🌈7)─2─日本の「土・木の文化」。東洋の「木の文化」と西洋の「石の文化」の違い。~No.13No.14 

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 日本の「土・木の文化」とは、天皇神話の記紀神話古事記日本書紀)であり、民族宗教の産土信仰であり、八百万の神々への祈りであり、自然精霊への崇拝・祭りであった。
 三島由紀夫は、「文化防衛論」で左傾化する日本とリベラルに走る日本人の現在と未来を憂いていた。
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 日本の木の文化は、東洋の木の文化、中国・朝鮮の木の文化とは違う。
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 2024年5月23日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「木造は石造より命が長い?プロが語る建築の本質 東洋の「木の文化」と西洋の「石の文化」の違いとは?
 世界最古の木造建築である法隆寺(写真:Toshiaki Kobayashi/PIXTA
 世界最古の木造建築である法隆寺。しかし世界には、西暦607年に法隆寺が建てられるはるか前から存在するピラミッドや大聖堂などがあり、それらはすべて石造建築です。本稿では新著『教養としての西洋建築』を上梓した国際的な建築家である国広ジョージ氏が、建築を通して見える「木の文化」と「石の文化」の違いについて解説します。
■建築とは人が使う「空間」をつくること
 人類が自らの手で「シェルター」を建築するようになったのがいつなのか、僕は考古学者ではないのでわかりません。おそらく石器時代の狩猟採集民は、天然の洞窟で身を守りながら暮らしていたのでしょう。
 当然、これはまだ「建築」とは呼べません。洞窟そのものは、単なる自然の一部です。でも、それを人間がシェルターとして使い始めた時点で、そこにはのちの「建築」にとって欠かせない要素も含まれていたでしょう。
 というのも、住居としての洞窟には何らかの「中心」があったはずです。「円の中心」のような幾何学的な話をしているわけではありません。そこで暮らす人間にとって意味のある中心、とでもいえばいいでしょうか。
 たとえば火を燃やして食べ物を調理する囲炉裏のようなものがあれば、そこが「中心」です。それを家族みんなで囲み、寝起きを共にする。あるいは、洞窟の奥には一族の長老が座る場所が用意されていたかもしれません。
 これも、ある意味で「中心」でしょう。このように何らかの「中心」が生じることで、洞窟は家族の一体感やヒエラルキーといった秩序を表現する空間になったわけです。
 また、洞窟はセキュリティの面でも有効な空間でした。外敵が侵入する開口部は一方向にしかないので、同時に四方八方を見ることのできない人間にとっては、たいへん安全性の高い構造です。誰かが開口部のほうだけ警戒していれば、ほかの家族は安心して眠ることができたでしょう。
■エジプトのピラミッドは「建築」とは呼べない? 
 建築にとって、「空間」はとても重要な要素です。人間が使うための空間をどのように構成し、そこにどのような意味を持たせるか──建築家は、それを考えます。建物をつくるとは、空間をつくることにほかなりません。
 ですから、たとえ人工物ではない天然の洞窟であっても、人間にとって意味のある空間が生まれれば、それはある意味で建築に近いものと考えることができるのです。
 逆に言うと、人間の手で建造したものであっても、人間が過ごす空間のないモニュメントのようなものは、少なくとも僕は「建築」とは呼びません。具体例としては、エジプトのピラミッドがそうです。
 もちろん一般的な意味ではそれも「建築」に属するでしょうし、実際、建築史の1ページ目でピラミッドを取り上げる本も少なくありません。構造家などエンジニア系の専門家たちには、興味深い構造物ですが、でも僕だけでなく、ピラミッドに建築としての面白さを感じない建築家は多いと思います。
 エジプトのピラミッドはみっしりと石で埋め尽くされているわけではなく、内部空間が存在するそうですが、それは棺を納める場所であって、生きた人間が使う空間ではありません。
 それよりも、人間たちが暮らす空間としての意味を持っていた洞窟のほうが、建築家として興味を惹かれたりするわけです。とはいえ、たくさんの石を積み上げてつくられたエジプトのピラミッドは、素材の点では西洋建築の特徴をよく表しています。
