✨3)─2─昭和天皇に対する無条件降伏はトロッコ問題・救命ボートの選択である。~No.11 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 昭和天皇は、神の裔・国家元首・最高軍司令官・最終決定権者として退位して逃げず、日本国と日本国民を救う為に一人で敵軍司令部に赴き敵軍の総司令官マッカーサーに会い、自ら進んで全ての責任を引き受けると申し出た。
 昭和天皇戦争犯罪者ではなく、戦争責任も戦争犯罪も存在しない。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人の日本人である。
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 連合国の無条件降伏要求は、戦時国際法の上位法とされた。
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 無条件降伏とは。
 勝者・強者は、戦争勝利者の権利が認められ、敗者・弱者の生殺与奪の全権が与えられた。
 敗者・弱者は、戦争敗北者として如何なる権利も求められず、勝者・強者の命令を絶対服従として受け入れた。
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 連合国は、無条件降伏要求で、枢軸国に対し統治者・国家元首・最高軍司令官・最終決定権者の引き渡しを命じた。
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 無条件降伏を要求した相手とは、敵国の政府と軍部ではなく、敵国の国民である。
 敵国民に、統治者・政府・軍隊の為に殺されるか、生き残る為に統治者・政府・軍隊を引き渡すかである。
 その好例が、ロシア革命である。
 ロシアの人民は、ニコライ二世とその家族を人民裁判で惨殺しロマノフ王朝を廃絶して第一次世界大戦から離脱し、ロシア共産党レーニン政権を選び、共産主義の虐殺を黙過した。
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 イタリア国民は、ムッソリーニと愛人と部下をリンチ処刑し公開の場で逆さまに吊し、降伏してファシズム・イタリア政権を打倒した。
 イタリア国民は、クーデターで政権を奪ったムッソリーニが首相になる事を認めた。
 イタリア国王はムッソリーニの処刑後に国外亡命し、イタリア王国はイタリア国民によって滅びた。
 敗戦国イタリアは、連合国に参加し日本に宣戦布告して、戦勝国の一員として日本から賠償金を奪った。
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 ナチス・ドイツは、ヒトラーと愛人は自殺し遺体はガソリンで焼かれて灰となり、ナチ政権は崩壊した。
 ヒトラーは、ワイマール憲法(1919年制定)による選挙で国民に選ばれた正当性な総統であった。
 現代ドイツは、ホロコーストを含む全ての非人道的戦争犯罪ヒトラーとナチ党に押しつけてる事で免罪符を得て逃げ、ヒトラーとナチ党に好意的な発言をする事を法律で禁じた。
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 ドイツと同盟し枢軸国陣営で戦った諸国の国家元首は、自国民に見捨てられ戦争犯罪者として処刑された。
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 昭和天皇は、国民の選挙ではなく、国民の承認にでもなく、生まれ持った血筋・血統を根拠として即位した世襲制君主である。
 天皇制度における血統・皇統の正統性は、国民が定めた憲法や法律ではなく、数千年前から継承された民族中心神話を根拠とする神の子孫・神の裔であった。
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 日本の政府は、昭和天皇一人の命及び皇室の存続か、それとも日本国民約7,000万人の命の何れかを選ぶように命じられた。
 昭和天皇は、国家元首であり、最高軍司令官であり、そして最終決定権者であった。
 キリスト教会も共産主義者も、約7,000万人の命を救う為に昭和天皇の死と天皇制度の廃絶を目指していた。
 日本政府と軍部は、昭和天皇の命と地位そして天皇制度の存続お為に日本国民を犠牲にする事を決断した。
 日本民族日本人は、国民として国家の決定を受け入れ、死を覚悟して戦った。
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 日本民族日本人は、人助けを「情けは人の為ならず」を信条として行い、感謝や報酬を期待してはいなかし要求もしなかった。
