⚔29)─2─主殺しの明智光秀は領民から名君として慕われ御霊・神として祀られていた。〜No.111 

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 御霊神社(ごりょうじんじゃ)
 ~明智光秀を祀る神社~
  場  所:
 京都府福知山市西中ノ町238
 御祭神:宇賀御霊大神、明智光秀
 創祀年:宝永元年(1704)
 御霊神社は明智光秀ゆかりの神社として知られている。主神が五穀豊穣・商売繁盛の神である宇賀(宇迦)御霊大神で、宝永元年(1704)福知山藩主である朽木稙昌の代に明智光秀の霊を合祀したといわれる。この神社には光秀の書いた古文書が三つあるそうで、いずれも市指定文化財となっている。光秀は領国内で善政を敷いたといわれており、福知山でも領民に慕われていたということでこの神社に祀られたのでしょうか。
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 2019年6月3日 産経新聞「【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(1)明智光秀は「祟り神」だった
 西側から「鬼のモニュメント」(成田亨製作)をのぞむ。先頭の鬼が指し示す先に京の都がある=京都府福知山市大江町(関厚夫撮影)
 世界はいま、歴史の転換点を迎えている。令和への御代替わりはその象徴であろう。過去、こうした一大エポックはどのようなかたちであらわれ、先人たちはどう対応してきたのか。その営みに現代からの光をあてながら考えてみたい。「混沌」の観さえある近未来を生きるためのヒントを見つけるために。まずは空前絶後の謀反劇「本能寺の変」である。(編集委員 関厚夫)
 「変」が起きたのは437年前のちょうどいまごろ-天正10(1582)年6月2日(旧暦。新暦では21日とされる)の未明、舞台は京の都だった。
 謀反の主は言わずと知れた明智光秀。なぜ彼は「主殺し」を敢行したのか-。その答えについては、光秀個人が抱いていた天下への野心説や織田信長に対する怨恨(えんこん)・遺恨説、室町幕府最後の将軍・足利義昭あるいは朝廷による黒幕説に、秀吉や徳川家康、さらにはイエズス会が陰で糸を引いていた-などとする奇説・珍説の類が加わり、百家争鳴かつ玉石混交の観がある。
 本稿では、一時は光秀の「盟友」だった細川幽斎(藤孝)や彼の嫡男で光秀の娘、玉(後のガラシャ)を妻として迎えた忠興(ただおき)の視点から信長-光秀の主従関係と光秀の内面をひもとき、「変」の真相に迫りたい。そこでまずは光秀の「素性」についてである。
 出生と前半生は謎
 光秀の名は、彼が30代も後半になって以降、ぽつぽつと信頼のできる史料に登場するが、それ以前の経歴については不明である。明智家は美濃国岐阜県南部)守護の名族・土岐氏の庶流とされるが、光秀についてはいまだその父親の名前、また出生年さえ諸説あってはっきりとしない。
 信長の家臣としては新参の部類ながら光秀は、後世から「近畿管領」「近畿方面軍司令官」と称されるほどとりたてられた。信長は「変」に斃(たお)れるまで、日本全国統一への道をまっしぐらに進んでおり、イエズス会宣教師、ルイス・フロイスの報告書によると、その視線の先には「シナ」があったという。
 「変」には成功した。が、そのわずか11日後、光秀は「中国大返し」をやってのけた羽柴(豊臣)秀吉との山崎の戦いで完敗を喫する。再起を図って逃れる途中、落ち武者狩りの手によって致命傷を負い、自刃-。以来、彼は歴史を書き換えようとしていた主君を裏切り、だまし討ちにした「日本史上の大悪人」とみなされるようになった。
光秀は「大河」の主人公にふさわしい「麒麟」だった?
