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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
武士・サムライは、自分の心・志・信念を貫く為ならば、主君の上意・上司の命令・時代の雰囲気に逆らっても実行した。
象徴的な日本人は、杉原千畝である。
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2020年8月17日 産経WEST「全国に石碑500基超の偉人「いも代官」と先人の熱血調査
「いも代官」と呼ばれた井戸平左衛門の肖像画(井戸神社所蔵)
江戸時代、サツマイモ栽培を奨励して飢餓から住民を救い「いも代官」と親しまれた役人がいる。世界遺産、石見(いわみ)銀山遺跡がある石見国大森(島根県大田市)の代官だった井戸平左衛門(いど・へいざえもん)=1672~1733年。その功績をたたえて建てられた頌徳碑(しょうとくひ)は、中国地方4県で500基以上あるといわれ、一人の役人としては異例の多さだ。同市文化協会は、その碑の全容を明らかにしようと5月、公的機関では初めて本格的な調査に乗り出した。
享保の大飢饉
平左衛門は、江戸時代中期の享保16(1731)年、60歳で大森代官に着任。翌年の享保の大飢饉(ききん)では、被害に応じて年貢米を免除したり減免したりしたほか、幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開いて住民に米を与えたという。
一方、当時薩摩国(鹿児島県)からの持ち出しが禁止されていたサツマイモを入手し、栽培を奨励した。サツマイモは石見国から島根県北東の島根半島や鳥取県西部の弓ケ浜半島に伝わり、飢餓から多くの住民を救ったとされている。これが「いも代官」の由来だ。
平左衛門の大森代官の在任期間は2年だったが、死後、功績をたたえて各地に碑が建てられた。
住民が建立
ただ、その広がり方が尋常ではない。たとえば地元の島根県。平左衛門をまつる井戸神社(大田市大森町)の境内には市内にある平左衛門の碑を紹介する看板があるが、そこには市内だけで約100基もの所在が記されている。
さらに島根県だけにとどまらず、鳥取県、広島県、岡山県へと拡大。建てられた年代も江戸時代から平成までと幅広い。大田市文化協会は「食糧難の時代に恩を再確認して石碑を建てる動きが広がったのではないか」と推測する。碑の台石の多くに住民が力を合わせて建てたことを示す「當村中」の文字が刻まれているのも特徴という。
一方、その碑の数は「全国に100基以上」「たくさんある」といわれながら長く判然としなかった。そこに立ち上がったのが、ある農家の男性だった。
ある農家の男性の思い
各地にある平左衛門の碑を調査したのは、大田市内で農業を営んでいた故・宮本豊さん(享年81)。昭和50年から15年以上をかけて1人で調べた。
市文化協会によると、宮本さんは、自宅近くの寺の無縁墓の一角に、傷みが激しい平左衛門の碑の塔身があるのに心を痛め、「誰かが調べないと碑がなくなってしまう」と行動に移した。
各地の図書館や公民館、資料館などで文献を調べて碑の所在地を確認。農閑期を利用して一基一基を訪ね、写真を撮影したり、刻まれた文字や寸法などを記録したりした。管理されていない碑を見つけると、周辺の草刈りもした。
宮本さんの調査で明らかになった碑の総数は530基。うち現地調査した碑は465基になる。
碑の全容解明へ
今回の市文化協会の調査は宮本さんの調査を補完し、全容解明につなげるのが狙いだ。
NPO法人石見銀山協働会議(大田市)の補助金を活用。今年5月、同市を除いた中国地方の全106市町村と県内の寺院、神社の計1287カ所に文書を送付し、情報提供を求めた。
7月末までに回答があったのは、80自治体と、寺院・神社が564カ所。写真や地図を同封した回答もあった。同協会ではこれまでに計493基を確認していたが、新たに22基の存在が分かった。
この過程でもう一つ判明したのが、宮本さんの調査の正確さ。調査漏れはほとんどなく、完璧に近いことを裏付ける結果になったという。同協会の石賀了会長は「情報がない中、あらゆる手を尽くして調査されたと思う。頭が下がる」と話す。
