⚔29)─3─江戸の庶民に人気があったのは「主君殺し」の明智光秀であった。〜No.112No.113 

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 2023年7月22日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「本能寺の変」謀反人の明智光秀は、じつは庶民の人気者だった!…人気歴史学者が史料から読み解く「意外な二面性」とは?
 呉座 勇一
 いよいよ本能寺の変に突入するNHK大河ドラマ『どうする家康』。俳優の酒向芳(さこうよし)さんが、陰険な謀反人・明智光秀を好演し、話題を集めている。
 今では嫌われ者のイメージの強い明智光秀だが、昔はどのような評判だったのだろうか。人気歴史学者・呉座勇一さんの著書『武士とは何か』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けしよう。
 人物像がよくわからない「謎の武将」
 主君の織田信長を急襲した本能寺の変で知られる明智光秀は、抜群の知名度の割に、出自を含め人物像がよく分からない謎の武将である。光秀の人となりを語る史料の多くは、本能寺の変後に作成されたものであるため、謀反人光秀への偏見が強い。
 『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)ウィキメディア・コモンズより
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 江戸時代中期の正徳3年(1713)に刊行された『老人雑話』という本がある。永禄8年(1565)生まれ、寛文4年(1664)に没した江村専斎(えむらせんさい)という医者が語った内容を、専斎の弟子の伊藤坦庵(たんあん)が編集整理した聞書集である。
 江村専斎は京都出身で、医術を秦宗巴(はたそうは)に学んだ。加藤清正、後に美作(みまさか)津山藩主の森忠政に仕えた。和歌にも堪能で細川幽斎(ゆうさい)、木下長嘯子(ちょうしょうし)らと交友した。百歳の長寿を保ち、長寿の秘訣を後水尾上皇に語って鳩杖(きゅうじょう)を下賜された。
 『老人雑話』の内容は、室町時代から江戸時代に至るまでの合戦や武将の逸話をはじめ、京都の地理、学問・文芸、医事、さらには能・茶などの諸芸能に至るまで多岐にわたっている。専斎の生きた時代、特に豊臣秀吉が天下人であった天正期の逸話の数々は非常に興味深い。
 その中に「明智日向守(光秀)が云く、仏のうそをば方便と云い、武士のうそをば武略と云う。土民百姓はかわゆきこと也と。名言也」という一節がある。どのような文脈での発言なのか、この本は説明していないので意味がとりにくいが、百姓のたわいないうそをとがめるべきではないという趣旨の発言だろう。
 仏教では、人々を教え導く際、最初は難解な真理を説かずに、仮の教えを説くことがある。これを「方便」と言い、意地悪く見れば、一時的にうそをつくことを正当化している。武士も敵をだまして勝利を得ることを「武略」と称して正当化している。だから百姓が年貢などをごまかそうとしたとしても、あまり目くじら立てるな、という逸話と思われる。
 ただ、本当に光秀がこのような発言をしたかは疑わしい。
 笑い飛ばした「謀反の噂」
 他にも『老人雑話』は、光秀が丹波山国(現在の京都市右京区)に城を築いて周山(しゅうざん)城と名付けたという話を紹介しており、これは謀反の気持ちの表れであると主張している。
 すなわち同書は、「明智、亀山の北愛宕山(あたごやま)の続きたる山に城郭を構う。この山を周山と号す。自らを周の武王に比し信長を殷紂(いんちゅう)に比す。これ謀叛の宿志なり…(中略)…或る時筑前守、明智に云う様は、わぬしは周山に夜普請して、謀反を企つと人皆云う、如何と。明智答えて云う。やくたいも無きことを云うやとて笑いて止みにけりとぞ」と記す。
 明智光秀は城を築いて周山城と名づけたという。これは自らを周の武王、信長を殷の紂王(ちゅうおう、武王に討たれた暴君)になぞらえ、謀反の意思を込めたものであった。秀吉は光秀に謀反の噂について尋ねたが、光秀は笑い飛ばした、というのだ。
