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『縄文文明の環境』 安田喜憲 著 吉川弘館
「……。
国際交流と平等社会
縄文の国際交流
……。
……、しかし、1990年代に入って、こうした豊かな風土だけでは、東日本の縄文文化の発展を十分に説明できないのに気づいた。
東日本の縄文文化を発展させたもう一つの要因に、東日本が環太平洋の文明融合センターに位置していることが明らかになってきたのである。つまり東日本は環太平洋の国際交流のセンターだったのだ。
縄文人たちは活発に海に漕ぎ出し、交流をおこなっていた。日本海沿岸はもちろんのこと、東シナ海ひょっとすると太平洋にさえ漕ぎ出していた可能性が出てきた。
縄文文化を日本列島の中にだけ閉じ込めて考えることはできなくなった。縄文人はわれわれ現代人の予想をはるかにこえた国際交流を大胆に行っていたのである。
縄文文化は大胆な国際交流の上に立脚した環太平洋の文明の融合センターに花開いた、きわめて先進性の高い文化であったのである。
縄文文化の誕生と国際交流
そもそも縄文文化の誕生自体が、国際交流の産物だった。縄文文化が誕生したのは今から1万3000~1万2000年前のことである。
……は縄文文化誕生期の東アジアの森の分布と当時の文化圏を示したものである。最後の氷河時代が終りに近づいた1万3000~1万2000年前頃、日本列島にはいち早く豊かな落葉広葉樹の森が拡大した。それは、極地の氷河が融け、海面が上昇すると日本海に対馬暖流が流入し、ブナやナラなどの落葉広葉樹の森の育成に適した温暖で湿潤な海洋的気候が形成されたからである。
この頃、シベリアから北海道そして東日本にかけては、北方系細石刃文化が広がっていた。当時、人類の石器製作技術は高度に発達し、細長いカミソリの替え刃のような大きさ数ミリ~2、3センチの細石刃という石器を作り出すまでになっていた。この小さな石器を木や骨にうめこんで、槍やナイフとして使用した。……。バイカル湖周辺から東方の亜寒帯針葉樹林地帯、そして日本列島にまで南下してきたこの北方系細石刃文化は、鋭利で大小多様の石器を製作する高度な技術をもっていた。
一方、中国の江南地方からは、南方系細石刃文化が、日本列島にまで拡大していた。この南方系の文化は、カミソリのような鋭利な細石刃を作る技術はもたなかった。かわりに土器を作る技術を持っていた。
これまで縄文土器は世界最古の土器であるとみなされてきた。長崎県福井洞窟遺跡の隆起線文土器や泉福寺洞窟の豆粒文土器などである。その年代は1万3000年前である。ところが近年、中国江南の長江(揚子江)中流域から、それよりも1000年以上古い土器が発見された。その一つが、江西省万年県仙人洞遺跡である。おそらく土器は江南の暖温帯常緑広葉樹~落葉広葉樹の森の中で誕生し、それが日本列島にまで持ち込まれたと考えるのが妥当であろう。
シベリアからも縄文土器に匹敵する古い土器が発見されているが、おそらくこれは南方の落葉広葉樹林帯から持ち込まれたものであろう。
このようにすでに1万3000~1万2000年前に、バイカル湖沿岸のシベリアから、中国の江南地方までをまきこんだ、大規模な国際交流が行われていたのである。縄文文化は切れ味のするどい細石刃を作る効率的な技術をもった北方系の文化と、土器作り技術を持った南方系文化の融合の中で誕生しているのである。……。こうして、森の資源と海の資源を高度に利用する縄文文化が誕生したのである。縄文文化は、シベリアから江南地方までをまきこんだ国際交流がなければ、誕生しえなかったのである。
良渚(りょうしょ)の玉
……。
良渚の鉞(えつ)とはなにか。それは私達がここ数年間追い求めている長江文明の核心にかかわる遺物なのである。