 日本や東南アジアなど、建築において「木の文化」が主流だった地域はいくつもありますが、西洋建築はそれが始まったときから「石の文化」が長く続きました。
■自然との共生を目指し発展した「木の文化」
 では、木の文化と石の文化の違いは何でしょう。木も石も自然の産物ではありますが、建築の素材として見た場合、石のほうが耐久性が高いのは明らかです。木の建築は長くもたないので、古い時代につくられていたとしても遺跡としては残りません。
 たとえば日本の法隆寺は現存する世界最古の木造建築とされていますが、それでも建立は7世紀のことです。一方、エジプト最古のピラミッドが建てられたのは紀元前27世紀のこと。それからおよそ3300年後の法隆寺建立は、ピラミッドに比べたら「ごく最近の出来事」です。
 日本でも中国でも東南アジアでも、ピラミッドと同じ時期に何らかの木の建築は行われていたはずですが、それは残っていません。なくなった建築に使われていた木はどうなるかというと、長い時間をかけて土に還ります。
 人間はその土が育んだ木を使って、また建築をする。そのまま何千年も建築物として残る石と違い、木は自然と建築(人工物)のあいだを行ったり来たりします。つまり「木の文化」とは、自然との「共生」を指向する文化なのです。
 日本の伝統的な住居は、まさにそういうものでしょう。縁側があることで「内」と「外」が一体化しているので、外部が内部に入り込み、内部が外部に出ていくような構造になっています。そういう「空間」のあり方によって、自然との共生という価値観が表現されているわけです。
 20年おきに社殿をつくり替える伊勢神宮の「式年遷宮」も、自然との共生を図る「木の文化」ならではの習慣です。材料は新調されているので、昔のまま遺跡として残っているわけではありませんが、消え去ってもいません。
 昔から同じ技術を使って同じ姿形を保つことで、1300年前から変わらずに存在しています。このやり方が続くかぎり、その建築としての命は石造建築より長いかもしれません。
■「木」と「石」二つの文化から見える西洋と東洋の違い
 こうした「木の文化」に対して、西洋の「石の文化」は自然を人間に対する脅威と見なしています。自然という「外敵」から自分たちを守るためには、ちょっとやそっとでは壊れない頑丈な素材を使わなければなりません。
 そういう自然観の背景には、気候風土の厳しさもあるのでしょう。とくにヨーロッパ北部は冬の寒さが過酷なので、日本の縁側みたいな開放的な構造にはできません。
 城などを見ると、開口部が小さくなっています。そういったことも含めて、西洋では厳しい自然を抑え込むような構造が建築に求められました。
 西洋では、キリスト教の影響で「人間中心主義」が広がったとも指摘されます。世界の中心にいるのは人間だから、自然はその人間によって支配されなければいけない。
 そこが、人間を自然の一部と見なす東洋とは根本的に違うというわけです。そういうキリスト教的な考え方も、建築における「石の文化」から始まっていたのかもしれません。
 国広 ジョージ :建築家、国士舘⼤学名誉教授
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 日本民族は土・木の文化。
 ユダヤ民族は砂漠・石の文化。
 ラテン系民族は石の文化。
 ゲルマン系民族は木の文化。
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 ヤポネシア人は海の民であり、縄文人(日本土人)は土の民であり、弥生人は木の民である。
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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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2023-02-21
🎑73)─2─日本家屋は破壊的ノベーションと革新的リノベーションでできている。「木造都市革命」〜No.166 
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 日本の国土と木の文化 | JAPANESE FOREST
 なぜ日本は木の文化があるのでしょうか?