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 無条件降伏は、勝者・強者が犯した全ての戦争犯罪を正当行為として認めた。
 その例が、東京裁判アメリカ、ソ連(ロシア人共産主義者)、中国などの連合国が日本人と日本国に行った非人道的戦争行為は裁かず、現代においても世界平和と世界正義の観点から無罪とされている。
 そして、昭和天皇と日本軍部・日本陸軍が自己犠牲的に行った人道貢献は否定された。
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 数万人のポーランドユダヤ人難民を保護、黄河揚子江の氾濫で数百万人の中国人被災者を救助、河南省で1,000万人以上の中国飢餓民を救援、インフルエンザ・チフスコレラ・ペストなどの疫病から数十万人の中国人感染者を救護、その他。
 歴史的な人道貢献が、靖国神社の心・精神・志であった。
 昭和天皇と日本軍部・日本陸軍A級戦犯達は人道貢献に関与していた。
 ポーランド知日派として日本に感謝している。
 中国は反日派敵日派として、日本に感謝せず、その逆で敵意を剥き出しにし半狂乱となって日本人に罵詈雑言を浴びせている。
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 日本軍部は、シベリア出兵時にロシア人避難学童やポーランド戦争孤児を戦場から助け出し、無償で安全なヨーロッパ地域に送り届けていた。
 ポーランドは日本に感謝して親日派となったが、ロシアは反日派として日本に感謝しなかった。
 ロシア人共産主義者は、逃げ惑う日本人避難民(主に女性や子供)を大量虐殺した。
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 昭和天皇は、祭祀王・最高位祭祀者として、国家元首として、最高軍司令官として、歴史上唯一、原爆・核兵器を大量無差別虐殺兵器として猛反対し、研究・開発・製造の中止を厳命した。
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 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、マルクス主義系学者、護憲派人権派、左翼・左派・ネットサハ、反戦平和市民団体、反天皇反日的日本人達は「無条件降伏派」として、「昭和天皇一人の命を犠牲にして約7,000万人の日本国民の命を救うべきだった」と主張している。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 2割の日本人は、昭和天皇を守る為に進んで戦った。
 5割の日本人は、時代の空気、社会の空気圧力・同調圧力によって「いやいや」戦った。
 3割の日本人は、平和の為に戦争に反対し、兵役拒否で逃げ回るか逮捕され刑務所に収監された。
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 人を助けるいい日本人が2割、
 人を殺す悪い日本人が3割、
 人を殺さないが人を助けもせず何もせず立ち去り、いい人間でも悪い人間でもないただ傍観するだけの好感度を気にする日本人が5割。
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 世界で、日本は信用され、日本人は愛されている、はウソである。
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 日本には三竦みとして三の極があり、私利私欲で俗に塗れた政治権力と宗教権威、そして浄く清明で冒してはならない天皇の御威光(日本の心・志・精神・御稜威・大御心)であった。
 熱狂的天皇主義者・勤皇派・尊皇派は、差別され蔑まされ嫌われていた身分卑しく貧しい日本民族日本人で、彼らは自己犠牲的に命を捨て敵を殺しても天皇・皇族、皇室を守ろうとした。
 彼らとは、下級武士、貧しい庶民(百姓・町人)、馬鹿にされた芸能の民(歌舞伎役者・旅芸人・曲芸師・傀儡師・虚無僧・その他)、蔑視された賤民(非人・穢多・河乞食)、差別された部落民(山の民・川の民・海の民)などである。
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 現代日本には、武士・サムライはいないし、百姓もいない。
 現代日本人は、武士・サムライの子孫でもないし、百姓の子孫でもない。
 現代日本の社会には、日本文化の残骸のみが転がっていて、日本文化は生きていない。
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 ウィキペディア