 来年のNHK大河ドラマ麒麟がくる」は光秀が主人公だという。その彼に「公」という敬称を付け、「準備会時代」を含め、約10年前から大河ドラマの実現を呼びかけていた地方がある。光秀が死を迎えるまでの約3年間にわたって統治した旧丹波国京都府中部と兵庫県東部)の亀岡市福知山市(ともに京都府)である。
 「自らが治めた亀山城亀岡市)、福知山城では、治水事業や城下の地税免除等の良政を行い、領民から慕われた名君であり、生涯側室を取ることのなかった愛妻家でもありました」-。現在は当初の倍近い12府市町で構成され、「大河ドラマ麒麟がくる』推進協議会」と名称を変更した同会の趣意書には光秀はそんな「名君」として記されている。
 JR亀岡駅2階にある観光案内所をのぞいてみよう。すでに「光秀コーナー」が設けられ、関連書籍が並んでいる。亀岡市が作成した観光案内「明智光秀マップ」は初刷りの1000部の底が尽き、修正版の増刷を手配中だという。一方、福知山市は「麒麟がくる」の放映決定に前後して市長公室秘書広報課にシティプロモーション係を新設。全国にアピールするため、「知られざる明智光秀プロジェクト」をはじめ、さまざまなイベントやPR活動を展開している。
 天正10年6月1日夜、「敵は本能寺にあり」の思いを秘して光秀が1万数千人の軍勢を発した亀山城。現在この城跡地は、宗教法人「大本」が神苑として整備した「天恩郷」となっている。「光秀時代」を現代に伝える唯一の遺構である石垣が一部残されており、一般観光客も申請すれば見学できる。広報担当者によると、「見学者は、いま徐々に増えているといった感じですが、大河ドラマ麒麟がくる』の放映が迫る今冬ころから、その数はさらに増えていくものと思われます」という。
 神か、はたまた鬼か
 JR福知山駅から北北東へ700メートルほどの市街地に光秀を事実上の主神としてまつった神社がある。地元では「ごりょうさん」と言われて親しまれているそうだが、正式な名称は御霊(ごりょう)神社。「御霊とは非業の死を遂げた人の霊のこと。奈良時代末から平安時代にしばしば疫病が流行、それを御霊の祟(たた)りであるとしてその怨霊を鎮めるために祀(まつ)ったのが御霊神社である」(日本大百科全書)という。
 福知山にこの御霊神社が建てられたのは「本能寺の変」から約120年後の宝永2(1705)年。前宮司の岡部一稔さん(83)によると、創建について記された「明智日向守祠堂記」には「福知山の人々は百年にわたって光秀公から受けた厚い恩を忘れてきた。この地が火事や洪水など次々と災いに見舞われるのは、中傷によって太宰府に左遷され、失意のまま客死した菅原道真公の魂が雷と化して都を襲ったように光秀公の魂の祟りであろう。ゆえに堂を建て、光秀公をお祀りする」などと記されている。つまり、光秀は“祟り神”なのだ。
 国文学と民俗学の巨星、折口信夫は「かみ」と「おに」は同義と考えたという。また平安京時代には「御霊」は「鬼」とも目されていた。光秀もまた、「神」や「御霊」、そして「鬼」をまとっている。
 御霊神社からさらに北北東に約20キロ。旧丹波と旧丹後の国境にあり、「鬼伝説」で有名な大江山に3体の鬼を配した「モニュメント」が建てられている。
 棟梁(とうりょう)だろうか、1体の鬼が南東の方角を指さし、その先にある京の都をめざすかのように歩みを進めている。筋骨隆々で金棒を右手にする別の1体は、顔をやや後方に向けながらこの棟梁についてゆこうとしているようにみえる。そして少し小柄な3体目の鬼は、この2体から距離を置き、苦悶(くもん)ともいえる表情をみせながら、大きく体をゆがめている。
 制作したのは彫刻家、成田亨。「アルカイック・スマイル」(古式微笑)を浮かべた初代ウルトラマンやさまざまな怪獣たちをデザインしたことでしられる。彼がこの鬼たちを創造したさい、その頭のどこかに、「変」を決行するために夜を徹して行軍する光秀とその家来の姿があったのではないだろうか。
