⚔22)─1─黒人サムライ「弥助」。宣教師ヴァリニャーノは奴隷を信長に献上した。~No.93No.94  * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 人類は、古代から宗教と同時に公的な奴隷制度を持っていた。
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 日本には、公的な奴隷制度はなかったが、乱取りという奴隷狩りがあり、日本人奴隷が売り買いされていた。
 代表的物語が、『山椒大夫』である。
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 現代日本は、あまりの恥ずかしさ故に、「乱取り」や「日本人奴隷売買」などの歴史的事実を隠蔽し、捏造・歪曲した間違った日本人像を子供たちに教えている、
 つまり、現代の歴史教育は嘘を教えている。
 日本人を奴隷とし売ったのは日本人て、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は日本人奴隷を日本人から買って世界に輸出して金儲けをしたに過ぎない。
 昔から、日本人の命は金で買えたのである。
 それを証明したのは日本人である。
 日本人は、賢くもないし、優れてもいないし、秀でているところなどはなかった。
 「日本は美しい国であった」も「日本人は優しく思いやりがあった」も、ウソである。
 そうした日本人の不道徳を、「自分の不徳」が原因であると引き受け「みことのり(御宣言)」を発して身を浄めて行いを正してこられたのが日本の天皇である。
 それ故に、日本民族日本人は申し訳ないと恥じ入り天皇を守ってきた。
 恥を知らない日本人は、天皇を罵倒し、天皇を滅ぼそうとした。
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 産経新聞iRONNA「アフリカ出身の侍がいた 戦国時代の数奇な人生、ハリウッド映画へ
 『BBC
 2020年01月20日 13:19 公開
 ナイマ・モハムド、BBCニュース
 今から500年近く前、1人の背の高いアフリカ人男性が日本に到着した。彼はその後、武士の地位を手に入れた最初の外国人となる。その数奇な人生が、複数のハリウッド映画の題材になろうとしている。
 弥助として知られるこのアフリカ人男性は、16世紀に日本統一を進めた最初の大名、織田信長の家臣となった。
 歴史学者のローレンス・ウィンクラー氏によると、弥助は1579年に当時の首都だった京都に到着。彼を一目見ようと大勢が互いの上によじのぼる騒ぎで、中には押しつぶされて死ぬ人もいたという。
 来日から1年もしない内に、弥助は侍としての身分を手に入れた。間もなく弥助は日本語を自在に操り、信長のお供として戦場に出るようになった。
 徳川家康の家臣だった松平家忠は1579年の日記に、弥助を目にした際のことを記している。それには、「肌は墨のようで、身長は6尺2分(約182センチ)」と書かれている。
 1900年の日本人男性の平均身長は157.9センチだった。16世紀ともなれば、栄養状態が悪い日本人の身長はさらに低かったはずで、弥助はほとんどの人を見下ろしていたに違いない。
 士分取り立て
 弥助の誕生日や出生地については記録が残っていない。多くの歴史家がモザンビーク出身ではないかとみているが、エチオピアやナイジェリアから来たという説もある。
 分かっているのは、弥助はイエズス会のイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの視察旅行に同行して日本を訪れたことと、1579~1582年の間しか史料上の記録がないことだ。
 一部の研究者は、弥助が奴隷だったのではないかとみているが、確証はない。
 弥助のドキュメンタリー映画を製作しているフロイド・ウェブ氏とデボラ・ディスノー氏は、弥助が奴隷だったというのは憶測に過ぎないとみている。
 ディスノー氏は、「戦士としての経験がなければ、たった1年で侍に上り詰めることは難しいはずだ」と語る。
 武士階級に生まれた者は通常、子どもの頃から訓練を積まされるからだ。
 戦国大名との友情
 ウェブ氏とディスノー氏によると、弥助は日本に到着した直後に織田信長と出会った。信長は、弥助の巧みな話術に興味を引かれたのだろうという。
 弥助についての著書がある研究者のトマス・ロックリー氏は、弥助は当時すでに日本語を少し喋れるようになっており、信長とは馬が合ったようだと説明する。
 ロックリー氏によると、弥助は訪日前にアフリカやインドで生活した経験があり、こうした地域の話を信長に聞かせて楽しませたのだという。
 また、日本語が話せたなら、その分だけ周囲の覚えもめでたかったはずだとウェブ氏は指摘する。
 「イエズス会の宣教師たちは、日本人の魂に宗教を持ち込もうとした。しかし、弥助にそういう目的はなかった」
 また、信長は初対面の際、甥(おい)を通じて弥助に褒賞を与えたという記録も残っている。
 コートジヴォワール系のフランス人作家セルジュ・ビレ氏は、弥助の数奇な立身出世物語に興味を持って、弥助について本を発表している。
 BBCの取材でビレ氏は、「弥助にまつわる謎が、私をひきつけた」と語った。
 日本の大名の信長とアフリカ人侍の弥助の間には、多くの共通点があったとビレ氏は言う。
 信長は武術を好み、自分でも練習を怠らなかった。エキセントリックな人物としても知られ、西洋の衣服を身にまとい、高い規律を身につけた教養人を側に置きたがっていた。
