⚔45)─4─イエズス会は優秀な日本産火縄銃と日本人兵士を利用して中国を侵略しようとしていた。〜No.189 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
2019-04-28
⚔45)─3─中世キリスト教会と白人キリスト教徒は日本民族日本人の武勇を恐れた。〜No.188
 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群による日本宗教侵略は失敗したが、その代わりとして中国をキリスト教国にする神聖な使命に目覚めた。
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 数百人のスペイン人兵士は、南アメリカのペルーを侵略し、総人口約1,000万人のインカ帝国を滅ぼし、インディオを虐殺して少数民族として山奥へと追放し、インカを絶対神に捧げ、スペイン人男性とインディオ女性の間に産まれた混血児によるキリスト教支配地を拡大した。
 男系相続を否定し女系相続を正当と認めれば、中南米諸国はスペインではなくインカの子孫である。 
 人類の歴史において、国家占領と民族滅亡の有効手段は現代も昔も移民と混血であった。
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 2024年5月21日 MicrosoftStartニュース zakzak「内藤克彦 本当に強かった日本 欧州をしのぐ精度の鉄砲、鍛鉄で量産した戦国日本 独自の発達、イタリア商人「この国は世界で最大の武器供給国である」
 金色に輝く織田信長像=岐阜市のJR岐阜駅前
 © zakzak 提供
 種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって、鉄砲が伝えられたのは1543年である。戦国日本では直ちに、根来、堺、国友で鉄砲の量産が始まる。49年には、織田信長が500挺の鉄砲を国友に発注している。
 元来、戦(いくさ)での死傷率の高い武器は弓であった。貫通力が強く射程の長い鉄砲の登場に伴い、鉄砲が急速に普及して弓は鉄砲を補うような使われ方に変化した。
 日本製鉄砲は、刀鍛冶の技術を受け継ぎ、鍛鉄で量産されるようになる。種子島ポルトガル人から種子島時尭(ときたか)が1挺1000両で購入した鉄砲は、1614年には、1挺2・5両で輸出される(ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』中公文庫)。まさに戦国日本の工業力による量産効果と言っていいであろう。
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 戦国日本では、短期間で鉄砲は独自の発達を遂げる。
 1つは点火装置の「カラクリ」の進歩で、日本では多様なカラクリが開発され、照準器も付けられた。「当時、世界の小銃で日本の火縄銃のように多種多様で精密な照準器が付いた小銃はなかった」(日本銃砲史学会、須川薫雄氏の論文『1600年、世界最強の軍事国家だった日本』から)とされ、日本の鍛鉄鉄砲は命中精度も高かった。
 日本金属工業の新井宏氏による論文『金属を通して歴史を観る』には、「火縄銃の命中精度が当時の世界水準を大きく上回っていたことはよく知られている。(中国では)1548年に(日本から)その製法を学んだと伝えており」「中国人が知っていたヨーロッパ銃よりも性能が良かったことを意味している(抜粋)」と記されている。
 また、「文禄・慶長の役の後、李朝の採用した日本式火縄銃は性能が良かったので、清とロシアが軍事衝突を起こした1654年と58年、小銃隊の派遣を要請され、ロシア軍を敗走させる活躍をしている(同)」ともある。
 欧州のマスケット銃をしのぐ性能の日本型火縄銃により、草創期の清はロシアの侵入を防いでいたことになる。日本の鍛造鉄砲は狙撃に使えるほど命中精度が高く、100メートル程度先の狙撃が可能であった。
 日露戦争(1904~05年)時に徳川幕府の保管していた1600年代の日付の鉄砲が小銃に改造された。米国の銃専門家は「この改造銃は近代の火薬を使っても爆発しなかった。昔の日本の職人の技術は最高級の賛美に値する」と評価している(前出のペリン著『鉄砲を捨てた日本人』)。堅牢(けんろう)で多量の火薬にも耐えた。
 関ヶ原の戦い(1600年)などでは大砲が用いられた。徳川家康は大砲の重要性にも気付いていた。
 前出の新井氏の論文「金属を通して歴史を観る」によると、家康は「1611年には国友に1貫500匁玉用大砲を発注」、大阪の陣直前には「オランダから1614年に4貫目玉あるいは5貫目玉を撃てる石火矢12門、イギリスから真鍮(しんちゅう)鋳造製のカルバリン17ポンド砲(口径12・7センチ)4門を輸入」した。
