建議によって日本銀行横浜正金銀行、続いて1887年には日本郵船の政府保有株式が次々と皇室に献上されている。
 御料および皇族財産の管理については法律ではなく皇室令という法形式をとる皇室財産令により規定された。御料は世伝御料と普通御料に分かれ、世伝御料はその名の通り代々受け継がれるべきもので、(旧)皇室典範第45条により分割譲与を禁じられた。
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 皇室財産
 世界大百科事典 第2版の解説
 動産・不動産をふくむ天皇家財産の総称。皇室財産設定の動きが始まったのは明治維新以後のことである。天皇を頂点とする国家機構が整備されてくるのにともない,明治政府は皇室の経済的基礎を確立する必要に迫られた。1876年木戸孝允の建言をはじめ,79年には宮内卿徳大寺実則が官有林の一部を皇室財産に編入すべき提議をおこなったが,その動きが本格化したのは自由民権運動の高揚した81年ころである。すなわち81年10月国会開設の詔を機に民権運動が高揚すると,憲法実施前に皇室財産を設定せよとの建議があいついだ。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 読売新聞
 皇室の経済学
 2019/05/01 12:00
 新天皇の即位に伴う皇位継承が本格化している。一連の行事の費用は、主要な宮中儀式である「大嘗祭だいじょうさい」の規模を縮小するなど経費節減に努めるものの、人件費や原材料費の高騰により「平成の代替わり」に比べて3割程度膨らむ見通しだ。改元に合わせて、皇室予算の仕組みをひもときながら、改元がもたらす経済波及効果など、皇室のお金にまつわる論点を考察したい。
 戦前は世界有数の資産家
 東京駅丸の内口から一直線に延びる行幸通り。新しく日本に赴任した外国の大使が信任状を携え、美しい装飾がほどこされた儀装馬車に乗って、ゆっくりと広大な皇居に吸い込まれていく。
 都心の超一等地に立地する皇居の敷地は、約115万平方メートルと広大で、東京ドーム約25個分に相当する。財務省の国有財産に関する資料によると、皇居の土地の価格は6000億円(簿価ベース)とされているが、国土交通省がこのほど発表した2019年1月1日の公示地価(東京都千代田区丸の内、1平方メートル=3680万円)を参考に推計すると、時価ベースで40兆円を超えるとみられる。
 皇室関連施設は皇居だけではない。東宮御所などが立つ赤坂御用地(同港区、面積約51万平方メートル)や京都御所京都市上京区、同約11万平方メートル)はじめ、那須(栃木県那須町)や葉山(神奈川県葉山町)の御用邸など各地にある。これらの不動産のほか、皇室由来の国宝級の美術・工芸品は、いくら値が付くか分からない。
 初代天皇とされる神武天皇から2600年以上、125代にわたり連綿と受け継がれてきた天皇家は戦前、世界有数の資産家だった。江戸時代からの皇室領に加え、戊辰戦争明治維新を経て、徳川幕府や諸藩から没収した土地などを皇室御料(財産)に組み入れた結果、資産は大きく膨らみ、三井、三菱などの財閥資産の合計額をはるかに上回る財力を誇った。
 近代企業経営史を研究している吉田祐二氏は、著書「天皇財閥 皇室による経済支配の構造」の中で、皇室が財を形成していく過程を次のように記す。
 「帝国議会設置が決まった明治17(1884)年から、大日本帝国憲法発布までの同23年の間に、皇室財産は着々と形成されていった。その第一弾は明治17年、政府が保有していた日本銀行横浜正金銀行株の移管、第二弾は佐渡、生野両鉱山の移管(明治21年)、最後に、国有山林原野の皇室財産への編入(明治23年)であった。これにより皇室財産の原型ができ上がった」
 大日本帝国憲法の下で天皇は、「神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)絶対的な存在だった。天皇と皇族に関する様々な事項を規定していた旧皇室典範は、最高法規である憲法と対等の法典とされた。予算の上でも皇室予算は国家予算と区別され、独立していた。このため、国会の議決が必要な国家予算に代わって、時の政権が「隠し資金」として利用していたとの疑念がささやかれていた。
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 東本願寺借財整理とは、明治時代の東本願寺が借財を抱えて政府要人に救済を要請した事件である。
 概要
 東本願寺が300万円を超す負債に動きが取れなくなり、財務の顧問内海忠勝や藤田伝三郎が斡旋の労をとったが上手く行かず、法主大谷光瑩・内局渥美契縁は広橋賢光と藤田を介して井上馨に救済方を依頼してきた。
 明治35年(1902年)12月下旬、井上は片山繁雄を伴い京都に入った。東本願寺当局者はもとより利害関係ある商人も連署して井上に嘆願書を提出。井上は徹底的に財政紊乱の原因を調べ改革に着手した。
 「京都の停車場に本願寺より出迎えられた馬車の立派なのを見て、
 『人に財政の整理を頼まんとする者が、何の余裕あってかかる贅沢を、敢えてするとや』とて、辻馬車に乗って同寺におしかけ、朝の9時より夕の6時まで当事者より財政の情況を聞き、やがて出された食膳をみるや、癇癪球がたちまち破裂し、『是れ皆善男善女が寄進したる粒粒辛苦の物ならずや、これを思えばかかる膳部が喉に通るか』と罵倒した」と伝えられる。(高級車で迎えたが怒ってタクシーで到着する光景は今日でもありそうな事である。)
 取引銀行を鴻池銀行1行に定めて利子の軽減・担保以上の借入を決議して実行した事は井上でなければ出来ない事であった。
 その後、法主の生活で節約を実行しているか報告を提出するように指示しても誠意は見られなかったと伝えられている。
 なお、明治38年(1905年)6月、財政紊乱問題で石川舜台前宗務総長を除名し僧籍を剥奪した。
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 東本願寺
 真宗大谷派東本願寺)沿革
 真宗大谷派の本山である真宗本廟東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173~1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂びょうどうを建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞聖人の娘覚信尼かくしんには門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職るすしき」として真宗本廟の給仕を務めた。爾来、真宗本廟親鸞の開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟の懇念により護持されている。
 第3代覚如かくにょ上人(1270~1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになった。こういった経緯により、真宗本廟は、御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式となっている。
 戦国乱世の時代、第8代蓮如れんにょ上人(1415~1499)は、その生涯をかけて教化に当たり、宗祖親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめ、本願寺「教団」をつくりあげていく。このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興さいこうの上人(中興ちゅうこうの祖)」と仰ぐ。
 京都東山にあった大谷本願寺比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂(石山:現在の大阪市中央区)へと移転する。しかし、第11代顕如けんにょ上人(1543~1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することとなる。この際、顕如上人の長男教如きょうにょ上人(1558~1614)は、父顕如上人と意見が対立し、大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶された。天正10年(1582)に義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺(現在の西本願寺浄土真宗本願寺派の本山)は移転した。顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如じゅんにょ上人が継職した。
 しかし、その後も教如上人は活動を続け、慶長3年(1598)秀吉没、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。慶長8年(1603)上野国妙安寺みょうあんじ(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。これが当派の本山である「真宗本廟」のなりたちであり、教如上人を「東本願寺創立の上人」とするゆえんである。
 真宗本廟は、その後四度にわたって焼失しており、現在の堂宇は明治28年(1895)に再建されたものである。世界最大の木造建築物である御影堂をはじめとする諸堂宇は、100余年の経年により屋根瓦や木部の随所に損傷が見られ、現在その修復工事に取り組んでいる。
 江戸時代の東本願寺は、創立時における家康との関係もあって徳川幕府との関係は良好であり、また、寺院と門徒の間には、寺じ檀だん関係(檀那寺と檀家の関係)による結び付きがあった。明治時代に入ると、新政府による神仏判然令(神仏分離令)、廃仏毀釈はいぶつきしゃく(仏教弾圧)の動きが仏教諸宗にふりかかり、東本願寺も苦境に陥った。さらに幕末の戦火で両堂を失っていた東本願寺であったが、厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大なる懇念により財政再建が果たされ、明治の両堂再建が成し遂げられた。しかし、一方で教団は、江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、近代天皇制国家のもと戦争に協力していくことにもなったのである。
 そのような中、当派の僧侶である清沢きよざわ満之まんし(1863~1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を願い、宗門改革を提唱し、数多の教学者と聞法の学舎を生み出していった。この潮流は、昭和37年(1962)に「同朋会運動どうぼうかいうんどう」として結実し、爾来、当派の基幹となる信仰運動として、半世紀にわたって展開している。
 ただし、こうした「同朋会運動」の潮流は、始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではない。昭和44年(1969)、「同朋会運動」に抗する勢力により教団問題が顕在化する。当時、東本願寺の歴代は、法主ほっす※(法統伝承者)・本願寺の住職・宗派の管長の3つの職を兼ね絶大な権能を有していたが、その力を利用しようとする側近や第三者により、東本願寺が私有化され数々の財産が離散するという危機に瀕したのである。
 また、数々の差別問題を引き起こし、旧態依然とした教団の封建的体質が根底から問われることになったのである。
 こういった教団の本義を見失う危機を経て、当派は、これらを深く懺悔さんげし、昭和56年(1981)、最高規範である「真宗大谷派宗憲」(当派の最高規範)を改正。「同朋社会どうほうしゃかいの顕現けんげん」(存在意義)・「宗本一体しゅうほんいったい」(組織理念)・「同朋公議どうほうこうぎ」(運営理念)を運営の根幹とし、一人ひとりが信心に目覚め、混迷する現代社会に人として本当に生きる道を問いかけていくことを課題とし、純粋なる信仰運動たる「同朋会運動」を軸として歩み続けている。
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 しんぶん赤旗
 2008年11月15日(土)「しんぶん赤旗
 廃仏毀釈とは? その後の神道と仏教の関係は?
 〈問い〉 奈良の山辺の道沿いに、法隆寺に匹敵するお寺が明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で壊されたという跡がありました。廃仏毀釈とはどんなものだったのですか? その後、神道と仏教の関係は?(埼玉・一読者)
 〈答え〉 廃仏毀釈(棄釈)とは、明治維新政府の神道国教化政策にともなっておきた仏教の抑圧・排斥をさします。
 1868(明治元)年3月、新政府が「祭政一致」の立場から神道の国教化をはかり、一連の神仏分離令をだしたのを契機に、政府が設置した神祇官(じんぎかん)や各地の神職に扇動された勢力が寺院を襲撃し、僧侶資格を奪うなど、仏教にたいする排撃運動がおこりました。寺院の廃止や仏像の破壊、仏事の禁止などもおこなわれました。奈良の興福寺では、五重塔を解体し薪(まき)として売却しようとする企てもすすめられました。それまで神仏習合(神と仏教とが混ざり合っていること)だった多くの神社では、仏教的なものをひきはがす動きがひろがりました。
 こうした仏教排斥にたいして、真宗門徒などの廃仏反対運動が起こり、政府も廃仏毀釈は朝廷の望むところではないと弁解するなど、政策的な手直しにつとめ、この騒動は鎮静化にむかいました。こうして神道国教化政策は変転しますが、政府は1872(明治5)年4月には、通達で仏教寺院に神道の布教を命ずるにいたります。
 その後、明治政府は、軍人勅諭(82年)、明治憲法(89年)、教育勅語(90年)によって、全国民に神格化された天皇への崇拝と神社参拝を強要しました。国家神道体制のもとで格付けされた神社の上級神職は公務員化しました。
 僧侶の多くは、仏教の教えとともに天皇への忠誠を説きながら、旧檀家(だんか)制度に依拠して寺院と教団を維持しました。国家神道体制のもとで、日本は軍国主義侵略戦争の道を歩み、戦時体制下では「皇道仏教」も主張されました。
 国家神道体制は第2次大戦の敗北で破たんします。祭政一致専制天皇制の否定にたち、内心・信教の自由と政教分離の原則が明記された現憲法が成立しました。国家から分離された多くの神社は、神社本庁を結成し、仏教寺院と対等の宗教法人となって現在にいたります。神社本庁指導部は神道国教化をふくむ改憲運動を推進しています。
 神道の束縛から解放された仏教では今日、靖国神社への首相の公式参拝に反対し、平和の声をあげている伝統仏教教団が少なくありません。(平)
 〔参考〕藤谷俊雄「国家神道の成立」(『日本宗教史講座』第一巻所収)三一書房安丸良夫『神々の明治維新岩波新書
 〔2008・11・15(土)〕
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✨31)─1─昭和天皇の命と地位を救ったフェラーズ覚書。ポツダム宣言を受諾したという嘘。~No.122No.123 ㉖ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本には、「昭和天皇戦争犯罪者」と信じる日本人が少なからず存在する。
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 国際的(ユダヤ系)報道機関は、昭和天皇ヒトラーと同罪であるとして、半殺しにしたくなるようなブラック・プロパガンダを垂れ流していた。
 ユダヤ人は、日本嫌悪・日本人憎しの反天皇派であった。
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 アメリカや韓国など世界中の全ての国においても、昭和天皇は許される事のない戦争犯罪者であった。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 戦前の日本人は、悪い事・戦争犯罪を行ったが、同時に、いい事・平和及び人道の貢献も行っていた。
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 いい事を行う日本人は2割、悪い事を行う日本人は3割、いい事も悪い事もせず眺めて傍観し空気圧力・同調圧力に流される日本人は5割。
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 「連合軍最高司令官あて覚書
 天皇に対する日本人の態度は概して理解されていない。キリスト教徒におけるような絶対神・創造主を日本人は信じていない。(筆者・岡粼挿入文『日本人は八百万の神を信じており、日本人は天皇を通じて、祖先信仰もしくは大祖先の声を聞く』)天皇は、祖先の美徳を体現する民族の生ける象徴である。天皇は国家精神の化身であり、不正や過ちのない存在で、天皇に対する忠誠は絶対的なものである。だれも天皇を恐れたり、天皇の身体に触れたり、顔をまじまじと見たり、話しかけたり、影を踏んだりはしないが、すべての国民は天皇に畏敬の念を抱いている。天皇に対する彼らの卑屈なまでの忠誠は、宗教的愛国心に支えられた自己犠牲であり、この深さは欧米人には理解できない。
 天皇を、国民や役人と対等の人間である考えを抱くことじたい冒瀆であろう。戦争犯罪人として天皇を裁判にかけることは不敬であるのみならず、精神的自由の否定となるものであろう。
 1941(昭和16)年12月8日の『開戦の詔書』は、当時の主権国家の元首として宣戦布告をした天皇としては、免れえない責任を示すものである。だが、政府関係者の最上層の信頼しうる筋によれば、戦争は天皇が自ら起こしたものではない確証がある。天皇は、東條(英樹)が利用したような形で『開戦の詔書』を、使わせるつもりはなかったと述べている。
 いかなる国家であろうと、国民はその政府をみずから選択する固有の権利があることは、アメリカ人の基本的概念である。日本人にそのような機会が与えられたとしたら、天皇を象徴的国家元首として選ぶであろう。大衆は天皇を格別に敬愛している。天皇がみずから直接に国民に語りかけることによって、天皇をかつてないほど身近に感じている。平和を望んだ『終戦詔書』は、国民の心を喜びで満たした。天皇は操り人形ではないことを今や国民は知っている。天皇を存続させることは、自由主義的な政府の樹立することを妨げないと国民は考えている。
 日本に無血侵攻を果たす際に、アメリカは天皇を軍事的に利用した。天皇の命令により、700万の兵士が武器を置き、すみやかに動員解除されつつある。天皇の措置によって何十万ものアメリカ人の死傷が避けられ、戦争は予想よりはるかに早く終結した。したがって、天皇を大いに利用したにもかかわらず、戦争犯罪として彼を裁くならば、それは、日本国民の目には裏切り行為に等しいものと映るであろう。 そのうえ、日本人は、『ポツダム宣言』で示した無条件降伏には、天皇を含む国體の存続を意味するものと考えている。
 もし天皇戦争犯罪人として裁くようなことがあったら、統治機構は崩壊し、全国的反乱は避けあれないであろう。国民は、それ以外の屈辱ならばどんな不満にも耐えるであろう。日本人は武装解除させているにせよ、混乱と流出が起こり、大規模な派遣軍と数千人もの行政官が必要となるであろう。占領期間は長引き、それなれば、占領軍は日本人の信頼を失うことになるであろう。
 アメリカの長期的国益は、相互の尊重、信頼と理解に基づいて東洋との友好関係を保つことが必要である。将来にわたり、日本に永久的な敵意を抱かせないことがアメリカの国益に最も重要である。
  最高司令官付軍事秘書
         参謀団
 ボナー・F・フェラーズ准将
    1945年10月2日」
 (岡粼匡史…『日本占領と宗教改革』P.260〜262)
   ・   ・   ・   
 2020年8月27日号 週刊新潮「『東京裁判』免責工作に新資料!