古代文明はメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明そして黄河文明の4大文明であると高校の世界史の教科書にも書いてある。この4大文明のうち、前3者の古代文明は5500~4500年前に発展期に入っている。ところが最後の黄河文明だけは、他の3つの古代文明より1500年以上もおくれて発展期に入っているのである。なぜ黄河文明だけが1500年以上もおくれるのかが、長い間の謎であった。
ところが近年、長江の中・下流域において、稲作に生業の基盤をおいた古代文明が、5500~4000年前にすでに存在していたことが明らかとなってきたのである。黄河文明より1500年以上も古い長江文明が発見されたことによって、中国の古代文明の源流は黄河文明ではなく、長江文明ではないかとみなされるようになってきた。
長江文明の中心地の一つが、長江下流域の浙江省良渚文化である。この良渚文化は巨大な都市型遺跡とともに、おびただしい玉器を有する文化だった。
良渚文化は5300~4000年前の間発展した。……。
私は長江文明の玉器文化が、縄文文化に影響を与え、縄文のヒスイ文化を生み出したと考えている。ヒスイ文化が縄文文化の中で顕著な姿をあらわしてくるのは縄文時代前期末~中期である。その時代はまさに良渚文化を中心とする玉器文化が花開いた時代なのである。
日本で玉として選ばれたのは、新潟県糸魚川市姫川とその西の青梅川の上流を原産地とするヒスイ玉だった。……。
糸魚川産のヒスイは、東日本・北海道各地の遺跡から多数発見されている。とりわけ出土点数が多いのは北海道と青森県である。
……。
中国大陸での巨大な玉器文化を持つ古代文明から、縄文人たちが影響を受けるまでに、国際交流が進展していたとみなす必要があるのではなかろうか。
環太平洋の巨木文化
縄文時代中期の青森県三内丸山遺跡からは、方形に配列された直径80センチ以上のクリの巨木を利用した柱が発見され話題をよんでいる。こうした巨木のクリの柱は、縄文時代後期、晩期の石川県真脇遺跡やチカモリ遺跡からも発見されている。……。縄文時代の東日本にこうした巨木にたいする信仰があったことは確かである。
こうした巨木信仰の代表は、ハイダ族やトリンギッド族など北米西岸のネイティブ・アメリカン(アメリカン・インディアン)にみられるトーテム・ポールである。
トーテム・ポールには動物や奇怪な人面の彫刻がほどこされている。……。
……。
このように落葉広葉樹の森の資源と豊かな海の資源をセットにした生業を持ち、巨木信仰を持つ文化は、環太平洋北部に広く広がっており、縄文文化も一方においては、こうした北方系の文化の影響を受けていたとみなすことができる。
北と南の文明の融合センター
このように日本列島の中で、外部とあまり交流することなく、独自の文化を発展させたと考えていた縄文時代は、私達の予想をはるかにこえた国際交流を展開していたのではあるまいか。その中でも東日本は北から南下した文化と、南から北上してきた文化が出会う国際交流のセンターだったというるのではなかろうか。
本州の北端青森県三内丸山遺跡一つを例にとっても、そこから出土した遺物には、国際交流を物語るものがいくつもあった。
……。
三内丸山遺跡の遺物を見ただけでも、東日本の縄文文化が、北と南の両文化圏が重なりあう文明の融合センターに花開いた文化であることがわかる。異なった南と北からの文化の融合が情報量を増大させ、多様な生業形態と生活様式を生みだし、東日本の先進性の高い縄文文化を発展させたのである。
こうした異質の文明が融合し、新たな技術的・文化的発展をもたらすことは、20世紀後半に生きる我々現代の日本人が身を持って体験したことである。ハイテク国家日本の発展の背景には、明治以降の近代西洋文明と伝統的な東洋の日本文明の融合があったことは誰しもが認めるところである。異質な文明の融合こそが、新たな技術革新や新たな生業形態を生む契機なのである。
東日本の縄文文化の発展から、われわれ現代人が学ぶべきことの一つは、異質の文明の融合・国際交流こそが、先進技術、豊かな社会を生みだす要因であるということなのである。
縄文人は太平洋を横断した?