碑は、建ててから100年以上が経過したものが多く、老朽化が進む。文字の記載がなく、口頭でのみ平左衛門の碑と伝わっているものもあり、記録しないと将来、誰のものか分からなくなる恐れがあるという。
今後は調査結果を報告書にまとめる一方、個票に記録する作業を進める。
「井戸さんはもちろん、碑を通して、功績を伝えようとした先人たちも立派」と石賀会長。「サツマイモのおかげで祖先が命をつなげて今があることを、若い人たちに伝えたい」と話している。」
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ウィキペディア
井戸 正明(寛文12年(1672年) - 享保18年5月26日(1733年7月7日)は、江戸時代中期の幕臣、大森代官、笠岡代官。享保の大飢饉の際に石見銀山領を中心とする窮民救済のため数々の施策を講じた。なお、その名については「正明」とする文献が多いが、「正朋」とする文献もあり一致していない(なお、この点につき昭和47年版の島根県編『島根県誌』第8巻661頁では享保18年の遺言状などを根拠に「正朋」が正しいとしている)。石見地方などでは通称の「平左衛門」のほうが一般的であり、今日でも正明は「芋代官」あるいは「芋殿様」と呼ばれ慕われている。
略歴
寛文12年(1672年)に御徒役・野中八右衛門重貞(重吉とも)の子として江戸で生まれ、元禄5年(1692年)に幕府勘定役の井戸平左衛門正和の養子となる。正和の死後遺跡を継ぎ小普請役に組み込まれ、元禄10年(1697年)に表火番、元禄15年(1702年)に御勘定に昇進。勘定所における長きにわたる忠勤が認められ、享保16年(1731年)9月13日、60歳にして第19代大森代官に着任し天領の銀山領6万石を支配した。直後に笠岡代官(現・岡山県笠岡市)も兼務。
この年、享保の大飢饉による領内の窮状を目の当たりにし、領民たちを早急に救うため幕府の許可を待たず年貢の減免、年貢米の放出、商人から寄付金を募り、さらに官金や私財の投入などを断行した。翌享保17年(1732年)4月、正明は石見国大森地区(島根県大田市)の栄泉寺で薩摩国の僧である泰永からサツマイモ(甘藷)が救荒食物として適しているという話を聞き、種芋を移入した。その年に種付けを試みたが、種付けの時期が遅かったことなどもあって期待通りの成果は得られなかった。しかしながら、邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛が収穫に成功する。栽培に成功した理由として、領内出身(現・江津市渡津町)の医師の青木秀清が蘭方医学を学びに長崎に留学し、サツマイモの栽培法を習得し持ち帰ったという話も伝わる。また、栽培の普及には井戸の手代の伊達金三郎の活躍もあったと伝わる。
その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり、多くの領民を救った。この功績により正明は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられ、今日まで顕彰されるに至っている。
享保18年(1733年)、大森代官職を解かれ、同年5月26日、備中笠岡の陣屋で死去した。死因については、救荒対策の激務から過労により病死したとする説と、救荒対策のために幕府の許可を待たず独断で年貢米の放出などを断行したことに対する責任から切腹したとする説の二つがあるという。墓所は笠岡の威徳寺にある(岡山県笠岡市)。正明の死後、石見地方を中心に近隣各地さらには益田市沖の高島にまでも頌徳碑(芋塚)が建てられた。大田市大森町には正明を祀る井戸神社がある。
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井戸神社
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井戸神社の創建
井戸神社は、井戸平左衛門公をお祀りする神社です。明治12年に創建され大正5年に現在の地に移され再建されました。鳥居の扁額は勝海舟が自筆のものです。再建にあたっては、地元はもとより桂太郎総理大臣はじめ各国務大臣、財界からは渋沢栄一などの有力者からの寄付が寄せられました。