 『昭和天皇』救済の裏に『GHQ』キーマンの深謀
 巷間(こうかん)マッカーサー天皇と会談した折、その高潔な人格に感銘を受け免責の決断をしたと言われる。だが、この会談をセットした人物の思惑はあまり知られていない。彼は心理戦の指揮を執っていたプロパガンダのプロだった。その狙いとは何だったのか。
 有馬哲夫
 昭和天皇は、極東軍事裁判東京裁判)で裁かれなかった。オーストラリアなどが裁判にかけるよう強く主張したが、容疑者とすらならなかった。
 天皇を裁かないことに決めた2人の重要人物、ボナー・フェラーズ准将とダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官は、天皇に戦争責任があるかどうかなど、ほとんど問題にしなかった。とくに、天皇マッカーサーのあの歴史的会見をセットしたフェラーズは、意外な理由から、天皇を免責することを決めていた。その理由とはなんだったのだろうか。それをハーバート・フーヴァー研究所で私が調査した資料『ボナー・フェラーズ文書』から明らかにしていこう。
 フェラーズは、1945年(以下西暦は下二桁のみ記す)8月22日付で『日本における情報伝播のコントロールのための軍事基本計画』という文書を作成している。占領軍が日本を占領したあと、どのように日本政府および国民とコミュニケーションをとっていくのか計画を立てておこうということだ。
 『心理的(計画) 戦争が終わる数日前まで日本人は戦争に勝つと信じていた。事実を知って襲撃は一時的混乱とヒステリーを引き起こすだろう。天皇は依然として日本の宗教的信仰の生きた象徴である。したがって、彼の国民に対する支配力があれば彼らの広範な反応を十分抑えることができるだろう。
 政治的(計画) 天皇はその大権をポツダム宣言の条件の下で制限されてはいるが、連合国総司令部の指令をその臣民に伝えるために利用されることになる。』
 この文書から、占領軍が日本政府・国民とコミュニケーションをとる際に天皇を通じて行おうとフェラーズが考えていたことがわかる。日本国民は絶対負けるわけがないと思っていた戦争が敗北に終わって集団ヒステリーになっているので、とても敵である自分たちのいうことなど聞かないだろう。だが、宗教的カリスマである天皇を通してなら、占領軍の情報や命令が伝わるだろうという考えだ。
 天皇を自分たちのスポークスマンとして使おうという発想には驚くが、その前提は、彼を戦争裁判にかけず、その地位に留めることだ。というのも、天皇戦争犯罪者として裁くならば、彼は、人間、それも罪人だということになり、その宗教的カリスマ性が失われてしまう。そうなれば、日本国民の敗戦ヒステリーを鎮静化させることはできない。新帝をたてるという考え方もあるが、これは相当のリスクを伴う。
 次いで同年9月10日付の司令部宛メモでは、フェラーズが統括するICS(情報伝播局)の『心理戦の目標』として次のことを挙げている。心理戦とはプログラムなどで心理操作することだ。
 『1、日本の敗北の事実を明らかにすること
 2、日本人に戦争責任、残虐行為、戦争犯罪を知らしめること
 3、日本人に彼らの軍国主義者が自らの敗北と苦しみに責任があることに気付かせること(攻略)』
 この文書によって、占領軍と日本政府・国民の間のコミュニケーションとして、フェラーズが何を想定していたのかがわかる。これらは、のちにCIE(民間情報教育局)が実施する認罪プロパガンダ、すなわちウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム(WGIP)と目的が一致している。WGIPとは、朝日新聞やNHKといったマスメディアや教育を使って、先の戦争に対する罪悪感を日本人に植えつけるプログラムである。フェラーズは、このプロパガンダを行うためにも、天皇が民心を安定させていることが重要だと考えている。この文書はこう締めくくられている。
 『(前略)日本のファシズムは、敗北を哲学的に受け入れるのを助けるだろう。彼らのエネルギー、産業、責任感、家や家族に対する愛着は安定化要因になるだろう。天皇に対する忠誠心は占領軍の政策を受け入れやすくするだろう』
 心理戦のプロで日本通
 このように、フェラーズは、天皇を戦争裁判にかけるかどうかの議論の前に、そして天皇マッカーサー会見をセットする前に、日本人の動揺を鎮め、占領軍が日本政府・国民とコミュニケーションをとるために天皇を利用しようと考えていた。
 この発想は尋常ではない。アメリカ軍の将兵アメリカ政府の幹部も、日本との戦争に勝ったからには、日本のトップである天皇を『裁判にかけ、極刑を含めた刑罰を与える』のが当然だと考えていた。およそこの2ヵ月前にワシントン・ポストが発表した世論調査でも『天皇をどうすべきか』という問いに対する回答は、『処刑』が33%、『終身刑』が11%、『裁判で決める』が17%となっていた。
 では、なぜフェラーズは尋常ならざる発想をしたのだろうか。それは、彼の経歴を見ればわかる。彼はインディアナ州のアーラム大学在学中に交換留学生の日本人女性と知り合い、日本文化とラフカディオ・ハーンに興味を持った。その後、フェラーズはカンザス州フォート・レヴェンワースにある陸軍士官学校に入り、在籍中の35年に『日本兵の心理』という論文を書いている。
 これは、簡単にいうと日本兵の心理と神道の関係を書いたもので、現人神である天皇を信じ、死を恐れず、戦死を名誉とする日本兵の考え方の背景に神道があるというものだ。この論文は、陸軍関係者から高く評価され、彼はOSS(戦略情報局=CIAの前身)に配属され、そこで日本兵プロパガンダなどを行う心理戦を研究した。
 この後42年にオーストラリアで開かれた米英蘭豪合同政治戦委員会にOSSの一員として出席したあと当時ブリスベーンにいたマッカーサーの心理戦担当の軍事秘書となった。マッカーサーの反抗が始まり、戦争が激化し、心理戦の重要性が増していくと、マッカーサーの南西太平洋陸軍に心理戦局が新設され、彼はそのトップに就任した。ここでの心理戦は『日本艦隊はすべて撃沈した』等の放送を流して、日本兵の戦意を喪失させたりすることだ。
 こうして、日本兵に対する心理戦の指揮をしているうちに彼が学んだのは、日本兵軍閥に対する非難や誹謗には耳を貸すが、天皇に関するネガティブな言葉には聞く耳を持たないということだ。そこで、彼はプロパガンダにおいて天皇軍閥を区別し、もっぱら後者を非難・誹謗のターゲットとした。
 アメリカ軍のプロパガンダに関する助言を与えていた元駐日大使で国務次官のジュゼフ・グルーも、このような心理を理解していた。彼は、戦争の終わらせ方として、天皇軍閥を分けて、後者に戦争責任を負わせ、前者は免責するのが、もっとも反発と混乱が少ない方法だと考えた。そして、そのような日本向けプロパガンダアメリカ陸海軍と共同して行った。
 『国體護持』を巡る攻防
 実は、これは天皇重臣たちに伝わっていた。45年6月8日、内大臣木戸幸一天皇に奉じた『時局収拾ノ対策試案』にはこうある。
 『敵側の所謂(いわゆる)平和攻勢的の諸発表論文により之を見るに、我国の所謂軍閥打倒を以て其の主要目的となすは略(ほぼ)確実なり』
 つまり、敵方の日本に対する呼びかけを見ると、主目的は軍閥打倒で、皇室廃止ではないことは確かだというのだ。
 そこで最高戦争指導者たちは『皇室の御安泰、国体の護持てう至上の目的』を達成するため、『天皇陛下の御親書を奉じて仲介国(ソ連)と交渉す』と決定している。天皇と皇室の安泰のため、軍閥を犠牲にし、ソ連を仲介により戦争の幕引きをしようということだ。
 グルーの方は、さらに一歩踏み込んで、自分の考えを日本に対する降伏の呼びかけにしようとした。これが日本に降伏条件を提示するポツダム宣言となっている。彼はその第4条で『軍国主義者』を厳しく非難し、戦争責任を負わせる一方で、第12条は『日本人が日本国民を代表する責任ある平和的政府を設立したならば連合国軍は速やかに撤退する。このような政府が二度と侵略を希求しないと世界が完全に納得するならば“現皇室のもとでの立憲君主主義を含めてもよい”(傍線筆者)』としていた。これによって軍国主義者は厳しく処罰するが、皇室は残すというメッセージを送ろうとしたのだ。当然、最前線にいたフェラーズも、このポツダム宣言受諾を日本側に伝えることに全力をあげた。
 ところが、45年7月26日にこの宣言が実際に出されたとき、第12条の皇室に言及した部分は削除されていた。この10日前に原爆の実験が成功していたため、ハリー・S・トルーマン大統領は、今や絶対優位にあるのに、この部分を残すとアメリカ国民に妥協ととられ、反発をかうと恐れたのだ。
 日本側では、鈴木貫太郎首相がこの皇室維持条項なしのポツダム宣言をいったんは『黙殺』したものの、8月9日にソ連が参戦してくるにおよんで、天皇の強いイニシアティヴのもと、御前会議で『国体護持』のみを条件として宣言を受諾し、降伏することを決定した。電報では『宣言は天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求は之を包含(ほうがん)し居らざる了解の下に日本政府は之を受諾す』という一文にその意味が込められていた。
 アメリカ側のジェイムズ・バーンズ国務長官は、これに対し、『占領と同時に天皇の国家統治の大権は連合国軍最高司令官のもとに置かれる』と回答した。これまでの通説では、日本側はこのバーンズ回答を受諾して降伏したとされてきた。しかし、交渉を仲介したスイス政治省の公文書(スイス連邦公文書館所蔵)を私は調査したところ、そうではないとわかった。日本側の回答は、要約するなら『天皇はその大権のもと連合国軍最高司令官の占領統治に協力する』だった。
 要は拒否回答。これには終戦交渉を仲介していたスイス政治省もバーンズも驚いたが、さらにやり取りして交渉が決裂することを恐れて、バーンズは『ポツダム宣言を受諾したものとみなす』と日本側に一方的に通告し、『日本は宣言を受諾して降伏した』と勝手に8月14日、記者発表してしまった。
 一方、日本側も『国体護持』と『天皇の大権のもとに占領に協力する』が受け入れられたものとみなして、8月15日に玉音放送を流した。だから、天皇は放送のなかで『朕はここに国体を護持し得て』と述べ、自らの主張をアメリカに飲ませたという確信を示している。
 裁判長の忖度
 フェラーズが例の『計画』を作成したのは、この玉音放送から1週間後のことだ。最前線から日本にポツダム宣言を受諾するよう呼びかけていた彼は、当然、終戦交渉の経緯を知っていた。それゆえ、天皇を戦争裁判にかけたり、排除したりできないこと、そうしたら重臣や軍人や政府高官が『騙された』として抵抗に立ち上がることを知っていた。だから、彼は天皇が免責され、そのまま皇位に留まることを『計画』のなかで想定していたのだ。
 ところが、フェラーズが『計画』に取り掛かろうとしたところ、マッカーサーに呼び出され、『天皇を裁判にかけられるかどか検討せよ』と命じられた。終戦交渉の経緯を知らないアメリカ上院が45年9月18日に『天皇を裁け』と決議したからだ。
 マッカーサーの命で、フェラーズは重臣や歴代の総理大臣などに会い、開戦時と終戦時に天皇がどう振る舞ったのか調査をすることになった。これは今から8年前に公開された映画『終戦のエンペラー』にも描かれている。
 事実と映画が違うのは、『天皇を裁くべきではない』と結論づけた調査報告書(45年10月2日提出)を書く前にフェラーズが実際に会ったのは、東條英機(45年9月25日会見)のみだということだ。残りの木戸幸一(元内大臣)、米内光政(元首相)、鈴木貫太郎(元首相)と会うのは翌年になってからだった。
 ということは、彼は最初から天皇を免責するつもりで、東條と会ったのは単にうわべを取り繕うためだったことになる。マッカーサーも、恐らくはそれを知りながらも、部下の言うがままに45年9月27日の天皇との会見に臨み、部下の勧告通りにすることを決断したのだろう。
 にもかかわらず、マッカーサーはこのあともフェラーズに『証拠固め』を続行するよう命じた。というのも、本国政府から同年11月30日に『天皇は免責されたわけではない。免責するとしても、連合国の代表を説得するために証拠をできるだけ集めておかなければならない』と通達が来ていたからだ。フェラーズが翌年になって、木戸、米内、鈴木と会見を重ねたのはこのためだったのだ。
 予想通り、ソ連、中国ばかりか、オーストラリアなど連合国のうち何カ国かは、天皇戦争犯罪者リストにいれ、裁くことを主張した。だが、極東国際軍事法廷の裁判長ウィリアム・ウェップは、この主張にはほとんど取り合わなかった。
 あまり知られていないことだが、マッカーサーがフィリピンから撤退してオーストラリアのブリスベーンにいた頃、そこで知り合ったのが同地の最高裁判所長官のウェップだった。このコネクションゆえにオーストラリアの地方都市の裁判官に過ぎなかったウェップが、極東国際軍事裁判の裁判長になる名誉を得たといえる。本国は天皇を裁くといっているのに、ウェップがこれを無視したのは、任命者であるマッカーサーに忖度したからに違いない。
 フェラーズの聞き取り調査のあと、重臣と軍幹部は、天皇が日米開戦に否定的だったこと、ゆえに責任は自らにあることを認めた。これに彼らの下の政府関係者も軍関係者もならった。それをCIEの統制下にある新聞、ラジオ、ニュース映画が報じた。どこまで計算していたかはわからないが、フェラーズは天皇免責工作によって、その後のWGIPをも成功に導いたのだ。」
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 現代日本人は、歴史力が乏しいために複雑怪奇な歴史の裏事情が理解できず、嘘・捏造・歪曲・虚偽で単純明快に分かりやく細切れにされた歴史物語を真実として信じている。
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 昭和天皇には、天皇の戦争責任も天皇戦争犯罪もない以上、戦争の責任を取って退位する必要はなかった。
 昔の日本人はそれを理解していたが、現代日本はそれすら理解できない。
 とりわけ、国内外のメディア・報道機関の多くが昭和天皇を否定し、敬意のない辛らつな批判を繰り返している。
 「現代日本人が失敗の責任を取らない無責任体質になったの、戦争の責任を取って退位しなかった昭和天皇が原因である」と、真顔で言う日本人が少なからず存在するが、そう力説する政治家、専門家、教育関係者、メディア・報道機関関係者は信用しない方が良い。
 何故なら、彼らこそ無責任な日本人で、平気で嘘を吐き人を騙す人間だからである。
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 昭和天皇はもちろん政府、軍部・陸軍・海軍、外務省は、ヒロシマナガサキ原爆投下実験以前に降伏すべく努力していた。
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 アメリカ・イギリス・ソ連は、1945年6月頃から昭和天皇と軍国日本が降伏を決断し終戦交渉を求めている事を知っていたが拒否していた。
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 トロッコ問題。救命ボートの選択。
 連合国(国連)は、日本に対する「無条件降伏」として、助ける命を昭和天皇の一人の命と日本国民約7,000万人の命とのどちらを選ぶかという二者択一を命じていた。
 国際世論は、世界正義・世界平和から、昭和天皇戦争犯罪者として処分する事を要求していた。
 ソ連・ロシア人共産主義者や中国・中国共産党は、過去の戦争で日本に敗れたという屈辱を晴らすべく、戦勝国の権利として日本国土の割譲・昭和天皇の処刑・天皇制度の廃絶・皇室の廃止を要求していた。つまり、共産主義による体制変更で日本民族国家を消滅させる事であった。
 アメリカのグルーら知日派は、昭和天皇の命と地位及び天皇制度の維持を認めれば、日本は早期に降伏する事を知っていた。
 スチムソンら反天皇反日強硬派は、国體護持による降伏に不同意で、トルーマン大統領に原爆投下実験の強行を迫っていた。
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 日本民族日本人は、命を捨てても神の裔の昭和天皇と伝統文化の天皇制度を守るべく、本土決戦・一億総玉砕・徹底抗戦を覚悟していた。
 日本民族日本人が死守しようとした、天皇制度は有史として2000年以上の伝統文化であり、皇室神道は有史以前の縄文時代にまで遡る伝統の自然祭祀であった。
 日本民族日本人が命を捨てても守ろうとした、国體とは数万年という祖先からの歴史の重みであり、祭祀とは数万年という祖先から受け継いできた自然崇拝の重みであった。
 日本民族日本人が200万人以上の犠牲を出した戦争の理由は、祖先から受け継い民族の歴史と宗教ではない祭祀を守る為であった。
 それが、国體護持である。
 が、現代日本人には「日本民族日本人が守り後世に残したいと念った日本の心」は受け継がれていない。
