⛪265)─3・A─本能寺の変は、明智光秀の筋目正しい皇統を守ろうとした義挙であった。〜No.534/  *    

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 現代日本人と昔の日本人は別人のような日本人で、昔の日本人を見るように現代の日本人を見るととんでもない事になる。
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 明智光秀織田信長殺害は、蘇我馬子朝鮮半島系渡来人を使った崇峻天皇殺害、赤松満祐の足利義教殺害、三好三人衆足利義輝殺害、陶晴賢による大内義隆殺害などの主殺し弑逆(しいぎゃく・しぎゃく)裏切りとは違う。
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 中国の歴史とは、徳を失った皇帝・天子を殺す(放伐)、臣下が主君を殺す、身分の下の者が上の者を殺す、親が子を殺す、が親を殺す、兄弟姉妹が殺し合う、裏切りや弑逆が正当化される下剋上の歴史である。

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 日本の歴史には、中国や朝鮮とは違って、裏切りや弑逆などの下剋上はあったが易姓革命はなく、皇室の血が繋がらない赤の他人が天皇・皇族を殺し現皇室を滅ぼし自分が天皇に即位し新たな皇室をつくろうという「放伐」はなかった。

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 共産主義マルクス主義)は、中華儒教キリスト教同様に世にも恐ろしい放伐思想を秘め、天皇と皇族を殺し、皇室と宮中祭祀を消滅させ、天皇制度と祖霊祭祀を廃絶しようとしていた。

 共産主義は、死体の山を築き、血の湖をつくる、世にも恐ろしい思想であった。
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 昔も現代も、天皇の宗教に対するイデオロギーのテロは絶える事なく続いている。
 それが、皇室に対する政教分離の原則である。 

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 2019年4月号 正論「今だから考える!天皇を守った〝英雄〟たち
 明智光秀本能寺の変』は義挙だった。  宮崎正弘
 歴史解釈の陥穽(かんせい)
 隠蔽された真実
 明智光秀は尊皇の武将だった。
 歴史は合理主義では合点がいかない神秘性を伴う特性があるが、現代日本人は気がつかない裡に戦後の怪しい歴史観に汚染され、洗脳されてしまった感がある。いやもっと正確に言えば、明智光秀に『主殺し』という汚名を被せ、秀吉がなした歴史改竄の誤繆(ごびゅう)に気がつかず、妄説から目覚めていないのである。
 現代日本人は進歩主義歴史観に洗脳されてしまったばかりではない。マルクス主義の階級史観や左翼の進歩主義歴史観の悪影響もさりながらもっと基本的な歴史解釈の誤りに基づいている。その典型が明智光秀への誤断であろう。
 世の中を蔽った、戦後の面妖な歴史観が基本的に間違いであることは言を俟(ま)たない。たしかにマルクス主義進歩史観の悪戯も大きいし、GHQの『太平洋戦争史観』『東京裁判史観』の呪縛からもいまだに抜け出せないでいる。
 しかし、もうひとつ大事なことは現代日本人の学識の劣化、知性の頽廃(たいはい)。そして合理主義による歴史の裁断である。歴史をドライに合理主義で解釈することがそもそも誤謬である。歴史はロゴスで表現するものではない。歴史はパトスで動くのだ。
 したがって、日本人は長きにわたって、明智光秀本能寺の変を『謀反』と決めつけ、『主殺し』の汚名を着せた秀吉の政治宣伝と、周囲の秀吉追随派によるその拡散、徳川幕府の追認を、さしたる反省や熟考もなく、長きにわたって受け入れてきた。
 戦国時代は下克上であり、しゅころしが悪いとか、裏切りはよくないなどという認識は稀薄だった。朱子学的秩序が重視されるのは安定期に入った徳川時代からである。織田信長も世にあっては秩序を乱すことは常識でさえあった。松永も三好も、誰もが反乱、天下取りを考えていた。同盟者への裏切りは日常茶飯であり、往事の京は応仁の乱で荒れ果てて婆娑羅大名が跋扈し、人心は荒廃していた。なにしろ室町幕府第13代将軍足利義輝は暗殺されたのである。