井戸平左衛門
井戸平左衛門は享保十六年(1731)に一九代石見代官に任命されました。翌、享保十七年は、享保の大飢饉といわれる年で餓死者は12,000人にも及んだとされています。このような状況をみた平左衛門は自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入するとともに幕府の許可を待たず代官所の米蔵を開いて飢人に米を与えたと伝えられています。年貢米の免除や飢饉を乗り越えるための農民の助け合いの必要を説き、また薩摩芋の栽培を他の地先駆けて導入し領内に餓死者を一人も出さなかったと伝えられています。
この様な功績を頌える碑が地元大田市はもとより鳥取県、広島県の各地に500基以上建てられています。
要修理箇所
現在の井戸神社は大正5年に建築されて103年が経過しています。それ以来、本殿、拝殿の修繕などを行いましたが、本殿、拝殿は昭和15年、社務所は昭和60年を最後に修繕を行っておらず各所に痛みが見られる状態となってまいりました。また平成30年4月9日震度5の地震に見舞われ倒壊は免れたものの大鳥居が危険な状態になり建て替えが必要となっています。現在大鳥居は取り壊し仮の注連柱が立っている状態です。(令和二年三月 新しい大鳥居が完成しました。)
ご寄付のお願い
井戸正朋公彰徳奉賛会
会長 松場大吉
ご寄付のお願い
拝啓 時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。平素は井戸正朋公彰徳奉賛会に格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
井戸平左衛門は享保十六年(1731)に一九代石見代官に任命されました。翌、享保十七年は、享保の大飢饉といわれる年で餓死者は12,000人にも及んだとされています。このような状況をみた平左衛門は自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入するとともに幕府の許可を待たず代官所の米蔵を開いて飢人に米を与えたと伝えられています。年貢米の免除や飢饉を乗り越えるための農民の助け合いの必要を説き、また薩摩芋の栽培を他の地先駆けて導入し領内に餓死者を一人も出さなかったと伝えられています。この様な功績を頌える碑が地元大田市はもとより鳥取県、広島県の各地に500基以上建てられています。
井戸神社は、この井戸公をお祀りする神社で明治12年に創建され大正5年に現在の地に移され再建されました。鳥居の扁額は勝海舟が自筆のものです。再建にあたっては、地元はもとより桂太郎総理大臣はじめ各国務大臣、財界からは渋沢栄一などの有力者からの寄付が寄せられました。
現在の井戸神社は大正5年に建築されて103年が経過しています。それ以来、本殿、拝殿の修繕などを行いましたが、本殿、拝殿は昭和15年、社務所は昭和60年を最後に修繕を行っておらず各所に痛みが見られる状態となってまいりました。また平成30年4月9日震度5の地震に見舞われ倒壊は免れたものの大鳥居が危険な状態になり建て替えが必要となっています。現在大鳥居は取り壊し仮の注連柱が立っている状態です。
井戸神社は、井戸公に対し崇尊敬慕の誠を效さんとして創建されたものです。井戸正朋公彰徳奉賛会は、これを継承し祭司や施設の維持を行っていくものです。
この度、前述しましたように神社を修繕する必要が生じ、それには多大な費用が必要となります。
つきましては井戸正朋公彰徳奉賛会の趣旨をご理解いただき、ご寄付を賜わりたく、ここにお願い申し上げる次第でございます。
敬具
ご寄附のお申込み
必要事項をご記入のうえご寄附申込書を郵送またはFAXでお送り下さい。
郵送:〒694-0305 島根県大田市大森町ハ183
石見銀山生活文化研究所内 井戸正明公奉賛会
FAX:0854-89-0180
申込書
ご寄付振込先
山陰合同銀行 大森出張所(店番261) 普通口座 口座番号:2000273
井戸正明公奉賛会 代表者 松場弘之
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JA.com
゛いも代官"と呼ばれた人 井戸平左衛門
2017年12月10日
【童門 冬二(歴史作家)】