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 現代日本人であれば、トロッコ問題として天皇一人の命と日本国民約1億2,000万人の命とどちらを選んで助けるかと迫られたら、迷わず天皇一人の命を犠牲にする。
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 無条件降伏とは、敗戦国が国家と国民の生殺与奪の権を含む全ての決定権を戦勝国に委譲する事であった。
 無条件降伏要求は、国際法戦時国際法の上位とされていた。
 無条件降伏とは、敗戦国を絶対悪として裁く軍事裁判で、減刑判決に繋がる可能性のある敗戦国人が行った人道貢献や平和貢献など全てを合法提出証拠項目から完全削除する事である。
 軍事裁判における判決は「有罪」の一つのみで、正当防衛もしくは自衛行為とする「無罪」はなかった。
 有罪判決の為には、提出証拠に歪曲・捏造・改竄・虚偽など嘘八百を並べたてる事が許されていた。
 つまり、事実は要らない、あるいは事実は法的に無価値なのである。
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 日本の降伏要請を拒否した理由は、アメリカは二発の原爆戦場投下実験を実行する為であり、ソ連は北海道を強奪して共産主義化する為であった。
 アメリカ・キリスト教会は、宗教的人種差別から、日本をキリスト教国家に大改造する事を神聖な使命と絶対神に誓っていた。
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 東条英機A級戦犯達は、戦争を始めた開戦責任ではなく、戦争に負けた敗戦責任で、戦勝国による見せしめ的なリンチ的縛り首で処刑された。
   ・   ・   ・   
 日本は、昔も現代も公文書の重要性が理解できず、その為に不都合と判断した公文書を残さず廃棄している。
 その意味で、日本人は事実に基づく歴史が嫌いである。
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 軍国日本は、連合国に対して早い時期から、昭和天皇の命の安全、地位の保障、天皇制度の存続つまり国體護持を認めてくれたら早期に降伏する意思がある事を伝えていた。
 が、連合国は「無条件降伏の原則」から如何なる降伏条件も拒絶し、昭和天皇戦争犯罪者として処分(死刑もしくは国外追放)・天皇制度の廃絶・皇室の廃止、つまり日本国をキリスト教共和制への体制変換を求めていた。
 つまり、無条件降伏の原則が求めた拒否不可の最優先項目は「昭和天皇の処分」であった。
 事実、ヒトラームッソリーニなど枢軸国の主導者は全て死んでいる。
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 昭和天皇は、平和主義者として戦争には反対であったし、原爆・核兵器を非人道的無差別大量殺人兵器として猛反対し、如何に戦争勝利の為と言っても実戦で使用する事を厳しく禁じた。
 東条英機首相は、昭和天皇の厳命を受け陸軍が極秘で進めていた原爆開発計画を、陸軍の反対を押し切って中止させた。
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 昭和天皇A級戦犯である東条英機松岡洋右松井石根らは、同盟国であるナチス・ドイツの強い要請(外圧)を拒否して、数万人のポーランドユダヤ人難民その他のユダヤ人を上海ゲットーに収容して保護し、ホロコーストを行おうとしたゲシュタポに協力する親ドイツ派日本人や人種差別主義の右翼・右派から守り通した。
 昭和天皇日本陸軍は親ユダヤ派で、右翼・右派は反ユダヤ派であった。
 人道貢献をしたA級戦犯達は、戦争を始めた戦争犯罪者としてリンチ的縛り首で処刑された。
 昭和天皇は逝去された今日に於いても、戦争犯罪者として、天皇の戦争責任及び戦争犯罪が日本はおろか世界でも糾弾されている。
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 日本軍部・日本陸軍は、東条英機首相の陸相兼務時代に、中国戦線で激戦中にもかかわず、黄河揚子江の堤防決壊による大洪水で数百万人の中国人被災民を救助し、河南省大飢饉では1,000万人以上の中国人飢餓民を救援し、ペスト・コレラチフスなどの中国人感染者数十万人を救護していた。
   ・   ・   ・   
 中国人は韓国人・朝鮮人と同様に、助けられても恩を感じず、感謝せず、恩を返そうという気は微塵も持っていないし、その反対に恩を仇で返しても罪の意識はない。
 日本人と中国人・韓国人・朝鮮人は同じ人間と言っても、全く違うのである。
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 敗北した日本人は、進駐してきたGHQ・連合軍(主にアメリカ軍)をもろ手を挙げて歓迎し、「ご無理ごもっとも」として如何なる命令に対して反論せず、盲目的に、狂喜して受け入れて従った。
 それが、現代の護憲派人権派反戦平和団体である。
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 現代日本とくに親中国派・媚中派は、日中友好の為に中国共産党の大虐殺を知りながら顔を背け目をそらし、金儲けの為に昭和天皇A級戦犯靖国神社、歴史を生贄として中国共産党に献上している。
 それは、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、護憲派、人道派、反戦平和市民団体、左翼・左派・ネットサハ、マルクス主義学者、反米派、反自衛隊派、反国家派・反体制派・反政府派・反権力派、反愛国派・反民族派、反天皇反日的日本人達も同様である。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売買して金儲けしていた。
 日本人女性・少女は、死ぬまで売春婦にされた。
 戦陣訓の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」には、そうした歴史的事実が隠されていた。
 昔の日本人は、歴史オンチの現代日本人とは違い、歴史を正しく、現実に起きた事実として理解していた。
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🌏13)─2─日本が近代中央集権を導入したのは対外戦争で勝利する為であった。~No.38  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 真面な日本人は2割、真面でない日本人は3割、無関心で傍観する日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 戦争を否定する日本国憲法下で平和を愛する現代日本人には、昔の戦争が理解できない。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民は、合戦・戦争を好み、キリスト教マルクス主義社会主義共産主義を嫌い排除した。
   ・   ・   ・   
 2020年8月13日・20年夏季特大号 週刊新潮「夏裘冬扇 片山杜秀
 令和の玉音を待ち望む
 今上天皇は第126代とされる。が、皇統の数え方は万古不易ではない。とりわけ明治末期の南北朝正閏(せいじゅん)問題は大きかった。現皇室は北朝系。ゆえに長く北朝が正統、南朝は非正統とされていた。ところが逆転した。北朝の5代を外し、南朝の3代を編入。2代減った。
 なぜそうなったのか。帝国陸海軍は天皇の軍隊。日清、日露の戦争も、兵とその家族に尊皇心が旺盛だったから勝てたとも言える。そのとき忠君愛国の鑑として国家が讃えたのは、楠木正成新田義貞南朝の忠臣だ。後醍醐天皇に命を捧げ、劣勢でも北朝即ち足利方に寝返らず、潔く散る。しかるに明治国家は一方で北朝が正統と言う。すると楠木や新田は間違ってニセの王朝に忠を尽くしたというのか。
 そう、明治国家のこだわりは、天皇に命を捧げる一枚岩の国民作りにあった。ために有用なら、現天皇の血筋と違っても、南朝正統で構わなかった。天皇を方便と割り切っていた。そもそも維新の精神がそうだろう。西洋列強に対抗するには、長州と会津が争ったり、侍と町人が心を合わせられなかったりでは論外だ。中央集権で四民平等の国民国家を作らねば国力を束ねられない。そのためにどうするか。日本は元来そういう国だったと言えば、変革もしやすい。復古される王政とは遠く奈良の律令時代。そのとき日本はほんの一瞬、天皇を政治の中心とする中央集権国家だった。その後、上皇法皇や摂政や関白や寺社や将軍や大名が国家を多元化してもとまり切らないのが、この国の長い常になる。
 明治国家はイチかバチかに賭けたのだ。日本史上唯一、中央集権の実を上げたらしいとはいえ、それはもう1000年以上も大昔の、超骨董品である天皇を担いだ。そうしたら当たった!国民を創造し命を懸けさせる装置として大成功。だが、たとえば敗戦し、天皇に捧げられた膨大な命が無駄死にと言われたら、天皇もアウトになりうる。
 でも75年前、奇跡は起きた。土壇場で昭和天皇は、神聖なる動員装置としてポーカーフェイスで黙っているのを定石とする天皇像を大胆に裏切り、聖断と玉音放送というアクロバットをやった。マッカーサーに会い、どうにでもしてくれとまで言った。明治維新から敗戦寸前までの77年間を、国民に生命財産を捧げさせる近代天皇の時代とすれば、聖断と玉音放送からの昭和天皇は、戦争を悔やみ、平和を祈り、戦没者を慰霊することで国民の信頼をつなぎとめようとすう現代天皇の時代を始めた。その思いを受け継ぎ、反戦の姿勢で戦没者慰霊の旅を続けたのが平成の天皇なのは、言うまでもない。
 神話の数えに従えば今年で2680年、百何十世代も天皇は続いている。しかし、王政復古で古代から久々に政治的生気を吹き込まれてからだと、明治から令和まで、僅か5代とも言える。しかも、戦争動員装置としての寿命は75年前に尽き、そのあとの戦争反省人間としての寿命も、戦争の記憶の風化の進む中、ほぼ尽きた。今上天皇は新しい天皇を始める宿命を負うている。
 令和の玉音が、災厄の時代を国民と共感共苦する存在としての思いを尽くして発せられることを、冀(こうねが)い奉ります。」
   ・   ・   ・   
 ロシアによる日本侵略の危機は、江戸時代後期、田沼意次松平定信の時代から存在していた。
 水野忠邦徳川幕府は、ロシアの侵略から蝦夷地(北海道)・北方領土樺太南部を軍事力で守るべく東北諸藩に派兵を命じ、松前藩天守閣建設と城郭強化を命じた。
   ・   ・   ・   
 日本は、江戸時代後半からロシアの日本侵略に怯え、母国を守る為にはロシアとの戦争は避けられないと覚悟していた。
 徳川幕府は、幕藩体制による消極的防衛戦略から、ロシアに日本侵略を諦めさせるような強力な軍事力を付けるべく諸政策を実行していた。
 薩長と朝廷は、中央集権体制による積極的防衛戦略から、ロシアの侵略を軍事力で粉砕するべく富国強兵を進めた。
 そして起きたのが、戊辰戦争であった。
 勝利した薩長と朝廷は、対外戦争ができる明治新政府を樹立し、対ロシア戦争に勝利するべく殖産興業による近代化を急いだ。
 近代教育とは、中華儒教教育であった。
   ・   ・   ・   
 明治新政府は、侵略してくるロシアの西洋キリスト教文明圏から母国日本を軍事力で守る為に中央集権国家を急いで作る必要があった。
 軍事的中央集権国家を造る為に採用したのが、正統派中華儒教朱子学)であった。
 中華儒教とは、中華系漢族至上主義で、教条的差別主義原理主義で、排他的で不寛容で視野狭窄的であった。
 日本儒教とは、異端派論語儒教であり、陽明学などの諸派儒教集合体の事である。
 明治政府が人材確保の為に採用した高等官吏採用試験は、西洋教育の官僚採用試験ではなく、中華儒教科挙であった。
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 明治以降の日本人兵士は、主君・主家に対する忠誠心が高い命知らずの武士ではなく、天皇と国家に対して忠誠心が疑わしく死なない為に戦わず逃げ回る危険性がある庶民(百姓や町人)であった。
 武士は、先祖代々受け継いだ土地の為に命を捨てて戦い死んだ。
 庶民には土地に対して愛着心はなく、命と土地の二者択一を迫られれば迷う事なく土地を捨てた。
 現代日本には武士は存在しないし、現代日本人は武士の子孫でもない。
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 8月27日秋初月増大号 週刊新潮「夏裘冬扇 片山杜秀
 脱中央集権としての令和維新宣言
 『事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きているんだ!』20年以上前の映画『踊る大捜査線 THE MONIE』で織田裕二扮する青島刑事が言い放ったこの台詞を最近よく思い出す。疫病禍で日本の中央集権政治体制がパンクしてしまったように思えるからだ。
 そもそも、近代中央集権国家とは、イギリスでもフランスでも日本でも、対外戦争をし、国内反乱を鎮圧するために発展した。税務署が国税を集めるのは一に軍事費の調達のため、郵便局が全国に張り巡らされたのは、恋文のやりとりを国が手助けしてあげたいからでは無論なく、徴兵や課税の通知を確実に届けるため。そこでは全国一律がとても重要だ。知床半島の奥地には召集令状も課税通知も届かないとしたら、みんなそこへ引っ越すだろう。
 国民全員が運命共同体。在住地は関係なし。一律に網を掛けるのが基本。戦争や徴税のためならそれが正しい。が、長引くうえに流行地が時々刻々と移ろう疫病禍となると話が違う。疫病の流行は、首相官邸や専門家会議の会議室ではなく地域の現場で起きている。東京や大阪や名古屋。東京でも新宿区や世田谷区とか豊島区とか。ミクロでの工夫に富んだ対応が求められる。現場の裁量を大きくし、人員や設備も増やし、機動的に動員せねばならない。
 そこで重要なのは、法律もだが、お金だ。都道府県知事や市長や区長が大胆に予算を執行できなくては、休業要請も休業補償もなかなかやれない。
 ところが戦後日本では、国から地方への権限移譲が長年叫ばれながら、実態は相変わらず。国が地方を牛耳る。唐突に学校を休みにする。布マスクや現金を配る。どれも全国一律対応だ。ミクロに目が届かない。現場を忘れたお上の発想である。そうやって国費を非効率的に使う。そんなお金があるのなら地方に与えよ。権限も非常事態特別立法の発想で一時的に地方に委ねよ。
 日本の公の収入は、だいたい国税が6割で、地方税が4割という。しかし支出は、おおよそ国が4割で地方が6割。地方は不測のお金を常に国に無心してきた。国のさじ加減が地方の生死を握る。そこにどうしても上下関係も生まれる。地方が国に忖度する。地方の独自判断の余地は狭くなる。その構造が今回は甚だしく裏目に出ている。
 お金の配分法を中央集権向けから地方分権向けに、緊急に転換させるべきだ。江戸時代、幕府は藩に領内の政治を任せた。藩は高度な自治体であった。そして幕府の直轄領は、全国約185万石のうち最大時期でもおよそ450万石だったという。4分の1くらいだ。時代も制度も違うから今にそのまま当て嵌まるわけもないが、参考程度にはなろう。たとえば、現代日本の公の支出の目安を、国が4割で地方が6割から、幕藩体制に倣い、国が25%地方が75%へと変えたらどうか。税体系も地方税の比率を大幅に高め、国が地方に無心せねば成り立たなくなるようにひっくり返す。国には地方間の調整役に徹してしてもらう。中央集権を成立させた明治維新を逆転させ、地方分権の令和維新を断行するのだ。もし疫病禍が長期にわたるなら、それほどの革命を起こさねば追いつくまい。
 座して死を待つより、脱中央集権の虚妄に賭けさせていただきます。」
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 日本が歴史の教訓として学ぶべきは、清国(中国)ではなくムガル帝国(インド)であった。
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 歴史が苦手、西洋や中国・朝鮮の歴史は好きだが日本やインド・東南アジアの歴史は嫌いな現代日本人には、歴史を教訓として学ぶ力は弱い。
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 清国の衰退はアヘン戦争に敗れ香港を奪われたからではなく、白蓮教の乱・回教の乱、太平天国の乱などの宗教反乱、疫病大流行、大量餓死者などが原因であった。
 中国の「勿忘国恥」(国恥を忘れることなかれ)は、中華儒教の一君独裁体制による悪政・暴政・失政に対する民衆の怒りが原因であった。
 明治天皇と日本政府は、中国で疫病や飢餓が発生すれば、隣国の誼としてできうる限りの支援の手を差し伸べていた。
 何故か、日本はロシアと大戦争をする為に、中国や朝鮮がロシアに味方しないように食い止める為であった。
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 キリスト教は、聖戦を起こせず、日本の庶民(百姓や町人)を救い導く事はできなかった。
