💖25)─2─アメリカ・ユダヤ人とセントルイス号事件。ブルメンソール元財務長官。〜No.104 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 アメリカは、ユダヤ人難民を乗せたオルディナ号、クワンッア号、フランダース号の入港を拒否した。
 イギリス海軍によるタイガーヒル号事件。
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 軍国日本は、国家として、建前で正式な入国ビザ・行き先国・保証人・旅費・国籍などの条件を満たさないユダヤ人難民の入国を拒否したが、本音ではユダヤ人難民を助けるべく排除する事なく受け入れた。
 政府の決定と本省の命令に違反する杉原ビザは無効としてユダヤ人難民を排除できたが、日本政府と日本陸軍は正規の外交官が発行した通過ビザは有効であるとし、国家元首昭和天皇の名誉に賭けて無条件で受け入れた。
 日本に於けるユダヤ人難民保護は無償であった。
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 現代日本歴史教育は、昭和天皇A級戦犯達・日本陸軍が、ヒトラーナチス・ドイツホロコーストから数万人のユダヤ人難民を助けていたという歴史的偉大な事実を抹消している。
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 現代日本人は、歴史力がない為に宗教差別や民族差別が理解できない。
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 世界は、昭和天皇、日本軍部、日本陸軍が数万人のポーランドユダヤ人難民を助け保護している事を知っていた。
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 映画「さすらいの航海 」[Blu-ray]は「セントルイス号の悲劇」の物語である。
 内容紹介
 船は木の葉のように波間を揺れ、涙はとめどなく頬を流れる……
 神よ、私達が何をしたというのですか!
 1939年5月、ハンブルグ港から937人の乗客とともに客船セントルイス号はキューバに向けて出航した。乗客の大半がユダヤ人だった。
 冷静で責任感のある船長シュレーダー(M・フォン・シドー)はクリスチャンだが、ユダヤ人に同情的だった。船にはゲシュタポに追われている弁護士のカール(S・ワナメイカー)と、妻(L・グラント)と美しい娘アンナ(L・フレドリック)、 高名な大学教授のクライスラー(O・ウェルナー)と、妻(F・ダナウェイ)、娘の元へ向かうハウザー夫人(M・シェル)、教師のジョセフ(J・プライス)、船長付のグンター(M・マクダウェル)らがそれぞれの思いを持って乗っていた。
 やがて、キューバに到着するが、ナチによる反ユダヤ感情の煽りを受けて、キューバ政府が上陸を拒否し、船内に暗雲が立ち込めた。すぐさまユダヤ救済機関のトローパー(B・ギャザラ)は、乗客の上陸許可を求めて手を尽くそうとするのだが・・・。
 実話をもとに、第二次大戦直前、大国のエゴに翻弄され難民となったユダヤ人たちの悲劇を描いたオールスター・キャストの人間ドラマ。
 監督は「暴力脱獄」(67)のスチュアート・ローゼンバーグ。グランドホテル形式を取りながら、登場人物の過去にフラッシュバックせず、亡命への希望と、強制送還の恐怖に怯える乗客たちの運命を進行形で描いた。
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 アメリカ・ユダヤ人達は、宗教的人種差別が常識のアメリカで生き残る為に、助けて入国させれば新たな差別のもとになるヨーロッパ・ユダヤ人難民を拒否し、世界の非難を承知でポーランドユダヤ人難民を助ける軍国日本への嫌悪感をアメリカ世論内で増幅させた。
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 アメリカ社会には、宗教的白人至上主義から日本人や黒人・ユダヤ人に対する酷い人種差別が存在していた。
 日系アメリカ人達は、アメリカ国籍のない一世はもちろんアメリカ国籍を持つ二世や三世まで敵性人として、鉄条網に囲まれ武装したアメリカ軍兵士が監視する強制収容所に送り込まれていた。
 アメリカに忠誠を誓う者は兵士として戦場に送り出され、忠誠を拒否する者は酷い虐待を受けていた。
 1943年10月15日にニューウェル収容所で暴動が発生し、アメリカ軍は武器を使用して鎮圧した。死者1名。負傷者29名。 
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 中世のころ。白人キリスト教徒は、日本人をアフリカ人同様に世界中で奴隷として売買して金儲けをし、ユダヤ人を異端審問で生きたまま焼き殺し私有財産を没収して資産を増やした。
 それが、世界の常識であった。
 ユダヤ人は、知恵を働かして賢く立ち回った。
 黒人は、下僕として忍耐強く従順に従った。
 日本人は、尊厳と名誉を守る為に殺し合いを覚悟で反発した。
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 2020年5月21日夏端月増大号 週刊新潮「変見自在   高山正之
 コロナ効果
 カーター政権の財務長官マイケル・ブルメンソールは1926年、ベルリンの北郊ブランデンブルク市で生まれた。
 ユダヤ系の父母は高級服飾店を営んでいたが、彼が10歳のときに一家の環境は大きく暗転した。
 台頭したナチスユダヤ人排斥を強め、38年11月の月の明るい夜、ゲッベルスの突撃隊が267ヵ所のシナゴーグを打ち壊し、7,500軒のユダヤ人商店を襲って略奪した。
 両親の店も破壊され、彼自身もヒットラーユーゲントの少年に暴行された。
 一家は故郷を捨てて命からがらナポリ発の貨物船に逃げ込んだ。
 船はスエズを越え、英領ボンベイコロンボシンガポールに寄港した。
 その都度、下船を望んだが、どこもユダヤ人の上陸は認めなかった。
 一家がナポリを出たのと同じころ、ハンブルクから1,000人のユダヤ人を乗せたセントルイス号が出航した。しかし目的地の米保護領キューバは上陸を拒み、ニューヨークでは接岸すら許されなかった。
 1カ月の漂流の挙句、船は欧州に戻り、何人かはベルギーで下船できたものの、間もなくナチスがそこを占領して、乗客のほとんどは強制収容所に送られた。
 しかしブルメンソールの船は幸運だった。航路の終点、上海でユダヤ人は下船することができた。
 日本人租界、虹口(ホンキュー)はビザを持たない彼らの居住を認めてくれた。
 虹口からガーデン・ブリッジを渡った先の外灘(バンド)には阿片貿易で儲けたサッスーンやジャーディン・マセソンなどユダヤ財閥のビルが立ち並ぶ。
 彼らは中東のセムユダヤ人(セファルディ)で、白人系ユダヤ人(アシュケナージ)には冷たかった。
 実際、パレスチナに逃れたアシュケナージは上陸を断られ、ときには射殺された。
 彼らを受け入れたのは関東軍が仕切る満州国か上海の日本人租界だけだった。
 そこに身を寄せたのは約3万人。ブルメンソールはそれほどの僥倖(ぎょうこう)を噛みしめて虹口の収容施設となった旧日本人学校に入った。
 やがて戦争が終わり、一家は上海を出られることになったが、ユダヤ人はどこもダメ。2年待ってやっと米国が入国OKを出した。
 驚いたことに民主党政権下の米国では、親切だった日本人が支那人よりも悪い侵略者とされていた。日本人の世話で生き延びたなどと言える環境ではなかった。
 賢(さか)しいブルメンソールは素早くいい日本を自分の記憶から切って捨てた。
 実際、米民主党の戦後も日本を敵視し、戦前と同じように、それが共産党政権になろうとも支那人を使って日本の抑え込み続けた。
 中共は米国が拵(こしら)えた南京大虐殺の嘘話に乗っかって日本人に贖罪を迫り、ODAと技術援助を引き出して半分近代化に成功した。
 それは米国人には格好の奴隷工場に見え、企業は続々と支那に進出し、米支の結びつきは蔣介石時代ほどに強まった。
 その一翼を担い、名を揚げたブルメンソールはつい先年、中共の招きで久しぶりに上海を訪れた。
 今は、『上海ユダヤ難民記念館』と名を改めた虹口の元日本人学校で彼は『日本軍は残忍だった』『親切だった支那人の友人の恩を忘れない』と挨拶した。恥を知らない男だった。
 武漢ウイルスが流行って、イスラエルは米国と並ぶ素早さで支那との往来を断ち切った。
 そしたら戴玉明・駐イスラエル支那代理大使が『私は哀しい。ホロコーストの中でユダヤ人を受け入れてやった支那にこんな冷たい扱いをするのか』(隔月誌『みるとす』)と記者会見でその薄情を非難した。
 イスラエルはそれまでブルメンソール的発言を特に否定してこなかったが、今回は違った。
 『何を言う。ユダヤ人を助けたのは日本人だ』『上海は日本が管理していた。歴史を捏造するな』(同)
 代理大使は公式ホームページで捏造部分を削除した。コロナはときに歴史歪曲を糺(ただ)す働きもする。」
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 ニューヨークのアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(ジョイント)は、太平洋戦争中もA級戦犯達の許可を得て、上海ゲットーのユダヤ人難民達に送金し生活支援を続けていた。
 アメリカ政府は、ユダヤ人難民への送金が軍国日本に強奪される軍事費に悪用される事を警戒したが、ジョイントの粘り強い説得で嫌々ながら同意した。
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 日本陸軍管理下の上海ゲットーのユダヤ人難民達は、戦時中の為に物資は少なかったが餓える事なく、ホロコーストで殺される事なく安心して生活していた。
 ユダヤ人難民は、物資や食糧不足で苦しい思いはしたが餓死者も治療を受けられずの病死者はいなかった。
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 日本憲兵隊は、ユダヤ人難民に高額で物を売って暴利を貪る日本人・中国人・朝鮮人を厳しく取り締まり、上海ゲットー内の治安を維持していた。
 ユダヤ人難民の中にアメリカ軍諜報機関に日本軍の軍事機密を洩らしていたスパイが少なからず潜り込んでいた。
 アメリカ陸軍航空部隊は、日本軍が保護している上海ゲットーの爆撃を避け、ユダヤ人難民に被害を出さないように配慮していた。
 終戦近く、アメリカ陸軍航空部隊が誤って上海ゲットーを爆撃した。
 ユダヤ人難民達は、日本陸軍憲兵隊に苦情を申し立てた。
 日本側は、「爆撃をしないように要請するのはアメリカ軍であって日本軍ではない」と突っぱねた。
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 太平洋戦争で戦死した約200万人の日本人兵士の3分の2は餓死か病死であった。
 各地の戦場では、日本人の女性も子供の日本兵士と共に戦って死んでいった。
 戦えない老人や女性や子供たちは、日本軍の足手まといにならないために集団自決を遂げた。
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 アメリカ軍は、各都市の無差別縦断爆撃やヒロシマナガサキの原爆投下実験で女性や子供たちを生きたまま焼き殺していた。
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 全ての戦場において、日本軍は武器弾薬や燃料そして食糧や医薬品など全般にわたって不足していた為に、戦闘優先として敵軍や軍事基地を主に攻撃していた。
 真珠湾奇襲攻撃では、軍艦や戦闘機そして軍港などの軍事施設を攻撃したが、市街地や病院や学校などの民間施設を攻撃しなかった。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派で、ヒトラーから逃げてきたポーランドユダヤ人難民の保護を希望していた。
 東條英機松岡洋右松井石根A級戦犯達は、昭和天皇の希望に従って数万人のユダヤ人難民を保護し、ナチス・ドイツゲシュタポの外圧を撥ね付けユダヤ人難民をホロコーストから守り抜いた。
 日本陸軍・軍部は、数万人のユダヤ人難民を上海ゲットーに収容して保護した。
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 ナチス・ドイツは、同盟国の日本に対して上海ゲットーのユダヤ人達をホロコーストする事を求め続けていた。
 それを食い止めたのが、満州派の松岡洋右支那通の松井石根であった。
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 上海には、フランス租界があり、キリスト教会や国際赤十字社も存在していた。
 日本軍は、利敵行為をしない限り国際法による自由を認めていた。
 上海は、数多くのスパイが暗躍し、激しい情報戦が繰り広げられていた。
 ソ連も、多数の工作員を上海に送り込んでいた。
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 上海ゲットーのユダヤ人達を監視していたのは、朝鮮人兵士や朝鮮人軍属達であった。
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 日本人兵士の大半は、絶対死の生還不可能な最前線へと送られていた。
 戦後、約1,000人の日本人兵士は捕虜虐待のB級C級戦犯として処刑された。
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 中国共産党は、ユダヤ人難民を救済していないどころか、その逆でユダヤ人富裕層を弾圧し惨殺しその財産を強奪していた。