◆六十歳で代官に
徳川幕府は、「徳川家の政府」であって、日本国民の政府ではない。徳川家も一大名だ。したがって、藩と呼ばれる各大名家とも、行政や財政は別立だった。江戸城にある幕府の中に「勘定所」というのがある。勘定奉行が責任者だ。これは、「徳川家の財政を管理する役所」である。徳川家には、「天領」と呼ばれる直轄地が日本全国に散在していた。この直轄領を管理するのが「代官」だ。しかし、その管理する直轄領は、何万石にものぼる。たとえば、九州の大分県日田にあった「日田代官所」の領域は、十五万石平均であり時には二十万石を超えたという。大名にすれば、中級大名に匹敵する。したがって、代官にはそれだけの能力が要求された。
中には、今もテレビで全国を旅している水戸黄門(水戸藩主徳川光圀)の眼光に射竦まれて、その悪事を暴かれ供をする助さん格さんにぶっ飛ばされたり、叩き斬られたりする悪代官がいるが、すべての代官が悪事を働いていたわけではない。中には、善政を行なって住民たちから感謝され、後に顕彰碑を建てられた名代官も沢山いる。今回書く井戸平左衛門はその代表だ。農民たちに愛され゛いも代官゛と呼ばれた。
井戸平左衛門は、寛文十一(一六七一)年に、幕府の御徒役野中重吉の長男として生まれた。しかし元禄五(一六九二)年二十一歳の時に、勘定役(現在の財務省の幹部)井戸正和の養子になった。すぐ養父が死んだのでその後を継いだ。最初は、表大番の番士に任命されが、元禄十五年九月に勘定役に昇進した。以後、平左衛門は勘定所に務めて真面目に職責を全うした。かれは、
「勘定所の模範的役人である」
と言われ、三十年その役を務めた。享保十六(一七三一)年には、褒美の小判を二枚もらって表彰された。六十歳になっていた。平左衛門も、
「十分徳川家に尽くした。そろそろ隠居しよう」
と考えて、そのことを上司の勘定奉行に申し出た。勘定奉行も、
「長年御苦労だった、これからは悠々自適して隠居生活を楽しめ」
と応じたが、それがそうは行かなくなった。それは突然平左衛門に、
「大森代官を命ずる」という辞令が出たからである。平左衛門はびっくりした。六十歳にもなった老年で、いまさら遠い大森代官所(島根県の石見銀山を管理する役所)に赴くなどとは、夢にも思わなかった。しかし現在の代官が、悪事を働いて銀の増産を図ろうとしたために、住民の年貢負担を非常に重くした。怨んだ住民たちが、謀反を起こして代官所を襲い悪代官を殺してしまったのだそうだ。幕府首脳部は、
「功を急いで前代官は農民に殺されたが、これはやり方がまずかった。やはり代官所では、住民の模範になるような誠実で真面目な人物が相応しい」と定めた。その会議に列席していた江戸町奉行の大岡忠相が、
「後任には井戸平左衛門がよろしかろう」
と進言した。大岡も人物だけに日頃から平左衛門の誠実な勤務ぶりを知っていたのである。この話を聞いて平左衛門は感動し、
「名奉行の大岡様が推薦してくださったのなら、断るわけにはいかない」
と考えて、遠く島根の大森代官所に赴任した。享保十六年十月三日のことである。
◆飢民への決断
赴任して驚いた。というのは、住民たちが沿道に群れを成して待ち構えていたからである。勿論平左衛門の評判を事前に聞いて、
「前の悪代官とはちがって、今度は立派な方がお代官様としておいでになる」という評判を立てていたのである。だから、出迎えた住民たちの眼は期待に輝いていた。老年になった平左衛門は、
「この人々の期待に応えることを、自分の最後の仕事として仕上げていこう」と決意した。彼は赴任した翌日から、領域内を積極的に歩き回った。草鞋履きで一戸一戸の住民の生活状態を見極めた。そして、
「この地域の人々は相当に貧しい」と感じた。そこでかれは持ってきた私財を全部投げ出し、同時に、領内に住む富む農家に、
「義援金を頼む」と言って募金をし、自分の金に合わせて他国から安い米や雑穀を買い入れた。そして、暮らしに困っている窮民たちに配給した。前代官の悪事は、必ずしも代官一人が行ったわけではない。代官所にも心を合わせた者がいた。しかし平左衛門はクビにすることなく、
「二度と行わないように。われわれは、住民の収める年貢で食っているのだから」と戒めた。こういう努力が、次第に住民たちに伝わり、