 南北に細長く地域によって異なる気候を持つ国土と、同じ地域でも険しい山脈の高低差による環境の変化で、日本では約700種類の樹木を見つけることができます。 そしてそれら樹木を生活に活かしてきたことで、日本独自の「木の歴史」や「木の文化」が育まれました。
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 金沢市
 「木の文化都市・金沢」の継承と創出に向けて
 「木の文化都市」を目指した金沢のまちづくりが始まります
 金沢駅鼓門
 木の文化とは豊かな緑の自然環境の中で、建築物・家具・工芸品など「木の質感」を醸し出すもの幅広く取り入れることによって形成される生活が”木の文化”です。
 金沢市では、まちなみや生活に幅広く「木」を取り入れ、「木」の優れた特性をまちづくりに生かした、持続可能な仕組みを備えるまちを目指しています。
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 一般社団法人 岡山県木材組合連合会
 人と環境と木のはなし
 日本人の歴史と木のはなし
 日本人の歴史と文化は木を利用してきた歴史と文化と言っても過言ではないでしょう。縄文時代弥生時代から古代、中世、近世、近代、そして現代に至るまで、木は様々なかたちで私たちの生活に関わってきました。生活の基盤となる住宅、生活道具、工芸品など、それぞれの時代の生活文化や生活様式を代表するものの多くが木製だったといってもいいでしょう。
 古代から木を熟知していた日本人
 日本人が、縄文時代の頃から木の種類や性質を使い分けて上手に利用していたことが、日本各地で掘り出される遺跡などから分かっています。
 例えば、木を切り倒すための石斧の柄にはヤブツバキなどの堅い木、狩りに使う弓には固くてしなるカシの木、木の器には削りやすいトチノキ、住居の材料にはカシやヒノキ、クリ、シイなどが使われていました。目的によってまさに適材適所使われていたのです。
 古代から木を熟知していた日本人
 日本人と木の文化について
 三内丸山遺跡や登呂遺跡などの古代の集落、歴史的な大型木造建築物が今でも多く残る平城京平安京の都、それ以降の城や城下町などの町づくりはまさに木材加工技術の変遷の歴史ともいえるでしょう。遺跡や歴史的な木造建築物は当時の木の文化を今に伝えています。
 また、そうした歴史の表舞台には出ない庶民生活の中の木を使う文化も、農耕具や家具などの生活道具、工芸やクラフト製品などで生かされ、さまざまな日常生活の場面でいまに伝えられています。
 大型掘立建築物 三内丸山遺跡
 青森県で大型の掘立柱建物群の三内丸山遺跡が発掘されました。当時、すでに大型の木造施設を建設し、また柱穴から発見された巨大柱は腐りにくいように火で焼き炭化処理する工夫が行われていたのです。
 大型掘立建築物 三内丸山遺跡  大型掘立建築物 三内丸山遺跡
 世界最古の木造建築物 法隆寺の五重の塔
 法隆寺は1300年の長い歴史を持ち世界最古の木造建築物です。この法隆寺を支える材はヒノキです。1993年にはユネスコによる世界文化遺産に指定されました。
 世界最古の木造建築物 法隆寺の五重の塔
 世界最大の木造建築物 東大寺大仏殿
 東大寺(世界遺産)の大仏殿は、高さ47.5m、広さは約2,900平方メートルもある広大な建物です。現代のように大型の建設機械がない時代に、直径 1m、長さ30mもの丸太の柱を84本も使っています。使われている木材の量は現代の木造住宅(90平方メートル)約860戸分にもなります。
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 一般社団法人 山口県木材協会
 木のはなし
 日本人の歴史と木のはなし
 快適な住まい 日本人の歴史と文化は木を利用してきた歴史と文化と言っても過言ではないでしょう。
 縄文時代弥生時代から古代、中世、近世、近代、そして現代に至るまで、木は様々なかたちで私たちの生活に関わってきました。
 生活の基盤となる住宅、生活道具、工芸品など、それぞれの時代の生活文化や生活様式を代表するものの多くが木製だったといってもいいでしょう。
古代から木を熟知していた日本人
 日本人が、縄文時代の頃から木の種類や性質を使い分けて上手に利用していたことが、日本各地で掘り出される遺跡などから分かっています。
 例えば、木を切り倒すための石斧の柄にはヤブツバキなどの堅い木、狩りに使う弓には固くてしなるカシの木、木の器には削りやすいトチノキ、住居の材料にはカシやヒノキ、クリ、シイなどが使われていました。目的によってまさに適材適所使われていたのです。
 日本人と木の文化について
 三内丸山遺跡や登呂遺跡などの古代の集落、歴史的な大型木造建築物が今でも多く残る平城京平安京の都、それ以降の城や城下町などの町づくりはまさに木材加工技術の変遷の歴史ともいえるでしょう。遺跡や歴史的な木造建築物は当時の木の文化を今に伝えています。
 また、そうした歴史の表舞台には出ない庶民生活の中の木を使う文化も、農耕具や家具などの生活道具、工芸やクラフト製品などで生かされ、さまざまな日常生活の場面でいまに伝えられています。
