🌈70)71)72)─1─日本民族の石碑文化。江戸時代に急増した石碑。~No.118No.119No.120No.121No.122No.123  ⑬ 

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 日本の石碑文化は、中華・西洋など世界の石碑文化とは違い。
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 日本民族日本人は、自然災害、疫病感染爆発、飢餓・餓死、大火など複合的災害多発地帯である日本列島で数万年生きてきた。
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 2020年6月3日 読売新聞「文化  歴史
 石碑に刻んだ災厄
 江戸時代に設置急増
 安政コレラ禍 万人講の祈り
 天命飢饉 備蓄の教訓 
 『えり抜きのメッセージこめて』
 石碑に刻まれた文字の中には、疫病や飢饉など過去の惨状を今に伝える貴重な情報が残されている。関根達人弘前大教授の新著『石に刻まれた江戸時代』(吉川弘文館)では、北海道から九州まで全国で調査した江戸時代の石碑を通じて、苦難と向き合った先人の教訓を紹介している。
 江戸時代は、識字率の向上や石を運搬する海上交通網の整備などを背景に各地で多様な石造物が建てられ、災害や大火などの被害を伝える石碑も急増した。『死者を弔う供養碑は、それまでも盛んに造られていたが、江戸時代の人たちは子孫に教訓を残すため、より実用的なメッセージを碑に残そうとしたのだろう』と、関根教授は分析する。
 東日本大震災を機に、過去の津波の到達点などを示した地震関連碑の重要性が注目されたが、新型コロナウイルスの流行で関心が高まる疫病の記録が刻まれた石碑も各地に存在する。」
 『去年の7月はかり いとあやしき疾(やまい)出来(しゅったい)』。埼玉県越谷市の安国寺にある供養碑は、安政5年(1858年)のコレラ流行の様子を伝える一文から始まる。医者を迎える間もなく、数え切れぬ人々が命を落とす中、周囲の村から安国寺に集まった人々が様々な物を仏前に供え、昼夜を問わず死者を弔った。この『万人講』に参加した人は病にかからず、功徳が報われた証しに石碑を建てたという。
 青森県八戸市の対泉院にある天明の飢饉(1783~84年頃)の供養塔には、作物が実らず、疫病が流行し、多くの死者が出て村の被害状況が刻まれる。蕨(わらび)の根を掘り、海草や山草のみならず、稲の茎や稗(ひえ)の茎も切って食物としたが、餓死者が絶えず、押し込み強盗なども相次いだ。領内では、人口の半数に近い3万人余りが亡くなるなど、前代未聞の事態だったという。
 〝コレラ禍〟を乗り越えた信心深い住民の団結力、餓死者が相次ぐ村の悲劇──。いずれも、医学が未発達な江戸時代における闘いの貴重な記録だ。不特定多数の目に触れぬ屋外の石碑は、より多くの人にメッセージを伝える点で効果的だった。対泉院の供養塔には飢餓に備えて、『米穀などはきちんと貯蔵しておくべきである』と食糧備蓄の戒めも刻まれている。
 『古文書などと比べ、歴史研究で軽視されがちな石碑の文章だが、多大な労力をかけて石に文字を彫る以上、選ばれ抜かれたメッセージが込められている』と、関根教授は重要性を強調する。未曽有のコロナ禍の教訓を後世に残す意味でも、石碑に託された先人の思いの強さに学ぶべきことは多い。(文化部 多可政史)」
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 石碑(英語: stele, stela,Stone monument)とは、人類が何らかの目的をもって銘文(碑文ともいう)を刻んで建立した石の総称。「碑(いしぶみ)」ともいう。墓石としてなど他の目的を持たず、銘文を刻むこと自体を目的とするものをいう(ただし、英語の stele の場合は、木製のものや墓碑も含む場合がある)。なお、何かの記念として建てられたものを記念碑(きねんひ)、和歌・短歌や歌の歌詞を刻んだものを歌碑(かひ)、俳句を刻んだものを句碑(くひ)、詩を刻んだものを詩碑(しひ)という。
 概要
 石自体がひとつの彫刻になっている場合は、「石彫」と呼んで区別することが多い。また、岩絵が刻まれているものは、「石碑」とは呼ばず、文字が刻まれて、一時的にも建立された、または建立する意識がみられるものを指す。形状は、縦長で表面が平坦な石が用いられることが多いが自然石をそのまま用いる場合もある。
 王朝の起源、伝説、王の業績などの歴史的事件を刻んで王室の権威を高めるプロパガンダに用いられることがあったため、石碑を建てた権力者が倒されると、石碑が倒されたり銘文が削られたり破壊されたりすることが多かった。マヤの諸都市に建てられた石碑もその好例である。新たな権力者は自分の権力の正統性を石碑に刻ませた。
 石碑として残されるのは、輝かしい事績ばかりとは限らない。慰霊碑や災害記念碑のように、悲劇的な事象が再び起こらないよう、後世への戒めとして建てられている碑も存在する。
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 江戸時代は、悲惨な時代であった。
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 日本の石碑の多くは、神や権力者・偉人などの人間を讃える石碑ではなく、疫病・飢饉・天災などの悲惨な事件があった事を子孫・後世に伝える石碑であった。
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 日本人は物事を忘れやすい性質を持っている為に、祖先は子孫に警告するべく石碑・古文書・祀り・祭りなどを残した。
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 現代日本人は、本当の言霊を知らない。
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 日本人は歴史が好きである、はウソである。
 日本人は歴史が好きだ、と言っているうちは日本人は無智無能である。
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 戦後歴史教育を受けた現代日本人、特に1980年代以降の歴史教育を受けた現代日本人には歴史力がなく、災厄を生き抜いた祖先が残した石碑が読めないしその価値が理解できない。
 その為、阪神淡路大震災東日本大震災で責任を逃れる為に「初めてだった」あるいは「想定外だった」という説明を繰り返している。
 そうした発言をするのは高学歴出身知的エリートに多く、その言葉で自分は日本の歴史を知らないと告白しているのである。
 つまり、自分たちは祖先の事が理解できないと。
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石に刻まれた江戸・武蔵 
石に刻まれた江戸時代: 無縁・遊女・北前船 (歴史文化ライブラリー)

🏞124)─1─百姓医師の子が御殿医となり将軍の診察と治療を行い位階勲等を極めた。~No.489No.490 ㊻ 

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 2020年6月19日号 週刊朝日司馬遼太郎講演録
 孫文の日本への決別
 ……
 医者を尊敬する文明というのがあるのです。ヨーロッパがそうですね。医者の仕事は人道的なものであり、知能が高くなくてはできないとされた。
 日本もそうです。将軍の脈を見る奧御医師の位は、宮中では大名よりも高い位でした。能力が問われますから、現役の奧御医師は百姓、町人の世界から秀才を吸い上げていました。秀才なら身分が上がる。ですから医者は尊敬されていた。
 ところが中国ではそれほど尊敬されてはいなかった。むしろ、膿(うみ)など汚いものを扱う仕事ということで、一種の職人として扱われていた。朝鮮半島もそうですね。では誰が尊敬されるかというと、官吏です。第1級の秀才は官吏になり、医者にはならない。第2級も第3級も医者にならない。
 ……」
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 華佗は、後漢末・魏初の名医で、曹操の侍医になったが逆鱗に触れて処刑された。
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 近代日本は、明治維新によって朱子学儒教で中国化し官僚支配国家となって破滅した。
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 江戸時代は、悲惨なブラック社会であった。
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 西洋や中華(中国・朝鮮)はグローバルであり、日本はローカルである。
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 江戸時代の日本と現代の日本は、戦後の歴史教育で戦前の日本が完全に否定された為に遮断され繋がってはいない。
 現代日本から見ると、江戸時代の日本は別の世界か別の星の物語である。
 現代の日本人には、江戸時代が理解できない。
 特に、グローバル派高学歴出身知的エリートにはそれが言える。
 現代日本には、武士・サムライはいないし、庶民(百姓や町人)もいない。
 それ故に、現代日本人には武士道精神はないし百姓根性も職人魂もない。
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 現代の日本人と昔の日本人とでは、別人のような日本人である。
 昔の日本人が凄かったから、現代の日本人も凄いとはいえない。
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 家(いえ)、身分・階級、世襲は、日本と中華(中国・朝鮮)と西洋では三者三様で全く異なっていた。
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 日本の家の世襲とは、身分の低い生まれで血の繋がらない赤の他人を養子として迎え、家、地位、仕事・芸事、名誉、資産すべてを継がせた。
 つまり系図の相続・祖先の墓相続・お家芸の相続であり、血筋の相続ではない。
 重要なのは、血ではなく家名・菩提・家業であり、それゆえ家名・菩提・家業を残す為に血を捨てた。
 血にこだわり、溺愛する無能な放蕩息子に親子の情で判断を誤って家を継がせては家は滅びる。
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 戦後の歴史教育を受けた、特に1980(昭和55)年代からの日本の歴史を学んだ現代日本人には歴史力がない為に、江戸時代からの伝統文化である家制度・身分制度世襲制度・養子制度などは理解できない。
 特に、グローバル化を標榜する日本人には、歴史力は絶無である。
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 儒教世界では、医者と薬師の地位、身分は低く、いつ何時、権力者に殺されるか分からない不安定な立場にあった。
 何故なら、医師は権力者の健康状態を買収されて喋る危険があったからであり、薬師は金で毒薬を薬と偽って呑ませる恐れがあったからである。