 家康が国友に発注した「家康の大砲」は鍛鉄性で、小口径の割に頑強で長大な大砲のつくりとなっていた。これは、「射程が長くしかも命中精度の高い砲の極限を求めた」「輸入したイギリス製のカルバリン砲も射程は2キロあるが、狙い撃ちできるのは300メートル」「家康の大砲」は、射程でも、狙い撃ちできる距離でも、カルバリン砲の倍程度あった」(同)とのことである。
 戦国日本の鍛造銃砲は高性能で、刀剣と合わせて、「この国は世界で最大の武器供給国であると思う」とイタリア商人が記録するほどであった(ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』)。
■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長、京都大学大学院経済学研究科特任教授などを経て、現在は東北大学特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
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 5月22日 MicrosoftStartニュース zakzak「内藤克彦 本当に強かった日本 戦国大名の鉄砲隊は世界的にも抜きんでていた 大航海時代のスペインに対する日本の実力は…国王「危険冒さぬように」と勅令
 大阪城・二の丸の豊國神社に建つ豊臣秀吉銅像
 © zakzak 提供
 大航海時代のスペインなどに対し、戦国日本の実力はどの程度だったであろうか。日本で鉄砲が量産されていたが、西洋諸国に比べた動員力はどうであろうか。戦国大名の鉄砲動員力には、不明なところが多いが、以下のような断片的な記録がある。
 イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの『フロイス日本史』によれば、1584年の沖田畷(おきたなわて)の戦い(=九州の戦国大名龍造寺隆信と、有馬晴信島津家久との合戦)で、竜造寺軍は4000~5000丁のマスケット銃クラスの鉄砲隊と2門の小型砲で攻撃したとある。
 歴史研究家、鈴木眞哉氏の著書『鉄砲と日本』(ちくま学芸文庫)によると、関ヶ原の戦い(1600年)では、出陣した各大名軍の4分の1程度は銃兵で、石田三成は大砲数門を使用したとある。両軍合わせて数万の鉄砲で撃ち合いをしたことになる。
 同書によれば、大坂の陣では、伊達家の銃兵率は60%以上だった。両陣営を合わせると20万~30万の兵で、両軍で10万に及ぶほどの鉄砲が動員されたと思われる。豊臣秀吉徳川家康の時代には、天下人が動員すれば数万の銃隊が組織できただろう。
 『フロイス日本史』によると、沖田畷の戦いでは、島津・有馬側は、地面に伏せて竜造寺軍の銃撃をしのいだと記されている。小牧・長久手の戦い(1584年)では、塹壕を掘ってにらみ合いをしており、実際は近代戦に近い戦い方をしている。
 当時の欧州はというと、1587年のフランスのクトラの戦いで、アンリ4世は300人の銃隊で2700人の敵兵を打ち破って勝利を収めた(ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』中公文庫)。
 3万8000人の織田・徳川軍(鉄砲3000丁)と、1万5000人の武田勝頼軍が激突した長篠の戦い(1575年)に比べると小規模である。戦国大名の鉄砲隊は世界的にも抜きん出ていた。
 イエズス会の宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは1582年、武士の資質として、「国民は非常に勇敢で、絶えず軍事訓練をしているので、征服可能な国土ではない」とフィリピン総督に書簡を送っている。
 それでも、秀吉のバテレン追放令(1587年)の後、スペイン人宣教師のペドロ・デ・ラ・クルスは、イエズス会総長宛てに、「スペイン軍の日本派遣」を要請する手紙を送っている。
 スペイン国王は1609年、太平洋方面の総督に対し、日本軍相手に「わが軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さぬように」と勅令を送っている(ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』中公文庫)。
 実際に、日本とスペインが戦ったらどうなっただろう。
 英ジャーナリスト、フランシス・ブリンクリーの『HISTORY OF THE EMPIRE OF JAPAN』(1893年)という本には、元和年間(1615~24年)頃に、山田長政がシャム(現在のタイ)において、スペイン軍と戦い勝利したことが記述されている。
