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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
織田信長は、安土城天主の6層7層に、仏教、儒教、道教にかかわる絵を描かせた。
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日本・中国・朝鮮を含む中華世界には2つの代表的統治モデルがある、1,周王朝がつくった宗教的封建制システムで、2,秦の始皇帝がつくた非宗教的皇帝専制の中央集権制システムである。
儒教は、徳で治める宗教的封建制システムを王道を理想として説いていたが、現実的には武で治める覇道の非宗教的皇帝専制中央集権制システムを礼で支えた。
日本は王道の宗教的封建制システムで、中国や朝鮮は覇道の非宗教的皇帝専制中央集権制システムであった。
日本の統治支配体制は2階建てで、土台の1階は天皇家・皇室による王道で、目立つ2階は公家の朝廷と武士の幕府による覇道であった。
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2022年3月号 WiLL「PHOTO ESSAY
石平が観た日本の風景と日本の美 55
岐阜城で信長の天下布武に思う
岐阜市内の金華山山頂に天守が聳(そび)え立つ岐阜城は、織田信長の『天下布武』の居城として知られる。もともとは稲葉山城と呼ばれて斎藤道三の居城であったが、永禄10年(1567)、信長は道三の孫に当たる龍興からそれ奪って自らの本拠地にした。
そして信長は稲葉山に新しい居城を築き、その城下町を併せて『岐阜』と命名した。中国古代史上、有名な周王朝は、今の陝西省にある岐山(きざん)の麓から発祥し、やがて天下統一を果たした。信長がその故事に因(ちな)み『岐阜』と命名したというのが日本史の通説である。
実際、信長は岐阜城の命名と同時に『天下布武』の朱印を用い始めたから、美濃国を手に入れた信長はその時から、自らによる天下統一を強く意識することになったのだろう。
思えばその時の信長は、金華山の山頂に聳え立つ岐阜城の展望のいい天守から、長良川が悠然と流れる下界の大地と、その遠くの山々を眺めては、『天下』に思いを馳、日本全国の統一を心に誓ったのではないだろうか。
問題は、信長が一体どのような形で天下統一を目指し、そしてどのような日本国を自らの手でつくり上げていくつもりだったのか。本人は本能寺の変で志半ばで斃(たお)れたため、日本史の謎の一つとして、われわれ後人の推測に委ねるしかない。
信長が岐山から発祥した中国の周王朝と同じような国家建設を目指すのであれば、彼が天下統一を果たしたところでつくるのは、一種の封建制国家だったはず。というのも、周王朝が当時の中国でつくり上げて施行したのは、まさに典型的な封建制的政治システムだったからだ。
周王朝の封建制では、周王と朝廷は天下統一のシンボルになっているが、国全体を直接統治することはしない。王の一族の多くは建国の功臣たちが『諸侯』として全国に封ぜられ、土地は分割され、彼ら諸侯たちに領土として与えられる。そして王と朝廷が直接支配するのは都周辺の『王畿(おうき)』という限られた土地であり、王の役割はむしろ、天下万民のためにお祈りしたり、天下の秩序を維持するためのシンボルであったりする。
中国の歴史上、周王朝の封建制と正反対の政治制度として考えられるのは、秦の始皇帝がつくり上げた皇帝専制の中央集権制である。
中央集権制の下では、全国の土地と人民は皇帝とその一族が独占するものとなり、朝廷の直接支配下に置かれる。皇帝はその手足として官僚を使い全国支配を行うが、その際、土地と人民は全部皇帝とその一族の私有物となり、官僚を含めた臣民は全員、皇帝様一人の奴隷でしかない。
秦の始皇帝が皇帝専制の中央集権制の大帝国をつくり上げたのは、紀元前221年だが、それから2千数百年間、中国の民はずっと独裁の圧政に喘(あえ)いでいる。考えてにれば、秦の始皇帝による天下統一と国家建設は、中国の歴史と民にとって悪夢の始まりでしかなかったのだ。