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 日本・日本民族日本人は、中国・大陸系漢族中国人と韓半島系韓国人・朝鮮半島朝鮮人とは縁も所縁もないアジア人である。
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 幕臣の松本良順は、将軍に忠誠を誓い官軍と戦う賊軍の軍医として転戦し、官軍に降伏して朝敵の罪人となって牢獄に入れられた。
 松本良順は天皇に弓を引いた大罪人であったが、明治新政府はその優れた医術を軍隊に利用するべく恩赦を与え陸軍初代軍医総監に任命した。
 現代の日本と昔の日本とは違うのである。
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 2020年6月12日号 週刊朝日司馬遼太郎講演録
 医学の原点 (下)
 司馬さんは医学について、『人間にとって本来、親切という電流を発する学問なのです』と語る。多くの人があらためて『医学』を考えているこの時代、医学者の情熱、医学の原点を考える講演をお届けする。
 司馬遼太郎
 ここからは、『胡蝶の夢』という小説をなぜ書こうと思ったか、お話ししていきたいと思います。
 大坂の緒方洪庵塾があるように、今の千葉県佐倉市にも有名な塾がありました。佐倉には小さな藩があり、藩主は譜代の堀田氏です。そこに藩の侍身分ではあるけれども、百姓身分上がりの医者、佐藤泰然という人がいました。
 順天堂という看板を掲げた塾を開いた。いまの順天堂大はその塾の後身にあたります。
 余談になりますが、順天堂大の前を通るといつも感心することがあります。普通なら大学の医学病院だと、たとえば『高知医科大附属病院』となることが多い。ところが順天堂に限っては『順天堂医院』と書いているわけですね。
 病院は大勢の患者を収容する総合的な場所であり、医院は開業医のオフィスである。そう日本語ではなっていると思うのですが、江戸時代には『病院』という言葉はそう使われなかったと思います。一般的な言葉になっていくのは明治後でしょう。
 『医院』という言葉は幕末の長州人が作った言葉だと私は思っていますが、順天堂は医院という言葉を選んで今も使っているのでしょう。
 その佐藤泰然は蘭学教育の名人で、お医者としても才能のある人だったようです。
 緒方洪庵も医者として才能のある人でしたが、どちらかというと内科医の才能であります。
 内科というのは難しい仕事でして、目の前にいる人間、つまり『ここが苦痛だ』と訴えている患者の原因を探さなくてはなりません。
 今はいろいろな検査方法があると思いますが、ぱっと見て何でもわかるのは難しい。ところがそれなのに、『あなたは何という病気だ』と言い、そして治療するという大変な仕事であります。
 中を見ることもないものを相手にして、なんとかするのですから、これは大変な仕事ですね。
 その点、外科医は見ることができます。この点だけをとれば、なにやら外科のほうがやさしい感じがしますが、とにかく佐藤泰然は外科が専門で、非常に腕が良かった。
 だいたい佐藤泰然のころになって、日本の外科は今日の外科と呼べる段階の第一歩を歩みはじめたといえそうですね。
 外科という言葉は古くからありまして、戦国時代にはポルトガル、スペインの外科が伝わりました。これを南蛮流といいます。
 江戸期になってオランダ医学が伝わり、これを紅毛流といいました。
 しかし、南蛮流も紅毛流も、せいぜいおできを切開するほどのものでした。たしかにおできで命を落とす人が多かったから、それを切開する。そして膿(うみ)を出し、芯を取り出すのがつまり『外科』でした。
 佐藤泰然はオランダ医学を、いわばブッキッシュに、机上で知ったにすぎません。
 日本は鎖国をしていましたので、オランダ人の外科医の弟子になったり、留学したりはできません。
 そんな状況のなか、本でオランダ医学を知り、それを大胆にも実践した人であります。親友の睾丸の摘出手術に成功したことがあり、当時としてはこれは大変な技術でした。
 非常に声望が高く、門人帳を見ると、全国から多くの人が集まっています。緒方洪庵塾も全国から門人が集まっていますが、双璧ですね。
 こうして順天堂は、江戸の医学の芯の役割を担うことになります。
 こういうことをおまえはどこで調べたのだと思われるでしょうが、非常に便利な方法があります。
 佐藤泰然の流れにある順天堂大、そして緒方洪庵の流れである福沢諭吉がつくった慶応の医学部、この二つの私学が医学史の研究室を持ち、教授と助教授がいらっしゃいます。私の知るところでは、この二つの私学だけだと思います。
 その佐藤泰然には何人かの子供があり、全員秀才でした。一人が幕府の奧医師の家に養子にいきました。この子が後の松本良順でした。
 幕府の奧医師は、正確には『奧御医師』といい、将軍の脈をとるのが仕事です。大変な名医でなけてばなりません。
 封建時代ですから、世襲です。
 奧御医師も世襲なのですが、難しいものですね。世襲の子供はお父さんのような名医にはなかなかなれない。それどころか、ぼんくらの子供が多かったようです。
 世襲ですから、ぼんくらも奧御医師になります。しかし診察はさせないのですね。江戸城の詰め間に押し込め、捨て扶持を与え、まあ飼い殺しのようなものです。
 そして、全国津々浦々からすぐれた人を集めました。奧御医師で現役バリバリの人はたいてい在野にあった人であり、それも百姓身分から出てきた人が多かったようです。
 奧御医師になるということは、いまでいえば東大総長になるようりも偉かったかも知れません。
 奧御医師の身分はだいたい従四位であります。従四位というば、特別な大大名でようやくもらえる身分ですね。位階勲等が大切な時代ですから、たいていの大名も奧御医師には頭を下げなくてはなりません。
 一介の百姓のせがれから奧御医師になったにせよ、なにしろ将軍の御脈をとるものですから、権威があるのですね。奧御医師が行列をつくって江戸城に登城するときに、位が下の大名がぶつかると、駕籠から降りなければならない。
 ですから大名は先触れをきちんとやっておき、なるべく奧御医師の行列には出くわさないようにした。会いそうな場合は、足踏みをして待ったぐらいだったようです。
 その奧御医師の家に松本という家があり、娘しかいなかったので、佐藤泰然の息子を養子にした。それが松本良順になった。
 話は変わりますが、庶民はお医者さんの顔を見るのが怖い。お医者さんから親切にされるともう感謝します。まあ、食ってかかる人もいますけれど。
 そういうことは中国にはありませんでした。紀元前からの古い文明を持つ中国には、医者への尊敬心というものはほとんどなかった。
 ヨーロッパにはありました。日本とヨーロッパ型だともいえそうです。ヨーロッパにも身分制度はありまして、この点も似ています。たとえばイギリスの場合、アングロサクソンの家系に生まれず、アイルランド系、アイリッシュの家系に生まれた賢い子供は、勉強して医者になることが多かった。役人ですと、アイリッシュではあまり偉いところまではいけない。そのため、伝統的に医者か弁護士になることが多かったようですね。ですから、イギリスでは名医といえばアイリッシュといわれているぐらいですね。冗談ですが、電話帳を見て、
 『ああ、この名前はアングロサクソンだからやめよう』
 などと言ったりします。
 そうしてドクターとなると、上流階級の社交界に属するようになります。それだけでドクターへの尊敬心が強い文明ということになり、日本と似ています。
 しかし、いいことばかりではありませんね。
 日本の場合、藩においても奧御医師のような存在があり、御殿医と呼ばれました。これも大変な権威であります。そして奧御医師、御殿医に代表される医学における権威主義は明治後も続きます。
 ポンペ先生の親切が荒瀬先生を貫いた
 医学の世界で大学の研究室にいる医者は、情報も多いですね。その次に位置するのが大病院の勤務医でしょうか。
 そして開業医はその下に位置しているようですね。立派なお医者である人も多いのに、開業医であるがために医者の世界ではちょっと差別をされている気がします。これは江戸時代からの伝統ですね。
 江戸時代の開業医というものは無免許ですから、セレクトを経ていません。奧御医師、御殿医の場合ですと、大変なセレクトを経て、そして位階勲等がつく、大変に威張る人もいた。われわれ素人はちがいますが大学の先生が偉いとか、大病院の先生が偉いとか、それほど思っているわけではありませんが、医者の世界では独特のヒエラルキーがあるように見請けられます。先ほど言いましたように、庶民と医者の間には、心理的に大きな隔たりもある。
 文化というものは遺伝していますから、けっして途切れないんですね。江戸時代の伝統的な文化は、医学の分野においてパターンとなって残っている。いまでもわれわれのなかに濃厚にある。
 ……
 オランダは当時、ジャカルタその他に多くの植民地を持っていましたから、海軍が非常に発達していました。植民地の管理をする外交官を連れて行かなければなりませんし、本国と植民地を往復する商船も保護しなければなりません。医者も必要です。しかし、僻地でドクターになる人はなかなかいません。ですから恩典を設けなければなりません。
 恩典とは、ジュニアコースを経ずに、いきなりメディカルコースに入るというか、速成で医者になれる。さらにその学校を卒業すれば、海軍少佐になれるというものでした。
 ポンペ先生はその速成教育を受けて、来日した。大学時代のノートを全部持ってきて、医学に関するあらゆる学科を一人で教えた。
 ただ重要なのはシステマティックに教えたことですね。それまで、たとえばシーボルトはどうかといえば、任意で、いわば趣味で医学を教えた。教え方も医学の『かけら』を教えたといっていいと思います。しかし、ポンペ先生は基礎を教えた。この点がずいぶん違います。
 ところでポンペ先生は江戸時代の日本にやって来ました。封建制の時代ですから、幕府はこう考えた。
 『ポンペ先生はオランダ国王の代理人であり、オランダ国王の旗本だ』
 ですから幕府はポンペ先生に対しては、こちらも旗本を出そうと考えた。ポンペ先生の弟子はただ一人です。それが松本良順でした。
 医学とは親切という電流を発する学問
 幕府は考えたのでしょう。各藩の家来や、百姓身分の者を接触させては危険だと。何が危険なのかわかりませんが、当時はそういう頭であります。
 ですから大秀才で聞こえた松本良順を弟子にして、彼に講義をする。良順はノートをとり、宿屋に帰って各藩から集まった秀才に良順が教える。実際の光景はちょっと違うのですが、とにかくそういう形式を幕府はとった。ところが困ったことがありました。良順はオランダ語の読み書きはできるのですが、しゃべることができません。日本の語学教育のとおりの人であり、まして聞き取りはできません。
 しかし必要なときに、必要な人間が現れるものですね。
 佐渡の出身で、伊之助という少年が松本良順の家に出入りしていました。おそらく日本の歴史始まって以来の語学の天才ですね。伊之助は佐渡と江戸しか知らないのですが、オランダ語を話すことができました。その国の人間に接触することもなしに、その国の言語が話せるという、異能としかいいようのない人物でした。こうしてポンペ先生が講義をして、それを良順と伊之助が聞くという形ができあがります。
 さらにポンペ先生は、医学教育は病院があってはじめてでいるものだという考えのもと、病院づくりに乗り出します。『長崎養生所』という施設でして、田舎にあるプロテスタントの教会のような、いい勾配の屋根のある建物ができあがりました。その病院には多くの患者が入院しています。ポンペ先生が回診し、指示をする。幕府の建前がありますから、松本良順が院長となりました。