 現代の感覚で、外国人観光客に溢れる、整然と基盤の目のように美しい京都を連想してはならない。往事の京は荒涼たる盆地に裏寂れた小屋がぽつんと並ぶ鄙(にな)びた場所、御所すら雑草が生え、天皇家も公家は生活に困窮していた。となれば明智光秀の『本能寺の変』の真実が奈辺にるかを求める真摯な探究が必要となる。
 それにしても日本の歴史学界の知的貧困たるや目を蔽うばかりだ。
 昨今の歴史論壇も光秀の背景に黒幕がいたという根拠の薄い『陰謀論』が流行している。しっかりした歴史学者不在の証拠でもある。
 古くは『ユダヤ陰謀論』があり、近年は『イエズス会の陰謀』まで登場しているから、読書人の多くが実はこうした陰謀論の類いが好きなのかもしれない。しかし多くが真実を見ようとしないで自己の説に都合の良い事柄をつなぎ合わせて、一方的な想像と妄想で組み立てた論理破綻組が多い。小説ならそれでも良いが、史論は第一次資料の重要性を忘れてはなるまい。
 従来の光秀論で主流を占めたのは『野望』説と『怨念』説だった。これらの間違いはいまの歴史論壇で明瞭になっている。『野望』説と『怨念』説。前者は高柳光壽、後者は桑田忠親錚々たる歴史学の泰斗(たいと)が唱えた。諸説がこんがらがった糸を解きほぐしたのは徳富蘇峰だった。
 呉座勇一『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)はまずこの三つを丁寧に反駁(はんばく)し、否定している。明智光秀の野心を証拠立てるものがなく高柳光壽は結局、光秀が本能寺の変の直前に京都愛宕山で行った連歌会での『愛宕百韻』がそれだとした。
 『ときはいま、天がしもしる五月かな』の読み違いから生じているのだが、愛宕百韻は実際には99の句がならび、後述するように、野心の表明というより、まるで明智光秀の義挙への決起集会のような句が並んでいる。死地へむかう光秀を勇壮に送り出しているかのような連歌会である。『天がしもしる』の根本のコトバは『古事記』にある歴代天皇の『天が下治らしめしき』だ。
 そこで筆者は老骨に鞭打って、愛宕山(海抜924メートル)に登っていた。光秀の心境を追体験できるかも知れない、と。和歌の専門家が様々な解釈をしているが、全体の雰囲気は連歌会の参加者の誰もが光秀の信長への絶望、近く何かをしでかすに違いないと認識していたと推定できる。
 『とき』を『土岐源氏』と読み、土岐家再興が狙いだったという解釈は後智恵に拠った、怪しい説である。
 基本的には『しもする』も読み間違いである。これは『しらす』とかける。『古事記』を読み解いた本居宣長や、大日本帝国憲法起案に当たり寝食を忘れて古典研究に没頭した井上毅が注目した『古代やまとことば』の『しらす』と『うしはく』には違いがある。
 『しらす』は人が外物と接する場合、即ち、聞くも、嗅ぐも、飲むも、食うも、知るもすべては自分以外にある他の物を、我が身に受け入れ他の物と我とが区別がなくなって一つに溶けこんでしまうのだ。
 他方、『うしはく』とは或る地方の土地、人民を、我が物として即ち我が私有物として、領有支配することがあると元侍従次長の木下通雄は『宮中見聞録』で解釈した。
 つまり大國主の國譲りによって天皇の『しらす國』となった日本では『天皇と国民が溶け合って一つになった国』であり、天皇と国民が一つの家族のように自他の区別なく溶け合った様が日本の国體である。光秀は『しもしる』の語彙を選んで、そのことを含めたのだ。尊皇の精神を希釈させ、正親町天皇に退位を迫り、信長の傀儡となった親王殿下をたてようと蠢動(しゅんどう)した織田信長の暴走は、伝統的な日本の喪失につんがる、このままでは国が滅びると、光秀は愛宕山連歌会で、発句の行間に政治行動を示唆した。
 明らかに天皇親政への回帰を唱ったのが光秀の発句なのである。
 野望説も怨念説も、黒幕説も
 『怨念』説は桑田忠親の主張から強力になるが、総じていえるのは光秀の過小評価が基盤にあるということだ。だから判断を間違えたと言える。
 いったい光秀の過小評価は誰が言い出したのだろう。
 俗説が夥しくでてきたのは江戸時代である。およそ100年を閲(えっ)して信長、光秀に関する後智恵が跋扈した。
 二人の死後、それほどの時は経ずに成立し、歴史的経緯にやや正確と言われる『信長公記』とて、年月日の時系列的考察に矛盾がある。そもそも『信長公記』の作者太田牛一が信長に仕えたのは束の間のこと、以後は丹羽長秀の右筆だった。『武功夜話』はいまも偽造書扱いをする人が多い。