それに対し、日本の場合はどうであろうか。
話を信長に戻すと、信長が本能寺の変で斃れずに、天下統一と国づくりを最後まで完遂できたのならば、普段から独裁志向の強い彼はおそらく周王朝のような封建制ではなく、むしろ始皇帝流の中央集権制をこの日本でつくり上げたかもしれない。天下統一を果たした時点で、信長には日本という国の形を自分の思惑通りにつくり替えるほどの力は十分に持ち合わせていただろう。しかしそれでは、日本の歴史はその時点から、後の江戸期とはまったく別の道を歩むことになったかもしれない。
結果的に信長が本能寺の変で消え、彼にとって代わり天下統一を最後的に完遂したのが徳川家康だ。そして家康のつくり上げた天下国家の形は、まさに周王朝の封建制とほぼ同様の幕藩体制である。その時点から日本は二百六十数年間、平和と
安定と繁栄の江戸時代を経験し、そして近代を迎えるための文化的基盤を固めた。
こうしてみると、信長の天下布武が途中で頓挫したことは日本にとってむしろ歴史の幸いであったかもしれない。信長が『織田の始皇帝』になった暁には、この日本は一体どうなっていたのだろうか。
令和4年正月、冷たい風の中で岐阜城の天守に初めて立った不肖(ふしょう)私は、信長と同じ場所(?)から『天下』の風景を眺めながらそう思ったのだった。」
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2021年4月3日 YAHOO!JAPANニュース THE PAGE「安土城天主を築いた織田信長という「アバンギャルド(前衛)」
織田信長が約3年の歳月をかけて完成させたという安土城。当時の日本最高の技術を結集して築かれたといわれていますが、家臣の明智光秀が起こした本能寺の変のすぐ後に焼失してしまいました。
建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「安土城天主には明らかに西洋建築の影響が見られる」と指摘し、「現存していればまちがいなく世界遺産となったであろう」といいます。若山氏が独自の視点から論じます。
天守閣建築
最近はあまり聞かないが「アバンギャルド(前衛)」という言葉は、少し前の芸術の世界では大きな価値をもっていた。芸術家は常に時代の先端を走っているべきだと考えられていたからである。
前回、この欄で織田信長を「世界と科学を意識した近代人」と称したのだが、文化論的にいえば、彼の功績のひとつは、安土城天主という、かつてない前衛的な建築を築いたことである。
いわゆる天守閣(一般には「天守」だが安土城に限っては「天主」を使う)のような建築は、日本建築史において、安土桃山から江戸初期までのきわめて短い時期に出現したものだ。仏寺の様式としての和様、唐様、大仏様、神社の様式としての神明造、大社造、住宅の様式としての寝殿造、書院造、あるいは数寄屋(茶室)といった、日本の風土に即した木造建築様式の主流からは外れた特殊なものといえる。
高層という点では五重塔に近く、塗籠(ぬりごめ)という点では蔵に近いが、それが南蛮文化と接触した時期に登場したことは、五重塔とは異なり高層部に登れること、石造煉瓦造に近い難燃性、高大さによる象徴性などの点で、ヨーロッパの聖堂建築の影響を感じ取っても不思議ではない。そのプロトタイプ=原型が、信長がつくった安土城天主なのだ。
安土城復元
『信長公記』ほか多くの文献史料と、静嘉堂文庫に残る池上家(加賀藩作事奉行)の文書『天守指図』と、安土山遺構の詳しい実地調査から、安土城天主を復元したのは、名古屋工業大学の教授であった故内藤昌博士である。同じ職場にいた僕にとって厳密には母校の先輩であるが、日本建築史においては師匠格である。発想は豊かで実証と論理は厳密で、研究への情熱はすさまじく、多くの学者から尊敬を集めていた一方、いいかげんな研究には非常に手厳しかったので、人に疎まれる面もあった。