 ポンペさんが回診するときには、建前はあったのですが、やがて各藩の秀才たちがついて回るようになり、ポンペ先生の指示に従って、患者たちの面倒を見て回った。そのなかに、三田尻の荒瀬先生のおじいさんもいたことでしょう。
 この時代は看護婦もいませんでした。当時のヨーロッパではすでに医薬分離が進んでいましたが、いないものは仕方ありません。薬剤師まで育成する余裕はないので、ポンペ先生が薬も出した。病院という場にあっては患者の社会的な身分は関係ない、平等なのだということを教えられた。
 ヨーロッパの市民社会を成立させた『自由と平等』ということの大切さを、ポンペ先生は病院という場で教えてくれた人でもありました。
 要するに医学というものは非常に厳かな学問である。そして人間にとって本来、親切という電流を発する学問なのです。」
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 2020年6月11日号 週刊新潮「『常識』が喪われた『コロナ後』に戻るべき価値観の原点   佐伯啓思
 ……
 『記憶を戻す』
 ……
 60年代を想起すれば、すぐに『現実的ではない』『復古主義』だと反論が聞こえてくるだろう。繰り返すが、その時代に戻る必要はないし、戻ることなどできない。そうではなく、大事なのは『記憶を戻す』ことである。我々は、どういう来し方を経て今日に辿り着いたのか。その行程を馳せることにこそ意味があるのだろう。
 あの時代から、何が喪われてこの閉塞的な現代社会に行き着いたのか。例えば当時は一方では革新的風潮があるが、他方では自然に道徳観が成り立っていた。教師と生徒の関係しかり、親子の関係しかり。友人同士の信頼、利より義を大切にするといった道徳観が社会を支えていた。
 それが現代では全て崩壊している。グローバルスタンダードの名のもと、人間関係は全て、契約関係、権利義務関係、説明責任などで語られるようになった。家庭や学校、地域社会、企業組織といった、ビジネス基準で計ることのできない極めて『人間的』なところにもグローバルスタンダードが持ち込まれた。要はアメリカ的基準がいいのだと、日本は戦前のほとんど全てを捨て去ってしまったのだ。
 戦争が終わる直前に、柳田國男は『祖先の話』にこう記している。いずれ誤っていたものとして、日本社会を支えていた『家』はなくなっていくだろうと。『家』とは単に親から子への財産の相続ではなく、人間のあり方や生きていく上で大事なもの、道徳観を含めて上の世代から下の世代へと受け継いでいく仕組みであった。だが、西洋的な思想が入ってきて消滅していくに違いない。だからここに書き留めておくと。
 実際、権威的封建主義は間違いだと批判され、戦後、『家』は崩れていった。『家父長制』のために日本は戦争に突入したということになった。そこに個人主義と契約型のアメリカ的基準が持ち込まれ、礼賛されてきた。だがそれはどうも日本には馴染まない。日本には日本の社会構成の原理がある。80年代には、『イエ社会』こそが日本型の社会秩序だという議論も出された。しかし90年代になると、アメリカ的基準から外されたものはすべて『日本的弊害』とされ、負のしがらみと目された。
 ……」
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 佐藤 泰然(さとう たいぜん、文化元年(1804年) - 明治5年4月10日(1872年5月16日))は、日本の蘭方医。名は信圭(のぶかど)、号は紅園、泰然は通称。初め田辺庄右衛門と称し,旗本伊奈家用人をつとめた。佐藤藤佐の子。順天堂大学の基礎を作った人物として知られている。
 生涯
 文化元年(1804年)、佐藤藤佐の子として、現在の神奈川県川崎市にて誕生した。
 天保元年(1830年)、蘭方医を志し、足立長雋や高野長英に師事。天保6年(1835年)に長崎に留学し、天保9年(1838年)に江戸へ戻ると、両国薬研堀に「和田塾」を開いた(和田は母の姓)。
 天保14年(1843年)、佐倉藩堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設。また姓も父の佐藤姓を名乗る。
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 松本 良順(まつもと りょうじゅん、天保3年6月16日(1832年7月13日) - 明治40年(1907年)3月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本の医師(御典医、軍医)、政治家。爵位は男爵。
 西洋医学所頭取、将軍侍医、幕府陸軍軍医、大日本帝国陸軍軍医総監(初代)、貴族院貴族院勅選議員などを務めた。父は佐倉藩藩医で順天堂を営む佐藤泰然。外務大臣の林董は実弟。幼名は佐藤順之助。後に幕医の松本良甫の養子となる。明治4年1871年)に従五位に叙せられた後、順(じゅん)に改名した。号は蘭疇、楽痴。
 略歴
 天保3年(1832年)6月16日、江戸麻布(東京都港区)に生まれる。
 嘉永元年(1848年)、佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父佐藤泰然の元へ行き、助手を勤める。
 嘉永2年(1849年)、松本良甫の養子となる。

 文久3年(1863年)12月26日、奥医師に進み、医学所頭取(東京大学医学部の前身)となる。医学所をポンペ式の授業に改め、前任者緒方洪庵適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。
 元治元年(1864年)5月9日、法眼に叙せらる。同年6月1日、奥医師の任を解かれ、寄合医師となる。同年8月15日、奥医師に再任される。将軍侍医などを務め、将軍徳川家茂などの治療を行う。
 会津藩の下で京都の治安維持のために活動していた新選組の局長である近藤勇とも親交があり、隊士の診療も行う。
 慶応2年(1866年)夏、第2次長州征伐のため、大坂に出陣していた家茂の病状が悪化、常に近侍するように求められ、当人も不眠で治療にあたることでその信頼に応えたが、その甲斐なく7月20日に死去した。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。戦後一時投獄されるが、明治2年1869年赦免され、出獄後に東京の早稲田に西洋式病院の蘭疇院設立。山縣有朋などの薦めで明治4年1871年)に兵部省に出仕。
 明治6年1873年大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。

 その他
 親交のあった近藤勇土方歳三の供養塔を、新選組二番隊組長でもあった永倉新八に請われ建立した。
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 養子縁組(養子縁組み)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。英語では "adoption" といい(第2義)、日本語にもこれを音写した外来語「アダプション」「アドプション」がある。
 日本における養子縁組制度の歴史
 日本の歴史において、最初に現れる養子に関する法律は、唐の律令法の影響を受けて成立した大宝律令であるといわれている。ただし、中国の宗族社会と違って、氏姓制度の延長上に成り立った日本社会では、中国のような厳格な制限は設けられず、一定の年下の者であれば養子縁組は比較的簡単に許された。このため、貴族社会においては、高官が優秀な孫や庶流・傍流出身者を養子に迎え、蔭位制度を活用してその出世を助けることで、結果的に一族の繁栄を図ろうとするための養子縁組が多くなった。また、時には遠い親戚や異姓出身者を養子にする者もあった。また、平安時代までは、「養子」とより擬制的な要素の強い「猶子」との区別はあいまいであった。家の継承という要素が強くなり、養子と猶子の分離が進むのは、中世以後のことであるが、南北朝時代に入っても混用は残っていた。
 当時の養子縁組の代表的な例として摂関家を例に取ると、仁寿年間(851-854年間)に文徳天皇の義父として権力を振るっていた正二位右大臣・藤原良房に男子がいないために、長兄で正三位参議であった長良の三男・基経を養子に迎えた。その結果、基経は養父の蔭位によって17歳の若さで蔵人になった一方で、長良の子としてそのまま育ったその同父母兄弟は、兄・国経が31歳、弟・清経は32歳になってやっと蔵人に到達したのである。さらに、良房が摂政・太政大臣に登り詰めたのに対して、長良は権中納言で死去したために、その出世の格差は広がるばかりであった。異姓の養子の例としては、姉婿である藤原頼通の養子となって後の村上源氏繁栄の基礎を築いた源師房などがいる。
 そのため、上級貴族は少しでも子孫にとって優位な出世をさせるための養子縁組を次々と組むようになっていく。極端な例としては、同じく摂関家藤原忠実とその子・孫のケースが挙げられる。忠実の長男・忠通に男子ができなかったために、忠実は自分が寵愛していたその弟の頼長を忠通の養子にさせた。その後、忠通に実子が生まれて忠実・頼長と忠通が不仲になると、頼長の息子である師長を早く出世させるために、忠実は師長を自分の養子にして蔭位の便宜を図った。この結果、師長からみて忠通は本来の系譜上の伯父というだけでなく、同時に祖父でもあり兄でもあるという大変複雑な事態が生じたのである。
 鎌倉時代後期以後になると、家督と所領の一体化が進んで嫡子相続が一般的になるにつれて、家の存続を最優先とした養子縁組が行われるようになる。特に武士では、当主に男子がいない場合、もしくは幼少の場合に、主君への忠勤を尽くせないことを理由に所領を没収されるなどの事態を避けるため、養子縁組を行うことが一般的となった。
 実弟を養子とすることや、養父の実の息子(養子の義理の弟)を養子が自身の養子とすることはしばしばみられる。これらはいずれも順養子という。後者の順養子の場合、1代限りであれば間に入った養子は中継ぎ的立場になるが、代々順養子を重ねて両統迭立のような形になる例もある。また、娘に夫を迎えて養子とする婿養子、大名が参勤交代などの折に、万が一の事態に備えあらかじめ届け出る仮養子、大名・家臣が急に危篤になった場合に出される末期養子などがあった。このほか、他家の大名などを縁戚として傘下に取り込みたいが実の娘に適当な者がいない場合、一族や重臣の娘を形式的に養女とした上で娶せることも行われた(養女に夫を迎える形式の婿養子の例もあった)。
 江戸幕府は当初は様々な養子規制を設けたものの、慶安の変をきっかけに末期養子の禁を緩め、享保18年(1738年)には当主か妻の縁戚であれば浪人・陪臣でも養子が可能とされた。養子の規制は時代が下るにつれて緩くなり、江戸時代後期には商人などの資産家の二男以下が持参金を持って武家に養子に行って武士身分を得るという持参金養子が盛んになり、士分の取得を容易にした。一方、商人・農民などの庶民間における養子縁組は、証文のやり取りだけで縁組も離縁も比較的容易であり、「家名の存続」よりも「家業の経営」を重視した養子縁組が行われることが多かった。また、享保の制度変更によって女性の名義では借家を借りることができなくなったことから、女性だけの世帯が家を借りる際には、男性の名義を借りるための便宜的な養子縁組が行われるようになった。
