💖5)─5─日本人は嫌われながらも朝鮮人やアイヌ人を感染症から強制的に救っていた。~No.18No.19No.20No.21 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の歴史とは、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火など複合的災害多発地帯で如何にして生きてきたかという縄文人の子孫だけの歴史である。
 日本の歴史を見れば、現代起きている深刻な出来事の大半が過去にも起きており、歴史を見れば初めての事ではなく、そして想定外な事ではない。
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 いい事をする日本人がいれば(2割)、悪い事をする日本人もいる(3割)、その他大勢は関わりたくない巻き込まれたくない面倒臭いとして傍観者となり素知らぬ顔で立ち去る(5割)。
 つまりは、日本人ほどあてにならない頼れない人間はいない。
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 戦前の日本は、感染症を日本本土に侵入させない為に攻撃的防疫策として、感染症が蔓延している朝鮮・中国・台湾などで日本語による近代医学と公衆衛生学を普及させ、嫌がる地元住民に対して強制的に日本式防疫生活を押し付けた為に反日暴動が頻発した。
 台湾では、暴力と宥和の二面方針で成功し、親日派知日派となって日本に協力した。
 中国と朝鮮でも二面方針で行ったが失敗し、反日派敵日派となぅてテロ行為に暴走した。
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 日本人の善意は、台湾人では通用したが、中国人や朝鮮人では通用しなかった、アイヌ人が理解したかどうかは不明である。
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 日本人は、歴史を愛し、祖先を大事にする、はウソである。
 現代日本人は、歴史を捻じ曲げ、歪曲し、改竄し、捏造する。
 現代日本人は、都合の悪い事は全て先祖に押し付け、都合が良い事は自分の事だと自慢する。
 現代日本人の優れているところ賢いところは、そういう所である。
 そういった日本人とは、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派、革新派そして一部の保守派、メディア・報道関係者、学者・教育者、知識人、教養人、専門家、評論家、解説員、人権派護憲派良識派、良心派、自称正義派、道徳派、人道派そして反天皇反日的日本人達である。
 一部の右翼・右派・ネッヨウヨクも含まれる。
 特に、歴史を自慢げに語る高学歴出身知的エリートに多い。
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 昔の日本人、祖先の日本人は憐れである。
 外国人はおろか日本人からも爪弾きにされて嫌われている。
 事実がそこにあるのに、なかった事として歴史の闇に葬られている。
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 現代日本人の心は、美しいどころか吐き気がするほどに醜悪でおぞましい。
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 2020年5月号 Hanada「武漢肺炎、日本は負けるな!
 感染症と日本人 知られざる闘いの歴史
 八幡和郎
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 アイヌ天然痘予防
 ジェンナーの発見の6年前には、筑前秋月藩の緒方春朔(しゅんさく)が人痘種痘法(欧米では早くから行われていたが、危険を伴ったので牛痘法の発明後は廃れた)を試みているし、1810年には、ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後に牛痘法を施しているが、本格的な普及は長崎と関係の深かった佐賀藩の取り組みに始まって全国に広まった。
 そんななかで、福岡藩蘭癖(らんぺき)大名の黒田長溥(ながいろ)が、近臣神谷(こうや)宅之丞の二男に種痘を接種したところ、亡くなってしまい、長はこれを気に病み、明治になって子の長知(ながとも)が留学するときに、その兄弟でのちに三井の大番頭となって鉱山開発などの活躍する團琢磨を一緒に留学させている。
 幕府も1857年にアイヌ人たちの天然痘流行に対処するため、箱館奉行の村垣範正の要請で専門家が江戸から派遣されて広く種痘が行われた。翌1858年には江戸の神田お玉ヶ池に種痘所が設置され、明治初期の1876年には天然痘予防規則の施行によって幼児への種痘が義務付けられ、天然痘制圧に成功している。
 また、朝鮮統治にあたっても、天然痘で毎年、1,000人を超える死者を出していたので、牛痘の接種を衛生政策の根幹に据(す)えたが、当時、欧米人も嘆いたように朝鮮の衛生概念は低く、迷信も根強かった。朝鮮人撲滅を狙って行っているといった風評も流布(るふ)されていたが、それを押し切って普及させた。これらは、日本人がアイヌや朝鮮の人たちに対して人道的な統治を行っていた証左(しょうさ)であろう。
 最近は業績の多くの部分に疑問符が呈されているので細かく紹介したいが、野口英世がロックフェラー医学研究所の研究員として梅毒や、エクアドルやガーナでも黄熱病の研究に成果を上げ、3度もノーベル賞候補に上ったことも忘れてはならない。
 ペストの思わぬ副産物 世界と日本における主な感染症の歴史を少し振り返ってみると、世界史上最大のパンデミック(世界的流行)は、14世紀におけるペストの流行だ。ペストはクマネズミに寄生するノミを宿主とするが、モンゴル軍の侵攻で東西交易が盛んになることで西ヨーロッパに拡がり、1348~1353年の間に、1億人ほどの人口だった西ヨーロッパで2,000~3,000万人が死んだと言われる。
 これがユダヤ人の仕業(いわざ)だと言われて大規模な迫害が行われる不幸があったが、ベネチアで感染が疑われる地域からの船を30~40日停留させる検疫制度が考案されたり、人口減で農民が不足したため、農民の立場が強くなり、自作農が増加、15世紀にルネサンスを生む社会的背景になったりもした。
 いうまでもなく、パンデミックはすべての国家や民族にとって災難である。しかし世界の歴史をみれば、それは常に逆転のチャンスでもあった。モンゴルに打ち破られ、それが持ち込んだペストで絶望の淵に落ち込んだイタリアは、その地獄のなかから黄金のクアトロチェント(15世紀)にルネサンスの花を開かせて、それがヨーロッパ文明による世界征服をもたらした。
 日本は太平洋戦争で焼け野原になり、GHQに社会をズタズタに破壊されたが、そのあと、白地に絵を描くように最強の工業社会を作り上げた。それに先だっては、関東大震災のあとの東京を世界に恥じない帝都として再建しているし、伊勢湾台風の復興事業への評価も高い。
 ところが、バブル崩壊阪神淡路大震災東日本大震災からの復興は、まことにお粗末だった。東日本大震災のあと、私は早速、『東北出身の後藤新平が千載一遇のチャンスといい、喜々として復興計画を練ったのに倣(な)え』と提唱したいが、一部からは不謹慎と言われ、復興計画はなんとも後ろ向きなものに終始している。
 新型コロナウイルス騒動の経済に対する打撃は甚大であるし、経済も財政も大きな債務を背負うことは避けられないが、これを改革の契機にして経済成長のチャンスとみることで、マイナスを上回る果実をえることは可能である。」
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 日本民族日本人は、縄文人の時代から日本列島特有の風土病と共生して生きて来た。
 新たに中国大陸や朝鮮半島から新たな人間が渡来すると、人の移動と共に新たな疫病が日本列島に上陸して縄文人達に蔓延し、毒性の強い病原菌(ウイルス・細菌)であれば縄文人の命を奪った。
 日本民族日本人の命を奪う疫病は、中国や朝鮮などの海の外から襲来して来ていた。
 日本民族日本人は、清き水で身も心も洗って浄め、死をもたらす疫病・病原菌を持つ血などの穢れを清き水で流し、清き水のように生きようとした。
 日本神道では、黄泉国(死者の国)から生還した父神・伊邪那岐命イザナギノミコト)が穢れた体(死と血)を清き水で洗い浄めて生まれた女性神天照大神最高神として祀り、男性神素戔嗚尊スサノオノミコト)の霊力で疫病退治の神事を行ってきた。
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 素戔嗚尊は、最初に朝鮮半島へ降臨したが、余りにの疫病が蔓延する穢れた土地ゆえに朝鮮を嫌って日本列島に逃げ出した。
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 縄文人の子孫とは、日本民族日本人、アイヌ人、琉球人であった。
 朝鮮人は、縄文人とは縁もゆかりもなく、日本民族日本人との血の繋がりは限りなく薄い。
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 幕末。攘夷激派が、安政6(1859)年に外国人を襲撃して殺し始めたのは、前年からコレラが全国で大流行し夥しい死者を出した原因は、夷人が疫病(コレラ菌)を浄き神の国日本に持ち込んだからだと憎悪したからである。
 日本民族日本人は、外国を知らない無知蒙昧から外国人を殺して暴走したわけではない。
 外国人を殺した攘夷派は、狂信的拝外主義や偏狭的的差別主義の殺人鬼・テロリストではなかった。
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 清国末に起きた義和団事件の原因は、白人宣教師が不法入国し、無許可で布教活動をして多くの中国人をキリスト教に改宗したが、同時に彼らが入り込んだ山東半島黄河下流域などでコレラが蔓延して夥しい中国人が病死したからである。
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 義和団の乱(ぎわだんのらん、中国語: 義和團運動; ピン音: Yìhétuán Yùndòng)は、1900年に起こった、中国の清朝末期の動乱である。義和団事件義和団事変・北清事変(ほくしんじへん)・北清事件(ほくしんじけん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。

 「扶清滅洋」と清朝の宣戦布告
 義和団の動き
 山東省から押し出された義和団は直隷省(現在の河北省と北京)へと展開し、北京と天津のあいだの地帯は義和団で溢れかえる事態に至った。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収することによって義和団は急速に膨張した。そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった。そのため北京と天津の間は寸断されたのも同然となる。
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 近代国家としての日本と中国・朝鮮の違いは、如何に国家の覚悟をもって国民を守ったかである。
 国家の覚悟としては、昔の日本人と現代に日本人とは真逆な正反対である。
 その意味で、国家として国民を守るのは昔の日本であって現代の日本ではない。
 昔の日本は潔く浄く爽やかであったが、現代の日本は不純である。
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 人類の歴史の事実から、人の移動と同時に疫病も移動し、疫病がなかった土地で感染爆発を起こし大勢の命を奪った。
 大航海時代とは、疫病の時代であった。
 アステカ王国インカ帝国は、ヨーロッパ由来の天然痘で滅亡した。
 ヨーロッパには、中南米由来の梅毒が蔓延した。
 帝国主義時代もまた疫病の時代であった。
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 江戸時代までの日本は、世界的疫病の時代を生き残る為に、水際対策として鎖国をおこない疫病の侵入を食い止めた。
 明治以降の日本は、疫病の侵入を食い止め疫病感染爆発を封じ込める為に、西洋の近代医学と公衆衛生学を必死に学び、日本人に潔癖を強制した。
 日本人の清潔好きは明治からで、江戸時代までの日本は貧しく不衛生・不潔であった。
 歴史力のない現代日本人には理解できない。
 江戸時代の平均寿命は、水が汚れ、不衛生と栄養不足で40歳ぐらいであった。
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 尊王攘夷において、日本と中国・朝鮮では意味合いが違う。
 現代の日本人は、歴史力も宗教観念もない為に、尊王攘夷はもちろん水に流すの真意が理解できなくなっている。
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 徳川幕府は、適材適所に従い、家柄や身分に関係なく有能・優秀であれば下級武士・軽輩の身であっても重要な役職を与えて仕事を任せた。
 それが、成功する時もあれば、失敗する時もある。
 現代の歴史教育は日本遅れた土地史観・日本人劣等史観から、成功例ではなく失敗例のみを教え、人道貢献や平和貢献を知らせない。
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 江戸後期。徳川幕府は、北から侵略してくるロシアから母国を守るべく、蝦夷地・北方領土四島防衛の為に東北諸藩に出兵を命じ配置した。
 幕末は、ペリー黒船艦隊来航から始まったわけではない。
 江戸幕府は、現代日本とは違って理不尽な外圧に屈する事なく正論を持って抵抗し、現代日本人とは違って平和を守る為ならば戦争を辞さず、死を怖れず、死を覚悟していた。
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 村垣 範正(むらがき のりまさ、文化10年9月24日(1813年10月17日) - 明治13年1880年)3月15日)は、江戸時代末期(幕末)の旗本、外交官(外国奉行)。初名は範忠。号は淡叟。通称は与三郎。官途は淡路守。
 略歴
 文化10年(1813年)江戸築地で旗本・村垣範行の次男として生まれる。村垣家は代々庭番役を勤め、祖父・定行は松前奉行・勝手掛勘定奉行まで上った。その功により範正は天保2年(1831年)、新規に召し出され小十人格庭番となり、弘化2年(1845年)には細工頭、安政元年(1854年)には賄頭を経て勘定吟味役に抜擢。海防掛・蝦夷地掛として同年3月より蝦夷地・樺太巡視を行い、日露国境を確認。10月に江戸に帰府した。
 同年、ロシアのプチャーチン艦隊の再来日に際して、筒井政憲川路聖謨らとともに露使応接掛として伊豆下田に赴任した。翌年以降、箱館表御用、内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用、東海道筋川々普請掛などを歴任。安政3年(1856年)7月には箱館奉行に昇進し、9月には従五位下・淡路守に叙された。先任の堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。1857年にはアイヌの間で蔓延していた天然痘対策のために幕府に種痘の出来る医師の派遣を要請し、桑田立斎らが派遣されて大規模種痘が行われた。これは幕府が正式に認めた初の種痘であった。安政5年(1858年)には安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務するなど能吏ぶりを買われた。

 文久元年(1861年)ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠するという事件(ロシア軍艦対馬占領事件)に際しては、箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めた。また箱館港の砲台建設も促進した。文久3年(1863年)6月には作事奉行に転じ、翌元治元年(1864年)には西の丸留守居若年寄支配寄合となり、一線から退く。明治元年(1868年)には病のためと称して隠居、淡叟と号した。明治維新後は官職に就かず、明治13年1880年)に東京にて没した。享年68。墓は谷中墓地(東京都台東区)に建てられた。
 遣米使節の護衛として咸臨丸に乗船した軍艦奉行・木村喜毅(芥舟)は、村垣を「機敏にして吏務に練達す」と評した。一方、福地源一郎(桜痴)は「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と酷評している。
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 桑田立斎の墓
 蘭方医。東蝦夷地・クナシリ島でアイヌに強制種痘を実施。
 墓所:東京都台東区橋場1-4-7 帰命山 保元寺(浄土宗)
 桑田立斎は江戸の蘭方医新潟県新発田藩士・村松喜右衛門の次男として生まれ、人痘法で種痘を行っていた医師・桑田玄真の養子となる。
 安政4年、幕府の求めに応じて、深瀬洋春とともに、蝦夷地でアイヌに対して強制種痘を実施した。
 深瀬洋春は西蝦夷地を担当した。桑田立斎は東蝦夷地を担当しクナシリ島まで種痘を実施した。立斎と助手たちが実施した種痘は6400人に登った。箱館奉行・村垣範正は、東蝦夷地のアイヌに種痘を実施するのは抵抗があって困難だろうから、立斎にも西蝦夷地での実施を推奨したが、立斎の兄がクナシリ島に在住していたため、彼に会うためにクナシリ島に渡ることを希望して、東蝦夷地での実施を選択した。
 特定の地域での大規模強制種痘はこれが世界初のことである。
 翌年には深瀬洋春が斜里および樺太で、井上立長が千島で種痘を実施した。この年の3月には、箱館近郊の諸村からも実施の請願があったので、田沢春堂に命じて巡回種痘を行った。
 参考書
 桑田忠親/著『蘭方医桑田立斎の生涯』(1985)中公文庫
 蝦夷地の種痘について以下の資料に記載がある。
 函館市史 デジタル版 通説第1巻第3編第5章第13節-1 衛生
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 日本医史学雑誌 第56巻第3号(2010)  427–436
 新出の平沢屏山のアイヌ種痘図に関する一考察 ―オムスク造形美術館所蔵の「種痘図」を巡って―
 松木明知
 弘前大学大学院医学研究科麻酔科学講座
 受付:平成21年8月5日/受理:平成22年7月22日
 要旨:1857年箱館奉行村垣範正は幕府に蝦夷地のアイヌへの強制種痘を建言した.この重要性を理 解した幕府は桑田立斎ら数人の医師を蝦夷地に派遣し,彼らは1857~8年に苦労しながら廻郷種痘した.箱館の商人杉浦嘉七は村垣の英断を顕彰するため平沢屏山に桑田らのアイヌ種痘の光景を描 かせて1857年にそれを村垣に献上した.富士川遊の伝えた原図の住所は未だ不明である. オムスク造形美術館所蔵の屏山の種痘図と富士川の伝えた図を比較すると,基本的構図は同じで あるが,細部の点で異なった部分も見られ下絵の存在が示唆される.村垣の公務日記には図に見ら れるような桑田らの種痘実施の記事はないので,屏山はこのような光景を見ることなく描いたと推察される.
