⛩12)─1・A─民族宗教のローカルな聖地(パワースポット)を歩く。熊野。~No.22No.23 

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 現代日本では、日本の神殺しが行われている。
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 2020年8月8日・15日号 週刊現代「日本の聖地を歩く熊野 閃(ひらめ)きを授かる旅
 畏(おそ)れを感じるほどの圧倒的な自然がいまも息づいている。
 それに触れると人は瞠目して目を覚まし、やがて閃きを得る。
 巨岩に力が宿る
 幅は500mにおよぶ古座川の一枚岩
 538段の石段の先に現れる神倉神社のごとびき岩
 高さ45mのご神体 花の窟(いわや)神社
 山頂に鎮座 天狗倉山(てんぐらさん)の巨岩
 植島啓司
 かつて熊野は訪れるというよりも、籠(こ)もるための場所であった。
 熊野でのお参(まい)りの基本が『籠もり(インキュベーション)』であるのは、重要なことだ。籠もりとは神の加護を求めて聖所(せいしょ)に行き、そこで眠って夢の中でお告げを得るという行為である。そうした修行を支えるのは、大地に根ざした女性神格であるおとが多く、それは高野山における丹生都比売神(にうつひめのかみ)であり、伊勢神宮天照大神、豊受気毘売神(とようけひめのかみ)などがその代表である。
 では、熊野における女性原理を代表するのは、いったい何か。それはおそらく伊弉冉尊({いざなみのみこと}イザナミ)ではなかったかと思う。
 熊野本宮大社の現在の主祭神は、男性神の家津御子神(けつみこのかみ)となっているが、イザナミはかつて本宮の中心をなす證誠殿(しょうじょうでん)に一時的に祀られていたという言い伝えが残されている、と九鬼家隆宮司も語っている。
 熊野のすごさは、何度行っても奥が深くてよくわからないところにある。熊野三山だけではなく熊野全体を俯瞰(ふかん)して眺めてみると、いにしえより祀られて多くの磐座({いわくら}信仰の対象となる岩)が姿を現すことになる。神倉神社のごろびき岩も素晴らしいが、そこに達するまでの急峻な538段の石段もみごとだ。
 イザナミが葬られたとされる花の窟(いわや)は、『日本書紀』の神代巻(じんだいかん)で、熊野において最初に登場してくる聖域である。神内神社({こうのうちじんじゃ}南牟婁{みなみむろ}郡)や丹倉神社({あかくらじんじゃ}熊野市)の巨大な岩の壁ともいうべき磐境(いわさか)も見てほしい、那智大滝を遠くから見るのではなく、滝壺まで近づくと、大滝を神体とする飛瀧神社(ひろうじんじゃ)が姿を現し、自然石のみごとな光景が見えてくるようになる。
 これほど野性的な岩が数多く崇拝の対象になっている聖域は、熊野以外にはないだろう。しかも、そこで崇拝されている神は、イザナミを除けば、どれも『古事記』『日本書紀』の神々とは違うのだ。
 神を感じるとは、何かが自分のなかに入りこんでくる経験ではないかと思う。それは現在の日本では、もはや熊野でしか得られない経験かもしれない。」
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 熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強い。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。熊野権現も参照のこと。
 2004年7月に、ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として登録された。

 熊野信仰
 熊野の地名が最初に現れるのは『日本書紀』の神代記で、神産みの段の第五の一書に、伊弉冉尊が死んだとき熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)というところに葬られたという記述がある。国家が編纂した歴史書(『正史』)に熊野の名が登場するのは日本三代実録からである。
 古来、修験道の修行の地とされた。延喜式神名帳には、熊野坐神社(熊野本宮大社)と熊野速玉大社とあるが、熊野那智大社の記載が無いのは、那智は神社ではなく修行場と見なされていたからと考えられている。3社が興ってくると、3社のそれぞれの神が3社共通の祭神とされるようになり、また神仏習合により、熊野本宮大社主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神(はやたまのかみ)は薬師如来熊野那智大社熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神(ふすみのかみ)は千手観音とされた。熊野の3神は熊野三所権現と呼ばれ、主祭神以外も含めて熊野十二所権現ともいう。 
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 反宗教無神論の日本人には、意味不明な話以上に唾棄すべき戯れ事である。
 そうした日本人が増え、特にグローバル志向の強い高学歴出身知的エリートに多い。
 その証拠が、「穢れ忌避」という宗教性神秘性による殺傷禁止・女人禁制・男性禁制・入山禁止・立ち入り禁止などの減少である。
 それは同時に、日本の自然が破壊されている事を意味する。
 信仰の山であった霊峰・富士山は、物見山の登山の山となり、ゴミの山・糞尿の山となっている。
 日本古来の民族的宗教性は、金儲けのレジャー、人集めのイベントと化し、生命溢れる神秘な尊きものから死んだ残骸・騒々しい騒ぎになり下がっている。
 それは、神殺しである。
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 日本のローカル宗教には、祈りと崇拝はあるが、信仰としての経典・聖書・聖典、教義・教理はない。
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 女性神伊邪那美命(いざなみのみこと)は、火の神を生んだ為に死に黄泉(よみ)国に住み、会いに来た夫神・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が約束を破った事を怒り、人々を殺すとの呪いの言葉を告げた。伊弉冉尊
 日本民族日本人は、伊邪那美命に呪われた穢れた人間である。
 日本民族日本人を救ったのが伊邪那岐命で、呪い殺された人数以上の人を生むと告げたからである。
 伊邪那岐命から生まれたのが、天照大神、月読尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊スサノオノミコト)である。
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 日本神道民族宗教には、縄文時代の自然崇拝、神秘崇拝、大地母神崇拝、巨岩・巨木・大川崇拝などが母体となっている。
 崇拝される日本の自然には、花鳥風月と虫の音、苔とよい菌が生み出すマイナス・イオンや1/fの揺らめきなどが充満している。
 日本列島は、雑多な自然災害、疫病、飢餓・餓死、大火が複合的に頻発する災害多発地帯である。
 崇拝の対象となっている巨岩や大川や深淵な渓谷は、雑多な自然災害が縄文人や動植物を大量に殺して生み出したものである。
 つまり、崇拝対象物の下には「死」があり、死と生の狭間・境界・中間・縁(へり)に存在し、それゆえに日本民族日本人は冒してはならない神性を言葉、理屈、合理、理論ではない生の五感で感じ思わず恐懼して頭を垂れて祈念する。
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雑多な自然災害、疫病、飢餓・餓死、大火が複合的に頻発する災害多発地帯で生き残るのは、賢さや優秀さ、家柄や身分や地位、金持ち・資産家によって選ばれているからではないし、必然でもなく、単に幸運と偶然と勢いに過ぎない。
 逃げて、助かる事もあれば、助からない事もある。
 何が幸いするか幸いにならないか、誰も知らない。
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 日本の最高神は、女性神天照大神伊勢神宮天皇家・皇室の祖先神)であった。
 天皇即位の必須条件が、天照大神からの直系の血筋・血統であった。
 天皇の正統性は、天照大神を源とする血統と皇統の二本立てであり、血統あるいは皇統の一方だけでは成立しない。
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⚔37)─2・A─徳川家康の国防策。一国一城令。~No.160 

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 現代日本人は、史実に近いトンデモない小説家時代劇は好きだが史実に基づいた故人の公文書歴史は嫌いである。
 特に、現代日本は公文書を軽視して後世の為に記録を残そうという使命感が稀薄である。
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 2020年8月12日 読売新聞「磯田道史のをちこち 
 慎重居士・家康の築城観
 お城についての徳川家康の考えは面白い。家康は単純に『堅固な城を作ればよい』とは言わない。『城は敵に取られるもの』と考えていたふしがある。家康は、まことに用心深い。織田信長のように、手薄な本能寺に泊まって殺されるのは、まっぴら御免と考え、関ヶ原合戦で勝つと、京都に宿泊用の城を作らせ始めた。二条城である。
 とこが家康は完成した二条城をみて『大き過ぎる』と怒ったらしい。1650年以前成立の『安国殿御家譜』に、いささか怪しいが、逸話がある。家康はこういった。
 『ワシがここ(京都)にのぼり、5~7日逗留する時、小敵ならば、2間半(4メートル55センチ)の堀さえあれば防ぎやすい。1両日もすれば近国の味方が馳(は)せ集まる。10日たてば関東から大軍が馳せのぼる。そうなれば敵は踏みとどまれない。3~5日の要害(要塞)だから、それでよい。平たい屋根でもいい。それでも信長公のような不慮のこともあるので、それを逃れるためだ。ワシは上方の処置さえすれば(すぐに)関東に下る。そのあとに、この城を敵に奪われたら、また取り返す時、むつかしい。(敵は城が堅固だと)敗れるまで立て籠もるものだ。それを考えず、こんなに(大きく)良く築くのは思慮が足りない』
 家康は本多忠勝にこういって怒ったいう。慶長6(1601)年のことというから、完成時ではなく、二条城の建設段階で、家康は家来と、この種のやり取りをしたのかもしれない。
 遠方に堅固な城を築くと、敵に取られた時に困る。家康以来、徳川幕府がそんな思想を持ったからか、お城を持たせてもらえない殿様が出来てしまった。北海道(蝦夷地)の松前氏と五島列島の五島氏である。異国から日本を防備するには、真っ先に、北海道や五島列島に城が必要。ところが、松前氏や五島氏は公式には居所が『館』のままで、異国船の脅威が深刻になる幕末期まで、なかなか本格的な築城が許可されなかった。
 その事情をペリー来航の1853年に書かれた『千代田問答』は、こう記す。『御神将(=家康公)は、ある時、おっしゃった。松前・五島には城地を経営させないようにしろ。万一、外国人に攻め取られた時は、とりも直さず、(侵略の)足がかりになる。そのため、城地は無用ということだ。(松前・五島は)いずれも海を隔てた土地ゆえ、海から侵略が来て襲われるのが急で、自国の援兵が到(いた)るのが遅い時は落城するだろう。その時は、たちまち外国人の巣窟になり取り戻すのは難儀だろうから』。家康の言葉に仮託(かたく)して、幕府が松前氏や五島氏への築城許可を渋った理由が語られている。
 家康は豊臣氏を滅ぼすと、すぐに『武家諸法度』で、大名の新規築城を禁じた。ただ例外もある。17世紀半ば、幕府は西国大名を抑止する前線『境目』を今の岡山・兵庫県境に引こうとしていたふしがある。1645年、幕府は浅野長矩の祖父に『城を新築していい』と赤穂の地を与えた。さらに1672年、脇坂安政を赤穂の隣りに封じ、龍野城を再建築させた。幕府は巨大な姫路城に徳川の譜代一門を入れ、その西隣に赤穂城龍野城を築かせ、防衛ラインとした。偶然か現在も、この線が関西弁アクセントの境界である。
 赤穂城の新築工事を13年もやったせいで『境目の大名』浅野家は藩風がすっかり臨戦的になった。その勇ましさが『吉良邸討ち入り』につながったのだが、その話は拙著『殿様の通信簿』に書いていたので繰り返さない」
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 一国一城令のもたらしたもの
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 かつて力のある武士は館を所有しそこに住んでいましたが、時代が南北朝時代に入ると山城とよばれる山中の城を築くようになります。そのようにして築かれた城は平山城や平城として次第に平地へと移動し巨大な物となり、織田信長の築城した安土城に代表されるように立派な天守が備わった城へと変容していきます。戦国時代に入ると築城数はピークを迎えますが、その時代に終止符を打ったのが徳川幕府の公布した一国一城令でした。
 一国一城令とは
 大坂冬の陣大坂夏の陣を経て1615(慶長20、元和元)年5月に大坂城は落城します。これにより豊臣家は滅びることになりました。すでに天下を統一し江戸幕府体制を敷いていた徳川家ではありますが、その基盤を盤石にするためにこの年の閏(うるう)六月に一国一城令を公布します。「一国一城の主」と言うと現在ではマイホームなどを所有しているといった肯定的な意味で用いられていますが、諸大名にとっては決して肯定的に受け止められるような布令ではありませんでした。なぜならひとつの国がひとつだけの城を持つことができるとすると言うことは、それまですでに築城されていた各大名の持ち城が、ひとつを除きすべて不要の物となるからです。ひとつの国を複数の大名で治めている伊予国(現在の愛媛県)のようなケースでは、大名家の数に応じて藤堂高吉の今治城伊達秀宗宇和島城脇坂安治大洲城加藤嘉明松山城といったように複数の城が残されることになりました。しかし毛利藩のように周防と長門の2国を領地としているといった場合には、国そのものを手離さなければならず、結局長門国の萩城だけが毛利藩に残されることになりました。
 一国一城の目的
 一国一城令により廃城となった城の多くは西日本の物でした。外様大名の多い西側の大名たちの戦力をできるだけ削り、徳川家による全国統治を盤石にすることが大きな目的だったからです。その目的をさらに推し進めることになったのが同年7月に公布した武家諸法度でした。そのなかの城に関する項目には、今後新たに築城することを禁止し、城の修復をする際には幕府に届け出るようにするといった内容が記されています。これにより増築や改築はもちろん修復さえも困難になりました。戦国時代から徳川体制にいたるまでの諸大名にとって、城がいかに戦における脅威となっていたか、この2つの布令によって知ることができます。そして徳川体制が盤石になるにつれ、軍事施設としての城の機能は徐々に失われていくことになりました。
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 一国一城令
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 江戸幕府の大名統制策の一つ。一領国一城という趣旨のもとに、大名の本城(居城)を除くすべての支城を破壊することを目的としたもので、大坂の役後の1615年(元和1)閏(うるう)6月、武家諸法度(しょはっと)に1か月先だって発布された。江戸初期の大名領国は、戦国大名の領国を受け継ぎ、大名の本城のほか領内各地に支城が設けられ、大名の一族や有力家臣が城番として配置されるとともに、その下に付衆(つけしゅう)が分駐したが、それがそのまま城番を組頭とし、付衆を組の構成員とする軍事的組織によって編成された。
 一国一城令は、こうした大名領国における臨戦的な軍事体制の否定をねらいとしたもので、それによって、番方(ばんかた)の組織が改組されるとともに、藩の地方(じかた)支配は、城番にかわって役方(やくかた)層の郡奉行(こおりぶぎょう)―代官が担当することになった。ここに大名領国は、臨戦体制より農民支配を基軸とする藩体制に転換し、いわゆる「元和偃武(げんなえんぶ)」が開始された。[藤野 保]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 日本の城 Japan-Castle
 お城の歴史
 お城の歴史 江戸時代③ 一国一城令で95%のお城が消滅!!