 明治時代以後になると「家」を社会秩序の中心に置く家制度が全ての階層に広げられた結果、養子縁組も家制度の維持という観点で行われることが多くなった。それが大きく変わるのは第二次世界大戦後の日本国憲法制定に伴う民法改正以後のことである。
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 江戸時代。社会的地位の高い漢方医は、中国医学こそ最高医学と盲信し、西洋医学は毛唐の医学と見下し、蘭方医を差別していた。
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 江戸時代。庶民にとって日本社会とは、何の保障もない冷たいブラック社会で、夢も希望もなく毎日毎日働いて食って遊んで寝るだけの何の変哲もない人生であった。
 江戸社会は閉塞感や重圧感が強く、日本人は締めつけられような押し潰されそうな中を息苦しそうに生きていた。
 世を僻んで不平不満を並べ、人を嫉妬し恨み辛みを抱く者は、バカを通り越した下品で下劣で下等な人間とされた。
 つまり、粋、いなせ、男伊達とは無縁の人の風上にも置けない下らない奴と嫌われた。
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 庶民(百姓や町人)でも、金で御家人株を買って武士になり、主君に才能・能力が認められると町奉行勘定奉行・郡奉行・遠国奉行・代官などの重要な役職を与えられた。
 庶民出身の金上がり武士や成り上がり侍が幾ら頑張っても、政治権力を持つ将軍職や大名職、そして伝統文化的権威の天皇位と公家にはなれなかった。
 つまり、日本の身分制度は制限されていた。
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 日本民族日本人は、権力には反発するが権威には弱い。
 江戸時代は、権威中心封建時代であった。
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 中華(中国・朝鮮)世界では身分制度は制限なしの完全な自由で、血筋に関係なく、人種や民族に関係なく、個人の能力・才能・実力があり夢や希望を持てば皇帝や国王に制限なく即位する事ができた。
 異民族が中国の皇帝や国王に就任していた。
 それは西洋でも同じで、フランス人やドイツ人がイギリス国王に、ドイツ人がスペイン国王に、ドイツ人女性がロシア皇帝に、フランス人がスエーデン国王に、といったように国籍や民族に関係なく自由に他国の皇帝・国王に即位できた。
 ローマ教皇も、絶対神と信仰契約をし、イエス・キリストに従うを誓約すれば、人種や民族、出身国、身分・階級に関係なく即位できた。
 それが、開かれて王室という意味である。
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🌈67)68)69)─1─日本民族の伝統美術は、縄文と弥生のハイブリッドである。~No.112No.113No.114No.115No.116No.117  ⑫ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本列島を上空から見ると、1,000メートルであれば現代が見え、5,000メートルであれば弥生が見え、10,000メートル以上であれば縄文が見える。
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 現代日本は、縄文を否定し破壊する事で豊かになってきた。
 日本人は、自然を愛し、自然を大事にし、自然を守る、はウソである。
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 2020年6月14日号 サンデー毎日「今こそ、読みたい
 工藤美代子
 縄文と弥生の『ハイブリッド』が振れ幅の広さであり魅力である
 『日本美術の底力 「縄文×弥生」で解き明かす』
 山下裕二 NHK出版新書
 今はどうなっているのかわからない。しかし1970年代後半における北米では、日本美術を学ぶ学生のほとんどが、まずは、『縄文か弥生か?』の問題を通過することになっていた。逆に言うと、それは日本美術の価値を自分で判定するためには非常に有効なツールだったのだ。そして、お約束のように議論の焦点となったのが、『タロー・オカモト』の存在。
 現代美術における縄文のエネルギーを復活させたのがオカモトだといわれても、私にはあまりピンと来なかった。70年に開催された大阪万博でアルバイトをした経験はあったが、太陽の塔はなんとも奇怪なシロモノに見えた。それが、実は画期的な仕事だったのだとあらためて本書を読んでわかった。
 いずれにしても、縄文と弥生の対比は日本人として気になる。どちらの美術が好きかと問われれば、間違いなく縄文と答えるのだが、どちらの美術品を買うかと聞かれたら、弥生だと思う。縄文土器やその流れを汲(く)む絵画や陶器を自宅に飾る勇気は備えていない。
 これも70年代に、北米の大学で出口王仁三郎の茶碗の展覧会があった。この時の学生たちの興奮はなかなかのものだった。『ジョーモンだ!』と騒ぐのである。これまた恥ずかしいことに、私にとって怪しい新興宗教の教祖が作ったド派手な茶碗くらいにしか見えなかった。しかし、本書を通読して、ようやく頭がキリリと整理された。なるほど、王仁三郎は縄文だったのだ。そして本書に登場する伊藤若冲石川雲蝶も。
 そんなことはオカモトが万博で世界を驚かせてから半世紀が経過しているのだから、当然誰でも知っているのかと思ったら、そうでもないらしい。本書の著者は、まさに縄文土器から現代美術に至るまで、日本という豊潤な国土が産出した芸術及び芸術家を、まことに手際よく紹介している。もちろん縄文に対する比較としての弥生にも、じゅうぶんな紙枚を割いてくれた。
 『幸い、縄文的美の復権は、かなり進みました。しかしそのせいか、今度はどうも縄文ばかり注目を集めて、弥生が割を食っている気もします。実は、それはそれで困ったことです。なぜなら、後で述べるように縄文と弥生の「ハイブリッド」であることが日本美術の特質であり、その振り幅が広いところに日本美術の豊かさがあるからです』
 ということで、それぞれの特徴や、深い地底で繋がる同質の血脈などを丁寧に簡潔に説明してくれている。それは日本における神道と仏教の不思議な融合を思い起こさせた。
 本書は美しいカラー写真を効果的に配置してあるため、著者の解説は強い説得力を持つ。お陰で縄文愛に目覚める読者は多いはずだ。弥生愛は、すでに私たちは、育つ過程である程度は身につけているような気がする。
 今は世界中が疫病に席巻され、社会は無力感に苛(さいな)まれている。こんな時代だからこそ縄文の熱量にやかりたいものだ。縄文土器は個人の自信を炸裂している。18世紀の曾我蕭白の『群仙図屏風』になると、現世をすべて巻き込みぶっ飛ばそうとする世界観がある。こうなると著者の縄文愛に特化した新書をぜひ書いてもらいたくなった」
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 縄文文化弥生文化・現代文化を貫く象徴が、途切れる事なく受け継がれてきた日本神道と日本天皇である。
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 日本の文明・文化の源流は、日本列島固有の縄文・弥生であって、中国大陸北部の黄河文明でも朝鮮半島の朝鮮文化ではない。
 日本と中国・朝鮮は、同種同根ではないし、一衣帯水の関係でもない。
 つまり、日本と中国・朝鮮は全く別の民族・人間である。
 日本文明・日本文化は、縄文に弥生が加わり発展した。
 琉球文化は、縄文に揚子江・台湾・東南アジアの影響を受け発展した。
 アイヌ文化は、縄文にシベリア・樺太北方領土四島・千島列島・カムチャッカ半島の影響を受け発展した。
 日本民族日本人は、アイヌ人・琉球人とは縄文人の子孫として同族であるが、大陸系漢族(現中国人)・韓国人・朝鮮人とは同族ではない。
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 日本文明は、揚子江長江文明の後継文明であって黄河文明の亜流文明ではない。
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 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
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 縄文文化圏は環日本海文化圏で、日本列島を中心に、南は琉球、北は北海道・北方領土四島・樺太・千島列島・カムチャッカ半島、西は朝鮮半島南部まで広がり、東シナ海日本海を手漕ぎ小舟で行き来して交易を行っていた。
 縄文人は、陸・地・山と海・川・湖で生きていた。
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 日本海日本海もしくは縄文海であつて、韓国が名称変更を求める東海ではない。
 が、東海という名称を受け入れようとしている日本人が少なからず存在する。
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 日本の現代アートは、昭和天皇御真影をバーナーで焼き、その灰を足で踏み付ける映像を芸術的表現としている。
 政府や地方自治体は、国際的な表現の自由を守る為に、そうした現代アートに公金を支出し保護している。
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 日本民族日本人は、特別優れた純血種ではなく、乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種である。
 日本民族日本人とは、日本列島に住んでいるから日本人と言われるだけで、日本列島に住んでいなければ日本人とは言われない。
 つまり、日本民族日本人は日本列島で生まれたのであって、中国大陸や朝鮮半島あるいは東南アジアなどで生まれて日本列島に民族移動してきた人間ではない。
 日本列島に住む人間全てが日本民族日本人である。
 中国人であると、朝鮮人・韓国人であろうと、白人であろうと、アフリカ人であろうと、中東の人であろうと、日本列島で生活するようになると全員が日本人になる。
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 日本の民族主義は日本列島であり、日本のアイデンティティーも日本列島である。
 日本列島とは、日本の自然の事である。
 日本列島の甚大な自然災害や深刻な疫病蔓延の前には、人間が考え思いついて作った「頭でっかち」的な普遍宗教や主義主張・イデオロギーは無意味・無力である。
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⚔51)─1─鎖国令は疫病水際対策で、賤民や部落民は疫病死・変死の死体処理専門業者であった。〜No.215No.216 

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 朝廷や徳川幕府は、開国を続け海外交易で国を豊かにするより、海外から疫病を侵入させ感染爆発を起こして犠牲者を出さない為に鎖国を選んだ。
 鎖国を選んだと言っても、禁止したのは人の自由な往来であって、物と金の取り引きは長崎出島で長崎奉行所の監視下で続けていた。