 『川角太閤記』や『明智軍記』など第一級資料とは言い難いうえに、事件から100年以上を経過しての歴史書からは適当な推量、妄想の拡大がとんでもない説を大量に世に送りだした。
 後世の勝ち組は前世を、まして自分のライバルを低く評価するか或いは否定する。典型は中国の歴史書だろう。各王朝の『正史』とは、次の王朝になってまとめる歴史ゆえに、ほぼ全てが出鱈目である。徳川家康の天下取りのあと、秀吉の思想や匂いが残る大坂城を完膚なきまでに破壊し、まったく設計思想の異なる城を建てた。現在する大坂城には秀吉の痕跡が何一つない。秀吉の墓は当時、とてつもなく荘厳で高台寺の裏手に石塔が聳えていたが、これも家康が敷地にあったすべての慰霊の建物を破壊し、規模を縮小し目立たないようにした。秀吉の墓が何故にあるか、おそらく知っている読者は少ないだろう。筆者は100段はあると思われる秀吉の墓に詣でた経験があるが、捜すのに苦労したことを思い出した。
 光秀を『主殺し』の裏切り者と決めつける印象操作を行って定着させようとしたのは秀吉である。自らが、横から信長政権を簒奪した、極悪人として評価されることを恐れた秀吉は、光秀を『主殺し』の裏切り者とすることによって真実をぼやかし、史実を邪(よこしま)な嘘でゆがめる効果を狙った。
 その秀吉のうしろめたさは右筆を動員して書かせた、嘘八百の『太閤記』で明らかである。日吉丸なる幼名は創作であり、蜂須賀と矢作川の橋の上であったというが、当時矢作川には橋は架かっていなかった。墨俣一夜城も物理的に不可能で科学的証拠がない。
 後世の後智恵に満ちた『太閤記』に加えて、『信長公記』なども編まれ、虚実こもごもの著作群によって、じつは信長への過大評価がなされた。率直に言って信長への評価は現実離れが甚だしい過剰評価だ。それゆえ信長への過大評価と光秀への過小評価を均衡させる必要性が生まれる。
 信長はそれほどの天才的軍略家でもなく、抜きんでた指導者としては手ぬかり、判断の甘さが目立つ武将である。そのうえ感情の起伏が激しく、猜疑心が強く、驕慢(きょうまん)すぎたため人徳を欠落させていた。基本的に学問がなかった。
 とくに信長への過大評価を倍加させる効果があつたのはイエズス会の報告書原文が戦後になってポルトガル語スペイン語から全訳されたことが大きい。
 禁煙、こうした所論を比較検討して、本能寺の変を『あれは義挙だ』と言い出したのが井尻千男小和田哲男である。
 呉座勇一は『陰謀の日本中世史』において、かろうじて小和田哲男の『信長非道阻止説』を取り上げて一応の評価をしているが、井尻作品に関しては読んだ形跡さえない。だから呉座の分析は恰(あたか)も裁判官が高みから所論を裁断しただけという印象が強い。合理的主義に走りすぎで武将たちの熱情を感じない。あまりに論理的で冷徹な、ニヒリスティックな観がある。芥川龍之介風に譬喩(ひゆ)すれば『論理的な、あまりに論理的な』だ。
 他方、光秀には背後に操っていた『黒幕』がいたという『黒幕説』も盛んなのも明智光秀の過小評価が原因である。
 推理作家が大好きな、ミステリーファンが喜びそうな黒幕説は世間をにぎわせたが、要するに光秀を陰で操っていたのは誰か、という推理ゲームの延長でネットゲームに熱中する若い世代向けの知的遊戯でもある。
 黒幕説の嚆矢(こうし)となったのは結果的に一番得をしたのが秀吉だから秀吉が黒幕だったとか、次々と突拍子もない黒幕説が飛び出し、はては家康説まではびっこたが、いずれも否定された。明瞭な証拠がないばかりか時系列の事実比較を研究するだけで、それらの妄説は成り立たない。黒幕説は朝廷説(近衛前久が中心)、足利義昭説、果ては毛利、長宗我部説までに拡がった。近年はキリスト教団、つまりイエズス会の陰謀だったという突拍子もない珍説があらわれた。いずれも荒唐無稽である。
 ……
 近衛前久が光秀を操った黒幕という説を真面目に説く人がいるが、絵空事に近い。
 ならば黒幕はいったい誰か。
 じつは光秀に黒幕は不在である。せいぜいが事前にことをほのめかしていた朝廷側近や公家、武将に同調者がいた程度で、光秀は本心を打ち明けていた様子はない。親友の細川藤孝にさえ事前の相談をいていない。というよりも黒幕がいるという説は光秀をあまりいも過小評価している。明智の光秀ごときが大それたことを単独でできるはずがないという身勝手な推量をもとに論を広げる傾向がある。しかしこの説は現代に到っても延々と論壇に跋扈している。
 政治の本質、その基本を確認すると、諸説の成り立ちに不安定要素が強すぎる。