「やはり評判通りの名代官様だ」と言われるようになった。享保十七年に、「中国・西国の餓死者十万九千人」と記録されている大飢饉が襲った。大森代官所の管理下でも飢民が増えた。他の役人なら手を挙げて「どうしようもない」と泣き言を漏らすだろうが、平左衛門はそんなことはしなかった。かれは状況を見て決断した。それは、
「飢饉は広い範囲に亘って起っている。他国から食料を買うことはできない。その地域も困っているからだ」と考え、自分が預かっている代官所の米蔵に眼を着けた。かれは、
「独断でこれを開いて、窮民に分けよう」と決意したのである。もちろん幕府の米蔵を開くことは、幕府の許可がいる。しかし、江戸城の上司に許可を求めていたのでは、一か月も二か月もかかる。その間に、どんどん窮民が死んでゆく。そんなことはできない。平左衛門は自分の決断で、米蔵を開けるように部下に命令をした。部下はびっくりした。
「そんなことをしたら、とんでもないことになりますよ。お代官様が大変なお咎めを受けます」と心配した。しかし平左衛門は、
「承知の上だ。安心して開けなさい」と、にっこり笑いながら命令をした。この決断によって、大森代官所管内の人々は飢えを救われた。この嵐が吹き去った後、平左衛門は、
「米や麦だけに頼っていたのではこういう時に食糧が足りなくなる。代替食が必要だ」
と考えた。丁度近くの寺に薩摩から来た遊行僧が滞在していた。平左衛門と気が合った。 平左衛門が、
「米の替りになるような農産物がありませんか」と訊くと、その遊行僧は、
「ありますよ。薩摩では、芋を栽培して米の替りに食べています」と言った。平左衛門は目を輝かせ、
「お願いです。その芋の種をここに送ってはいただけませんか」と言った。遊行僧は承知した。やがて送られて来た種イモを、平左衛門は各村の長を呼んで配分した。栽培方法も遊行僧から聞いたことを教えた。芋はこの地方に根付いた。そして管内だけでなく、出雲・因幡・隠岐・長門・周防・備後などへにも広がって行った。しかし、無断で代官所の米蔵を開けた罪は、
「幕命に背く反逆行為である」とされて、平左衛門は代官をクビになり、幕府から「追って沙汰する」と言われた。すでに覚悟していた平左衛門は、追ってもたらされる沙汰を待たずに潔く切腹した。住民たちはその死を惜しんだ。現在でも、゛いも代官"と呼ばれたかれの顕彰碑が実に百数十もこの地方に建てられているという。それも幕末になって突然変異のようにあちこちで碑が建てられた。これはおそらく、幕末の大森代官が悪代官で、それを咎める意味もあって、住民たちが殊更に゛いも代官"の平左衛門を改めて顕彰し直したのだろうと伝えられている。 (挿絵)大和坂 和司」
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笠岡市
代官 井戸平左衛門の墓
代官 井戸平左衛門の墓(だいかん いどへいざえもんのはか)
市指定 史跡
所在地 : 笠岡市笠岡 威徳寺境内 /所有者 : 威徳寺
指定年月日 : 昭和49年7月30日
寛文12年(1672)~ 享保18年(1733)
井戸平左衛門正明は、世に「いも代官」と呼ばれた名代官である。享保16年(1731)、60歳にして石見国大森の代官に任命され、翌17年、備中国笠岡代官を兼務する。時に西日本一帯はウンカの大発生によって未曾有の大飢饉となっていた。平左衛門は事態が一刻を争うと判断して、幕府の命令を待たずに独断で陣屋の蔵を開き「米はらい」をしたといわれる。また、被害の大きな村々の年貢を減免した。さらに、やせ地でもとれる食物として甘藷(サツマイモ)を導入して、飢饉をしのいだ。これらの優れた施策によって、井戸代官の支配地からは、ひとりの餓死者も出さなかったと伝えられる。享保18年(1733)5月、笠岡で病死。各地に数百基の顕彰碑が立てられた。墓は笠岡の曹洞宗威徳寺にある。墓前に立つ2基の石灯籠は、笠岡と石見国大森の村人が寄進したもの。
このページに関するお問い合わせ先
生涯学習課
〒714-0081 岡山県笠岡市笠岡1866-1
文化係
Tel:0865-69-2155
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島根県邑南町の城跡
邑南町の歴史的観光スポット
ここでは、当サイト管理人の城跡訪問の余談や、覚え書きなどを記しています。