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 鎖国下の庶民は、貧しいながらも他国を頼らず身の丈に合った自給自足で生きていた。
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 2020年5月28日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 道真に学ぶ
 日本と支那の付き合いは結構古い。紀元1世紀にはあの『』」

 2020年7月号 Hanada「一定不易  加地伸行
 禍(わざわ)ひを転(てん)じて
 福(ふく)と為(な)し、
 敗(やぶる)に因(よ)りて
 功(こう)を為す。
      『史記蘇秦(そしん)伝
   転・因 逆手(さかて)に取って。敗 失敗。功 成功。
 日々が、コロナ、コロナ。テレビは、不景気、不景気。国会も、援助、援助。どうしてこうも一律になるのであろうか。今こそ少しでも建設的な独自の見かたが必要ではないのか。
 コロナ災禍の元凶は、中国は武漢市。しかし、今や中国政府はケロッとして世界諸国の健闘を祈ると言わんばかりである。
 となると、中国が尊大なのは・・・と非難することになろう。しかし、それは定型的なステレオタイプな物言いで、中国はどう非難されようと苦にしている様子はない。
 なぜか。実は、中国は災禍に慣れているのである。その災禍の内、感染症関係は疫災(えきさい)と称する。今回のコロナ禍はその最新のもの。
 この疫災の中国史を見てみよう、と言っても紙幅(しふく)が不足。そこで時代を限る。歴史でいま日本人が楽しんでいるのは、NHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくる』であるから、その同時代の疫災の例を列挙してみよう。時は明王朝の時代で、神宗皇帝が即位した万暦元年(1573年)に始る万暦時代の『大疫』と記された蔓延地を示すと次のごとくである。
 元年・棗陽(そうよう)。7年・孝義。8年・遠州。9年・潞安(ろあん)。10年・成安。12年・徳安。13年・曲県。15年・潞案。16年・厳州等の湖広一帯。22年・姚安(ようあん)。25年・大理。26年・蜀(しょく)の全域。29年・貴州。34年・衛州。37年・武定。38年・陽曲。39年・沁州(しんしゅう)。40年・嘉興。さらに41年・45年・46年と大疫が続き、神宗は47年に崩御
 因(ちな)みに、万暦元年は、織田信長が将軍足利義昭を追放。同10年は、本能寺の変。同43年は、大坂夏の陣豊臣氏滅亡。
 秀吉は朝鮮出兵後、明への進軍を考えていたが、こんな感染地ではどうしようもない。
 この疫災に対して、『死者、甚(はなは)だ多し』『一家全(すべ)て疫者』『(死者からの感染を虞{おそ}れて)敢(あえ)て弔問(ちょうもん)せず』『全家死す』等といった記録が見える。単なる病気ではないことが分かる。
 さてこうした疫災は、右の時代以外、絶えず記録されている。中国の歴史は疫病流行のそれでもあった。ただ、国土が広く人の交流は限定的であったので、全域同時の大流行ではなかったようではある。あえて言えば、疫災はどこかで絶えず発生しており、中国人は疫災に慣れていると言えようか。
 しかし、もちろん疫災は遊びでごとではない。苦しめられてきた。当然、政府はどう対処したのか、ということになる。その方法の内、現代においても参考になるものがあるのではないか。探ってみよう。
 中国は今も農民が多いが、かつて農業は中心産業であった。その耕田の際、動力として牛が必要。そこで疫災でつぶれた農家に対して政府が金銭を貸して他人の牛を借りさせ、農業を継続させていたのである。
 つまり、疫災があったからと言って金銭をばらまくのではなくて、その人の労働の継続ができるように貸していたのである。
 前近代の中国でもそうした前向きの救済があった。現代日本なら、さらに進んだ相互扶助ができるのではなかろうか。
 ……
 古人曰く、禍(わざわい)を転(てん)じて、福(ふく)と為(な)し、敗(やぶる)に因(よ)りて、功(こう)を為す、と。」
   ・   ・   ・   
 歴史力のない現代日本人には、日本の歴史はもちろん、中国・朝鮮の中華の歴史や西洋の歴史など世界の歴史も理解できない。
   ・   ・   ・   
 古代から、日本の構造改革は大陸系疫病の襲来による感染爆発が原因であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人が生きてきた日本列島とは、甚大な自然災害多発地帯であり、深刻な疫病蔓延頻発地帯であった。
 感染爆発する疫病は、全て死病であった。
   ・   ・   ・   
 日本には、多様な崇拝し祈る宗教はあっても一様な信仰する宗教はなく、思想や哲学はあっても主義主張・イデオロギーはない。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人が、中国人や朝鮮人を嫌い、差別し、迫害し、近寄らず遠ざけたのには正当な理由があった。
   ・   ・   ・   
 身分差別・職業差別として賤民(非人・穢多)や部落民(山の民・川の民・海の民)が生まれたのには、それなりのやむを得ない理由があった。
   ・   ・   ・   
 ムラ根性・百姓根性として、排他的に、余所者を村に受け入れる事を嫌ったのは当然の事であった。
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 2020年6月4日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 疫病で全部から1ページ日本史講座
 シルクロードの西端がローマなら、東端は平城京と言われる。奈良時代グローバリズム時代、経済は成長し、明治の文明開化も驚く海外の文物の導入があり、中国式の巨大首都が建設された。が、グローバリズムは招かれざる客を呼ぶ。天然痘だ。特に天平年間の大流行は悲惨だった。遣唐使が強烈なウイルスを連れ帰ったのだろう。律令国家を作り上げた藤原不比等の後を継ぐべき4人の息子は揃って逝った。日本の人口が3割減ったとも推計されている。聖武天皇が奈良に大仏を建立したのは、天然痘に打ち勝とうとする国策だった。
 もちろん、人口の激減は経済を壊す。天然痘恐慌だ。律令国家の目玉たる公地公民制はボロボロ。朝廷は土地公有化路線を一部放棄し、墾田永年私有財産法(こんでんえいねんしざいほう)という新法を立ち上げた。新規開拓した田畑は私有地に!意気阻喪(いきそそう)した民衆への餌だった。しかし、中央集権の律令国家体制が崩れ、分権的な封建制へと転換してゆくきっかけにもなる。寺は平城京に集まっていたが、そこは危険とばかり、信心深い者は吉野や熊野に行きたがる。山の庵に巣籠もりするのが安心なのだ。怖い異界だった山が、避難所のイメージに化けてゆく。山で修行した者が病気を治す修験道も、この流れで広まったのだろう。
 安心なのは山。この思想は、平城京の後の都、平安京の場所選びに生かされたろう。すぐ隣が奥深い比叡山。そこに延暦寺を建てる。貴人はいざというとき、すぐ出家して自己隔離できる。
 でも、多くの人の暮らしは相変わらず市中にある。都会生活にも新様式が必要だ。平安時代の法令等を見ると細かな規定に驚かされる。人間の血が付いたり獣の死体が見つかったりした場所には、それぞれ何日立ち入るな。間違って行った者は何日隔離せよ。その隔離対象者と会った者も隔離だ。儀式・集会も延期せよ。それらの規定に基づき、ケース・バイ・ケースで明法(みょうぼう)博士らが判断する。細菌やウイルスを知らぬ時代の、経験則に基づく衛生行政だったと思えば、腑に落ちる。明法博士らが専門家会議だったのか。
 だが、時が経てば、痛い記憶も薄らぐ、平家はグローバリズムを復活させ、日宋貿易で繁栄したけれど、平清盛が死に至った熱病は熱帯病のマラリアと言われる。後を受けた源氏は鎖国的に振る舞った。室町時代から再びグローバルに振れ、その路線は豊臣秀吉の大陸制覇の夢で極まる。が、その報いか、またも天然痘が流行り、跡取りの秀頼が罹って死にかける。徳川時代はまた鎖国封建制だ。封建の封は封鎖(ふうさ)の封でもある。報じられた土地に引き籠もり自給自足するのが封建制の本義。反グローバリズムの極限である。開港地は日本の西端の長崎。外来の疫病を江戸まで届きにくくするための深謀遠慮であったとか、なかったとか。
 それから巡り巡って、天平時代が帰ってきたのか。コロナ時代の新生活として政府の勧める内容は、奈良期からの経験の結晶した平安京の新生活と、どうも被(かぶ)る。新しい古代の始まりか。それにつけても奈良時代由来の元号がうらめしい。恐るべき言霊が付いているのか。……」
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 自然災害に対応するのは常民であり、疫病に対応するのは賤民であった。
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 血と死に関わる仕事を生業とする賤民(非人・穢多)や部落民(山の民・川の民・海の民)が穢れた民として差別されたのは、人間差別や職業差別ではなく疫病への恐怖からである。
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 日本文化が死体や血を穢れとして忌避するのは、疫病対策であった。
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 最も「血と死」で穢れていたの人間が武士・サムライであった。
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 日本神道は、古い血や屍肉を嫌い、特に病死や不審死をとげた死体を最も嫌った。
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 疫病・流行病で死んだ死体は穢れている為に、その死体に触れ埋葬する者は穢れる。
 だが、死体を放置すると疫病が蔓延する為に、嫌でも埋葬する必要があり、皆で協力して埋葬すると全員が穢れてしまう、その為に穢れ仕事を専門にする人間が生まれた。
 それが、賤民(非人・穢多)や部落民(山の民・川の民・海の民)である。
 合戦による戦死、餓死、乳幼児の死、老衰、怪我による死、災害による死、明らかな病気による死、などは穢れとはされず皆で協力して弔った。
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 武士社会は、天然痘感染爆発の中から生まれ、コレラ感染爆発で滅びた。
   ・   ・   ・   
 日本の武士階級の誕生は、西洋の貴族・騎士階級、中国の士大夫階級、朝鮮の両班階級とは違う。
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 日本の隠遁は疫病からの逃避であり、中華の隠遁は戦乱や悪政からの逃避であり、西洋の隠遁は人間の強欲から逃避であった。
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 江戸時代に旅行ブームが起き、庶民が安心して旅を楽しめるようになったのは、鎖国によって大陸系疫病の感染爆発がなかったからである。
   ・   ・   ・   
 日本は、疫病蔓延による大量死・人口激減を原因として社会構造を変化させてきた。
 日本を崩壊させず一つにまとめ幾多の危機を乗り越えた精神的支柱は、神聖不可侵である万世一系男系天皇制度(直系長子相続)であった。