 キーワード:村垣範正,桑田立斎,杉浦嘉七,平沢屏山,アイヌ種痘図
 はじめに
 箱館奉行村垣範正(淡路守,文化10,1813~明 治13,1880)は安政3年(1856)12月17日から翌 安政4年(1857)3月24日まで長万部,須津(寿 都),岩内,島小牧(島牧),沙流,白老,有珠, 鷲の木を含む蝦夷地を巡回視察1) したが,そこで 見聞したのは痘瘡の猖獗に怯えるアイヌたちの姿であった.この惨状を改善するためには牛痘種痘 の実施普及以外に方法はないと考えた村垣は幕府 に対してアイヌへの強制的種痘を建言した.建言 の書状は巡回視察中の村垣が安政4年1月19日 に須津(寿都)で認めたものであった2).事態を 重く受け止めた幕府は早速種痘医を雇って蝦夷地 に派遣することに決定し,この旨は3月3日箱館 に伝えられ,巡回視察を終えて箱館に帰ったばか りの村垣は3月26日にこのことを知った3).幕府 は江戸から桑田立斎と弟子3人そして箱館出身の 深瀬洋春などを派遣した.これが安政4,5年の 蝦夷地種痘として知られ,箱館の豪商杉浦嘉七はアイヌ絵師平沢屏山(ひらさわ びょうざん,文 政5,1822~明治9,1876) 4)–7) にその様子を描か せた.その絵はアイヌ種痘図として知られ,後に 錦絵にもなった8).なおアイヌ種痘図は様々な名 称で呼ばれているが,本稿では一般的名称として 「アイヌ種痘図」としておく. 一方,安政5年(1858)に幕府は欧米各国と修 好通商条約を締結したが,これを承けて翌安政 6年(1859)6月に神奈川(横浜),長崎と共に開 港した箱館(函館)は平成21年(2009)に開港 150周年を迎えている.これを記念する各種の行 事が行われているが,その一つとして市立函館博 物館では「アイヌの美―カムイと創造する世界 ―」と題する特別企画展が7月18日から9月6 日まで開催されている.アイヌの生活用具,衣服, 装飾品,祭祀・呪術用具などサンクトペテルブル グのロシア民族学博物館,オムスク造形美術館所 蔵の資料227点に市立函館博物館および北海道開 拓記念館所蔵の関連する資料を加えた展覧会であ る.
 この中でオムスク造形美術館から出展された平 沢屏山による12枚のアイヌ絵は本邦初公開であ り,その中の1枚はアイヌに対する種痘図である. この図を仔細に観察すると,従来われわれに知ら れていたアイヌ種痘図と些か異なることが分かっ た.そしてこのことはアイヌ種痘図の成立に関し て新しい見解を提供すると思われるので,新出の 「種痘図」を紹介し,併せてアイヌ種痘図の成立 に関して私見を述べてみたい.

1 オムスク造形美術館所蔵の 「種痘図」について
2 アイヌ種痘図の系譜
3 オムスク造形美術館所蔵の「種痘図」と 森田宏氏所蔵の「蝦夷種痘図」との比較
4 平沢屏山の図に見られるアイヌへの 種痘がいつ箱館で行われたのか

 おわりに
 桑田立斎らによる安政4年(1857)のアイヌへ の種痘は,平沢屏山のアイヌ種痘図によって広く 世に知られているが,立斎が箱館滞在中,この図 に見られるような奉行の村垣が臨席しての多人数 のアイヌに対する種痘は行われなかったと考えら れる.立斎側の記録にも屏山が同道して種痘風景 を描写した記録はない.屏山が実際の接種の光景 を目撃した可能性は残されているが,見たとして もそれは種痘医1人による接種であったと思われ る.屏山は世話になっていた箱館の豪商杉浦嘉七 の意を受けてこの絵を描いたが,嘉七の目的は村 垣淡路守の業を頌徳するためであった.この図は 安政4年(1857)10月に奉行の村垣淡路守に献上 され,村垣は箱館医学所頭取の塩田順庵に讃を依 頼した.これが現在流布している各種のアイヌ種痘図の基になった原図であるが,新出のアイヌ種 痘図は原図の下絵を基に描かれたと思われる.こ の原図の下絵は未だ知られていない. 本稿を草するに際して市立函館博物館の霜村紀 子氏,北海道開拓記念館の三浦泰之氏に種々ご教 示を戴いた.ここに記して感謝の意を表する.
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 近代日本医療の権威には、内務省衛生局、帝国大学医学部、陸軍軍医部、海軍軍医部の少なくとも4つが存在し、学説や治療方法をめぐって反目したり協力したりしていた。
 それが、ある意味で医学・医療における硬直化を防いでいた。
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🌈58)─1─古き伝統的形式美は在原業平の和歌(言霊)から始まった。『伊勢物語』。~No.94No.95 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族の伝統的形式美や言霊=日本国語は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火など複合的災害多発地帯日本の中から生まれた。
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 2020年7月号 正論「日本が好き! ルールには必ず理由がある 対談 井上和彦×壱城あずさ
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 壱城 日本人の良いところって助け合えるところだと思います。なのに、悪いところをみると、引きずりおろして自分が上がろうというような感じを受けます。批判するばかりでなくて、手をとって一緒にあがって行こうというふうにできたらいいなと思います。
 一人でできないことを、みんなで協力して助け合えるのが日本人の良いところだと思うんです。今それが少し欠けているように思いますが、情の厚さだったり、やさしさだったり、思いやりというのはどこの国よりもあると思います。私は日本人の『美しい心』が好きです。日本人であることを誇りに思います。この美しい心を大切に、みんなで助け合える心をもっと豊かに持てたらいいなと思います。」
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 日本の伝統的形式美と言霊=日本国語は、有りの儘の姿、その佇まいとしての偽らざる風情である。
 ローカルな伝統的形式美と言霊=日本国語は、皇室の雅に繋がっている。
 伝統的形式美と言霊=日本国語とは、穢れなき清明光明な天皇の御威光である。
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 穢れなき清明光明な天皇の御威光による天皇の政(まつりごと)は、私欲・俗欲・強欲に塗れた穢れ多き政治権力や宗教権威ではなかった。
 それ故に、天皇は神聖不可侵の存在、神の子孫、神の裔、現人神として護られてきた。
 それが、天皇の正当性ではない正統性であった。
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 2020年7月号 正論「なぜ私は『業平』を書いたのか  高樹のぶ子
 ……
 『伊勢物語』は古来、人気があって日本中でずっと読み継がれてきたわけですけれど、その主人公とされる在原業平が実際にどういう人物であったのか、どんな一生を送ったのかは誰も書いておらず、分からないのです。主人公は業平であろうと言われてきましたが、『伊勢物語』自体がいつ成立したのかも作者もはっきりしないのです。
 おおよそのところは業平自身が書いたのだ、という説もありますが、あくまでも一説であって、そもそも後世に書き加えられたとみられる段(章)もあるのです。あえていえば13世紀に藤原定家が全部、それまであったものを書き写して、125段にまとめたものがそれ以降、『伊勢物語』として流通しているのですが、それ以前にいろいろ加筆や削除があったとみられます。
 ……
 ただ歴史的には、在原業平をモデルとして『源氏物語』が書かれたのは間違いないでしょう。だから私は逆に、『源氏物語』を参考にして今度の『業平』を書いた、というところもあります。紫式部が業平をモデルに『源氏物語』を書いた、それを私が1000寝ん経って逆にいただいて新しい業平像をつくった、ということになります。
 業平はいわゆる『東下り』で武蔵国(現在の東京都・埼玉県)、さらには陸奥国(東北地方)まで旅に出ています。業平は高子({たかいこ}のちの陽成天皇の母)との恋愛関係が非常にまずい結末になって、都から逃げ出したというべきか、ほとぼりを冷ますために東下りしたわけです。この東下りを下敷きに、紫式部は『源氏物語』の主人公・光源氏の須磨・明石(現在の兵庫県)行きを書いているのです。
 ……
 日本の美は平安時代由来
 ……
 新聞連載をしていた昨年には、ちょうど平成から令和への御代替わりがありました。そこで感じたことは、日本の美というものは結局、平安時代から、業平からきているということでしょう。その美というのは『貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)』、つまり西行鴨長明松尾芭蕉のような人たちが権力から距離を置くことで美に生じる、それが『あわれの美』です。その美の伝統をずっとたどっていくと業平に行き着く。すでに70年ほど前に、文芸評論家の唐木順三が『無用者の系譜』(筑摩書房)の中で、業平の歌について『ここには一種のきよらかなあはれがある』と評していましたが、ここに業平を読み解く手掛かりがあるように思われます。
 業平は意図的に権力から離れて半ば世を捨てたというのが大事な点で、だからこそあれほどの歌詠みになれたのではないでしょうか。業平の父・阿保親王もそうでしたが、権力の残酷さ・不安定さはアテにならないわけれど、言の葉、歌は末代まで残るということを信じた人であり、だからこそ業平は日本の美の源流となりえたのだと思います。
 この貴種流離譚の美というのは日本の伝統美として多くの人に知られていたことで、本居宣長折口信夫も言及していますが、その起源はどこかといえば、奈良時代にはまだなかったろうと思います。それ以前の神話の時代も含めて、権力と腕力を兼ね備えた日本武尊(やまとたけるのみこと)のような英雄譚がありましたが、平安時代になるとそういう英雄譚はありません。それよりは『滅びの美』の世界が出来上がっていきます。それは和歌の隆盛と重なっていますが、やはり業平から始まっているのではないでしょうか。
 平安時代前期は唐からの文化がどんどん入ってきている時代でしたから、まだ漢詩の全盛期で、当時は『詩』といえばすなわち漢詩のことでした。ですので『業平』の後半に出てきますが、高子が最終的に清和天皇のお后となって力を得て、女の力で和歌の時代をつくり出していく。そこに業平や何人かの人たちが力を貸し、彼らの作品が少し後に『古今和歌集』に収められていますが、そうした日本の和歌文化をつくった人たちを支えたのが高子だったのです。
 ここで押さえておくべきは業平の文学上の役割で、日本の美の本質を最初につくった男だった。ということです。そこには貴種流離、隠遁の美というものが表れている。そうして『業平』を読まれればおわかりのように、女たちもそれぞれに成長していっています。この物語は、女たちの成長の物語でもあるのです。
 和歌ならではの心の熟成
 読者の方々それぞれの感想があろうかと思いますが、この語り口でなければ私は『業平』の世界に入れませんでした。それだけに『伊勢物語』を読む前段階としてこの『業平』を読んだ方がいい、と先の上野先生のお勧めがありましたが、その通りだと思います。
 そして日本の美の起源は平安時代にあるといっていいのでしょう。今でも、皇室の行事は平安時代のものを踏襲しているといえます。それは日本の美の本質が平安時代につくられた、ということなのです。
 昨年の御代替わりの儀式を見て『やっぱり平安時代なのだなあ』と私には思えました。それ以降の武士の時代、荒々しき時代を超えて、皇室は平安時代に帰っているのだ、平安時代の文化を継承しているのだと思えるのです。
 在原業平という男の魅力は、言葉を駆使する能力に秀でていたことです。彼の和歌を詠む力、それがなければ対立が深まるばかりだったことでしょう。言葉は女を口説くばかりでなく、人と人との意思を疎通させるものであり、それは現代においても必要とされているものだと思います。
 業平の最後の公職は、殿上人の対立を収めて回るコーディネーター的な役職でした。彼の言葉を駆使する力は女性を口説く場面でも発揮されましたが、それだけの能力がある人だからこそ政治的にも重要な役割を果たしえたのです。
 だから業平は、皇族の血を引くとはいえ位は決して高くなかったのだけれど、時の天皇の使いとして上手に役割を果たし、天皇に頼られていたのです。平安時代は武力ではなく、言葉の力が大事にされていた時代でした。当時は呪詛だとか権謀術数とか忌み事、穢れといった非科学的なことも多かったのですが、それらを鎮めていくのが言葉の力であり、神への祈り、祝詞(しゅくし)も言葉によってなされていたわけです。
 言葉が非常に重要視されていた時代において、和歌は男同士が意思疎通する際にもクッションの役割を果たしていました。『お前、あれやれ』『お前は嫌いだ』といったことを直接言うのではなく、やんわりと伝え合うことで柔らかな心の熟成がみられる。女を口説くにしても和歌で伝えることで、そこに心の熟成があるわけです。
 和歌は詠んで相手に送って、それが返ってくるまで待つという手間暇がかかります。和歌を書きつけること自体も、自分の気持ちをきちんと言葉に置き換える必要がありますが、それも昔から伝わる言葉を和歌に入れ込むことで、『これはこういう意味なのだ』ということがわかるわけです。この過程を経ることで自分の思いが熟成されていきますし、相手からの歌が返ってくるまでに時間もかかりますし、もしかしたら歌が返ってこないかもしれない。現代のメールやLINEなどとは違ってとんでもない手間暇がかかっていますが、それがクッションになっているんですね。」
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 在原 業平は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上蔵人頭・右近衛権中将。
 六歌仙三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。
 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
 出自
 父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らと共に在原朝臣姓を名乗る。  
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 日本男子は唐に習って漢詩を吟じ、日本女性は日本の心を和歌を詠んだ。
 平仮名による和歌の文化は、女性によって高度に洗練されて広まった。
 後の俳句や川柳などの五七五調は、和歌から生まれた。
 日本文化において、平仮名の和歌文化は栄えたが漢字による漢詩文化は衰退した。
 日本と中国・朝鮮の違うところは、漢詩文化である。
 女性が使う文字は民族固有のローカルな平仮名で、男性が用いた文字はグローバルな外来の漢字であった。
 日本国・日本民族日本人を日本列島に縛りつけ閉じ込めたのは、言霊を操った女の力である。
 日本の最高神は、女性神天照大神である。
 縄文文化弥生文化最高神は、女性神の大地母神であった。
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 日本民族の伝統的形式美は、数万年前の縄文文化まで途切れる事なく繋がり、現代においても時代に応じた新しい日本文化を生みだし続けている。
 日本民族の伝統的形式美の優れている事は、他者に代わる事なく異物に変わる事なくそのままで「続いている」事である。
 この途絶える事なく「続いている」事が、「受け継がれている」事が、「継承されている事が、日本の美であるとともに、日本の心であり、愛であり、徳であり、善であり、正であり、良である。
 つまり吉兆「よきかな、よきかな」である。
 日本民族の伝統的形式美とは、古き善き雅な心情と新しき良き粋な心意気である。
 伝統的形式美が息づいて今も続いている証拠が、宮中の歌会始近江神宮などのかるた祭・かるた開きの儀である。
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 和歌の歌会やかるた祭は言霊の神事だが、カラオケ大会は喉自慢・自己自慢の大衆演芸である。
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 ローカルな伝統的形式美や日本国語が、好きな日本人は2割、嫌いな日本人は3割、魅力を感じず関心もない日本人が5割。
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 昔の日本国語と現代の日本語は違う。
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 現代の日本人は、昔の日本人と比べて言葉力が弱いというより劣っている。
 特に、2010年以降の日本人は特にそれが言える。
 現代の日本語には、ウソ、詭弁、言い訳、ゴマカシそして罵詈雑言・誹謗中傷など汚い言葉が多く含まれている。
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 昔の「相手に対する配慮・慮る・思い遣る」と現代の「相手に対する忖度」とは違う。
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 昔の日本人の賢さと現代の日本人の賢さは違う。
 現代日本人の優秀さはSNSやインターネットに自分の意見を書き込んで世界に発信する。
 昔の日本人の優秀さは、和歌を詠み、落首を書く事であった。
 現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
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 宮内庁
 歌会始
 人々が集まって共通の題で歌を詠み,その歌を披講する会を「歌会」といいます。既に奈良時代に行われていたことは,「万葉集」によって知ることができます。
 天皇がお催しになる歌会を「歌御会(うたごかい)」といいます。宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会としてお催しになる歌御会を「歌御会始(うたごかいはじめ)」といいました。
 歌御会始の起源は,必ずしも明らかではありません。鎌倉時代中期,亀山天皇の文永4年(1267年)1月15日に宮中で歌御会が行われており,『外記日記』はこれを「内裏御会始」と明記しています。以後,年の始めの歌御会として位置づけられた歌会の記録が断続的に見受けられます。このことから,歌御会始の起源は,遅くともこの時代,鎌倉時代中期まで遡ることができるものといえます。