その内藤博士による復元の特徴は、天主中央に存在する4層までの「吹き抜け」で、他の歴史家の異論もあって物議をかもしたところだ。建築家として『天守指図』の平面図を見れば、中央の白い部分が吹き抜けを示すように思われるが、文献史料にはその記述がないのもたしかである。しかしここではこの問題にこだわらない。信長の思想が表れているのはむしろその上階の部分だ。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが残した記録が信頼に足ることは前回書いたが、安土城に関する記述を引用しよう。
「真中には、彼らが天守(ママ)と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これらの層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上階はすべて金色となっている。この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりの最も堅牢で華美な瓦で覆われている」(『完訳フロイス日本史』全12巻・松田毅一、川崎桃太訳・中公文庫)
天主を「塔」と表現していることからも、すでにフロイスが訪れてその様を詳述している岐阜城(安土の前の信長の居城)とは異なる感覚であったことがうかがえる。
思想としての建築
特に重要な上部二層の意匠に関して『信長公記』の記述も参考にしよう。
「六階は平面八角形で、四間ある。外の柱は朱塗り、内の柱は金色。釈迦十大弟子など、釈尊成道説法の図。縁側には餓鬼ども・鬼どもを、縁側の突き当たりには鯱と飛竜を描かせた。
欄干の擬宝珠には彫刻を施した。
最上階七階は三間四方。座敷の内側はすべて金色、外側もまた金色である。四方の内柱には上り竜・下り竜、天井には天人が舞い降りる図、座敷の内側には三皇・五帝・孔門十哲・商山四皓・竹林の七賢などを描かせた。
軒先には燧金・宝鐸十二箇を吊るした。六十余ある狭間の戸は鉄製で、黒漆を塗った。座敷の内外の柱はすべて漆で布を張り、その上に黒漆を塗った」(現代語訳『信長公記』・太田牛一著・中川太古訳・(新人物往来社)
外国人と日本人では記述の仕方が異なり、現代の日本人にはむしろ前者の方がなじみやすいが、内容に矛盾があるわけではない。双方の記述を合わせることによって、職人が技をつくした金箔、朱塗り、黒漆の絢爛たる様子が見えてくる。そしてその画題が、当時の書院造に一般的な花鳥風月ではなく、中国の古典と仏教に依拠していることは、ヨーロッパの建築を飾る画題がギリシャ神話とキリスト教に依拠していることを彷彿とさせる。下階には花鳥風月も描かれたようだが、全体に中国の故事にちなむものが多い。そして仏教という宗教より、神話と歴史を上階においたところが注目される。
つまりこれは宗教建築でも実用建築でもなく、日本では珍しい、ある種の「思想の象徴」としての建築であったと思われる。
フィレンツェのドゥオモ
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(写真:アフロ)
第6層の八角平面というのはもちろん珍しい。しかも高層建築でその上に四角平面の層が載るというのはほとんど例がない。大阪城や江戸城など、のちの天守閣もこの点だけは踏襲していない。日本の建築的常識では一種の「奇観」といっていいものだ。
そこで僕が思いついたのはフィレンツェのドゥオモすなわちサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母大聖堂)の影響である。
イタリアではドーム屋根だけでなくヴォールト屋根も含めてその街の最大の教会堂を「ドゥオモ」と呼ぶ習慣があるが、このフィレンツェのドゥオモはドゥオモの中のドゥオモといっていい、イタリア・ルネサンスを代表する建築で、この時代のヨーロッパにおける最大最高最新の建築であった。しかも信長はフロイスらに、ヨーロッパにはどのような建築があるのかを尋ねている。もし宣教師たちが具体例をあげて説明するとすれば、このフィレンツェのドゥオモをあげることはきわめて自然である。