 2018年6月10日 / 2020年6月26日
 今回は「大坂の陣が終わって、戦がなくなって以降のお城」について解説します。
 1615年の大坂夏の陣の後は江戸幕府による支配も安定してきて、諸大名に対する規制を強めていく時代。
 そんな時代にお城はどうなっていったのでしょうか?大名それぞれが自由にお城を立てることはできたのでしょうか?
 ではさっそく見ていきましょう。
 一国一城令とは?
 1615年5月に大坂の陣豊臣氏が滅亡すると、さっそく江戸幕府は6月に「一国一城令」を、7月に「武家諸法度」を公布しました。
 一国一城令とは、「一つの国(土佐とか越後とか)にお城を一つだけ正式に認めるよ」という大名を取り締まる法律。
 お城を一つだけ認めるかわりにその他のお城はすべて壊さなければいけませんでした。
 そのため、それまで全国に約3000ものお城があったのが、約170にまで減少。
 しかし、例外があって一国を複数の大名(藩)が領有していた場合は、一藩につき一城が認められます。
 例えば伊予国(現在の愛媛県)は今治城松山城大洲城宇和島城が残されていました。
 次の例外が一藩で複数の国を領有していた場合。
 この場合は一国につき一城が認められていました。なので一藩で二つ以上のお城を認められる藩もありました。
 現在の三重県を治めていた津藩は伊勢と伊賀の二カ国を領有していたので、津城と伊賀上野城を認められていました。
 津藩と同じように長門と周防の二カ国を領有していた長州藩は、それまで萩城と岩国城を持っていたけど江戸幕府に遠慮して岩国城を壊しています。(なので二カ国で一城になる)
 さらに例外で外様大名の中でも特に大きな領地を持っていた伊達政宗仙台藩と島津氏の薩摩藩はそれぞれ仙台城と鹿児島城以外にも複数のお城を持っていました。これらはお城といっても戦国時代から使われてきたもので石垣などは備えていませんでした。それらをお城とは呼ばずに「砦」や「要害」と呼んでいました。
 一国一城令のよかったところ
 一国一城令は各大名・藩の軍事力を制限するものだったけど、悪いことばかりでもありませんでした。
 壊されたお城は大名の家臣が持っていたお城だったものもあり、お城を持つことは大名の特権となったのです。
 そのため、大名と家臣との身分が明確に分かれ、家臣の統制がしやすくなりました。
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 豊臣秀吉は、バテレン追放令と大名キリシタン棄教で日本人奴隷交易を止めた。
 徳川家康は、キリシタン禁止とスペイン・ポルトガル追放で日本人傭兵契約を止めた。
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 徳川家康は、戦をして勝てなかった敵の名将武田信玄甲州軍略を採用していた。
 甲州軍略の要諦は「人は石垣、人は城」で、領民こそが国の基(もとい)という思想である。
 武田信玄を支えたのは豊富な甲州金で、交易は相手に依存しなければならなかったが、甲州金は自力で領内で採掘すればよかった。
 徳川家康は、武田信玄の土木工事を学んで荒れた関東を切り拓き、北条早雲の土木工事を学んで湿地帯に江戸を造り、国内の鉱山開発を行い銀を輸出して富を得た。
 徳川家康が行った銀輸出は、オランダ・アムステルダムを通じて国際金融・貨幣システムに影響を与えていた。
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 徳川家康は、歴史書を読み、国際情勢を吟味して、スペイン・ポルトガルバチカンイエズス会などのキリスト教勢力と中国・朝鮮の中華儒教勢力の侵略を恐れていた。
 徳川幕府は、オランダ一国との交易を許す鎖国令を布告し、長崎の唐人、島津の琉球対馬の朝鮮、松前のエゾなどは特定地域での許可制とした。
 ロシアの侵略に対抗する為に、エゾ利権を松前から取り上げ蝦夷地・北方領土を一時幕府領とし、東北諸藩から集めた総勢数千人の兵士を防衛警備として各地に配備した。
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 江戸時代の武士・サムライと現代日本の高学歴出身知的エリートとは違う。
 現代日本には、武士・サムライはいないし、武士・サムライの志を受け継ぐ子孫もいない。
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 徳川家康は、短期間で勝敗が付く野戦を好み、長期化しやすい攻城戦を好まなかった。
 豊臣秀吉は、その逆で、金はかかっても犠牲者が少ない攻城戦を好んだ。
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 徳川幕府が命じた「一国一城令」は、大名統制策という政策ではなく、大名を攻め滅ぼしやすくする為の軍略あった。
 江戸時代、幕府・大名、武士・サムライは戦時として生活し、庶民(百姓や町人)は平時として生きていた。
 参勤交代の大名行列とは、江戸に参陣する為の臨戦態勢による行軍であって、物見遊山の気楽な旅行ではなかった。
 それ故に、大名行列で不祥事が発生すれば責任者は責任を取って「切腹」しなければならなかった。
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🌏40)─7─中国は昔も今も日本民族が嫌った疫病大陸である。2020年、ペスト。〜No.121 

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 2020年8月7月 産経新聞「中国、ペストで死者 内モンゴル、感染警報を発令
 中国内モンゴル自治区包頭(パオトウ)市(ロイター)
 【北京=西見由章】中国内モンゴル自治区包頭(パオトウ)市当局は7日までに、同市内の村で死者1人がペストに感染していたと発表、上から3番目の警戒レベルとなるペスト感染3級警報を現地に発令した。警報は今年末まで継続する。
 国営新華社通信によると、この死者についてはPCR検査などを実施し、6日に腸型ペストと断定。濃厚接触者ら35人を隔離し検査を実施したが、いずれも陰性だった。
 内モンゴル自治区では7月、住民1人がリンパ節の異常を引き起こす腺ペストを発症。昨年11月には腺ペストと肺ペストをそれぞれ2人が発症した。
 ペストは主にねずみなどのげっ歯類からノミを介して感染するが、肺ペストでは患者の飛沫(ひまつ)による「人から人」感染も起きる。日本ではエボラ出血熱などとともに感染症法でリスクが最も高い「1類感染症」に指定されており、適切な治療を受けなければ致死率は30%以上とされる。」 
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🏕41)42)43)─1─疫病神・災害神・怨霊神を祈ってもてなす日本民族の伝統文化。『歎異抄』。~No.78No.79No.80No.81No.82No.83 ⑨ 

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 日本民族日本人は、恵みをもたらす最善の神様より災いをもたらす最悪な神様こそ最も大切・大事にし、粗相のにように祀り、心から崇めて祈った。
 善神であっても悪神であっても、神様は神様である。
 神力・霊力は、善神より悪神の方が強い。
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 現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
 現代の日本人は、歴史力がないのと同時に民族的伝統的宗教心が乏しい。
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 2020年8月号 Voice「日本文化  館鼻則孝 
 疫病と『おもてなし』精神
 感染症は疫病神
 新型コロナ禍による自粛期間中、私も皆さんと同じように自宅で過ごす時間が増えたなかで、とても興味深いウェーブサイトに出合いました。岐阜県に拠点を構える内藤記念くすり博物館の公式ホームページ(くするの博物館)で、なかでも『人や薬のあゆみ』のコーナーでは、医療の歴史や文化に関する膨大な数の資(史)料および図書が紹介されています。
 同サイトの資料をみていくと、日本人が古来、いかに疫病と向き合ってきたかがよくわかります。たとえば『荼毘室混雑(やきばこんざつ)の図』には、江戸時代にコレラが大流行したことにより火葬場が大混乱となったことや、多くの役者や講談師が亡くなったことが伝えられています。その緊迫した様子は今回、世界を襲ったコロナ禍と十分に重なります。
 とりわけ私が興味深く感じた資料は、『疱瘡(ほうそう)神図』という絵図です。こちらには日本人が疫病に対して『おもてなし』する様子が描かれており、同サイトの説明文を引用すると『天然痘をもたらす疫病神が描かれている。日本には悪鬼(あっき)をやみくもに撃退するのではなく、もてなすことで、穏便に立ち去ってもらう風習があり、疱瘡神送りもそのひとつである』。
 まだウイルスや細菌が発見されていない江戸時代、人びとは経験則的に感染者に近づかないなどの対策をとった一方で、絵図に描かれているように感染症を『疫病神』として祀りました。とくに天然痘は『疱瘡神』として知られ、症状が軽く済むようにと祈りが捧げられたといいます。事実、疱瘡神を祀った寺社は各地にあり、疫病ですら『神』としてもてなすのが、日本人のスタンダードな向き合い方だったのです。
 相手が不純でももてなす文化
 新型コロナに関しては、山中伸弥教授などが『ファクターX』の存在を指摘しています。『マスク着用や毎日の入浴』『ハグや握手がすくない』といった日本人の生活文化か、あるいは遺伝的要因などの政策以外の要素が、日本で新型コロナの爆発的感染拡大を防いだというのです。
 その視点でいえば、右に記したように日本古来の感染症との『付き合い方』はファクターXを考える際に、何がしかのヒントになるのかもしれない。専門家ではない一介のアーティストの推論ではありますが、かねてより江戸時代の風俗に感心を寄せる身としてはそう感じずにはいられませんでした。
 もちろんファクターXが何なのか、すぐに結論が出る問題ではありません。大事なのは、過去の事象といかに向き合うかという姿勢ではないでしょうか。以前にも紹介したように、芸術の世界では『アマビエ』がブームとなっています。妖怪界ではかねてより有名で、災害を予言したり疫病を治したりするとの言い伝えがあります。もちろん、ブームそのものを否定するわけではありませんが、たんにアマビエを『リバイバル』するだけでは、それは芸術とは言い難いし、新型コロナとの向き合い方を考える契機にもならない。過去の事象をそのまま現代に置き換えることは、ときに意味が薄く、むしろ『くするの博物館』のウェーブサイトのように、当時の人びとの営(いとな)みそのものに焦点をあてて、私たちは社会としていかに暮らしてきて、これからどうあるべきかを探るほうが、大きなヒントを得られるのではないでしょうか。
 『疱瘡神図』をみて思い出したのが、映画『千と千尋の神隠し』です。主人公の千尋が、オクサレ様と呼ばれる神様を湯船へと案内するシーンをご記憶でしょうか。千尋は頑張ってももてなそうとするのですが、オクサレ様は異臭を放(はな)つわ身体から自転車やゴミが出てくるわで大混乱。結果、その正体は川の神でしたが、たとえ相手が不純であっても、いかにもてなすかという発想が日本文化にはあります。どんな相手でも一度は受け入れてもて、ほどよいスタンスで共に歩んでいく。考えてみれば、たとえば漢字を輸入しながらも平仮名やカタカナを発明した日本文化は、その試みの連続であったともいえます。
 一神教ではない八百万の神が住む日本では、美しい神から醜(みにく)い神まで存在します。人びとはときに感謝し、ときに恐れ、豊作を感謝し、あるいは雨乞いや疫病が治るように『おもてなし』をしてきた。そうした伝統的な生活文化を、どのように現代に表現するかができるのか。私自身、そんなことを考えながら、いままさに作品づくりに臨(のぞ)んでいます。」
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 『歎異抄』第3章
 「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。
 そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
 煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
 よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。」
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 歎異抄.jp
 なぜ、善人より悪人なのか
 意訳
 善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人は、なおさらだ。
 それなのに世の人は、つねに言う。
 悪人でさえ浄土へ往けるのだ、ましてや善人は、なおさら往ける。
 このような考えは、一見もっともらしく思えるが、弥陀が本願を建立された趣旨に反するのである。
 なぜかと言えば、阿弥陀如来は、すべての人は、「煩悩の塊」であり、助かる縁なき極悪人と見ぬかれて、「我にまかせよ、必ず救う」と誓われているからだ。
 それなのに“自分の励む善で生死の一大事を解決できる”と自惚れている善人は、極悪人と見極められて建てられた本願を疑っているから、全幅、弥陀にまかせる心がない。ゆえに「弥陀の本願にあらず」。本願の対象とはならないのである。
 だがそんな人でも、弥陀の徹見通りの自己に驚き、生死の一大事は弥陀にうちまかせて、浄土へ往けるのである。
 煩悩にまみれ、どのような行を励むとも、到底、生死の迷いを離れられぬ我々を不憫に思われ建立されたのが、弥陀の本願。
 悪人を成仏させるのが弥陀の本意だから、“助かる縁なき者”と、他力にうちまかせる悪人こそ、浄土へ生まれる正客なのだ。
 されば、善人でさえ浄土へ生まれるのだから、悪人はなおさらである、
 と聖人は仰せになりました。
 ・ 
 なぜ、善人よりも悪人なのか。
 なぜ、この世に、まことは一つもないと断言できるのか。
 『歎異抄』には、親鸞聖人の衝撃的な言葉が、数多く記されています。
 それは、世界の哲学者・文学者にも多大な影響を与えたものばかりです。
 『歎異抄』の謎が解けた時、私たちの幸せ観、人間観、仏教観は、一変するでしょう。

 大災害、戦乱の中から、何度も立ち上がってきた日本人の心の支えは、『歎異抄』にあった

 地震、洪水、飢饉、戦乱、大火……。
 親鸞聖人の800年前は、生きる不安の絶えない時代でした。
 人間とは?