 歌御会始は,江戸時代を通じほぼ毎年催され,明治維新後も,明治2年(1869年)1月に明治天皇により即位後最初の会が開かれました。以後,改革を加えられながら今日まで連綿と続けられています。
 明治7年(1874年)には一般の詠進が認められ,これまでのように皇族・貴顕・側近などだけでなく,国民も宮中の歌会に参加できるようになりました。
 明治12年(1879年)には一般の詠進歌のうち特に優れたものを選歌とし,歌御会始で披講されることとなりました。これは宮中の歌会始の歴史の中でも画期的な改革であり,今日の国民参加の歌会始の根幹を確立したものであります。
 明治15年(1882年)からは,御製を始め選歌までが新聞に発表されるようになり,明治17年1884年)からは官報に掲載されるようになりました。
 大正15年(1926年)には,皇室儀制令が制定され,その附式に歌会始の式次第が定められました。これにより,古くから歌御会始といわれていたものが,以後は「歌会始」といわれることになりました。しかし,大正15年12月,大正天皇崩御のため昭和2年には歌会始は行われなかったので,実際に歌会始と呼ばれたのは昭和3年(1928年)の歌会始からです。
 そして,先の大戦後は宮内省に置かれていた御歌所が廃止され,在野の歌人に選歌が委嘱されました。また,広く一般の詠進を求めるため,お題は平易なものとされました。預選者は,式場への参入が認められ,天皇皇后両陛下の拝謁や選者との懇談の機会が設けられるようになりました。召人は広く各分野で活躍し貢献している人々を選び,陪聴者の範囲や人数を拡大しました。また,テレビの中継放送が導入されて,さらに多数の人々が歌会始に親しむことができるようになりました。こうして歌会始への国民参加は,ますます促進されました。
 長い歴史を有する宮中の歌会始は,明治と戦後の改革によって世界に類のない国民参加の文化行事となりました。短歌は,日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものといわれています。この短歌が日本全国のみならず海外からも寄せられ,これを披講する宮中の年中行事が皇室と国民の心を親しく結ぶものとなっていることは,誠に喜ばしいことであります。
 毎年1月の歌会始の儀では,天皇皇后両陛下の御前で,一般から詠進して選に預かった歌,選者の歌,召人(めしうど)の歌,皇族殿下のお歌,皇后陛下の御歌(みうた)と続き,最後に御製(ぎょせい)が披講(ひこう)されます。皇太子殿下をはじめ皇族方が列席され,文部科学大臣日本芸術院会員,選歌として選ばれた詠進者などが陪聴します。
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 宮中歌会始
 歴史
 起源は必ずしも明らかではないが、鎌倉中期には、『外記日記』に亀山天皇期の文永4年(1267年)1月15日に宮中で「内裏御会始」という歌会が行われたと記録されている。ただし、当時は作文始・御遊始(管弦)と合わせた一連の行事として捉えられて御会始(歌御会始)と呼ばれており、1日のうちに3つを行うのが通例と考えられていた。また年始に限らず、天皇治天の君の執政開始後に開催される場合もあった。ただし、御会始そのものは室町時代に中絶しており、『晴和歌御会作法故実』(著者不明であるが、霊元上皇書写の国立歴史民俗博物館所蔵本がある)という書物によれば、後円融天皇の永和年間の和歌御会始を模範として後柏原天皇が明応10年(文亀元年/1501年)正月の月次歌会を独立した儀式として執り行ったことが記されており、これが歌会始の直接的起源であると考えられている。江戸時代からはほぼ毎年開催され、少しずつ変化をしながら現在に至る。  近代においては、明治2年(1869年)に京都御所の小御所で行われたのが最初であった。明治7年(1874年)には一般国民からの詠進も広く認められるようになり、明治12年(1879年)からは詠進歌も詠みあげられるようになった。さらに明治15年(1882年)以降は、天皇の御製や一般の詠進歌が新聞や官報などで発表されるようになった。詠進歌の選考は宮内省に置かれた御歌所が行なった。このころ、歌の才を認められて重用される者も現れた。士族出身ながらも宮中女官となった平尾鉐は、18歳の時に歌の師である八田知紀の推薦で宮中に入り、皇后美子より、歌子の名を賜った。女子教育者として一世を風靡した下田歌子である 。
 歌御会始の題(指定されるテーマ)は勅題(ちょくだい)といわれる。
 1928年(大正15年)には、歌会始の式次第が定められ、それまで「歌御会始」だったのが、「歌会始」に改称される。
 昭和22年(1947年)より、現在のように皇族のみならず国民からも和歌を募集し、在野の著名な歌人(選者)に委嘱して選歌の選考がなされるようになった。それにともない、勅題はお題(おだい)といわれるようになり、平易なものになった。これにより、上流社会の行事から一般の国民が参加できる文化行事へと変化を遂げた。
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 歌会始(うたかいはじめ)は、和歌(短歌)を披露しあう「歌会」で、その年の始めに行うものを指す。現在では、年頭に行われる宮中での「歌会始の儀」が特に有名。
 概要
 元々は、上代にて皇族・貴族等が集い和歌(短歌)を披露しあう「歌会」で、その年の始めに行うものを指す。
 今日では宮中歌会始(後述)の他に、京都冷泉家(公家の流れを汲む)で行なわれているものが有名である。冷泉家では、狩衣や袿などの平安装束を身にまとい、数十名が集って行なわれるもので、京都の風物詩として、毎年マスコミ報道、古文教科書(資料集)で紹介される。
 この他に、一般の和歌教室(短歌会)で、講師や生徒が年始に歌を披露しあう集いを「歌会始」と呼ぶところもある。
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 近江神宮
 祭神・第38代天智天皇。昭和15年創建。発願者・第124代昭和天皇
 小倉百人一首巻頭歌ゆかりの近江神宮で、天智天皇御製
 「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」
 を読師が神前で朗誦し、采女装束を着用した4名の取姫が儀式的にかるたを取り「かるた開きの儀」を行います。続いて近江勧学館において高松宮記念杯をいただいた競技かるたの全国大会が開催されます。
 皇室を慕い、王朝のみやびにあこがれる日本人の国民心意は、江戸時代以降一般に広まった、新年の百人一首かるた遊びのなかに育まれました。
 伝説的な歌ではありますが、2つ目の勅撰和歌集である後撰集以後、天智天皇の御製として伝承され、小倉百人一首の巻頭歌として置かれました。農耕儀礼のような田作りの上に御身をおかれて農民の辛苦を思いやる歌と考えられてきましたが、同時にまた、神話の時代、天孫降臨にあたって天照大神から高天原の稲穂を授けられ、地上でも米作りを行う起源になったという、日本の米作りの起源神話への認識を踏まえて、天智天皇の御製という伝承が生れてきたと考えられます。日本の神々のまつりが米作りの上に立脚し、神まつりと米づくりと皇室とが密接不可分のものであることが、おのづからにして自覚された歌でもあります。
 君民一体の農耕社会への渇仰がうかがわれ、また現今、天皇陛下が宮中で田植と抜穂をお手づから行っておられることと即応するものがあります。
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 『古今和歌集』(こきんわかしゅう)は、平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂された。略称を『古今集』(こきんしゅう)という。
 成立
 『古今和歌集』は仮名で書かれた仮名序と真名序の二つの序文を持つが、仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜12年(912年)ごろとの説もある。
 撰者は紀友則紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑の4人である。序文では友則が筆頭にあげられているが、仮名序の署名が貫之であること、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と躬恒の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、友則は途上で没したと考えられている。
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 百人一首(ひゃくにんいっしゅ、ひゃくにんしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。
 中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首おぐら-ひゃくにんいっしゅ)は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すまでになった。本記事では主に、この小倉百人一首について解説する。
 概要
 小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府御家人歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。

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 教養人が目指した隠遁とは、儒教ではなく、道教の神仙境への憧れであった
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 昭和天皇を否定し、昭和天皇御真影肖像画を引き裂き、焼いてその灰を踏みつける事をアートとする現代日本には、祖先が産み育てた伝統的形式美は存在しない。
 そうした現代アートを賛成し支持しする現代日本人には、伝統的形式美の素養は皆無である。
 そうした現代アートに公金を出して協賛する現代日本には、伝統的形式美はない。
 そうした現代アート表現の自由として擁護するする現代日本人には、伝統的形式美を語る資格はない。
 彼らには、日本の美はもちろん日本の心もない。 
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 現代の政治家・官僚・財界人そしてメディア人や報道機関者などの高学歴出身知的エリートには、伝統的形式美の素養がなく、よって民族の伝統的形式美を語る事ができない。
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 美やアートには、光と陰、明と暗、表と裏、外と内、正統と異端、生と死、喜怒哀楽など多方面からの多様性が必要だが、伝統的形式美を完全否定する現代アートにはそれがない。
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 昭和天皇は、人道貢献や平和貢献に深く関わっていた。
 昭和天皇は、歴代天皇の中で最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇を惨殺しよとした犯人は、二等国民・キリスト教朝鮮人テロリストと一等国民・日本人共産主義テロリスト達である。
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 第32代崇峻天皇は、半島系渡来人に殺された。
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小説伊勢物語 業平

⛩19)─3─祭祀王・天皇が執り行う宮中祭祀と自然災害・疫病・飢餓などの天変地異。~No.38 

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 日本列島で多発する雑多な自然災害、疫病、飢餓・餓死などの天変地異を神に祈れるのは、神の裔である天皇御一人であって、キリスト教は無力で奇跡も起こさないし救いにもならない、共産主義ごときは役に立たないどころが混乱を拡大し内戦を引き起こして被害を拡大するだけの有害無益なイデオロギーである。
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 宮中祭祀は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長掌典職)らが祭典を行い、天皇が親拝する小祭がある。
 歴史
 平安時代
 病気や疫病、地震、火災、天災といった災い事はすべて神の祟りが起こすものと考えられ、祟りを起こす神の存在を鬼に例えたり、疫神として恐れたいた。
 陰陽道が平安貴族社会を基盤にして呪術的に展開されており、律令制の神祇祭祀の中に、陰陽要素を含む祭祀が数多く存在し、疫神祭、鎮花祭、風神祭、大祓、宮城四隅疫神祭、防解火災祭、螢惑星祭など様々な、祭祀が行われていたとされる。京内を結界(聖なる領域と俗なる領域)し、京城四隅疫神祭、(都)、宮城四隅疫神祭(内裏)など、四角四境の祭祀を行い、世の安泰を願っていた。
 安土桃山時代
 豊臣秀吉による陰陽師弾圧や迫害が始まり、祈祷や占いを生業とする陰陽師を地方に追いやり、一気に力を失っていき、当時陰陽寮にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた。戦国時代の迫害で、筆頭の土御門家であっても陰陽道相伝や法具などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「大法」の泰山府君祭(たいざんふくんさい)の祭壇も喪失し、京都吉田神社から法具を借用して御所の地鎮祭を行った。その影響が大きくあり、宮中祭祀神道色を色濃くしていった。
 近代以前
 中世の順徳天皇は、『禁秘抄』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は肇国以来「神事」を最優先としている。四方拝などは江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事である。
 江戸時代中・後期には水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり、新嘗祭など祭祀の再興が盛んになった。
 明治期から戦前まで
 今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令、貞観儀式、延喜式などを継承して再編された物である。
 天皇の「現人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定された。
 宮城内の水田では稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった[7]。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている。
 戦後
 1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省は宮内府・宮内庁へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった。
 これに合わせて、皇室祭祀令など戦前の皇室令も、一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し、「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認している。
 日本国憲法下の位置付け
 日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、多くの憲法学者が、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」と解釈するようになった。
 宮内庁の公式HPでは、宮中祭祀を「宮中のご公務など」の項で説明している。
 また、内閣総理大臣はじめ三権の長が、大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。佐藤栄作は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、NHKスペシャル『象徴天皇 素顔の記録』(2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の内閣総理大臣麻生太郎ほか三権の長が、春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。
 制度としての宮中祭祀が確立して以降の天皇では明治天皇大正天皇はあまり熱心ではなく、侍従らが代拝するのが主であった。一方で、貞明皇后昭和天皇香淳皇后は非常に熱心であった。
 在位後期に侍従長であった入江相政は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から伺えるが、昭和天皇は1986年(昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。
 明仁と美智子も祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず親拝していた。
祭祀に関しては、事前の潔斎と平安装束を着用する事に加え、長時間の正座が必要であり、生前の昭和天皇は祭祀が近づくと、正座してテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。明仁新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をしていたといわれていたが、在位20年を経た2009年(平成21年)以降は、高齢であった天皇明仁の健康への配慮、負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画、実施されていた。
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⛩96)─2─仏教伝来と中国由来疫病感染爆発。疫病対策としての火葬。~No.211No.212 ⑲ 

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 火葬は、仏教。
 土葬は、儒教キリスト教
 火葬・土葬併用は、日本神道
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 ごじょクル
 何故「火葬」するの?