……。しかし最近、南太平洋のバヌアツ共和国エファテ島からは、縄文時代前・中期の円筒式土器とそっくりの土器が発見された。縄文土器を持った縄文人が南太平洋の島々にまで航海した。とても現代の常識では信じることができない話がもちあがっている。
これまで私は頭からその話を信用していなかった。南米のインカやマヤ文明を作った人々も、われわれ日本人と同じモンゴロイドである。類似した環境、類似した文化発展の段階では、人類は類似した文化を作る。国際交流がなくても、縄文人が行かなくても、縄文土器によく似た土器は、南米でも十分に誕生しうる可能性がある。
しかし、縄文人が太平洋を渡ったということを完全に否定しさるには、頭からそんなことはありえないというのではなく、やはり土器の胎土(たいど)の自然科学的分析などによって、この南太平洋の縄文土器もどきの土器が、日本から持ちこまれたものではなく現地で作られたものであることを徹底的に実証しなければならない。
……。
不思議な事であるが、環太平洋にはいくつもの共通の文化要素がみられる。あの玉器文化についても、玉へのつよいこだわりお持ったのは中国江南の良渚文化と縄文文化そして、マヤやインカの中南米の人々なのである。
カラスが神の使いだという信仰は、良渚文化から長江上流域の四川省三星堆文化まで、長江文明に広く認められる。いうまでもなくヤタガラスの信仰は日本に広く普及している。おどろいたことに、そのカラスを聖鳥とみなす信仰は、ネイティブ・アメリカのハイダ族も持っている。ハイダ族ではワタリガラスこそもっとも重要な神の使いなのである。
こうした環太平洋をめぐるいくつかの文化的共通性はなぜ形成されたのか。その謎の解明は、1997年度から出発した日中共同の長江文明の学術調査(文部省中核的拠点形成プログラム『長江文明の探求』・研究リーダー安田喜憲)で明らかにされると思うが、一つの可能性として、太平洋をわが庭の海のようにして往来した古代人の姿を思い浮かべることもまんざら絵空事ではない。
これまで我々はこうした環太平洋をめぐる古代の国際交流をまったくありえないこととして、一瞥を投げることさえなかった。しかし、国際化が進み、対岸のペルーやメキシコあるいは南太平洋の島々の古代文化を知れば知るほど、その可能性をまったく否定しさることが逆にできなくなってきた。
私は今、恐ろしい妄想にとりつかれている。ひょっとすると縄文人の方が、現代の日本の考古学者よりもはるかに国際的ではなかったのか。われわれはその縄文人の国際交流の後を必死でおいかけているにすぎないのではないかと。」
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縄文人と巨木文化。
人と自然
生物多様性、国立公園・世界遺産、巨樹巨木、自然の中での余暇と癒し、文化多様性などに関するわかりやすい解説、随想、研究活動紹介など by高橋進@共栄大学
巨木文化と巨石文化 -巨樹信仰の深淵 [巨樹・巨木]
先月訪問した三内丸山遺跡での六本柱建物は、私に巨樹信仰を想起させた(「縄文の巨樹に思いを馳せて -第25回巨木フォーラムと三内丸山遺跡」)。そしたら、偶然、先日読み終えた建築学者 藤森照信さんの『人類と建築の歴史』(ちくまプリマー新書)には、古代人の単に巨樹への信仰だけではなく、太陽信仰との関連があると記述されていた。
s-三内丸山遺跡DSC01048.jpg藤森さんによると、日本の八百万の神々をはじめ、世界中にあるアニミズムは、旧石器時代の農耕と結びついた地母神信仰の所産であるという。