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 虐殺・ホロコースト・ジェノサイドを行ったのは、軍国日本ではなく中国共産党である。
 軍国日本は、戦争としてやむなく悪い事をしたが人道貢献として勇気をもって良い事もした。
 中国共産党は、良い事は一つもしていない。
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 昔の日本人と現代日本人は別人のような日本人である。
 その証拠が、昭和天皇に対する態度である。
 昔の日本人は、昭和天皇や皇族を守り、男系皇位継承の皇室を存続させるべく、命を捨てても国體護持にこだわった。
 現代日本人は、昭和天皇を嫌い、男系皇位継承女系天皇継承に改悪し皇室の万世一系を消滅させようとしている。
 女系天皇即位・女系宮家創設に賛成する日本人は約80%に達している。
 真面目に考える日本人は2割、不真面目に考える日本人は3割、考えず流される日本人は5割。
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 上海系ユダヤ財閥に関係するファシスト中国(中国国民党)の一部は、セムユダヤ人難民を助け厚遇したが、白人系ユダヤ人難民は冷遇し突き放していた。
 中国共産党は、ユダヤ人難民救済保護には一切関与しなかったどころか、裕福なユダヤ人弾圧を行っていた。
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 ユダヤ人難民を救った日本人の多くは悲惨な末路を迎えた。
 昭和天皇は、逝去された後、現代においても国内外から極悪人とされ天皇の戦争責任と戦争犯罪が問われ、かって国家元首であったという名誉が剥奪されている。
 東條英機松井石根らはリンチ的縛り首で殺され、杉原千畝は外務省から追放された。
 松岡洋右A級戦犯達が祀られた靖国神社は、戦争神社・戦争讃美神社・戦争肯定神社として廃絶を求められている。
 昭和天皇東條英機松岡洋右松井石根A級戦犯達は、人格を否定され、人としての尊厳まで踏み躙られている。
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 小国は、大国の攻撃から母国を守る為に周辺の小国と攻守軍事同盟を結ぶ事はない。
 小国が数カ国と攻守軍事同盟を結んで大国と対抗しようとしても、所詮弱小連合は大国に滅ぼされるだけである。
 小国の生き残り戦略は、大国に臣下として仕え、大国の関心を別の国に向け、別の国を攻撃させる事である。
 小国が大国に屈して下僕となる事を拒否するならば、大国の侵略を撃退できる軍事力を持った中規模国に作り変える事であった。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派として、ヒトラーナチス・ドイツから逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人難民の保護を切望していた。
 東條英機松岡洋右松井石根A級戦犯達は、ナチス・ドイツゲシュタポの外圧を拒絶して、上海ゲットーに保護した数万人のユダヤ人難民をホロコーストから守り抜いた。
 戦後、現代において、日本はおろか国際の世論は昭和天皇を犯罪者と断定し、死してなおも天皇の戦争責任と天皇戦争犯罪が糾弾され続けている。
 ユダヤ人難民を助けた東條英機A級戦犯達は、リンチ的縛り首で処刑された。
 松岡洋右A級戦犯達が祭神として祀られている靖国神社は、戦争讃美神社・戦争肯定神社として廃絶を求められている。
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 現代日本人は、自分の利益・金儲けにならないことは無駄なことして切り捨て、危険を承知で火中の栗を拾う事はない。
 栗とは、ユダヤ人難民を助けた昭和天皇靖国神社東條英機A級戦犯達の事である。
 火とは、戦争を始めた昭和天皇A級戦犯達は重犯罪者という国内外の世論と日本人悪人史観である。
 昔の日本人には火中の栗を拾う勇気があったが、現代日本人には火に手を突っ込む勇気がない。
 現代日本人と昔の日本人の違いは、被害を覚悟で行動する勇気が有るか無いかである。
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 ユダヤ人と言っても、民族意識で団結しはいなかった。
 地球上には、ヨーロッパ・ユダヤ人、アメリカ・ユダヤ人、中国・ユダヤ人、満州ユダヤ人、中東・ユダヤ人など地域事にユダヤ人共同体があって、お互いに仲が悪く、自己責任の原則で助け合う事は無かった。
 ヨーロッパ・ユダヤ人の中でも、イギリス、フランス、ドイツ、ポーランドソ連など各国に戸別のユダヤ人共同体があり、利益・金儲けで付き合っていたが、いざとなった時は自助努力で見捨てた。
 中東・ユダヤ人の中にも、パレスチナ、エジプト、シリアなどに分かれていた。
 さらにユダヤ人と言っても、ユダヤ教徒キリスト教徒、イスラム教徒で分かれ、話す言語で複雑に分かれていた。
 ドイツ・ユダヤ人は、少数派のヒトラーを支援するユダヤ人とヒトラーを否定するユダヤ人、多数派のヒトラーに関心も興味もないユダヤ人に分裂していた。
 中東・ユダヤ人は、ヒトラーから逃げてきたヨーロッパ・ユダヤ人難民が乗船する輸送船を襲撃し、輸送船を撃沈してヨーロッパ・ユダヤ人難民を殺害していた。
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🌏40)─5─GHQは半島からのコレラ流入を防ぐべく海上保安庁創設を指示した。昭和23年。〜No.119 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の国難は、古代から現代においても海の外、中国大陸や朝鮮半島から押し寄せてくる。
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 2020年5月21日号 週刊新潮佐藤優の頂上対決 
 我々はどう生き残るか
 日本の国難は海からやってくる
 四方を海に囲まれた日本には、疫病も国家の危機も海からやってくる。さらに国境問題=海洋問題だから、ロシアとの北方交渉、日本海での韓国との攻防、中国の海洋進出などにも、海からの視点が欠かせない。日本の海をどう守ればよいのか。
 海洋政策の第一人者による『海の安全』への提言。
 山田吉彦
 佐藤 今ではほとんど話題に上がらなくなりましたが、日本におけるコロナ禍の発端は、『ダイヤモンド・プリンセス号』でした。山田先生は海洋政策がご専門ですが、あの時、どのようにご覧になっていましたか。
 山田 日本という国を象徴している出来事だと思いながら、事態の推移を見守っていました。日本の国難はこれまでも海からやってきました。疫病ということで言えば、古くは奈良時代天然痘が大流行しています。これはおそらく遣新羅使遣唐使か、いずれにしても大陸、朝鮮半島との交流から国内に入ってきた病気です。この時は、100万人以上が命を落としたという推計があります。
 佐藤 それで聖武天皇東大寺の大仏を造立させ、各国には国分寺を造られましたね。
 山田 ほんとうに大きな国難でした。現代でも戦後まもなく、海を渡ってきたコレラが大流行したことがあります。昭和21年夏のことです。中国大陸で蔓延したコレラが、引揚者や朝鮮半島からの不法入国者を介して日本中に広がりました。GHQは日本政府に対して早急な対応を指示し、政府は運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部、九州海運局に不法入国船舶監視部を設置、監視船による警戒を始めました。これが昭和23年の海上保安庁創設につながります。
 佐藤 コレラを防ぐのが、海上保安庁の始まりだったわけですね。そうした成り立ちの海上保安庁は今回、ほとんど前面に出てきていませんでした。
 山田 だから一部の幹部は、強い不満を抱えています。我々は岸壁で見ているだけだった、と。検疫体制の構築にしても、隔離の際の部屋割りにしても、彼らにはその道のプロだという自負があります。
 佐藤 初動の段階で『このへんは海上保安庁にノウハウがありますよ』と、総理に耳打ちする人がいなかったのでしょうね。
 山田 そうだと思います。海上保安庁対馬根室石垣島などでやってきたことを考えると、彼らならもっと素早い対応ができたかもしれない。もともと検疫という仕事が根底にあって動いているわけですから。
 佐藤 自衛隊も、陸上自衛隊は若干入ったということですが、海上自衛隊はあまり出てきていない。
 山田 医療に関する特殊な部隊が船内に入ってはいます。また大型の自衛艦の中には病院機能を持っているものもあるのですが、大人数を長期間隔離できるほどの性能はなかった。それに自衛隊が率先して動くことに何かブレーキがかかっているような雰囲気もありますね。
 ……
 海の攻防
 佐藤 最近の外務省の大きな問題は国際法に弱くなっていることです。外務省の総合職の採用試験が、外交官試験から普通の国家公務員試験に統合されてしまったためです。1980年代は、外務省の上級職員試験も専門職員試験も、必ず1題は海洋法でした。だからそれがなくなった今の40代前半以下はそこが弱い。そのせいか、今回、外務省がもう少しやれる局面があったと思うのですが、ほとんど前に出て来ませんでした。
 山田 おっしゃる通りで、国際的な問題ですから、本来なら外務省がコントロールしてしかるべき案件でした。でも結局のところ、取り仕切っているのが厚労省なのか、官邸なのか、よくわからないまま動いていった。
 佐藤 そこも大きな問題です。
 山田 ここ数年、クルーズ船は大ブームでした。インバウンド需要を当て込み、各地の港が寄港を誘致した。その結果、全国で年間3,000回近くの寄港があり、約250万人が上陸しています。いきなり増えてしまったので、どこの港の入管も税関も対応できていない状態でした。
 佐藤 それを見透かして、諜報機関とか麻薬の密売組織なども、クルーズ船を利用することがあります。
 山田 そうですね。船は飛行機に比べて出入国に非常に曖昧なところがありますから、密航とか覚醒剤の運搬に使われることも多い。
 ……
 海から北方領土を考える
 ……
 大陸国家型の海洋戦略
 佐藤 中国の海洋戦略については、どのようにお考えですか。
 山田 これは鄧小平以来、少しもブレていない。国策として海洋進出の方針をまったく変えていません。その当時、九州を起点に沖縄、台湾、フィリピン、ボルネオに至るラインを第一列島線、伊豆諸島を起点に小笠原諸島、グアム・サイパンパプアニューギニアに至るラインを第二列島線として、対米防衛のための軍事ラインを定めましたが、このコロナウイルス感染拡大の最中でも、南シナ海東シナ海での行動は少しも変わらない。むしろエスカレートしている様子です。尖閣諸島にもどんどん船が入ってきている。海を使って中国の影響力を世界に広げていくという基本的な方針のもと、一つひとつ、コツコツ時間をかけて着実に進出しているのが今の中国です。
 佐藤 普通の海洋戦略だったら、基本的には海上のネットワークの強化をしてくると思うのです。しかし中国は、暗礁の上にコンクリートを打ち込んで人工島を作り、そこに基地を建てて、人を居住させる。つまり直接、領域拡大をしているわけです。これは今までの海洋国家の戦略とは違う気がします。
 山田 そうです。やはり大陸国家が海洋進出しているから、そういう発想になるのだと思います。拠点形成、つまりは城を作らないと、周りを押さえられないと考えている。
 佐藤 大陸国家型の海洋戦略ということですね。
 山田 その言葉が一番ぴったりきます。海洋国家には、洋上に基地を作るなんて発想はありませんでした。ですから最初その動きを軽く見ていた。でも南沙諸島西沙諸島で、最新の技術を使って簡単に島ができてしまうと、ものすごいパワーを発揮したんですね。そこに滑走路を作ったり、レーダーを設置したり、ミサイルを配置した。南シナ海はもう中国がほぼ手中に収めたといってもいいかもしれない。
 佐藤 それに対する警戒感をもっと早くに持っていないといけなかった。
 山田 東シナ海でも同じようなことが進んでいます。その海域にいきなり人工島を作るほどの力はないと思いますが、ガス田開発という名目で拠点となりうる施設をいくつも作っている。いざとなれば、洋上基地になりうる施設です。
 佐藤 こうした動きと同時並行で、中国の歴史の書き換えを少しずつ始めていますね。あまり指摘されませんが、中華民国中華人民共和国の領土観は違います。中華人民共和国にとってモンゴルや琉球は中国外ですが、中華民国にとってどちらも失われた中華民国領です。どうも最近の北京政府の様子を見ていると、中華民国琉球観の方へ書き換えを始めている感じがします。そのすると尖閣問題は非常に面倒なことになってくる。
 山田 彼らは用意周到ですから、動き出した時に後追いするようでは遅い。例えば地図論争になったら、お互い道筋が見えなくなります。日本の地図に書いてある、中国の地図に載っているという話は、非常に曖昧な議論です。時代も国家の枠組や制度も違うところで争っても、一致点は見つかりません。歴史的な経緯を踏まえた上で、将来を見据えたやりとりが必要です。そのためにも中華民国=台湾と中国が一体化しないよう対策を練っていく必要がある。」
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 日本民族日本人が、中国人や朝鮮人を穢れた人間として嫌悪し差別し排除した事には正当な理由があった。
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 中国大陸と朝鮮半島は伝染病感染地帯で、疫病は日本に上陸して夥しい犠牲者を出していた。
 日本は、疫病・伝染病から日本を守る為に中国大陸や朝鮮半島との人の往来を遮断する必要があった。