天才的な建築家フィリッポ・ブルネレスキによって設計された巨大なドーム屋根(1434年ドーム部分完成)は、8本のコンクリートのリブをもつ二重の殻で支えるという巧緻な技術の結晶で、しかもドームの上に望楼が載っており、高く聳(そび)えるだけでなく、ルネサンス人に高楼からの俯瞰という新しい視野を開いたのだ。一見円形に見えるが、上から見れば8本のリブが八角形を形づくっている。
安土城天主第6層の八角平面は、宣教師たちが信長にフィレンツェのドゥオモについて説明したことが反映されているのではないか、というのが僕の推論である。とはいえこれはあくまで推論であり、それ以上のものではない。史実というよりロマンとして受け止めてほしい。
西洋に対する東洋
安土城天主には明らかに西洋建築の影響が見られる。前回述べたように安土城の建設中、同じ安土の街に、安土城天主と同じ瓦で葺かれたそびえ立つ修道院(セミナリオ=神学校)の建設が進められていたのだ。信長は、南蛮文化の向こうに、石を積み上げて永続的な空間を築く、カテドラル(大聖堂)を中心とする巨大な都市構築文明があることを見抜いていたに違いない。
しかし安土城天主の6層7層に、仏教、儒教、道教にかかわる絵を描かせたことから、特にキリスト教に信心していたわけではないことは明らかである。内藤博士はこの天主に現れているものを「天道思想」とし、僕によく、信長には道教の影響が強いことを語ってもいた。たしかにそうだが、僕はこの天主に現れているのは、宗教以上に歴史を重視する精神ではないかと考えている。中国の古典を仏教の上階に置いた信長には、宗教より歴史と思想を重視する意識があったのではないか。
それは16世紀における西洋と東洋の文化衝突を体験した人物の、「西洋に対する東洋」という思想ではないか。「南蛮」の彼方に西洋文明の巨大さを見抜いた信長の意識は、「黒船」の彼方に近代文明の巨大さを察知した幕末維新の革命家の意識に似ていた。日本人が「東洋思想」という概念を抱くのは、西洋文明に圧倒されたときである。
アバンギャルド建築家
前回、信長を世界と科学を意識したその時代唯一の近代人とした。それに加えて彼は、長槍、鉄砲、鉄甲船といった戦闘技術の革命児でもあり、楽市楽座、街道整備などまちづくりの革命児でもあった。そしてアバンギャルド建築家でもあったのだ。文化論的にいえば、明智光秀の罪は、信長とともに安土城天主を焼いてしまったことでもある。現存していればまちがいなく世界遺産となったであろう。
安土城天主には、信長の前衛思想家としての側面が見えてくる。天皇にとって代わろうとした、あるいは神になろうとしたという俗説にくみすることはできない。
とはいえ、前回書いたように、信長の残虐な殲滅主義、苛烈な能力主義、進取の技術主義が、そのまま賛美すべきものというわけではない。近代も、前衛も、正義というわけではない。むしろ極端な前進は危険なものだ。」
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天道思想―「宗教で読む戦国時代」(その1)
2016年09月20日09:00 カテゴリ:社会
KB252160.jpg日本人は無宗教だという言説がある。
日曜日に教会に行くこともないし、一日のはじまりが神への祈りで始まる人というのはそう多くない。
そのくせ、初詣に行き、お盆やお彼岸の行事はやる。結婚式は神式が多く、最近はキリスト教式が増え、葬式は多くが仏式である。
外国人からは、日本人には信じる神はいないのかというように見えるというわけだ。
「家の宗旨は○○です」という言い方はしても、「私は○○の信者です」という言い方は稀である。
何という本だったか忘れたけれど、日本人に宗教心がないというのは、特定の教派・教会という組織への帰属のことにすぎず、ちゃんと神を敬う気持ちはもっているという反論を読んだことがある。
神田千里「宗教で読む戦国時代」は、この根深い日本人の宗教心というのが、既に戦国時代からあったという。
著者はそれを「天道」思想と表現している。
子供の頃、「お天道様が見てるよ」と言われて育った人は多いと思う。脈々と流れている神を畏敬する気持ちであろう。