 世界では“当然”じゃない「火葬」
 日本では現在は、当然のように火葬が行われています。しかし、世界を見渡すと実際には土葬の場所もたくさんあるのが現状です。なぜ、日本は火葬を行うようになったのでしょうか。その意味や歴史などを知ることで、より葬儀に対する知識を深めていきましょう。
 仏教とともに伝来
 火葬の歴史は古く、もともとは仏教の伝来とともに日本に入ってきたと言われています。遺体を火葬にすることを「荼毘に付す」と言いますが、この「荼毘」はインドの昔の言葉で火葬を表す「ジャーピタ」に音を当てたものだとされています。インドでは昔から火葬が一般的な埋葬法であり、仏陀もこの方法で埋葬されたことから、日本では徳の高い人の埋葬法として受け入れられたようです。また、煙とともに魂が天に昇っていくというような意味も含めて行われていたのでしょう。
 日本で最初の火葬は1300年前
 日本で最初に火葬で埋葬された人は僧侶である道昭という人です。この人は三蔵法師に師事した僧侶とされ、文武天皇四年(700年)に火葬で埋葬されています。
その前までは、日本では土葬が一般的でした。そして、火葬が入ってきてからも、実際に火葬を行っていたのは貴族や僧侶の間だけで、一般の人は土葬が多かったようです。それというのも、今のように立派な施設がそろっていなかった時代は火葬のほうが衛生上に問題が生ずることが多かったためだとされています。また、神道の一部には火葬は残虐な葬儀方法と考えるような思想を持つところがあることもその原因のひとつだったといわれています。
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 火葬の歴史 - 日本火葬技術管理士会
 アーリア人と釈迦の火葬
 アーリア人はアリアン人ともいい、インド・ゲルマン族に属するが、彼らはもともと中央アジアのアム河流域において半農、半牧の生活を送っていた。紀元前 1500 年頃に南下して西北インドへ侵入し、鉄製武器を使用することにより先住民族を征服しつつ紀元前 1000 年頃、ガンジス河流域まで進出した。彼らは聖火を中心にして大家族生活を営み、都市連合を形成していたが、特記すべき事項は火葬の習慣を持っていたことであり、
それがインドの最古の聖典リグ・ヴェーダ経に書き残されているという。
 このアーリア人は、紀元前 6 ~ 5 世紀頃に興った仏教徒により追放されたり、改宗を迫られた。仏教徒は彼らの文化とともに火葬を継承したため、それが古代インドの西北部や北部に広く普及したといわれる。仏教の開祖、釈迦の遺体が紀元前 480 年にふされたことは歴史的な出来事として有名である。
 ヨーロッパの火葬
 古代ギリシャやイギリスでは、紀元前 1000 年頃の骨壷が各博物館に展示されていて、当時すでに火葬が行われていたことを証明している。古代イタリアでも紀元前 1000 年頃、謎の古代人といわれるエトルリア人がローマの北部地方に定着していた。彼らは小アジア(現在のトルコ)あたりから移住してきたといわれ、オリエントやギリシャの文化を身に付け、紀元前 800 年~ 700 年頃には、ローマの北方、チベル河流域を中心にして独特の高い文化圏を形成していた。彼らの墓は、立派なものが多く、発掘すると石棺や陶棺が出るほか、ギリシャ製の美術的価値の高い壷も多く出土する。この壷は火葬骨を収蔵している例があるので、エトルリア人は火葬の風習を持っていたと思われる。
 アジアの火葬
 1) 中国の火葬
 中国では後漢の初期、紀元1世紀半ば頃に、火葬を容認する仏教が中央アジアやインドから伝来したが、伝 統的に肉体を焼くことを嫌悪していた人々が、仏教を宗教としてではなく、新知識という意味で受け入れたらしい。
 しかし、仏教は人々の間で次第に進行されるようになり、4 世紀後半になって漸く社会的に広く理解され、伝播するようになったという。これに伴い、火葬の理解度も次第に深まり、中国火葬は南北時代(紀元 420 ~589 年)に最盛期を迎えるに至った。
 ところが、唐時代の韓愈が火葬は罪悪だとして反対し(紀元前 891 年)、その後になると、儒教徒も一貫して火葬反対論を唱えたので、火葬が衰微する一方となった。
 結局、中国の火葬は盛況の時もあったが、儒教との関係、国民性などの事情から支持率が著しく低下し、後には法令で禁止されたこともあって、1949 年の中華人民共和国の成立まで火葬はほとんど行われなかった。
 中国共産党は 1956 年に火葬を提唱し、推進することとなったので、火葬が大都市を中心として盛んに行われるようになり、さらに、1985 年には墓地埋葬法に相当する法律ができて、火葬を一義的に行うべきことを定めたので、火葬が一層普及されるようになって現在に至っている。
 2) 韓国の火葬
 紀元 4 世紀頃になると中国の仏教は、朝鮮半島に伝えられた。すなわち、紀元 372 年に高句麗へ、紀元 391年には百済へ、さらに、若干遅れて紀元 527 年に新羅へそれぞれ伝来した。
 新羅が半島を統一したいわゆる新羅時代(紀元 676 ~ 935 年)及び高麗時代(紀元 936 ~ 1392 年)には、仏教文化が開花するとともに火葬の風習も貴族社会に普及した。
 高句麗百済における火葬の風習は、その後、わが国へ伝えられたが、本家の朝鮮では、高麗時代の末期から儒教、とくに朱子学が輸入されたことにより、火葬が不仁不孝の至りであると非難され、高麗末期には火葬禁止の法令が出されたので、次第に衰微していった。
 日本の火葬
 1) 奈良時代までの火葬
 紀元 653 年に遣唐使随行し、唐僧の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう︓有名な物語・西遊記でお馴染みの孫悟空がお伴をした主人。実在の高僧)の弟子となり、帰国して法相宗の開祖となった高僧・道昭は、紀元 700年に遺命して自ら火葬に付された。これがわが国の火葬の起源だということが、続日本紀(しょくにほんぎ)に記されているため、歴史的な事実だとして長年にわたり広く信じられてきた。しかし、昭和 31 年に同志社大学の森浩一教授が大阪府堺市内にある陶器千塚古墳の火葬遺跡であるカマド塚などを発掘、紀元 600 年前後には、朝鮮半島から渡来した陶器工人の間で火葬が行われたことを示す窯形火葬墳墓を発見したため、火葬の起源が 100 年ほど遡ったことになる。
 道昭の火葬の翌年、701 年に朝廷は大宝律令を制定し、従前に引き続いて薄葬を推奨するとともに、火葬を初めて奨励した。703 年に第 41 代の持統天皇は、皇族として初めて飛鳥崗で自らの意思により火葬に付されたが、これは火葬の奨励策を朝廷自ら実践したものであり、その後は歴代の天皇、皇族や高級官吏及び地方豪族などの間に火葬が普及するに至った。
 第 53 代の淳和天皇は、「今、骨を砕いて粉とし、山中に投ずべし」という詔を出し、840 年に自らの火葬後の焼骨を京都、大原野の西山に撒骨させ、山稜を作らせなかったという。
 2) 平安・鎌倉・室町時代の火葬
 平安時代も10世紀になると京都では、空也上人などの念仏僧(浄土教)が、鴨の河原や巷に満ちた死者や行旅死亡人に対して念仏を唱えながら火葬し、菩提を弔うことを盛んに行った。現代風にいえば社会事業活動、又はボランティア活動であった。
 その後、僧侶による火葬執行が常識になるとともに、貴族や豪族の間では火葬が全国的に普及した。
 鎌倉・室町時代には戦乱や天災で、飢饉が続き、悪疫の流行により死者が巷に満ちたので、僧侶による社会事業としての火葬が依然として行われていた。また、武士階級や庶民の間にも火葬が広く深く、伝播していった。
3) 江戸時代の火葬
 江戸時代の初期に幕府は、キリスト教を弾圧するため制度化して寺院に檀家の戸籍を把握させたので、寺院が墓地を管理したり、火葬を実施するのが一般的になった。また、5 人組制度を強化し、治安・検察に当らせたため、日常生活に互助共済を中心とする組織に発展し、祝い事や葬儀、火葬を自主的に共同して行うようになった。
 一方、鎌倉時代から伝来された儒教朱子学は、徳川幕府が奨励したため国学者儒学者、微視の間に普及したが、仏教を排斥する口実として火葬を非難したので、支配階級の間に火葬を嫌う傾向が強くなった。そのため、第 110 代、後光明天皇は、1654年に崩御されたが、歴代天皇の先例が破られ火葬に付されなかった。
 また、会津藩や萩藩は火葬を禁止したり、土佐藩では犯罪者の死体を火葬すべきことを定めたので、所によっては庶民が火葬を避ける傾向もあった。しかし、浄土真宗の盛んな新潟、富山、石川、福井の各県を含む北陸地方では火葬を全面的に支持し、また、江戸、京都、大阪などの人口密集地では埋葬地が限定されるため火葬に依存しなければならなかったので、大勢として火葬は全国的に行われてきた。
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 日本の葬儀はなぜ火葬が一般的なのか?|お坊さんのいないお葬式
 2020.5.26
 供養
 日本の葬儀はなぜ火葬が一般的なのか?