 その光秀たちが本能寺を目指して越えた、京と丹波の国境にある老ノ坂峠には別名がある。やはり「大江山」という。源頼光酒呑童子を退治するという「鬼伝説」はもともと、こちらが発祥なのだという。
 437年前、光秀は領国・丹波の北方にある大江山を背に亀山城を発し、もう一つの大江山を越えたとき、主君・信長の首を狙う鬼と化した。
 なぜか。
その理由をわれわれに伝えているのが、前述の細川幽斎と忠興である。=(2)へ続く
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 6月4日 産経新聞「【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(2)信長を神明が罰した
 明智光秀の居城の一つ、福知山城の天守閣(1986年の再建)=京都府福知山市(関厚夫撮影)
 「本能寺の変」の当日-天正10(1582)年6月2日(旧暦)、明智光秀美濃国岐阜県南部)のある城主にあてた書状の写しが江戸時代前期の歴史書武家事紀』に収載されている。
 信長の悪逆と光秀の遺恨
 「父子悪逆天下之妨討果候」
 その冒頭の一文である。「父子」とは織田信長とその長男、信忠のこと。光秀率いる1万数千の軍勢によって信長は京都・本能寺で、勇猛で知られた信忠は二条城で自害する。この2人の悪逆(あくぎゃく)は天下の妨げ(害毒)であるから討ち果たした-と主張しているのだ。
 また『別本川太閤記』には、同じころ、当時、備中国岡山県西部)・高松城を攻囲中の羽柴(豊臣)秀吉と対陣していた毛利家の重鎮、小早川隆景(たかかげ)に光秀があてたものの、ついに届かなかったとされる密書の写しが掲載されている。その真偽については研究の諸大家のなかでも意見が割れているのだが、以下のような文言がある。
 「光秀こと、近年信長に対し、憤りを懐き、遺恨黙止(もだし)難く、今月二日、本能寺において信長父子を誅し、素懐を達し候」
 これらの「書状」をつなぎ、「本能寺の変」の前後における光秀の言動と心理を照射する資料がある。一時は光秀の「盟友」ともいえる存在だった細川幽斎(藤孝)を祖とする旧熊本藩主細川家に伝わる『細川家記(綿考輯録=めんこうしゅうろく)』と『永源師檀紀年録』である。
 幽斎は天文3(1534)年、室町幕府将軍の側近・御部屋衆の三淵家に生まれ、後年、細川氏を継いだ。12代将軍、足利義晴落胤(おとしだね)とも伝えられる。名は「藤孝」といい、後述するように本能寺の変を機にもとどり(髪を頭頂部に束ねたもの)を切り、「幽斎」と号する。
 貴種・幽斎と中間(ちゅうげん)・光秀-交差する運命
 その幽斎は2歳年下の13代将軍、足利義輝(よしてる)の側近中の側近である御供衆(おともしゅう)に抜擢され、義輝が暗殺された後は「最後の将軍」となる足利義昭の擁立に尽力。幽斎が光秀と知り合ったのは、将軍になれないまま義昭が越前国福井県北部)・朝倉義景のもとに身を寄せた永禄9(1566)年前後とみられる。義昭に仕えるようになった光秀は幽斎の指揮下(「中間」という説も)にあったとされる。
 信長によって義昭が追放された天正元年以降、幽斎は信長に仕える。光秀はその2年前、義昭と信長の双方の家臣を兼ねるという変則的な主従関係を解消して信長に“専従”。その後、光秀が織田家でめきめきと頭角を現すなか、幽斎も信長にその文武両道にわたる能力を高く買われ、丹後国京都府北部)を任されるものの、彼は「近畿方面軍司令官」である光秀の指揮下に組み入れられる。
 天正6年、光秀の娘、玉(後のガラシャ)と幽斎の嫡男、忠興との婚姻が結ばれる。幽斎と光秀は苦楽や風雅の道をともにした長年の戦友であり、縁戚でもあったが、微妙な部分を内包する関係だったといえる。
 光秀の手を借りて神明が信長を罰す-史料は語る
 「自分は信長公の深いご恩を受けた身であるから落髪して多年の恩を謝す。その方は光秀とは聟(むこ)と舅(しゅうと)の間柄だから、彼に与(くみ)するか否かは心のままにせよ」