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 日本民族日本人は、中国大陸や朝鮮半島を病魔の巣窟・宿痾の地・汚濁の世界であるとして嫌悪し、中国人や朝鮮人を穢れた人間として差別し排除した。
 その為、日本民族日本人で穢れた中国大陸や朝鮮半島に移住する者は皆無であった。
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 古代から現代に至るまで、朝鮮半島から日本列島への人の移動が存在し、大和朝廷やその後の歴代政権は不法上陸者・不法入国者を取り締まっていたが、余りにも海岸線が広く沿岸住民が少なかった為に完全に取り締まる事ができなかった。
 1980年代、北朝鮮は、日本国内から100名以上の日本人を拉致、誘拐していった。
 それ以降も、朝鮮総連親北朝鮮派日本人の手引きで北朝鮮からの不審船・工作船が頻繁に出入りしていた。
 2019年以降、北朝鮮や中国の漁船が大挙して日本海に進出し魚介類の乱獲を行い水産資源を枯渇させ、両国の漁船は日本沿岸に接近若しくは許可なく不法に接岸している。
 1990年頃、中国の犯罪組織である蛇頭は、多くの中国人貧民を日本に不法入国させて大金を稼いでいた。
 日本の沿岸は、昔から無防備である。
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 平安時代朝鮮半島からの移民・難民・不法入国者であった新羅系渡来人は駿河・伊豆などの東国で反乱を起こしていた。
 百済高句麗帰化人は親日派知日派そして忠天皇派で、新羅系渡来人は反日派・敵日派そして侮天皇派であった。
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 日本国内には、習近平国家主席国賓を日本の国益を犠牲にしても成功させたいと切望する親中国派や媚中派が少なからず存在する。
 武漢肺炎が世界に蔓延し数百万人感染と数十万人死亡という責任は、中国共産党習近平国家主席にある。
 日本が習近平国家主席国賓として招く事は、日本が中国共産党習近平国家主席の重大責任・不作為の犯罪を不問にする事を意味する。
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 映画「ゴットファーザー」では、敵に靡く裏切り者は善意の顔をして言葉巧みに甘い言葉を囁いて先に動いた。
 その事は、古今東西、変わる事のない事実である。
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 日本には、中国共産党に協力する親中国派・媚中派が存在する。
 中国には、日本の為に行動してくれる親日派知日派は皆無である。
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 軍国日本の積極的自衛戦争とは、ロシア・ソ連の侵略という姿の見える敵に対する安全保障と中国・朝鮮の疫病・伝染病の浸透という姿の見えない敵に対する社会保障であった。
 日本民族日本人が戦った目的は、人として自分の身体と心と精神の健康、民族の自由と自立、国の尊厳と名誉を守る為であった。
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 ウィキペディア
 海上保安庁の歴史においては、海上保安庁の活動の歴史と組織の沿革を記す。
 前史
 大日本帝国時代、日本周辺海域における法秩序の維持については、旧海軍が実働部隊となってきた。しかし1945年(昭和20年)の降伏に伴って日本は非軍事化され、海軍も掃海部隊を除いて解体された。これによって洋上治安維持能力は大きく損なわれ、海賊すら出現する状況に至っていた。これに対し、政府は日本側の手による洋上治安維持組織の創設を模索しており、運輸省に水上監察隊を設置する構想、農林省海上監視隊を設置する案、大蔵省の税関を強化する案、旧内務省の警察組織を強化する案などが検討されていたものの、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)としては、当初は日本の海運・造船・水産活動を厳しく制限する占領政策を採っており、日本海軍の復活への警戒感が根強かったこともあり、いずれも進展しなかった。
 しかし1946年(昭和21年)初夏ごろより、朝鮮半島からの輸入感染症としてコレラが九州に上陸し、猛威をふるいはじめた。その流入ルートとして、不法入国や密貿易等が疑われたことから、同年6月12日、GHQは日本政府に対し不法入国取り締まりの権限を付与する旨の覚書を通達した。これを受け、7月1日、運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部、その実働機関として九州海運局に不法入国船舶監視部が設置された。しかしこの時点で、保有船舶はタグボート3隻と港務艇13隻のみ、武装は一切なし、要員も運輸省職員で、取締業務の経験者は一人もいなかった。大久保武雄監視本部長は、第二復員局の掃海艇・要員の応援を求めたが、GHQにより却下された。

 創設
 この時期、GHQ側も日本の沿岸・港湾警備に課題があることを認識し、アメリカ沿岸警備隊よりミールス大佐を招聘して、課題の洗い出しと対策の策定を求めていた。ミールス大佐は、アメリカ沿岸警備隊をモデルとした、海上治安の一元的な管理機関の設置を提言した。これを受けて、関係各省の間の所轄争いを経て、1948年(昭和23年)、連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として、当時の運輸省(現在の国土交通省)外局として海上保安庁が設立されることとなった。
 しかし創設にあたっては、武装した海上保安機構の創設に対するGHQ民政局(コートニー・ホイットニー准将)の反発を受け、下記の6項目が科せられることとなった。
 職員総数1万名を超えない
 船艇125隻以下、総トン数5万トン未満
 各船艇1500排水トン未満
 速力15ノット未満
 武装海上保安官の小火器に限る
 活動範囲は日本沿岸の公海上に限る
 海上保安庁の創設にあたり、第二復員局から掃海業務を引き継いでいた運輸省海運総局掃海管船部掃海課(田村久三課長)も、保安局掃海課として海上保安庁に移管されることとなった。これらの部隊は、引き続き第二次世界大戦中に敷設された機雷に対する掃海・航路啓開作業にあたっていた。しかし1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争において、洋上戦力で劣る北朝鮮軍は機雷戦を展開しており、一方、それに対処すべき国連軍は対機雷戦戦力の不足に悩まされていた。このことから、アメリカ極東海軍から運輸大臣への命令に基づき、海上保安庁より掃海部隊が派遣され、朝鮮半島海域において特別掃海活動を実施することとなった。
 詳細は「日本特別掃海隊」を参照
 これらの活動はおおむね順調に遂行され、米側より非常に好評であった[2]。しかし元山上陸作戦に伴う同地での掃海活動では、第2掃海隊のMS14号艇が掃海中に触雷・爆沈し、乗組員1人が殉職、18名が重軽傷を負う被害を出した。その後、海保側指揮官が掃海活動の方針変更を具申したのに対し、米軍側指揮官がこれを恫喝的な態度で拒絶し、帰国か作業続行かを要求したことから、第2掃海隊の残り3隻がただちに帰国するという事態になっている。
 1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織されたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となった。保安庁(のちの防衛庁、2007年以降は防衛省)創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁海上公安局に改組されて保安庁の下に置かれることになっていた(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により、結局は保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま廃止され、それに代わる防衛庁設置法や自衛隊法が制定された。そのため、海上保安庁は改組による消滅を免れ、現在に至るまでその状況が存続している。
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 中国共産党は、尖閣諸島、沖縄、沖ノ鳥島そして北海道を奪う為の工作を着々と進めている。
 その意図を知りながら協力する日本人が、少なからず存在する。
 中国軍が造る人工島は、海の上のアンタッチャブル・チャイナタウン、つまり海上軍港要塞である。
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 中国は、歴史を自分の都合のいいように、利益を最大限に奪えるように改竄・捏造・歪曲する常習犯である。
 つまり、中国の歴史において事実はほんの僅かで、大半はウソである。
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 日本の歴史は、西洋キリスト教史観、中華儒教史観、マルクス主義史観では説明できない。
 日本の歴史を理解できるのは、民族中心神話と天皇統治を知る日本民族日本人だけである。
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 海の外、日本周辺国である中国、朝鮮、ロシアは仮想敵国ではなく明らかな敵国であった。
 それは、古代から変わる事のない現実であった。
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 現代日本人は、昔の日本人に比べて歴史力が乏しく、自分の知識や体験に頼り、欧米諸国の政策や方針を真似ようとするが、祖先の経験や対策を学んで生かそうとはしない。
 その傾向は、高学歴出身知的エリートになればなるほど強い。
 武漢肺炎において、国民一人に2枚のアベノマスク配送の発想、ただ数を合わせようとして不良品が混じって使い物にならず、とどのつまりは発送にさえ失敗して国民全員に届かなかった。
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 厚労省官僚は、戦時ではなく平時対応で『ダイヤモンド・プリンセス号』の初動対応で失敗した。
 安倍政権もまた、習近平国家主席国賓招待を成功させる為に、中国共産党に忖度し、中国人観光客の入国を許して感染拡大を許した。
 東京都は、東京五輪を目指し、開催中止が決定されるまで無作為で放置し感染爆発を許した。
 親中国派や媚中派は、中国共産党の機嫌を取る為に、必要になるマスクや医療用防護服などを中国に大量に送った為に国内で深刻な品不足になり、数多くの日本国民を犠牲にしたが、後に中国から感謝されて「良いことした」と喜んでいる。
 日本国内には、日本人より中国人を優先する人々が少なからず存在し、品数の少ないマスクやアルコール消毒薬が店頭に並ぶや爆買いして中国に送っている。
 彼らを動かしているのは、戦前の日本が行った戦争犯罪に対する贖罪である。
 つまり、歴史教育が中国人の為ならば日本人を犠牲にするべきであると。
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✨7)─2─『国體の本義』。日本を統治する戦前の天皇大権と戦後のアメリカ大権。昭和12年。~No.23No.24 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 明治の近代国家は、外面的には西洋キリスト教化であったが、内面的には中華儒教朱子学化であった。
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 『国體の本義』は、『教育勅語』や『軍人勅諭』など同様に戦前日本を縛りつけ、戦前日本人を精神主義で抑圧した。
 日本国内では正道として通用したが、世界では非常識として理解されなかった。
 日本の常識を破壊しようとしたのは、共産主義キリスト教・一部の宗教であった。
 その為に、戦前日本では「国體の本義」を否定し破壊しようとするキリスト教などの宗教と共産主義などのイデオロギーに対する弾圧が行われていた。
 戦前日本は、国権を行使して私権や個人の自由と思想信教の自由を奪っていた。
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 アメリカ大権とは、日本国憲法と戦後版皇室典範皇室経済法そして日米安保条約日米地位協定である。
 アメリカ政府は、日本政府に対して経済政策要請を強要している。
 日本にはアメリカの強要に対して拒否権はない。
 日本の要求が受け入れられるどうかは、アメリカの意向次第である。
 日本のアメリカ依存は、対等関係でなく上下関係である。
 日本がアメリカを捨てて中国共産党に接近する事は不可能であり、中国共産党への依存を強めればアメリカは日本を許さない。
 日本は、食糧・物資・エネルギー(石油・ウラン・その他)をアメリカとその影響地域で購入し、通信・情報・金融・サービスをアメリカ方式を利用し、水上及び上空の交通・運輸・輸送をアメリカ軍の保護下で自由に行っている。
 中国共産党・中国軍には、アメリカ・アメリカ軍の代わりはできない。
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 2020年5月22日・29日合併特大号 週刊ポスト「話題の新刊 この人に訊け!
 平山周吉
 『皇国日本とアメリカ大権 日本人の精神を何が縛っているのか?』
 橋爪大三郎 著
 筑摩書房
 今も日本人の思考と行動を束縛し続ける『国體の本義』とは?