 日本で人が他界すると、葬儀後に火葬されるのが一般的です。
 しかし、火葬以外にもさまざまな埋葬方法があり、実際に土葬が主流になっている国もあります。
 日本では、なぜ火葬がこれほどまでに広まったのでしょうか。
 ここでは、日本で火葬が一般的になっている事情について解説します。
 【目次】
1.仏教が火葬の普及に影響を与えた
2.批判を受け禁止令が出された時代も
3.土地不足や衛生上の理由により、戦後は火葬が定着
4.今回のまとめ

 仏教が火葬の普及に影響を与えた
 日本でいつごろから火葬が行われていたのかは、はっきりとはわかっていません。
 しかし、縄文時代の遺跡から火葬の形跡のある遺骨が発見されているため、このころには火葬が行われていたと考えられています。
 記録が残っている中で最初に火葬された人物は、飛鳥時代の僧・道昭です。
道昭は西暦700年、自分を荼毘に付すよう言い残して他界し、実際に火葬されたことが「続日本紀」に記されています。
 また、703年には持統天皇が、天皇としては初めて火葬されました。
その後、皇族・貴族・僧侶といった上流階級の人々の間で、少しずつ火葬が行われるようになっていたのです。
 この時代に火葬が注目された背景には、仏教の影響があるとされています。
古代インドでは火葬が一般的で、お釈迦様も荼毘に付されました。
 そのため、仏教を信仰する日本の僧侶や貴族にも、火葬を希望する人が現れ始めたのです。
 しかし、これはあくまでも一部の人の習慣にすぎませんでした。
 なぜなら、当時の技術では遺体を骨になるまで焼くのは難しく、大量の薪と時間を必要としたからです。庶民にとっては、経済的な負担から簡単に行えるものではありません。
そのため、多くの人は土葬を行っていたと考えられています。
 批判を受け禁止令が出された時代も
 鎌倉時代以降は、仏教の広まりに伴い、庶民の間でも少しずつ火葬が普及していきます。
 さらに江戸時代に入ると、人口増加によるお墓の土地不足の問題もあって、江戸や大坂といった都市部を中心に火葬の割合が増えていきました。
 簡易的ながら火葬場も作られ、現在のスタイルに近づいていたことがわかります。
 しかし、火葬に批判的な人も少なくありませんでした。
 江戸幕府儒教を推奨していましたが、儒教の考え方の1つに祖先崇拝があり、親の体を焼くことは大きな罪と捉えられたからです。
 実際に、いくつかの藩では火葬が禁止されていました。
 火葬の難しさの問題も解決されておらず、都市部以外では相変わらず土葬が主流だったのです。
 そして明治時代に入ると、神仏分離思想の広まりとともに仏教への弾圧が始まり、1873年には火葬禁止令が出されました。
 仏教と関係の深いものを徹底的に排除しようとしたのです。
 ところが、人口の増え続ける都市部において、土葬用の広い土地を確保するのは簡単ではなく、火葬禁止令は1875年に撤廃されました。
 その後は、レンガでできた火葬炉が登場したり、感染症で亡くなった人の遺体を火葬することが義務付けられたりと、火葬の普及に向けた環境が整えられていきます。
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 日本列島は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが頻発する複合的災害多発地帯であった。
 庶民はわずかな収入で貧しく、重税・労役・兵役に苦しめられ、災害で被害が出ても朝廷=中央政府国司=地方役所そして神社や寺院からの助けや支援はなく、運が悪ければ野垂れ死にする定めであった。
 日本列島は、地球上で最悪な地獄のような世界であった。
 日本の美しい自然とは、命を生む以上に命を奪う冷酷、冷血、非情、残酷が本性であった。
 日本は相反する2面が一体で、それが豊穣の和魂・御霊と厄災の荒魂・怨霊であり、本音と建て前は関係ない。
 言霊は、地獄のような日本の自然から祈る言葉として生まれた。
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 日本民族日本人の特性・体質・性格・性質は、数万年の間、絶滅に近い複合的災害多発地帯で生き残る中で形成さ、時間は一秒でも、寸法は1ミリでも、細部まで細心の注意を払う、一寸も気を抜かない、約束は口約束でも命を賭けて守る、戒めや定めや法(法律)は遵守するなどなどは、苛酷な複合的災害多発地帯で生活する事で身に付いた。
 それは、死と隣り合わせで生きる事である。
 そして、世界の異常とされる、信仰心もなく如何なる宗教にこだわらず全ての神や仏を拝むという無宗教性はこうして生まれた。
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 日本民族日本人と大陸系の中国人や朝鮮人とは全く違い、それ故に幾ら話し合ったところで分かり合う事はありえない。
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 数多くの人の命を奪った疫病は、中国大陸や朝鮮半島から日本列島へと人の移動と共に上陸したのであって、日本から中国や朝鮮への逆はなかった。
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 幾度も甚大な被害をもたらす複合的災害多発地帯日本に、適応したのが柔軟な日本神道、日本仏教、日本儒教などで、適応できなかったのが硬直なキリスト教、大陸仏教、イスラム教、中華儒教そして共産主義マルクス主義などであった。
 甚大な被害をもたらす複合的災害多発地帯では、宗教やイデオロギーなどの教条主義原理主義は生まれないし、たとえ生まれたとしても無力であった。
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 日本の死体の葬り形は、地域によって土葬・風葬・水葬であったが、仏教の布教によって大陸から火葬がもたらされた。
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 中国大陸や朝鮮半島から日本列島への難民の急増で、疫病が蔓延し、夥しい数の日本人が病死した。
 疫病感染爆発地帯となった日本に仏教が伝来し同時に火葬がもたらされ、病死・変死した死体は疫病対策として火葬にした。
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 火葬は、中国や朝鮮との国交を鎖した平安時代以降は下火となった。
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 日本民族日本人は、疫病が蔓延する中国や朝鮮を穢れた土地と嫌い、疫病を持ち込む中国人や朝鮮人を穢れた人間と嫌悪し、差別し、排除し、国交を断絶して、神々が住まう浄き日本に足を踏み入れる事を禁止した。
 それが、国を鎖(とざ)した皇国史観の大本である。
 現代日本は、不寛容にして排他的な皇国史観を否定し、中国人や朝鮮人の入国を認めている。
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 日本に逃げてきた人々には2種類いた。
 天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた帰化人。
 天皇への忠誠を拒否し、自分の為だけに動いた渡来人である。
 疫病蔓延を食い止めて日本人を救ったのは、帰化人であって渡来人ではない。
 日本民族日本人は、命を助けてくれた帰化人に感謝する必要がある。
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 現代の日本人は歴史力はなく、作り話の理想的時代劇は好きだが事実の現実的歴史は嫌いである。
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 日本と中国の関係は、中国戦国時代の呉越の関係ににている。
 日本は呉国で、中国は越国である。
 呉国は越国に滅ぼされた。
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 日本政府は、少子高齢化による人口激減を食い止める為に中国人移民を含む外国人移民約1,000万人計画を進めている。
 中国共産党系中国軍系中国資本と友好的日本企業は、日本国土や日本企業を購入している。
 親中国派媚中派日本人は、日本買いをしている中国資本に協力している。
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 中国や朝鮮から日本に、政争や戦争に負けた優れた学識・教養や秀でた技術・技能を持った敗者・弱者が逃げ込んできた。
 逃げてきた人々によって、インド発祥の仏教、儒教道教、兵法、医術、農業・建築など数多くの技術が日本にもたらされたが、同時に疫病も日本に広がった。
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 日本は、儒教色を薄め仏教色を神道色と混ぜ合わせる事で多種多様化して、脱中華文化の国風文化を生み日本文化に発展させ、古代から中世・近世へと激変を繰り返して西洋色の近代を受け入れた。
 中国や朝鮮は、儒教色単色の一様化を教条的原理主義的に貫き、古代の中華文化から抜け出す事ができず、日本の近代化を真似て古代からいきなり日本色的近代へ変化した。
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 日本が中国や朝鮮と違っていたのは、毒性の強い外来由来を無毒に中和させる柔軟な変換能力(ブラックボックス)である。
 その柔軟な変換能力を証明するのが、外来語の日本国語化・和製新語(漢字・西洋語)・カタカナ化である。
 外来語から日本国語への柔軟な変換能力は、現代の高学歴出身知的エリートから消えつつある。
 その証拠が、2020年の武漢ウイルス対応の後手後手、新型コロナウイルス水際対策の失敗、武漢肺炎蔓延の不手際である。
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 中国大陸・朝鮮半島から日本列島にもたらされたのは、日本人を幸福にする明るい豊・福と同時に日本人を不幸にする暗い貧・禍であった。
 昔の日本人、日本民族の不幸を避ける為に豊や福を断念し、中国大陸・朝鮮半島との人的交流を遮断し自由な往来を禁止した。
 日本と中国や朝鮮の間には、友好関係・善隣関係などはなかった。
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 古代日本にとっての、世界とは中華文明圏であり、諸外国とは儒教諸国であった。
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 日本は、インド発祥の仏教を無条件で取り入れたが独自に発展させ普及させたが、中国発祥の儒教は中華色を消し去り全く別物に変質させて受け入れた。
 毒性の強い外来の宗教・思想・哲学を、日本に厄災をもたらさない無毒・無害な宗教・思想・哲学に変質させる濾過装置が祭祀王・天皇であった。
 日本に悲惨を引き起こす主義主張・イデオロギーが蔓延らなかったのも、神聖不可侵にしてブレる事がない不動の存在として神の裔・天皇がいたからである。
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 不寛容にして排他的なキリスト教共産主義が、日本に受け入れられず排除されたのは天皇がいたからである。
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 現代日本の国内外、特に中国や朝鮮が起因する事件の多くは古代にも似通った事件として起きていた。
 日本が巻き込まれた国際事件で、日本が被害者で中国や朝鮮が加害者と言う事である。
 日本にとって、中国や朝鮮は憧れであったが同時に不吉であった。
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 現代日本には、親中国派媚中派の反天皇反日的日本人が増えている。
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✨61)─1・A─戦後教育の目的は日本型世帯主制度の家・家族・家庭を破壊・崩壊させる事であった。〜No.231 ㊿ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 鳩山由紀夫元総理「日本は、日本人だけの日本ではない」
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、日本国民日本人自らの自由選択として、北アメリカ大陸で死滅した旅行鳩の様な絶滅の道を歩んでいる。
   ・   ・   ・   
 家・家族・家庭とは、祖先と自分と子孫を繋ぐ、時空を繋ぐ、切れ目のない縦の糸である。
 祖先を否定すれば、子孫は消える。
   ・   ・   ・   
 江戸時代は、人生50年で、平均寿命は40歳前後の短命であった。
 総人口約3,000万人であったが、子供を産み育てる腕に職・技術・技能を持った若者が多く、金があっても子供を産み育てられない老人が少なかった。
   ・   ・   ・   
 良い日本人は2割。悪い日本人は3割。無関心無興味な日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 2020年6月18日号 週刊新潮「『世帯主主義』批判で『朝日新聞』社説コラムの『家族』破壊
 未知のウイルスを前にして、我々は巣ごもり生活を強いられた。『ステイホーム』。家こそが、感染を拡大させずに社会を守る、そして我が身を守る砦なのだと。だが、朝日新聞にとって『家』はどうにも居心地が悪い場所のようである。
 緊急事態宣言、それは改めて家族のあり方を見つめ直す時間でもあった。外出がままならないストレスを抱えつつも、忙しすぎたこれまでの日常から離れ『家族らしい』生活を取り戻した一家もあったに違いない。いずれにせよ、ウイルスに立ち向かうにあたり、社会の、そしてその最小単位である家族の『団結』が求められた。しかし、朝日新聞はそうは考えないらしい。
 〈時代に合わぬ『世帯主主義』〉
 こう題された、『社説余滴』なるコラムが掲載されたのは5月31日付の朝日新聞の朝刊だった。書き手は同紙の司法社説を担当する女性論説委員。コロナ禍を受け、一律10万円の給付金は世帯主の口座に振り込まれるが、それがどうしても気に入らない様子で、同コラム曰く、
 〈世帯主が家族の分も使ってしまうかもしれないす、『なぜ夫や親が差配するのか』と引っかかりを感じる人もいる〉
 〈家制度は戦後、廃止され、(中略)男女は平等で、家族の中に『主(ぬし)』の存在は想定されていない〉
 この書きぶりから滲み出る、『世帯主』は家族の『支配者』であり良からぬものであるという家族観。日本の伝統的な家制度への嫌悪感。そして、家族といえども個人と個人のつながりにしか過ぎないという虚無感──。これでは、まるで家族崩壊を推奨しているかのようである。
 『家制度』と『世帯主』
 京都大学名誉教授の佐伯啓思氏が、
 『常識的に考えれば、乳幼児や認知症を患っている祖父母一人ひとりに給付金を渡すわけにはいかず、便宜的に世帯主が受け取るというだけの話です。そこに目くじらを立てても仕方がないし、そもそも、世帯主が全ての給付金を使うと疑うのは、むしろ夫婦や家庭の問題でしょう』
 と断じれば、『東京家族ラボ』を主宰する家族問題コンサルタント池内ひろ美氏もこう呆れる。
 『このコラムでは、いわゆる健全ではない家族を想定されています。給付金の使い方レベルで信頼できないのであれば、その家族は情緒的つながりのない形式だけのものです』
 佐伯氏が『家』について続ける。
 『朝日のコラムは家制度そのものを批判したいようですが、「家」とは、家督や領地を重んじた鎌倉時代の武士が私有財産を上の世代から下の世代に繋いでいく基盤として作り上げたものです。その財産の中には、親の教えや思い出といった無形のものも含まれ、それらは個人主義では受け継いでいくことができない。つまり「家」と、便宜上のシステムに過ぎない世帯主とは全く別の話。家制度を批判するのであれば、「家」とは何かを掘り下げて論じないと意味がありません』
 池内氏が後を受ける。
 『現在の日本は単独世帯とひとり親世帯が34.2%を占め、夫婦と子の世帯29.5%を上回っています。こうした状況での世帯主主義批判はあまりに形式主義的で実態に即しません』
 最後に『週刊朝日』の編集長を務めた朝日OBの川村二郎氏が嘆く。
 『いまや世帯主など形だけものも。世の大勢は、問題のコラムの根底にある世帯主=支配者という考え方を持っていないと思います。結局、このコラムは観念論に過ぎず、読み手のことがよく考えられていない。朝日には「学のあるバカ」が増えてしまいました』