 最高神である女性神天照大神の血を正統とする唯一の家系に、特殊な血統と特別な皇統が与えられてきた。
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 日本の八百万の神々は、祈れば霊験で御利益を与えたが、信仰の褒美として奇跡を起し恩寵を与える生死を司る全知全能の唯一の絶対神ではない。
 現人神とされた天皇は、生き神様・生き仏様ではなく、救世主・メシアでもない、預言者でも賢者でもなく、祭祀王という神聖不可侵の唯の人である。
 そして、代表して身を浄め慎み、恵みに対して感謝を宣べ、徳のなさを謝罪し、不徳の罪を認め反省の詔を宣する唯一の尊き人である。
 つまり、天皇とは災難が襲ってくれば被害が出た事に対して「謝り続ける存在」であった。
 それ故に、日本民族日本人は天皇を受け入れ命を捨てても護ってきのである。
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 古代から、日本民族日本人は、中国大陸や朝鮮半島は死の病・疫病に汚染された穢れた土地と嫌い、穢れた土地から日本に移住してくる中国人や朝鮮人を穢れた人間だとして軽蔑し差別した。
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 海の彼方から日本に渡来して日本人に豊穣をもたらしてくれる客人神(まろうどがみ)は、東か南であって西ではない。
 日本人が死んで向かう黄泉の世界は、地底か東もしくは南の海の向こうの根の国か、中国や朝鮮の遙か西にあるインドの天竺・仏の浄土極楽である。
 中国や朝鮮を理想の国・聖人君主の国と憧れるのは、儒教だけである。
   ・   ・   ・   
 日本列島は、朝鮮半島や中国大陸にとって避難所であった。
 事実、朝鮮人や中国人は戦争や疫病から逃げるように日本列島に移住してきていた。
 逃げてきた人びとには2種類いて、天皇に忠誠を誓い日本の為に働いた帰化人と天皇への忠誠を拒否し日本に仇なす渡来人であった。
   ・   ・   ・   
 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海であった。
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国であった。
 統一新羅以降、日本と朝鮮の間には友好・善隣など存在しなかった。
 事実、統一新羅、高麗、李氏朝鮮などは、日本を侵略し、無抵抗な日本人を虐殺し、日本人を強制連行していた。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、歴史力がない。
 その証拠が、新型コロナウイルス感染のクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号検疫と武漢肺炎による感染爆発対応における、後手後手のどたばたとした醜態を晒した事である。
 それは同時に、平和に惑わされ戦争を忘れ、平和にこだわって戦争を研究して学ばなかった事である。
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🌏40)─2─日本陸軍の日清戦争帰還兵約24万人防疫事業の成功を欧米列強は賞賛した。〜No.116 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本軍による旅順虐殺事件はウソである。
 旅順虐殺事件を言いふらす日本人は信用するべきではない。
   ・   ・   ・   
 日露戦争まで、諸外国は戦争をしている両軍に観戦武官を派遣して全般にわたる調査をしていた。
 各国の報道機関は、報道の自由から軍司令部から戦場に至るまで従軍記者を派遣して臨場感ある報道合戦をしていた。
   ・   ・   ・   
 連戦連勝で快進撃を続ける日本軍には、世界から一人前の近代国家として認められるために、直近の作戦以外は隠す事が少なかった。
 日本人の性分として、勝利や成功は誰彼構わず自慢話をしていたが、敗北や失敗は知られたくない為に不機嫌に押し黙る。
 つまり、教訓や手本は、勝利や成功から採用し忘れず記録に残したが、敗北や失敗からは導き出さず忘れ記録に残さなかった。
   ・   ・   ・   
 御立尚資「初期段階では、単純に『わかっていなかった』だけだったのだ。データを集めたとき、いま何がわかっていて、何がわかっていないかを見極めなければ希望的観測で決断を下してしまう恐れがある。意志決定とは往々にして不完全な情報のもとで行わねばならず、だからこそ科学的知見をベースとして情報峻別能力が必要なのだ」
   ・   ・   ・   
 2002年の武漢ウイルスに汚染されたクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号に対する、政府と厚労省・官僚・医官の検疫による後手後手の不手際、遅々と進まない事態対応が目立つ。
 その時、国会・政治家は、メディア・報道機関は、SNSの書き込みは・・・。
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 ヴィルヘルム2世「この方面では世界一と自信をもっていたが似島(にのしま)の検疫所には負けた」 
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 2020年6月号 正論「今なすべきは次なる国家緊急事態への備え 
 渡辺利夫
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 戦争を勝利に導くものは、もちろん前線で戦う将兵である。しかし、日清戦争という日本初のこの大規模な対外戦争に勝利するには、戦線の後方にあって戦略の全体を練り、これにもとづく作戦指導に当たるという任務がある。戦略や作戦をスムーズに展開するためには、軍事装備品の調達、補給、整備、修理ならびに兵士や装備品の輸送のための船舶の確保などの後方支援、要するに『兵站(へいたん)』の確保がきわめて大きな重要性をもつ。陸軍次官としての児玉の功績は、兵站においてみせた水際だった手腕であった。
 もう一つ、特筆すべきものに、戦争に勝利・凱旋する兵士の検疫事業がある。コレラマラリア、ペスト、アメーバ赤痢などに罹患した兵士を検疫なく帰郷させるわけにはいかない。悪疫の国内感染を入国前に何としても阻止しなければならない。日清戦争後に児玉の構想によって実現した検疫事業は、当時の西欧にも類のない規模と効率性をもって展開され列強を驚かせた
 実際、児玉は兵站と検疫事業という軍政の功績により、日清戦争後の明治29(1896)年の10月には陸軍中将に昇格した。
 ……
 日清戦争と『コレラ禍』
 戦争が終われば戦地から大量の兵士が帰還してくる。兵士の検疫をどうするか。陸軍次官の児玉が抱えた切迫の課題であった。若い記憶が児玉の脳裏をよぎる。明治10年に西南戦争が勃発、戦線でコレラが発生、帰還する兵士を通じて国内各地にコレラ汚染を招いてしまった。痛恨の記憶である。往事(おうじ)、コレラは致死率が8割にも達する『死病』であった。明治16(1883)年にロベルト・コッホによってコレラ菌が発見されるまで、この感染症には打つ手は何もなかった。
 罹患者らしき者をみつけて、これを『避病院(ひびょういん)』といわれる隔離病舎に収容しておく以外に対処の手はなかった。行政への不満と不信ははなはだしく『コレラ騒動』『コレラ一揆』が頻発した。
 日清戦争からの帰還兵は西南戦争に比べてはるかに多い。日清戦争での日本兵の戦死者は1,417人であったが、病死者数が1万1,894人、とりわけコレラの汚染が著しい。検疫事業はのっぴきならない課題として児玉のうえにのしかかった。
 ……
 児玉は検疫事業は陸軍省で担おうと腹を固めていた。帰還兵は6月初旬から10月末まで24万人、1日1,600人、多い時にはその3倍ほどの検疫が必要となる。それだけの数を一ヵ所でこなすことは不可能とみて、宇品の似島(にのしま)、大阪の桜島、下関の彦島の3つの離島に検疫所を設置することに決した。離島で短期間に24万人の兵士を検疫するには、広大な敷地に400棟以上の兵舎をつくり、大型の蒸気式消毒罐を相当数導入しなければならない。児玉は後藤にそう伝える。
 後藤は、さすがに迅速な決断をする人物だと児玉を仰ぎみた。
 ……
 似島での大検疫事業──後藤の復権
 大事業が開始された。明治28(1895)年6月初めから10月末までの期間が設定され、その間に数百艘の船舶と24万人の兵士を検疫することになった。月当たり4万8,000人、多い時には1日に5,000人から6,000人になる。似島彦島桜島の3ヵ所、広島宇品島沖の似島が9,300坪と最大規模である。
 ……
 検疫にいたる、時間のかかる煩雑このうえない手順に、一刻もはやく故郷に勝利の錦を飾りたいと帰心矢のごとき兵士たちに多いなる不満が募る。指揮を執る後藤に対しての非難には囂々(ごうごう)たるものがあった。〝これがあの酷(むご)い戦争を戦い抜いた兵士を迎えるやり方か〟。不満は爆発寸前にまでにいたる。暴動になりかねない。これには後藤も手を焼き尽くし、児玉に訴える。児玉にはひらめきがあった。
 旅順に出陣していた征浸大都督の小松宮彰仁親王が5月22日に凱旋される。親王を説得して、兵士と同じ手順で検疫にのぞんでいただければ兵士の不満は一気に収まる、というのが児玉の直感であった。親王は説得に諾(だく)として応じた。一瞬の閃いた児玉の機略により、全兵士の憤懣(ふんまん)は収まり、検疫事業が再開されることになった。
 ……難題を果断に次々とこなす児玉の非凡な判断力……
 後に報じられた記録によれば、この3ヵ所の検疫所で罹患が証明された兵士の数は、真性コレラ369人、疑似コレラ313人、腸チフス126人、赤痢179人であった。おの数の罹患者が検疫なくして国内の各地に帰還していった場合の事態の深刻さは、いかばかりであったか。
 戦争に明け暮れていた欧州諸国は日本の検疫事業に強い関心を寄せ、その規模と迅速性に称賛を惜しまなかった。鶴見祐輔『正伝 後藤新平』(第二巻 「衛生局長時代」、藤原書店)にはこう記される。
 《後に編纂された『臨時陸軍検疫報告書』は、和文と英文の二様に作成され、陸軍省から欧米諸国に寄贈されたが、ドイツ皇帝がこれを読んで感嘆措(お)くあらわなかった》
 日清戦争後のこの検疫事業により、後藤は相馬事件の汚名を雪(そそ)ぐことができた。内務省衛生局長に復帰させよとの辞令を受け、次いで第4代台湾総督に任命された児玉に同道、総督府民政長官として、『土匪(どひ)』制圧、アヘン漸禁策、土地・人口調査、南北縦貫鉄道建設、基隆・高雄築港、糖業振興、阿里山開発など、世界の植民地経営史にその名を遺す数々の偉業を成し遂げるにいたる。
 国家緊急事態対処とは何か
 以上は、明治時代のストーリーである。民主制度・機構・人権・私権尊重といった概念において往時と現代とでは大きな隔たりがある。しかし、国家緊急事態、〝国が滅ぶのか否か〟という観点に立つならば、民主主義や専制主義といった統治の方法を超えた強力で迅速な事態への対処方法が発出されねばならない。西修駒場大学名誉教授によれば『緊急事態対処規定』を設けていない憲法は、教授の調べた104ヵ国の中で日本以外、皆無だという(『憲法の正論』、産経新聞出版)。
 ……