 命とは?
 幸せとは?
 苦しみ悩む人々へ、親鸞聖人の答えが記された書、それが『歎異抄』です。
 「人類みな兄弟であり、上下などまったくない」
 「善人でさえ浄土へ往生できる、まして悪人は、なおさらだ」
 「この世のことすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない」
 親鸞聖人の言葉は、衝撃的です。
 そして、絶望的な状況にあっても、
 「冷酷な運命に甘んじて従うのではなく、自ら未来の幸せの種をまくことができる」
 と強く押し出すメッセージが、日本人の精神的な支えとなり、幾多の災害、戦乱の中から、立ち上がらせてきたのです。
 平成23年、日本は、未曾有の大震災に襲われました。今も、混乱のただ中にあります。
 たとえ建物のガレキを取り除くことができても、心の不安はなくなりません。
 そんな今だからこそ、日本人に生きる力を与えてきた『歎異抄』を開いて、人生を見つめ直してみませんか。
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 誤解に満ちた歎異抄
 『歎異抄』は700年ほど前、親鸞聖人の高弟・唯円によって書かれたものといわれている。聖人亡き後、親鸞聖人の仰せと異なることを言いふらす者の出現を嘆き、その誤りを正そうとしたものである。
 鴨長明の『方丈記』、『歎異抄』、吉田兼好の『徒然草』の順で、ほぼ60年間隔で成立している。
 これらは三大古文として有名だが、なかでも『歎異抄』の文体に引き込まれるような魅力があり、全文を暗唱する愛読者のあるのもうなずける。
 今日、『歎異抄』ほど、読者の多い古典は異数ではなかろうか。その解説書は数知れず、今も新たなものが加え続けられている。
 ところが、この書が世に知られるようになってから100年もたってはいないのだ。
 それは500年前、浄土真宗の中興、蓮如上人が、親鸞聖人を誤解させるおそれがあると、「仏縁の浅い人には披見させてはならぬ」と封印されたからであろう。
 以来、親鸞学徒でさえ警戒し、ほとんど知る者はなかったが、明治の末からある機縁で急速に読み始められ、仏教学者はいうにおよばず、多くの作家や思想家が、こぞって『歎異抄』を論じ始めた。
 かくて広く一般にも愛読されるようになり、親鸞聖人といえば『歎異抄』、『歎異抄』といえば親鸞聖人といわれ、今では親鸞思想の格好の入門書とされている。
 だが、蓮如上人の訓戒どおり『歎異抄』は、もろ刃の剣である。冒頭にあげた「善人なおもって」の言葉など、皮相の見では悪を勧めているようにも映る。
 事実、「阿弥陀さまは、悪人大好き仏だから、悪をするほどよいのだ」と吹聴する者が現れ、「親鸞の教えは、悪人製造の教え」と非難された。
 また、東大の名誉教授でさえ『歎異抄』を読み違え、“念仏を称えたら救われると教えたのが親鸞”と教科書に記し、物議をかもした。
 『歎異抄』が広範な読者に迎えられたせいなのか、聖人は日本で最も有名な、歴史上の人物といわれるようにもなった。同時にまた、親鸞聖人の教えが誤解される、大きな要因となったのも否めない。
 『歎異抄』は本来、門外不出の秘本であり、読者によっては自他ともに傷つける、カミソリのような書である。聖人の教えを正しく理解した上で読まなければ、自損損他、大けがをして臍を噛むことにもなる。
 とかく『歎異抄』を論じたものは、著者の体験や信条に力点が置かれ、自由奔放に解釈されている、と嘆く識者も少なくはない。
 聖人自作の『教行信証』などをもとにした、『歎異抄』の真意の解明が急がれるゆえんである。
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   ・   ・   ・   
 日本民族日本人の宗教では、命や財産を奪う災害は「神様が怒り暴れるから」だと信じ、自戒し、心を浄め、身を正し、行為を改め、災難・厄災・災禍をもたらす「怒れる神」を鎮める為に誠心誠意の清明心で「おもてなし」をした。
 「おもてなし」をすれば、災難をもたらす荒神・荒御魂(あらみたま)・怨霊は鎮まり、豊穣をもたらす和神・和御魂(にきみたま)・御霊に「かわってくださる」と信じた。
   ・   ・   ・   
 日本の宗教には、八百万の神々による有りの儘の恵みや御利益はあっても、絶対神による不可能を可能に変える奇跡や恩寵はない。
 よつて、日本の祈りと世界の信仰とは違う。
 ゆえに、日本の寺社で絶対神の奇跡や恩寵を祈ったところで無意味である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、災害をもたらす全ての天変地異は自然現象ではなく「神様の怒り」と信じ、神様の怒りがおさまるように祈り続けた。
 火山が噴火すれば山の神様に、地震が起きれば大地の神様に、大風が吹けば風の神様に、洪水が起きれば川の神様に、「怒りをおさめて御鎮まり下さい」と心の底から祈ったのである。
 その祈りは、縄文時代から変わる事なく受け継がれてきた日本民族の心・精神である。
 日本民族ならば、命を奪う神々の怒りに対して怨む事はないし、神と認めず捨て去る事もせず、涙を呑んで耐えて受け入れた。
   ・   ・   ・   
 日本民族が拒否した相手は二つある、一つは非科学的宗教のキリスト教、もう一つは科学万能イデオロギーマルクス主義共産主義社会主義である。
   ・   ・   ・   
 日本列島は、雑多な自然災害、疫病、飢餓・餓死、大火などが同時発生する複合的災害多発地帯であった。
 縄文人の子孫である日本民族日本人は、数万年前から苛酷で地獄のような日本列島で生きていた。
 日本列島の自然には、花鳥風月と虫の音、苔とよき菌が醸し出すマイナス・イオンや1/fのゆらぎが充満している。
 日本民族日本人の心と精神そして気持ちは、溢れるマイナス・イオンや1/fのゆらぎの中で育まれてきた。
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 日本民族日本人は、「一寸の虫にも五分の魂」として無益な殺生を嫌った。
   ・   ・   ・   
 如何なる道具にも神様や魂・心が宿るとして大事に扱い、使い物ならず捨てる時は、感謝を込めて供養を行った。
 それが、日本神道の「惟神の道(かむながらのみち)」であり、日本民族日本人の宗教・信仰であった。
 それは、相互に補完しながら助け合って「共に生きる」と言う事である。
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 日本の伝統文化では、使えなくなった道具・物はゴミ・廃棄物・粗大ゴミではなかった。
 壊れた道具、醜い道具、歪で障害がある道具でも、何らかの美・価値・意義を見いだし
斬新、奇抜、粋として大事にした。
 例えれば、織部焼である。
 完全な美と不完全な美を共に愛し、醜きも趣があるとして愛でた。
 世に、ムダはない、必要のないものはない。
 それは、物の数が制限された閉鎖された空間・閉塞した社会での無駄なく全てを生かし切って生きる生き方である。
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 日本民族の伝統文化である「おもてなし」とは、利益を得る、金儲けをする、得をする、などの現世利益ではなく、自分本位や自己満足などの自意識を排除し、煩わしさを排除した「さりげなさ」で、相手の身になって気を遣い・思い遣り・配慮する事である。
 それが、「お客様は神様である」と言う事である。
   ・   ・   ・   
 現代日本人の最大の関心事は金儲けで、如何に家族や他人より自分の金を増やすかであった。
 金さえあれば、幸せも、自由も、命も、老後の安心さえも、何でも買って手に入れられる。
   ・   ・   ・   
 現代日本には、高天原の神代から受け継がれてきた日本民族の伝統的精神である「惟神の道」は廃れて残っていない。
 現代日本人は、消費者である客が支払う「金」に対して御辞儀をする。
 それ故に、現代日本人は消費者として「金」で生産者・従業員・店員の頬を叩いても気にはしない。
 「おもてなし」の意味は、昔の日本と現代の日本では違う。
   ・   ・   ・   
 歴史が証明する通り、日本人の「おもてなし」は中国人や朝鮮人には通じない。
 平安時代までの日本は、朝鮮半島や中国大陸から逃げてきた敗者・弱者、災難者・被災者を、別け隔てせず、無条件で受け入れていた。
 が、半島系渡来人はそんな恩を忘れて日本天皇を暗殺した。
 日本民族日本人は、天皇を殺した朝鮮人を嫌った。
 現代日本の中には、天皇殺し・神殺しの朝鮮人を弁護する日本人が存在する。
 が、それは世界でも同様で、韓国に同情して日本を非難する人々が数多く存在する。
 国際世論は、韓国に味方し日本を批判する。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史において、日本に甚大な被害もたらす、日本民族日本人の命を奪う災難・災禍・厄災の大半が朝鮮半島や中国大陸から襲ってきた。
 日本にとって、朝鮮半島や中国大陸は死臭と毒気が渦巻く穢れた地であった。
 日本人にとって中国人や朝鮮人は、「敬して遠ざける」存在で、心を許す相手ではなく、好んで交流すべき相手ではなかった。
 日本と中国・朝鮮の間には、友好や善隣など存在しなかった。
   ・   ・   ・   

🏞95)─4─天保の大飢饉。徳川幕府と町衆の日雇いへの御救い金・御救い米。~No.366 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本列島は、自然豊かであると同時に、雑多な自然災害、疫病、飢饉・餓死、大火が複合的に多発する悲惨で苛酷な居住環境にあった。
   ・   ・   ・   
 江戸は、「壁に耳あり障子に目あり」の油断も好きもない厳しい監視社会であり、えげつないほどに薄情で冷淡で非情なブラック社会であった。
 日本人ほど信用できない人間はいない。
   ・   ・   ・   
 日本人が御上(天皇・朝廷、将軍・幕府、大名・藩)の言う事に素直に従うには、明らかな理由があった。
   ・   ・   ・   
 昔の金持ち・お大尽、地主、庄屋・名主は、現代の富裕層、資産家・資本家、株保有者・土地所有者、企業家・経営者とは全然違う。
 貧富の格差は、昔と現代とは違っていた。
   ・   ・   ・   
 1836・37年 天保の大飢饉
   ・   ・   ・   
 2020年7月29日 読売新聞「文化 歴史
 疫病流行 江戸の緊急給付 迅速
 銀や米、5~12日で
 積立金や町人自治組織の力
 疫病流行による江戸での給付
     |  対象数    |  給付総額    |理由| 
1802年|28万8,441人|銀7万3,094貫文|風邪|
  03年| 4万1,020人|銀6万3,573貫文|風疹|
  21年|29万6,987人|銀7万5,035貫文|風邪|
  32年|30万6,038人|米1万1,467石 |風邪|
  51年|38万1,740人|米1万4,215石 |風邪・米価高騰|
  58年|52万3,076人|米2万3,917石 |コレラ
 鈴木浩三
 江戸時代の日本はたびたび感染症に襲われた。天然痘や麻疹(はしか)のほか、19世紀頃からは、インフルエンザとみられる『風邪』の流行が目立つようになった。
 感染症の大流行や災害などの際には、江戸に住む、行商人や日当で生活する職人など、当時『其日稼(そのひかせぎ)』と呼ばれた人々に対して、銭や米が緊急的に配られた。この給付は『御救(おすくい)』と呼ばれた。
 疫病流行に限っても、別表のように、頻繁に給付されている。人口100万といわれる江戸で、武士をのぞくと人口は60万人ほど。そのうちの半数が対象となっている。これほど対象が多いにもかかわらず、1802年のインフルエンザ流行では、3月17日に給付を決めてからわずか12日で配布を終えた。21年には、2月28日の決定で、実質5日で給付を完了している。
 このスピードの背景には、安定した財源と、必要とする人々の情報を正確に把握できる仕組みがあった。