 マルクス主義は、人民暴力共産主義革命に失敗し、日本の庶民を理解できなかったし説明できず指導できなかった。
 近代日本において、キリスト教マルクス主義共産主義も無力で役に立たなかった。
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 日本の庶民は、キリスト教の迷える子羊・哀れな子羊ではなかったし、マルクス主義共産主義の搾取され虐げられた人民ではなかった。
 何故か、それは日本民族日本人が自然な「死」を運命として受け入れたが、不自然な「血と死」を最悪な「穢れ」として嫌い排除したからである。
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 命を捨てても天皇・皇族・皇室を守ろうとした勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しい庶民、芸能の民、賤民、部落民、異能の民、異形の民など差別され虐げられてきた下層民達であった。
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 日本民族日本人とは、乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血(ハーフ)の雑種民族で、秀でてもいないし優れてはいないし賢くもない平凡で凡庸な有り触れたつまらない人間である。
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 近代天皇家は、国内外で人道と平和の歴史的人類的貢献を続けていた。
 昭和天皇は、その象徴的存在であったがゆえに、全責任を背負って退位せず茨の道を歩かれ、国内外からの罵詈雑言や非難中傷に耐え、在位のまま天寿をまっとうして崩御された。
 昭和天皇の事実・心情を、戦前の日本人は知っていたが、現代の日本人は情け容赦なく切り捨てた。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、非白人非キリスト教徒の日本人をアフリカ人同様に奴隷として売り買いして金儲けしていた。
 バチカンローマ・カトリック教会は、キリシタンの日本人を奴隷にする事を禁じ改宗を拒否する日本人を奴隷とする事を認めた。
 日本人を奴隷として売ったのは日本人である。
 日本人は、金(マネー)の為ならば平気で国を売る人間である。
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 現代の日本と昔の日本は別の日本である。
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 庶民は、武士が命を賭けて合戦している時は山頂や河原の反対側の安全な場所で宴会しながら殺し合いを娯楽として見物し、戦が終われば戦場に駆け寄り群がって戦死者の身包み剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋めた。
 さらに、落ち武者狩りとして、敗れて逃げた側の武将を襲撃し半殺しにしてその首を切り落として勝った側に差し出して賞金を貰った。
 合戦の中で団結力を失いバラバラになった村を襲い、生け捕りにした村人を奴隷として日本人商人や白人キリスト教徒商人に売って金を稼いでいた。
 日本のムラ意識はこうして生まれた。
 日本では、人は金で買えた。 
 武士・サムライは、金に意地汚く節操のない庶民を嫌悪し軽蔑し差別した。
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 江戸末期の日本人が恐れたのは、西洋列強の軍事侵略ではなくキリスト文明の宗教侵略であった。
 明治期の日本人は、キリスト教の宗教侵略に対抗する為に天皇を神聖不可侵の現人神する精神的防衛陣を敷き強化した。
 それが、近代的国體論である。
 天皇家・皇室は、キリスト教に対抗する為に、宗教戦略としてローマ教皇との、政治戦略としてイギリス王家とアメリカ大統領との友好関係の維持に務めた。
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 庶民には、一文の得にならない愛国心も郷土愛も持っていなかったし、武士が死の覚悟で持っていた主君や御家に対する忠誠心などは無縁で、むしろ馬鹿にしていた。
 例を挙げれば、戊辰戦争における会津戦争である。
 歴代藩主の仁政・善政に浴していた会津領民は、官軍が攻めてきたら藩主を助けるどころか逃げ去った。
 会津領民が特別に恩知らずだったわけではなく、日本ではそれが当たり前の事で、日本の庶民全てがそうであった。
 庶民にとって、領主・統治者・支配者・権力者が誰であっても構わず、日本人だろうが外国人(中国人・朝鮮人・その他)であろうが、極端に言えば猿・犬・猫・鹿などの動物でも、石・岩、草木、紙、山、川でもよかった。
 何故なら、八百万の神々だからである。
 明治新政府は、庶民に不信感を抱き、庶民が金儲けで侵略してきた外国勢力に協力する事を恐れた。
 その好例が、1945年の敗戦後、GHQ・占領軍に阿諛迎合し媚び諂い金儲け・利益・利権の為に、昭和天皇と日本国の為に共に戦った戦友を密告した日本人が多数存在した。
 仲間を売った彼らは、戦後自由・民主主義によって社会的地位に上り詰め資産を増やし、新たな権威者となり、金持ちとして幸せな老後を送り、天罰を受け不幸になる事はなく幸せに天寿を全うした。
 それが、日本人の偽らざる実態である。
 日本とは、寝返り御免・裏切り御免の油断も隙もない薄情なブラック社会である。
 それは、天皇・皇族・皇室に対しても同様である。
 現代日本人は、そうした現実の庶民の子孫であって、憧れの武士・サムライの子孫ではない。
 現代日本には、底知れぬ闇としてムラ気質ではなく庶民気質が根づいている。
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 何時の時代でも、天皇を自称する日本人が耐えない。
 メディアは、金儲けの為に面白おかしく報道する。
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 キリスト教朝鮮人テロリスト(不逞朝鮮人)や日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 最後の外国勢力による日本侵略は、応永26(1419)年に李氏朝鮮世宗大王が仕掛けた対馬侵略であった。
 朝鮮軍は、侵略した対馬で島民虐殺と略奪・拉致連行を行った。
 世に知られた応永の外寇である。
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 後期倭寇の首領は中国人で、その配下は朝鮮人・中国人とポルトガル人・スペイン人・オランダ人らで、日本人は1割~2割の少数派であった。
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 中国の日本侵略である元寇は、文永(1274)年と弘安(1281)年であった。
 文永に役の主力は高麗軍で、高麗人兵士は対馬壱岐・北九州の各地で虐殺・略奪・拉致連行を繰り返し、日本人の子供約200人を戦利品として高麗王に献上した。
 弘安の役における蒙古の主力部隊は、旧南宋軍であった。
 前期倭寇は、元寇で虐殺された対馬壱岐・北九州北部の住民で、復讐として半島や大陸の沿岸を荒らし回り惨殺、強奪、強制連行を繰り返していた。
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 日本の大陸・半島侵略は、豊臣秀吉の朝鮮征伐である文禄元年(1592)年と慶長2(1597)年の二度だけである。
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 820年 平安時代弘仁新羅の乱。駿河遠江・伊豆で朝鮮系渡来人の叛乱が起きていた。
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 日本にとって、中国と朝鮮は古代から敵国であり、近代に入ってからは敵国にロシアが加わった。
 中国、朝鮮、ロシアの3カ国はいつ日本を侵略してくるか分からない、油断できない敵国であった。
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🏞103)─1─足利学校を訪れた幕末の志士達。〜No.404No.405 ㊳ 

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 2020年8月20日 産経新聞漢籍に惹かれた歴史上の人物たどる 栃木・足利学校で来訪者展
 高杉晋作の旅日記「試撃行日譜」には足利学校を訪れたことが記されている(萩博物館提供)
 所蔵する貴重な書籍に惹かれて来訪した歴史上の人物の足跡をたどる「足利学校に魅せられた来訪者たち」が、史跡足利学校(栃木県足利市)で開かれている。吉田松陰高杉晋作といった幕末の志士から画家などの文化人まで、足利学校が多くの人を魅了していたことが分かる企画展だ。
 足利学校は「尚書正義(しょうしょせいぎ)」など国宝4種77冊を含む貴重な漢籍約8千冊を所蔵することなどから、古くから文化人らが訪れた。平成2年に方丈(ほうじょう)などの主要建造物が復元され、その30周年を記念して企画された。9月末までの前期は江戸時代の、後期(10月3日~11月29日)は明治から昭和の来訪者を特集する。
 江戸時代の文人画家、谷文晁(ぶんちょう)は寛政8(1796)年、調査のために訪れ、その際、山水図と足利学校聖像図(いずれも足利学校所蔵)を描いた。谷の弟子、渡辺崋山天保2(1831)年に来訪したことを自身の旅日記「毛武游記(もうぶゆうき)」に記している。
 幕末の志士としては吉田松陰嘉永5(1852)年、足利学校内の孔子廟を参拝。門下生の高杉晋作は万延元(1860)年に訪れたことが旅日記「試撃行日譜(しげきこうにちふ)」から判明している。
 企画展では来訪を裏付ける旅日記などを中心に展示。足利学校事務所は「多くの人を招き寄せる力が足利学校にあったことを知ってもらいたい」としている。参観料一般420円、高校生220円、中学生以下無料。問い合わせは(0284・41・2655)。(川岸等)」
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🌏13)─1─近代天皇制度国家日本の悲劇は儒教(朱子学)を採用した事である。~No.37  

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 満州族系清国(中国)と朝鮮の悲劇は、朱子学を唯一絶対の正統国教としてそれ以外を異端であると否定し、弾圧し、排除し、多様性と柔軟性の寛容さを放棄した事である。
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 2020年5月7日・14日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 〔近・現代篇〕 朱子学による『日本の伝統』づくり
 明治政府は、天皇制と神道を中心に想像の共同体を作って、日本をネーションステート国民国家)としてまとめようとします。
 いま皇室の伝統と思われていることの多くが、明治時代になってから始められたものです。しかも神道には天皇を神格化するための理論がなかったので、朱子学儒教)から借りてくることになります。
 このテーマについて、小島毅さんが『靖国史観』や『天皇儒教思想』などで詳しく述べられています。
 1864年、長州の高杉晋作が、亡くなった同志のため下関に招魂場(しょうこんじょう)を建てました。その後、戊辰戦争で亡くなった人たちのために各地に招魂場ができます。69年に大村益次郎が発案して、東京にも招魂場(社)が九段に建てられます。
 この東京招魂社が79年、西南戦争を機に太政官達({たつ}命令)で靖国神社と名前を変えました。
 ここでいう英霊とは、政府軍として戦死した人たちのことです。戊辰戦争幕府軍や、明治維新に尽力していても、後に乱を起こした西郷隆盛江藤新平、反乱士族たちは入っていません。
 楠正成の祭り上げ
 英霊という言葉のもともとは、死者の魂の単なる美称に過ぎません。
 靖国神社的な言葉の意味のもとをたどると、19世紀の朱子学者で尊王攘夷派だった水戸藩士、藤田東湖漢詩に行き着くそうです。
 南宋を降伏させたクビライからの再雇用のオファーを拒み刑死した文天祥を讃えて、日本にも楠正成や赤穂浪士など、主君のために殉じた志の高い人たちがいたでと歌ったものでした。『死んでもその英霊は滅んでいないで』という内容です。
 君臣の道を貴び、主君のために殉じた者を賞揚するという朱子学の思想と儀礼が、靖国神社建立の源にあったわけですね。
 楠正成や新田義貞を祀る神社も、明治になってから新しく作られました。神戸の湊川神社、福井の藤島神社です。いずれも戦死した地に祀られました。楠正成は、北条氏の御内人(みうちにん)で、現実には『悪党』=ビジネスに敏(さと)い人だったと現在では考えられています。しかし後世には、彼の出自はわからなくなり、『天皇のために戦って死んだ人やで』という側面がクローズアップされていました。
 鎌倉幕府を討った後醍醐天皇も、『(朱子学的に)正しかったで』と賞揚されます。1911年(明治44年)には明治政府によって、後醍醐天皇の『南朝』が正統とされます(明治天皇北朝の出身でしたが)。
 年号に関しては、明治以降、一世一元の制度になっていますね。
 明治天皇の時代は、『明治』、大正天皇は『大正』と、一代に一元号です。しかしそれ以前は地震や噴火といった天災など、なにか機会があると都度元号を変えていました。
 この一世一元制も、中国の制度の導入です。前出の藤田東湖の父である水戸藩朱子学者、藤田幽谷は、明の洪武帝がはじめ清も採用していた一世一元制を日本にも導入すべきと主張していました。
 それを明治になって、岩倉具視が採用したのです。
 ところで皇室の氏神を祀る神社と言えば、伊勢神宮ですね。
 不思議なことに、明治になるまで天皇は誰一人伊勢神宮に詣でていません。今のように度々天皇伊勢神宮への参拝するようになったのは、実は明治になってからです。
 こうした皇室の新しい習慣はほかにもたくさんあります。
 新しい『伝統』行事
 たとえば天皇陛下が稲を植え、皇后陛下が蚕を飼うことも、近代以降の新しい伝統です。
 実のところ天皇みずからのお田植えは、昭和天皇が初めてでした。それ以前の天皇は誰もしていません。
 一方、皇后が蚕に桑の葉を食べさせる御給桑(ごきゅうそう)の方は明治からの『伝統』です。
 1871年、昭憲皇太后明治天皇皇后)によって『養蚕(ようさん)の伝統の復活やで』としてはじまりました。
 政府や実業家が国を挙げて生糸生産を推進するキャンペーンとしての一面があったといわれますが、君主がみずから農耕を行い、その妃(きさき)が養蚕を行うという組み合わせもまた、もとを辿れば儒教の『籍田儀礼』に行き着きます。
 中国では形式化しながらも代々続く皇帝の儀礼となっていました。
 奈良時代に日本にも中国からその儀礼が輸入されて、中国の朝廷のスタイルをどんどん取り込んでいた孝謙天皇がマネしたわけですね。
 その後日本では長らく途絶えていましたが、江戸時代に朱子学が広まると、上杉鷹山などの好学な大名が中国のマネをはじめて田植えを行い、近代になってそれが改めて皇室に導入されました。
 江戸時代の朱子学者や、その影響を多分に受けた国学者たちの思想が、明治維新を切り開いた人たちの精神的な支柱になったことで、結果的に男尊女卑など朱子学の考えが明治の日本に広まったのですね。
 同時に、天皇と皇后のイメージについては、欧米列強に早くキャッチアップしようとする時代の要請に合わせて、『洋風化』することも求められていました。
 明治以前の天皇は京都の御所の奥深くで人目に触れることなく、文化を愛する公家のトップとして生活していましたね。
 その天皇大久保利通はすでに1868年(明治元年)、戊辰戦争が終わらないうちから大阪や東京への行幸に連れ出しています。
 72年からは日本各地への巡幸がはじまります。数年かけて全国をくまなくまわっています。
 全国で国民が生身の天皇を仰ぎ見る儀式を行うことによって、天皇の権威を『見える化』したのです。
 国民の『母』としての皇后
 その後、巡幸に代わって天皇の写真、『御真影』が全国の地方官庁、軍隊から学校にまで配られるようになります。
 この立派なひげを蓄えた軍服姿の男らしい明治天皇の姿は、実は直接撮影されたものではなく、キヨッソーネというイタリア人画家が描いた肖像画を写真に撮ったものです。
 キヨッソーネはヨーロッパの王侯貴族を描く伝統的な技法でもって、『開国・富国・強兵』の旗を振る天皇のイメージを描き上げました。