 無条件降伏(unconditional surrender)とは、普通には軍事的意味で使用され、軍隊または艦隊が兵員・武器一切を挙げて条件を付することなく敵の権力に委ねることを言う。

 概要
 降伏の条件が予め取り決められていない場合は無条件降伏であるが、“戦勝国が提示した条件に何ら条件をつけずして降伏した”場合も、一般には「無条件降伏」と言う。無条件降伏の宣明は、原則として戦争終結に際し一切の和平交渉を拒否するものである。

 主な事例
 ペロポネソス戦争
 ペロポネソス戦争(紀元前431年-紀元前404年)の紀元前416年にメロスがアテナイ軍の攻撃を受け、陥落した。その際、メロスは市民の処遇をアテナイ側に全面的に任せるという条件で降伏し、その結果成人男子全員が処刑され、女子供は奴隷にされた。
 詳細は「メロス包囲戦」を参照
 ディアドコイ戦争
 古代マケドニア時代、アレクサンドロス3世急逝後その配下の将軍たちが大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って繰り広げた戦争の末期、講和を申し出たカッサンドロスに対しアンティゴノス1世が降伏を要求。これが戦争継続と帝国分裂の最終的な要因となった。
 詳細は「ディアドコイ戦争」を参照

 東欧枢軸国の降伏問題
 1943年11月1日のモスクワ宣言において、無条件降伏の対象はドイツ、イタリア、日本だけでなく、それと同盟関係にある諸国にも適用されることが明確化された。しかし11月のテヘラン会談において、スターリンチャーチルに対し、無条件降伏原則が敵の団結を招くだけであると批判し、その修正を求めた。ルーズベルト自身やソ連の関係者は否定しているが、イギリスの外務省はこの発言がルーズベルトにも伝わったとしている。ソ連やイギリスの反応を見たハルは、英ソと無条件降伏の定義について協議することを提案した。しかしルーズベルトは無条件降伏原則を改めることはなく、その意味について連合国間で協議することも拒否した。
 1944年、イギリスは東欧枢軸国(ルーマニア王国ブルガリア王国、ハンガリー王国フィンランド)を無条件降伏の対象から外すことを提案した。これをうけたハルは3月25日に、ルーズベルトにこれらの国を無条件降伏原則から外すよう提案した。しかしルーズベルトは例外を設けるべきではないと反論し、一切妥協しなかった。
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 トロッコ問題(英: trolley problem)あるいはトロリー問題とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題・課題。
 フィリッパ・フットが1967年に提起し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソン 、フランセス・キャム、ピーター・アンガーなどが考察を行った。人間は一体どのように倫理・道徳的なジレンマを解決するかについて知りたい場合は、この問題は有用な手がかりとなると考えられており、道徳心理学、神経倫理学では重要な論題として扱われている。また(人工知能による自動運転が実現しつつある現在)自動運転車(公共交通の自動運転車両も含む)のAIは衝突が避けられない状況にも遭遇するであろうし、そうなれば何らかの判断もしなければなくなるわけだが、このトロッコ問題は、そうした自動運転車のAIを設計する際に、どのような判断基準を持つように我々は設計すべきなのか、ということの(かなり現実的、実際的な)議論も提起している、と公共政策の研究者は言う。
 なお、以下で登場する「トロッコ」は路面電車を指しており、人力によって走らせる手押し車と混同しないように注意されたい。

 類似したジレンマ
 トロッコ問題と類似した以下のようなジレンマを考える事ができる。こうしたジレンマは、功利主義か義務論かと言う議論ではトロッコ問題と大きな違いがない。しかし人の道徳判断にどのようなパラメータが関与しているのかを明らかにしようとしている道徳心理学と神経倫理学では重要な違いである。

 ・あなたはボートで5人の溺れた人を助けに向かっている。しかし途中で溺れている一人の人を発見した。その人を助けていれば5人はその間に溺れ死んでしまう。その人を助けて5人を諦めるべきか?
 ・病院に5人の患者がいて、それぞれが異なる臓器の移植を必要としている。そこに臓器はいずれも健康な患者が現れた。彼を殺して臓器を移植すれば5人を助けることができる。彼を殺して内臓を取り出すべきか?(臓器くじ)
また、自動運転車の実現可能性が高まってることもあり、自動運転車とトロッコ問題を絡めた研究が行われている。
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 YAHOO! JAPAN ニュース
