🌏37)─1─日本の哲学がギリシア哲学、フランス哲学に負けていない。~No.109 

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 日本哲学日本民族の独自の哲学であって、中国哲学や朝鮮哲学とは全然違う。
 日本には、哲学や思想はあるがイデオロギーはない。
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 2024年1月25日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「西田幾多郎田辺元三木清…日本の哲学がギリシア哲学、フランス哲学に負けていない「意外な理由」
 哲学という言葉でどのような印象が浮かぶだろうか。どこか難解で、複雑な思考を要するものという印象を持つ方が多いように思う。
 近年では哲学や文学のような人文学の分野よりも、法学や経営学に代表される実学を重要視する考えが広くみられるようになった。
 しかし、哲学は古代から連綿とつながれてきた先人たちの知恵が詰まった学問である。
 実学が重要視されるこの時代に、哲学を学ぶ意義を再認識しよう。
  (※本記事は『日本哲学入門』から抜粋・編集したものです。)
 西田幾多郎田辺元三木清九鬼周造和辻哲郎…そもそも日本の哲学を学ぶ意義はいったいどこにあるのだろうか。それを知ることで何を得ることができるのであろうか。そのような疑問を抱く人もいるかもしれない。
 簡単に答えることのできない難しい問題である。その点について考えるために、かつて私が日本哲学史の講義をしていたときに、一人の学生から受けた質問を手がかりにしたい。その学生は、哲学は普遍的な真理をめざすものであり、それに「日本の」という形容詞を付するのは適切なのだろうかという質問をした。もっともな質問であると思う。
 確かに哲学は、その成立以来、普遍的な原理の探究をめざしてきた。しかし普遍的な原理の探究であることは、ただちに使用される言語の制約から自由であるということを意味しない。私たちの思索は、私たちの文化・伝承の枠のなかでなされるのであり、一つ一つのことばのズレ、その集積としてのものの見方や文化そのものの差異が、「真なる知」を問う問い方、答えの求め方に影響を及ぼさないとは、とうてい考えられない。
 ギリシアの哲学と、それを受け継ぐヨーロッパの哲学こそが唯一の哲学であるという考え方もあるが、私はギリシアの哲学もフランスの哲学もドイツの哲学も、それぞれの言語を用いてそれぞれの文化・伝承の枠のなかでなされる営みであり、その制約から自由ではないと考えている。
 どのような問題について論じるのであれ、それぞれの長い歴史のなかで形作られてきた自然や神、人間や歴史をめぐる理解を踏まえて答が探究されていくのであり、そうした前提からまったく離れた──言わば無菌の──時空間のなかで思索がなされるわけではない。
 私たちの知は私たちがものを見る視点の影響をつねに受ける。言いかえれば、私たちがものを見るとき、つねにその視点からは見えないもの、あるいはその視点設定のゆえに覆い隠されるものが生まれる。そのとき重要なのは、異なった見方を否定したり、排除したりすることではなく、それと対話することである。
 日本の哲学はその対話に大きな寄与をすることができる。伝統を背負いながら、自ら主体的に思索するからこそ、他の文化・伝統のなかで成立した哲学と対話することができるし、哲学のより豊かな発展の可能性を見いだしていくことができる。
哲学とは私たちのものの見方や考え方に対する反省であると言うことができる。私たちがどのように物事をとらえ、どのように感じ、どのように考え、どのように行為しようとしてきたのか、あるいはしようとしているのかを知る営みである。日本の哲学者たちの思索はこの営みの軌跡である。
 それは、いまを生きる私たちにとって無縁のことではなく、深い関わりをもっている。日本の哲学者たちの営みから私たちは私たちがどのように生きてきたのかを知る手がかりを得ることができるであろうし、それはまた、私たちがどのように考え、どのように行為すればよいかを考えるためのさまざまな示唆を与えてくれる。
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