 本能寺の変の翌日、丹後・宮津城に京都からの飛報がもたらされた。幽斎は天を仰いで悲嘆した後、忠興にそう告げた。忠興は涙ながらに父・幽斎の決意に同意し、ともに落髪した。
 おそらくその日のうちのことだろう。光秀の家臣、沼田光友が宮津城を訪れ、光秀の言葉を伝えた。
 「信長はわれに度々面目を失わせ、わがままの振舞いばかりであることから、父子ともに討亡し、鬱積を晴らしました。つきましては軍勢を引き連れて早々に御上洛を。今後は何事も念には念を入れて協議しましょう。また幸いにも摂津国大阪府北西部と兵庫県南東部)には主がおりませんから、ご領有ください」
 激怒した忠興は沼田を殺そうとしたが、幽斎は「使者に罪はない」として光秀のもとに送り返した。すると光秀から書状が届けられた。そこには「落髪したことに一時は立腹したがいまは納得した」「摂津国以外に若狭国福井県南西部)が所望ならば割り当てよう」「この不慮の一件は忠興たちを取り立てたいがためのこと。50日から100日の間に近国を固め、後は忠興たちに引き渡す」などと記されていた。
 以上、『細川家記』の記述である。が、同書もタネ本にしたとみられる『永源師檀紀年録』には、最終的に謀反の首謀者・光秀に見切りをつけるという判断は同じながら、次のような興味深い話を収載している。
 「近年、織田家は権を誇り、おごり高ぶって他を軽侮しており、その対象は光秀だけでなく、諸将みな同じである。かつ日蓮宗を信じて他の諸寺や諸社を焼却した事例は数え切れない。たとえ戦火でその地を焦土と化しても、後には再建してこれを敬すのが武門の習いだが、かの公(信長のこと)にそんな気持ちは決まったくない。悪逆無道比類を絶し、人望はない。ゆえにいま、光秀の手を借りて神明が罰したのだ」
 幽斎の次男、興元の発言である。彼はさらに「われらは織田家に深恩があるわけではない」と続け、友好関係にあった光秀にすみやかに援軍を送るよう主張した。これに対して忠興は「一理はあるが、代々の領地を失い、身の置き所がなかったわれわれが丹後を領有するようになったのは織田家の恩である」と反論。それまで黙って聞いていた幽斎は「忠興に理がある」と決したという。
 「変」への予兆
 また、小異はあるが、『細川家記』『永源師檀紀年録』ともに、「変」の数年前、幽斎と光秀の間にこんなやりとりがあったことを記している。
 「信長公の悪逆は日蓮宗に帰依後、日に増長している。貴殿はそれを改めさせようと思い、心を砕いている。不可能ではないだろう。しかし、凡衆に抜きんでた者は讒言(ざんげん)に傷つけられ、林から抜きでた木は風によって折られる。よくご思案あれ」
 幽斎がこう忠告すると、光秀は「肝に銘じましょう」と感謝した-。
 さらに『永源師檀紀年録』によると、「変」の数週間前、光秀は家臣の引き抜き問題などをとがめられ、信長と小姓の森蘭丸から計2度にわたって額を打たれて出血し、醜い傷跡が残った。それを見た幽斎は明智家の屋敷に出向き、数時間にわたって光秀を「説諭」。また「変」の約1週間前には、「心知らぬ人は何とも言わば言え 身をも惜しまじ名をも惜しまじ」と詠み、沈思する主人の様子を心配した光秀の家臣に「教諭」を頼み込まれ、幽斎は「信長公に恨みをもってはならない」と光秀に説いたという。
 信長と日蓮宗との関係を一例として、両書にはふに落ちない記述が散見されるのは確かだ。しかし、これらの話が大意において真実を伝えているならば、浮かび上がってくるのは、信長に忠言が容れられないばかりか理不尽に体面を汚される光秀の姿である。
 そこから生まれた怨恨(えんこん)が光秀に本能寺の変を決意させたのだろうか。また、幽斎は光秀の逆心に気付いていたのか。次回、旧熊本藩主細川家18代当主であり、第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕さん(81)とともに考えてみたい。(編集委員 関厚夫)=(3)に続く
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 6月5日 産経新聞「【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(3)細川護熙氏「歴代当主は信長の恩感じてた」