その後の新石器時代になると、環状列石(ストーン・サークル)、立石(スタンディング・ストーン)、巨石墳墓(ドルメン)などの巨石文化が世界各地に出現した。これらの巨石文化は、太陽神信仰と結びついているという。巨石建造物、そびえ立つ柱は、太陽に向けて作られ、絶対性、唯一性を表現すべく、巨大で太陽にとどくほど高くなったという。
s-ニューグレンジCIMG1259.jpgそういえば、以前訪れたアイルランドの巨石の世界遺産、ニューグレンでも内部に入ると、ガイドが電灯で冬至の日の出の光が墓室の最奥部にまで差し込むことを説明していた。マチュピチュ遺跡の太陽の神殿でも、夏至と冬至の日にだけ太陽光が射しこむように窓が作られていた。この類の太陽信仰と関連するものは、世界中にある。
s-太陽の神殿DSC00610.jpgところで、この前の三内丸山遺跡のブログでは、縄文の巨樹と建物との関連は知らないと言いながら、吉野ヶ里遺跡、出雲大社、伊勢神宮などの巨柱の建物や諏訪大社の御柱祭に触れた(「諏訪の御柱祭と巨樹信仰」)。私は、巨木文化や巨樹信仰は、あの悠久の時を経てきた異形の姿、雄大さに、畏敬の念をもつことから始まったものだと思っていた。
これについても、藤森さんは明快だ。つまり、巨柱や巨石のスタンディング・ストーンは、太陽信仰に基づく、魂の天への発射台だという。自然の樹や岩に神が寄りつく“依代”(よりしろ)や“磐座”(いわくら)という地母神的な水平なものではなく、天に向かう垂直のものだそうだ。そして、この巨柱(立柱)にカバーとしての神殿が作られたのが、出雲大社や伊勢神宮だという(詳細は、藤森さんの著書をお読みください)。
s-インドネシア柱登りCIMG0480_2.jpg創建当初は40メートル近い高さといわれる出雲大社も、少しでも太陽に近づきたいという願望の表れと考えれば納得もいく。日本の門松やキリスト教のクリスマスツリーも、元をたどれば巨樹信仰につながることをきいたことがある。研究調査で訪問するインドネシアでは、独立記念日などに巨柱の上に贈り物を吊り下げ、若者がそれを登って手にするイベントがある。これもルーツは巨柱・巨木信仰なのだろうか。
書物全体の3分の2ほどが、巨木文化と巨石文化に割かれている藤森さんの『人類と建築の歴史』。書名からは想像だにできなかったが、さすが「路上観察学会」まで立ち上げた幅広い見識からの建築史は、巨木文化と巨石文化にまで溯らざるを得なかったのだろう。
s-オークCIMG0116.jpg洋の東西で、巨木文化と巨石文化はつながっている。そして、日本の縄文のクリに相当する西欧のオーク(ナラ、カシ)もドングリの木だ。ウィリアム・ブライアント・ローガン『ドングリと文明 -偉大な木が創った1万5000年の人類史』(日経BP社)や佐々木高明『日本文化の基層を探る -ナラ林文化と照葉樹林文化』(NHKブックス)も、文化と巨樹に関心のある人には一読の価値があるだろう。
今回の読書は、図書館の廃棄本を手にしただけだったが、思いがけないところで「巨樹・巨木」に巡り会った。そして、何となく得した気分になった読後だった。これだから人生は楽しい。
(写真右上) 三内丸山遺跡の六本柱掘立建物(復元)
(写真左上) 巨石文化のひとつ 世界遺産ニューグレン(アイルランド)
(写真右中) 太陽の神殿(世界遺産マチュピチュ遺跡・ペルー)
(写真左下) 巨柱のイベント(インドネシア・ロンボック島にて)
(写真右下) オークの巨木(ドイツ・ヴィルム島にて)
(関連ブログ記事)
「縄文の巨樹に思いを馳せて -第25回巨木フォーラムと三内丸山遺跡」
「諏訪の御柱祭と巨樹信仰」
「一番人気の世界遺産 空中都市 マチュピチュ」
「アラン諸島の旅」
「バルト海の小島でワークショップ」
タグ:巨樹巨木 自然保護 文化多様性