 明智光秀はたぐいまれな名将であり剣術、鉄砲、軍略にも秀でていたが、そのうえ和歌の教養にも恵まれた知識人だった。無学な信長がもっとも恐れたライバルでもあった。ゆえに秀でた者を先に制するという古今東西の鉄則を信長は実施しようとし、逆にうらみをかったのも多少の事実である。
 檄文はまだ発見されていない
 おそらく握り潰されたのだ
 だが光秀の蹶起は怨念ではなく、正統を守護し、天皇親政の復古を狙った政治行動であり、思想的にいえば尊皇の義挙である。
 三島由紀夫は蹶起に際しての檄文に『われわれは4年待った。最後の1年は熱烈に待った』と書いた。光秀も4年ほどじっと堪えて千載一遇の機会を待った。
 世の中は信長の排除を願って4年をまった。すなわち天正6(1578)年、信長が畏れ多くも右大臣を辞任し、正親町天皇に退位を迫るという不敬をなして世の怒りを買っていた。幕府形成を拒否したという信長の姿勢は無政府状態を招来するが、二条御所を完成させて誠仁親王を招いた。つまり親王殿下を人質にしたのである。この皇室軽視、征夷大将軍にしか許されない『蘭奢待(らんじゃたい)』の切り取りなど発狂的な不敬を働いた暴走を人々は許さなかった。
 人々は静かに政変を待っていた。とくに『本能寺の変』前の1年間、それは熱烈に待たれた。誰かがきっと起つであろう、と。
 そして義挙がなされた。あとに続くを信じて光秀は、自己犠牲をものともせずに立ち上がった。
 第一に明智光秀がもし天下を狙ったのであるなら、朋輩や仲間へ事前の打診、軍事行動のあとの政権の組織化を怠るはずがない。ところが事前工作を展開した証拠は何も見つかっていない。予兆を察して協力したのは公家級の吉田兼見連歌師の里村紹巴くらいだった。
 第二に光秀が信長への怨念を晴らした発作的行動だったと断定する証拠はまったくない。後年の江戸時代の資料は『作文』でしかない。実際に本能寺を目指し亀岡城を出て京に移動する深夜の行軍に従った主力は、譜代衆と丹波兵で臨時の混成部隊だった。となると残されのは『義挙』という可能性しかない。
 当時の状況を推定してみると
 大塩平八郎は蹶起に至る訴状を書いていた。
 それは伊豆代官が握りつぶしたが、後年発見され、大塩の義挙の理由が判明した。
 赤穂浪士の義挙については資料がありすぎて説明の必要もない。赤穂の武士たちがなぜあれほど忠誠心が強く尊皇精神に富んでいたのかといえば、時の宰相、保科正之によって江戸を追われた軍学者にして思想家の山鹿素行赤穂藩お預けとなって藩士らに学問を教えていたからである。
 山鹿素行は『中朝事実』を世に問うて尊皇を訴えた論客であり、江戸幕府にとって組織的叛乱を意図しやすく幕政の障害になるとみられていた。要注意の軍学者だったため江戸に置いておけなくなったのだ。吉良邸討ち入りの日、大石内蔵助が打ち続けたのは山鹿流陣太鼓だったことをお忘れなく。
 三島由紀夫は義挙の理由を『檄文』にしたため、当局が握りつぶすことをおそれて知り合いの記者2人を呼んで、コピィをわたしていた。それほど念を入れた。
 この点でいくと、明智光秀は蹶起に至る理由を檄文に認めるなどの周到な準備をしていない。おそらく檄文を用意したであろう。その義挙に至った書面を関係者が隠したり燃やしたりしたため世に出ず、また見つかった文書は秀吉が握りつぶしたと考えられる。ただし蹶起直前に開催した連歌会での『愛宕百韻』を仔細に読めば、そこに光秀の並々ならぬ確乎たる決意のほどが読み取れる。また連句に参加した人々がその気配を察知していたことも連句を読み解けば明らかである。
 当時の政治環境から考えても憂鬱で邪魔な存在だった信長を排除する政治行動を、その義挙を、誰もが薄々期待し、しかし誰もが日和見主義に走って明智光秀が立つことを予測ししつつ傍観していた。この事前の空気は同時代人でないと計り知れない雰囲気的な要素であって、しかしそれとなく世を覆っていたのは信長という存在の鬱陶しさであった。
 誰もが潜在的に信長の不在を希望していた社会的環境があった。一瞬の隙を捉えて立ち上がった明智光秀には北畠親房以来の天皇を守る抜く、すなわち国体を守るために信長を仕留めなければならないという正統な歴史認識に立脚していた。
 本能寺の変とは軍事的にはクーデターであるものの、本質的は『義挙』であり、それゆえに事前の工作も事後の組織化もなく、ライバルの来襲に備える情報網もいい加減に対応していた。それゆえ事件後の天下の青写真を光秀は描いていなかった。