 「本能寺の変」や信長・光秀・幽斎について語る細川護熙さん=東京都品川区(古厩正樹撮影)
 細川護熙さん(81)。第79代内閣総理大臣であり、細川幽斎(藤孝)を祖とする旧熊本藩主細川家の第18代当主である。その細川さんに、4世紀半の時を超えた“時代の証言者”として、「本能寺の変」とともに織田信長明智光秀、そして幽斎について縦横に語ってもらった。(聞き手 編集委員・関厚夫)
 光秀と幽斎については、出会った当初は肝胆相(かんたんあい)照らす仲といいますか、上下関係はなかったと思います。でも、ともに室町幕府の最後の将軍となる足利義昭に仕えているうちに光秀は幽斎の麾下(きか)に入るのですね。光秀にしてみると物足りなかったのでしょう。足利将軍家や細川家のもとを飛び出すかっこうで、猛烈な勢いで台頭してきていた信長に仕官します。そしてとんとん拍子で取り立てられるようになり、後年、幽斎が信長の家臣になってしばらくすると今度は幽斎が光秀の麾下に入ることになり、立場が逆転します。
 本能寺の変のさい、出生年不明とされる光秀が50代半ばだったとすると、幽斎より5~6歳年長にあたります。そこに両者の出自や教養、武将としての能力などを比較・勘案しますと、「変」が起こるまでは「盟友」の側面もある一方、光秀と幽斎という2人の関係にはなかなか微妙なところもあったと推察されます。
 信長は「多年の恩人」か「悪逆無道」か-究極の決断
 本能寺の変後、光秀から応援要請を受けたとき、幽斎は「自分は信長公のご恩を深く受けているので、落髪して多年の恩を謝す」と宣言し、即座に光秀と絶縁します。その判断にいたった理由については種々の史料をひもといてもよくわからないところがあります。ただ、長男の忠興に対して「その方は光秀とは聟(むこ)と舅(しゅうと)の間柄なのだから彼に与(くみ)すべきか否かは心のままにせよ」と述べたのは、「忠興が光秀に与することはない」とわかっていたうえでの発言でしょう。
 『永源師檀紀年録』によりますと、このとき、幽斎の次男、興元(おきもと)は「信長の悪逆無道は比類を絶している。それゆえ、光秀の手を借りて神明が織田家を罰したのだ」として光秀への加勢を主張した(※1)といいます。史実かどうかは別としてこの発言は正論だと考えています。
 私は信長のことは好きですが、「悪逆無道」は言い過ぎにしても、信長にはたいへん乱暴なところがあったことは確かです。ですので当時、幽斎は本当に難しい決断を迫られていたと思います。私が幽斎ならば、諸情勢や手持ちの情報を照らし合わせながら相当迷ったことでしょう。
 『細川家記』や『永源師檀紀年録』には、信長の「増長」に諌言(かんげん)を重ねる光秀に対して幽斎が心配のあまり、「あまり目立つことはしないほうがよい」と忠告したり、光秀が信長に対して怨恨(えんこん)や鬱屈した気持ちを抱いているのではないか、と幽斎自身も感じ、光秀の家来からも同様の理由から「教諭」するよう頼み込まれたため、何度か光秀と話をする-といった逸話が記載されています(※2)。
 個人的にはこうしたことはあっただろうと考えています。しかし、光秀が「親身な幽斎はおれの心をわかってくれている。だから信長を討っても味方してくれるはずだ」と考えたのならば、それは誤りです。幽斎は「上様(信長)を恨みに思ってはならないし、万が一にもおかしなことを考えるな。取り返しのつかないことになるぞ」ということを暗に知らしめるために光秀に再三面会を求めているわけですから…。本能寺の変を知って幽斎もまた、「光秀に裏切られた」と感じたことだったでしょう
 細川家歴代に共通する信長への思い