 コロナ禍で考えてみた「トロッコ問題」 4人の賢者の答え
 4/28(火) 16:05配信
 NEWS ポストセブン
 『エチカの時間』が描くトロッコ問題
 トリアージの問題を例に挙げるまでもなく、新型コロナウイルスの感染拡大により、世界は「倫理」に向き合うことを余儀なくされている。渋谷のスクランブル交差点付近で巨大鉄球が落下!250人と3人、あなたはどちらを助ける?──玉井雪雄氏がビッグコミックスペリオール小学館)で連載中のマンガ『エチカの時間』1stシーズン(単行本1、2集収録)のテーマである「トロッコ問題」は、圧倒的ジレンマの倫理学の思考実験だ。倫理は人類の知。ならば「トロッコ問題」に答えることは“100年に一度の脅威”克服にも通じるはずだ。4人の賢者に聞いた。
 【写真】最強のエリート・山口真由氏
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 【トロッコ問題とは?】
  1967年、哲学者フィリッパ・フットが発表した思考実験。線路を走っていたトローリー(路面電車、トロッコ)が制御不能になった。このままでは前方で作業中の5人が轢き殺されてしまう。このときあなたは線路の分岐器の側にいた。電車の進路を切り替えれば5人は助かる。しかし、別線路の先では1人が作業しており、切り替えれば5人の代わりに1人が犠牲になってしまう。あなたは別線路に電車を引き込むか、否か?  漫画『エチカの時間』では、巨大鉄球が渋谷のスクランブル交差点付近で落下し、250人を救うか、3人を救うかの選択を主人公達が迫られる。
●最強のエリート・山口真由氏の答え
(1983年生まれ。東京大学法学部を首席卒業。元財務官僚。ハーバード大学ロースクール留学。ニューヨーク州弁護士)
 法律家としては自分が直面した場合、法律の観点から判断するだろう。今回のケースのように第3者として選択の場面に出くわした場合、自分に何かの義務はない。ゆえに何もしないと250人の方に鉄球が突入するとしてもクレーンは動かすべきではないということになる。逆に動かすという積極判断により、3人に対する殺人罪に問われうる。たとえより多くの人命を救うための判断だとしても、法的な観点からは、結果は同様だ。ただ、250人の中に知人や家族がいた場合、感情で判断し3人を犠牲にしてしまうかもしれない。法律上は問題がある。限界状況でやむをえないとなれば、犯罪とならない可能性もないではないが…。
脳科学者・茂木健一郎氏の答え
(1962年生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学院理学系研究科修了。『脳と仮想』で第4回小林秀雄賞受賞)
 人工知能的な発想からは多数のために少数を犠牲にすることが合理的に思うが、人の脳はもっと複雑だ。まず「身体性」。トロッコ問題で、太った男を突き落としてトロッコを止めて多数を救うか、という問いでは一気に選ぶ人は減る。つまり、より身体を使うことに対してはためらいが生まれる。もう一つは「不確実性」の問題。必ずその結果になると保証できるのは全能の神だけ。犠牲を出さなくても助かる可能性もあれば、犠牲を出しても助からない可能性もある。脳はそんな不確実性の前に、簡単には割り切れない。故に私の答えは「その場面にならないと分からない」。
愛国者・古谷経衡氏の答え
(1982年生まれ。評論家。座右の銘は「常在戦場」。基本スタンスは「自由主義者かつ愛国者」。近著に『愛国商売』『愛国奴』)
 1人殺すより5人殺す方が嫌だとかよく言うけれど、1人でも5人でも命は命、5人より1人の方が死人が少なくていいという考え方は納得できない。1人が犠牲になったことで5人の命を救ったというのは、アングロサクソン的なものの考え方で、日本人には馴染まないと思う。アメリカの原爆投下の考え方がまさにそれで、広島、長崎に原爆を落とすことで戦争を早く止めて、結果多くの人の命が助かったという理屈。でも、日本人だったら納得なんてできないのではないか。だから、漫画の設定の場合、僕の答えは、何もしない(250人のために3人を犠牲にしない)。
●人気ユーチューバー・しなこ氏の答え
(1996年生まれ。YouTuber(登録者16万人超)、TikToker(フォロワー70万人超)。中高生に大ヒットのグッズを続々プロデュース)
 自分が通りすがりだったら、関わりたくないし、実際その場に居合わせたら行動できないと思う(漫画の設定だとクレーンを動かすことはできない)。でももし本来のトロッコ問題で自分がトロッコに乗っていたら、少数を犠牲にして多数を助ける選択をすると思う。大学では心理学を学んだが、「最大多数の最大幸福」という功利主義的な考え方をするのではないだろうか。ただ、どちらかに知人や友人がいたら、そちらを救う。自分にとっては知っている人かどうか、大切な人かどうかがかなり選択を左右すると思う。