◆石見の恩人「芋代官」こと井戸平左衛門正明の石碑
邑南町の各地に建てられた石碑の中でも、特に目につくのが芋塚と呼ばれる「井戸正明代官の碑」です。
多くが「井戸君」「井戸正明君」と刻まれ、最初見た時はどこの井戸君の墓かね?と思いますが、これは江戸時代に石見銀山領の代官を努めた井戸平左衛門正明の功績を讃える石碑なのです。
邑南町矢上・諏訪神社の井戸正明顕彰碑
(大正10年造立)
井戸正明は寛文12年(1672)に幕府御徒役・野中八右衛門重吉の子として江戸に生まれました。
その後、勘定役・井戸平左衛門正和の養子となり、勘定役として各地の政務を勤め、享保16年(1731)に石見銀山領大森代官の任命を受けました。この時、正明は60歳。還暦を迎えての代官任命は異例のことで、これは大岡越前守忠相の推挙があったとも伝えられます。それほど有能な人物でした。
井戸平左衛門は石見に着任しますが、この時の西日本は深刻な飢饉に見舞われていました。
江戸四大飢饉の一つに数えられる「享保の大飢饉」です。この頃は長雨が続き冷夏となり、ウンカなど害虫の大発生で稲は実らず、悲惨な状況にありました。
井戸正明は代官着任早々、この飢饉窮乏の為の施策に駆け回る事なります。
そんな中、大森町栄泉寺にて諸国行脚の雲水・泰永から「薩摩国では凶作でも飢死する者はない」と聞きます。つまり「甘藷」と呼ばれる「サツマイモ」の存在を知ります。
井戸はさっそくサツマイモの入手を試みます。
当時の薩摩藩は厳しい鎖国体制を取っており、薩摩藩内の産物を他国へ持ち出すことは厳禁でした。そこを苦辛の末、甘藷百斤(約60キロ)を手に入れます。
さっそく石見銀山領内にて種芋を分配し栽培を始めますが、季節が遅かった為にほとんどが失敗します。
そんな中、釜野浦(温泉津町福光)の老農・松浦屋輿兵衛が試作と貯蔵に成功し、かろうじて種芋を残すことができました。これが元となり、石見銀山領内だけでなく、石見地域各地にサツマイモ栽培が広まり、飢餓にあえぐ農民を救う事になったのです。
これは甘藷先生と呼ばれる青木昆陽が試作に成功し、将軍徳川吉宗に献上したことよりも3年も前のことでした。
サツマイモの入手が何とかできたものの、異常気象とウンカの大発生は続き、凶作は続いていました。
幕府も畿内より西での救護政策を行いますが、窮困する農民たちは絶え切れずに、浜田など各地で一揆が勃発します。
この非常事態に、井戸正明は幕府の許可を待たずして独断で代官所の蔵米を農民に分け与えました。
更に年貢を大幅に減らし、大胆な人民救済の措置を取ります。人命を守るためとはいえ、幕命を待たずして行動を起こしたことは、当時とすれば正に切腹もので、井戸自身も相当の覚悟を持って行ったと伝えられています。
このおかげで、石見銀山領内では一揆騒動も起こることなく、一人の餓死者も出さなかったといいます。
『徳川実記』によると、全国で「餓死者96万9900人」とあるほど壮絶な大飢饉だった訳ですが、代官・井戸正明の取った行動は大いに讃えられるべきことでした。
その井戸自身、長年の過労から病に倒れ、兼務していた備中笠岡の陣屋にて亡くなりました。享保18年、正明62歳でした。
飢饉にあえぐ石見の地に、青木昆陽よりも早くサツマイモをもたらし、貧民救済の為に自分の命を犠牲にする覚悟で善政を敷いた井戸正明の功績を讃え、その後各地で石碑が建てられ始めました。
それは石見地域全域から鳥取県の弓ケ浜半島まで分布し、果ては隠岐島まで総数四百を超えると言われます。
最古は江津市太田の文化4年(1807)のもので、邑南町各所にも、明治・大正にかけて建てられた石碑が多く存在します。秋になると、収穫した芋を供えて井戸氏の恩を偲んだそうです。旧石見町内で最古のものは、中野長円寺にある石碑といわれますが、刻まれている年代は「享保十八年五月二十八日」と井戸正明が亡くなった日になっているので、詳細は不明です。
思うに、石見の恩人として讃える為もあったでしょうが、相当後の時期になっての建立には、やはりその時その時の政治への不満表明の意味もあったのではないでしょうか。
参考文献:『人づくり風土記 32』発行:農山漁村文化協会 1994
(2014年2月)」
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