 十数年前でしたか、細川家の菩提(ぼだい)寺だった泰勝寺跡(熊本市中央区)に建てられているご祠堂を点検したことがありました。歴代の先祖の位牌(いはい)がまつられており、「よほどのことがないかぎり、開扉してはならない」と父から伝えられていたのですが、当時は台風被害で雨漏りがしていたようでしたので…。ということで、扉を開けたところ、正面、その真ん中に信長の木像が鎮座していました。先祖の位牌よりも信長像を中心にしてまつられているのです。歴代の当主たちがいかに信長の恩を深く感じていたか…。本当に驚きました。
 ちなみに忠興は信長の小姓に取り立てられ、非常にかわいがられました。彼の初陣をたたえる信長直筆の書状が残されていますし、細川家の家紋「九曜(くよう)紋」は忠興が信長から拝領したものです。『細川家記』によりますと、信長の小刀の柄(つか)にあしらわれた九曜(1つの大円を8つの小円が囲んでいる形)の意匠をみた忠興が「これはすてきだ」と思って紋にして着物に縫い付けていたら信長に「よく似合っておる。今からそれをお前の家紋にせよ」と言われたということです。
 また幽斎は室町幕府第12代将軍、足利義晴落胤(おとしだね)だった-と伝えられるほど、足利将軍家にゆかりがありました。その幽斎が擁した足利義昭を信長は征夷大将軍にし、最後は追放したものの、武家の棟梁(とうりょう)としては難のあった義昭を精一杯支えていた時期もありました。こうしたことが積み重なって、幽斎や忠興だけでなく後々の当主たちも、菩提寺のご祠堂の真ん中にまつるとともに、「信長公に対しては足を向けて寝られない」という共通した思いを抱いていたのではないでしょうか。
 「本能寺の変」から何を学ぶべきか
 『西郷南洲手抄言志録』。西郷隆盛が江戸時代後期を代表する儒学者佐藤一斎の著作を抜き書きしたものですが、そこにこんな言葉があります。
 「政(まつりごと)を為すの著眼(ちゃくがん=着眼)は情の一字に在り。情に循(したご)うて以て情を治む、これを王道と謂(い)う」
 つまり、トップに立つ者には情がないとだめだということです。信長には、特にその晩年期にはそうした情が感じられないような話がたくさんあります。情に偏りすぎても困るけれども、「情に従ってもって情を治める」。中国の伝説の皇帝である堯・舜の政治や「三国志」で有名な劉備にしてもみんなやはり情があります。情というものが根底にないと、人はついてこないのです。
 また本能寺の変の前後に関しては、現代的なことばでいえば、信長という一人の天才に牽引された「織田政権」の安全保障、ひらたくいえば信長の身辺警護の点で明らかに問題がありました。最小限の軍勢で京都入りし、防御施設も貧弱、光秀以外の織田家の軍団長たちはみな地方に遠征しているか、遠征直前で、「いざ」というときに短時間で京に駆けつけられる援軍がいない…。信長は「いまどき自分に刃向かうものがいるわけない」と頭からたかをくくっていたのでしょう。油断があり、おごりもあったということです。
 逆に光秀にとっては千載一遇ともいえるチャンスでした。私見を述べますと、光秀については「変」を起こすだけの十分な理由-広い意味での怨恨-があったと考えています。
=(4)に続く)
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 6月6日 産経新聞「【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(4)細川護熙氏、光秀の大河「成功を祈る」
 細川護熙さん=2007年9月、神奈川県湯河原町の不東庵
 (3から続く。細川護熙氏が祖先である幽斎と本能寺の変、信長を語っている)
 「明智光秀論」の前に言っておきたいのですが、織田信長については政(まつりごと)をつかさどるリーダーとしての偉大な資質を多々兼ね備えた人物だったと考えています。
 信長は卓越した教育者だった
 その一つは人を育てる力です。
 たとえば、信長が爪を切った後、爪を拾う役の小姓がいつまでもうろうろと何かを探している。「どうした」と尋ねたところ、その小姓は「お爪が一つどうしてもみつかりません」。それを聞いて信長は「その心がけだ、大事なのは。その心がけのない者はだめだ」とたいそうほめたといいますが、同じような話はたくさん伝えられています。