 財源となる『七部積金(しちぶつみきん)』は、18世紀後半の天明の大飢饉で、其日稼らによる大規模な打壊(うちこわ)しが江戸で発生したことを受けて、1791年に創設された。江戸の町人(地主)が毎年約2万5,900両を拠出し、幕府も基金として2万両を出資した。今でいうファンドに相当し、疫病、飢饉や災害時の緊急的な給付『御救』に備えて備蓄し、ふだんは地主向けの低利融資などで運用されていた。
 こうした給付や運用を担う組織『江戸町会所(まちかいしょ)』は、幕府の監督下ではあったが、武士ではなく、有力商人である『勘定所御用達』10人や、町人たちの代表『肝煎(きもいり)名主』6人が実質的に運用した。
 当時の江戸の『町』は、人別改({にんべつあらため}住民の管理)、防火・消防、市区町村税に似た都市の維持管理費『町入用(まちにゅうよう)』の徴収のほか、簡単な民事訴訟や祭礼まで行い、現代の市区町村よりも大きな権限を持つ自治組織だった。平常時から、町組織を代表する名主や、その配下に位置づけられた大家(おおや)などを通じて町内の住民たちの家族構成や職業、収入状況などをきめ細かく把握していた。だからこそ、いざというときに銭や米をすばやく給付することができたのだ。
 町の上部には、武士である南北町奉行2人と、その配下の330人の与力・同心たちがいたが、彼らだけでは、とても数十万人の都市住民の暮らしを把握できない。
 1854年、2度目に来航したアメリカのペリーに、幕府の交渉責任者となった大学頭、林復斎は『人命を第一に重んじることでは日本は万国に勝っており、それゆえ300年近く太平が続いているのだ!』と啖呵(たんか)を切っている(『墨夷(ぼくい)応接録』)。
 武士たちの治世者としての自信は、実務能力と自治にたけた町人たちの実績によって裏付けられていたのである。
  ◇  
 すずき・こうぞう  経済史家。1960年、東京都生まれ。著書に『江戸の風評被害』など。」
   ・   ・   ・   
 幕府が行った被災者救済は、身分・階層・階級による差別や依怙贔屓はなく、同じ人として士農工商から賤民(非人・穢多)・部落民まで別け隔てせず平等・公平・公正に行われた。
 幕府が掲げたのは日本儒教論語儒教)の「天下万民」であった。
 日本儒教は、中国・朝鮮の中華儒教とは違う。
   ・   ・   ・   
 NHK 知恵泉
 「江戸の危機管理II」(前編)
 天下泰平とされる江戸時代、実は度々災厄に見舞われている。そのとき人々はどう動いたか。江戸時代の危機管理を探るシリーズ第二弾。前編は徳川吉宗の疫病対策に着目する。財政の立て直し「享保の改革」で知られる吉宗は、麻疹の流行、飢饉による疫病のまん延に苦しめられた治世下で医療改革にも乗り出している。そのとき大きな役割を果たしたのがデータの収集と情報の伝達方法、被害を拡大させないためにとった吉宗の知恵を探る。
  ・  ・  
 「江戸の危機管理II」(後編)
 天下泰平とされる江戸時代、実は度々災厄にあっている。江戸時代の危機管理を探る第二弾、後編は幕末に人々を悩ませたはしかとコレラを前に、格闘した人たちから、その知恵を考える。有史以来、人々を悩ませたはしか。そして開国を機に海外から入り大流行したコレラ。この時期は、それまでの日本の医療体制では解決できない感染症の“パンデミック”が相次いだ。この難問に医師はどう対処したか?その後の日本に残した知恵にも迫る
   ・   ・   ・   
 防災情報新聞
○幕府、飢饉対策で御救小屋つくる、天保の大飢饉深刻化、幕藩体制が招いた慢性的飢餓、
 30年後体制は崩壊し明治維新成る(180年前)[改訂]
 1837年4月10日(天保8年3月6日)
 この頃、江戸では米の値段が高騰し、庶民は購入することが出来ず、飢えて行き倒れや路頭に迷う者が多くなっていた。天保の大飢饉である。
 幕府はこの状況に際し、前年1836年12月(天保7年10月)神田佐久間町に御救小屋を建て、江戸生まれの困窮者を収容していたが、この日代官たちに命じて、各街道の江戸への入り口である、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道奥州街道)、内藤新宿(甲州街道)に御救小屋を建て、農村から江戸に出て来た困窮者を直ちに収容するよう命じた。
 天保の大飢饉は、30年(文政13年)、31年(天保2年)の米の不作から端を発する。翌32年(同3年)も全国的な冷夏によって3年連続の不作となった上、翌33年(同4年)は春から異常な天候で暑さが続いたが夏になると一転して長雨が続き、寒さに震え農村では冷害に見舞われる。特に東北と関東では米をはじめ農作物の大凶作で、米価が高騰して庶民の生活を圧迫、飢えによる病人や餓死者が多く出るという大飢饉となった。
 翌34年(同5年)は比較的に天候が順調だったが、農村でも前年の大飢饉で病人や餓死者が多く出て、労働力が回復することなく生産力は低下したままだった。そこへ翌35年8月(同6年7月)の台風による洪水が襲いかかる。
 台風は中国、四国から近畿、中部、関東及び東北を縦断、せっかく育った稲を根こそぎ倒すなど各地に大被害を与えた。そして、とどめは翌36年(同7年)の冷害と暴風雨による全国的な被害である。
 この2年は1833年(天保4年)の時と異なり全国的な大凶作となっている。当然のように翌37年(同8年)にかけて米価は大暴騰し、都市部では米確保のため食料品以外の購買力も落ち、それら生産地では米価の暴騰の上、売上収入減という二重の大不況となった。そのため例外的な地域のない全国的な大飢饉状態が続き、多量の餓死者を出すに及んだ。
 この間の状況を当時の記録書「豊後立石史談」は伝えている。“天保二、三年ごろより、とかく気候不順、秋収穫少なく、天保四年に至りては、夏半ば頃より霖雨数十日、暑熱を覚えず。六月、大洪水。八月、又暴風にて田畑の損害、人家の倒壊、その他被害少なからず。庶民飢渇に苦しむ者ますます多きを加え、かくて(天保)四年の飢饉より中二年を隔てて同七年(36年)夏は気候いよいよ不純にて六、七月に至るも冷気を催し、人皆冬衣を着る““果たして天下の大飢饉となりて、五穀実らず蔬菜果物の類も一として生色無かりき。されば人々は草根・木の芽の類より牛馬犬猫鶏の類まで食い尽くし”“甚だしきは愛子の屍をさえ食む者あるなど” と。
 この当時、飢えた人々は、江戸、大坂、京都など大都市へと救いを求めた。しかしようやくたどり着いても、ここも米あれど、値段は益々高く、人々は路頭に迷い行き倒れとなったのである。
 幕府が江戸に御救小屋を造ったこの1か月前に起きた大塩平八郎の乱は、大飢饉に対する大坂町奉行の不正な対応に対する武装一揆だった。しかしこの蜂起は例外ではなく、一揆をはじめ不正蓄財をしている富商や米穀商の大店に対する打ち壊しが各地で頻発した。
 天保の初年度から続く飢餓状態を当時“7年飢渇”と呼んだが、その間の全国の餓死者は数十万人にのぼったと見られている。この全国的な大飢饉に対し、各藩ではそれぞれ米穀を貯蔵して放出するなど対策を立てたが、それはあくまでも自藩の領内だけのものであり、一方幕府には調整機能はなく、逆に飢饉でありながらも、諸国に江戸への回米(米の輸送)を強要したので、いっそう全国的な米価の高騰を招き、慢性的な飢餓状態を現出させた。
 これはそれまでの幕藩体制(幕府と諸藩による政治・経済体制)が招いた危機的な状態で、天保の大飢饉によってその体制は崩壊を早め、明治維新が成るのはわずか30年後のことである。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1837(天保7)843頁:流浪の民に寝食支給、江戸4宿に御救小屋設置」、「大塩平八郎の乱おこる、奉行の飢饉対策に抗議」、小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅵ 豪雪災害・冷害・干害>4 冷害・干害・飢饉の事例>569頁~571頁:天保の飢饉」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>天保七年 639頁:◎天保の飢饉」。参照:2015年8月の周年災害〈上巻〉「天保6年仙台藩領大洪水など中国から東北へ台風通過」、2017年3月の周年災害「大坂天保8年の大火『大塩焼:大塩平八郎の乱』」)
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 ウィキペディア
 仁杉五郎左衛門(ひとすぎ ごろうざえもん、?-天保13年1月10日(1842年2月19日))は江戸時代の文化から天保期にかけての南町奉行所与力。本名幸生(ゆきなり)。後に幸信(ゆきのぶ)と改名した。駿河国駿東郡仁杉(ひとすぎ)村を発祥の地とする後北条家の家臣・仁杉伊賀守幸通(ゆきみち)から数えて9代目。
 人物
 天保時代には年番方与力に就任し、天保7年ごろに起きた天保飢饉に苦しむ江戸市民のために各地から米を買い集め、市内に開設したお救い小屋で粥を提供し、飢民を救済することに奔走した。5年後の天保12年(1841年)、このお救い米買付に不正があったと旗本小普請支配(前勘定奉行)の矢部定謙が老中首座水野忠邦に告発した。
 この時期、南町奉行筒井政憲だったが、閑職に左遷されていた矢部が返り咲きを狙い、筒井の責任としてこの事件を告発したのである。4月28日、矢部は首尾よく筒井の後任の南町奉行の座に着いた。そして五郎左衛門は同年10月に投獄(伝馬町牢屋敷揚座敷)された。不正とは米業者からの賂、付け届けの類であるが、この当時の習慣から大きく逸脱したものではなく、あまりに片手落ちの処分としている後世の学者もある。
 念願の奉行の座についた矢部であったが 就任後のこの事件の処理が適当でなかったと目付鳥居忠耀が老中水野に告発した。水野とは江戸町政について対立関係にあったこともあり、矢部は就任8ヵ月の12月21日に罷免された。そしてその7日後の28日に鳥居が奉行の座についた。
 その後水野の意を受けて天保改革という名の下に圧政を推進する。お救い米買付不正事件は幕閣の権力争いの具にされた感がある。
 五郎左衛門は投獄の3ヵ月後、天保13年正月10日に獄死している。獄死後の3月21日、評定所で「存命ならば死罪」の判決を受け、二人の男子は三宅島、八丈島へ遠島となり、ここに幕府草創時から続いた与力仁杉家は断絶となった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代を支えていたのは、徳川幕府の全国的金銀銅本位貨幣制度、諸藩発行の地域限定紙幣の藩札、両替商の手形や米問屋の米手形などの民間業界内信用札などであった。
 それは、間接的にオランダ・アムステルダム金融界と繋がっていた。
 その金融基本政策を立案し実行したのが徳川家康であった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の被災対策や被災民救済策の基本方針の原形を作ったのが徳川吉宗であった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代。諸大名は、御公儀(幕府)の施政を真似、他藩の施策に横並びし、領地経営を行っていたが、慢性的藩政赤字(財政赤字)を解消する為の地場産業を興し他藩に差別化を図る商業活動を積極的に行っていた。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府は、悪政や失政で百姓一揆を引き起こし統治能力をなくした大名は改易し、藩を取り潰した。
 仕えるし主君や藩を失った武士達は、家禄という安定した収入を失い浪人という極貧生活に陥り、仕事にありつけなければ最悪の場合には妻や娘を女郎に売って大金を得て生きた。
   ・   ・   ・   
 御救(読み)おすくい
 おすくい ‥すくひ
 精選版 日本国語大辞典の解説
 〘名〙 (「お」は接頭語)
① 「救うこと」をいう尊敬語。御救済。
※禁令考‐前集・第五・巻四八・享保八年(1723)正月「火事に逢候度々、幾度にても妻子共御救可レ被二下置一候事」
② 「おすくいまい(御救米)」の略。
※随筆・一話一言(1779‐1820頃)補遺「御救渡り方一人前玄米一升、小麦五合、大麦二升、都て五日分」
 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
 世界大百科事典内の御救の言及
 【七分積金】より