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 銘木総研 編集部
 2023.08.25
 特集
 日本人と木
 銘木総研 編集部
 日本の豊かな自然の中心にあるのは森林です。日本では、生活必需品から建築物、芸術にいたるまで樹木が重要な役割を担ってきました。また、日本人には樹木に霊性を感じる民族性があります。「日本人と木」の深い関わりに、もういちどきちんと目を向けてみること。それは、これから先の日本人の生き方を考えるヒントにもなっていくことでしょう。
 日本の樹林帯
 ※日本の国土の3分の2は森林。こちらは大まかな目安で必ずしもその地域に分布以外の樹木が生えないというわけではありません。
 目次
広葉樹から針葉樹まで 植生の多様性は世界一
木に精霊が宿るという日本人の信仰
適材を使い分けて作られた巨大木造建築
二つと同じものはない木という素材の神秘性
広葉樹から針葉樹まで 植生の多様性は世界一
 1400年前、聖徳太子により建立された最古の観音霊場である「あびこ観音」にあるクスノキ
 大阪府大阪市住吉区我孫子4-1-20
 日本は国土の約3分の2が森林です。国土に占める森林面積の割合を森林率と呼びますが、日本の森林率はフィンランドスウェーデンにつぐ世界第3位。しかも、北欧の森林がほとんど針葉樹で占められているのに対して、日本の森林は多種多彩なのが大きな特徴です。
 森林の植生は、気候、地形、高度などさまざまな要素の影響によって成り立っています。日本列島は南北に細長く、亜寒帯から冷温帯、暖温帯、亜熱帯までの気候帯があるだけでなく、海に囲まれているため湿潤多雨でもあります。さらに山が多く地形が急峻であり変化に富んでいます。そのため、日本には4種類の樹種のすべてが生育しているのです。ブナ、ケヤキ、ウメ、カキ、クリなどの落葉広葉樹、クスノキタブノキシラカシなどの常緑広葉樹、カラマツ、イチョウなどの落葉針葉樹、ヒノキ、スギ、コウヤマキなどの常緑針葉樹…。品種にして1000種を超える樹木がそれぞれの環境に適応しながら生育しており、なんと地球上に存在する樹木の約30パーセントが日本で見られるというデータもあります。
 このような植生の多様性は世界でも飛び抜けており、まさに日本は「木の国」と言っていいでしょう。恵まれた森林植生のおかげで、日本人は独特な木の生活と文化を生み出してきたのです。
 木に精霊が宿るという日本人の信仰
 来宮神社の大樟。
 静岡県熱海市
 日本人にとって身近なものだった木は、精神的な存在でもありました。日本人の祖先は、この世の中には「産霊神」がいて、この神が土地や山川草木に霊魂を与えると信じていたようです。日本の神々は樹木を依代として降臨するとも考えられていたため、特定の木を信仰対象とすることも多く、巨木を祖霊神として崇めたり、奈良県桜井市大神神社御神体三輪山であるように、山自体を神格化することもありました。このように特定の木を信仰する傾向は日本の古代に顕著です。『和名類聚抄』にも「木霊」「木魂」という語が出てきますが、木には精霊や霊魂が宿っているという意味なのです。
 樹木に対する畏敬の念は、神を「一柱」「二柱」と数えることにもよく表れています。柱は巨木と同じく神の依代であるという意味が込められているのです。とくに伊勢神宮には、柱の神秘性が強く表れています。神殿の中心には心御柱という重要な柱が立てられ、20年に一度の式年遷宮で古い社殿がすべて解体されても、この柱だけは覆屋で守られ次回の遷宮まで引き継がれます。また、出雲大社の創建神話にも太い柱が出てきますし、諏訪大社では「御柱祭」が行われるなど、いずれも巨木信仰との関係が深く、人びとが木に込めた強い精神性を読み取ることができます。
 適材を使い分けて作られた巨大木造建築
 現存する木造建築の五重塔としては世界最古の国宝法隆寺五重塔
 日本人は木の特性を最大に生かし、様々なものを作ってきた。
 日本人は、有史以前から木の材質についてかなりの知識を持ち、適材を適所に使い分けていたと考えられています。
 縄文時代の遺跡である福井県の鳥浜貝塚遺跡からはトチノキケヤキの鉢や椀、アカガシの弓、スギの丸木船などが出土。また、青森県三内丸山遺跡には、クリの巨木で建てられた巨大建築物の柱の根が残っています。直径2メートルの柱穴6個は、等間隔で正確に配置され、穴の大きさから推測される柱の高さは約20メートルにも達します。このように巨大な木造建築物をつくる技術を、当時の日本人がすでに持っていたことにも驚かされます。
 木造建築の弱点は劣化が早いことですが、その弱点を補うために考え出されたのが定期的に修理を繰り返すこと。それにより技術が受け継がれ、木造建築はますます発展しました。
 神社の場合は前述のように式年遷宮を行うことで一定期間ごとに建物を立て替え、かたちを後世に伝えてきたことがよく知られています。