 この御真影を一所懸命拝む儀式が行われることによって、『国の中心には天皇がいるんやで』と国民を教育したわけです。御真影を火事から救い出そうとして学校長が命を落とす事件まで起きました。
 皇后の肖像写真もキヨッソーネが関わって制作されます。
 皇后には朱子学の教える良妻賢母のイメージが割り当てられ、同時に洋装によって近代化をアピールしました。
 このようなイメージ作りは欧米の国民国家ではじまったことでした。
 19世紀、母親には国家を尊敬する子供を養育し、国語を覚えさせ、もって国民を創出して国家を強化する役割が期待されていました。
 こうして『日本の中心に皇室があるのが日本古来から続く伝統なんやで』という考えを共有する『国民』を創設していきます。そのために欠かせないもう一つの装置、新聞が始まりを次回はみていきましょう。」
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 徳川幕府朱子学を官学としたが、在野の儒学者の間に陽明学などの諸派儒教が広がっていた。 
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 現代の日本国語は、明治に中華儒教朱子学)によって作られた新言語である。
 近代教育の精神は、愛の西洋キリスト教価値観ではなく徳の中華儒教価値観である。
 その証拠が、英語・フランス語・ドイツ語の何れかなの西欧語が公用語にならなかったことである。
 中国語が、朝鮮のように公用語にならなかったのは、日本人は昔から論語を日本国語で読んでいたからである。
 公用語を違う文明・文化や宗教・習慣由来の外国語にしている国で進歩発展し富み栄えた国はない。
 欧米諸言語は、源流を辿れば古代のギリシャ・ローマである。
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  何故、明治新政府朱子学中華思想)を採用したか。
 それは、明治維新を行って中央集権国家をつくった元勲達と政府高官や高級軍人が、全て低い身分の出身者だからである。
 卑しい身分出身であるが故に、誰からも馬鹿にされず、命令を厳命として上意下達できよう、張り子の虎的権力に絶対的権威を張りつける為に朱子学を取り入れ天皇制度を悪用した。
 朱子学によって、天皇を残して、身分・階級の上下が逆転したのである。
 つまり、明治初期の日本とは、成り上がり者社会、下剋上社会、ならず者社会であった。
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 日本の近代化は、天皇の気持ちを無視してをあらゆる面で利用して行われた。
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 近代皇室は、イギリス国教会の主宰者にしてイギリス国家元首のイギリス王家を手本とし、ローマ教皇アメリカ大統領との良好な関係に努めた。
 近代天皇には、中華儒教固執して時代の潮流に乗らず三流以下の中世国家に甘んずる中国や朝鮮ごとき眼中にはなかった。
 昭和天皇は、皇太子時代にイギリスを訪問しイギリス王家と国家・議会・国民との関係を学び、フランスなど諸国を巡り第一次世界大戦の戦跡に行き戦争の酷たらしさを肌身で感じ平和主義に目覚めた。 
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 中国や朝鮮の近代用語の7割以上が、日本製漢字である。
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 近代日本の失敗は、新国家建設の国家理念に中華儒教朱子学)を採用し、軍事力で西洋キリスト教文明の侵略から母国日本を守ろうとした事である。
 中華儒教によって、大日本帝国憲法教育勅語軍人勅諭、修身教育そして近代的国体論などが書かれ、無宗教国家神道が作られ靖国神社や各地の護国神社そして明治神宮などが建設され、国学が政治の表舞台から学問の世界に追いやられた。
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 右翼・右派の民族主義国粋主義は、差別主義原理主義の中華儒教である。
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 滅びの美学、忠君愛国、滅私奉公、忠臣は二君に事(つか)えず、大和魂大和撫子、良妻賢母、貞女は二夫にまみえずなどなど、日本人を精神主義で縛りつけた悪しき用語の大半が儒教の漢心であった。
 和魂洋才の和魂とは、和心ではなく漢心であった。
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 儒教は、禅譲放伐である。
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 もし近代国家日本に罪があるとするのならば、それは中華儒教価値観を日本に導入した排他的不寛容な儒学者や偏狭的差別主義の右翼・右派であって、天皇・皇室ではない。
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 政教不可分とされた皇室祭祀・宮中祭祀の深層に、縄文時代日本民族日本人が執り行っていた自然神・大地母神への祭祀が脈々と生きて流れている。
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 日本と中国・朝鮮とは違い、日本民族日本人と漢族系中国人・朝鮮人とは別系統のアジア人であった。
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 儒教は、天帝と天子の神聖を脅かす神仏を認めず、物事には明快な合理的必然性があるとして偶然や迷信や奇跡を否定し、キリスト教の愛や仏教の慈悲などで人々を救い一つにまとめようとする普遍宗教を弾圧し、信仰を捨てない信者・信徒を世に存在してはならない異常者として虐殺した。
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 中華儒教とは、越えられない上下関係、身分制度、支配階級と被支配階級の思想で、天下万民の万民とは被支配階級ではなく支配階級の事である。
 支配階級とは、聖人君主を出す士大夫・読書人・教養人の事である。
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 江戸時代の百姓一揆や町人の打ち壊しは、朱子学社会となった明治・大正時代の労働争議小作人争議とは本質的に違う。
   ・   ・   ・   
 「論語読みの論語知らず」の日本人は、実現しない理想のありもしない空想の夢の中だけに生きる人間で、中華世界の現実社会を動かしてきた正統儒教が理解できない。
   ・   ・   ・   
 明治政府が日本改造に採用したのが、廃仏毀釈神仏分離令国家神道の神社合祀令であった。
 明治政府が目指した近代国家は、政教分離国家である。
 何故なら、採用した中華儒教は反宗教思想であったからである。
 強欲キリスト教に対抗できるのは、無欲な日本神道や日本仏教ではなく、強欲な中華儒教しかなかった。
 よって、中華儒教がつくった国家神道は宗教ではなかった。
   ・   ・   ・   
 近代教育が教えたのは、中華儒教の中華至上主義で、「八紘一宇」の大家族主義とは相容れない思想であった。
 中華儒教は、天皇の神格性と神聖不可侵性を中国の伝統文化である天帝と天子(皇帝)の絶対関係にあてはめて教育した。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、非白人非キリスト教徒の日本人をアフリカ人同様に奴隷として売り買いして金儲けしていた。
 バチカンローマ・カトリック教会は、キリシタンの日本人を奴隷にする事を禁じ改宗を拒否する日本人を奴隷とする事を認めた。
 それが、キリスト教絶対神の「福音」と隣人愛の「信仰」であった。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府李氏朝鮮とは違って、朱子学を唯一の正統学問として異端諸派儒教を脅かす仏教を弾圧しなかった。
 日本には、幕府が定めた官学・朱子学以外に、私学として陽明学などの諸派儒教民族学としての国学と日本神道が存在し、学問以外に日本仏教と修験道などの自己啓発学が、多種多様に存在し、地方の地域事に多元的価値観を形成し発展させていた。
 だが、そこで描かれていたのは日本国でもなければ日本民族でもなかった。
   ・   ・   ・   
 現代日本が、日本という日本は江戸時代以前の日本ではなく明治以降の日本である。
 文化伝統の、大半は明治以降のもので、江戸時代以前のものはほんの僅かに過ぎない。
 例えれば、日本の城で本当の天守閣、江戸時代からの本物の木造天守閣は12だけで、残りは戦後に造られて偽物天守閣である。
 時代劇が好きな現代日本人は、偽物天守閣・摸造天守閣を伝統文化として誇らしげに見上げている。
 日本民族日本人は、偽物天守閣・摸造天守閣の先にある時空を越えた歴史的精神性を見つめている。 
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 明治までの日本には、アイデンティティとなる民族意識はなかった。
 江戸時代において、日本人・日の本の民はおろか大和民族日本民族は存在しなかった。
 江戸時代の日本人がよく口にした「おらが国」とは、自分が住む「ムラ」の事である。
 江戸時代の日本には、皆の衆という庶民はいたが、国民も市民もそして人民・大衆・民衆もいなかった。
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 江戸時代の日本人は、夢も希望もなくその日暮らしのお気楽な人間で、日本国が日の本の国である事が理解でず、日本人が賢く優れているなどとは「これっぽっちも」思ってはいなかった。
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 「欲得に素直に生きる」のが、江戸時代の日本人であった。
 よって、愛国心などはなく、「命あっての物種」として戦う事を嫌って逃げ回り、戦が終わった戦場に駆けつけて放置された戦死者から金目の物はもちろん褌(ふんどし)に至るまで身包みを剥ぎ、丸裸にして大きな穴に全員を放り込んで埋めた。
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 江戸時代の日本人にとって、日本国土が誰の物になろうが、日本の支配者が外国人(中国人や朝鮮人)になろうが気にはしなかった。
 力が強い者・金がある者に、媚び諂い、胡麻をすっておこぼれを預かろうとするのが江戸時代の日本人であった。
 そして貧乏になった元金持ちに対しては、「金の切れ目が縁の切れ目」として見捨て、嘲笑いながら見殺しにした。
 それが江戸時代の庶民(百姓や町人)であった。
 庶民は、ブラック社会で生きていた。
 庶民は、面従腹背として御上(幕府や大名)に従い奉っていただけで、本心は軽蔑していた。
 幕府や大名は庶民を恐れ、武士・サムライは庶民を信用しなかった。
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 庶民は如何なる宗教も信用せず、神仏などは「困った時の神頼み」として祈り拝むものとし、信仰の為に命を犠牲にするのは常識がない馬鹿な人間がする事として嫌悪していた。
 庶民にとっての神仏は、今必要な御利益をもたらす存在で、御利益を与えてくれなければ無能な神仏と軽蔑して捨てるだけの存在であった。
 庶民には、宗教心や信仰心は微塵もなく、無節操に他人が信じる神仏を「御利益がありそうだ」と思って一緒になって拝む。
 そこに、畏敬の念・畏怖の念はもちろん謙虚さや敬虔さなど一切存在しない。
 日本人の無宗教とは、そういう事である。 
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🏞71)─2─享保の飢餓。いも代官は幕命に背き飢餓民を救って処罰された。~No.290 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 武士・サムライは、自分の心・志・信念を貫く為ならば、主君の上意・上司の命令・時代の雰囲気に逆らっても実行した。
 象徴的な日本人は、杉原千畝である。
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 2020年8月17日 産経WEST「全国に石碑500基超の偉人「いも代官」と先人の熱血調査
 「いも代官」と呼ばれた井戸平左衛門の肖像画(井戸神社所蔵)
 江戸時代、サツマイモ栽培を奨励して飢餓から住民を救い「いも代官」と親しまれた役人がいる。世界遺産、石見(いわみ)銀山遺跡がある石見国大森(島根県大田市)の代官だった井戸平左衛門(いど・へいざえもん)=1672~1733年。その功績をたたえて建てられた頌徳碑(しょうとくひ)は、中国地方4県で500基以上あるといわれ、一人の役人としては異例の多さだ。同市文化協会は、その碑の全容を明らかにしようと5月、公的機関では初めて本格的な調査に乗り出した。
 享保の大飢饉
 平左衛門は、江戸時代中期の享保16(1731)年、60歳で大森代官に着任。翌年の享保の大飢饉(ききん)では、被害に応じて年貢米を免除したり減免したりしたほか、幕府の許可を待たずに代官所米蔵を開いて住民に米を与えたという。
 一方、当時薩摩国(鹿児島県)からの持ち出しが禁止されていたサツマイモを入手し、栽培を奨励した。サツマイモは石見国から島根県北東の島根半島鳥取県西部の弓ケ浜半島に伝わり、飢餓から多くの住民を救ったとされている。これが「いも代官」の由来だ。
 平左衛門の大森代官の在任期間は2年だったが、死後、功績をたたえて各地に碑が建てられた。
 住民が建立
 ただ、その広がり方が尋常ではない。たとえば地元の島根県。平左衛門をまつる井戸神社(大田市大森町)の境内には市内にある平左衛門の碑を紹介する看板があるが、そこには市内だけで約100基もの所在が記されている。
 さらに島根県だけにとどまらず、鳥取県広島県岡山県へと拡大。建てられた年代も江戸時代から平成までと幅広い。大田市文化協会は「食糧難の時代に恩を再確認して石碑を建てる動きが広がったのではないか」と推測する。碑の台石の多くに住民が力を合わせて建てたことを示す「當村中」の文字が刻まれているのも特徴という。
 一方、その碑の数は「全国に100基以上」「たくさんある」といわれながら長く判然としなかった。そこに立ち上がったのが、ある農家の男性だった。
 ある農家の男性の思い
 各地にある平左衛門の碑を調査したのは、大田市内で農業を営んでいた故・宮本豊さん(享年81)。昭和50年から15年以上をかけて1人で調べた。
 市文化協会によると、宮本さんは、自宅近くの寺の無縁墓の一角に、傷みが激しい平左衛門の碑の塔身があるのに心を痛め、「誰かが調べないと碑がなくなってしまう」と行動に移した。
 各地の図書館や公民館、資料館などで文献を調べて碑の所在地を確認。農閑期を利用して一基一基を訪ね、写真を撮影したり、刻まれた文字や寸法などを記録したりした。管理されていない碑を見つけると、周辺の草刈りもした。
 宮本さんの調査で明らかになった碑の総数は530基。うち現地調査した碑は465基になる。
 碑の全容解明へ
 今回の市文化協会の調査は宮本さんの調査を補完し、全容解明につなげるのが狙いだ。
 NPO法人石見銀山協働会議(大田市)の補助金を活用。今年5月、同市を除いた中国地方の全106市町村と県内の寺院、神社の計1287カ所に文書を送付し、情報提供を求めた。
 7月末までに回答があったのは、80自治体と、寺院・神社が564カ所。写真や地図を同封した回答もあった。同協会ではこれまでに計493基を確認していたが、新たに22基の存在が分かった。
 この過程でもう一つ判明したのが、宮本さんの調査の正確さ。調査漏れはほとんどなく、完璧に近いことを裏付ける結果になったという。同協会の石賀了会長は「情報がない中、あらゆる手を尽くして調査されたと思う。頭が下がる」と話す。
 碑は、建ててから100年以上が経過したものが多く、老朽化が進む。文字の記載がなく、口頭でのみ平左衛門の碑と伝わっているものもあり、記録しないと将来、誰のものか分からなくなる恐れがあるという。
 今後は調査結果を報告書にまとめる一方、個票に記録する作業を進める。
 「井戸さんはもちろん、碑を通して、功績を伝えようとした先人たちも立派」と石賀会長。「サツマイモのおかげで祖先が命をつなげて今があることを、若い人たちに伝えたい」と話している。」
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 ウィキペディア