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 「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会
 「岩国トロッコ問題」が露呈した本音
 PRESIDENT Online
 御田寺 圭
 文筆家・ラジオパーソナリティー
 5人を助けられるのなら、1人を犠牲にしてもいいのか。この思考実験「トロッコ問題」を取り上げた山口県の小中学校が謝罪に追い込まれた。その理由は保護者からの「授業で不安を感じている」という指摘だという。文筆家の御田寺圭氏は「ケチがつくことには挑戦してはならないという、現代社会を象徴している」と分析する――。
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 {たった数名の「授業に不安を感じている」で謝罪
 山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。
 (中略)
 授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。しかし、児童の保護者が6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で数人の児童が不安を訴えた。
毎日新聞「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」岩国の小中学校が保護者に謝罪」2019年9月29日より引用)}

 数百人を相手にした授業で、たった数名から「不安に感じている」といった訴えがあったことによって謝罪をする――まさに現代社会の教育現場を象徴する出来事のようだ。こんなことで謝罪をしなければならないのであれば、体育や音楽や算数など、他の授業で不安を覚えた生徒など山ほどいるはずだが、それらもすべて謝罪して回るのだろうか。
「ある人を助けるなら、別の人を犠牲にしてもよいか」
さておき、「トロッコ問題」とは倫理学における思考実験のひとつであり「ある人を助けるためであれば、別の人を犠牲にしてもよいのだろうか?」を問うものである。著名な政治哲学者であるマイケル・サンデルが「正義」についての考察において引用したことで、世界的に広く知られるようになった。簡単に解説しよう。

 {線路を走っている一台のトロッコが制御不能に陥ってしまい、このまま進めば向かった先で作業をしている5人がトロッコにひき殺されてしまう。
あなたは偶然にも、トロッコが走る線路の分岐切り替えレバーの近くにいる。レバーを倒してトロッコの線路を切り替えれば5人は助かるが、切り替えた先にも1人の作業員がいる。5人を助けるためなら1人を犠牲にしてもよいのだろうか。あるいはこのままにするべきなのだろうか。}

 レバーを切り替えるか、何もしないか……

 大人たちが出した答えは「現場から立ち去る」
「ある人が生きるためには別の人の死がともなうが、それは許されるのか?」という問いは古くから存在する。紀元前200年代に活躍した、古代ギリシャの哲学者であるカルネアデスも同じような問題を提起した――「難破した舟の壊れた舟板にしがみついた人が、別の人がしがみつこうとしたのを突き飛ばした。なぜならその人がしがみついていた舟板はふたりがしがみつけば沈んでしまう程度のものだったからだ。彼は生還後、罪には問われなかったが、果たしてそれはただしかったのだろうか?」と。この問題は現代でも「カルネアデスの舟板」として広く知られる思考実験である。
 この問題はカルネアデスの逸話だけでなく、類似のバリエーションがさまざまに存在しており、敷衍して実社会における倫理的・道徳的判断を広く問うものとして長らく議論されてきたテーマのひとつである。
 世の倫理学者や政治哲学者たちが侃々諤々と議論を続け、あるいはインターネットではインテリたちが「トロッコのレバーを真ん中にすればトロッコが脱線して全員助かる」などと大喜利をしているなか、意図せずして岩国の保護者と学校教員たちのやりとりが、トロッコ問題の「答え」を導き出してしまった。ほんの数名の「不安の表明」によって謝罪させられる教員たちから得るべきトロッコ問題の答えとは「現場から立ち去る」ことだ
 「ただしいこと」の追求より「リスクの回避」
 トロッコのレバーに触れる行為は、たとえ5人を救った英雄になれる決断であったとしても、必ずひとりの遺族には終生恨まれることになるものだ。「どうしてレバーを倒したのか」と。だが、レバーに触らなければ、さらに言えば一切関与せずにその場を立ち去れば「無関係な人」になれる。無関係な立場であれば、けっして英雄にはなれないかもしれないが、殺人者として恨まれるようなこともない。明日もきっと、いつもと変わらぬ穏やかな日々が待っていることだろう。