 現存する世界最古の木造建築物として知られる法隆寺金堂や、唐招提寺金堂、薬師寺東塔など古い時代の建築物には、骨組み材から扉までヒノキを使いました。ヒノキは木材の中で最高レベルの耐久性と保存性を持ち、伐採後よりもむしろ100年、200年後により強度を増し、1000年間はそれほど劣化しないといわれます。しかも、法隆寺金堂の柱の径は約60センチ。現在の一般的な木造建築の柱の径が約10センチですから、その太さは圧倒的です。また、そのような太い木材が入手できたということに、当時の日本の森林の豊かさが表れています。
 二つと同じものはない木という素材の神秘性
 円空仏は木の持つ生命感を剥き出しにしたような一種荒削りな表現が特異な輝きを放つ
 木の持つ神秘的な美しさに日本人は惹かれてきたのかもしれない
日本の古典美術に目を移すと、彫刻も90パーセント以上が木材で作られています。飛鳥時代から平安時代までの仏像660体の材質を調査した小原二郎氏は、飛鳥時代の木彫仏はほぼクスノキだということを明らかにしました。たとえば、中宮寺弥勒菩薩半跏思惟像や、法隆寺百済観音像はクスノキで作られているといいます。小原氏は平安時代以降はヒノキの木彫仏が多くなったと結論しましたが、カヤという説もあるようです。いずれにしても、文化財として伝わる彫刻のほとんどが木彫というのは世界に類がなく、日本の彫刻史は木彫の歴史とも言えます。
 その理由として、木材が入手しやすかったことはもちろんですが、木という生物由来の素材が人々の創作意欲をかき立ててきたということも言えるのではないでしょうか。人の顔貌が一人一人異なるように、木もまた同じものは二つと存在しません。そのことは素材として不安定である反面、面白みや神秘性という点で芸術家を限りなく刺激してきたのではないかと思います。
 [参考文献]
 中嶋尚志『木が創った国』(八坂書房)
 海野聡『森と木と建築の日本史』(岩波書店)
 小原二郎『木の文化』(鹿島出版会)
 村田健一『伝統木造建築を読み解く』(学芸出版社)
 鈴木三男『日本人と木の文化』(八坂書房)
 本記事は、
 ~日本の名木と伝承を明日に紡ぐ~
 銘木総研の広報誌「木魂ッ子」vol.13
 にも掲載されています!
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 ユダヤ人を救ったのは、第15代応神天皇と第124代昭和天皇である。
 古代の日本民族は、天皇神話からユダヤ人達を受け入れた。
 ユダヤ系弓月国人は、忠誠を誓った帰化人であって忠誠を拒否した渡来人ではなかった。
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 日本民族は、ユダヤ帰化人と乱婚し混血して同化していった。
 縄文・弥生時代の土と木の文化であったが、弓月人移住者によって石の文化が始まった。
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 ユダヤ人達は、ペルシャサマルカンドを経由して弓月国に移り住んだ。
 弓月国は砂漠の国で、弓月人は遊牧の民であった。
 弓月人は、オアシスの道、草原の道、シルク・ロードを東へと旅をして日本に辿り着いた。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「弓月君」の意味・わかりやすい解説
 弓月君 ゆづきのきみ
 秦氏の祖といわれる伝説的な渡来人。融通王とも書く。秦の始皇帝の子孫とされる。『日本書紀』によれば,5世紀頃百済から来朝。その際に,率いてきた多くの人々が新羅によって加羅に留めおかれていると応神天皇に訴えた。そのため天皇葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を加羅に派遣,さらに 3年後に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)をつかわし,弓月君の率いてきた人々を日本へ連れ帰らせたという。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 199年 仲哀天皇の御代に弓月国王の功満王が来日した。
 当時の弓月国は、キリスト教国であった。
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 応神天皇の御代。古墳時代の日本の人口は500万人と推定されている。
 秦氏の祖先は、弓月国から日本を目指して半島に辿り着いたが新羅によって足留めされ、応神天皇に「新羅人の妨害で日本に渡れないので助けてほしい」と要請した。
 283年(西暦319年) 応神天皇は、兵を送って約2万人の弓月人を救い出して日本に受け入れた。
 弓月人は石の加工、土木、治水、建築など多くの高度な技術、高水準な世界の教養・知識、異宗教異文化の価値観を持ち込み、天皇から姓名・地位・土地を貰って日本全土に移り住み広めた。
 日本は、古代から多文化共生社会で、助けを求める外国人を救出する為に軍隊を派遣していた。
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