 井戸 正明(寛文12年(1672年) - 享保18年5月26日(1733年7月7日)は、江戸時代中期の幕臣、大森代官、笠岡代官。享保の大飢饉の際に石見銀山領を中心とする窮民救済のため数々の施策を講じた。なお、その名については「正明」とする文献が多いが、「正朋」とする文献もあり一致していない(なお、この点につき昭和47年版の島根県編『島根県誌』第8巻661頁では享保18年の遺言状などを根拠に「正朋」が正しいとしている)。石見地方などでは通称の「平左衛門」のほうが一般的であり、今日でも正明は「芋代官」あるいは「芋殿様」と呼ばれ慕われている。
 略歴
 寛文12年(1672年)に御徒役・野中八右衛門重貞(重吉とも)の子として江戸で生まれ、元禄5年(1692年)に幕府勘定役の井戸平左衛門正和の養子となる。正和の死後遺跡を継ぎ小普請役に組み込まれ、元禄10年(1697年)に表火番、元禄15年(1702年)に御勘定に昇進。勘定所における長きにわたる忠勤が認められ、享保16年(1731年)9月13日、60歳にして第19代大森代官に着任し天領の銀山領6万石を支配した。直後に笠岡代官(現・岡山県笠岡市)も兼務。
 この年、享保の大飢饉による領内の窮状を目の当たりにし、領民たちを早急に救うため幕府の許可を待たず年貢の減免、年貢米の放出、商人から寄付金を募り、さらに官金や私財の投入などを断行した。翌享保17年(1732年)4月、正明は石見国大森地区(島根県大田市)の栄泉寺で薩摩国の僧である泰永からサツマイモ(甘藷)が救荒食物として適しているという話を聞き、種芋を移入した。その年に種付けを試みたが、種付けの時期が遅かったことなどもあって期待通りの成果は得られなかった。しかしながら、邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛が収穫に成功する。栽培に成功した理由として、領内出身(現・江津市渡津町)の医師の青木秀清が蘭方医学を学びに長崎に留学し、サツマイモの栽培法を習得し持ち帰ったという話も伝わる。また、栽培の普及には井戸の手代の伊達金三郎の活躍もあったと伝わる。
 その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり、多くの領民を救った。この功績により正明は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられ、今日まで顕彰されるに至っている。
 享保18年(1733年)、大森代官職を解かれ、同年5月26日、備中笠岡の陣屋で死去した。死因については、救荒対策の激務から過労により病死したとする説と、救荒対策のために幕府の許可を待たず独断で年貢米の放出などを断行したことに対する責任から切腹したとする説の二つがあるという。墓所は笠岡の威徳寺にある(岡山県笠岡市)。正明の死後、石見地方を中心に近隣各地さらには益田市沖の高島にまでも頌徳碑(芋塚)が建てられた。大田市大森町には正明を祀る井戸神社がある。
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 井戸神社
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 井戸神社の創建
 井戸神社は、井戸平左衛門公をお祀りする神社です。明治12年に創建され大正5年に現在の地に移され再建されました。鳥居の扁額は勝海舟が自筆のものです。再建にあたっては、地元はもとより桂太郎総理大臣はじめ各国務大臣、財界からは渋沢栄一などの有力者からの寄付が寄せられました。
 井戸平左衛門
 井戸平左衛門は享保十六年(1731)に一九代石見代官に任命されました。翌、享保十七年は、享保の大飢饉といわれる年で餓死者は12,000人にも及んだとされています。このような状況をみた平左衛門は自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入するとともに幕府の許可を待たず代官所米蔵を開いて飢人に米を与えたと伝えられています。年貢米の免除や飢饉を乗り越えるための農民の助け合いの必要を説き、また薩摩芋の栽培を他の地先駆けて導入し領内に餓死者を一人も出さなかったと伝えられています。
 この様な功績を頌える碑が地元大田市はもとより鳥取県広島県の各地に500基以上建てられています。
 要修理箇所
 現在の井戸神社は大正5年に建築されて103年が経過しています。それ以来、本殿、拝殿の修繕などを行いましたが、本殿、拝殿は昭和15年社務所は昭和60年を最後に修繕を行っておらず各所に痛みが見られる状態となってまいりました。また平成30年4月9日震度5の地震に見舞われ倒壊は免れたものの大鳥居が危険な状態になり建て替えが必要となっています。現在大鳥居は取り壊し仮の注連柱が立っている状態です。(令和二年三月 新しい大鳥居が完成しました。)
 ご寄付のお願い
 井戸正朋公彰徳奉賛会
 会長 松場大吉
 ご寄付のお願い
 拝啓 時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。平素は井戸正朋公彰徳奉賛会に格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
 井戸平左衛門は享保十六年(1731)に一九代石見代官に任命されました。翌、享保十七年は、享保の大飢饉といわれる年で餓死者は12,000人にも及んだとされています。このような状況をみた平左衛門は自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入するとともに幕府の許可を待たず代官所米蔵を開いて飢人に米を与えたと伝えられています。年貢米の免除や飢饉を乗り越えるための農民の助け合いの必要を説き、また薩摩芋の栽培を他の地先駆けて導入し領内に餓死者を一人も出さなかったと伝えられています。この様な功績を頌える碑が地元大田市はもとより鳥取県広島県の各地に500基以上建てられています。
 井戸神社は、この井戸公をお祀りする神社で明治12年に創建され大正5年に現在の地に移され再建されました。鳥居の扁額は勝海舟が自筆のものです。再建にあたっては、地元はもとより桂太郎総理大臣はじめ各国務大臣、財界からは渋沢栄一などの有力者からの寄付が寄せられました。
 現在の井戸神社は大正5年に建築されて103年が経過しています。それ以来、本殿、拝殿の修繕などを行いましたが、本殿、拝殿は昭和15年社務所は昭和60年を最後に修繕を行っておらず各所に痛みが見られる状態となってまいりました。また平成30年4月9日震度5地震に見舞われ倒壊は免れたものの大鳥居が危険な状態になり建て替えが必要となっています。現在大鳥居は取り壊し仮の注連柱が立っている状態です。
 井戸神社は、井戸公に対し崇尊敬慕の誠を效さんとして創建されたものです。井戸正朋公彰徳奉賛会は、これを継承し祭司や施設の維持を行っていくものです。
この度、前述しましたように神社を修繕する必要が生じ、それには多大な費用が必要となります。
 つきましては井戸正朋公彰徳奉賛会の趣旨をご理解いただき、ご寄付を賜わりたく、ここにお願い申し上げる次第でございます。
      敬具
 ご寄附のお申込み
 必要事項をご記入のうえご寄附申込書を郵送またはFAXでお送り下さい。
 郵送:〒694-0305 島根県大田市大森町ハ183
 石見銀山生活文化研究所内 井戸正明公奉賛会
 FAX:0854-89-0180
 申込書
 ご寄付振込先
 山陰合同銀行 大森出張所(店番261) 普通口座 口座番号:2000273
 井戸正明公奉賛会 代表者 松場弘之
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JA.com
 ゛いも代官"と呼ばれた人 井戸平左衛門
 2017年12月10日
 【童門 冬二(歴史作家)】
◆六十歳で代官に
 徳川幕府は、「徳川家の政府」であって、日本国民の政府ではない。徳川家も一大名だ。したがって、藩と呼ばれる各大名家とも、行政や財政は別立だった。江戸城にある幕府の中に「勘定所」というのがある。勘定奉行が責任者だ。これは、「徳川家の財政を管理する役所」である。徳川家には、「天領」と呼ばれる直轄地が日本全国に散在していた。この直轄領を管理するのが「代官」だ。しかし、その管理する直轄領は、何万石にものぼる。たとえば、九州の大分県日田にあった「日田代官所」の領域は、十五万石平均であり時には二十万石を超えたという。大名にすれば、中級大名に匹敵する。したがって、代官にはそれだけの能力が要求された。
 中には、今もテレビで全国を旅している水戸黄門水戸藩徳川光圀)の眼光に射竦まれて、その悪事を暴かれ供をする助さん格さんにぶっ飛ばされたり、叩き斬られたりする悪代官がいるが、すべての代官が悪事を働いていたわけではない。中には、善政を行なって住民たちから感謝され、後に顕彰碑を建てられた名代官も沢山いる。今回書く井戸平左衛門はその代表だ。農民たちに愛され゛いも代官゛と呼ばれた。
 井戸平左衛門は、寛文十一(一六七一)年に、幕府の御徒役野中重吉の長男として生まれた。しかし元禄五(一六九二)年二十一歳の時に、勘定役(現在の財務省の幹部)井戸正和の養子になった。すぐ養父が死んだのでその後を継いだ。最初は、表大番の番士に任命されが、元禄十五年九月に勘定役に昇進した。以後、平左衛門は勘定所に務めて真面目に職責を全うした。かれは、
 「勘定所の模範的役人である」
 と言われ、三十年その役を務めた。享保十六(一七三一)年には、褒美の小判を二枚もらって表彰された。六十歳になっていた。平左衛門も、
 「十分徳川家に尽くした。そろそろ隠居しよう」
 と考えて、そのことを上司の勘定奉行に申し出た。勘定奉行も、
 「長年御苦労だった、これからは悠々自適して隠居生活を楽しめ」
 と応じたが、それがそうは行かなくなった。それは突然平左衛門に、
 「大森代官を命ずる」という辞令が出たからである。平左衛門はびっくりした。六十歳にもなった老年で、いまさら遠い大森代官所島根県石見銀山を管理する役所)に赴くなどとは、夢にも思わなかった。しかし現在の代官が、悪事を働いて銀の増産を図ろうとしたために、住民の年貢負担を非常に重くした。怨んだ住民たちが、謀反を起こして代官所を襲い悪代官を殺してしまったのだそうだ。幕府首脳部は、
 「功を急いで前代官は農民に殺されたが、これはやり方がまずかった。やはり代官所では、住民の模範になるような誠実で真面目な人物が相応しい」と定めた。その会議に列席していた江戸町奉行大岡忠相が、
 「後任には井戸平左衛門がよろしかろう」
 と進言した。大岡も人物だけに日頃から平左衛門の誠実な勤務ぶりを知っていたのである。この話を聞いて平左衛門は感動し、
 「名奉行の大岡様が推薦してくださったのなら、断るわけにはいかない」
 と考えて、遠く島根の大森代官所に赴任した。享保十六年十月三日のことである。
◆飢民への決断
 赴任して驚いた。というのは、住民たちが沿道に群れを成して待ち構えていたからである。勿論平左衛門の評判を事前に聞いて、
 「前の悪代官とはちがって、今度は立派な方がお代官様としておいでになる」という評判を立てていたのである。だから、出迎えた住民たちの眼は期待に輝いていた。老年になった平左衛門は、
 「この人々の期待に応えることを、自分の最後の仕事として仕上げていこう」と決意した。彼は赴任した翌日から、領域内を積極的に歩き回った。草鞋履きで一戸一戸の住民の生活状態を見極めた。そして、
 「この地域の人々は相当に貧しい」と感じた。そこでかれは持ってきた私財を全部投げ出し、同時に、領内に住む富む農家に、
 「義援金を頼む」と言って募金をし、自分の金に合わせて他国から安い米や雑穀を買い入れた。そして、暮らしに困っている窮民たちに配給した。前代官の悪事は、必ずしも代官一人が行ったわけではない。代官所にも心を合わせた者がいた。しかし平左衛門はクビにすることなく、
 「二度と行わないように。われわれは、住民の収める年貢で食っているのだから」と戒めた。こういう努力が、次第に住民たちに伝わり、
 「やはり評判通りの名代官様だ」と言われるようになった。享保十七年に、「中国・西国の餓死者十万九千人」と記録されている大飢饉が襲った。大森代官所の管理下でも飢民が増えた。他の役人なら手を挙げて「どうしようもない」と泣き言を漏らすだろうが、平左衛門はそんなことはしなかった。かれは状況を見て決断した。それは、
 「飢饉は広い範囲に亘って起っている。他国から食料を買うことはできない。その地域も困っているからだ」と考え、自分が預かっている代官所米蔵に眼を着けた。かれは、
 「独断でこれを開いて、窮民に分けよう」と決意したのである。もちろん幕府の米蔵を開くことは、幕府の許可がいる。しかし、江戸城の上司に許可を求めていたのでは、一か月も二か月もかかる。その間に、どんどん窮民が死んでゆく。そんなことはできない。平左衛門は自分の決断で、米蔵を開けるように部下に命令をした。部下はびっくりした。
 「そんなことをしたら、とんでもないことになりますよ。お代官様が大変なお咎めを受けます」と心配した。しかし平左衛門は、
 「承知の上だ。安心して開けなさい」と、にっこり笑いながら命令をした。この決断によって、大森代官所管内の人々は飢えを救われた。この嵐が吹き去った後、平左衛門は、
「米や麦だけに頼っていたのではこういう時に食糧が足りなくなる。代替食が必要だ」
 と考えた。丁度近くの寺に薩摩から来た遊行僧が滞在していた。平左衛門と気が合った。 平左衛門が、
 「米の替りになるような農産物がありませんか」と訊くと、その遊行僧は、
 「ありますよ。薩摩では、芋を栽培して米の替りに食べています」と言った。平左衛門は目を輝かせ、
 「お願いです。その芋の種をここに送ってはいただけませんか」と言った。遊行僧は承知した。やがて送られて来た種イモを、平左衛門は各村の長を呼んで配分した。栽培方法も遊行僧から聞いたことを教えた。芋はこの地方に根付いた。そして管内だけでなく、出雲・因幡隠岐長門・周防・備後などへにも広がって行った。しかし、無断で代官所米蔵を開けた罪は、
 「幕命に背く反逆行為である」とされて、平左衛門は代官をクビになり、幕府から「追って沙汰する」と言われた。すでに覚悟していた平左衛門は、追ってもたらされる沙汰を待たずに潔く切腹した。住民たちはその死を惜しんだ。現在でも、゛いも代官"と呼ばれたかれの顕彰碑が実に百数十もこの地方に建てられているという。それも幕末になって突然変異のようにあちこちで碑が建てられた。これはおそらく、幕末の大森代官が悪代官で、それを咎める意味もあって、住民たちが殊更に゛いも代官"の平左衛門を改めて顕彰し直したのだろうと伝えられている。 (挿絵)大和坂 和司」
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 笠岡市
 代官 井戸平左衛門の墓
 代官 井戸平左衛門の墓(だいかん いどへいざえもんのはか)
 市指定 史跡
 所在地 : 笠岡市笠岡 威徳寺境内 /所有者 : 威徳寺
 指定年月日 : 昭和49年7月30日
 寛文12年(1672)~ 享保18年(1733)
 井戸平左衛門正明は、世に「いも代官」と呼ばれた名代官である。享保16年(1731)、60歳にして石見国大森の代官に任命され、翌17年、備中国笠岡代官を兼務する。時に西日本一帯はウンカの大発生によって未曾有の大飢饉となっていた。平左衛門は事態が一刻を争うと判断して、幕府の命令を待たずに独断で陣屋の蔵を開き「米はらい」をしたといわれる。また、被害の大きな村々の年貢を減免した。さらに、やせ地でもとれる食物として甘藷(サツマイモ)を導入して、飢饉をしのいだ。これらの優れた施策によって、井戸代官の支配地からは、ひとりの餓死者も出さなかったと伝えられる。享保18年(1733)5月、笠岡で病死。各地に数百基の顕彰碑が立てられた。墓は笠岡の曹洞宗威徳寺にある。墓前に立つ2基の石灯籠は、笠岡と石見国大森の村人が寄進したもの。
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 島根県邑南町の城跡
 邑南町の歴史的観光スポット
  ここでは、当サイト管理人の城跡訪問の余談や、覚え書きなどを記しています。
◆石見の恩人「芋代官」こと井戸平左衛門正明の石碑
 邑南町の各地に建てられた石碑の中でも、特に目につくのが芋塚と呼ばれる「井戸正明代官の碑」です。
 多くが「井戸君」「井戸正明君」と刻まれ、最初見た時はどこの井戸君の墓かね?と思いますが、これは江戸時代に石見銀山領の代官を努めた井戸平左衛門正明の功績を讃える石碑なのです。
邑南町矢上・諏訪神社の井戸正明顕彰碑
(大正10年造立)
 井戸正明は寛文12年(1672)に幕府御徒役・野中八右衛門重吉の子として江戸に生まれました。
 その後、勘定役・井戸平左衛門正和の養子となり、勘定役として各地の政務を勤め、享保16年(1731)に石見銀山領大森代官の任命を受けました。この時、正明は60歳。還暦を迎えての代官任命は異例のことで、これは大岡越前守忠相の推挙があったとも伝えられます。それほど有能な人物でした。
 井戸平左衛門は石見に着任しますが、この時の西日本は深刻な飢饉に見舞われていました。