 戦後政治のかたちを決めた『55年体制』、戦時下に出来たとされる日本型経済システム『1940年体制』、その二つのさらなる先に『昭和10年代体制』と呼ぶべき精神体制であり、今も日本人を『束縛』しているのか。そんな重い感触を読後に残すのが橋爪大三郎の『皇国日本とアメリカ大権』である。
 昭和12年(1937年)に文部省が編纂し、一般向けに出版され、中等教育では教科書として使用された『国體の本義』を本書は解読していく。一流執筆陣が、昭和の『総動員体制』を記紀神話に基づいて正当化し、敗戦までの間に200万部ものベストセラーとなり(古川隆久『建国神話の社会史』中公選書)、戦後はまったく忘れられたのが『国體の本義』である。
 その難解な本文はいまなら佐藤優『日本国家の神髄』(扶桑社新書)で全文を読める。橋爪は当時の読者、とくに学生は『暗記科目』として読んだだろうと推測する。『国體の本義』は『歴史や国語や道徳や、社会経済や、思想宗教や、すべてを統合する知識である』。その記述は苦しまぎれとほっかぶりのオンパレードだが、『これが正しい』という唯一の文書ゆえ、『誰もそれを反論しない(できない)』。まるで毛沢東思想のように享受され、日本人の思考と行動に影響をの残したのではないか。
 本書は後半部で、『国體の本義』の『天皇大権』が占領下に『アメリカ大権』に丸々すり替わったこと強調する。本書の読みどころだ。護憲派改憲派もその観点から同時に厳しく批判される。
 『日本が天皇大権の国であり、天皇親政になじんでいたから』、占領は成功した。アメリカの占領は『明治以来の国体の枠のなかで、行われた』。その『アメリカ大権』はサンフランシスコ講和条約日米安保条約にかたちを変え、今も現に日本を縛っている。
 『国體の本義』に戦後、正面から立ち向かった思想家がいた。三島由紀夫吉本隆明である。二人は『国體の本義』が出た年にまさに中等教育を受ける世代なのだ」
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 最高学府の帝国大学などでは、統制経済マルクス経済学が教えられ、優秀な成績で卒業した者は革新官僚となった。
 陸海軍から派遣された優秀な幕僚将校らも、マルクス経済学を学び統制派の実務中核をなした。
 各種の戦争を計画して始めたのは、革新官僚や統制派幕僚将校等であった。
 敗戦後、彼らはGHQの占領政策に協力し、その一部が社会党共産党に入党した。
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 万世一系天皇を守るには、正統性を記紀神話に求めるしか他に方法がなかった。
 人々が集まって作った法律による正当性は人為的に変更可能である。
 だが、神話による正統性は如何に今に合わない非現実不合理非論理であっても変更不可能である。
 つまり、法律に基ずく正当性は作り変える事ができるが、神話に基ずく正統性は存在するか消滅するかの二者選択しかない。
 日本神話である日本書紀古事記奈良時代に成立したが、日本神話の源流である大地母神信仰や巨石・山岳=正三角山(富士山の形)崇拝は縄文時代まで遡る。
 日本神話は、土着信仰であって宗教信仰ではない。
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 軍国日本は、度重なる反天皇反日テロリストによる昭和天皇暗殺失敗事件を教訓とし、天皇や皇族の命を護り皇室の弥栄と存続の為に、日本人はもちろん日本国籍を持つ朝鮮人や台湾人に対しも皇国教育を徹底させた。
 「日本は神の国である」「天皇陛下は、現人神で、絶対不可侵の尊い御方である」と。
 日本に味方して援軍を派遣して助けてくれる親日知日の国は1ヵ国もなく、むしろ軍隊を送って攻めてくる国ばかりであり、日本はそうした反日敵日の国に包囲されていた。
 戦前の日本が頼ったのは、諸外国による国際正義や国際信義ではなく日本国籍保有者の心・志・気概といった精神であった。
 一国で世界を相手に戦う以上、日本国籍保有者に対して総動員体制を国家権力で命じた。
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 日本国・日本軍・日本人は、戦争犯罪といった悪い事をしたが同時に人道貢献として人助けのいい事もした。
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 国際正義や国際信義を信じるに値するかどうかといえば、「信じられない」と言うのが真実である。
 何故なら、世界各地に「日本人は奴隷」という数多くの公的報告書や正式な公文書などの一級史料がありながら、今だに「日本人を奴隷として金儲けをした」「日本人女性を売春婦として売り買いした」という事実を認めないからである。
 西洋から見れば、日本人はアフリカ人同様に奴隷であった。
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 ウィキペディア
 『国体の本義』(こくたいのほんぎ)とは、1937年(昭和12年)に、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。

 概要
 「大日本帝国は、万世一系天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と国体を定義した上で、共産主義無政府主義を否定するのみならず、民主主義や自由主義をも国体にそぐわないものとしている。また共産主義ファシズム、ナチズムなどが起こった理由として個人主義の行き詰まりを挙げている。

 『国体の本義』の「万世一系」論
 第一 大日本国体
 一、肇国
 大日本帝国は、万世一系天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加えず、そのままこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般のものとは相当な思想的懸隔を来している。かくて、かかる状態から種々の困難な問題が発生した。嘗て流行した共産主義運動、或は最近に於ける天皇機関説の問題の如きが、往々にして一部の学者・知識階級の問題であった如きは、よくこの間の消息を物語っている。
— 文部省、國體の本義、149-150頁
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 現代の理論
 特集●米中覇権戦争の行方
 『国体の本義』を読みなおす
 明治維新天皇制の150年 ―4―
 筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹
 1.戦後の歴史教育皇国史観に貫かれている
 2.ファシズムと闘う『国体の本義』?
 3.新自由主義と闘う『国体の本義』?
 4.憲法第9条と自衛隊は両立する?
 5.国体は「万古不易」だったのか?
 本稿と次回連載の目的は、戦後日本の歴史教育が、皇国史観に貫かれていることを明らかにすることである。こう書くと、「また千本の強引な論法が始まった」と苦笑されるにちがいない。一般的には、戦後の歴史教育は、皇国史観を克服したと思われている。はたしてそうだろうか。わたしにこの示唆を与えてくれたのは、長谷川亮一『「皇国史観」という問題』(白澤社発行、現代書館発売、2008年)である。若手研究者の学位論文で、文字通りの労作であって、わたしがいうような大それたことは言及していない。しかしわたしは、この著作から、多岐に渉る飛躍的な着想を得た。
 1.戦後の歴史教育皇国史観に貫かれている
 同書の最大の功績は、皇国史観天皇中心史観から区別したことである。これまでは、皇国史観天皇中心史観は区別されてこなかった。皇国史観についての最もスタンダードな概説書といえる永原慶二『皇国史観』(岩波ブックレット20、1983年)でも、「(皇国史観が)もっとも徹底した形で強力におしだされてくるのは昭和に入ってからであり……1935年、『国体概念、日本精神ヲ根本トシテ学問、教育刷新ノ方途ヲ議』するため『教学刷新評議会』が設置され、ここに『日本精神主義者』の代表が総登場したといえそうである。……平泉氏をその代表的歴史家とすることは不当でないだろう」としている。
 戦後の歴史教育皇国史観の関係についても、「文部省の教科書検定歴史観を見ると、その根底には、今なお皇国史観以来の考え方が根強く生きつづけているように思われる。……(平泉澄の弟子である村尾次郎が)1956年、教育の右旋回にともなって教科書調査官制度が発足したとき、社会科の最初の主任調査官となって今日の検定路線を打ちだした人物である……」としており、このこと自身、わたしに異議はないが、戦後の皇国史観の表出を、政権の外交姿勢や愛国心の強調に限定しており、歴史の捉え方そのものに踏み込んではいない。
 永原慶二は本書で、『国体の本義』(文部省、1937年)と『国史概説』(文部省、1943年)を主要に取りあげているのだが、この2書、及び戦後歴史教育(特にその根幹をなす幕朝関係論、すなわち幕府と朝廷との関係)の3者の差異と連関についてはまったく言及していない。また平泉澄は、天皇中心史観のチャンピオンではあったが、長谷川亮一によれば、次回で後述するように、『国史概説』の編纂方針、歴史観に反対して抗議し、この事業から離脱しているのである。
 長谷川亮一は皇国史観を、『国史概説』によって確立したとして、他の天皇中心史観との違いを明らかにした。『国史概説』は、社会経済史や文化史にも紙幅を割き、戦後歴史学を担った中堅・若手研究者を執筆者として総動員した、概説書としては当時の最高水準を示す成果だったのである。永原慶二は皇国史観を「非科学」と切って捨てているが、『国体の本義』はそうであるとしても、『国史概説』は政府からの制約のもとで、精一杯、科学性を確保しようとした。だからこそ、皇国史観は戦後も生き延びたのである。
 長谷川のいう皇国史観の核心は、武家政治について、天皇が将軍に政治を委託したという歴史観にあるということなのだが、『国史概説』の成り立ちと、その内容の戦後歴史教育との異同については次回に取り置くとして、今回は『国史概説』に先行した『国体の本義』の内容を検討する。
 1937年に文部省が刊行した『国体の本義』、1943年の『国史概説』、戦後の歴史教育は、共通する部分と、当然ながら修正された部分が存在する。『国史概説』の執筆に全力を注いだ当時の中堅・若手研究者が、戦後歴史学の中心となったとき、その歴史叙述の骨格を変えられない立場は理解できる。そこへの批判は次回に譲って、本稿では、『国体の本義』について再検討しよう。
 2.ファシズムと闘う『国体の本義』?
 1935年、貴族院において、東京帝大教授(憲法学)、貴族院議員の美濃部達吉天皇機関説が問題視された。当時民政党を与党的に待遇していた岡田啓介内閣は、当初「学問の自由」を主張していたが、政権にありつきたい政友会などからの執拗な攻撃に屈し、「国体明徴」を宣言した。わたしはこの事件を明治維新後の大転換期を画する出来事だと考えているのだが、この後噴出した国体明徴運動、すなわち、日本を「神の国」だとする歴史観、国体観を理論的に裏づけるために文部省が刊行して、学校をふくむ全国各機関に配布したのが『国体の本義』である。
 「国体」とは、わかりにくいことばである。大統領制や議院内閣制は「政体」であって、どの国でも歴史的に変遷する。国体とは、日本にしか存在しない概念であり、外国人には理解しにくいものである。日本にしか存在しないからこそ、日本は素晴らしい国家だということになる。『国体の本義』本文冒頭に、「大日本帝国は、万世一系天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の国体である」とある。国体とは何かを知ろうとしてきたわたしにとっても、この規定は一言一句、過不足のない、絶妙な表現であると思う。
 「万世一系」とは、天照大神以来、現代風にいえばY遺伝子で皇統をつないできたこと、「神勅」とは、『国体の本義』によれば、「我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫ニ二ギノミコト(原文漢字)に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給うたときに存する」とある。「肇国(ちょうこく)」とは、「国をはじめる」という意味である。また、天皇を男系でつないできたことに意味があり、女系を認めれば、皇室が英国王室なみに格が下がるということになる。皇室が英国王室より優れているのは、女性差別をしているからである。「万古不易」とは、これまでも、これからも変わることはないということである。
 『国体の本義』は、戦後GHQによって禁書とされ、歴史学界でも「天皇讃美の神がかり的な書物」としてかたづけられてきた。今ではインターネットで復刻版を手に入れられるが、書店では購入できない。『国体の本義』についての研究もほとんどなく、「新しい歴史教科書をつくる会」の杉原誠四郎元会長と保阪正康が言及した程度だった。
 そこへ2009年、元外務官僚の佐藤優が『日本国家の神髄―禁書「国体の本義」を読み解く』(産経新聞出版発行、扶桑社発売)を刊行した。『国体の本義』の全文について、佐藤優の解釈を施したもので、雑誌『正論』に連載したものをまとめたものである。佐藤優によれば、『国体の本義』の目的のひとつは、日本がファシズム化することを防ぐことであり、現代に復権することの意義は、新自由主義と闘うことにあるという。佐藤優の問題意識からすれば、それは間違っていない。
 もちろんわたしはファシズムとも、新自由主義とも、別の根拠と方法で闘うのではあるが。わたしの問題意識は、『国体の本義』と、『国史概説』に基く考え方が、現代の歴史教育にも生きているからこそ、佐藤優がそのように考えるということである。ここから、『国体の本義』を読み解いていくのだが、本稿の目的は本書全体を再評価することではなく、現在につながる部分を抜き出す方法で行なう。
 『国体の本義』の構成は、緒言、第一大日本国体(一肇国、二聖徳、三臣節、四和と「まこと」)、第二国史に於ける国体の顕現(一国史を一貫する精神、二国土と国民生活、三国民性、四祭祀と道徳、五国民文化、六政治・経済・軍事)、結語となっている。
 本書の主旨は、大日本帝国神の国であってすばらしいということだが、本文156ページのなかに、他国を蔑視する、見下す表現が一か所もない。逆に、外来文化のおかげで日本は発展してきたという趣旨で一貫している。
 緒言の冒頭は「我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途彌々(いよいよ)多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神(かむながら)の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によって諸種の文物は顕著な発達を遂げた」から始まる。
 「醇化(じゅんか)」とは、国語辞典的にいえば、「まじりけのない、純粋なものにすること」ということだが、わたしの勝手な語感からいうと、「消化して血肉化すること」、さらに「手なづけること」というニュアンスがある。東洋文化を日本の国体にあわせてつくりなおしたということである。そこには、アジア諸国への敬意はあっても、蔑視はない。
一方、欧米の思想についてはどうか。「我が国に輸入せられた西洋思想は、主として18世紀以降の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等を主張すると共に、他面に於て国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである」、「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、また続いて民主主義・社会主義無政府主義共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた」、「個人主義を本とする欧米に於ても共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの台頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る」と緒言では述べられている。
 欧米がファシズムに至る行き詰まりをどうするかは別にして、日本にファシズムを輸入しようとする者がいるのは、我が国体の立場から欧米文化をきちんと醇化できなかったからであるというわけだ。佐藤優が本書の目的を「ファシズムからの防衛」と書いている理由はここにある。
 『国体の本義』は、「和」を重視する。「我が肇国の事実及び歴史の発展の後を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我が肇国の鴻業より出で、歴史生成の力であると共に、日常離るべからざる人倫の道である。……個人主義に於ては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。即ち個人主義の社会は万人の万人に対する闘争であり、歴史はすべて階級闘争の歴史ともならう。……我が国の和は、理性から出発し、互に独立した平等な個人の機械的な協調ではなく、全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和(たいわ)である」。
 佐藤優は、西洋では個人主義によって個人がアトム的存在に分断されているからファシズムが必要になるが、日本では和があるから、ファシズムは適合しないというのである。わたしは「日本の和は、異端分子を排除することによって、同質の者が形成する和である」と書いた(『「伝統・文化」のタネあかし』)。「日本には和が存在する」というのは、願望にすぎない。現代日本の若者のあいだでは同調圧力が強く、一人ひとりが自分の意見を言わないことによって和が維持されている。文字通り、「全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一帯を保」っている。これが「国体」のもとでの「和」である。
 日本の現状をファシズムであると主張しはじめたのは1935年の野坂参三であるが、その無理論さと杜撰さについては、神山茂夫の反論と比較して、旧稿で書いたことがある。また当時よりも、21世紀の現代の方が、ファシズムと呼ぶにふさわしいことも、本誌に執筆した。強権的な政治手法や政治体制を、なんでもファシズムと呼ぶのは科学的な態度ではない。佐藤優は、イタリアファシズムとドイツナチズムは異なっているというが、本稿では、1940年前後の日本とイタリア、ドイツとは政治・社会構造が本質的に異なっていたということだけを指摘しておく。日本は共産主義革命の前夜でもなかったし、下からのファシズム大衆運動もなかった。
 『国体の本義』の姿勢は、東洋文化を蔑視するのではなく、また西洋文化を罵倒するのでもなく、それらをそれとして認めた上で、日本の国体に醇化することが必要だというものである。日本の国体はすばらしい、しかしそれは、西洋と比較してというわけではなく、本書では、日本と西洋は異なっているというところまでしかいわない。醇化が不充分だから混乱し、失敗すればファシズムに陥ると警告する。国体論を別にすれば、他文化に対する姿勢は、現代教育と共通するものがある。


 5.国体は「万古不易」だったのか?