 …この結果,七分積金を基礎とする江戸の都市改革は,都市下層社会に対する一個の〈社会政策〉を軸として展開することになった。 江戸町会所の第1の機能は,江戸町方全体の社倉=備荒貯穀として,飢饉や災害時における窮民への独自の〈御救(おすくい)〉を実施することにあった。向柳原をはじめ深川新大橋向や小菅などに60棟以上の籾蔵が建設されていき,文化・文政(1804‐30)期には13万~17万石,幕末には数十万石規模の籾が貯蔵されたのである。…
※「御救」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
   ・   ・   ・   
 御救米(読み)おすくいまい
 おすくいまい おすくひ‥
 精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 江戸時代、飢饉、災害などの被災者を救済するための応急施米。おすくい。
※財政経済史料‐二・財政・賑恤・災害救済・宝暦五年(1755)四月日「居宅不レ残致二類焼一候に付、願之通御救米被レ下候間」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
世界大百科事典内の御救米の言及
【救米】より
…江戸時代の困窮民に対する救恤(きゆうじゆつ)策の一つ。多くは飢饉,火災,水害などの災害時,罹災窮民のいっそうの困窮化を防ぐため,幕府,領主などによって与えられる救助米を指し,人々はこれを敬して御救米と称した。これに対して,民間で行われる救済の救助米は合力米,施行米と称される場合が多い。…
※「御救米」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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 救小屋(読み)すくいごや
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 江戸時代、飢饉(ききん)・水難・火災などの天災に際し、困窮民を救済する目的で建てられた施設。同様な施設は、すでに1421年(応永28)室町幕府の将軍足利義持(あしかがよしもち)によって京都五条河原に建てられた例などが知られる。江戸時代には、小屋の規模が数千人を収容するほど大きくなり、幕府をはじめ寺社や個人によっても建てられた。江戸の場合、1742年(寛保2)の隅田(すみだ)川の洪水では新大橋西詰や両国橋際に、1836、37年(天保7、8)の飢饉では神田佐久間(さくま)町一丁目地先などに、1855年安政2)の大地震では幕府による浅草雷門(かみなりもん)前はじめ5か所と上野輪王寺宮(りんのうじのみや)による救小屋が設置され、被災民を収容して食糧を与えた。施行米(せぎょうまい)など救援物資は、江戸の町会所や豪商などから供出させることもあった。また、救小屋では、収容民を稼ぎに出して賃金を取りまとめ、出所する際に復興資金として渡すことも行っている。1866年(慶応2)の江戸市中の打毀(うちこわし)では、蜂起(ほうき)した民衆が救小屋の設置を要求した。[馬場 章]
 『南和男著『幕末江戸社会の研究』(1978・吉川弘文館) ▽南和男著『江戸の社会構造』(1969・塙書房)』
[参照項目] | 飢饉
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 救小屋(すくいごや)とは、江戸時代に地震・火災・洪水・飢饉などの天災の際に、被害にあった人々を救助するために、幕府や藩などが立てた公的な救済施設(小屋)のことである。御救小屋(おすくいこや)ともいう。
 概要
 地方の諸藩でも盛んに作られたが、地方から逃散した人々などが集まる江戸や大坂などの都市部では、特に大規模な収容施設となった。地方からの都市への流入者の増加は、犯罪の増加に直結することから、江戸市中では治安の維持を目的に町奉行所が管理していた。これら施設では宿泊施設のほか、米の支給や職の斡旋を行なわれた。
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 日本人は、心温かく、困っている人に手を差し伸べて助ける、とはウソである。
 日本人は、心冷たく、薄情で、冷淡で、冷血で、困っている人を助けるどころか関わり合いたくない為に見物人・野次馬となり傍観者として離れて見ているだけである。
 その傾向は、現代日本人に強い。
 その証拠が、イジメ、意地悪、嫌がらせなどで、最悪、相手を死に追い込む現実である。
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 江戸時代は過酷で残酷な超現実的ブラック社会であったが、人々は、幕府も大名も、武士も庶民(百姓や町人)も、世の中を少しでも住みやすくする為に頑張っていた。
 それが、「世の為、人の為」や「滅私奉公」であり、「分を弁える」、「身の程を知る」、「足るを知る」という日本民族日本人の生き方である。
 人に必要なのは「寝て一畳、立って座って半畳」という思想である。
 自己責任。自力救済。自助努力。
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 現代の日本人と昔の日本人は、別人のような日本人である。
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 江戸時代の日本には、キリスト教マルクス主義的も入り込む余地はなかった。
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 日本には、哲学や思想はあっても主義主張(イデオロギー)はなかったし、必要としなかった。
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 「日本人は歴史が好き」はウソである。
 現代日本人が好きなのは、興味がある奇想天外な時代劇であって事実に基づいた地味な歴史ではない。
 特に、マルクス主義者や反天皇反日的日本人は日本民族中心史を無価値或いは犯罪的であるとして完全否定している。
 その証拠が、「江戸時代中期後半、田沼意次時代から始まったロシアの日本侵略という危機が日清戦争日露戦争韓国併合で解消された」という事実が歴史から消されている。
 歴史力がない日本人とは、グローバルな高学歴出身知的エリートに多い。
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江戸の風評被害 (筑摩選書)

⛩23)─6─天皇家の歴史に隠された謎が数多く存在する。天照大神=インドの弥勒菩薩=ペルシャのミトラ神。~No.55No56  ④ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の国家仏教は百済仏教で民間仏教は新羅仏教。
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 新羅といっても、古新羅と統一新羅が違う。
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 現代の韓国・北朝鮮は、親日派知日派古朝鮮・古新羅百済高句麗渤海などとの繋がりは乏しく、むしろ反日派・敵日派の統一新羅・高麗・李氏朝鮮大韓帝国などとの関係の方が多い。
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 ヤマト王権百済との主要な交易路は、北九州から瀬戸内海に入る航路ではなく、出雲に上陸し中国山地を越えて吉備に出てそこから舟で瀬戸内海を東進して難波に上陸し、川船に乗り換えて奈良・大和に入国する道であった。
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 ヤマト王権大和朝廷の日本を統一を妨げる反天皇反日本勢力が、国内外に数多く存在していた。
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 6世紀前半 継体天皇の御代。筑紫国造磐井は、新羅と共謀してヤマト朝廷に対して反乱を起こした。
 九州は、関東や東北地方と同様に独立志向が強く、中央のヤマト王権に逆らう地方王朝が数多く存在し、度々ヤマト王権に対して反乱を起こしていた。
 九州北部では、新羅の支援を受けた反天皇反日本勢力が反乱を度々起こしていた。
 新羅の水軍や海賊は、北九州から能登にかけての日本海沿岸に侵略を繰り返していた。
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 大和朝廷は、地方の反乱を迅速に鎮圧する為に奈良を起点とする棒道(軍事道路)を整備していた。
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 日本全国に、反ナラ反ヤマト王権ヤマト大王の大小数多くの王朝が点在していた。
 原因は、弥生の大乱の後遺症であった。
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 日本天皇大和朝廷が行った暴力的日本統一は正当か不当・犯罪か。
 日本武尊熊襲討伐。
 崇神天皇60年 出雲振根による弟の飯入根の討伐伝承。
 雄略天皇7(推定463)年 吉備氏の乱。
 継体天皇21(527)年 九州北部。磐井の乱
 養老4~5年(720~21年) 九州南部。隼人の反乱。
 宝亀5(774)年~弘仁2(811)年 東北。蝦夷征討。大和・蝦夷38年戦争。
 延暦8(789)年 英雄・アテルイ
 多くの人間が、日本の統一を望まず、ヤマト王権大和朝廷による統一国家を否定し、ヤマト大王・大和天皇を唯一の統治者にする事を拒絶し、地方を守る為に武力を用いて命をかけて戦っていた。
 現代ても、日本の国土には反天皇反日本の怨念が潜んでいる。
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 820年 嵯峨天皇弘仁新羅の乱。大和朝廷は、新羅系渡来人が駿河・伊豆で起こしたは反乱を鎮圧する為に軍隊を派遣した。
 半島系移住者は、関東に十数万人が、日本全国では数十万人以上が広く住み、飛鳥・斑鳩時代から移住してきた半島人(弥生系渡来人)の子孫の数は100万人台にのぼっていた、と思われる。
 当時の日本に住む人の総人口は、600万人~700万人。
 大和天皇は懐柔策として、帰化人の祖先を氏神として祀る神社を各地に建立する事を許し、その外来系氏神に神位を与えて日本の神に加えた。
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 2020年8月号 月刊誌ムー「文=古銀剛 
 『日本書紀』成立1300年
 謎の渡来人『秦氏』と光明神ミトラの暗号を解く!!
 神道最高神天照大神』は仏教のメシア『弥勒菩薩』だった!!
 日本人ならだれでも知っている天照大神の天岩屋(あまのいわや)神話が、じつは、仏教伝来後に成立したものだった!?
 『日本書紀』に残された謎の言葉を手がかりとして、日本史上最大のタブーを暴き、秘められた弥勒(みろく)=メシア信仰の系譜を浮き彫りにする!
 序章 『日本書紀』が1300年後に明かす衝撃の真実
 ……
 第壱章 天照大神と天岩屋神話をめぐる深いミステリー
 ……
 第参章 九州北部の岩窟信仰と弥勒崇拝の謎
 岩屋・岩窟が目立つ九州北部の聖地
 九州北部には、修験道の霊山として古来、知られてきたところが多い。たとえば、福岡県中部の宝満山({ほうまんざん}竈門山{かまどやま})、同県南東部の求菩提山(くぼてさん)、福岡県と大分県にまたがる英彦山(ひこさん)、大分・国東(くにさき)半島の六郷満山(ろくごうまんざん)などがそれである。これらの霊山は山岳そのものが崇拝の対象となり、山伏(やまぶし)たちによって渡渉(としょう)され、また厳しい修行の霊場ともなってきた。
 実際にめぐってみるとよくわかるが、これら九州北部の霊山には、共通してひとつの大きな特徴がある。山容が複雑で奇峰(きほう)や奇岩に富み、山中には岩屋・岩窟の類が明らかに多い。そしてそうした岩屋・岩窟には必ずといっていいほど仏像が祀られ、ときには寺社が建ち、信仰上の重要な聖地となっているのである。
 このことは何を意味するのだろうか?