 ウェブ氏は、「弥助には侍魂があった」と話す。弥助は日本の文化言語を理解していたほか、踊りも好きだった。また、スワヒリ語で英雄を称える歴史的な叙事詩「ウテンジ」を披露したという。このことから弥助は、スワヒリ語が今も使われている現在のモザンビーク北部出身なのではないかとみる歴史学者もいる。
 同じように、信長は能の愛好家で、様々な芸術の保護にも力を入れたとされている。
 信長は弥助を気に入り、家族のように扱ったと言われる。弥助は、信長と共に食事をする数少ない家臣のひとりだったという。
 ディスノー氏は、「信長は弥助の体力や体格を褒め、10人力だと説明していた」と話す。
 生き続ける伝説
 信長が弥助に士分を与えた当時、日本人ではない武士は存在しなかった。弥助以降、他の外国人にも士分が授けられるケースが出てきた。
 初の外国人侍として、そして織田信長の家臣として、弥助はいくつかの重要な戦いに参加している。
 さらに、信長の家臣だった明智光秀が謀反を起こした1582年の本能寺の変では、弥助は信長と共にこの寺に宿泊していた。信長はここで切腹している。
 歴史家のトマス・ロックリー氏によると、信長は弥助に介錯を頼み、自分の首を刀と共に息子に送り届けるよう頼んだという。これは絶大な信頼の証だ。
 信長の死後間もなく、弥助の伝説も終わりを迎える。本能寺の変の後、弥助は追放される。京都にいたイエズス会のもとへ戻った可能性もある。
 弥助のその後の行方や晩年については不明だ。しかし、弥助を描いた来栖良夫氏の絵本「くろ助」によって、黒人侍の物語は多くの日本人に親しまれている。
 弥助の半生を描いた「くろ助」のラストシーンはほろ苦い。信長が自害した後、くろ助(弥助)は寺に連れて行かれるが、そこで彼はアフリカにいる両親の夢を見て涙を流す。
 米エンターテインメント誌「ヴァラエティ」は昨年5月、映画「ブラックパンサー」に主演したチャドウィック・ボーズマン氏が弥助を演じる予定だと報じた。
 ハリウッドでは現在、弥助の物語の映画化が2つ、進行している。制作スタジオのライオンズゲートは2017年、黒人の侍についての映画を製作中だと発表した。
 500年近くたった今も、弥助の数奇な人生は大勢をひきつけているのだ。
 (英語記事 The mysterious life of an African samurai)
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界中に輸出し大金を稼いでいた。
 日本民族日本人はアフリカ人同様に奴隷であったがゆえに、白人は罪の意識を持たず日本民族日本人を「イエローモンキー(黄色い猿)」「ジャップ(JAP)」と蔑称で呼び捨てにしている。
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 日本人には、人を奴隷としてキリスト教徒に与え酷使して殺す事を祝福し、同時に、死からの復活、奇跡と恩寵、自己犠牲、博愛、隣人愛などを福音として説き不寛容で排他的な信仰契約を強要するキリスト教絶対神が理解できなかった。 
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 ローマ教皇バチカンカトリック教会は、洗礼を受けキリシタンになった日本人を奴隷にする事を禁じたが、キリスト教を拒否する異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 南蛮人=白人キリスト教徒商人は、スペイン国王・ポルトガル国王に日本人キリシタンを奴隷として売買できるように請願書を出していた。
 一部の宣教師は、神聖な使命である、日本での布教活動費を稼ぐ為に日本人奴隷売買に協力していた。
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 宗教的白人至上人種差別主義からすれば、日本人はアフリカ人同様に自由に殺してもいい家畜か獣であって、尊重すべき人間ではなかった。
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 NEWS
 2019年06月08日 15時34分 JST | 更新 2019年06月08日 17時50分 JST
 「弥助」ってどんな人? 織田信長に仕えた黒人武士の生涯を歴史資料で追った
 『ブラックパンサー』のチャドウィック・ボーズマンが主演でハリウッド映画化と海外報道されています。
 漫画に描かれた弥助の姿。山田芳裕へうげもの」第3服より
 『ブラックパンサー』で黒人ヒーローを演じたチャドウィック・ボーズマンの新作映画の報道が話題だ。織田信長に仕えたという記録が残る、黒人の武士「弥助(やすけ)」を描いた ハリウッド映画で主演するというのだ。
 5月7日付けのアメリカのエンタメサイト「DEADLINE」に対して、ボーズマンさんは「弥助の伝説は、世界史の謎の一つだ。アジア系以外でサムライになった唯一の存在(※)だよ。単なるアクション映画ではなく文化事業であり、異文化交流だから、僕はそれに参加できて興奮しているよ」と語っている。
 (※実際には、徳川家康に仕えて旗本となった三浦按針ことウィリアム・アダムスの例もある)
 果たして弥助とは、いかなる人物なのか。謎に包まれた弥助の生涯を歴史資料から追った。
 ■イエズス会の宣教師が連れていた黒人奴隷だった。
 弥助について触れた一次資料は非常に少ない。
 ただ、弥助が信長の最晩年、天下統一にあと一歩まで迫った時期に宣教師の黒人奴隷として出会い、その後に家臣になったということまでは、はっきりしている。