 教育者・信長に最も鍛えられたのは豊臣秀吉でしょう。たとえ殴られようが蹴られようが、秀吉は全身全霊で信長に仕え、それゆえに報われた。そう簡単に置き換えることはできませんが、2人の関係には現代人も学ぶところがあると思います。
 これは『太閤記』に記載されている話ですが、秀吉が安土城に歳暮を携えて参上したさい、信長への進物を乗せた2列の荷車が延々と続き、先頭が安土山の山頂近くにある城門に着いてもまだ後続は山の麓のあたりに列をなしていた。そのありさまを天主閣から眺めていた信長は「あの大気者ならば支那(中国)や天竺(インド)を退治せよ、と言われてもこばみはすまい」と話し、上機嫌だったといいます。
 ここまで部下をほめることはなかなかできません。自分以上にたたえているわけですから。秀吉もさぞ感激したことでしょう。これも信長が教育者として卓越していた一例です。
 また何より信長には「息諍(そくじょう=争いをとどめること)の功」といいますか、当時の非常に混乱した世の中をごく短期間でまとめてゆくことのできた異能の持ち主でした。ただしそのためには「延暦寺焼打ち」や一向一揆に対する鎮圧の過程などでかなり乱暴なことをしたことも事実です。
 「本能寺の変」を招いた光秀の怨恨
 「信長による乱暴」という視点から光秀を見つめると、彼は本能寺の変に至るまでよく我慢していたとさえ思います。
 その理由についてはいくつも挙げることができます。異論はあるようですが、八上(やかみ)城(兵庫県丹波篠山市)攻略のさいには、和議に応じた城主を信長が処刑した結果、人質として八上城内に差し出していた自分の母が殺されたと伝えられています。また「変」の直前には、光秀にとっては家臣を通じて“縁戚”ともいえるような関係だった土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏について信長は光秀を無視するかっこうで征伐することを決定しています。
 また、信長は光秀の額を扇子で打ち、けがをさせたともいわれていますし、数々の屈辱に武門の面目が立たなくなったのが「光秀謀反」の主因とする説もあるようです。いずれにせよ、光秀にとって信長は、「政(まつりごと)を為すの著眼(ちゃくがん=着眼)は情の一字に在り。情に循(したご)うて以て情を治む」という前回申し上げた格言にいう「情」に欠けた政治家だったことが「変」が起きた最大の理由だったと考えています。
 まずこういった広い意味での怨恨があり、それを晴らした先に天下取りがある。そういった意味で、光秀にはまず「天下への野望があった」という説には賛成しかねます。「天に代わって信長を討つ」とする「暴君討伐説」といった見方もあるようですが、それは大義名分を掲げるための後付けの理屈みたいなものでしょうね。
 人望が戦国武将の命運を分けた
 光秀に関しましては、相当に教養があって、武将としても行政官としてもその能力は傑出していたと考えています。またあばたの女性をあえて妻としたように人情にも厚い人だったようです。
 しかしながらその教養のあまり、政治家として、また人間として、秀吉などと比べると、泥臭い根回しや強力な仲間や味方つくりについては劣っていたのではないでしょうか。だから「織田政権」下では「近畿管領」ともいうべき立場だったにもかかわらず、本能寺の変の後は畿内の一部しか固めることができませんでした。世は下克上・弱肉強食の戦国時代です。「謀反の首謀者」とはいえ、あれだけ人がついてこなかったというのはそんなところに原因があるのでしょう。
 若干身びいきになりますが、後年の関ヶ原の戦いの前哨戦で、1万5000人もの西軍が、東軍に属した細川家の本拠・丹後に攻め寄せたさい、幽斎はわずか500人の手勢で本拠の田辺城(京都府舞鶴市)に籠城し、30倍もの相手を2カ月近くにわたってくぎ付けにしました。ためにこの大軍は肝心の関ヶ原の戦いで西軍に加わることができなくなり、徳川家康率いる東軍が完勝する要因の一つとなりました。