 公伝に先駆けてあった民間レベルの仏教伝来
 『日本書紀』によれば、日本にはじめて仏教が伝来したのは欽明天皇の時代の西暦552年のことである。朝鮮半島百済国の聖明王(せいめいおう)が天皇のもとに使者を遣わし、仏教の功徳を讃える上奏文とともに仏像・経論などを献じたのである。ただし年代については、仏教伝来に関するもうひとつの重要史料『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳(がんこうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』などにもとづき、538年とするのが現在では定説となりつつある。
 もっとも、これは仏教の国家間の正式な伝来すなわち『公伝(こうでん)』の最初であって、民間レベルでは、これ以前から渡来人などを介してすでに仏教は日本に伝来していた、と考えのがなかば常識となっている。
 ……
 6世紀前半には仏教が伝わっていた英彦山
 英彦山の基礎史料のひとつである『鎮西彦山(ひこさん)縁起』は、開山伝説について、およそ次のように記している。
 『継体天皇25年(531)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が来日して英彦山に入り、岩窟に籠(こ)もって修行した。
 すると、たまたま山中で猟をしていた豊後国日田郡藤山村(大分県日田市)の猟師・藤原恒雄と遭遇し、彼に殺生の罪を説き聞かせた。しかし、恒雄は善正の戒めを聞かずに猟を続け、1頭の白鹿を射た。そのとき、空中から3羽の鷹が現れ、傷ついた鹿を檜(ひのき)の葉に浸した水を含ませると、鹿は蘇って逃げ去った。
 これを見た恒雄は鷹が神の化身であることを悟り、自らの殺生を恥じて弓矢を捨て、家財をなげうって岩窟の傍らに祠(ほこら)をたて、善正がもっていた異国の神様を祀った。そして善正の弟子となり、忍辱(にんにく)法師と名乗って練行(れんぎょう)を重ねた』
 つまり、英彦山継体天皇欽明天皇の父)の時代の531年に中国からの渡来僧・善正上人によって開山され、おれが豊後国(豊国)の住民である藤原恒雄=忍辱法師に引き継がれたということになる。神仏習合の色合いが非常に濃い伝承となっているが、忍辱法師が英彦山の岩窟のそばにたてた祠とは、寺院の原型のようなものと考えられよう。
 『鎮西彦山縁起』は元亀3年(1572)の奧書をもつが、仏教民俗学者五来重(ごらいしげる)によれば、平安時代中期以前にまで成立がさかのぼる『熊野権現垂迹(すいじゃく)縁起』に典拠があるという。『熊野権現垂迹縁起』によれば、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、はじめは英彦山に天降り、そこから伊予、淡路、紀伊をへて熊野に移ったが、英彦山に天降ったのは甲寅(きのえとら)年すなわち継体朝の末年にあたる534年だったという。
 こうしたことから、英彦山で6世紀前半にはすでに仏教が信仰されていた可能性が極めて濃厚なのである。
 正史に記録された豊国法師と法蓮の活躍
 英彦山2世となった忍辱法師のその後については、『鎮西彦山縁起』はさらに興味深い伝承を記している。用明天皇(在位585~587)が重い病にかかったとき、忍辱法師が朝廷に招かれ、天皇に仏法の深奧を説いてその臨終に奉仕したというのだ。
 じつは、『日本書紀』にもこれと符合する記述がある。用明天皇2年(587)4月条に、天皇が病気になって仏教に帰依することを望むと、『豊国(ほうこく)法師』が招かれて内裏(だいり)に入ったと書かれているのだ。豊国法師とは豊国(豊前・豊後)にいた法師ということだろう。だとすれば、彼は忍辱法師と同一人物だったとしても不思議ではない。
 ……
 英彦山にはその後、忍辱法師の流れを汲んで、英彦山を霊山として確立させた、優れた僧侶が登場した。それが法蓮である。……
 ……
 法蓮の名は『日本書紀』に続く正史『続日本紀』にもみえていて、大宝3年(703)条によれば、彼は医術の功を認められて朝廷から『豊前国の野40町』を施され、養老5年(721)条によれば、医術によって民の苦を救ったことを賞されて、『宇佐君(うさのきみ)』の姓(かばね)を賜ったという。医術も得意とした『豊国法師』の系譜を継ぐ法蓮が7世紀初頭にかけて実在し、英彦山を中心に活躍していたことは間違いない。
 九州北部に浸透していた弥勒信仰
 ところで、仏教伝来以前に九州北部や英彦山に伝来していた仏教とは、どのような性格の仏教だったのだろうか。いい換えれば、善正や忍辱、法蓮たちはどんな『ほとけ』を拝んでいたのだろうか。
 どうやらそれは、釈迦如来でも薬師如来でもなく、弥勒菩薩だったらしい。傍証をいくつかあげてみよう。
 ……
 弥勒の痕跡はまだある。豊後国宇佐郡に所在する宇佐神宮英彦山と非常に関係が深い神社で、八幡神八幡菩薩)を祀る宇佐神宮欽明天皇32年(571)の創祀(そうし)と伝えられている。はやくから神仏習合がすすみ、8世紀初頭には社殿とともに神宮寺(神社に付随して建てられた寺院)が建てられているが、その寺は弥勒寺(弥勒禅院)と称した。現存せず、寺跡しか残っていないが、この弥勒寺の初代別当つまり最初のトップに任じられたのは、ほかならぬ法蓮であった。
 古代の九州北部では弥勒信仰が隆盛し、なかでもその中心にあったのが英彦山であり、そこは弥勒の聖地として信仰されたのである。そして、ここがポイントになるのだが、そこには同時に岩窟を聖地とし、また修行場とする岩窟信仰が盛んなところでもあった。
 では、この弥勒信仰は具体的にはどこから伝来したのだろうか?そして、弥勒信仰と岩窟信仰の重なりは何を示唆しているのだろうか?
 第四章 大和朝廷弥勒信仰と御窟殿の正体
 九州を横断した新羅の王子アメノヒボコ
 第弐章でも触れたが、日本に正式に仏教が伝来したのは538年もしくは551年で、百済聖明王から欽明天皇に仏像と経典・仏具が贈られたのがきっかけであった。
 このことから、日本は歴史的には新羅よりも百済との結びつきが強いと思われがちだ。たしかに、日本は4世紀から7世紀にかけて百済と同盟的な関係を築いていた。しかし正確にいうと、百済と良好な関係にあったのは、『日本』ではなく、奈良にあった『大和朝廷倭国)』であり、日本列島全体が百済と親密であったわけではない。
 たとえば九州北部の場合は、新羅とは距離的に近く、対馬海峡を挟むものの、船を使えば容易に往来できるので、百済より新羅との関わりのほうが古来、圧倒的に深かった。
 試みに、いくつか証拠をあげてみよう。
 『古事記』や『日本書紀』によれば、垂仁天皇の時代、新羅の王子アメノヒボコが故国日本に帰った妻の後を追い、神宝を携えて来日し、最終的に但馬国に出石(いずし)に住み着いたという。このアメノヒボコ伝説は、かつて新羅の人々が日本に渡来して但馬に住み着いた事実を説話化したものと考えられている。
 ……つまり、九州北部は新羅からの渡来人にとっては日本への玄関口の役割を果たしていた。
 豊国は新羅系渡来人の拠点か?
 また日本列島各地には、新羅系渡来人が自分たちの祖神を祀ったことにルーツを持つと思われる新羅系神社が点在しているが、そのなかでも有力で歴史が古いものは圧倒的に九州、とくに北東部に多い。古代には豊国({とよのくに}豊前国豊後国)と呼ばれるところで、現在の福岡県と大分県にあたるエリアである。
 ……
 そして豊前国には全国の八幡宮八幡神社総本宮である宇佐神宮があるが、宇佐神宮の神官一族のひとつである辛島氏は豊前国宇佐郡に住み着いた新羅系氏族と考えられている。宇佐神宮の祭神である八幡神のルーツに対しても、渡来人の信仰との関わりが取り沙汰されている。
 また、渡来人といえば大和朝廷に強い影響力をもった秦氏が有力だが、秦氏の出身地は新羅とする説が有力だ。『隋書』倭国伝には『筑紫国に秦(しん)王国がある』という謎めいた記述があって論争の種となっているが、これを『九州北部にかつて秦氏の本拠地があったことを示している』とする解釈がある。秦王国は、半島と畿内への中継点のような場所だったのだろう。
 さらに、英彦山を中心とする九州北部に特徴的な岩窟信仰や弥勒信仰、摩崖仏(まがいぶつ)などは、新羅のそれとの親近性を如実に示し出しているといえる。ちなみに、英彦山北岳からは7世紀後半~9世紀に新羅で制作されたとみられる金銅如来立像(こんどうにょらいりつぞう)が見つかっている。
 英彦山の開山も新羅系渡来人か?
 つまり、古代には新羅人は九州北部へ頻繁に往来しており、もちろん住み着く者もあった。新羅と九州北部は同じ文化圏に属することになったのだ。
 これらのことからすれば、おのずと次の結論が導き出される。英彦山を中心とする岩窟系弥勒信仰は、新羅系渡来人の信仰を源泉としていた──。
 ちなみに、第2章で英彦山が中国・北魏からの渡来僧・善正によって開山されたという伝説を紹介したが、この善正も広い意味では新羅系渡来人であった可能性が高い。というのも、歴史的にみると、百済南朝の宋と結びつきが強かったが、それに対して新羅は、北朝北魏とつながりが深かったからだ。善正はおそらく布教のために北魏から高句麗を経由して新羅にいたった僧侶で、さらに東へ布教しようという熱意を抱いて、新羅から海を渡って九州へやってきたのだろう。
 だとすれば、善正が将来し、その弟子・忍辱法師が英彦山の岩窟に祀った『異国の神』とは、弥勒半跏思惟像(みろくはんかしいぞう)だったのではないだろうか。
 英彦山を中興した法蓮が籠もった般若窟(玉屋窟)には、弥勒半跏思惟像が祀られたのではないだろうか。
 忍辱法師や法蓮は、弥勒の化身としての『花郎ファラン)』になることをめざして英彦山で修行に励んだのではないだろうか。
 大和朝廷も席巻した弥勒信仰
 九州北部に対して、一見すると、飛鳥地方や大和朝廷新羅との関係は薄い。
 だが、弥勒信仰に関していうと、それは飛鳥や朝廷にも早くから影響を及ぼしている。
 『日本書紀』によれば、敏達天皇13年(584)、鹿深臣({かふかのおみ}甲賀氏)が百済から弥勒石像を将来した。その後、この像は朝廷の有力者・蘇我馬子の手に渡り、馬子はこれを自宅近くに造営した仏殿に安置したという。この弥勒石像については、小型の半跏像と推定する学説がある。
 推古天皇31年(623)には新羅から来た仏像が葛野(かどの)の秦寺({はたでら}京都・太秦{うずまさ}の広隆寺の前身。秦氏の氏寺)に納められた。この仏像は有名な弥勒半跏思惟像(宝冠弥勒)のことと考えられている。
 前年に聖徳太子が没しているので、日本の代表崇拝者であった聖徳太子の冥福を祈って新羅から贈られたものとする見方が有力である。
 聖徳太子が母のために斑鳩(いかるが)に建立した伝えられる尼寺・中宮寺の本尊である菩薩半跏像(飛鳥時代作)は、寺では如意輪観音像として伝えられているが、おそらく本来は弥勒菩薩像として造像されてものだろうといわれている。
 仏教公伝で百済から贈られた仏像も弥勒像だった!?
 また、6世紀なかばの仏教伝来時にもたらされた仏像も、じつは弥勒像であった可能性があると筆者は考えている。
 ……
 いずれにしても、6世紀なかばから7世紀初頭にかけて、弥勒信仰は大和朝廷にも深く浸透していたのである。
 このことには大和朝廷と友好的な関係にあった百済でも弥勒信仰が隆盛していたことが大きく影響しているのだろうが、6世紀後半から7世紀前半にかけては新羅が日本との外交を重視し、大和朝廷のもとに頻繁に使節を送っていたことも見逃せない。その新羅外交の日本側の責任者が聖徳太子であり、彼を支えたのが新羅系渡来人で、太子のブレーンであった秦河勝であった。
 御窟殿に祀られていたのは天照大神ではなく、弥勒だった
 そしてまた、中央に先んじて弥勒信仰が広まって根づいていた九州北部からの情報や人間の往来によっても、弥勒信仰は朝廷に伝えられていただろう。
 ……
 6世紀後半以降、大和朝廷には弥勒信仰が徐々に浸透し、宮中には弥勒像が安置されるようにんっていった。安置がはじまったのは、おそらく聖徳太子が活躍した推古朝(592~628年)だろう。宮中の弥勒信仰は救世主としての弥勒の下生(げしょう)を願うという信仰が基盤になっていた……。
 この弥勒の祭壇こそが、天武天皇の時代(7世紀後半)に飛鳥浄御原宮にもうけられた『御窟殿(みむろのとの)』の原形であり、天岩屋(あまのいわや)に擬せられる御窟殿に祀られていたのは、じつは天照大神ではなく、弥勒であつた!