 江戸四大飢饉の一つに数えられる「享保の大飢饉」です。この頃は長雨が続き冷夏となり、ウンカなど害虫の大発生で稲は実らず、悲惨な状況にありました。
 井戸正明は代官着任早々、この飢饉窮乏の為の施策に駆け回る事なります。
 そんな中、大森町栄泉寺にて諸国行脚の雲水・泰永から「薩摩国では凶作でも飢死する者はない」と聞きます。つまり「甘藷」と呼ばれる「サツマイモ」の存在を知ります。
 井戸はさっそくサツマイモの入手を試みます。
 当時の薩摩藩は厳しい鎖国体制を取っており、薩摩藩内の産物を他国へ持ち出すことは厳禁でした。そこを苦辛の末、甘藷百斤(約60キロ)を手に入れます。
 さっそく石見銀山領内にて種芋を分配し栽培を始めますが、季節が遅かった為にほとんどが失敗します。
 そんな中、釜野浦(温泉津町福光)の老農・松浦屋輿兵衛が試作と貯蔵に成功し、かろうじて種芋を残すことができました。これが元となり、石見銀山領内だけでなく、石見地域各地にサツマイモ栽培が広まり、飢餓にあえぐ農民を救う事になったのです。
 これは甘藷先生と呼ばれる青木昆陽が試作に成功し、将軍徳川吉宗に献上したことよりも3年も前のことでした。
 サツマイモの入手が何とかできたものの、異常気象とウンカの大発生は続き、凶作は続いていました。
 幕府も畿内より西での救護政策を行いますが、窮困する農民たちは絶え切れずに、浜田など各地で一揆が勃発します。
 この非常事態に、井戸正明は幕府の許可を待たずして独断で代官所の蔵米を農民に分け与えました。
 更に年貢を大幅に減らし、大胆な人民救済の措置を取ります。人命を守るためとはいえ、幕命を待たずして行動を起こしたことは、当時とすれば正に切腹もので、井戸自身も相当の覚悟を持って行ったと伝えられています。
 このおかげで、石見銀山領内では一揆騒動も起こることなく、一人の餓死者も出さなかったといいます。
 『徳川実記』によると、全国で「餓死者96万9900人」とあるほど壮絶な大飢饉だった訳ですが、代官・井戸正明の取った行動は大いに讃えられるべきことでした。
 その井戸自身、長年の過労から病に倒れ、兼務していた備中笠岡の陣屋にて亡くなりました。享保18年、正明62歳でした。
 飢饉にあえぐ石見の地に、青木昆陽よりも早くサツマイモをもたらし、貧民救済の為に自分の命を犠牲にする覚悟で善政を敷いた井戸正明の功績を讃え、その後各地で石碑が建てられ始めました。
 それは石見地域全域から鳥取県の弓ケ浜半島まで分布し、果ては隠岐島まで総数四百を超えると言われます。
 最古は江津市太田の文化4年(1807)のもので、邑南町各所にも、明治・大正にかけて建てられた石碑が多く存在します。秋になると、収穫した芋を供えて井戸氏の恩を偲んだそうです。旧石見町内で最古のものは、中野長円寺にある石碑といわれますが、刻まれている年代は「享保十八年五月二十八日」と井戸正明が亡くなった日になっているので、詳細は不明です。
 思うに、石見の恩人として讃える為もあったでしょうが、相当後の時期になっての建立には、やはりその時その時の政治への不満表明の意味もあったのではないでしょうか。
 参考文献:『人づくり風土記 32』発行:農山漁村文化協会 1994
(2014年2月)」
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✨3)─2─昭和天皇に対する無条件降伏はトロッコ問題・救命ボートの選択である。~No.11 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 昭和天皇は、神の裔・国家元首・最高軍司令官・最終決定権者として退位して逃げず、日本国と日本国民を救う為に一人で敵軍司令部に赴き敵軍の総司令官マッカーサーに会い、自ら進んで全ての責任を引き受けると申し出た。
 昭和天皇戦争犯罪者ではなく、戦争責任も戦争犯罪も存在しない。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人の日本人である。
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 連合国の無条件降伏要求は、戦時国際法の上位法とされた。
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 無条件降伏とは。
 勝者・強者は、戦争勝利者の権利が認められ、敗者・弱者の生殺与奪の全権が与えられた。
 敗者・弱者は、戦争敗北者として如何なる権利も求められず、勝者・強者の命令を絶対服従として受け入れた。
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 連合国は、無条件降伏要求で、枢軸国に対し統治者・国家元首・最高軍司令官・最終決定権者の引き渡しを命じた。
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 無条件降伏を要求した相手とは、敵国の政府と軍部ではなく、敵国の国民である。
 敵国民に、統治者・政府・軍隊の為に殺されるか、生き残る為に統治者・政府・軍隊を引き渡すかである。
 その好例が、ロシア革命である。
 ロシアの人民は、ニコライ二世とその家族を人民裁判で惨殺しロマノフ王朝を廃絶して第一次世界大戦から離脱し、ロシア共産党レーニン政権を選び、共産主義の虐殺を黙過した。
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 イタリア国民は、ムッソリーニと愛人と部下をリンチ処刑し公開の場で逆さまに吊し、降伏してファシズム・イタリア政権を打倒した。
 イタリア国民は、クーデターで政権を奪ったムッソリーニが首相になる事を認めた。
 イタリア国王はムッソリーニの処刑後に国外亡命し、イタリア王国はイタリア国民によって滅びた。
 敗戦国イタリアは、連合国に参加し日本に宣戦布告して、戦勝国の一員として日本から賠償金を奪った。
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 ナチス・ドイツは、ヒトラーと愛人は自殺し遺体はガソリンで焼かれて灰となり、ナチ政権は崩壊した。
 ヒトラーは、ワイマール憲法(1919年制定)による選挙で国民に選ばれた正当性な総統であった。
 現代ドイツは、ホロコーストを含む全ての非人道的戦争犯罪ヒトラーとナチ党に押しつけてる事で免罪符を得て逃げ、ヒトラーとナチ党に好意的な発言をする事を法律で禁じた。
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 ドイツと同盟し枢軸国陣営で戦った諸国の国家元首は、自国民に見捨てられ戦争犯罪者として処刑された。
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 昭和天皇は、国民の選挙ではなく、国民の承認にでもなく、生まれ持った血筋・血統を根拠として即位した世襲制君主である。
 天皇制度における血統・皇統の正統性は、国民が定めた憲法や法律ではなく、数千年前から継承された民族中心神話を根拠とする神の子孫・神の裔であった。
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 日本の政府は、昭和天皇一人の命及び皇室の存続か、それとも日本国民約7,000万人の命の何れかを選ぶように命じられた。
 昭和天皇は、国家元首であり、最高軍司令官であり、そして最終決定権者であった。
 キリスト教会も共産主義者も、約7,000万人の命を救う為に昭和天皇の死と天皇制度の廃絶を目指していた。
 日本政府と軍部は、昭和天皇の命と地位そして天皇制度の存続お為に日本国民を犠牲にする事を決断した。
 日本民族日本人は、国民として国家の決定を受け入れ、死を覚悟して戦った。
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 日本民族日本人は、人助けを「情けは人の為ならず」を信条として行い、感謝や報酬を期待してはいなかし要求もしなかった。
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 無条件降伏は、勝者・強者が犯した全ての戦争犯罪を正当行為として認めた。
 その例が、東京裁判アメリカ、ソ連(ロシア人共産主義者)、中国などの連合国が日本人と日本国に行った非人道的戦争行為は裁かず、現代においても世界平和と世界正義の観点から無罪とされている。
 そして、昭和天皇と日本軍部・日本陸軍が自己犠牲的に行った人道貢献は否定された。
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 数万人のポーランドユダヤ人難民を保護、黄河揚子江の氾濫で数百万人の中国人被災者を救助、河南省で1,000万人以上の中国飢餓民を救援、インフルエンザ・チフスコレラ・ペストなどの疫病から数十万人の中国人感染者を救護、その他。
 歴史的な人道貢献が、靖国神社の心・精神・志であった。
 昭和天皇と日本軍部・日本陸軍A級戦犯達は人道貢献に関与していた。
 ポーランド知日派として日本に感謝している。
 中国は反日派敵日派として、日本に感謝せず、その逆で敵意を剥き出しにし半狂乱となって日本人に罵詈雑言を浴びせている。
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 日本軍部は、シベリア出兵時にロシア人避難学童やポーランド戦争孤児を戦場から助け出し、無償で安全なヨーロッパ地域に送り届けていた。
 ポーランドは日本に感謝して親日派となったが、ロシアは反日派として日本に感謝しなかった。
 ロシア人共産主義者は、逃げ惑う日本人避難民(主に女性や子供)を大量虐殺した。
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 昭和天皇は、祭祀王・最高位祭祀者として、国家元首として、最高軍司令官として、歴史上唯一、原爆・核兵器を大量無差別虐殺兵器として猛反対し、研究・開発・製造の中止を厳命した。
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 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、マルクス主義系学者、護憲派人権派、左翼・左派・ネットサハ、反戦平和市民団体、反天皇反日的日本人達は「無条件降伏派」として、「昭和天皇一人の命を犠牲にして約7,000万人の日本国民の命を救うべきだった」と主張している。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 2割の日本人は、昭和天皇を守る為に進んで戦った。
 5割の日本人は、時代の空気、社会の空気圧力・同調圧力によって「いやいや」戦った。
 3割の日本人は、平和の為に戦争に反対し、兵役拒否で逃げ回るか逮捕され刑務所に収監された。
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 人を助けるいい日本人が2割、
 人を殺す悪い日本人が3割、
 人を殺さないが人を助けもせず何もせず立ち去り、いい人間でも悪い人間でもないただ傍観するだけの好感度を気にする日本人が5割。
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 世界で、日本は信用され、日本人は愛されている、はウソである。
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 日本には三竦みとして三の極があり、私利私欲で俗に塗れた政治権力と宗教権威、そして浄く清明で冒してはならない天皇の御威光(日本の心・志・精神・御稜威・大御心)であった。
 熱狂的天皇主義者・勤皇派・尊皇派は、差別され蔑まされ嫌われていた身分卑しく貧しい日本民族日本人で、彼らは自己犠牲的に命を捨て敵を殺しても天皇・皇族、皇室を守ろうとした。
 彼らとは、下級武士、貧しい庶民(百姓・町人)、馬鹿にされた芸能の民(歌舞伎役者・旅芸人・曲芸師・傀儡師・虚無僧・その他)、蔑視された賤民(非人・穢多・河乞食)、差別された部落民(山の民・川の民・海の民)などである。
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 現代日本には、武士・サムライはいないし、百姓もいない。
 現代日本人は、武士・サムライの子孫でもないし、百姓の子孫でもない。
 現代日本の社会には、日本文化の残骸のみが転がっていて、日本文化は生きていない。
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 ウィキペディア
 無条件降伏(unconditional surrender)とは、普通には軍事的意味で使用され、軍隊または艦隊が兵員・武器一切を挙げて条件を付することなく敵の権力に委ねることを言う。

 概要
 降伏の条件が予め取り決められていない場合は無条件降伏であるが、“戦勝国が提示した条件に何ら条件をつけずして降伏した”場合も、一般には「無条件降伏」と言う。無条件降伏の宣明は、原則として戦争終結に際し一切の和平交渉を拒否するものである。

 主な事例
 ペロポネソス戦争
 ペロポネソス戦争(紀元前431年-紀元前404年)の紀元前416年にメロスがアテナイ軍の攻撃を受け、陥落した。その際、メロスは市民の処遇をアテナイ側に全面的に任せるという条件で降伏し、その結果成人男子全員が処刑され、女子供は奴隷にされた。
 詳細は「メロス包囲戦」を参照
 ディアドコイ戦争
 古代マケドニア時代、アレクサンドロス3世急逝後その配下の将軍たちが大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って繰り広げた戦争の末期、講和を申し出たカッサンドロスに対しアンティゴノス1世が降伏を要求。これが戦争継続と帝国分裂の最終的な要因となった。
 詳細は「ディアドコイ戦争」を参照

 東欧枢軸国の降伏問題
 1943年11月1日のモスクワ宣言において、無条件降伏の対象はドイツ、イタリア、日本だけでなく、それと同盟関係にある諸国にも適用されることが明確化された。しかし11月のテヘラン会談において、スターリンチャーチルに対し、無条件降伏原則が敵の団結を招くだけであると批判し、その修正を求めた。ルーズベルト自身やソ連の関係者は否定しているが、イギリスの外務省はこの発言がルーズベルトにも伝わったとしている。ソ連やイギリスの反応を見たハルは、英ソと無条件降伏の定義について協議することを提案した。しかしルーズベルトは無条件降伏原則を改めることはなく、その意味について連合国間で協議することも拒否した。
 1944年、イギリスは東欧枢軸国(ルーマニア王国ブルガリア王国、ハンガリー王国フィンランド)を無条件降伏の対象から外すことを提案した。これをうけたハルは3月25日に、ルーズベルトにこれらの国を無条件降伏原則から外すよう提案した。しかしルーズベルトは例外を設けるべきではないと反論し、一切妥協しなかった。
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 トロッコ問題(英: trolley problem)あるいはトロリー問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。
 フィリッパ・フットが1967年に提起し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソン 、フランセス・キャム、ピーター・アンガーなどが考察を行った。人間は一体どのように倫理・道徳的なジレンマを解決するかについて知りたい場合は、この問題は有用な手がかりとなると考えられており、道徳心理学、神経倫理学では重要な論題として扱われている。また(人工知能による自動運転が実現しつつある現在)自動運転車(公共交通の自動運転車両も含む)のAIは衝突が避けられない状況にも遭遇するであろうし、そうなれば何らかの判断もしなければなくなるわけだが、このトロッコ問題は、そうした自動運転車のAIを設計する際に、どのような判断基準を持つように我々は設計すべきなのか、ということの(かなり現実的、実際的な)議論も提起している、と公共政策の研究者は言う。
 なお、以下で登場する「トロッコ」は路面電車を指しており、人力によって走らせる手押し車と混同しないように注意されたい。

 類似したジレンマ
 トロッコ問題と類似した以下のようなジレンマを考える事ができる。こうしたジレンマは、功利主義か義務論かと言う議論ではトロッコ問題と大きな違いがない。しかし人の道徳判断にどのようなパラメータが関与しているのかを明らかにしようとしている道徳心理学と神経倫理学では重要な違いである。

 ・あなたはボートで5人の溺れた人を助けに向かっている。しかし途中で溺れている一人の人を発見した。その人を助けていれば5人はその間に溺れ死んでしまう。その人を助けて5人を諦めるべきか?