信長ですら天道思想の持ち主であったとする。
信長と宗教といえば、叡山の焼き討ち、長島一向一揆の皆殺し、石山本願寺との長い闘いが思い起こされるけれど、信長は宗教を否定しているわけではない。信仰も布教も禁止はしていないという。僧にあるまじき富や権力への執着、そのための敵対勢力との共闘、そういったものを攻撃したにすぎない。
また、日本の仏教諸派間の諍いは信仰上のものではなく、もっぱら教派指導者の権力争いだと分析する。
一向一揆(この言葉も江戸時代に真宗側が自らの功績を誇るために使いだしたものだという)は、宗教のための戦いではなくて、その地の時の権力者の争いに加わったもので、加賀が門徒で持つ国というのは、宗教国家を作ったのではなく、守護をめぐる戦いの結果として、寺が地域支配をしたものという見方。
しかし疑問もある。当時、激烈な宗派間闘争があったことをどう理解するのか。
天文法華の乱(1536年)。
僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した(天文法難)。
さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。
本書では、この乱については全く触れられていない。
なお、この事件の前に起こった山科本願寺焼き打ち(法華宗側と浄土真宗の諍い、浄土真宗の京都での勢力拡大に法華宗が対抗)については本書でも触れられてはいるが、著者は当時の公家の日記に「今日一時に滅亡、しかしながら天道なり」(鷲尾隆康『二水記』天文元年8月24日条)とあることをもって、天道思想が一般的であったことを傍証するものという扱いとなっている。
しかし、これはやはり無理があるように思う。
天文法華の乱の引鉄となったのは、法華宗が延暦寺に宗教問答をふっかけ、法華宗の一門徒が叡山の僧を論破してしまったこととされている。これを根にもった延暦寺側が、上述の暴挙に出たというわけだ。
著者がいうように、俗世の権力争いがからんでいたかもしれないが、発端は信仰の違いと考えるべきだと思う。
天道思想をもちだすなら、一部宗派は天道思想を受け入れていない、そしてその宗派の門徒以外は天道思想を持っているから、当該宗派を受け入れない、と解することが自然だと私は思う。
私の知り合いで教誨師をされていて、あちこちの刑務所を回っておられた方がいたが、その方は「創価学会の人が講和をすると他宗を否定するので受刑者が騒いでしまう」という話をされていた。
それはそうとして、著者は、天道思想がキリスト教受容の下地になった可能性を指摘する。
キリスト教の宣教師も、そのことに気づいていて、天道思想とキリスト教の教えを照応させて、布教につとめていたという。
しかしながら、一旦キリシタン、というか一神教になると、神の観念は変化するようだ。
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キリシタン―「宗教で読む戦国時代」(その2)
2016年09月22日09:00 カテゴリ:社会
KB252160.jpg一昨日、神田千里「宗教で読む戦国時代」をとりあげたけれど、今日は関連して思ったこと。
一昨日は、キリシタン、一神教になると、神の観念が変わるようだと書いたが、そういう神の観念自体が一神教特有のものなんだろう。
本書では、一向一揆は信仰をめぐるものではない、つまり信仰を賭けて戦ったものではない、弾圧者から、棄教を迫られるというような面はなかったと説明されているが、昨日書いたように、私はこの著者の説はやや怪しいと思っている。
絶対的な信仰を持つと人は変わるのである。そしてそれはキリスト教では顕著な姿になるようだ。
一昨日も書いたように、天道思想はキリスト教受容の下地になったと著者は指摘するのだが、仮にそうだとしても、キリシタンになったとたんに、日本の天道思想とは相容れないものになったのではないだろうか。
島原の乱は、キリスト教を棄教すれば許すという点、信仰のかかったものである。