 明治の教訓は、少なくとも私どもに二つのことを語りかける。一つは、コレラという往事にあっては治癒の方法がまるでなかった感染症に対して、限られた資源をあたうる限り凝集して事態に対処しようという危機意識、この危機意識を指揮者が共有したこと。二つには、事態の対応にあたる指揮官に有力な人材を抜擢・配置し、彼らにほとんど全権を与えてことに望んだ、この二つに違いない。
 理非は歴史が証明するという、気概と豪気もあったのであろう。
 耳を澄ませば、いくつもの国家緊急事態のことが聞こえてくる。中国による尖閣諸島侵攻、北朝鮮の核ミサイル攻撃、南海トラフ地震、首都直下型地震、重大サイバー攻撃テロリズム、ああ、想像すれば切りがない。
 緊急事態とは、重大かつ即座に対応しなければならない、そういう事態のことである。人権や私権が日本の憲法においてきわめて大きな重要性をもつこと、これは誰も否定しない。否定してはならない。しかし、国家緊急事態を想定せず、平時の丸腰で事態に立ち向かうというのであれば、肝心の人権・私権それ自体が雲散霧消してしまう。
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 その時、国家緊急事態を憲法に書き込む、そのための準備を粛々と進めていかねばならない。国家緊急事態において、なお人権・私権の尊重を言い募るのであれば、それは人権・私権の自殺である。
 われわれが今なすべきことは、新型コロナウイルスとの並大抵ではない過酷な戦いに身命を賭している、医療従事者を初めとする多くの関係者に深い敬意を表すると同時に、次なる緊急事態への対応に怠りなきを期することに他なるまい」
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 真面な日本人は2割、真面じゃない日本人は3割、自分では考えられず誰かに従う日本人は5割。
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 日本陸軍は、戦争で悪い事をしかかもしれないが、それ以上に良い事もしていた。
 現代日本歴史教育は、戦前は悪、軍部は悪、陸軍は悪の原則から、悪い事のみ強調・誇張して教えるが良い事はなかった事として教えず歴史から抹消している。
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 日本民族日本人は、天皇、皇族、皇室の下で一つにまとまる事ができるが、宗教のキリスト教イデオロギー共産主義では不可能であり分裂崩壊し消滅してしまう。
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 現代日本人は、昔の日本人に比べて劣っているところが多々ある。
 昔の日本人が賢く偉かったからとて、現代日本人も同様に賢く偉いわけではない。
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 戦後の緊急事態における政府の対応は、時の総理としての素質以前に個人的な性格が色濃く滲み出る。
 阪神淡路大震災時の村山富市東日本大震災時の官直人。武漢肺炎時の安倍晋三
 国会・政治家、官公庁・官僚、地方自治体の首長・官吏によって、被災民の苦難の度合いが変わる。
 村山富市「初めてのことだった」
 官直人「私は理系の人間。専門家だ」
 安倍晋三「説得したが法的拘束力がない」
 その時、ディア・報道機関は・・・。
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⛩23)─5─伊勢神宮は、政教分離の宗教改革で造営された。~No.54 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年6月号 Hanada「香論乙駁  有本 香
 安倍総理伊勢神宮に遥拝しましょうか
 今月も、中国・武漢発のコロナウイルス禍について書かせていただく。
 4月7日、安倍首相が『緊急事態宣言』を発出してから、私が住む東京の景色は一変した。
 ……
 一見静かな街には、仕事や顧客を失って生活をどうするか、家賃をどうやって払うか、と悩む人たちが少なくない。逆に、医療関係の人は毎日、感染のリスクを負いながら、地獄の忙しさのなかで患者と向き合っている。誰もストレスを抱え、将来への不安を抱え、政府や国会議員への不満を抱えている。だが、東京で暴動を起こす人はいない。
 諸外国のように、警察官が武器を携行して市民を追い立て『ロックダウン』せずとも、総理大臣の『一声』で、これだけ見事に営業や外出を『自粛』する国民は、世界のどこにもいまい。これが日本だ、とは言える。
 前代未聞の静かな東京を見ていて、ふと、私たちの先人『疫病』といかに向き合ってきたのか、について疑問が湧いた。
 日本最古の歴史書日本書紀』には、第10代・崇神天皇の御代({みよ}西暦では3世紀後半~4世紀前半)に『疫病で国民の大半が死亡した』という記述があるが、どうやらこれが日本史上初の『疫病』の記録のようだ。若き畏友(いゆう)で歴史学者久野潤氏に尋ねると、即、次のような答えが返ってきた。
 『どのくらいの死者が出たかは学者の間でも議論のあるところですが、このときの疫病対策の結果として伊勢神宮ができたのです』
 久野氏の話しを要約するところだ。
 日本における政(まつりごと)は、皇祖神(こうそしん)である天照大御神が、孫の瓊々杵尊(ににぎのみこと)に三種の神器(八咫の鏡、八尺瓊勾玉草薙剣)を授け、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)を高天原(たかまがはら)のようなすばらしい国にするため、天降(あまくだ)るように命じたことからはじまる(天孫降臨)。初代・神武天皇から現代まで、この三種の神器天皇より受け継がれてきたが、当初これらはすべて皇居のなかに祀られていた。
 しかし10代・崇神天皇の御代で疫病が大流行し、国家存亡の危機に直面した際、それまでの『まつりごと』に誤りがあったのではないかと省(かえり)みられた。ここで言う『まつりごと』とは、政と祭祀(さいし)の両方の意味を持つ。
 その結果、ご先祖だとは言え、人間である自分たちの居城内に天照大御神を祀ることは不敬だったのではないかとの結論に至り、天照大御神を表す八咫の鏡を然(しか)るべき場所にお祀りしようと外に移す。ここで疫病禍は収まった。
 その後、さまざま経緯を経て、次の垂仁天皇の御代に、伊勢に祀られることとなる。
 話しの最後に久野氏はこう付け加えた。
 『私は何も、今回のウイルス終息を願って、第2の伊勢神宮を建てたらいいと言うわけではありませんよ』
 もちろん、そんな誤解はしていない。氏の話からわかることは、日本人は疫病を、制圧すべき対象とのみ捉(とら)えてきたのではないということだ。我々の先人は、多くの犠牲を払うなかで謙虚に自らを省み、社会を良き方向へ変えていく『奇貨(きか)』としてきたのである」
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 天皇は、現人神(あらひとがみ)=神の裔=祈りを捧げる唯一の祭祀王であって、奇跡を起こし恩寵や恵み・施しを与える天地創造の全知全能の絶対神ではないし、迷える小羊を救い癒し慰め導く救世主(メシア)でもない。
 よって、天皇を信仰して拝んだところで御利益はない。
 正統な日本天皇は、新興宗教カルト教団が自称する霊験あらたかな生き神様・生き仏様・教祖様のようなまがまがしき存在ではない。
 神の裔・天皇とは、高天原にある天つ神系神の国、国つ神系神々の常世の国、死者の魂・霊魂が集う黄泉国、と、人が住む現世の国・この世の狭間・中間で祈りを捧げている貴人である。
 つまり、聖と俗の中間・狭間・境界に立つ、他の余人には代えようのない唯一・唯一人の神聖不可侵な存在である。
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 日本神道は、民族宗教・古代宗教・ローカル宗教であって、近代宗教・普遍宗教・世界宗教とは違い教祖はいないし、経典・聖典はなく、布教活動もなく、あるのは行ってはならない・してはならない掟・禁忌だけである。
 拝む参拝者はいても信仰する信者・教徒・信徒はいない。
 日本神道には、不寛容・排他的・狂信的原理主義は存在しない。
 一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教は、多神教などを否定し、駆逐する。
 多神教の日本神道は、ユダヤ教キリスト教イスラム教を八百万の神々として呑み込み、神々がおこなう喧嘩は対立ではなかった。
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 政治は私欲・強欲に塗れた俗で、祭祀は私欲・我欲を洗い流した聖である。
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 日本国内には、神話否定で反宗教無神論の反天皇反日的日本人達が少なからず存在し、彼らは天皇制度を廃絶し皇室を消滅させるべく蠢いている。
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 日本神話において、人に不幸をもたらし、時には命まで奪う荒ぶる神、死神、疫病神(やくびょうがみ)、貧乏神などはすべて忌み嫌うべき穢れた神々ではない。
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 日本の神の天罰は、絶対神の天罰ではない。
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 日本の民族宗教とは、自分の祖先を家神と祀る祖先神・氏神の人神信仰である。
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 日本列島は、隅から隅まで民族中心神話が息づいている。
 民族中心神話を辿ると縄文時代まで遡ることができる。
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 日本民族日本人は、自然災害多発地帯と疫病・伝染病蔓延地帯の日本列島に数万年生き続けていた。
 日本の民族中心神話・土着民話・地域民俗には、日本民族の知恵が豊富に詰まっているが、現代日本グローバル化の掛け声で、それら全てを世界基準に基づいて画一化・単純化・統一性し破壊・消滅させている。
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 日本の最高神は、伊勢神宮に祀られた女性神天照大神である。
 天皇・皇族・皇室は、天照大神を皇祖神・祖先神として祀る特別な一族である。
 天皇の正統性とは、天照大神の一系統における特殊な血統・血筋である。
 万世一系男系天皇とは、天照大神の血を引く子孫の事である。
 そして、天照大神の子孫である神武天皇を初代とする皇統である。
 正統継承を証明するのが、八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種の神器である。
 特に、八咫鏡は天岩戸神話で天照大神の姿をうつした鏡とされた。
 三種の神器の正統性は、日本書紀古事記天孫降臨神話・天岩戸神話、民族中心神話である。
 つまり、日本の心、日本民族の念いである。
 現代の日本国憲法には、それらがない。
 つまり、重要なのは人の心や念いの正統性ではなく法理に基づく正当性である、と。
 キリスト教の隣人愛の福音は、人の心や念いを否定している。