 何はともあれ、家族仲良く。家庭が崩壊して『世帯なし』となりませんように。くれぐれも、朝日の記者諸氏の給付金が、世帯主に勝手に使われてしまわないことを祈るばかりである」
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 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、左翼・左派・ネットサハ、反天皇反日的日本人、マルクス主義者や共産主義者らは、日本を明治時代以前の江戸時代的な核家族主義・独身主義の日本へと先祖返りさせようとしている。
 だが、彼らが目指す理想的に日本とは、未だかって日本に存在した事がない日本で、つまりは日本の存在を否定した日本である。
 彼らは見た目は日本人ではあるが日本人ではなく、階層の子孫かといったら、さっぱり分からない。
 祖先が、武士・サムライではないし、庶民(百姓や町人)でもなく、ましてや賤民や部落民でもなく、帰化人でもない。
 数万年前の縄文人や数千年前の弥生人の子孫でもなさそうである。
 強いて言えば、中国系か朝鮮系の渡来人の子孫である。
 自分は武士の子孫であると自慢する彼らは、祖先の御魂に唾を吐き、祖先の名誉を踏み躙り、祖先の尊厳をゴミとして捨てる、極悪人である。
 そもそも、彼らには祖先がいない。
 それは、右翼・右派・ネッヨウヨクも同様である。
 女系天皇擁立派や女系宮家創設派も、また同様である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人と漢族系中国人・半島系朝鮮人とは、別系統アジア人で全く違う人間である。
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 江戸時代の庶民には、天皇への崇敬心はなかっどころか関心も興味もなかった。
 明治新政府は、近代的軍事国家を造る為に天皇国家元首として政治の表舞台に引っ張り出した。
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 江戸時代の庶民には、家族はあっても家はなく、檀家寺や氏神神社はあったが先祖代々の墓はなく、親の位牌はあっても祖先の位牌はなかった。
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 江戸時代は、庶民が80%以上の多数派で武士・公家らは10%未満の少数派であった。
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 2020年6月18日号 週刊新潮「変見自在  高山正之
 旅行鳩の教訓 
 例えばアフリカの白犀は明日には消え果てる運命にある。絶滅種という。
 何で絶滅するのか。支那人がやたら金持ちになって漢方の薬になる犀の角が欲しいと言った。カネはいくらかかってもいい。
 密猟者は喜んで犀をどんどん撃ち殺し、角を取って支那人に売った。
 支那人が貧しかった1980年代には1,000頭もいた白犀が今は2頭になった。2頭ともメスだから絶滅は約束されている。
 民度の低い支那人を豊かにしてやった日本にも責任はあるがそれは措く。
 同じように民度の低い米国人も取り返しのつかない過ちを犯した。旅行鳩を完璧に絶滅させたことだ。
 彼らがメイフラワー号で新大陸に着いたころ、驚くなかれ50億羽の大型の旅行鳩が空を覆っていた。
 この鳩は五大湖周辺で営巣し、冬場はメキシコ湾岸のルイジアナ辺りに下る。不幸にも両方とも米国人のテリトリーの中だった。
 19世紀初め、オハイオに住んだ鳥類学者J・オーデュボンが『南に飛ぶ旅行鳩が空を覆い、それは3日3晩続いた』と書いている。
 米国人はそれを銃で撃ち、あるいは営巣する群れを棒で殴り殺し、肉を食い、羽は毟(むし)って羽根布団にした。
 50億羽もいる。どんなに獲っても減るわけないと思っていたら、100年も経たないうちにその姿が見えなくなった。
 米国人は『獲っても30億羽くらい、絶滅させるほどじゃない』と言い訳した。
 でも同じころ地に満ちていた6,000万頭のバイソンを殺しまくり900頭に減らした実績がある。
 支那人より酷いとか陰口されたものだが、ここにきて『米国人は全部獲って食ったわけではない』という学説がニューヨーク・タイムズに紹介された。
 カリフォルニア大サンタクルス校のベス・シャピロ教授による旅行鳩は2万年前から密度の濃い集団で生活し、同じパターンで南北に渡りを繰り返してきた。
 種の存在を脅かす敵もいなかったため、抱卵も年に1個だけだった。
 そこに米国人が登場して絶え間なく銃で撃ち、営巣地を壊した。
 結果、密度の濃い集団に初めて僅かな隙間ができた。
 他の種にとっては些細な隙間だが、2万年慣れた密度が薄れたことが大きなストレスとなって、ある限界点を過ぎた途端、加速度的に種は消滅に導いたと結論している。
 学術用語で言うと白犀は1,000頭が種を維持していくミレニアムの『遺伝子プール』になるが、旅行鳩では20億羽辺りがミレニアムで、それを割り込んだらひたすら絶滅に向かうというわけだ。言い訳としてはよくできている。
 この『種を存続できる限界』点は黴菌(バイキン)やウイルスにも実はある。最小阻止濃度(MIC)と言う。
 シャーレに入れた武漢コロナに例えればアビガンを加える。そうしたらMICを下回った。
 厳密にはシャーレにはまだ2、3匹生きていたとしてもその濃度では繁殖できない。死滅する。いい薬ですとなるわけだ。
 ところが武漢コロナに限っては死滅するはずの『2、3匹残った状態』でも繁殖し始める。
 コロナが治ってやっと退院できても、すぐ再発する例が多いのはそういう理由からだ。
 従来のMIC概念が通用しないのは自然発生じゃない、たった1匹でも生き永らえ増殖するよう工夫された生物兵器だと米国は考えている。
 白犀を絶滅させてもウイルスは丈夫に育てる。いかにも習近平らしい。
 ところで旅行鳩の哀しい運命は日本人に何かを問うているように見える。
 日本人も同じ2万年、日本列島で密な集団社会を営んできた。外敵もなく、思いやりと伝統に生きてきた。
 そこには米国人がきて日本人の伝統と生き方を否定し、欲と身勝手と相手を罵ることを教え込んだ。
 朝日新聞論説主幹・根本清樹お勧めの人生観だ。
 今の人口減も伝統を失った日本人が絶滅へ歩み出した証に見えないか」
   ・   ・   ・   
 金の切れ目が縁の切れ目。
 遠くの親類より近くの他人。
 家族より友人。
 年老いた親は面倒見ない。
 子供はあてにしない。
 親の遺産は争続で、兄弟や親族からより多くを奪う。
 先祖の墓を墓じまいして、先祖の遺灰を廃棄する。
   ・   ・   ・  
 日本の伝統的大家族主義とされる家制度、家族制度は、明治時代に人口増加政策としてつくられたにすぎない。
   ・   ・   ・   
 武士社会とは、陰湿なイジメ・嫌がらせ・意地悪が横行するブラック社会であった。
   ・   ・   ・   
 家督を継ぐ長男あるいは健康な子供は恵まれていたが、次男以下や病気がちな子供は部屋住みとして捨て扶持で結婚も許されず飼い殺しにされた。
 つまり、武士などには成るものではなかった。
 それが、日本の家制度の実態であった。
   ・   ・   ・   
 日本の家族は、自分の家族だけという少家族主義が多数派で、宗家・本家を中心とした一族郎党という大家族主義は少数派であった。
   ・   ・   ・   
 日本は世帯主制度であり、西洋は家父長制度であり、中華は宗族制度であった。
 血縁において、日本は薄く、西洋や中華は濃かった。
 日本の世襲制度は、血縁を絶対視する西洋や中華とは違っていた。
   ・   ・   ・   
 庶民は、大金を出せば武士になる事もできた。
   ・   ・   ・   
 日本人には、日本民族日本人と日本国日本人の2種類が存在する。
 日本国日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事を指す。
 日本民族日本人とは、住んでいる土地に関係ない。
   ・   ・   ・   
 日本には古代から、私欲俗欲強欲に塗れた醜悪な政治権力と宗教権威、そして神聖不可侵の天皇の御威光(御稜威・大御心)の3つが存在していた。
   ・   ・   ・   
 命を捨てても天皇・皇族・皇室を守ろうとした狂信的な勤皇派・尊皇派は、貧しい庶民、下級武士、賤民、部落民、芸能の民、異形の民、異能の民、在野の宗教家達であった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の日本は、「働かざる者食うべからず」で、年老いていようが障害者であろうが何らかの仕事をして生活費を稼いで生きていた。
 働ける限り、動ける限り、死ぬまで働いた。
 自分の食い扶持は自分で稼ぐのが原則で、働けなければ河原乞食(おこも)となって他人から金を恵んで貰うしかなかった。
 人から軽蔑だれ差別されていた賤民(非人・賤民)や部落民(川の民・山の民・海の民)は、人が穢らわしいとして嫌悪する仕事をする特殊な能力を持った異能の民・異形の民であった。
   ・   ・   ・   
 地方・田舎、農村・農家では労働集約型産業が主産業の為に一人でも多くの労働者を必要とした為に、祖父母・親・子の3世代が一つの屋根の下で生活していた。
 病気や老齢で働けなくなったり動けなくなった老親に対しては、子供は「姥婆捨て山」的対応として親を捨てた。
 貧しさ故に口減らしとして、非人道的に、胎児を流産させ乳児を絞め殺す「間引き」を行い、幼児を人買いに売った。
 買われた女児の多くは、売春婦にされ、悲惨な人生を生きそして惨めに死んでいった。
 家屋や田畑の相続が相続人総取りの為に、相続できない者は家を追い出され、障害者や病気など一人で生活できない弱者は相続人が面倒を見たが、たいがい「冷飯食い」あるいは「無駄飯食い」として邪険に扱われた。
 故に、日本人の本性は冷淡、薄情、冷酷、非情、冷血である。
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 夫に不満がある女房は、夫が健康を害するように食事を作って食べさせた。
 資産を持つ夫に愛想を尽かした女房は、夫が知らないところで間男を作って子供を生み、その子供を夫に育てさせ、夫の資産を子供に与えた。
 離婚しない女房にとっての「子はかすがい」とは、夫への愛情の事ではない。
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 江戸時代は連座制(連帯責任)として、犯罪者を出した家の家族全員が罰せられた。
 親は家から犯罪者を出さない為には、素行の悪い子供は助けず、更生させず、勘当して親子の縁を切り、死のうが生きようが本人の責任として家から追放した。
 親が子供を犯罪者にならないようし躾けたのは、連座制が怖かったからである。
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 武士の世界でも連座制が当然で、主君の逆鱗に触れば理由の如何にかかわず上意撃ちか切腹となり、申し開きは認められず家禄や家屋敷は没収され領地追放にならば良い方で、最悪な場合は家族全員が処刑された。
 そうした理不尽がまかり通るの、絶対服従が「武士道」であった。
 日本の権力や権威は、死と直結したブラック社会の上に存在していた。
 絶対服従で生きる処世術は、「自分は自分、他人は他人」として我関せずに徹し、薄情に傍観者として理不尽な処罰を受ける哀れな同輩を見捨てる・見殺しにする事である。
 武士は名誉の為に死を怖れぬ「滅びの美学」とは、ウソである。
 武士道とは、生き残る為の事勿れ、横並び、先送り、責任回避である。
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 江戸時代の身分制度は職業別制度であり、武士と庶民(百姓や町人)とその他(僧侶・神主、賤民・部落民)であった。
 百姓の職業は農工(職人)商で、町人の職業は工(職人)商であった。
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 江戸時代は、救いもなければ、夢も希望もない悲惨なブラック社会であった。
 日本人は、惻隠の情があり、情が深く困った人を見れば「止むに止まれず」に助ける、はウソである。
 むしろ、傍観者・無関心者として関わり合う事を嫌い無視し見捨てて通り過ぎる。
 つまり、自業自得、と言う事である。
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 江戸・大坂・京などの都会・城下町で生活する町人は、核家族で親子だけで老いた祖父母とは生活しなかった。
 女性は人数が少なかった為に、よほどの精神的肉体的に異常がなければ結婚した。
 男性は人数が多かった為に、家族を養うだけの稼ぎのある職を持った者は結婚できたが、収入の少ない者は結婚できなかった。
 つまり、結婚できず、独身のまま寂しく死んでいく男性が多かった。
 都会・城下町で生きるという事は血の繋がりという縁を絶ち切り、家族付き合いや親戚付き合いをせず「個」として生きる事である。
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 江戸時代の日本で人口が増えなかったのは、結婚できないほど貧しい男性が多かったからである。
 明治新政府は、人口を増やす為には健康な若者が安心して結婚できるようにする事であり、その為には収入を増やす事が先決であるとして、殖産興業・富国強兵・近代教育を進めた。
 明治期の日本の最重要懸案事項は、「ロシアの軍事侵略から如何にして無防備な母国日本を守るか」であった。
 健全な若者が結婚する事で、人口爆発が起き、総人口は明治初期(1868年)の約3,000万人から73年後の昭和16年(1941年)には約7,000万人に急増した。
 この人口爆発が、日本を軍国主義国家に押し上げ、「ロシア・ソ連の横っ腹を突く」という積極的自衛戦略の為に朝鮮・満州への侵略を可能にした。
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 戦後教育は、戦前の反省から国家、地域さらには家族、親兄弟からの「個」の自立を教えた。
 バブル経済時代のメディア・報道機関は、個の幸せは結婚して家庭を持ち子供を産んで育てるだけではないとして、独身貴族やパラサイトシングルこそ勝ち組の証しと子供たちに吹聴した。
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 現代日本の現状は、現代日本人が自分で選んだ事であり、昔の日本人の選択とは関係である。
 それが不幸の原因なら、それは現代の日本人の自業自得で、現代の日本人が浅はかで愚かであったと言う事である。
 その被害を最も深刻に被る子供は、原因をつくって押し付けた逃げた無責任な全ての大人を恨むべきである。
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 将来の日本とは、人生100年時代で、少子高齢化で老人が多く若者が少ない、子供がさらに生まれず人口回復が望めない人口激減の日本である。
 そして、金を持った老人と貧しい若者が日本に溢れる。
 日本人の若者は、貧しさ故に草食化度を強め、繁殖能力は劣化し、性意欲も衰退している。
 それに反比例して、若くて性意欲が高く繁殖力が旺盛な外国人移民(主に中国人移民)が増えていく。
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 日本の近代化とは、帰属意識を持たなかった砂粒のような日本列島原住民に西洋哲学のアイデンティティーを持たせる事であった。
 つまり、オラが○○国(例・陸奥国)の××ムラの△△藩(例・会津藩)の殿様が後領主様から我が大日本帝国天皇陛下国家元首(唯一の統治者)であるという事である。
 そして日本列島原住民を、地方人の○○人(例・津軽人、薩摩人)から単一の日本民族日本人へと作り変える事であった。
 それは、歴史上初めての大家族主義(=皇道)の「八紘一宇」精神にもとづく民族国家・大規模集団への統合であった。
 琉球人もアイヌ人も、祖先(縄文人)を同じくする日本民族日本人に組み込まれた。
 日本を強権を行使して強引に一つにまとめたのは、ロシアの武力侵略とキリスト教の宗教侵略から日本を守る為であった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として売買する事で金を稼いでいた。
 日本人を奴隷として売ったのは日本人である。
 日本人にとって、同じムラ人でない他村の住人は赤の他人で、殺そうが、売り飛ばそうが良心の呵責の対象ではなかった。