 戦後、家康が幽斎にほうびをとらせようとすると、幽斎は再三固辞したうえでこう言ったそうです。「田辺城攻めの西軍の中にはわれらと志を通ずる者どもがおりました。拙者へのほうびの代わりに彼らの所領をご安堵ください」と。
 実際、包囲軍のなかには幽斎にとって和歌や能の弟子たちがいて、彼らの動きが鈍いために城攻めがうまく機能しなかったそうです。そういう人的なつながりの広さ、ある種の徳については光秀の場合には少し足りなかったのではないでしょうか。彼に学芸や武芸の弟子がたくさんいたとは聞きませんから。
 『麒麟がくる』とガラシャ
 来年のNHK大河ドラマ麒麟がくる』は光秀が主人公だそうですね。実は、前々から熊本県をはじめとしてゆかりの地から「大河ドラマの主人公にはぜひ光秀の娘で忠興夫人でもあった細川ガラシャ(玉)を」といった運動があり、私も協力を求められました。
 でも、ガラシャの享年は38(数え)です。その短い生涯をもって1年間という長期の放映をカバーするのは難しいし、当時のキリシタンキリスト教をどう描くべきかという、NHKならではの難問もある。なので、私は「ガラシャはハードルが高いですから光秀でおやりなさい」とアドバイスする一方、理事長を務める永青文庫(※)の評議員を務める著名な先生方と“対策会議”を開いたりしていました。そうこうしているうちに昨春、『麒麟がくる』に決まりました。してやったりです(笑)。
 ガラシャに関しては、光秀からの応援要請を幽斎・忠興父子がはねつけた後、味土野(京都府京丹後市)に幽閉されます。夫・忠興の居城があった宮津から車で約1時間半。途中、大人が手を広げたほどの幅の林道で、片側は崖です。冬には2メートルもの積雪があるそうです。
 当時、ガラシャ幽閉の地は殺害や拉致を狙う諸勢力を撃退するために砦化されており、松本清張の小説『火の縄』の題材にもなっています。果たしてそんなところまで描くことができるかどうかは別として、いまは来年の大河ドラマが成功することを祈るばかりですね(笑)。
 (聞き手 編集委員 関厚夫)
 ※=旧熊本藩主細川家に伝わった歴史史料や美術品などを保管・一般公開する公益財団法人。東京都文京区にある。
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 今回の連載の主な引用・参考文献は次の通り(編・著者敬称略 旧字体新字体に変換している)。
 綿考輯録1、2巻(出水叢書)▽永源師檀紀年録並付録 正伝永源院蔵本(今谷明監修、阿波郷土会)▽増訂織田信長文書の研究(奥野高広著、全3巻)▽新訂信長公記太田牛一著・桑田忠親校注、新人物往来社)▽フロイス日本史(全12巻、松田毅一、川崎桃太訳、中央公論社)▽史料で読む戦国史 明智光秀藤田達生福島克彦編、八木書店)▽石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世(浅利尚民・内池英樹編、吉川弘文館)▽信長記太閤記小瀬甫庵著、国民文庫刊行会)▽明智軍記(二木謙一校注、新人物往来社)▽人物叢書 明智光秀(高柳光寿著、吉川弘文館)▽明智光秀桑田忠親著、新人物往来社)▽細川幽斎細川護貞著、中公文庫)▽細川幽斎 戦塵の中の学芸(森正人・鈴木元編、笠間書院)▽続細川幽斎の研究(土田将雄著、同)▽信長権力と朝廷(第2版 立花京子著、岩田書院)▽検証本能寺の変(谷口克広著、吉川弘文館)▽武将列伝3(海音寺潮五郎著、文春文庫)▽明智光秀の生涯と丹波福知山(小和田哲男監修、福知山市)▽ここまでわかった! 明智光秀の謎(『歴史読本』編集部編、新人物文庫)▽明智光秀本能寺の変小和田哲男著、PHP文庫)▽明智光秀 残虐と謀略(橋場日月著、祥伝社新書)▽戦国史の俗説を覆す(渡邊大門編、柏書房)▽内訟録(細川護熙著、日本経済新聞出版社)▽大日本史料総合データベース(東京大学史料編纂所)」
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