 宣教師に随行する黒人たち。狩野内膳が描いた南蛮屏風(左隻)より
 神戸市立博物館
 宣教師に随行する黒人たち。狩野内膳が描いた南蛮屏風(左隻)より
 天正9年(西暦1581年)2月23日に、イエズス会の宣教師オルガンティノが、京都で織田信長に面会した際に、黒人奴隷の従者を連れていった。これは日本側とイエズス会の報告の両方に記録がある。
キリシタンの国から黒人がやって来た。年齢は26~27歳ぐらいのようだ。全身がウシのように黒い。この男は健康で力が強く、10人がかりにも勝てそうだ。バテレンが連れてきて、(信長様に)挨拶させた(太田牛一信長公記」)>
<信長も黒人奴隷を見ることを望んでいたため、宣教師のオルガンティノが連れていったところ、信長はその色が生まれつきで、後から塗ったものでないことを信じようとせず、帯から上の着物を脱がせた>(ルイス・フロイスの報告「イエズス会の1581年の日本年報」)>
 そして翌1582年5月11日、徳川家康の家臣である松平家忠の日記に「信長には弥助という名前の黒人の家来がいる」という記述がある。信長が家康と組んで武田勝頼を攻め滅ぼした「甲州征伐」の際に、信長に随行していたようだ。
 「信長様が、宣教師から進呈されて召し抱えたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は6尺2分(約1メートル82センチ)。名は弥助という」(家忠日記
 これらを総合して、オルガンティノが引き合わせた黒人奴隷を信長が召し抱えて武士となった。そして「弥助」という名前を付けられたというのが定説となっている。
 ■「短刀と屋敷なども与えられた」との記述も
 宣教師たちの記録から、初対面の出来事を補足しよう。当時、日本人にとって黒人の姿は非常に珍しく各地で人だかりができて、負傷者まで出る騒ぎになったようだ。
 珍しい物が好きな信長といえども、黒人の存在をにわかには信じることができなかったらしい。
 上半身の服を脱がせて半裸にしただけでなく、体を洗わせたというエピソードもある。アレッサンドロ・ヴァリニャーノは「信長は黒人奴隷の服を脱がせて体を洗わせたところ、洗い擦るほど一層肌が黒くなった」と記述している。
 しかし、その後、信長は、この黒人をすごく気に入ったようだ。
 フロイスは「黒人奴隷は少し日本語が分かったので、信長は彼と話して飽きることがなかった。また、彼が力強く、芸も少しできたので、信長は多いに喜んで庇護し、人を付けて京都市中を歩き回らせたので、『信長は彼をトノ(武将)とするのでは』という声もあった」と振り返っている。
 また、「信長公記」のうち、太田牛一の子孫に伝わった「尊経閣本」と呼ばれるバージョンでは、上記に続いて「黒人は信長様から家臣として召し抱えられて俸禄を得た。名前は弥助とされた。短刀と屋敷なども与えられた。時折、信長様の道具を運ばされた」とする記述がある。
 もし、この記述が事実であれば、信長に側近として仕えたことになる。
 ■「本能寺の変」で奮戦
 弥助はアフリカ南部のモザンビーク出身だったと言われている。
 大航海時代の当時、ヨーロッパからインドに向かう船は、アフリカ南端の喜望峰を通過する際に、モザンビークに寄港して食料や飲料水の補給のほか、現地で奴隷を購入することが多かった。
 弥助もモザンビークからインドに運ばれたが、そこで宣教師に同行して来日していたようだ。
 信長が「甲州征伐」に同行させるほどの信頼を置かれていた弥助だが、その運命は暗転する。甲州征伐を終えて信長が安土城に帰還したのが1582年4月21日だった。その約1カ月後の6月2日、主君である信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれたのだ。
 弥助は信長の死んだ後も、息子の織田信忠が籠もる二条城に駆けつけて刀を振るって奮戦したが、最終的に降伏したという。フロイスの報告を引こう。
<巡察師(ヴァリニャーノのこと)が信長に送った黒人奴隷が、信長の死後、息子の家に行き、相当長い間、戦っていたところ、明智の家臣が近づいて「恐れることなくその刀を差し出せ」といったので、刀を渡した。家臣は、この黒人奴隷をどのように処分すべきか明智に尋ねたところ、「黒人奴隷は動物で何も知らず、また日本人でないため殺すのはやめて、インドのパードレ(司祭)の聖堂に置け」と言った>
 明智の「黒人奴隷は動物で何も知らず」という説明は、あまりにも人種差別的だ。しかし東北大学藤田みどり教授は著書の中で、殺さないための方便だったのでは推測している。
 「皮膚の色こそ異なるものの、若干言葉を解し、最後まで主人への忠誠を果たした従者を殺すのは忍びないと光秀が思ったとしても不思議ではない」
 弥助は解放直後、イエズス会の宣教師から治療を受けたらしいことまでは分かっている。しかし、その後の消息はぷっつりと途絶えている。
 ■サブカルチャーの世界でアイコンに
 歴史の世界から姿を消した弥助だったが、20世紀以降にサブカルチャーの世界で再評価が進むことになった。
 1968年に来栖良夫が出版した児童文学『くろ助』で主人公として描かれたほか、1971年の遠藤周作によるユーモア小説『黒ん坊』の主人公のモデルとなった。
 安土桃山時代を描いた漫画で取り上げられることも多く、山田芳裕が描き、アニメ化もされた「へうげもの」では、信長殺害の真犯人を目撃した重要人物として描かれている。
 ハリウッド映画で、弥助の生涯がどのように映像化されるのか。今から楽しみだ。