 「山田は、スペイン人の侵略軍に軍隊を率い、彼らを破った。スペイン軍の威信が最も高かった当時、この功績は称賛をもってみなされた」
 山田長政は日本人浪人部隊を組織して、スペイン正規軍部隊と戦い、退けた。アジアで完全独立を維持できたのは、日本とタイだけと言われる。絶頂期のスペインはタイに軍事侵攻しようとしたが、実は日本人部隊がタイ独立を維持したわけである。 (歴史探求家・内藤克彦)
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 5月23日 MicrosoftStartニュース zakzak「内藤克彦 本当に強かった日本 宣教師の軍事計画「日本は征服の対象として不向き」中国は容易とも 逆に利用を思索、イエズス会司祭が豊臣秀吉と面会も
 豊臣秀吉が築いた大阪(大坂)城
 © zakzak 提供
 スペインは、1521年に北米メキシコで栄えたアステカ、33年には南米ペルーにあったインカを滅ぼし、メキシコなどをスペイン副王領とすると太平洋に進出した。43年に西太平洋のレイテ島に上陸し、当時のフェリペ皇太子にちなんで周辺諸島をフィリピンと命名した。70年にはマニラを征服、メキシコ副王の総督をマニラに置き本格的な支配を行った。
 1581~1640年には、スペイン国王がポルトガル国王を兼ねており、東アジアに進出してきたポルトガルとの争いも無くなり、東アジア侵攻を考えることになる。
 フィリピン総督は、中国征服に強い意欲を持ち、スペイン国王に再三、書簡を送っている(高瀬弘一郎氏の論文『キリシタン宣教師の軍事計画』から)。
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 当時、日本でも有名なイエズス会巡察使、アレッサンドロ・ヴァリニャーノも1582年、フィリピン総督に以下のような書簡を送っている。
 「時宜と条件にかなえば、中国が陛下の支配下に入るのはかなり容易であろう」「日本布教は神の教会の中で最も重要な事業の一つであることを断言できる。国民は非常に高潔かつ有能にして、理性に良く従うからである」
 「もっとも、日本は征服事業を企てる対象としては不向きである」「国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。しかしながら、中国の征服事業を行うことには、非常に益することになろう」
 日本布教長をしていたフランシスコ・カブラル(元軍人)は84年、マカオからスペイン国王に以下の趣旨の書簡を送った。
 「中国貴族は逸楽に溺れており、一方で国民は武装を禁じられ、鍛錬されておらず臆病である。政治が過酷で国民はわれわれの統治の方がましと思えば謀反が発生しわれわれにとって利点となる」
 「この征服事業を行うには1万の軍勢と適当な規模の艦隊があれば十分。日本に駐在しているパードレ(宣教師)たちが、容易に2000~3000の日本人キリスト教徒を送ることができよう。彼らは打ち続く戦争に従軍しており、陸海の戦闘に大変勇敢な兵隊」
 フィリピン・イエズス会アロンソ・サンチェスも84年、「説教で中国人を改宗させることは不可能だ。中国で30年近くやってきた人も同じことを言う。神はこの事業をメキシコやペルーと同じ道程(征服、改宗)で完了すべき」と記した。
 87年のフィリピン総督からメキシコ副王への書簡には、キリシタン大名小西行長の兵を中国に差し向ける用意があるとの記述もある。
 85年、キリシタン大名高山右近の付き添いで、イエズス会司祭、ガスパール・コエリョが、関白、豊臣秀吉に面会した。秀吉は厚くもてなすとともに、次のような趣旨の発言をしている。
 「日本平定後、明を征伐し降伏させる志を持っており、軍船2000を作ろうと考えている。ポルトガルの大型軍艦2隻を言い値で買い取りたい。師に斡旋(あっせん)していただけるとありがたい。征服後には明にキリスト協会を建て改宗命令を出そう」(『日本西教史』より)
 秀吉の発言は、宣教師たちとキリシタン大名が事前に相談・根回しをしたのであろう。米大陸経由でフィリピンまで征服してきたスペインは、日本の征服は無理だが、日本の軍事力は利用できると考えたようだ。
■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長、京都大学大学院経済学研究科特任教授などを経て、現在は東北大学特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
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 戦国日本のメイド・イン・ジャパンは、破壊的イノベーションも革新的リノベーションが詰まっていた。