 すなわち、天照大神とは、弥勒をベースとして7世紀後半に生み出された神だったのだ!
 第五章
 弥勒から天照大神へ、そして天照弥勒大菩薩へ
 インドから大和朝廷に至る弥勒信仰史
 ここで、これまでの論旨を整理してみよう。
 56億7000万年後に人間世界に降臨し、衆生(しゅじょう)を悟りに導いてくれるという弥勒への信仰は、インドを起源として中国に広がり、5世紀までには朝鮮半島に達した。
 朝鮮半島南東部に興った新羅では、弥勒信仰はエリート青年団の首領「花郎」への期待と結びついて特異な発展をとげ、花郎弥勒像を安置した洞窟で弥勒と一体化する修行に務めた。
 このような岩窟信仰と結びついた弥勒信仰は6世紀はじめに秦氏などを介して日本の九州北部に伝播(でんぱ)し、英彦山を中心に岩窟系弥勒信仰が根づいていった。それは徐々に大和朝廷にも伝わり、6世紀後半から新羅からも直接、岩窟系弥勒信仰が朝廷にもたらされた。
 やがて宮中でも弥勒像が崇拝されるようになり、宮中の一室には洞窟を模した祭壇がもうけられ、弥勒像が安置された。その弥勒祭壇は7世紀後半の天武朝にはより岩窟をもしたリアルなものに発展し、それが置かれた建物は『御窟殿』または『御窟院(みむろのいん)』と呼ばれるようになっていった──。
 天照大神弥勒をモデルにして創出された
 ……
 筆者の推理を披露しよう。
 天武天皇元年(672)の壬申の乱で勝利して即位した天武天皇は、国家の中央集権化を推し進めたが、その一環として、神話も盛り込んだ公的な歴史書の編纂を国家的事業として開始された。すなわち『古事記』と『日本書紀』の編纂である。
 当時、天皇家の祖神は『日(ひ)の神』とか『アマテル(天照)の神』呼ばれていた。それは太陽を神格化した、素朴な自然神である。だが、天皇による国家統治を正当化する歴史書をまとめあげるには、天皇家の祖神をめぐる神話は、ありふれた単純なものであってはならいそれを聞く者・読む者のだれをも魅了するような、ドラマチックで文学性にも富んだものでなければならない。『遠い昔、日の神の子孫が天上から地上に降り、天皇になりました』というレベルの単純なものであってはけっしてならない。
 そこで、国司編纂事業に従事した朝廷のある人物──仮にX氏としておこう──は、宮中にあった御窟殿と弥勒像に目をつけた。
 まず『日の神』と『メシアとしての弥勒』、天武の後を継いだ女帝・持統天皇(天武の皇后)のイメージを融合させて、「女神・天照大神」というキャラクターを創案した。「アマテラス」とはアマテルを敬語的にいい換えたもので、これによって神名に荘重さが加わった。『弥勒上生経』によれば、兜率天上の弥勒の身体は黄金色で、白毫(びゃくごう)からつねに光明をはっしているというので、弥勒はもともと太陽神とリンクさせやすい存在であった。
 『天照大神兜率天になぞらえられる高天原に暮らし、神々を統べている』という設定も練り上げられた。
 ……
 また、天上の神が地上に降臨するという類いの神話は天皇家のみならず日本各地の豪族のあいだで伝承されていたが、X氏はこの降臨神話を『弥勒下生』と融合させ、荘厳な『天孫降臨神話』をも案出した。こうして『古事記』と『日本書紀』が成立した──。
 すなわち、天照大神とは弥勒をモデルに創出された神であった。
 天岩屋神話は古いルーツをもつものではなく、7世紀後半につくられたものであった。
 正史からは消されていった弥勒の痕跡
 しかし、こういう疑問を抱く読者もいるかもしれない。
 本当に飛鳥時代弥勒信仰が朝廷に広まっていたのだろうか。そもそも、宮中に弥勒祭壇など存在したのだろうか。記紀にはそんなことはまったく書かれていないではないか──。
 その疑問はもっともだが、筆者はこう考えている。
 『記紀のもとになる記録や記紀の草稿には、宮中の弥勒祭壇に関する記述は存在したが、記紀の編纂が進んだ天照神話がまとめられてゆく段階でそれは消された──』
 なぜ消されたのか。
 理由は簡単だ。弥勒は当時の日本にとって『異国の神』である。そんな異国神が宮中に公然と祀られていたことが明記されてしまうのは、大和朝廷側として都合が悪い。ましてや弥勒天皇家の祖神のモデルであることが感づかれてしまうことがあっては絶対にならない。
 そのため、弥勒に関する記述は、ごく一部を除いて、記紀からは巧妙に消されていった。
 仏教公伝時の仏像も本当は『弥勒像』と書かれていたのだが、意図的に、『釈迦像』と書き換えられたのかもしれない。だが、御窟殿の記載だけは、弥勒の痕跡を拭ったうえで、あえて『日本書紀』に残された。──天照神話誕生の秘められた祈念碑として、
 そして記紀が成立した奈良時代以後には、宮中から『御窟殿』の影は完全に抹殺されてしまった。
 藤原不比等がアマテラス神話を創案した
 ……
 英彦山を中興した忍辱法師は俗名を藤原恒雄といったが、彼は不比等と同族だったのではなかろうか。
 ミトラと天照大神の奇妙な符合
 インド起源の弥勒(メッテイヤ、マイトレーヤ)への信仰は、当初は救世主(メシア)としての要素は薄かったといわれる。
 その弥勒がのちに救世主としての信仰を強めるようになったのは、古くから終末論的救世主思想が広まっていたイランの太陽神・光明神ミトラ(ミスラ)への信仰と習合したためだ、といわれる。
 そのミトラ信仰がイランから西へも伝播して、古代ローマ帝国でミトラス教を隆盛させたのはよく知られている話だし、原始キリスト教ミトラ教の影響を強く受けたことも、いまではよく知られていることだろう。
 興味深いことに、ミトラス教の神話では、救世主ミトラは岩山から誕生したということになっている。このミトラ神話と、天照大神の岩屋戸神話の符合は、はたして偶然の産物だろうか?
 ミトラも天照大神もともに太陽神として崇められていることも、偶然の一致だろうか?
 これらのことは、はからずも、天照大神がミトラ=弥勒のバリエーションであることを証ししているのではないだろうか?
 パンデミックが預言する天照弥勒大菩薩の降臨
 弥勒を救世主として決定づけることになった経典に『法滅尽経(ほうめつじんきょう)』というものがある。インドにはこれに対応するサンスクリット本が見つかっていないため、中国で作られた偽経(ぎきょう)だと推測されているのだが、この経典は弥勒信仰だけでなく、末法思想をも広まるうえで大きな影響を及ぼしている。
 『法滅尽経』とは、ひと言でいえば、釈迦の教えすなわち法が滅びようとするときのありさまを語った書で、釈迦によって予言書というかたちをとっている。そこには正しい仏法が行われなくなる末法の世の恐ろしさが、リアルに描写されている。
 ……
 つまり世が末法に入るとき、天候不順、疫病の流行、大洪水が引き続き、世界は破局に至る。
 ……
 法滅の危機と世界の大破局の末に、メシア弥勒が降臨し、理想的な平和社会が実現されるというのだ。
 それは途方もなく遠い将来のことだ。…」
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 ヤマト王権大和朝廷は、日本国を天皇(帝)の権力・権威の下に統一する為には、朝鮮半島の敵対勢力と手を組んで反抗する地方独立王朝を全て征服しなければならなかった。
 地方の独立王朝や渡来人達は、朝鮮半島や中国大陸の勢力と結びつく事でヤマト王権大和朝廷から分離独立しようとしていた。
 日本国が1つの統一国家になるか複数の分裂国家連合になるかは、ヤマト大王・日本天皇ヤマト王権大和朝廷の双肩にかかっていた。
 現代の歴史教育は、天皇勢力の武力による日本統一を侵略行為と否定し、日本国を拒否する地方住民の感情を踏み躙る犯罪行為・悪であると教えている。
 天皇制度国家日本の否定、つまり天皇制度を廃絶する為ならば統一国家日本はいらない、と言う事である。
 もし、日本が天皇・帝による中央集権的統一国家を暴力的に建国しなかったら、日本は朝鮮半島や中国大陸の諸勢力の影響を受けて離散集合を繰り返し殺戮に次ぐ殺戮という地獄になっていた。
 それは、中国・朝鮮・チベットウイグル・モンゴルなどの中華の歴史を見れば明らかである。
 反天皇反日的日本人達が望む理想の日本とは、殺戮による地獄のような日本である。
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 現代の韓国人窃盗団は、日本全国の警戒心の薄い寺院に押し入り貴重な仏像や仏画など信仰対象物を強奪し、韓国内の闇市で売って金を稼いでいる。
 如何に無宗教を自称する日本民族日本人であっても、人が崇め崇拝し信仰している尊い宗教関連聖遺物を盗んで金に換えようなどという「罰当たり」な事は、絶対にしない。
 ただし、宗教・神仏を否定するマルクス主義的日本人や日本の宗教を否定するキリスト教原理主義的日本人であれば「罰当たり」をする可能性がある。
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 ローカルな古代日本人とグローバルな現代日本人とは違う。
 その違いは、天皇・皇室、大王・大王家への想い込みの濃淡である。
 特に、神仏を否定し無宗教を自慢する反天皇反日的日本人とは縄文人の子孫である日本民族日本人ではない。
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 奈良時代までの日本は、インド、中国、中央アジアペルシャ、ローマなどの宗教や知識、技術など多くのモノを朝鮮半島を経由して無条件で受け入れていた。
 その仲介をしてくれたのは、親日派知日派諸王朝であって、反日派・敵日派諸王朝ではなかった。
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 日本天皇・日本国・日本民族日本人が感謝するのは、親日派知日派諸王朝であって反日派・敵日派諸王朝ではない。
 ヤマト大王ヤマト王権は、親日派知日派諸王朝から受けた恩に報いるべく、滅亡した親日派知日派諸国の敗者や難民を差別する事なく無条件で受け入れ、差別する事なく土地を分け与え、臣下として姓(かばね)を授け、才能・能力に見合った官位や役職に登用した。
 彼らは、帰化人として、日本天皇に忠誠を誓い、日本国の為に命を犠牲にして働いた。
 帰化人は、逃げ出してきた半島・大陸に帰還するという望みを捨て、日本国に住み日本人となって異国に骨を埋める覚悟で、祖先の本貫を捨てて日本風の氏姓に改名した。
 帰化人と渡来人の違いは、創氏改名したかどうかである。
 ヤマト王権は、忠誠を誓う帰化人を身近に住まわせ、忠誠を誓わない渡来人を都から遠ざけた。
 事実、忠誠を誓わない渡来人達は反乱や暴動を起こし抵抗していた。
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 統一新羅は、日本国への海賊行為で虐殺・強奪・拉致を繰り返す、国交が断絶し、人的な交流が全くない反日派・敵日派の王朝であった。
 古新羅は、ヤマト王権・日本国と戦争を繰り返していたが、同時に多方面での交流を続ける親日派知日派の王朝であった。
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 日本国において、戦争を繰り返す国とは仲が悪いとは限らず、戦争しない国とは友人のように仲がいいとは限らない。
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 日本天皇・日本国・日本民族日本人にとって、反日派・敵日派の統一新羅・高麗・李氏朝鮮大韓帝国は、恩を受けた相手でもなければ、感謝すべき相手でもなく、拒否し遠ざけるべき敵であった。
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 日本民族日本人と朝鮮人は、同じアジア人といっても別種のアジア人であり、民族・部族においても関係性は薄い。
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 日本民族日本人は、乱婚を繰り返して生まれた混血(ハーフ)の雑種民族で、血はよごれに汚れていて、純血種・純種ではない。
 日本民族日本人は、アイヌ人・琉球人と同じ縄文人の子孫である。
 海洋民の子孫であった縄文人は、日本列島を中心に、南は琉球、北は北方領土・千島列島・樺太、西は朝鮮半島南部に広く住み、東シナ海日本海を航路として手漕ぎ舟で行き来し、一部は北アメリカ大陸の北部太平洋岸に移り住んでいた。
 大陸系漢民族朝鮮人は、西方草原の民や北方系草原の民が黄河流域に住み着いた種族の子孫である。
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🌏40)─6─武漢ウイルス。日本人の不安遺伝子とチャレンジャー遺伝子。令和2年。〜No.120  

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 「withコロナ」令和を生きる心理学
 令和の世を襲った新型コロナ禍の終息を見通せないまま、これまで経験のない生活を強いられている。感染抑制と経済活動を両立させる「新しい生活様式」の下で、心を壊さないための知識とは何か。iRONNAでお馴染みの心理学者である杉山崇氏と、家族心理ジャーナリストの麻生マリ子氏がコロナと共に生きるヒントを示す。 
 コロナ禍でもおとなしい「不安遺伝子」が宿る日本人の拠りどころ
 『iRONNA編集部』 2020/07/16
 杉山崇(神奈川大人間科学部教授)
 麻生マリ子(家族心理ジャーナリスト)
 司会・対談構成:梅田勝司(フリーライター、編集者、「PressRoom.jp」記者)
 新型コロナウイルスの感染拡大は、2020年の世界を大戦期のような事態に追い込んだ。現在も決定的なワクチンの開発には至っていないが、各国は独自の対策で新型コロナと向き合い、7月に入ると、経済活動の再開に向けて動き出した国が日本も含めて増えている。
 日本では、事態進行に対策の遅れが指摘されていたが、4月7日に安倍晋三首相が発令を表明した「緊急事態宣言」が、当初予定から約20日後の5月25日まで続き、その間、国民は自粛生活を余儀なくされた。2月25日に出された「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」では、企業にできる限りのテレワークを呼びかけ、各種学校などにも休校を要請し、大半が応じることとなった。
 まだ終わりの見えない新型コロナ禍の中で、私たちはこれまで体験したことのない生活を強いられている。感染抑制と経済活動を両立させる「新しい生活様式」の下で新型コロナと共存するには、心を壊さないための知識が求められる。コロナ禍の発生から今までを振り返りながら、心理学者で神奈川大人間科学部教授の杉山崇氏と、家族心理ジャーナリストの麻生マリ子氏に、対談を通して解説してもらう。
 * * *
 杉山 私の勤務する大学の状況は、テレワーク半分、出勤半分です。やはり大学を維持しなければならないですから。テレワークといっても、子供が自宅待機になっている中では難しい方が多いですよね。
 学生は8月まで完全オンライン授業です。教職員の出勤について、緊急事態宣言発令の前日までは、中間管理職クラスだと、あくまで要請だから普通に出勤と考えている人が多かったですね。それが一転、発令されたらすぐに大学への入構制限とテレワーク導入を決定しました。それだけ緊急事態宣言は威力があったと思います。
 ちょっと話が広がるんですけど、この対応には「同調圧力」を感じました。同調圧力に抵抗すると、イメージも悪くなってしまう。大学に限らず、自社のブランドイメージを気にする企業や店舗などは緊急事態宣言を重く受け止めて、休業や在宅ワークにせざるを得なかったと思います。
 梅田 麻生さんもお子さんがいらっしゃいますけど、大変でしたか?