 ・病院に5人の患者がいて、それぞれが異なる臓器の移植を必要としている。そこに臓器はいずれも健康な患者が現れた。彼を殺して臓器を移植すれば5人を助けることができる。彼を殺して内臓を取り出すべきか?(臓器くじ)
また、自動運転車の実現可能性が高まってることもあり、自動運転車とトロッコ問題を絡めた研究が行われている。
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 YAHOO! JAPAN ニュース
 コロナ禍で考えてみた「トロッコ問題」 4人の賢者の答え
 4/28(火) 16:05配信
 NEWS ポストセブン
 『エチカの時間』が描くトロッコ問題
 トリアージの問題を例に挙げるまでもなく、新型コロナウイルスの感染拡大により、世界は「倫理」に向き合うことを余儀なくされている。渋谷のスクランブル交差点付近で巨大鉄球が落下!250人と3人、あなたはどちらを助ける?──玉井雪雄氏がビッグコミックスペリオール小学館)で連載中のマンガ『エチカの時間』1stシーズン(単行本1、2集収録)のテーマである「トロッコ問題」は、圧倒的ジレンマの倫理学の思考実験だ。倫理は人類の知。ならば「トロッコ問題」に答えることは“100年に一度の脅威”克服にも通じるはずだ。4人の賢者に聞いた。
 【写真】最強のエリート・山口真由氏
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 【トロッコ問題とは?】
  1967年、哲学者フィリッパ・フットが発表した思考実験。線路を走っていたトローリー(路面電車、トロッコ)が制御不能になった。このままでは前方で作業中の5人が轢き殺されてしまう。このときあなたは線路の分岐器の側にいた。電車の進路を切り替えれば5人は助かる。しかし、別線路の先では1人が作業しており、切り替えれば5人の代わりに1人が犠牲になってしまう。あなたは別線路に電車を引き込むか、否か?  漫画『エチカの時間』では、巨大鉄球が渋谷のスクランブル交差点付近で落下し、250人を救うか、3人を救うかの選択を主人公達が迫られる。
●最強のエリート・山口真由氏の答え
(1983年生まれ。東京大学法学部を首席卒業。元財務官僚。ハーバード大学ロースクール留学。ニューヨーク州弁護士)
 法律家としては自分が直面した場合、法律の観点から判断するだろう。今回のケースのように第3者として選択の場面に出くわした場合、自分に何かの義務はない。ゆえに何もしないと250人の方に鉄球が突入するとしてもクレーンは動かすべきではないということになる。逆に動かすという積極判断により、3人に対する殺人罪に問われうる。たとえより多くの人命を救うための判断だとしても、法的な観点からは、結果は同様だ。ただ、250人の中に知人や家族がいた場合、感情で判断し3人を犠牲にしてしまうかもしれない。法律上は問題がある。限界状況でやむをえないとなれば、犯罪とならない可能性もないではないが…。
脳科学者・茂木健一郎氏の答え
(1962年生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学院理学系研究科修了。『脳と仮想』で第4回小林秀雄賞受賞)
 人工知能的な発想からは多数のために少数を犠牲にすることが合理的に思うが、人の脳はもっと複雑だ。まず「身体性」。トロッコ問題で、太った男を突き落としてトロッコを止めて多数を救うか、という問いでは一気に選ぶ人は減る。つまり、より身体を使うことに対してはためらいが生まれる。もう一つは「不確実性」の問題。必ずその結果になると保証できるのは全能の神だけ。犠牲を出さなくても助かる可能性もあれば、犠牲を出しても助からない可能性もある。脳はそんな不確実性の前に、簡単には割り切れない。故に私の答えは「その場面にならないと分からない」。
愛国者・古谷経衡氏の答え
(1982年生まれ。評論家。座右の銘は「常在戦場」。基本スタンスは「自由主義者かつ愛国者」。近著に『愛国商売』『愛国奴』)
 1人殺すより5人殺す方が嫌だとかよく言うけれど、1人でも5人でも命は命、5人より1人の方が死人が少なくていいという考え方は納得できない。1人が犠牲になったことで5人の命を救ったというのは、アングロサクソン的なものの考え方で、日本人には馴染まないと思う。アメリカの原爆投下の考え方がまさにそれで、広島、長崎に原爆を落とすことで戦争を早く止めて、結果多くの人の命が助かったという理屈。でも、日本人だったら納得なんてできないのではないか。だから、漫画の設定の場合、僕の答えは、何もしない(250人のために3人を犠牲にしない)。
●人気ユーチューバー・しなこ氏の答え
(1996年生まれ。YouTuber(登録者16万人超)、TikToker(フォロワー70万人超)。中高生に大ヒットのグッズを続々プロデュース)
 自分が通りすがりだったら、関わりたくないし、実際その場に居合わせたら行動できないと思う(漫画の設定だとクレーンを動かすことはできない)。でももし本来のトロッコ問題で自分がトロッコに乗っていたら、少数を犠牲にして多数を助ける選択をすると思う。大学では心理学を学んだが、「最大多数の最大幸福」という功利主義的な考え方をするのではないだろうか。ただ、どちらかに知人や友人がいたら、そちらを救う。自分にとっては知っている人かどうか、大切な人かどうかがかなり選択を左右すると思う。
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 「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会
 「岩国トロッコ問題」が露呈した本音
 PRESIDENT Online
 御田寺 圭
 文筆家・ラジオパーソナリティー
 5人を助けられるのなら、1人を犠牲にしてもいいのか。この思考実験「トロッコ問題」を取り上げた山口県の小中学校が謝罪に追い込まれた。その理由は保護者からの「授業で不安を感じている」という指摘だという。文筆家の御田寺圭氏は「ケチがつくことには挑戦してはならないという、現代社会を象徴している」と分析する――。
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 {たった数名の「授業に不安を感じている」で謝罪
 山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。
 (中略)
 授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。しかし、児童の保護者が6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で数人の児童が不安を訴えた。
毎日新聞「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」岩国の小中学校が保護者に謝罪」2019年9月29日より引用)}

 数百人を相手にした授業で、たった数名から「不安に感じている」といった訴えがあったことによって謝罪をする――まさに現代社会の教育現場を象徴する出来事のようだ。こんなことで謝罪をしなければならないのであれば、体育や音楽や算数など、他の授業で不安を覚えた生徒など山ほどいるはずだが、それらもすべて謝罪して回るのだろうか。
「ある人を助けるなら、別の人を犠牲にしてもよいか」
さておき、「トロッコ問題」とは倫理学における思考実験のひとつであり「ある人を助けるためであれば、別の人を犠牲にしてもよいのだろうか?」を問うものである。著名な政治哲学者であるマイケル・サンデルが「正義」についての考察において引用したことで、世界的に広く知られるようになった。簡単に解説しよう。

 {線路を走っている一台のトロッコが制御不能に陥ってしまい、このまま進めば向かった先で作業をしている5人がトロッコにひき殺されてしまう。
あなたは偶然にも、トロッコが走る線路の分岐切り替えレバーの近くにいる。レバーを倒してトロッコの線路を切り替えれば5人は助かるが、切り替えた先にも1人の作業員がいる。5人を助けるためなら1人を犠牲にしてもよいのだろうか。あるいはこのままにするべきなのだろうか。}

 レバーを切り替えるか、何もしないか……

 大人たちが出した答えは「現場から立ち去る」
「ある人が生きるためには別の人の死がともなうが、それは許されるのか?」という問いは古くから存在する。紀元前200年代に活躍した、古代ギリシャの哲学者であるカルネアデスも同じような問題を提起した――「難破した舟の壊れた舟板にしがみついた人が、別の人がしがみつこうとしたのを突き飛ばした。なぜならその人がしがみついていた舟板はふたりがしがみつけば沈んでしまう程度のものだったからだ。彼は生還後、罪には問われなかったが、果たしてそれはただしかったのだろうか?」と。この問題は現代でも「カルネアデスの舟板」として広く知られる思考実験である。
 この問題はカルネアデスの逸話だけでなく、類似のバリエーションがさまざまに存在しており、敷衍して実社会における倫理的・道徳的判断を広く問うものとして長らく議論されてきたテーマのひとつである。
 世の倫理学者や政治哲学者たちが侃々諤々と議論を続け、あるいはインターネットではインテリたちが「トロッコのレバーを真ん中にすればトロッコが脱線して全員助かる」などと大喜利をしているなか、意図せずして岩国の保護者と学校教員たちのやりとりが、トロッコ問題の「答え」を導き出してしまった。ほんの数名の「不安の表明」によって謝罪させられる教員たちから得るべきトロッコ問題の答えとは「現場から立ち去る」ことだ
 「ただしいこと」の追求より「リスクの回避」
 トロッコのレバーに触れる行為は、たとえ5人を救った英雄になれる決断であったとしても、必ずひとりの遺族には終生恨まれることになるものだ。「どうしてレバーを倒したのか」と。だが、レバーに触らなければ、さらに言えば一切関与せずにその場を立ち去れば「無関係な人」になれる。無関係な立場であれば、けっして英雄にはなれないかもしれないが、殺人者として恨まれるようなこともない。明日もきっと、いつもと変わらぬ穏やかな日々が待っていることだろう。
 今回の事例でいえば「トロッコ問題」などという思考実験を授業中に提起さえしなければ、「問題」や「クレーム」が発生することもなかった。「物事の当事者になる」という選択肢を回避しさえすれば「責任」が問われるようなこともなかったのだ。たとえ大勢にとって有意義な学びの機会が提供できたとしても、ごく少数者が(「不安」を覚えて)犠牲になるのであれば、当然ながらその代償は発生する。場合によっては犠牲を出したことの責めを負うことになる。
 たとえ動機がどのようなものであれ「ただしいこと」を追求するのではなく、だれかから「ただしくない」と論難・非難されるリスクを回避することに全精力を投入せよ――それが「トロッコ問題」から考えるべき答えだ。
 少しでもケチがつくなら、最初から挑戦しない
 岩国の学校教員の方々は、残念ながら「授業でトロッコ問題を扱う」という決断をした時点でトロッコのレバーに触れてしまったことになる。
 多くの子供たちには「人間社会における倫理的判断の難しさと社会正義の複雑な構造を学ぶ機会」を提供できたかもしれない。しかし同時に、少数の子供やその親からは「子供たちへ不安やストレスをいたずらに与える加害者」という誹りを免れ得なくなった。この社会では多くの善なることを成したとしても、ひとつでも汚点があればそれらの功績は帳消しにされてしまう。「よかれと思って」などという動機はほとんど斟酌されない。
 レバーには触れるな。なにもせずその場から立ち去れ。当事者になるな。「無関係な人」になれ――それが紀元前から繰り返されてきた問題に対して、現代社会が用意した解答だ。
 この件――名付けるのであれば「岩国トロッコ問題」とでもいうべきだろうか――は、この社会でなぜ停滞が起き、技術的革新がことごとく反対・規制され、才能ある若者が続々と海外へと流出するのかをメタ的かつ端的に示した思考実験のようである。「少しでもケチがつくのであれば、チャレンジしてはならない」というメッセージが伝わってくる。「不安なもの」の排除は社会の停滞を招く
 「トロッコ問題」に限らず、多くの人びとにとって、新奇性や画期性のあるものは「気持ち悪い」ものである。不安感や不快感を惹起するものである。子供たちにとってはなおさらだ。それでもあえて、子供たちには未知なる問いを立てていく意義がある。しかしながら、教える側が「加害者」にされてしまうくらいであれば、現場レベルでは「毒にも薬にもならないこと」だけを淡々と伝えていくことのインセンティブが最大化されるだろう。
 一方で自分にとってなじみのないもの、異様に見えるものと接触したときに生じる生理的な不安感や不快感は、人間をひとつの動物として捉えたときには合理的な側面を持つ。個としては非力であり、集団生活を営まなければならなかった人間にとって、集団の同質性が維持されることには一定の合理性があった。人間の集団内における「異質性」とか「新奇性」を恐れ、排除することによって自分たちのグループの安定性が担保され、生存の可能性が高まると期待されたからだ。
 「トロッコのレバーに触れないことが推奨される社会」は、不安感や不快感を誘発しない快適なものばかりが目に入るし、身の危険を感じさせない穏やかな暮らしが続くだろう。生きていくにはおおよそ不自由のない社会かもしれない。だがそれは最新の知見や技術を拒否し、社会が停滞する可能性と表裏一体でもある。緩やかにだが着実に、社会から活力や創造性が失われていく。
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 ダ・ヴィンチニュース
 5人を助けるために1人を殺すことは許されるのか? ”トロッコ問題”で考える「正義」とは?
{「正義」は決められるのか?
著: トーマス カスカート 翻訳: 小川 仁志 監訳, 高橋 璃子 出版社: かんき出版 発売日: 2015/11/11}
 10月3日はイギリスの女性哲学者フィリッパ・フットの誕生日にして命日である。1920年10月3日に生まれ、2010年10月3日に90歳で人生を終えた律儀な彼女が世に投げかけたのが「トロッコ問題」だ。
 「トロッコ問題」とは――「暴走する路面電車の前方に5人の作業員がいる。このままいくと電車は5人をひき殺してしまう。一方、電車の進路を変えて退避線に入れば、その先にいる1人の人間をひき殺すだけで済む。どうすべきか?」……つまり「5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるのか?」という問題である。※(電車は止められず、線路上の人たちは逃げられない状況とする)
 1967年――今から約50年前、イギリスの哲学者フィリッパ・フットが考案した思考実験は、雑誌に掲載されると大反響を呼び、一大ブームとなった。
 さらに、フットは「5人の病人を救うために、1人の健康な人間を殺して血清を作るのと何が違うのか?」と問うた。1人を犠牲にして5人を救うとき、暴走電車の場合は正当な行為だと感じ、血清の場合は不当だと感じる。この「倫理的ジレンマ」は、長年にわたり 議論が続いている。2009年には、ハーバード大学マイケル・サンデル教授の『白熱教室』 でも取り上げられたのは、記憶に新しい。(日本語版『白熱教室』の放送は2010年)
 また、昨今では、就活のグループディスカッションでもトロッコ問題が用いられることもあるので、一度はこの問題の本質に触れておきたい。
 人々の議論の根底にある「正義」とはなんなのか? 考えれば考えるほどにわからなくなるこの「トロッコ問題」をストーリー仕立てで教えてくれるのが、『「正義」は決められるのか?』(トーマス・カスカート:著、小川仁志:監訳、高橋璃子:訳/かんき出版)だ。
 舞台は2015年のサンフランシスコ。路面電車の進路を切り替えて5人の命を救った女性が、待避線にいた1人を殺した容疑で裁判にかけられる。
 最初は、5人を救ったヒロインとされた女性が殺人犯として起訴されたことで、「トロッコ問題」の答え=「正義」は陪審員である一般市民たちに委ねられる。
 弁護士や検察官による主張、新聞記事やラジオ番組といったマスコミでの扱い、大学の教授たちの井戸端会議などの語り口で、トロッコ問題は発展していく。
 {5人の重病人を救うために「健康な1人の臓器を分け与えて死に至らしめた医師は許されるか?」「歩道橋の上から1人を突き落として電車を止めるのは?」「出産すれば死んでしまう妊婦を救うために胎児を中絶するのは許されるか?」}
 ある場合は「善」で、ある場合は「悪」と感じるのはなぜか? そして、裁判の末、陪審員が出した答えは!?――これが、本書の「あらすじ」だ。
 ドキュメンタリー風に視点が変わり、議論も時には揚げ足取りの応酬のようにも見えるので、読み進めるうちに少々混乱する。その上、5人を救うために1人を救うことは正義か否かという評決の内容は最後まで明示されない。読者の多くは「えっ、どっちなの?」と消化不良に陥ることだろう。
 だが、監訳の小川仁志氏 による巻末の解説を読めば、本書ではトロッコ問題を「3つのステップ」で語ろうとしていることが見えてくる。そのステップとは以下のようになる。
(1)「正義」を数で決められるのか?
(2)手段によって「正義」は変わるのか?
(3)対象が誰かによって「正義」は変わるのか?
(1)は「5人を救うために電車の進路を変えた」場合。アンケートでは89%の人が「正しい」と答えた。より大きな善が得られるほうを正しいと判断する「功利主義」の考え方だ。しかし、そこに異議を投げかけるのがドイツの哲学者イマヌエル・カントの「義務論」だ。義務論では「人は手段ではなく、目的であるべき」で、「人の権利を尊重せよ」と考える。多くの人を救うためであっても、その手段として人を殺すのは「正しくない」となる。そこで議論は(2)へ進む。
 「5人を救うために健康な1人を死なせて臓器を与える」や「太った人を橋の上から 落として電車を止める」場合に、人は「手段として問題がある」と感じる。
 トマス・アクィナスのいう「二重結果論」においては、「道徳的によい行為がたまたま悪い結果を生むのは仕方がないが、よい結果を得るためにわざわざ悪い行動をとるべきではない」と考える。殺人という行為を正当化するのは、人間心理的に難しい、というわけである。そこで、ステップは(3)へ。
 犠牲になる1人、あるいは助かった5人のうちの誰かが「自分の身内だったら」どうだろうか? また、本書内に例示されている「親の遺産で暮らす大金持ちの白人」と「貧しい移民の清掃員」だったら判断は同じだろうか?
 3ステップ目のキーワードは「利他主義」だ。「他者の利益のために行動する」という利他主義では、「常に他者を助けるという判断をする」ため、自分が犠牲になる場合も含めて、相手が誰かによって区別せずに助けなくてはならない。
 しかし、ニーチェの考え方では「それは健全ではない」という反論が生まれる。いくら利他主義でも、家族が1人で待避線にいるのなら、5人を犠牲にしてでも家族を救おうとするほうが健全である、と。
 こうしたステップを経ることで「倫理的な問題に対し、なんとなくではなく、一貫した論理をもって 結論付ける」ことが大切なのだと、小川氏は言う。原発問題、安保問題にもこれらは当てはまるし、あなたが裁判員に選ばれた場合にも役立つだろう。
 そして、気になる結論は――「5人のために1人を犠牲にするのは間違いである」
 あなたの「正義」が導き出した答えは?
 文=水陶マコト
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