 佐賀の乱も、神風連の乱も、秋月の乱も、そして西南戦争も、天下取りではなく、邪な政道への抗議行動であり、その後にいかなる国家を建設するかというグランドデザインがないという文脈において光秀の突発的行動は単発行動なのである。
 事後の歴史の推移をみても、秀吉の立場上、悪評をまき散らかし続けたにもかかわず、織田家臣団、遺族を除く周囲の武将のなかで、光秀を恨んだものがほとんどいないという厳然たる事実は何を意味するのだろうか。光秀は恨みを残さず、爽やかに消えた。
 徳川家康に至っては明智の幹部だった斎藤利三の娘を家光の乳母に採用している。
 これは驚くべきことである。
 そのうえ信長が壊滅させた武田遺臣団から家康は大量の家臣を採用している。これほど左様に家康が光秀を恨んだり、あるいは主殺しとして遠ざけたりした気配がないのである。つまり天照大神は謀反人ではなく義挙をとげた悲劇の主人公という認識が当時のひとびとの常識ではなかったのか。悲劇は口承で語り継がれ、本能寺から100年後に福知山城主となった朽木氏は城下に御霊神社を創設し、明智光秀を祀神として祭り、地元の要求に応えている。
 亀岡から綾部、福知山にかけての地元で光秀は名君と慕われていたからである。地元の言い伝えでは光秀は側室を置かないほどに愛妻家だったともいう(筆者はこの説を信じていないが)、糟糠の妻として妻木煕子には苦渋の暮らしを強いて、言い表せない苦労を共にした。客をもてなすために黒髪を売って光秀の名誉を守ったという逸話が残る。
 後世、俳聖と言われた松尾芭蕉はよんだ(この句碑は福井県坂井市丸岡町にある)。
 月さびよ 明智が妻の 噺(はなし)せむ
 一方、信長を祭る神社は京都と山形県天童市にある建勲神社のみ。しかも明治初期になって建立された。
 さて筆者は明智光秀と縁の深い場所を全てまわった。最後の連歌会が開かれた愛宕山、現在の愛宕神社にも『登山』してみた。大河ドラマになるというので異様に盛り上がっていたのは亀岡、福知山、そして長岡京だけであった。各所に大きな垂れ幕があり、後者の長岡京は光秀よりむしろガラシア姫ブームを当て込んでいた。長岡京市では光秀の歴史講演会も開催され、教育委員会観光協会が共催するという力の入れようだが、対照的にそれほどの意欲が感じられないのは恵那市明智町岐阜県可児市の、生誕地といわれた二箇所だった。そして光秀に冷淡なのは丹波篠山(八上城)と一乗谷だった。光秀の縁が深い亀岡では光秀の首塚が残り、しかも毎年、『光秀まつり』が開催されている。阪本の西教寺では光秀の歴史講座、福知山も同様な光秀祭りがある。
 これが地元の光秀への篤い評価の典型だろう。各地で評価が明瞭に分かれる現実が、いまの日本における明智評価の分裂を象徴している」
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 日本の天皇・皇族の皇室と、世界の皇帝や国王さらに全ての王侯貴族との違いはここにある。

 西洋の王侯貴族は血縁であり、他国の王族が自国の国王に即位できる。

 天皇は、世界中の王侯とは違って手は血に染まっていない。

 皇室の財産は、国内外で不法に強奪し私有財産ではない。
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 天皇の神聖不可侵の神性は、日本国内の全ての神社に正統性と八百万の神々に神格を与えている。
 天皇を否定する事は、全ての神社と八百万の神々を否定する事である。
 日本民族日本人が、天皇・皇族・皇室を命を捨てても守ったのは、天皇制度=国體のためではなく、日本から全ての神を消さないためであった。
 その意味でも、日本の太平洋戦争は自衛の為の「聖戦」であった。
 マッカーサー天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。その結果もあらされる事態を鎮めるのは不可能である。天皇を葬れば、日本国家は分裂する、連合国の裁判にかければ、日本国民の憎悪t憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐の為に復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそうのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある」(昭和21年1月の本国への極秘電文)