 日本人とって、自分だけの平穏な生活に害をもたらさなければ、領主・支配者が日本人であれ他国の人間であっても構わなかった。
 つまり、自分の利益になるのであれば、殿様を裏切り、見捨てた。
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 敗戦後の日本人は、進駐して来たアメリカ軍・国連軍に対して独立運動・抵抗闘争をせず、下僕のようにGHQの占領統治を受け入れ、「ご無理ご尤も」として日本否定の命令・指示に唯々諾々と従った。
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 戦後日本の教育は、大規模集団・大家族から小規模集団・家族、そして核家族へ細分化して個を解放する事であった。
 目的は、日本の人口減少であった。
 人口学から、日本の暴走の原因が人口爆発にあったと分析され、二度と日本を暴走させない為に人口を減らす事と結論付けられた。
 現代日本は、少子高齢化と未婚増加によって人口激減が加速度的に進み、将来的に人口回復人数の限界を超え、日本民族日本人が消滅する危険性も考えられる。
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 生物学的に、種の保存には一定数の同種の個体数が必要であり、生存には減少回復限界値としての個体数があり、減少回復限界値個体数を下回るとその種は確実に絶滅する。
 アダムとイブだけでは人類・人間は増えない。
 つまり、オス・メスの一対だけを乗せたノアの方舟では種の保存はできない。
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 正常な生体(健常者)と異常な生体(障害者)が数多くあってこそ、種の多様性は保たれ、種の保存と継続的生存が可能である。
 遺伝子の変異よる異常な生体(障害者)を排除したとき、正常な生体(健常者)は生まれづらくなる。
 遺伝子が進化するにあって、異常が発生するようにできている。
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 老人が少なく若い男女が多くいれば人口は増えるが、老人が多く若い若い男女が少ないと人口は減る。
 だが、人間を含む全て生物には寿命があると同様に、国家、人種、民族にも、さらに地球、太陽、銀河、宇宙にも寿命がある。
 当然、日本国にも、日本民族日本人にも寿命がある。
 全てに寿命があり、何時かは滅び、死滅し、絶滅する。
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💖19)─1─日本軍は中国軍が行った堤防破壊、井戸への毒やコレラ菌投入の尻拭いをしていた。〜No.80No.81No.82No.83 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本軍は、戦争をする事で悪い事(戦争犯罪)を行ったが、同時に良い事(人道貢献)も行った。
 国際法は、日本の戦争犯罪を時効を認めず無期限に糾弾し続け、日本軍の人道貢献を一切求めない。
   ・   ・   ・   
 2020年7月号 WiLL「武漢ウイルス戦犯国 中国をテロ国家に指定しろ
 世界で30万を超える死者を出した武漢ウイルス──これはバイオテロだ。
 高山正之×小川榮太郎
 ……
 テロ国家に指定せよ
 高山 明治以降、日本は欧米の技術や制度を取り入れて近代化した。アジア諸国を勇気づけた『東洋の異端児・日本』を、どうやって抑え込むか──これこそ米国の最重要課題で、それに利用されたのが、同じ黄色人種の中国だった。
 戦前・戦中、蒋介石は米国からカネをもらって日本の足を引っ張った。米国は戦後も日本を敵視し、共産党政権になっても中国を使って日本を抑え込み続けた。中国共産党は、米国が言い出した南京大虐殺のウソに乗っかって日本人に贖罪を迫り、ODAと技術援助をタダで引き出すことに成功した。
 ……
 支那事変では、軍内でコレラが流行っていた。そんななか、731部隊は防疫と清潔な飲料水の研究をしていた。そういう防疫給水部隊は各師団が持っていた。南京攻略のあと、日本軍は揚子江を遡って逃げる国民政府軍を追った。九江を経て武漢に向かおうとしたら敵は揚子江の堤防を切り、九江の街の井戸には毒やコレラ菌を撒いていった。で、防疫給水部隊が井戸水を浄化し、他の部隊は堤防の決壊箇所を直し、九江の市民には糧食を分けた。
 そいうい話はGHQや朝日新聞が一切フタをして、語るのは731人体実験とかのフェイクニュースばかりだ。この731部隊のウソと内務省の解体で、戦後日本は『防疫とは何か』も忘れてしまった。コロナの検疫体制が後手後手に回ったのも、そういうGHQの悪だくみが遠因になっていると思う」
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 中国軍は、敗走するに当たり、町や村そして米や麦を焼き払い、農作物を踏みつけ、河川の堤防を破壊して氾濫を起こし、飲料水の井戸や河川に毒と細菌兵器(細菌・ウイルス)を投げ込んでいた。
 中国軍は、自国民を兵器とみなし、進撃してくる日本軍の前に数十万人数百万人の自国民を被災民として放置した。
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 中国軍は人命軽視が甚だしく、自国民である中国人の命など弾除けの消耗品と見なし、ましてや敵軍の日本兵士など虫けら以下としか見ていなかった。
 それ故、天皇と日本国を裏切り、日本軍と戦う日本人降伏兵は助けで自軍兵士に組み込んだが、天皇への忠誠と日本国への愛国心を捨てず日本軍・戦友に銃を向ける事を拒む日本人降伏兵は猟奇的残酷な方法で惨殺した。
 中国には、人権や道徳など存在しなかった。
 中国軍に降伏すれば、生きるか死ぬかの二者択一の選択を迫られ、それ以外の選択肢はなかった。
 中国軍・中国共産党軍に参加して日本軍と戦い、日本人戦友を撃ち殺し、昭和天皇を殺して天皇制度を廃絶しようとした、罪悪感を持たない日本人降伏兵が少なからず存在していた。
 その意味で、戦陣訓は間違ってはいなかった。
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 ソ連軍は、ファシスト中国(中国国民党)に対する軍事支援として、正規兵を派遣し、武器弾薬・生物兵器化学兵器を供給した。
 ヒトラーはドイツ軍事顧問団を派遣し、軍需産業は最新最強兵器を供給した。
 アメリカ陸軍は、ルーズベルトの大統領命令で正規兵を派遣し、軍需産業が最新兵器を提供した。
 国際金融資本と国際報道機関は、ファシスト中国が日本に勝つように協力してていた。
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 国際法は、中国軍が行った非人道犯罪は全て日本軍の犯行と認定した。
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 武漢作戦(武漢会戦)
 年月日:1938年(昭和13年)6月11日 - 10月27日
 武漢作戦は、日中戦争で行なわれた戦いの一つ。武漢三鎮攻略戦、武漢攻略戦とも呼称される。中国側の呼称は武漢会戦。または武漢保衛戦という呼称もある。
 日中戦争の一つの節目とされる戦いである。武漢まで戦線を広げる事になった日本軍は、天然の要害である首都重慶の攻略が困難な事を悟らされてそこで手詰まりとなり、以降は終結への道筋が付かない泥沼戦争に引きずり込まれた。

 日本軍 兵員:35万人(9個師団)、航空機:500機、艦船:120隻
     戦死:7万9,500人。負傷:2万6,000人。
 中国軍 兵員:110万人、(120個師団)、航空機:200機。
     遺棄死体:19万5,500人。捕虜:1万1,900人。
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 黄河決壊事件は、日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした黄河の氾濫である。事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国語では花园口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。軍事目的の環境破壊として史上最大とされる。
 影響
 日本軍は武漢三鎮への進撃を一時停止せざるを得なかったが、進路変更により漢口作戦の発令から2ヵ月後の10月26日には武漢三鎮を占領した。
 黄河決壊による被害は「堅壁清野」という焦土作戦とともに、中国民衆をさらに苦しめることになった。農作物にも大きな被害を与え、さらに国民党側による食料調達(徴発)の為、農民は厳しい搾取を受けることとなった。もともと渤海に流れ込んでいた黄河が流れを変え東南方に氾濫し、いわゆる新黄河となって揚子江流域鎮江附近から黄海に注ぐようになったことで、それまで黄河によって潤されていた北支の田畑は夏になると乾燥して水飢饉となり、反対に中支の新黄河流域地方は毎年洪水に苦しめられることになった。黄河の流れは南側へ変わり黄海に注ぐようになったが、堤防が1946年から1947年にかけて再建されたことで1938年以前の流域に戻っている。堤防破壊の後遺症として1942年に河南省で干ばつが起こった際に飢饉が発生し、道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えから屍肉が食べられたと伝えられる。
 河南旱魃と民衆の離反
 作家の劉震雲によれば、1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、旱魃、イナゴの発生(蝗害)、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した(オドリック・ウーによれば死者300万人、土地を捨てた者300万人、救援を待つ飢えた人々は1,500万人を数え、河南の西部、南部、東部の順に伝染病の被害があったことも指摘している)。この状態が続けば河南省は全滅していたが、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り、軍糧を放出して多くの人々の命を救った(ウーによれば飢饉の数年間、日本側は各地の食糧倉庫から食糧を放出し、飢えた人々に食糧を調達していた)。そのため、河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れないほどだった。
 1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行し始めた。これは農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取り上げはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した。推定では、河南の戦闘において数週間の内に約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果、30万の中国軍は全滅した。
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 河南省の住民は、日本軍に助けられた恩を返す為に、日本軍と協力して抗日軍や中国共産党軍と戦った。
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 堅壁清野(けんぺきせいや)は、焦土作戦の一種。清野作戦ともいう。城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われる。  古代
 「焦土作戦」を参照
 中国では古来からの戦法とされ[3]、古くは『後漢紀』巻四にも現れる。また白蓮教の乱の際の勒保、龔景瀚、清のヌルハチを敗走させた袁崇煥などの策がある。
 中国国民党による作戦
 日中戦争支那事変)期に中国国民党軍によって堅壁清野は行われた。国民党軍は日本軍・中国共産党軍の双方に対しこの作戦を取った。焦土化の対象は、軍事施設や食糧倉庫のみならず田畑や民家にまで及び、南京戦の際には、日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却した。国民党軍により南京城壁の周囲1〜2kmの居住区全域と、南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を焼き払い、焦土化された。
 中国国民党はその後も日本軍の進撃を止めるため黄河を決壊し、人工的に洪水を起こした黄河決壊作戦や、日本軍が迫ったとの流言に惑わされた中国軍による焦土作戦の長沙大火もある。
 また、三光作戦は堅壁清野作戦を日本軍の仕業として中国側が報道したものだという説もあり、日本軍の資料で「三光作戦」また「燼滅作戦」は発見されていない。
 中華民国陸軍軍官学校出身の朝鮮人将校崔徳新は、中国国民党軍を率いて共産ゲリラ討伐戦術で堅壁清野作戦を実施した。
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 三光作戦(さんこうさくせん)または三光政策(さんこうせいさく)とは、北京語で「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」(中国語: 杀光、烧光、抢光: 殺光・焼光・搶光) を意味する用語。蒋介石が「軍事が三分、政治が七分」と称し、保甲連坐法をしき実施した作戦を指し、日本軍の過酷なふるまいに対する中国側の呼称としても用いられた。1931~34年の国民党軍による瑞金掃討作戦に観戦武官として参加した岡村寧次北支方面軍司令官がそれを適用したと言われ、主に共産党八路軍根拠地に対して行われたとされる。[要検証 – ノート]ただし、日本軍には「燼滅作戦」や「三光作戦」、「三光政策」といった作戦名や作戦命令は存在していない。
 概要
 貝塚茂樹は、「三光政策」を「ゼークトにより蒋介石軍がとった、ソヴェート地区の壮丁をみなごろしにする殺光、住家を焼きつくす焼光、食料を略奪しつくす搶光」としている。第五次囲剿戦(中国語版)で、国府軍は、「政治七分、軍事三分」という力配分による長期政策と堡塁形式を主軸とした占領政策に変更し、敵対住民に対して「三光政策 (殺光・焼光・搶光)」いう徹底的な弾圧策を採用した、という。中国共産党側の研究によれば、国民党側はソビエト区に対して「殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くし」の三光政策を行った、という。
 三光作戦は、延安で発行された『解放日報(中国語版)』の1941年7月7日、9月25日などで使用例があるという(当時の『解放日報』は、中国共産党の博古が責任者を務めていた)。日本では撫順戦犯管理所等に収容され、後に解放された中国帰還者連絡会が1957年(昭和32年)にカッパブックスから出版した『三光』から、この「三光作戦」という呼称が広がった。
 日本では「燼滅作戦」という呼称を使用する者もいるが、この呼称について笠原十九司は、作戦名としては存在しないが、1940年(昭和15年)8月26日、北支那方面軍第一軍参謀長の田中隆吉少将が「敵根拠地ヲ燼滅掃蕩シ敵ヲシテ将来生存スル能ハザルニ至ラシム」と命令したことから来ているとしている。
 燼滅目標及方法
 1. 敵及土民ヲ仮装スル敵
 2. 敵性アリト認ムル住民中十五歳以上六十歳迄ノ男子
 殺戮
 3. 敵ノ隠匿シアル武器弾薬器具爆薬等
 4. 敵ノ集積セリト認ムル糧秣
 5. 敵ノ使用セル文書
 押収携行、止ムヲ得ザル時ハ焼却
 6. 敵性部落
 焼却破壊
 や「前進ニ方リテハ徒ラニ速度ヲ延長スルコトナク進路両側ヲ成可廣範圍ニ互リ徹底的ニ燼滅スルモノトス」など敵性ある住民を殺し、武器と食料を奪い、村を焼き払う焦土作戦の命令もある。
 「三光」との呼称が中国語であることなどから、中国やそれに同調する学者やマスメディアによるプロパガンダであるという見方がある。一方で、三光政策という呼称で歴史的事実とする立場もある。笠原十九司によれば、日本では、三光作戦が中国側のプロパガンダで、特にメディア世界で、そうした歴史事実はなかったとする風潮が強いが、加害者と被害者の史料・証言が一致した事例については否定できないのではないか、という。

 中国共産党の報復清野を奨励する方法
 報復清野を奨励する方法(支那紙大公報所載より抜粋)