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2022年9月14日 YAHOO!JAPANニュース サライ.jp「なぜ作られたのか? アメリカ先住民の謎多き「トーテムポール」の世界
クマやワタリガラスなど先住民の伝説が描かれたトーテムボール(アラスカ州シトカ)
文・写真/大野絵里佳(海外書き人クラブ/アメリカ・アラスカ在住ライター)
校庭や公園などで見かけることがあるトーテムポール。様々な動物が積み重なるその個性的な姿が印象には残っているものの、元来の意味や歴史を知る機会は少ないのではないだろうか。
写真はこちらから→なぜ作られたのか? アメリカ先住民の謎多き「トーテムポール」の世界
ここでは、アラスカからカナダに跨る北西沿岸先住民の築いたトーテムポールの世界についてご紹介したい。
謎多きトーテムポールの起源と辿った歴史
トーテムポールはアメリカ北西沿岸先住民が建てた大型の彫刻柱だ。この文化は、トリンギット族(Tlingit)、ハイダ族(Haida)に代表されるアメリカ及びカナダの北西沿岸先住民によって築かれ、その文化圏は東南アラスカからカナダのブリティッシュ・コロンビア州、さらに南のワシントン州までの沿岸に及ぶ。世界有数の温帯雨林として知られるこの地域では、巨木が茂る森とそれによって育まれた豊饒の海に囲まれ、古くから人々が豊かな生活を送ってきた。トーテムポールはそんな彼らの文化を今に伝える歴史的な遺物としての役割も担っている。
“歴史的な遺物”として扱われるトーテムポールだが、その起源は未だ謎が多い。それというのも主にレッド・シダーの巨木を使って製作されるが、多雨地域の屋外に建てられるという条件から、長くても100年前後の寿命であり、そもそもトーテムポールを建てる目的は、建てることそのものにあり、保存・維持は予定されておらず、むしろ朽ちて土に還ることを目的としているものさえあるからだ。現在見られるトーテムポールのほとんどは、博物館に収蔵されているもの、または現代に製作されたものがほとんどで、古いものでも19世紀後半から20世紀前半に作られたものである。
最古の記録としては、1778年3月のイギリス海軍のジェームズ・クック船長のものが挙げられ、そこにはバンクーバー島(カナダのブリティッシュ・コロンビア州)の先住民の住居の中に大きな彫刻柱があった、とあり、これは家屋の中に建てられる「家柱(かちゅう)」として分類されるトーテムポールだと考えられている。
いつ、どこで製作されるようになったのかは不明だが、最盛期は1830~1860年代と考えられている。これは先住民がヨーロッパ人と行った交易による要因が大きいとされ、主な交易品だったラッコの減少と天然痘による人口減少が要因となり衰退していく。そして、追い打ちをかけたのが1880年代から始まった同化及びキリスト教化政策だ。伝統的な儀礼が禁止され、先住民独自の文化と社会形成が衰退していくなか、トーテムポールの文化もその例外ではなかった。
トーテムポールが再び製作されるようになるのは、1950年代になって先住民の伝統文化の復興活動が始まってからになる。
なぜトーテムポールは作られたのか
トーテムポールの建立には様々な目的がある。民族によって一様ではないものの、伝統的なトーテムポールは個人の出生や、記録すべき行事・事件などが題材となっている。一方、一族の歴史を記録する役割もある。トーテムポールの文化を持つ先住民社会にはクラン(Clan)と呼ばれる氏族制度があり、ワタリガラスやハクトウワシ、クマなどといった一族を象徴する生き物を持つ。祖先は動物の化身であった、という伝説からそれぞれのクランを代表する生き物を彫ることで一族の出自を伝えてきたのだ。また、トーテムポールは富の象徴でもあった。作ること自体に財力が必要であるし、建立の際は大規模な伝統行事で多くの招待客をもてなさなければいけないからだ。