 反宗教無神論共産主義は、全ての宗教を廃絶する為に、天皇の神性を冒涜し、神社仏閣を破壊し、有りと有らゆる神や仏を殺そうとしていた。

 それは、中世キリスト教会も同様であった。
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 日本は神聖不可侵の天皇制度が有ったおかげで、中華(中国・朝鮮)や西洋などの世界各地で起きた数十万人から数百万人を陰惨に惨殺する大虐殺が起きなかった。
 日本の歴史は、世界の歴史に比べて流された血は少ない。
 社会変革の犠牲者は、明治維新では約1万人。フランス革命では約200万人。南北戦争では約65万人。ロシア革命では数千万人、中国革命では約1億人である。
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 道鏡弓削氏)事件。宇佐八幡宮の神託「我が国家開闢けてより以来君臣定まりぬ。臣を以て君とすることは未だ有らず。天の日嗣は必ず皇端を立てよ。無道の人は早に掃ひ除くべし」
 天皇とは、万世一系男系天皇(直系長子相続)である。
 皇胤とは、日本中心神話・天孫降臨神話における最高神天照大神伊勢神宮)の血筋にある子孫の事である。
 皇統とは、初代の神武天皇橿原神宮)を直接の祖先とする子孫の事である。
 皇位に即く事ができるのは、正しい皇胤と皇統のみである。
 近江神宮天智天皇平安神宮桓武天皇明治神宮明治天皇などの血筋にある皇族のみが、天皇に即位する正統な継承権を持っていた。
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 明智光秀の人物像は、江戸時代の儒教朱子学)、明治・大正の俗世(大衆)好み時代劇小説、戦前昭和の時代劇映画、戦後昭和のキリスト教マルクス主義共産主義)で歪曲・捏造された。
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 明智光秀の周囲には、娘のガラシャなど多くのキリシタンがいた。
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 日本には、勝者(公家・武士)の政治権力、仏教の宗教権威、朝廷の天皇権威が三竦(すくみ)みとして共立共生共存し、三つが拮抗して社会に秩序ある安定・安全・安心をもたらしていた。
 日本において、
 政治権力や宗教権威は、日向の男性的強者理論である。
 天皇権威は、日陰の女性的弱者理論である。
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 明智光秀は、土岐家の傍流で、室町幕府に仕えていた中級家臣・奉公衆であった。
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 明智光秀は、類い稀な名将であり、剣術・鉄砲、築城・土木、戦略・軍略、外交・経済・内政、和歌・茶道などの多彩な才能を持ち、滅私奉公の努力で出世した苦労人であり、領民から慕われていた人徳者でもあった。
 織田家の古参家臣ではなかったが、その才能ゆえに家臣団中の出世頭でもあった。
 現代の歴史を知っているグローバル気触れの高学歴出身知的エリートよりも、知識・教養・経験など多方面で数段も優れていた。
 明智光秀に匹敵する現代日本人はいない。
 当然、織田信長豊臣秀吉徳川家康の戦国期三英傑に並ぶ者もいない。
 同じ様な人物が現れないという意味で、似たような歴史の韻を踏む事はあっても、歴史は繰り返しはしない。
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 明智光秀韓信のような存在で、劉邦が天下を統一し漢王朝を起こしたとき韓信ら自分より優れた家臣を殺したように、光秀も信長に粛清される恐れがあった。
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 下剋上の戦国時代は、弱肉強食の能力至上社会であった。
 織田信長は、利用できる者は道具として利用し尽くして使えなくなったら捨て去るという合理主義のから、畿内中心といた天下を手に入れる為に、最初は政治権力の室町幕府をは利用し、次に天皇・皇室を利用した。
 更に、天皇権威を便利な操り道具にする為に正親町天皇を退位させ誠仁親王を即位させようとした。
 そして、宗教権威を組み伏せる為に比叡山焼き討ちや本願寺との石山合戦を続けた。