 今回の事例でいえば「トロッコ問題」などという思考実験を授業中に提起さえしなければ、「問題」や「クレーム」が発生することもなかった。「物事の当事者になる」という選択肢を回避しさえすれば「責任」が問われるようなこともなかったのだ。たとえ大勢にとって有意義な学びの機会が提供できたとしても、ごく少数者が(「不安」を覚えて)犠牲になるのであれば、当然ながらその代償は発生する。場合によっては犠牲を出したことの責めを負うことになる。
 たとえ動機がどのようなものであれ「ただしいこと」を追求するのではなく、だれかから「ただしくない」と論難・非難されるリスクを回避することに全精力を投入せよ――それが「トロッコ問題」から考えるべき答えだ。
 少しでもケチがつくなら、最初から挑戦しない
 岩国の学校教員の方々は、残念ながら「授業でトロッコ問題を扱う」という決断をした時点でトロッコのレバーに触れてしまったことになる。
 多くの子供たちには「人間社会における倫理的判断の難しさと社会正義の複雑な構造を学ぶ機会」を提供できたかもしれない。しかし同時に、少数の子供やその親からは「子供たちへ不安やストレスをいたずらに与える加害者」という誹りを免れ得なくなった。この社会では多くの善なることを成したとしても、ひとつでも汚点があればそれらの功績は帳消しにされてしまう。「よかれと思って」などという動機はほとんど斟酌されない。
 レバーには触れるな。なにもせずその場から立ち去れ。当事者になるな。「無関係な人」になれ――それが紀元前から繰り返されてきた問題に対して、現代社会が用意した解答だ。
 この件――名付けるのであれば「岩国トロッコ問題」とでもいうべきだろうか――は、この社会でなぜ停滞が起き、技術的革新がことごとく反対・規制され、才能ある若者が続々と海外へと流出するのかをメタ的かつ端的に示した思考実験のようである。「少しでもケチがつくのであれば、チャレンジしてはならない」というメッセージが伝わってくる。「不安なもの」の排除は社会の停滞を招く
 「トロッコ問題」に限らず、多くの人びとにとって、新奇性や画期性のあるものは「気持ち悪い」ものである。不安感や不快感を惹起するものである。子供たちにとってはなおさらだ。それでもあえて、子供たちには未知なる問いを立てていく意義がある。しかしながら、教える側が「加害者」にされてしまうくらいであれば、現場レベルでは「毒にも薬にもならないこと」だけを淡々と伝えていくことのインセンティブが最大化されるだろう。
 一方で自分にとってなじみのないもの、異様に見えるものと接触したときに生じる生理的な不安感や不快感は、人間をひとつの動物として捉えたときには合理的な側面を持つ。個としては非力であり、集団生活を営まなければならなかった人間にとって、集団の同質性が維持されることには一定の合理性があった。人間の集団内における「異質性」とか「新奇性」を恐れ、排除することによって自分たちのグループの安定性が担保され、生存の可能性が高まると期待されたからだ。
 「トロッコのレバーに触れないことが推奨される社会」は、不安感や不快感を誘発しない快適なものばかりが目に入るし、身の危険を感じさせない穏やかな暮らしが続くだろう。生きていくにはおおよそ不自由のない社会かもしれない。だがそれは最新の知見や技術を拒否し、社会が停滞する可能性と表裏一体でもある。緩やかにだが着実に、社会から活力や創造性が失われていく。
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 ダ・ヴィンチニュース
 5人を助けるために1人を殺すことは許されるのか? ”トロッコ問題”で考える「正義」とは?
{「正義」は決められるのか?
著: トーマス カスカート 翻訳: 小川 仁志 監訳, 高橋 璃子 出版社: かんき出版 発売日: 2015/11/11}
 10月3日はイギリスの女性哲学者フィリッパ・フットの誕生日にして命日である。1920年10月3日に生まれ、2010年10月3日に90歳で人生を終えた律儀な彼女が世に投げかけたのが「トロッコ問題」だ。
 「トロッコ問題」とは――「暴走する路面電車の前方に5人の作業員がいる。このままいくと電車は5人をひき殺してしまう。一方、電車の進路を変えて退避線に入れば、その先にいる1人の人間をひき殺すだけで済む。どうすべきか?」……つまり「5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるのか?」という問題である。※(電車は止められず、線路上の人たちは逃げられない状況とする)
 1967年――今から約50年前、イギリスの哲学者フィリッパ・フットが考案した思考実験は、雑誌に掲載されると大反響を呼び、一大ブームとなった。