 日本は、1543年に種子島で漂着したポルトガル人から火縄銃を2挺を購入し、1600年には最新鋭鉄砲を量産する兵器生産国になり、1614年頃には日本産の鉄砲や大砲を西洋諸国に輸出していた。
 日本の刀鍛冶が生産した火縄銃は、約70年で世界の最新技術を習得し独自技術に創意工夫して世界を凌駕した。
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2018-08-01
🗡2〗─1─天皇心神話と金屋子神信仰。たたら製鉄。もの作りの原点は日本刀。古代シュメール人と製鉄。~No.2No.3No.4 @ 
2020-10-08
🗡23〗─1─江戸時代の科学技術。国友一貫斎の飛行機設計図。岡山の鳥人間・表具師幸吉。~No.71No.72No.73 
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2021-11-11
⚔5)─2・A─応仁の乱乱取りを始めた足軽。新兵器の鉄砲「三目銃」と槍。~No.24 
 応仁の乱の合戦で、明国製石火矢「三目(さんがん)銃が使用されていた。
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 日本は、経済金融の銀山、製造業の軍需産業、軍隊の武士集団、渡海の大艦隊を持った世界7大帝国の一つとされ、その実力は当時の西洋世界に匹敵していた。
 当時の日本の人口は約1,200万人で、ポルトガル王国150万人、スペイン王国900万人など西洋諸国で同等の人口を持っている国は少なかった。
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 徳川家康が長生きしていれば、家康が目指した世界戦略は成功し、日本の武装商船が世界中の港で交易していた。
 つまり、三浦按針(イギリス系帰化人)を外交顧問として、日本を開いて鎖国せず、「日の丸」を翻した大型帆船を駆って世界に飛躍していた。
 織田信長豊臣秀吉は好戦的な派兵で海外に進出しようとしたが、徳川家康は平和的な交易で諸外国との関係を築こうとした。
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 ウィキペディア
 仏郎機砲(遊就館蔵)。
 石火矢(いしびや)とは、室町時代末期に伝来した大砲の一種。元来弩の一種を指した語であったが、同様に火薬を用い、石を弾丸とする「stein buchse」の訳語としてこの名が使われた。フランキ(仏朗機・仏郎機・仏狼機)、ハラカン(破羅漢)、国崩ともいう。
 但し、江戸時代では棒火矢(ぼうびや)と呼ばれる矢状の飛翔物を大筒で発射する術が登場するにおよび、それと区別する意味で、単に球状の金属弾を打つ砲を石火矢ということが多いため、江戸時代の記録に「石火矢」とあってもフランキを指すとは限らない。
 概要
 青銅を用いた鋳造製で、砲尾に空けられた穴から直接点火して発射する。最大の特徴は砲身に火薬や弾丸を直接こめるのではなく、子砲とよばれる火薬と弾丸を装填したものが別体式になっている点で、いわばカートリッジのような構造である。これを子母砲という。これにより予め子砲を複数用意しておけば短時間で連射が可能となる。この形式はヨーロッパでは当初艦載砲として好まれた。
 融点温度が低い青銅鋳造製のため比較的製造は容易であるが、主原料の銅は鉄に比べて高価である。弱点は本体と子砲の間から発射ガスが噴出する事で、そのため前装式の砲に比べて威力が劣る事であった。後には鉄砲の製造技術を用いて鍛造される鉄製の大筒や和製大砲などの前装式に取って代わられる事になる。
 石火矢の初見は大友宗麟天正年間(4年)に南蛮人から購入した子母砲で、“国崩し”と名付けられ臼杵城の戦いでは攻め寄せた島津軍を撃退した。安土桃山時代の後期には国内で製造される様になり、文禄・慶長の役関ヶ原の戦い大坂の陣などで用いられた。因みに江戸初期までは大口径(8センチ以上)の大砲の事は全て石火矢と呼んでいた様で、国史大辞典によれば1639年、肥前国平戸で作られ、江戸幕府へ贈呈された臼砲や、1841年に高島秋帆が作った大砲が「石火矢」と称されていた。
 現存砲としては靖国神社遊就館に、口径95mm 全長2,800mmの仏郎機砲が所蔵されている。
 架空
 日本映画『もののけ姫』には石火矢衆なる集団が登場するが、彼らが用いるのは明で発明された火槍(ハンドカノンの一種)の改造品で、本項の石火矢とは異なるものの、劇中でこれをさらに改造し、後装式にした物をエボシ御前が用い、鍛造にあたった鍛冶職人から「国崩をなさる」「国崩に相応しい」と言われるシーンが登場する。ただし、作中での石火矢、火薬の威力は、実際のものと比べ過度な表現がされている。
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