このように、文字をもたなかった北西沿岸先住民にとって、トーテムポールは彼らの歴史を後世に伝えていく大切なツールだったと考えられている。
墓標やはずかしめの役割も。トーテムポールの種類とは
地域や民族によって異なるので、全ての分類があてはまるわけではないが、多くが家屋に付随する柱(付属柱)と屋外に建てる柱(独立柱)の2種類に大別される。
◆付属柱
1.家柱…屋根を支える大黒柱のような役割
2.家屋柱…家の正面の壁と一体となっているポール
◆独立柱
1.記念柱…氏族長等が亡くなった時や大きな事件や出来事などを記念するポール
2.墓標柱…氏族長等が亡くなった時に建てる墓石のような役割
3.墓棺柱…墓標と棺を兼ねているポール
4.はずかしめのポール…個人や集団に宛て、請求する役割
5.領域柱…漁業権や採集権を主張するポール
6.歓迎者柱…行事の際に招待客を歓迎する意を表す
個性豊かなトーテムポール
ここで筆者が出会った個性的なトーテムポールをご紹介したい。
民族ごとに異なる意匠が施されるトーテムポールだが、ハイダ族のものにのみ見られるのが帽子をかぶった“ウォッチマン”と呼ばれる小さな人間だ。家屋柱として設置され、村や家に危険が迫った時に頂上のウォッチマンが知らせてくれると考えられた。写真は1人のみだが、なかには複数のウォッチマンが置かれるトーテムポールもあるという。
先住民と白人との文化の相違が見られるトーテムポールがある。1869年、リンカーン大統領時の国務長官であったシーウォードが、ロシアより買収しアメリカ領になったばかりのアラスカを訪問。先住民は最大限の敬意を持ってもてなしたが、それに対する返礼がなく、そのことを人々に忘れさせないために建てた、と伝えられている。先住民社会では、歓待に対する返礼は当たり前で白人はそのことを理解していなかったのだ。
アラスカを舞台に、多くの写真と文章を残した星野道夫氏の記念トーテムポール。2008年に建てられ、上からグレイシャーベア、クジラ、カリブー、ワタリガラス、一番下にカメラを持った星野氏が彫られている。
トーテムポールの未来
先述したとおり、製作当時の姿を残す歴史的価値のあるトーテムポールの多くは博物館に所蔵されているもので、屋外に置かれているものの多くは複製だ。世界遺産に登録されているスカン・グワイ(カナダ・ハイダグワイ、旧名:クイーンシャーロット諸島)が、唯一、当時のまま残された“朽ちてゆく”ハイダ族のトーテムポールを見ることができる場所となっている。朽ちて土に還るという本来の目的と、博物館で保管し伝統文化を守るという目的。後世に生きる者としては、なるべく多くのトーテムポールが見たいものだが、製作当事者にとって矛盾とも言える課題を抱えているのかもしれない。
一方、現代におけるトーテムポール製作において、先住民コミュニティで新たな作り手の育成が行われてきた。製作目的として、亡くなった家族を記念するもの、公共施設の開館時、友好都市への贈呈、博物館・美術館の依頼等があり、様々なトーテムポールを生み出している。民族アイデンティティを象徴するものとしてだけでなく、芸術作品としての評価も高く、トーテムポール以外の彫刻作品を生み出し、現代社会とより密接した存在となっている。
文・写真/大野絵里佳(海外書き人クラブ/アメリカ・アラスカ在住ライター)2019年よりアメリカ・アラスカ州在住。猫と犬と一緒に、のんきでワイルドな日々を過ごしています。海外書き人クラブ会員
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