 さて、本稿と次回連載の課題に戻ろう。戦後の学校歴史教育皇国史観であり、それは『国史概説』で確立したのだが、源流は『国体の本義』にあるのではないかということだ。
 『国体の本義』の「第二国史に於ける国体の顕現 一国史を一貫する精神」は、このように始まる。「国史は、肇国の大精神の一途の展開として今日に及んでゐる不退転の歴史である。……他の国家にあつては、、革命や滅亡によつて国家の命脈は断たれ、建国の精神は中断消滅し、別の国家の歴史が発生する。それ故、建国の精神が、歴史を一貫して不朽不滅に存続するが如きことはない。……国史は国体と始終し、国体の自己表現である」。問題は、建国の精神が歴史を一貫して不朽不滅に存続していたかということになる。
 焦点は中近世である。「源頼朝が、平氏討滅後、守護・地頭の設置を奏請して全国の土地管理を行ひ、政権を掌握して幕府政治を開いたことは、まことに我が国体に反する政治の変態であつた。……源氏の滅後、執権北条氏屡々天皇の命に従はず、義時に至つては益々不遜となつた。依つて後鳥羽上皇土御門上皇順徳上皇は、御親政の古に復さんとして北条氏討滅を企て給うた。これ、肇国の宏謨を継ぎ給ふ王政復古の大精神に出でさせられたのである。然るにこの間に於ける北条氏の悪逆は、まことに倶に天を戴くべからざるものであつた。併しながら三上皇の御精神は、遂に後宇多天皇より後醍醐天皇に至つて現れて建武中興の大業となつた」。戦後の教科書で育った世代には、北条氏がこれほど悪しざまに書かれていることは、珍しく思えるだろう。
 次は、天皇家にとっての最大悪人の登場である。「建武中興の大業も、政権の争奪をこととして大義を滅却した足利尊氏によつて覆へされた。即ち足利尊氏の大逆無道は、国体を弁へず、私利を貪る徒を使嗾して、この大業を中絶せしめた。かくて天皇が政治上諸般の改革に進み給ひ、肇国の精神を宣揚せんとし給うた中興の御事業は、再び暗雲の中に鎖されるに至つた。……後醍醐天皇から御四代、御悲運の約六十年間は、吉野に在らせられたのであるが、後亀山天皇は、民間の憂を休め給はんとの大御心から、御譲位の儀を以て神器を後小松天皇に授け給うた」。後小松天皇北朝で、譲位とは1392年の、現在でいう南北朝の合一である。1911年に帝国議会南朝が正統と確認された。あくまでも、三種の神器を持っている者が天皇であって、南朝と呼ばず、吉野朝という。続けよう。
 「吉野朝の征西将軍懐良親王が、明の太祖の威嚇に対して、豪も国威を辱しめられなかつた御態度は、肇国の精神を堅持せられた力強き外交であり、その後、尊氏の子孫たる義光・義政が、内、大義を忘れ、名分を紊したのみならず、外、明に対して国威を棄損した態度とは実に霄壌の差がある」。明との関係については、義満が明国皇帝から日本国王冊封を受けた。それを「国威の棄損」と非難している。懐良親王はその前に、明の太祖から使者団を送られ、倭寇対策のために日本国王に任命されようとしたが、親王は使者団のうち5名を斬り、拒否した。そのことをここでは賞賛しているのだが、実はその後、2回目の使者が来て、親王は国王を受諾していることを本書は隠している。
 ふしぎなことに、徳川家康が権力を獲得したことにはふれていない。江戸時代は、水戸学、国学などによって、尊王思想が広まって、「明治維新の原動力となつた」とする。「歴代天皇の御仁徳のいつの代にも渝(かわ)らせ給はざるは、申すも畏き御事であるが、徳川幕府末期の困難なる外交にいたく宸襟を悩ませられた孝明天皇は、屡々関白以下の廷臣及び幕府に勅諚を賜うて、神州の瑕瑾を招かず、皇祖皇宗の御偉業を穢さず、又赤子を塗炭に陥らしめぬやう諭し給ひ、特に重要政務を奏上せしめ、その勅裁を仰がしめ給うた」。
 攘夷を命ずるほか、何もしなかった孝明天皇を賛美するのは、王政復古直前の天皇であるから、『国体の本義』としてはやむをえないのだろうが、この数行は、いかにも無内容である。続けて、内乱が起これば、外患、外国からの介入、場合によっては侵略が心配されたとき、山内豊信が勧めて徳川慶喜大政奉還、王政復古となったと述べる。
 先にも引用したように、本書では「中世以降の如き御委任の政治」、「中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかった」という表現があったが、「肇国の精神」は継続して維持されていたのか、「萬古不易の国体」は続いていたのかということが問題になる。北条氏や足利氏は、『国体の本義』で、これほどまでに罵倒された。『国史概説』はこの課題を、どのように整理するのであろうか。

 ちもと・ひでき
 1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。
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⛩96)─1─疫病も伝える日本書紀の魅力。~No.209No.210  

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 2020年5月11日 産経WEST「面編纂1300年、疫病も伝える日本書紀の魅力
 神話や古代史の舞台となった奈良盆地。現在も大和三山などが歴史を伝える=奈良県橿原市、明日香村周辺(本社ヘリから)
 遣隋使の派遣や壬申(じんしん)の乱、疫病(えきびょう)、地震…。そんな古代の出来事が記された日本書紀を読まれたことがありますか?奈良時代に編纂(へんさん)され、今年は1300年という記念すべき節目。国の正式な歴史が編まれた初の「正史」で、神代から持統天皇の時代までを伝える日本書紀の魅力とは-。 
(岩口利一)
 <国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった>(講談社学術文庫判)
 日本書紀崇神(すじん)天皇五年にはそう記されている。天皇は自らの政治が良くないためではないかと恐れた。そして占いのお告げに従って大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祭り、さらに祭主を大田田根子命(おおたたねこのみこと)とするなどした。すると疫病は収まり、五穀も実ったという。現在の奈良県桜井市に鎮座する大神(おおみわ)神社は大物主大神を祭神とする。
 日本書紀に続く続日本紀天平九年(聖武天皇)=737年=にも恐ろしい記述がある。春に疫病が流行。筑紫から伝染して秋まで続き、政権を担った藤原4兄弟も含め、数え切れないほどの死者が出たという。
 はるか昔の出来事だが、新型コロナウイルスの感染が拡大している今、こうした災いの記事は身近に感じられ、当時の苦難がしのばれる。
 今年で編纂1300年を迎える日本書紀は、天武天皇の皇子、舎人(とねり)親王らの撰で、養老4(720)年に完成したとされる。
 現存最古の歴史書とされる古事記は神代から33代推古天皇までを記載し、神話の時代に多くを割いている。これに対し、正史の日本書紀は41代持統天皇までが記され、記事に年月日が付けられている。
 主な出来事としては、中国・隋に派遣された遣隋使や、中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが蘇我氏を滅ぼし大化の改新の端緒となった乙巳(いっし)の変。さらに天智天皇の弟、大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)と天皇の子、大友皇子が戦った壬申の乱、飛鳥から初の本格的都城藤原京奈良県橿原市など)への遷都などがあり、興味深い。
 『マンガ遊訳 日本を読もう わかる日本書紀』(西日本出版社)を監修した関西大の村田右富実教授は、日本書紀が書かれた背景として当時の世界情勢に注目する。
 「中国・唐が脅威で、日本に大きな危機感があった。中央集権国家をつくっていく中で、何年何月に何が起きたかということをきちんと記したかったのだろう」と解説する。正式な歴史を記すことで国家としての主体性を獲得しようとしたことがうかがえ、古事記に比べて外交記事が多いのも魅力という。
 とは言っても、一般には取っつきにくい面のある日本書紀。村田教授は「古事記を知っている人は読み比べてみると面白い。歴史好きの人は有名な壬申の乱大化の改新などから入ってみてはどうでしょうか」とその世界へと誘う。
 貴重な歴史書の編纂を成し遂げた舎人親王は、万葉集に歌も残すなど文化的素養があったらしい。松尾寺(奈良県大和郡山市)は親王が厄年だったため、完成と厄よけの願を懸けて建立したと伝えられ、親王の像もある。
 こうした社寺やゆかりの地を知ることも、日本書紀に親しむきっかけになるかもしれない。」
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⚔37)─1─徳川幕府は世界の三流国化で貧しくとも平和と安定を達成した。~No.159 

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 江戸時代は、ブラック社会で将来の夢も未来の希望もなかった。
 江戸庶民は、「明日は明日の風が吹く」であり、「野となれ山となれ」であり、「宵越しの金は持たない」であり、「金は天下の回りもの」であり、「命あっての物種」であり、「生きていてこそ華である」であり、「村八分」であり、「親しき仲にも礼儀あり」であり、衣食住は他人に迷惑をかけず御上に期待せず自分の責任で自分で動いて確保する。
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 日本列島は、甚大な被害を出す自然災害多発地帯であり、深刻な疫病・伝染病蔓延地帯であり、そして大火が幾度も町を焼き払う火災地帯で、夥しい死体が絶えない地帯であった。
 そんな地獄のような日本列島から中国大陸や朝鮮半島さらには琉球アイヌ蝦夷地へと逃げ出そうとする日本民族日本人は、一人としていなかった。
 むしろ、中国大陸や朝鮮半島から不法に上陸してくる人が絶えなかった。
 そして、殉教する事は尊い行いと信じるキリスト教原理主義の宣教師が、幕府の法律に従って見付かれば処刑される事が分かっていながら密入国していた。
 徳川幕府は、鎖国政策で彼らの入国を遮断し平和と安定を守った。
 日本は一流近代国家を目指し、鎖国政策を廃止して彼らを制限なく自由に入国できるようにした為に、日本は豊かになったが不安定になり戦争が絶えなくなり、そして悲惨に見舞われ、悲劇が渦巻き、不安と不幸に襲われるようになった。
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 江戸時代はなぜ260年も続いたのか
 「江戸時代の日本に戻れ」。月刊誌『文藝春秋』の最新号に、人口減少社会を迎えた現代日本が目指すべき「国のかたち」を提唱する細川護熙元首相の論考があった。中身はともかく、近世史研究が進んだ今、江戸時代を再評価する言説が流行りである。とはいえ、ホントに良い時代だったのか?