 【参考文献】
藤田みどり『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店
・ロックリー・トーマス著、不二淑子訳 『信長と弥助――本能寺を生き延びた黒人侍――』 太田出版
・村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上』 雄松堂出版
・金子拓『織田信長という歴史―「信長記」の彼方へ 』勉誠出版
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 安藤健二 ハフポスト日本版ニュースエディター。カテゴリー「知られざる世界」も担当。
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 弥助(やすけ)は、戦国時代の日本に渡来した黒人奴隷。戦国大名織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、その家臣に召し抱えられた黒人侍として伝えらている。

 概要
 弥助の出自については、フランソワ・ソリエが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イエズス会のイタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた召使で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であると記されている。ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。
 天正9年2月23日(1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳〜27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている。
 天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという。
 本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述がある。
 『家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている。これは弥助も従軍していた甲州征伐からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものであるが、日記の記述に弥助は下人や年季奉公人のような隷民ではなく扶持もちの士分であったとはっきり書かれている。
 天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という。
 家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレの聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られることになって、一命を取り留めた。現代から見れば、この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられなくもないが、藤田みどりは弥助を殺すことを忍びないと思った方便であろうとの好意的な解釈を主張している。だが、本能寺の変当日、二条新御所で黒人の目撃談がないことから、弥助の供述の信憑性は疑問とする意見もある。

 消息
 その後の弥助の消息については、史料に現れないために全く分かっていない。
その後の他地域の史料の中には黒人が登場するものがいくつかあり、フロイスの『日本史』の沖田畷の戦いの記述の中にも大砲を使って活躍した有馬方の黒人が出て来る。

 世界ふしぎ発見
 クイズ番組『世界ふしぎ発見』では、この黒人が弥助で、主人を失った弥助が面識のあった有馬家を頼ってここまでやって来た可能性があるのではないかという解釈が、番組内で述べられた。しかしヴァリニャーノは確かに信長の前に有馬晴信にも謁見しており関係があったものの、この時代に日本へやってきた黒人は実は大勢いたと考えられている。右の『南蛮屏風』にも複数の黒人が描かれているのがわかるが、日本に渡来した黒人の中の誰かを弥助であったかどうか特定することは不可能で、あくまでも仮説に過ぎず、特に根拠を持っていない。
 同じく同番組では、弥助のルーツを探しに16世紀に「モザンビーク」と呼ばれていたモザンビーク島へ取材に行って、現地のマクア人の男性には「ヤスフェ」という名前が比較的多いことから、弥助はもともと「ヤスフェ」という名前であり、日本ではそれが訛って「弥助」と名付けられたのではないかとする仮説を番組内で紹介した。またマクア人の間では、日本の着物によく似た「キマウ」と呼ばれる衣装を着て踊る祭りが昔から伝わっており、弥助は最終的に故郷に戻って日本の文化を伝えたのではないかとも番組では語られたが、これらを具体的に証明する証拠は全く見付かっていない。
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 日本を支配しているのが、キリスト教史観・マルクス主義共産主義)史観・日本人残虐非道の極悪人史観(=自虐史観東京裁判史観)である。 
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黒き侍、ヤスケ:信長に忠義を尽くした元南蛮奴隷の数奇な半生