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 日本民族日本人と帰化系日本人は、天皇・皇室、天皇制度という国軆を守る為に命を捨て戦った。
 渡来人系日本人は反天皇反日的日本人として、儒教に基づき、国軆である天皇制度を打倒し、天皇・皇室を滅ぼそうとした。
 天皇・皇室を守る為に馳せ参じた勤皇派・尊皇派は、キリスト教や中華儒教に毒されなかった下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、賤民(非人・エタ・その他)、部落民(山の民・川の民・海の民・その他)ら下層階級であった。
 武士・サムライの正統性は、皇室からの系譜に由来する。
 皇室からの系譜を持たない者は、由緒正しい武士・サムライではなく何処の馬の骨か分からない浪人・牢人と蔑まれる日陰者でった。
 だが、外国人でも武士・サムライになった者はいた。
 中央アジアからの帰化秦氏の子孫である長宗我部元親。イギリス人の三浦按針。
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 現代日本には、昔ほどの天皇や皇族、皇室に対する尊皇や勤皇は希薄となり、命を捨てても守ろうという民族的使命感もない。
 その傾向は、高学歴出身知的エリートに特に濃い。
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 現代日本人は、事実に基づく歴史劇より作家が創作した時代劇が好きである。
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 現代の日本史は、戦後のキリスト教史観・マルクス主義共産主義)史観と1980年代後半の日本人極悪非道の重犯罪史観で汚染されている。
 歴史教育は、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による非人道的日本人奴隷交易は抹消し、キリスト教禁教・キリシタン弾圧などの宗教弾圧、昭和天皇を殺し天皇制度を廃絶しよとした共産主義弾圧などの思想弾圧などで、日本人は許されざる重犯罪者でると子供達に教えている。
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 韓国の大統領や国会議長らは、平成の御世で昭和天皇を極悪な戦争犯罪と名指ししその子供である平成期の天皇の土下座して謝る事を公然と要求した。
 当時の日本政府や国会、政治家や官僚らは、口先で抗議しても具体的な制裁行動を起こさなかった。
 それは世界でも同じで、世界から嫌われているかのように、日本天皇に同情し味方する国や個人は皆無であった。
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 朝鮮・韓国、中華・中国特に中国共産党は、反天皇反日である。
 最も恐るべき敵は、反宗教無神論共産主義を掲げる中国共産党である。
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 中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人は、日本人奴隷交易を行っていた。
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 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺そうと付け狙っていた。
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 マルクス主義特に共産主義は、「人民の正義」で政治権力を手に入れて、死体の山と血の池を作って宗教権威と天皇権威を滅ぼそうとした。
 キリスト教は、「絶対神の福音」で宗教権威を手に入れ、政治権力を下僕として従え、聖なる火で天皇権威を焼き滅ぼそうとした。
 マルクス主義共産主義)もキリスト教も日本から天皇・皇室を消滅させる為に、民族主義の核である勤皇・尊皇の思想や意識を戦争犯罪の元凶であるとして抹消しようとした。
 大日本帝国憲法明治憲法)や教育勅語がなぜ否定され続けるか、その原因も勤皇・尊皇の思想や意識が色濃く滲んでいるからである。
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