 北朝鮮と同じ「世界の三流国化」を受け入れた江戸幕府の大誤算
 『八幡和郎』
 八幡和郎(徳島文理大学教授、評論家)
 江戸幕府は非常に安定していた。なぜなら、李氏朝鮮(1392年〜1910年)のやり方を取り入れたからであり、それはまた、現在の北朝鮮の安定と非常に似ている。
 つまり、世界の進歩から取り残されても、できるだけ変化をしないようにすることと、自分より下があることを見せて不満をそらすシステムを構築することで共に実現されていたのである。
 別の観点からいうと、じり貧を回避しないという気になれば、国家でも企業でも個人でも長く生き永らえることは可能だといえる。
 儒教は古くから日本に伝えられたとされるが、江戸時代までは処世術の一種みたいなもので、禅宗の教えを具体化するための助けに過ぎなかった。
 ところが文禄・慶長の役で、姜沆(きょうこう)という官僚が捕虜として日本に連行され、相国寺の禅僧藤原惺窩(ふじわらせいか)に本格的な朱子学を教え、惺窩は中国や朝鮮で理想的な統治が行われていると勘違いしてしまった。なにしろ、惺窩は明や朝鮮が日本を攻めて支配してくれることを姜沆に勧めたほどの人物である。
 さらに、惺窩の弟子の林羅山徳川家康に仕えてから、禅僧に代わって儒者が将軍や大名のブレーン的存在になり、朱子学江戸幕府の国教的イデオロギーになった。家康の個人的な趣向に合っていたので導入されたのである。
 織田信長豊臣秀吉は、尾張出身ということもあり、商業主義的で、ベンチャー企業的経営者だ。それに対して家康は、三河出身で百姓的な感覚を持っていた。だから、城下町をつくらせても、信長や秀吉は商業振興を図ったが、家康は商業機能を最小限にとどめたのである。
 信長は安土城下で「楽市楽座」を行い、秀吉とその家来たちは水運のよい土地を選んだ。ところが、家康はそれを好まなかった。浜松、静岡、名古屋、越後高田など海から少し離れたところにあえて城を築いた。江戸は大坂に似た地形という理由で、秀吉が選んで家康に指示したものだから例外だが、そのためか家康は江戸を嫌ってほとんど住んでいない。
 譜代大名の城下町でも、井伊氏の彦根藩の城下には中山道を通過させず、郊外の高宮を宿場町にしたし、酒井氏の庄内藩は酒田を避けて鶴岡を城下町に選んだ。
 人事でも信長や秀吉は思いきった抜擢(ばってき)をした。ただし、信長は突然クビにすることがあったし、秀吉はいったん左遷しても、時がたって反省していると判断したら復活させるという違いはあったが。
 それに対して家康は、抜擢せず恩賞も与えず吝嗇(りんしょく)だといわれた。その代わり、めったにクビにはしないし、戦死者の遺族などを大事にした。
 一言でいえば、信長や秀吉は人事においてもベンチャー企業の経営者だし、家康は大企業の経営者タイプである。
 つまるところ、家康は何も変わらないことを理想としたのである。跡継ぎがなくてお家が断絶したり、不始末をしてクビになる者がいても、それを補充する程度の取り立てをすればよいという考えだ。
 こういうバカなことをやっていたから、秀吉の時代には世界最先進国に近づいていた日本は江戸時代260年のうちに「世界の三流国」に成り下がってしまった。
 李氏朝鮮から輸入した朱子学は日本を「李氏朝鮮化」した。安土桃山時代までの日本は自由闊達(かったつ)だった。ポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスも驚いたように、女性たちは自由で独立した人格を認められていたし、政治的にも大きな役割を果たしていたことは、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」でもおなじみだ。
 ところが、儒教の女性蔑視、男女隔離の思想が朱子学とともに入ってきて、女性への差別が徹底され、政治の表舞台からも追放された。
 また、江戸時代以前にも賤民のように扱われる人々や職業はあったが、多くの人々が明確なかたちで体系的に差別されるようになったのは、江戸時代に身分制度が確立されてからのことだ。しかも、儒教道徳を体現したような「名君」といわれた大名ほど、身分秩序を厳格にして、服装まで変えさせるなどして、差別を徹底したのである。
 それは、武士の立場でも同じで、「士農工商」の身分制が基本というのは疑問である。中津藩士だった福沢諭吉も、庶民と足軽徒士(かち、いわゆる下級武士)とは行き来もあったが、上級武士に下級武士が昇格できたのは、中津藩200年の歴史でも数例だけだといっている。
 殿様が自分の家臣と意識しているのも、上士だけだった。もっとも、身分制度は藩によってかなり違いがあるのだが、明治になって士族と位置づけられた階級の中でも、馬に乗れて袴(はかま)を履く「上士」、袴は履くが馬に乗れない「徒士」「足軽」、武家奉公人たる「中間(ちゅうげん)」などに分かれていた。
 侍というのは上士の中でも上層部を指すことが多かったし、足軽以下は武士ではなかった。したがって、足軽が先祖だったら、「私の祖先は明治時代に士族になりました」とは言えるが、「武士でした」とか「侍の子孫です」「藩士でした」といえば詐称だ。
 それでも、科挙があるから無教養ではダメな中国や朝鮮の政府の役人に比べて、旗本や大名の家来はあまり学問を要求されなかったし、出来が悪くても育ちだけで役職に就けた。といっても、当然実務などできるはずがない。そこで勘定方や儒者藩医、砲術型、剣道師範などといったグループが別にいて、それぞれ世襲で技能を磨いて実務を担当した。福沢諭吉の家系は勘定方だし、久坂玄瑞藩医吉田松陰は兵法家の出身だ。
 さらに、幕府や藩の財政の仕組みもじり貧にならざるを得ないものだった。戦国大名や信長、秀吉は、米の年貢を基本としたが、ほかの収入も重視した。商工業の発展を図り、鉱山開発を盛んに行ったうえに、貿易から上がる利益も大きかった。
 しかし、儒教的な農本主義にたった江戸幕府は、米に対する年貢に頼った極端な税収構造にした。それが差し当たって可能だったのは、徳川将軍家が俗に天領といわれた幕府直轄領を400万石にし、旗本知行地の300万石と合わせて700万石と広く取ったからだ。豊臣家の直轄地が200万石くらいだったからかなり多い。しかも江戸時代の前半には、戦国時代に発達した土木、治水技術の応用で容易に新田開発も可能だった。
 さらに外政では、朝鮮への再出兵も行わず、外国からの侵略に備えることもせず、琉球薩摩藩支配下に置いた。内政ではキリシタンを弾圧し、檀家(だんか)制度で仏教を骨抜きする宗教政策を進め、大名の領地を取り上げて将来の不安を解消することもしなかったので、軍事費が減り、築城や大砲の進歩に対応した城の増強もしなかった。だから、鎖国して貿易利益が縮小しても、当面は大丈夫だったのだ。
 ところが、この米中心の財政構造は無理があった。今でいう国内総生産(GDP)に対する租税負担率が徐々に下がることが避けられなかったからである。
 まず、米の需要には限りがある。ところが、米以外からでは年貢が取れないので、各藩は米を増産する。そうすると当然過剰生産になり米価が下がってしまった。なにしろ、江戸時代後期には全国の人口が3千万人に対し、米の生産量を示す石高は3千万石だった。
 つまり1人あたり1石の消費だが、これは1日換算では5合にもなる。つまり、江戸時代の日本人は無理な税収構造の果てに、過剰生産により安かった米のご飯を、みそだ、漬物だ、小魚だといった貧弱なおかずでひたすらかき込んでいたのである。
 また、天変地異に弱い米に偏った作付けは、冷害や干魃(かんばつ)による飢饉(ききん)を何度も引き起こし、そのたびに現代の北朝鮮のように膨大な餓死者を出した。しかも、貿易をしないから輸入ができない上、民政を各藩に任せたために、気の利いた「名君」だけがあらかじめ米を買い占めて自藩の領民を救ったので、特定の藩では生き地獄の事態を招いたのである。
 飢饉のときには、餓死までいかなくとも栄養不足により人口減が見られた。現代の北朝鮮でも文字通りの餓死以外に同様の事態がしばしば起こっているのである。
 また、年貢の取り方としては、当初は検見(けみ)法といって作柄を役人が調査して税額を決めていた。しかし、これでは収入が不安定だし、検査に経費がかかるし、不正の温床となった。
 そこで定免(じょうめん)法という定額制に移行していった。これは、導入当初は税収の安定をもたらし、行政経費の削減にもなって領主にとっては有利だった。しかし、時間がたつと、農民は工夫して増産をしても年貢は変わらなかったので、実質的に税率の低下をもたらした。
 さらに、鎖国といえども新しい技術や作物がわずかながら導入され、独自の技術発展もあったので、さまざまな商品作物が栽培され、工業製品も考案されたので、米の年貢から上がる税収の対GDP比率はますます下がった。そこで、西日本の雄藩などは商品作物の作付け奨励や、専売制の実施といった政策で、新しい税収の確保に努めたのだが、幕府や東日本の藩は全般的に、税収確保の流れを「体制の危機」ととらえて抑制した。
 その結果、幕府は松平定信寛政の改革(1790年前後)に代表される贅沢禁止などにより、税収が増えないならGDPを減らせば租税負担率は低下しないというとんでもない政策に走った。また、貨幣改鋳は幕府にとって最大の収入増になるはずだったが、道義的に好ましくないと考えられ、実施されるのはいつも時期外れで、しかも稚拙だった。
 貿易も、鎖国当初は長崎を通じてかなりの規模で行われていた。そのころは金銀の生産が多かったので輸入が容易だったのである。しかし、鉱山開発の最新技術導入ができないまま、生産はどんどん低下し競争力も失われた。主力品だった陶磁器も明の滅亡前後の混乱による景徳鎮の衰退に乗じ
 そこで、本来であれば幕府が率先して大々的に輸出産業の振興を図らねばならない。実際、江戸中期に田沼意次が「乾隆帝バブル」の清王朝にナマコやアワビ、フカヒレなどを俵に詰めた俵物(たわらもの)を積極的に輸出して莫大な利益を得た。ところが、田沼失脚後の松平定信は、できればオランダとの貿易もやめたいくらいという貿易に後ろ向きの態度に終始して事態を悪化させた。
 当たり前のことだが、鎖国して技術交流もせず、まったく代わり映えのしない製品を国内でつくり、変わらぬ生活をしていれば、産業の国際競争力が落ちる。そうすれば、細々と行っていた貿易でも輸入品に対する国産品の格差が大きくなるのは当然だ。
 そのツケは、鎖国期も払っていたが、開国したら、長く職場を離れていた病み上がりの人が新しい仕事に適応できないのと同じことになったのである。そして、特に武器の分野では、火縄銃で最新のライフル銃と対峙(たいじ)する羽目になるほど、ひどい目にあったのである。
 先に書いたように、江戸幕府や多くの藩は、生活や経済構造をなんとか変えないようにした。しかし、新しい商品が生産されるのを完全に封じるわけにはいかないので、租税負担率が低下し、その結果、武士の生活は惨めになった。
 農民は、商品作物のおかげで豊かになることもあったが、主力作物の米に重税を課された上に米価も低迷したので苦しい生活が続いた。それに対して、町民は税金もあまり取られないため豊かになった。だから農民は逃散して都市に出たがる。実際、飢饉などによる人口低迷もあって、耕作する農民がいない田地が続出したのである。そこで、農民の移住はもちろん、旅行すら原則禁止する藩も多かった。
 こういう状態を「農奴に近い」と表現しても何もおかしくあるまい。
 一方、町民は自由だったし、武士や農民より良い生活ができた。とくに江戸はインフラもしっかりしているのでなおさらだった。時代劇に出てくる江戸の町民が幸せそうなのは、実際に豊かなわけではないが、地方の農民に比べて格段に恵まれていたのだから当たり前で、それは平壌の市民が体制を熱烈に支持しているのと同じような状態だったのである。
 また、藩が農民の逃亡を恐れて縛り付けても、江戸や大坂の周辺には、小領地が錯綜(さくそう)していたので統制のしようがなかったし、都市でアルバイトをするチャンスもあったのは事実だ。
 いずれにしても、このように、幕府や東国の各藩が財政破綻、農民の不足、武士の窮乏化に悩んでいるときに、西南雄藩では税収も人口も増え、農民も相対的に豊かになっていった。
 また、薩摩藩琉球を支配していた上に、江戸中期以降は、徳川家との縁組を強化し、ついには、11代将軍徳川家斉と13代将軍徳川家定の御台所を出すまでになり、御三家に劣らない治外法権的な地位を確立した。この地位を利用して密貿易や、大坂商人から強引な借金棒引きにも成功した。
 言ってみれば、北朝鮮と韓国の国力差が西日本と東日本でも生じたようなもので、その格差が倒幕と明治維新の伏線になったわけである。
 最後に、江戸時代の技術や教育水準について簡単に書いておく。鎖国期には独自の工夫で砂糖や綿花に代表される日本の気候に向かない産物を生産したり、ガラパゴスな技術で工業を発展させた。
 しかし、そうした製品は、開国した途端に輸入品に駆逐された。それは東西冷戦時代に、西側から揶揄(やゆ)された東ドイツの「段ボール製自動車」や、ポーランドで温室に石炭をたいて生産していたバナナと同じようなものだ。
 江戸時代のそうした工夫を褒める人もいるが、ポーランド産のバナナと同様に、鎖国というバカげた政策のあだ花に過ぎなかった。そして何より問題だったのは、軍事技術で大きな遅れを生じさせ、19世紀を迎えても火縄銃とライフル銃で列強と対峙する羽目になり、日本は危うく植民地にされかかったことである。
 「鎖国していなければ植民地にされた」などと愚かなことを言う人がいるが、17世紀のスペインやポルトガルは、インドのゴアのような貿易拠点や、フィリピンのように国家が成立していなかった地域を占領したり、金属製の武器を持たなかった南米を征服したわけで、日本のような国を植民地支配することは不可能だった。
 また、日本の教育が先進的だったというのも大嘘だ。よく言われる識字率の高さについては、日本では仮名が読み書きできるかどうかだが、中国では数千字の漢字の読み書きで判断していたのだから、そもそも比較基準が大きく違う。
 また、寺子屋の普及も藩校がでそろったのも天保年間(1830-44年)のころで、西洋では既に近代的な学校制度ができ上がっていた。しかも、藩校では算術を教えなかったので、武士たちは軍人としても官僚としても役立たずで、戦国時代の先祖の功績による「年金生活者」に過ぎなかったのである。」
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🏞117)─1─佐幕派会津と倒幕派長州は「仇敵同士」だったはウソ?〜No.476No.477No.478 

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 「幕府」や「藩」、「天皇」や「朝廷」、「幕政」「幕臣」「幕吏」「幕閣」「幕末」「討幕(倒幕)」、「何々藩」「藩主」「藩士」「藩政」「藩邸」、「天皇」「禁裏」「禁中」「天子」「主上」「帝(みかど)」「当今」などの歴用語について。
   ・   ・   ・   
 吉田松陰は、ロシアの侵略から神国日本を如何に守るかを現地で探すべく、無許可で脱藩して、宮部鼎蔵と共に奥州を旅し途中で会津を訪れていた。
 ウィキペディア
 吉田 松陰は、日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。

 しかし、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事する。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩宮部鼎蔵と山鹿素水にも学んでいる。
 嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子などを見学した。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
 嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。

 対外思想
 『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は清領だった満洲や台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピン・ロシア帝国領のカムチャツカ半島オホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかったものの、松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍したため、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。
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 会津と長州。言わずもがな禁門の変戊辰戦争の当事者であり、誰もがよく知る「仇敵同士」である。「賊軍」の汚名を着せられ、町を破壊された会津の遺恨はいまだ残る。ところが、意外にも会津松平家は当初、長州毛利家を政治の模範としていた節があったという。これは一体、どういうことなのか?