 さらに、フットは「5人の病人を救うために、1人の健康な人間を殺して血清を作るのと何が違うのか?」と問うた。1人を犠牲にして5人を救うとき、暴走電車の場合は正当な行為だと感じ、血清の場合は不当だと感じる。この「倫理的ジレンマ」は、長年にわたり 議論が続いている。2009年には、ハーバード大学マイケル・サンデル教授の『白熱教室』 でも取り上げられたのは、記憶に新しい。(日本語版『白熱教室』の放送は2010年)
 また、昨今では、就活のグループディスカッションでもトロッコ問題が用いられることもあるので、一度はこの問題の本質に触れておきたい。
 人々の議論の根底にある「正義」とはなんなのか? 考えれば考えるほどにわからなくなるこの「トロッコ問題」をストーリー仕立てで教えてくれるのが、『「正義」は決められるのか?』(トーマス・カスカート:著、小川仁志:監訳、高橋璃子:訳/かんき出版)だ。
 舞台は2015年のサンフランシスコ。路面電車の進路を切り替えて5人の命を救った女性が、待避線にいた1人を殺した容疑で裁判にかけられる。
 最初は、5人を救ったヒロインとされた女性が殺人犯として起訴されたことで、「トロッコ問題」の答え=「正義」は陪審員である一般市民たちに委ねられる。
 弁護士や検察官による主張、新聞記事やラジオ番組といったマスコミでの扱い、大学の教授たちの井戸端会議などの語り口で、トロッコ問題は発展していく。
 {5人の重病人を救うために「健康な1人の臓器を分け与えて死に至らしめた医師は許されるか?」「歩道橋の上から1人を突き落として電車を止めるのは?」「出産すれば死んでしまう妊婦を救うために胎児を中絶するのは許されるか?」}
 ある場合は「善」で、ある場合は「悪」と感じるのはなぜか? そして、裁判の末、陪審員が出した答えは!?――これが、本書の「あらすじ」だ。
 ドキュメンタリー風に視点が変わり、議論も時には揚げ足取りの応酬のようにも見えるので、読み進めるうちに少々混乱する。その上、5人を救うために1人を救うことは正義か否かという評決の内容は最後まで明示されない。読者の多くは「えっ、どっちなの?」と消化不良に陥ることだろう。
 だが、監訳の小川仁志氏 による巻末の解説を読めば、本書ではトロッコ問題を「3つのステップ」で語ろうとしていることが見えてくる。そのステップとは以下のようになる。
(1)「正義」を数で決められるのか?
(2)手段によって「正義」は変わるのか?
(3)対象が誰かによって「正義」は変わるのか?
(1)は「5人を救うために電車の進路を変えた」場合。アンケートでは89%の人が「正しい」と答えた。より大きな善が得られるほうを正しいと判断する「功利主義」の考え方だ。しかし、そこに異議を投げかけるのがドイツの哲学者イマヌエル・カントの「義務論」だ。義務論では「人は手段ではなく、目的であるべき」で、「人の権利を尊重せよ」と考える。多くの人を救うためであっても、その手段として人を殺すのは「正しくない」となる。そこで議論は(2)へ進む。
 「5人を救うために健康な1人を死なせて臓器を与える」や「太った人を橋の上から 落として電車を止める」場合に、人は「手段として問題がある」と感じる。
 トマス・アクィナスのいう「二重結果論」においては、「道徳的によい行為がたまたま悪い結果を生むのは仕方がないが、よい結果を得るためにわざわざ悪い行動をとるべきではない」と考える。殺人という行為を正当化するのは、人間心理的に難しい、というわけである。そこで、ステップは(3)へ。
 犠牲になる1人、あるいは助かった5人のうちの誰かが「自分の身内だったら」どうだろうか? また、本書内に例示されている「親の遺産で暮らす大金持ちの白人」と「貧しい移民の清掃員」だったら判断は同じだろうか?
 3ステップ目のキーワードは「利他主義」だ。「他者の利益のために行動する」という利他主義では、「常に他者を助けるという判断をする」ため、自分が犠牲になる場合も含めて、相手が誰かによって区別せずに助けなくてはならない。
 しかし、ニーチェの考え方では「それは健全ではない」という反論が生まれる。いくら利他主義でも、家族が1人で待避線にいるのなら、5人を犠牲にしてでも家族を救おうとするほうが健全である、と。
 こうしたステップを経ることで「倫理的な問題に対し、なんとなくではなく、一貫した論理をもって 結論付ける」ことが大切なのだと、小川氏は言う。原発問題、安保問題にもこれらは当てはまるし、あなたが裁判員に選ばれた場合にも役立つだろう。
 そして、気になる結論は――「5人のために1人を犠牲にするのは間違いである」
 あなたの「正義」が導き出した答えは?
 文=水陶マコト
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