 現代日本から、人の心や念いが消えつつある。
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 日本の民族中心神話には、天地創造もなければ終末論もなく、最後の審判もなく、神と悪魔のハルマゲドンもない。
 数万年前の縄文時代からの祖先がいて、今現在の自分がいて、数百年後、数千年後の子孫が日本列島の上で生きている、それだけである。
 日本列島は、春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、そして春が来る、その繰り返しである。
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 日本は、土や塵やゴミを集められて意図的条件のもとで創られたのではなく、木の枝に花が咲くように意味もなく無造作に何となく生まれたのである。
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 日本民族日本人は、花鳥風月プラス虫の音の自然を愛し、空気と水を清浄にする苔と良い菌を育て、四季折々の自然と共に生きるべく、山・川・海そして平地の自然を守っていた。
 日本の自然は、1/fゆらぎとマイナスイオンで満たされていた。
 日本民族日本人は、自然の1/fゆらぎとマイナスイオンを体の中に取りこみ、心を鎮め、精神を正常に保ち、争い事を極力避けながら平穏無事に生きてきた。
 それが、日本の空気、雰囲気である。
 心穏やかに目を凝らせば、空気に色が存在するある。
 空の色、水の色、風の色、光と陰。
 緑豊かな山林の木漏れ日。
 小川のせせらぎの音。
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 日本民族日本人と朝鮮人・漢族系中国人とは違うのである。
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 日本民族日本人の生き方とは、南方海洋民の子孫として、縄文舟を数人が協力して櫂を漕ぎ数日かけて海を越える生き方である。
 日本の空気・空気圧・同町圧力とは、舟の空気・空気圧・同町圧力である。
 漢族系中国人と朝鮮人は、日本民族日本人とは違って西方系草原民の子孫である。
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 世界的普遍宗教の絶対神は、奇跡を起こして疫病・伝染病を退治し、災害を消し去り、餓えた者には食べ物を与え、乾いた者には水を与え、死んだ者は生き返らせ、恩寵と恵みで死んだ者に永遠の命を与え、労苦のない神の国・神の王国・光の国・天国に招き入れ、永久の安息を与えた。
 天照大神をはじめとする日本の八百万の神々には、天地を引っ繰り返すような神力・霊力はなく、人間以上の重労働を日々黙々と行っている。
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 日本民族日本人は、「与えられる」のではなく「行う事」が生きる事と信じ込んでいた。
 信仰で神から恵んで貰うのではなく、拝んで神から分けて貰うのである。
 信仰して神に助けて貰うのではなく、拝んで神に支えて貰うのである。
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 日本文明は、長江文明の後継文明であって、黄河文明の亜流文明ではない。
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 日本民族日本人は、乱婚を繰り返して生まれた雑種の混血民族であって、純粋な純血種・純血民族ではない。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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💖31)─1─ユダヤ人難民を助けた中国人シンドラーは中国共産党の敵であった。〜No.127No.128No.129No.130 

日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

  • 作者:栗山 正博
  • 発売日: 2007/08/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 ユダヤ人難民を助けた中国人は、満州国の外交官と中華民国の外交官であって中国共産党党員ではなかった。
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 上海を支配していたのは日本軍と南京の汪兆銘政権であって、重慶の蔣介石政権でもなければ毛沢東中国共産党政権でもなかった。
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 ユダヤ人難民達が収容されていた上海ゲットーは、日本租界の虹口にあって、日本陸軍憲兵隊が管理していた。
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 上海には、中立的な立場のフランス租界、カトリック教会・プロテスタン教会(アメリカ・キリスト教会)、国際赤十字社、そしてイギリス・ロスチャイルド財閥との関係が深い上海キングことサッスーン財閥などがいた。
   ・   ・   ・   
 ユダヤ人のサッスーン財閥は、反天皇敵日として蔣介石に味方し、極秘で抗日軍に巨額の軍事費と大量の武器弾薬を提供していた。
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 ユダヤ人は、親天皇ではなく親日でも知日でもなく、反天皇反日、敵日として連合軍に参加して日本と戦争をしていた。
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 何鳳山 (かほうざん、繁: 何鳳山、拼音: Hé Fèngshān、英語: Ho Feng-Shan、または英語: He Fengshan、1901年9月10日 - 1997年9月28日)は第二次世界大戦中にウィーンに赴任していた中華民国の外交官。
 その人生とキャリアをかけて3,000人以上のユダヤ人を救い、「中国のシンドラー」の異称もある。
 プロフィール
 生い立ち
 益陽の生まれ。父を7歳の時に亡くし、苦学生として長沙の雅礼中学で学び、雅礼大学(現在のzh:中南大学湘雅医学院)へと進学した。1926年にミュンヘン大学に留学し、1932年に政治経済の博士号を授与された。
 外交官
 1935年、中華民国外務省で外交官としてのキャリアを歩み始める。最初の赴任先はトルコであった。1937年にウィーンの中華民国公使館の第一書記に任じられる。1938年にドイツ国によってオーストリアがドイツに併合されると、公使館は領事館へと移行し、何鳳山が領事となった。
 ユダヤ人救助
 1938年の水晶の夜事件の後、オーストリア在住の20万のユダヤ人の立場は急激に難しいものとなり、ドイツから逃れる方法はヨーロッパからの退去の他はなくなった。退去にあたっては外国に移住するための保証となるもの、通常は他国からのビザもしくは有効な船便の切符が必要であったが、これは困難であった。1938年にエヴィアン=レ=バンで開かれた31カ国の会議(en:Évian Conference)にて、ユダヤ人の移民を却下する議決がなされていたからである。
 この時ユダヤ人の受け入れを唯一表明していたのはドミニカ共和国であり、10万人以上の受け入れを表明していた。何鳳山は、上司である在ベルリン中国大使館大使の陳介の命令に反して上海へ入境可能なビザの発給を開始した(当時の上海は列強の租界となっていたが、一部の地域は人道上の理由から中華民国の管理下にあった)。領事に就任した最初の3ヶ月で、何鳳山は1,200通のビザを発給した。
 この当時、上海への入境自体にはビザは不要であったが、このビザの所有はユダヤ人たちがオーストリアから出国する許可の唯一の根拠となった。多くのユダヤ人家族が上海へと向かい、そこからさらに香港とオーストラリアへ向かった。何鳳山は1940年5月に本国に召還されるまでこのビザを発給し続けた。
 発給されたビザの正確な数は不明だが、1938年6月に200通目を発給、1938年10月27日には1906通目に署名したことが知られている。何人のユダヤ人が彼によって救われたかも不明だが、在任期間のうち最初の半年だけで2,000通のビザを発行しており、数千人が救われたと見られる。
 戦後 
 第二次世界大戦後は中華民国に戻りそのまま外務省に戻ったものの、国共内戦における1949年の中国共産党の勝利により、何鳳山も中国国民党蒋介石)を追って台湾島へと逃れた。
 後に中華民国の大使としてエジプトとメキシコ、ボリビア、コロンビアに赴任。1973年に定年で引退すると、アメリカのサンフランシスコへと移民する。1990年に自伝『外交生涯四十年』を執筆した。2010年には『My Forty Years as a Diplomat』の題で英訳された。
 死去
 微生物学者、感染学者である中華系アメリカ人の息子・何曼德と、娘の何曼礼に看取られ、カリフォルニア州サンフランシスコで亡くなった。96歳であった。死後の西暦2000年にイスラエルのヤド・ヴァシェムによって諸国民の中の正義の人として顕彰された。
 顕彰
 何鳳山のために捧げられた銘板。上海のユダヤ難民博物館にて
 何鳳山のウィーンでの行動は、中華民国政府の人事ファイルでも黒塗り処分となっており、上司への不服従行動が何鳳山の人生に影響を及ぼすことはなかった。
 何鳳山が死後にイスラエルのヤド・ヴァシェムより「諸国民の中の正義の人」と顕彰された際には、2001年の式典、2004年のイスラエル教育機関であるBoys Town Jerusalemでの2004年の授賞式ともに、敵国である中華人民共和国の報道機関も何鳳山の物語を報道し、中華人民共和国大使も式典に参加した。
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 王 替夫(おう たいふ、1911年6月29日 – 2001年7月13日)は、満州国の外交官。
 プロフィール
 駐ベルリン満州国公使館に勤務し、1939年6月から1940年5月までの間、ユダヤ難民を含む難民におよそ12,000通の満州国の通過ビザを発給したことで知られる。そのため「中国のシンドラー」と呼ばれる。
 王替夫や中華民国の何鳳山、「日本のシンドラー杉原千畝が発給した通過ビザにより、アジア経由で多くのユダヤ系ドイツ人・ポーランド人が極東へ避難することができた  
 著書
 「五 苏联出兵东北 我军收复失地 53. 苏军进驻长春前后」、『伪满覆亡』(主編: 孙邦、副主編: 于海鹰・李少伯) 吉林人民出版社、1993年
 王替夫(口述)、金淑梅(整理) 『伪满外交官的回忆(偽満外交官的回憶)』黒龍江文史資料第二十五輯、黒龍江人民出版社、1988年10月、NCID BN05577000
 王替夫(口述)、楊明生(執筆) 『见过希特勒与救过犹太人的伪满外交官(見過希特勒与救過猶太人的偽満外交官)』 黒龍江人民出版社、2001年1月1日[7]、ISBN 7-207-05101-8 (題意: ヒトラーと出会いユダヤ人を救った傀儡満州外交官)
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