 「天皇」と「幕府」2つの呼称に隠された陰謀の歴史観
 『中村武生』
 中村武生(京都女子大非常勤講師)
 この連載で、筆者は「幕府」や「藩」、「天皇」「朝廷」などといった言葉の使用を避けている。別の言葉に言い換えてしまうと、読者はどうしても奇異に感じられるかもしれない。そこで、先学の成果に導かれながら、これらの言葉を使わない理由を述べておきたい。
 現在、一般に「幕府」といえば、「征夷大将軍」を頂く武家政権の意として使用される。しかし18世紀後半以前、「幕府」が徳川将軍の政権(政府)を示す言葉として使用された例は極めて少なかった。では、どのような語が使われていたか。
 直轄の学術機関、昌平坂学問所儒者で「寛政の三博士」の一人として知られる尾藤二洲の著書『称謂私言』(寛政12(1800)年)では、徳川将軍による政府の適切な呼称として「大朝」「府朝」「大府」「征夷府」「王府」が挙げられている。これらは全て「日本国王の政府」を意味する言葉といえる。だが、この中に「幕府」は入っていない。
 もちろん、歴史用語として、必ずしも同時代に使われた語句を使用しなくてはならない、ということはない。徳川将軍を「公方(くぼう)様」と呼ぶべきだと筆者も思ってはいない。
 しかし、「幕府」という言葉は、ある政治的意図をもって積極的に使用され、その後、本来の意図を離れて広まったものなのである。
 当時、古典研究の分野である国学が流行した結果、「天皇」の存在が強く意識されるようになっていた。「天皇」が存在するのに、どうして江戸の徳川将軍が政治の中心にあるのか、と問われるようになったのである。
 この動向を受けて、18世紀後半以後、後期水戸学者で儒者の藤田幽谷(ゆうこく)とその弟子たちが、徳川将軍の正当性を主張するために、積極的に使用し始めたのが「幕府」なのである。
 藤田幽谷の著書『正名論』には、以下のような記述がある。「幕府が皇室を尊(たっと)べば、すなわち諸侯も幕府を尊び、諸侯が幕府を尊べば、すなわち卿や大夫(公家)は諸侯を敬す。その結果、上下の関係は保たれ、世の中全てが協和す」(筆者意訳、寛政3(1791)年)。
 つまり、「徳川将軍は『天皇』から政権を任されている、だから正当なのだ」と主張するのである。この考えは「大政委任」と呼ばれる。そのため、いわば「天皇」に遠慮して、日本政府を意味する「王府」などの語を使用せず、本来「出征中の将軍の陣営」(『日本国語大辞典』)という意味であった「幕府」を用いだした。これが19世紀半ば以後、徳川家の地位を低く扱いたい者によって利用され、「幕府」の語は広まっていったといえる。
 もちろん「大政委任」は事実に反する。確かに慶長8(1603)年、徳川家康は「天皇」から征夷大将軍に任ぜられたが、それは名義上のことにすぎない。豊臣秀吉の死後、圧倒的な軍事力を背景に実力で諸侯を従えたのであって、「天皇」から政権を委ねられたわけではないのである。
 しかし、寛政年間以降は、事実を無視するかのように徳川将軍の求心力が低下しつつあった。それゆえに必要とされた名分といえる。これが明治以後、「天皇」こそ有史以来の唯一の正統な政権担当者である、という考えに支えられ、学校教育の力を借りて「幕府」という言葉が定着した。「幕府」とは、天皇中心の歴史観皇国史観)の産物といえるのである。
 この語を使用していては、17世紀から19世紀にかけて、京都と江戸の関係が大きく変化した事実を見えにくくしてしまう。そのため、「幕府」から派生した用語である、「幕政」「幕臣」「幕吏」「幕閣」「幕末」「討幕(倒幕)」なども使用を避けたほうがよいように思う。
 それでは「幕府」が不適切なら、どのような用語を使えばいいのか。東大の渡辺浩名誉教授は、当時最も一般的に使用された語として、「公儀」を提案している。「徳川公儀」である。筆者もそれに従っている。
 ちなみに「朝廷」の語も同様である。現在、「天皇」を中心とした京都の組織を「朝廷」と呼んでいるが、実は当時、徳川将軍の政府を表す言葉として使用されていた。「朝廷」は、もともと「君主が政治を行う場所」を意味したからである。
 ここに後期水戸学の代表者、藤田東湖らが嘆いた。そして京都を「朝廷」と呼ぶようになったのである。そういうわけで、「京都の『朝廷』と江戸の『幕府』」という表現は後期水戸学者たちの発想にすぎず、彼らを特に支持するわけでない現代人が使用する必要はない。
 徳川時代、「天皇」や公家たちの組織は「禁裏」や「禁中」などと呼ばれた。だから、筆者は「幕府」と「朝廷」ではなく、「公儀」と「禁裏」と言い換えたい。
 江戸時代、東京都港区にはに薩摩藩邸が置かれていた。
 当時蔵屋敷があった三菱自動車本社前には、
 江戸城無血開城の会見地の石碑がある=2018年1月
 なお、大名家の政府を指す語として使われる「藩」は、「藩屛(はんぺい)」の略語である。藩屏は一般に「被い防ぐ垣根。守りの屏(塀)」(『日本国語大辞典』)という意味である。18世紀前半、6代将軍家宣や7代将軍家継に仕え、「正徳の治」を推進した儒者新井白石の著書『藩翰譜(はんかんふ)』のように、大名(諸侯)が徳川家を守る存在として使用された場合があるが、決してこの時期から広く使われていた言葉ではなかった。
 それが19世紀になって広まったのは、徳川家を否定的にとらえる勢力によって利用されたからである。白石とは違って、将軍ではなく「天皇」を守る存在として「藩」を使用し始めたのである。
 「幕府」が「天皇」から委任されたと考えれば、大名は「天皇」の臣下を主張する限り、徳川家と対等になりえる。これで、大名は徳川家の臣下ではない、という主張が可能になる。要するに、「徳川専制体制」に異を唱える目的で使われた用語だから、これを18世紀以前の大名政府を意味する語として使用するのは適切ではない。
派生語である「何々藩」「藩主」「藩士」「藩政」「藩邸」なども同様といえる。これらの言葉については、「何々家」「何々家当主」「何々城主」「何々家臣」「何々家屋敷」と呼ぶのが適切ではないだろうか。 
 最後に「天皇」についても触れておかなければならない。ここまで便宜的に「天皇」を使用してきたが、実は18世紀末までの約850年「天皇」はいなかったのである。そこまで奇をてらう必要はないと思われるかもしれないが、そうではない。
 もともと「天皇」という称号は死後に贈られるものであって、生前に使用されることはなかった。生前には「禁裏」「禁中」「天子」「主上」「帝(みかど)」「当今」などと呼ばれた。退位後は「太上天皇上皇)」と呼ばれる場合もあるが、多くは「仙洞(せんとう)」「本院」「新院」などである。
 では、死後にはどう呼ばれていたのか。平安時代、康保4(967)年に崩御した天子成明(なりあきら)が「村上天皇」を贈られたのを最後に、「天皇」の称号は贈られなくなったのである。事情についてはわかっていない。
 「天皇」に替わって、贈られた称号が「院」である。村上天皇以後は、一部の例外を除いて、「円融院」(正暦2(991)年)「花山院」(寛弘5(1008)年)「一条院」(寛弘8(1011)年)「冷泉院」(同年)「三条院」(寛仁元(1017)年)と贈られた。繰り返しになるが、「天皇」は一切使用されなくなってしまったのである。
 それが突然復活したのは約850年後、天保11(1840)年の「光格天皇」からのことである。復活のきっかけは儒学者からの意見であった。例えば、大坂の町人学校として名高い「懐徳堂(かいとくどう)」の責任者であった中井竹山が、当時の老中、松平定信の諮問に応じて提出した『草茅危言(そうぼうきげん)』(寛政元(1789)年)に「天皇の文字が廃されたことを嘆く」と記している。
 実は、「院」という称号は、大名や裕福な庶民でも使用しているものなのである。これでは「極尊」である立場の方への称号としてふさわしくない。天子も徳川将軍も庶民も「院」で呼ばれるなら、死後は同列になってしまうからだ。そうではなく、特別な存在であることを示すために「天皇」の称号が求められたわけである。
天皇」復活が、先に述べた「大政委任」論の定着し始めた時期にあたるのは偶然ではない。もちろん、復活は禁裏が一方的に決めたことではない。徳川公儀も承認してのことである。その後も崩御した天子には相次いで「天皇」が贈られるようになって、仁孝天皇孝明天皇と続いたのである。明治維新後はさらに変化して、生前から「天皇」が使用されるようになった。
 その結果、歴代「極尊」の中に、「天皇」と「院」という両方の称号が混在することになった。これが問題視され、全員に「天皇」が贈られることになった。ただし、いったん「円融院天皇」のように、「院」に「天皇」を連ねることにしたが、語意の重複を指摘され、「院」が取り除かれることになった。それが大正14(1925)年のことである。つまり「円融天皇」「花山天皇」「一条天皇」「冷泉天皇」「三条天皇」と現在のような称号になって、まだ100年もたっていないのである。
 それでは、歴史用語として、「天皇」に替えてどのような呼称がよいのか。渡辺氏は「禁裏」を使用しておられるが、組織や建物と混同してしまうおそれがある。そこで仏教大の青山忠正教授に従い、「天子」を使用したいと思う。「天子統仁(おさひと)」という感じである。しかし、このままでは誰を示しているか、読者にはわかりにくいと思うので、(孝明天皇)と併記しながら、今後の話を進めていきたいと思う。
 【主な参考文献】
 藤田覚『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994年)
 渡辺浩『東アジアの王権と思想』(東京大学出版会、1997年)
 青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、2000年)
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🏞122)─1─江戸後期のコレラ流行が日本国を近代国家へ急速に変えた。~No.485No.486 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 イギリスのインド植民地化とアヘン戦争が世界規模のコレラ感染爆発を招いた。
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 コレラやペストなど毒性の強い疫病・伝染病が数年で世界中に蔓延した原因は、産業革命による鉄道・蒸気船を利用した交通網の整備と大量の人と物を速度を上げて運べるようになったからである。
 つまり、感染爆発は西洋型グローバル化が元凶であった。
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 孝明天皇や朝廷が、西洋人を穢れとして嫌い、開国に反対したのは疫病・伝染病を持ち込んだからである。
 江戸時代のコレラの流行は3度あった。
 1度目は文政5(1822)年。清国から琉球を経由して九州に上陸して西日本に甚大なる被害をもたらした、東海道沿いを東進したが江戸には至らなかった。
 2度目は安政5(1858)年。感染源は、ペリー艦隊の艦船ミシシッピー号の乗組員が中国で感染し、長崎に持ち込んだ。人口100万人以上の江戸の町でも大流行し、約10万人が病死したが、文献では28万人とも30万人とも記録されている。廻船(かいせん)で東北など地方にも多くの感染者と死亡者が出た。
 翌年には、感染が治まらず甚大なる被害が出た。
 3度目は文久2(1862)年。江戸時代の流行で最も多くの犠牲者が出た。
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 攘夷派による外国人殺害。
 ・安政4(1857)年 ハリス襲撃未遂事件。
 ・安政6(1859)年 ロシア海軍軍人殺害事件。
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 中国人・支那人への差別や嫌悪も、不衛生で、不潔で、疫病・伝染病をもたらすからであった。
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 飯島渉著『感染症の中国史 公衆衛生と東アジア』 中央公論新社
 第Ⅲ章 コレラマラリア・日本住血吸虫病 
 1 コレラ──19世紀の感染症
 インドからの感染
 19世紀から20世紀初期、世界各地でコレラが流行しました。コレラの原因となるのはコレラ菌で、これが消化器に入ると米のとぎ汁のような下痢が続き、脱水症状に陥ります。コレラには、アジア型とエルトール型などの種類があり、この時期流行したのは非常に致死率が高いアジア型でした。コレラ菌は食物や水を通じて経口感染するため、感染は世界各地に瞬く間に広がりました。
 中国や東アジアも例外ではなく、中国では1820年に南部の温州や寧波(ニンポー)などの沿岸部で、最初の流行が発生しています。その後、コレラは南京、山東省、北京へと北上し、1822年には全国的な流行となりました。朝鮮での最初の流行も中国と同じ1820年、日本や琉球での最初の流行は22年でした。
 これまで述べてきたように、中国には感染症の流行の記録が古くから残っています。歴代の王朝が編纂してきた正史には感染症の流行の記録がたくさんあります。また、省や府県を単位とする地方志にも感染症が流行したことが記されています。しかし、こうした記録は、そのほとんどが『大疫』あるいは『疫』などと記されるにとどまり、実際のところ、19世紀はじめに流行した感染症コレラであったかどうか確定することは困難です。けれども、症状を示す記述などとつきあわせていくと、コレラの可能性がきわめて高いと言えるのです。
 では、コレラはどこから中国や東アジアにやってきたのでしょうか。
 コレラ は、もともとインドのベンガル地方で流行していた感染症でした。1817年大規模な感染爆発が起こり、世界各地に広がります。インド洋地域では、1818年セイロン(現・スリランカ)、19年モーリシャス、20年アフリカ東海岸へと広がりました。その後、中東のペルシャメソポタミアからエジプトにも達します。そして、ロシアやヨーロッパへ、また北米やメキシコにまで広がりました。19世紀初期、インド起源のコレラは、グローバル化したのです。