 共匪は大いに階級闘争を主張する故に地方の不良分子は平素些細の事にも相争いあって報復する。其れは口訴、文書、孰れも歓迎するのである。報告があれば隊を派遣して包囲し其の者を縛り上げ其の者の財を掠める。如何に誣枉せられても辨訴の権利はない。甲が乙を訴ふれば乙を縛し丙が甲を訴ふれば又甲を縛し丁が丙を訴ふれば又斯くの如し、順繰りに拘引し瓜蔓の如くに連行する金銭を以て刑を贖うものは別として其の大部分は首を連ねて殺される。一地を占領する毎にまず現金を取り上げ次ぎに首飾り、次ぎに布疋次ぎに家畜、次ぎに食糧とあるだけのものを匪巣に搬入する。従ってそれ等の地方は家は岩家の如く食うにも蓄えの食糧なく鼠雀の外に家畜なく鍬鋤の外に金物は殆ど見当たらない。青野を励行して国軍の新軍討伐に困難を感ぜしめる、計略としてこれほど甚だしいものはない。
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🏞123)─1─多くの藩は疫病が発生しても隔離・自粛を制度化していなかった。~No.487No.488 ㊺  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本は、補償がある至れり尽くせりの天国である。
 江戸時代の日本は、補償がない面倒を見ないほったらかしの地獄であった。
   ・   ・   ・   
 2020年6月10日 読売新聞「磯田道史の古今をちこち
 身代潰したす『給付なき隔離』
 新型コロナウイルスの流行で、我々は『自粛』生活を送った。江戸時代にも自粛は行われたのだろうか。
 若い時分、私は古文書さがしの全国行脚をした。山口県岩国藩の史料をみていたら、『疱瘡(ほうそう)遠慮定』という稀有(けう)な古文書に出くわしたのを憶(おぼ)えている。
 岩国藩(吉川領)では、武士や領民が疱瘡(天然痘)に感染すると『遠慮』といって登城や外出を自粛させた。そればかりか自宅療養を禁じ、『疱瘡退村』と特定の村を隔離区域に指定。きまった日数、そこに隔離していた。〝濃厚接触者〟に近い概念もあった。最初は、病人の看病人や病家の隣家までが濃厚接触の疑いで隔離。その範囲は次第に、病家を訪れた人や隔離先の村人などに拡大されいった。
 もっとも、普通の藩は、そこまでのことは、していない。岩国藩が異常に厳しい隔離政策をとっていた。
 近年、江戸期の隔離や天然痘の予防接種の研究は進んだ。昨年末には香西豊子『種痘という〈衛生〉』(東京大学出版会)という優れた研究書も出ている。最新に研究にも学び、江戸時代の『自粛』や隔離について説明しておく。
 そもそも江戸時代は『自粛』をする理由が現代とは大きく違った。現代は感染を拡(ひろ)げないためであるが、当時は、なんと殿様(藩主)にうつさないためであった。だから、殿様が不在の場合は『「遠慮」の制が適応されないこともあった』(香西前掲書)という。
 徳川幕府も、将軍の身体を守るため、法定伝染病の制度を設けていた(川部裕幸『江戸幕府の法定伝染病』日本医史学雑誌)。1680年から、疱瘡・麻疹(はしか)・水痘の3つにかかると、幕臣江戸城への登城を35日間『遠慮』した。
 江戸人の多くは幼時に天然痘にかかった。特に都市住民は、まず罹患(りかん)した。徳川将軍は周囲が遠慮=自粛して感染から守られたが、これでも歴代15人中14人が罹患した。かからなかったのは8歳で死んだ7代・家継おみである(香西前掲書)。
 江戸時代の天皇も、疱瘡の『ケガレ』から徹底して防護されていたが、それでも15名中7名が罹患した(川村純一『病いの克服──日本痘瘡史』思文閣出版)。
 しかし、岩国の殿様は、完璧な身体的距離戦略の『遠慮定』で天然痘ウイルスから遠ざけられた。そのためか、『歴代だれひとりとして痘瘡にかかっていない』(香西前掲書)という。
 君主の身体を守るため、自粛を強要したなら、江戸の『自粛』にも『給付』が伴ったのかが気になる。岩国藩の場合は『退散米』といって、病人・看病人・同居人等の隔離費用を生活費も含め領主が負担した。その費用、流行一回に付き、米200石(桂芳樹『岩国藩の「疱瘡遠慮定」』岩国徴古館)。
 現在、新型コロナ対策で、事実上の外出自粛や休業の要請をしながら、生活支援や給付が十分でないとの意見も多い。江戸時代の方が手厚かったと思われるかもしれない。
 しかし、岩国藩は例外である。第一、江戸時代は隔離自体を制度化していない藩が多かった。大村藩長崎県)も隔離を強制する珍しい藩であったが、岩国とは制度が違い、皆、ひどい目に遭っていた。長与専斎はこの大村藩の医師。内務省衛生局初代局長となった長与は、後にこう回想している。家族から疱瘡にかかると『其費用夥(おびただ)しく・・・疱瘡百貫と唱へ、中等以下の生計にては大抵身代(しんだい)を潰し累代(るいだい)の住家をも離るるもの少なからず』(長与称吉編『松香私志』下巻)。百貫は今の数百億円。『給付なき隔離』の恐ろしさを歴史は教えてくれている」
   ・   ・   ・   
 日本列島は、深刻な自然災害、恐怖の疫病感染爆発、地獄の飢饉・餓死、甚大な大火が複合的に多発し夥しい犠牲者を出す悲惨な災害地帯であった。
 考えに考えて智慧を出し、工夫に工夫をこらして技術を進歩させ、如何に努力し頑張ったところで、被害を完全にゼロに防ぐ事はできなかった。
 日本民族日本人は、毎年の如く発生する複合的災害多発地帯から逃げ出さず、「死」を身近なものとして、死ぬ事を前提として生きてきた。
 複合的災害多発地帯では、死と生は一体であった。
 災害による死は、誰が悪いというのではなく「やむおえない」不運・不幸であった。
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 江戸時代は、ブラック社会で、御上・御公儀、幕府・大名、寺社仏閣などは助けてはくれないため、自己責任・自助努力・自力救済で生きるも死ぬも自分しだいであった。
 日本には、困窮者・貧困者・病人など弱者を救済・生活支援するキリスト教会や無料でボランティア活動する民間団体もなかった。
 江戸時代の庶民には救いはなかく、絶望して諦めるしかなった。
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 日本社会は、いつの時代でも哀れなほどに脆弱であった。
 日本民族日本人は、どうしようもない程に精神力が弱く脆く、弱虫で、気弱で、ダメな人間であった。
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 江戸時代は、老人文化花盛りの庶民(百姓や町人)の時代であった。
 滅びの美学で死を美徳とする武士などは少数派であり、物の哀れを悟り世を捨て山野に籠もった隠遁者はいなかった。
 庶民は、夢も希望も持たない代わりに、その日その時の性の欲動と生の衝動で意欲満々と生きていた。
 庶民は、死を覚悟して勇敢に立ち向かって戦わず、生きる為に惨めに泣きわめきながら逃げ回った。
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 2020年6月11日号 週刊新潮「『常識』が喪われた『コロナ後』に戻るべき価値観の原点  佐伯啓思
 新型コロナウイルスとは何だったのか──。我々はウイルスそのものに戦慄した。同時に、それを、それすらも受け止めることができない現代社会の脆弱性も目の当たりにした。徐々に取り戻されつつある『日常』。だが、戻るべきは『これまで』の生活なのだろうか。 ……
 隣に倣えという基準
 結局、グローバリズムによって、我々は価値の確かな基準を喪失してしまった。ニヒリズムに陥ってしまったのである。だから戻るべきところが分からない。基準とすべき価値が見えないのだ。
 グローバリズムとはとどまるところのない『自由』の拡散である。自由主義、それは有り体に言えば『何でもあり』ということだ。裏を返すと、『何が良い』のか分からない。それを決める基準はない、だから全て状況次第。拠って立つものがないから、最終的に隣りに倣えとなり、それのみが基準となっていった。
 構造改革もそおうだし、ボーダーレス化も、IT革命も、グローバリズムも同じである。他がやっているから我々も、となる。要は世の中の『空気』で物事が動いていく。価値基準を持たないから、その流れに抗して歯止めをかけることができない。
 しかし本来、人間の中には、ここまで行ってしまったら行き過ぎだとか、そこまでやるのはおかしいといったバランス感覚があるはずだ。それを『常識』と呼ぶ。では『常識』とは何か。先のことは見えないのだから、昔からの積み重ねを拠りどころとし、変えるのであれば漸進的に変えていく。これが『常識』であり、保守の知恵であった。
 ところが90年代以降、グローバルスタンダードの名のもと、成長主義と改革主義だけが世界を覆うようになった。そして中国に負けてはならない、というような話になる。あが、改革、成長が正しいという根拠はない。他がやっているから我々も、ということで正当性を図っただけである。企業もそうだ。同調である。そして同調が同調を呼び、窮屈な社会が生まれた。
 物事には多方面な価値があり、画一的で合理的なひとつの価値基準で割り切れるものではない。つまるところ、『これで全て解決』というようなやり方は存在しない。多様なものに配慮し、異質な見方にも耳を傾けるという保守の基本的な考え方が喪われた。新保守と言われる改革論者も、逆にポリティカル・コネクトネス(PC)を振りかざす左翼も、両面から『常識』を壊していった。一元的な正義、一元的な価値だけで割り切ろうとし、それ以外は認めない。そんな両者の『空気』に人々はなんとなく従い振り回されてきた。こうして、現代社会は堅苦しく、ピリピリとしたものになってしまった。
 問われる死生観
 この一元的な価値観は、死生観にも少なからぬ影響を与えてきた。我々がコロナによってパニックに陥った大きな要因は、身近に『死』を感じたことにあろう。
 カミュの『ペスト』が売れたようだが、そこで描かれたのは、生は死と隣り合わせで不条理なものであるということだった。それを我々は忘れていた。一元的な価値観である科学的統計主義に支配され、不条理を排除できると思い込んできた。ゼロリスク信仰と言っても良いかもしれない。
 全てを画一的に数字に換算し、それだけで是非を語るのであれば、経済成長率は1%より2%が良いとなるし、コロナの致死率も3%の国より2%の国のほうがいいとなる。しかし、死とは一人の問題であって、確立の話ではない。人間の実在にかかわる。大事なことはどういう死に方をするかであるが、数字の話ばかりが語られる世の中になってしまっていた。
 また、日本人のかつての死生観には、災害などの自然現象に対してはある種の諦めがあった。自然現象には人知が及ばないものだという一種の諦念を持っておかないと、感染者数を減らすことができなかったのはなぜか、誰が責任を取るのかという際限のない責任追及の負のループに陥ってしまう。自然現象の前では人間は無力であり、いつかは死ぬ。その前に自分の生き方を定めておく以外にないのである。コロナは、死を前提にどう生きるかを改めて我々に問うたといえよう。
 とりわけ日本は、戦争の反動で戦後に平和主義が染みついた。平和であることが当然になり、自分たちで自分たちの生命をどうやって守っていくかという切迫感が喪われたのだ。阪神淡路と東日本の2度の大震災はあったものの、このまま普通に生きていけるだろうと。それが生命第一主義となり、生命の維持が絶対化されていった。
 もちろん、誰しも生命は大事である。しかし、かつては『太く短く生きる』とか、『義のためには命を惜しまず』といった武士道的なやせ我慢の道徳観も同時にあったのではなかったか。今回、医療関係者が差別の対象になったなどというのは論外だ。
 コロナ禍が、死の不条理を思いおこさせたのなら、コロナがもたらした約2ヵ月間の自粛期間は、どうやって生きるか、どうやって死ぬかを考えるいい機会であったはずだ。私自身はまだ書きたいことも知りたいこともあり、この2ヵ月間は貴重な時間でもあった。パチンコをやって死にたいのか、麻雀をやって死ねば良いのか、これは一人ひとりの選択の問題である。
 今回のコロナは、必ずしも強毒性とは言えないものの、それが経済を完全に破壊し、人間の精神にも大きなダメージを与えたというところに、これまでのパンデミックとは違う特色がある。こんなことで世界全体がパニックになってしまうほど、グローバリズムが骨の髄まで浸透した現代文明は薄っぺらものだったということである。……」
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 人に対する差別と迫害は、日本と西洋・中華などの世界とでは違う。
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 現代日本人は、歴史力がない為に歴史が理解できない。
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 一般庶民には、個人の墓・先祖代々の墓はなく、仏壇はあっても位牌はなかった。
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 日本の生き方は、西洋の生き方や中華(中国・朝鮮)の生き方とは全然違う。
 日本の生き方は、努力は報われないという「諦め」であった。
 西洋と中華の生き方とは、努力は報われるという「諦めない」であった。
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 日本文化は、自然と折り合いつけながら相互依存と補完共生であった。
 西洋文化中華文化は、自然を支配し管理する為に科学技術で改造することであった。
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 アジア、東洋と言っても、神道の日本、儒教の中華、ヒンズー教とその他のインド、イスラム教とその他の東南アジアでは全く違う。
 西洋は一枚岩だが、東洋は複数であった。
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 日本で最悪の「穢れ」とは、疫病である。
 日本で血と死・死体が忌避されるのは、疫病の感染爆発を怖れたからである。
 疫病死体・変死体を処理するのが、穢れた賤民(非人・穢多)や部落民の仕事であった。
 疫病は、海の外、中国大陸や朝鮮半島から入ってきた為に、中国人や朝鮮人を穢れた人間として嫌い、差別し、排除した。
 幕末、尊王攘夷で外国人を襲い殺したのはコレラの感染爆発が原因であった。
 孝明天皇が夷人を嫌い、公家が神戸開港に猛反対したのは、疫病感染を怖れたからである。
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 日本の姥婆捨て山物語は、年老いて働けなくなり無駄飯食いだからではなく、体が衰え免疫機能が低下し疫病に感染しやすいから、疫病に感染しないうちに家族から引き離す為であった。
 村は、村を疫病から救う為に老人を捨てる行為に目を瞑った。
 若い生娘を生け贄にする、という行為も疫病難から逃れたい一心で行われた。
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 日本のムラが、閉鎖的排他的で、外から訪れる余所者を受け入れなかったのは疫病の水際対策であった。
 不寛容に、病人が出た家を村八分的に関わりを持たないようにしたのは疫病の感染爆発を抑える為であった。
 その最悪の例が、癩病者=ハンセン病者に対する冷たい仕打ちであった。
 皮膚病や癩病ハンセン病を治し病人を癒やす奇跡は日本にはなかった。
 日本人は、病人を穢れた人間として追放した。
 日本人は惻隠の情があり、相身互い、お互いさま、相互扶助、助け合いの精神がある、はウソである。
 日本人は、いざとなれば見殺しにする、見捨てる、といった薄情・非情・冷酷・冷血さを心に秘めている。
 殊更、日本人を美しく持ち上げる話をする日本人は信用しない方が良い。
 松本清張が『砂の器』で描いた日本人像が、正しい日本人である。
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 大名・藩は自藩第一主義で、他の大名・藩がどんなに悲惨な状況に陥り夥し犠牲者を出そうとも食糧や医薬品などの救援物資を送る事はなかった。
 「敵に塩を来る」は、つくられた美談である。
 自分は自分、他人は他人、自分が助かって生き残れれば他人の生き死になど気にはしない、それが江戸時代の生き方であった。
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 江戸時代の庶民は、よく笑い、よく怒り、よく泣き、酒を飲んで楽しく踊り詠い喜んでいた。
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 昔の日本には、思想や哲学はあっても主義主張・イデオロギーはなく、祈り拝む信仰はあっても信じ込む宗教はなかった。
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種痘という〈衛生〉: 近世日本における予防接種の歴史
病いの克服―日本痘瘡史