 麻生 現在、学校は再開されていますが、都内はおおむね6月の初めから分散登校が2週間続き、3週目から一斉登校になりました。2月27日夜に一斉休校要請が出て、取材した中ではおおむね翌週の3月2日か3日から休校に入りました。学校再開の時期に地域差はありますが、休校期間は特定警戒都道府県を中心に5月末まで最長3カ月に及んでいます。
 休校中の学童保育(以下、学童)も地域や学校ごとに致し方ない差や方針の違いがありました。学童の多くは自治体から民間企業へ委託される半官半民で運営されています。お子さんが学校へ行っている時間帯や、放課後の小学生を対象に地域体験学習と居場所を兼ねた「放課後子ども教室」事業が行われている学校や地域では、その時間をパート勤務や傷病の療養にあてていた家庭もあり、その緊急受け入れをする学童もありました。それに伴う学童の支援員の緊急増員など自治体も大変だったと聞いています。
 でも、隣の街に行けば、そもそも学童は常に待機児童を抱えている状態で、そのような対応はできないと言われたり、閉所になっていました。また、預かる学童にしても、医療関係者や生活インフラに関する業務に従事されている家庭や一人親家庭、自宅介護をされている家庭などに限定されていたそうです。そうなると、民間学童や、障害のあるお子さんであれば「放課後等デイサービス」に預けるしかありません。しかし、英会話教室や塾、スポーツクラブの運営する民間学童は、月額8万円ほどかかってしまうという話も取材の中でよく伺いました。
 梅田 今は学校への登校も再開され、学童も同様だと思いますが、各種調査によると、出勤再開後も在宅ワークを取り入れる企業も増えてきたようですね。
 麻生 取材した中では、この機に在宅やリモートワークを活用していく方向に舵(かじ)を切ったり、併用する企業が多い印象を受けています。出社したとしても時差出勤や分散勤務です。これは業務効率化の問題よりも、やはり新型コロナ禍の影響ですね。
 時差出勤や時短という形態をとる企業は、在宅にはできなくても、感染リスクを極力下げるために緊急事態宣言中からその方法を採用していましたよね。コロナがきっかけではあったけれども、効率化にも繋がるから今後も在宅勤務やリモートワークを併用していこうという企業が、最も多いように見受けられますね。
 梅田 今回の新型コロナ禍は、これまで放置されていた社会のさまざまな問題を浮き彫りにして、目に見えるような形にしてしまったというか、現象として顕在化させたような印象があるのですが、それに関して思われるところはありますか?
 杉山 現代社会には矛盾というか、問題がいっぱいあったんですけど、問題をごまかしながらなんとかやってきたわけです。これまでも、問題が極限に行き着いたら大改革が起きたり、果ては革命や戦争が繰り返されてきましたが、新型コロナ禍のように社会を巻き込むような現象が起こると、一番弱いところに影響が集中してしまいます。
 現代社会で最も影響が出るのが、派遣社員・バイトやフリーランスの方たちです。今回、生活や権利を守る社会の仕組みがないまま、政府がその働き方を推奨してきた問題が浮き彫りになりました。
 梅田 社会を回していく上で、社会一般の人たちの心理として、弱者は構造的に必要なんでしょうか?
 杉山 犠牲はどの社会でも必要としています。古代ギリシャや昔の欧米列強でも奴隷制度がありました。便利に使われてくれる人というか、いろんな矛盾や問題を吸収してくれるような働き方をしてくれる立場の人は、どの社会でも時代でも必要だったということでしょうか。
 これはよく言われる立場の上下を取り合う「マウンティング」ではなくて、社会を上手に回すために、臨機応変に柔軟に動いてくれる人が単純に必要なんです。
 麻生 非正規雇用者などが社会の調整弁となってしまっていますよね。実際に、ショッピングモールのテナントでパート勤務されていた方は、3月から営業時間が徐々に短縮されていき、就労時間が短くなって収入減を心配していた矢先に、モールの従業員に新型コロナの感染者が出たため、臨時休業になって、翌日から仕事がなくなりました。突然収入が途絶えて、絶望的な気持ちになったそうです。
 梅田 それで言えば、休業補償も給付金もまだ全然行き渡ってないですよね。だから休業中も従業員に給料を自腹で払える会社はいいんですけど、そうではないところはもうスタッフを切るしかない。緊急事態宣言前後で雇い止めが問題になりましたが、これは社会的に切り捨てられる人から先に切り捨てられたということでしょうか?
 杉山 そう言えると思いますが、実際は自腹で休業中の給料を払えない企業の方が日本では多いわけで、実際とあるタクシー会社は一斉に全社員を切りましたね。これは、その間に失業手当をもらってくれ、というアイデアでしたが。
 麻生 Uberもフルタイム勤務の従業員を対象に、世界で3千人以上の解雇を5月中に2度行ってますね。計6700人もの大規模な人員削減です。事業所の閉鎖や統合も行われました。コロナ禍で配車サービス事業が80%減少したことが主な理由です。
 Uber Japanでも日本進出当初から数々の事業立ち上げに参画してきた日本人社員が解雇された事例もあります。一方巣ごもり消費で、Uber Eatsの配達員が担う仕事量は増加していますが、配達員は独立した一業者としての契約なので、社会的には弱者の立場といえるでしょうか。
 梅田 となると、今回の新型コロナ問題では正社員も雇用の危機にさらされている。インターネットでは「おかしいじゃないか」という声が湧き上がっていましたが、時期的な問題もあって大規模デモなどは起きませんでした。米国はお構いなしにデモをやっていますけど。
 杉山 日本人は、あまりデモなどで暴れない国民性なんです。まあ昔からですね。江戸時代にデモでもしたら打首ですからね。切り捨て御免の国でしたから。
 だから、もともとあまりデモの文化がないというんでしょうか。戦後になってから、学生運動の時代の活動家たちがデモをしていましたが、別にみんながデモをしたというわけではなくて、「ノンポリ」と言われる学生運動に無関心な学生たちがけっこういました。今の日本でデモを起こして何かが変わると思ってない人はけっこう多いかもしれないですね。
 というのも、日本人には会社に協力しようとするマインドが働くんです。いわゆる日本人気質というものです。組織に協力的なマインドを持った人しか日本では生き残れなかった。昔は村社会が組織ですから。村社会に協力的な人だけが生き残れる社会だったから、どうしても協力しようとする遺伝的な傾向が働いた。そういうマインドの人が子孫を残してきた結果が現在ですからね。
 といいつつも、大正の近代化以降は、協力的でなくてほぼ村八分になるような一部の人が社会を変えてきたりしてきたんですけどね。でも、大多数はやっぱり村社会に協力的な人たちですよ。そういう遺伝的傾向を持った人が日本人は多いですね。
 麻生 米国の方からは「この情勢下で、なぜ日本人はおとなしく暮らしているのか」とまで言われました。
 梅田 日本人はあまりお上に逆らわない傾向がたしかにある気がします。SNSで声を上げている人はいて、時々盛り上がることもありますが、日本の根本は変わりませんね。
 杉山 心理学的に説明すると、「不安遺伝子」を持ってる人が世界で最も多い国の一つが日本なんですよ。不安を解消する方法はいろいろありますが、そのうちの一つが大きな組織の一部になってしまうことです。孤立は不安を高めるため、大きな組織と一体感を得ることで、自分が大きくなった気持ちになれる。だから、組織との一体感を求める人は多いです。
 不安遺伝子とは別に「チャレンジャー遺伝子」というのがあって、これを持ってる人そのものが日本人では少ない上に、不安遺伝子があるとチャレンジャー遺伝子を働かなくしてしまう。不安遺伝子とチャレンジャー遺伝子学が拮抗して逆に身動きが取れなくなる。
 梅田 今回の新型コロナ禍ではマスク不足が続いて、いろいろな企業や工場などがマスク作りに取り組み始めましたが、それはチャンレンジではないんでしょうか?
 杉山 社会全体が「命を守れ」をスローガンのようにしているので、「みんなの身を守る」という流れに乗ることで、自分たちが大きくなった気持ちになれると思うんですよ。
 何より、それは企業戦略としてマスク製造・販売で名が知られることにもつながるので、不安遺伝子の働きによるものといっていいと思います。
 あと、マスク製造自体は、あまりチャレンジにならないですね。作り方は分かっているから、誰もやったことがないことをやるレベルのチャレンジではないんです。分かっていることで確実に結果が出ることやろうというのは、不安遺伝子が大好きなこと。マスク作りをするものづくり企業が増えるのは、日本人的な感覚として間違ってはいないんです。
 次回はさらに、コロナ禍で浮き彫りにされた人間関係の心理について読み解く。
 すぎやま・たかし 神奈川大人間科学部教授、同大心理相談センター所長、臨床心理士。昭和45年、山口県生まれ。学習院大大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。専門は臨床心理学、応用社会心理学産業心理学など。著書に『ウルトラ不倫学』(主婦の友社)など多数。監修書に『マンガでわかる 心理学的に正しいモンスター社員の取扱説明書』(双葉社)。
 あそう・まりこ 家族心理ジャーナリスト。昭和52年、福岡県生まれ。出版社勤務などを経て現職。生きづらさの背景として、親子・母子関係に着目。家族問題、母娘関係や子育て、孫育てなどをテーマに取材活動を続ける。そのほかにも家族問題に関する心理相談を行っている。
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