 交通網の整備とグローバル化
 ベンガル地方の病気として恐れられていたとはいえ、コレラはそれまでインドの特定の地域でのみ発生する感染症でした。それがどうして突然グローバル化したのでしょうか。
 その背景には、ヨーロッパ諸国のアジア・アフリカへの積極的な進出とそれを支える交通網の整備がありました。イギリス植民地統治下のインドで進められた、その要とも言える鉄道網の整備と生態系のバランスを崩すような農業開発もコレラ の流行の背景となりました。さらには、ヒンドゥー教の巡礼がインド国内でのコレラの流行を拡大させたことも指摘されています。
 イギリス史家の見市雅俊は『コレラの世界史』のなかで、そのグローバル化の背景には、イギリスのインド支配を軸とする世界交通網の整備、言い換えれば、世界資本主義の展開があったと指摘しています。実際、この時期からヒトやモノの移動はスピード・アップし、その規模を飛躍的に大きくなりました。
 しかし、それだけでは、コレラがわずか数年のうちにインドから東南アジア、中国、朝鮮、琉球、日本へ広がり、また、アフリカ東海岸や中東へと広がった理由をうまく説明できません。
 19世紀初め、東アジアにおけるコレラの主要な発生地帯は、中国では沿海部の交易拠点や隋代に開削されてから南北を結ぶ動脈としての役割を果たしてきた大運河流域の商業都市でした。
 清朝中国は外国貿易港を広東省の広州1港に限定していました(海禁)。しかし、周辺の王朝(たとえばベトナム、朝鮮、琉球など)とのあいだでは朝貢に付随する形で盛んに交易が行われていました。また、正式な外交関係のなかった徳川時代の日本とのあいだでも、多くの中国商人が長崎を訪れることによって交易が行われていました。このように東シナ海では中国商人を中心とする商業活動が進められいました。これを東シナ海交易圏と呼びます。また、インド洋交易圏でのインド人商人の活動も盛んでした。
 19世紀初期のコレラグローバル化は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国のアジア進出とインド人や中国人の交易圏が交錯した結果として、わずか数年のうちに日本にまでコレラが広がったと考えたほうがよさそうです。
 先述したように、コレラの日本での最初の発生は1822年のことであったと考えられています。このときの感染ルートには、朝鮮半島を経由して下関一帯へ広がったとする説、つまり中国・朝鮮経由説と、オランダの長崎貿易によってジャワから広がったとするジャワ経由説の2説があります。しかし、どちらが正しいかはまだ決着をみていません。
 アヘン戦争とインド兵
 19世紀にグローバル化したコレラは、人類史のなかで最も多くの人命を奪った感染症のひとつです。感染症の流行という視角から見ると、19世紀は『コレラの世紀』という事ができます。
 中国では、1822年の全国的な流行の後、40年、58年、62年、77年にコレラが流行しています。1840年や58年は、アヘン戦争やアロー戦争(第二次アヘン戦争)など、中国とイギリスなどの外国が戦火を交えた年です。コレラの流行と戦争はたしかに関係がありました。
 アヘン戦争は、第Ⅰ章で触れたように茶や絹などの中国産品の輸入による貿易赤字に苦しんでいたイギリスが、その赤字を埋めるためにインド産アヘンを密輸したことに対して、これを禁止しようとした清朝政府とのあいだに起こった戦争です。アヘンという麻薬の密輸に端を発した戦争にはイギリス国内にも強い反対がありました。しかし、イギリス政府は開戦に踏み切り、中国南部での海戦とともに広東省などでは清朝軍とのあいだで激しい地上戦も行われました。
 あまり知られていないことですが、アヘン戦争を戦ったイギリス軍の大部分は、実際には英領インド軍で、将校はイギリス人でしたが、兵士はインド人だったのです。それはアロー戦争でのイギリス軍も同様でした。こうして英領インド軍によって、中国にコレラが持ち込まれることになったのです。
 水道の整備
 細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見されるのは1884年のことです。原因となる病原菌が発見され適切な対応をとることができるようになると、その歴史には大きな転機が訪れます。
 コレラが国家や社会に与えた影響を考えるとき、最も重要なのがコレラ対策として進められた水道事業の整備です。これはヨーロッパ諸国から進められます。ロンドンでコレラが流行したのは1832年のことです。濾過器で給水した地域に患者が少ないことがわかると、各地で大規模な都市計画とともに水道が整備されていきますが、その目的のひとつはコレラ対策でした。
 水道事業の整備には莫大な資金が必要となります。この結果、衛生事業の役割がしだいに拡大し、政府が積極的に関与する体制になっていきます。これは『国家医療』(state medicine)と呼ばれます。感染症対策、とくにコレラ対策が政府の役割を肥大化させたことは、感染症が歴史に与えたインパクトとして見逃せことのできない事実です。
 現在の日本では、蛇口をひねれば安全な水が出てくるのが当たり前になっていますが、水道の整備は日本でもコレラ対策を目的として進められたものでした。近代的な水道の整備は、横浜や神戸などの居留地から開始されます(横浜:1887年、神戸:1900年)。それはコレラ対策だったのです。
 海港検疫
 水道整備とともに、19世紀半ば以後、コレラ対策として進められたのが海港検疫です。外国から入ってくる感染症を水際で防ぐための制度です。
 ……
 検疫の政治学
 東アジアや東南アジアでのコレラの流行のなかで、中国でも1873年から上海や厦門で海港検疫が開始されました。これは、東南アジアからコレラが持ち込まれることを防ぐための措置でした。実際に海港検疫を実施したのは、開港場に設置された海関(税関)で、海港検疫には外国領事も関与していました。
 アヘン戦争後の1842年に結ばれた南京条約で、海港検疫に関する事項が明示されていたわけではありません。しかし、実際には治外法権の拡大解釈によって、外国領事が自国船舶の検疫に深く関わっていました。そのため厳格な検疫の実施は期待できませんでした。すなわち、中国側の検疫権が条約によって制限されていたのです。
 第Ⅱ章で述べたように、19世紀後半、日本(江戸幕府と明治政府)も中国と同様に検疫権を制限されていました。検疫権の回収が明治政府の悲願のひとつとなったこともすでに述べましたが、それは中国でも同様でした。
 ……
 海港検疫は、開港場ごとに実施されていました。19世紀末から20世紀初頭のペストの流行への対応のなかで、中国側も海港検疫の制度を整備してきます。しかし、1911年の辛亥革命を経て、1920年代まで、中央政府の弱体化を背景として、海港検疫には引き続き外国領事が関与し、海関が実施する体制が維持されます。中国における衛生事業の整備が、なかなか進まなかったことも要因でした。そして、このことは周辺地域に大きな影響を与えることになります。
 中国は、商人や出稼ぎ労働者、また移民を送り出すことによって、周辺地域に対して一定の勢力圏を形成していました。これは、欧米や日本の植民地統治とは異なった秩序だったと見ることができます。しかしこの結果、中国で感染症が発生すると、周辺地域への伝播の危険も高まりました。
 こうしたなか、中国人への差別的な検疫も実施されるようになります。サンフランシスコでは、19世紀末、入港する船舶への検疫と同時に中国人(女性を含む)への裸体検疫が実施されます。この措置は裁判所の判断によって撤回されましたが、検疫は各地でさまざまな問題を引き起こしました。
 ……」
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 ウィキペディア
コレラ(Cholera、虎列剌)は、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症の一つ。治療しなければ患者は数時間のうちに死亡する場合もある。
 日本におけるコレラ
 日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が日本に及んだ1822年(文政5年)のことである]。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、1858年(安政5年)から3年にわたり大流行となった。
 1858年(安政5年)における流行では九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで10万人が死亡したという文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある。1862年文久2年)には、残留していたコレラ菌により3回目の大流行が発生、56万人の患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも7万3000人〜数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が政情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い。
 1858年(安政5年)の流行は相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし、憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている。
 コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で、旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている。事実1868年(明治元年)に幕府が倒れ、明治政府が箱根関所を廃止すると、その後は2 - 3年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続く。1879年(明治12年)と1886年明治19年)には死者が10万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ。1890年(明治23年)には日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦・エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。また1895年(明治28年)には軍隊内で流行し、死者4万人を記録している。
 このような状況が改善され、患者数も1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは、1920年代になってからである。その後は、第二次世界大戦直後にアジア各地から日本軍復員兵や引揚者の帰国が始まると、彼らによって持ち込まれたコレラで、多数の死者を出した。流行期には罹患者へ危害を加えたり、流言飛語が流布するなどの混乱も見られた。

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 日本も開国して外国人を受け入れる事で、海外起源の疫病・伝染病が国内で流行して多数の犠牲者を出した。
 日本にとって、疫病・伝染病の感染爆発による大量の病死者は近代国家へ発展する為のやむをえなき犠牲であった。
 攘夷派が外国人を穢れた存在として嫌悪した理由は、疫病・伝染病が少なかった浄き日本に死の病を持ち込んで流行させたからであって、日本民族日本人でないからではなかった。
 歴史的事実として、狂信的攘夷派が外国人を殺害し始めたのはコレラの流行からである。
 孝明天皇や朝廷が、神戸を開港するのに猛反対したも、外国人が持ち込む疫病・伝染病で浄き都が穢される事に恐怖したからである。
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 現代風にいえば、「新型コロナウイルス武漢肺炎を日本に持ち込んで日本人に死をもたらした中国人・武漢人は穢れている」という事になる。
 日本民族日本人が、排他的に外国人を嫌ったのは海の外から疫病・伝染病をもたらすからであって、人種・民族による差別ではなかった。
 何故なら、日本民族日本人とは多人種・多民族が乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族だからである。
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 現代の漢族系中国共産党と100年前の征服統一王朝である満州族モンゴル族清朝は違う中国である。
 ましてや、異民族王朝の隋や唐とも漢族系中国共産党は縁も所縁もない。
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 現代日本は、明治時代の近代的水道事業がコレラ対策であった事を忘れ、国家資産・インフラ整備のグローバル化財政赤字の補塡目的で国内外の民間企業・民間資本に水権利が売り払われている。
 国家赤字は約1,100兆円で、毎年約40兆円が増えていく。
 中国資本は、日本の各地の水源もしくは河川の上流域にある山林を爆買いしている。
 媚中派親中派の日本人は、中国資本による土地購入を支援している。
 海外で活躍している中国資本には民間資本はなく、全てが中国共産党系か中国軍系である。
 現代日本人は、歴史力が乏しく、歴史を学ぼうと為ず、なぜ先人がそれを行ったかを過去の事として捨てている。
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 現代日本は、国内での海外起源の疫病・伝染病が少ない為に、経費節約から税関における検疫人員が最低限度までに減らされている。
 そして長年培ってきたの職人的現場力は後継者不足から急速に失われ、人員不足を最新鋭機器で補っている。
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