 歴史学者の高柳光寿(みつとし)は『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)で、周山というのは古くからある地名で光秀が付けたものではないので、作り話であると指摘した。「武士のうそは武略」という話も、光秀が主君信長をだまし討ちしたという事実から逆算して創作されたのだろう。
 光秀の二面性
 一方で、戦国時代に生まれた専斎が、武士のだまし討ちに対して嫌悪感を抱いていない事実は興味深い。新渡戸稲造『武士道』などの影響で、武士というと正々堂々、卑怯なことはしない、というイメージがあるが、そういう武士像は、戦争が完全になくなった寛文年間(1661〜1673)以降に形成されたものである。
 平和な時代には、武勇よりも統治者としての高い倫理観の方が重要なので、道徳教育が行われた。たとえば江戸時代初期の名君として知られる岡山藩主の池田光政儒教を信奉し、全国初の藩校を建設して藩士教育に力を入れた。
 明智光秀(本徳寺所蔵)ウィキメディア・コモンズより
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 しかし戦乱の時代には、勝つために手段を選んでいられない。まさに「うそは武略」なのである。実際、拙著『戦国武将、虚像と実像』(角川新書、2022年)でも明らかにしたように、同時代人は光秀が天下取りの野望のために謀反を起こしたと考えていた。紹介した『老人雑話』のせりふは、戦国時代の価値観が江戸時代になっても残っていたことを示している。
 さて、このせりふは、江戸時代に「光秀は領民に優しい名君」というイメージが存在したことも示唆する。かつて光秀が治めた地域である京都府福知山市には、光秀が税を免除したり堤防(「明智藪」)を築いたりといった善政を敷いたという伝承が残っており、光秀は御霊として祀られている(福知山市地域振興部文化・スポーツ振興課『福知山の治水とまちづくり』2019年)。
 元禄13年(1700)に福知山で大火が起こると、光秀の怨霊によるものと噂され、宝永2年(1705)には宇賀御霊(うがのみたま)神を祀っていた祠に光秀の霊を合祀したという(「御霊神社文書」)。この光秀を祀る御霊神社は現代まで存続している。元文2年(1737)には、福知山藩主の朽木(くつき)氏が光秀の霊を慰める御霊会(ごりょうえ)の執行を許可した。現在、福知山では、この御霊会の伝統を受け継ぎ、毎年10月に御霊祭りを開催している。
 謀反人として武士から非難される一方で、庶民から慕われた二面性。それが光秀の魅力なのかもしれない。
 なお、現在放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、織田信長のそばに控える美少年に目が留まった人も多いだろう。俳優の大西利空さんが演じる「森乱」である……と言ってもピンと来ないかもしれないが、「森蘭丸」と言えば多くの人がわかるはずだ。
 なぜNHKのキャスト紹介では「森蘭丸」ではなく「森乱」と書かれているのか。
 後編記事『信長が寵愛した「森蘭丸」は本当に実在したのか?美少年説は真実なのか…?人気歴史学者が徹底考察』では、「森蘭丸をめぐる謎」について論考を重ねていきます。
 「本能寺の変」謀反人の明智光秀は、じつは庶民の人気者だった!…人気歴史学者が史料から読み解く「意外な二面性」とは?
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 徳川幕府が最も怖れた戦国武将は、主君殺しの明智光秀であった。
 豊臣秀吉は、「人誑しの名人」として危険な戦国大名を許して政権中枢に引き込んでいた。
 徳川幕府は、反乱を起こし日本を戦国の世に引き戻す怖れのある危険な有力大名は難癖を付けて改易、取り潰し、お家を断絶させた。
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 武士にとっての神様は徳川家康である。
 商人の神様は豊臣秀吉である。
 変革を志す者の神様は織田信長である。
 庶民の神様は明智光秀である。
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