もちろん叛乱者の団結を切り崩すという意図があっただろう。無理やりキリスト教徒にさせられた人たちもいて、それなりの効果もあったらしい。いずれにせよ、信仰が乱の大きな要素である。
一神教というのは、たくさんの神のうち一つを選んで信じるのではない。
神は一つのみ存在し、そしてその神のみをすべての人が信じなければならないということである。
∃1x∀y [ y は x を信じる ] ([ ワイはクルスを信じる ] と読んでください)
※ x と y の順番を入れ替える (∀y∃1x [ y は x を信じる ] ) と弱い命題=寛容な一神教になる
従って、他の神はすべて否定される。
同じ1つの神を信じるとしても――ユダヤ教の神、キリスト教の神、イスラム教の神は同じ神だと聞いているわけだけれど、この3宗教の対立は一体どうしたことか。同じ神を信じるものとしての連帯ではなく、お互いを異端(異教)視する。
対して、日本には八百万の神が居る。アニミズム的信仰の対象となるものは別として、主要な神や、各種の仏教教派があっても、これらは同じ神が違う姿で顕れたもの(本地垂迹)として、丸く収める知恵があるのに。
他宗を否定する教義の場合は、これがあてはまらない。
キリシタンは、弾圧された被害者のような扱いというか、学校の歴史の授業ではそういうイメージで教えられた覚えがある。しかし、既存宗教を否定し、信仰のためなら乱暴狼藉を働く一面があったことが、本書では紹介されている。
キリシタン大名の領国では、多数の寺社が破壊され、僧侶が殺されたという。島原の乱にあっても、多くの寺社が破壊されたそうだ。(昨日稿に書いた仏教教団間の暴力闘争があったことも、キリシタンの暴力行使への抵抗感を下げていただろうと思う。)
こういうキリシタンの乱暴狼藉の話を読むと、「ローマ人の物語」(塩野七生)や「背教者ユリアヌス」(辻邦夫)が重ねあわされてくる。これらを読んでいると、キリスト教というのが、どれほどイヤラシく、卑劣で、粗野なものなのか、「あのガリラヤ人どもめ」と罵りたくなる。現代の我々が賛美してやまない、ミロのビーナスやサモトラケのニケのような美術品が、キリスト教徒によって無残にも木端微塵にされてしまったのだ。
偶像崇拝を禁止するイスラム教(本来、キリスト教もだけど)では、過激派は異教の偶像を破壊する。タリバンやISの美術品破壊行為を批判する資格が、キリスト教徒にあるのだろうか。
eikyuji_map16.jpgそれは古代ローマの話じゃないか、その後キリスト教は洗練され、すばらしい芸術も生み出したという意見もあるだろう。しかし、日本ではわずか400年ほど前、すでにプロテスタントも出現している時代に、キリシタンが神社仏閣を、仏像・神像を破壊しまくったわけである。
もっとも、明治の廃仏毀釈の嵐も同様のことをしているわけだ。私が生まれ育った市には、内山永久寺という壮麗な寺院があったらしいが、廃寺となった。
西洋に学ぶということは、キリスト教の不寛容という精神を学ぶということだったのかもしれない。
一神腐乱である。
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日本の封建制度と西洋の封建制度は全然違う、それは支配者・統治者の封建君主を比べるのではなく、支配されていた日本の庶民・民衆と西洋の大衆・人民を比べれば明らかである。
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孔子の原始儒教が目指した理想国家・古代周王朝は、日本の天皇制度国家(ヤマト朝廷)で実現した。
同じ儒教と言っても、孔子の儒教、孟子の儒教、王陽明の儒教(陽明学)、朱熹の儒教(朱子学)、その他の儒教、など数多く存在している。
日本儒教と中華儒教(中国儒教・朝鮮儒教)とでは全然違う。
日本儒教は、四書五経のうち『論語』のみを道徳・修身の教材として人々に教え、同時に男尊女卑を広めて定着させた。
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儒教は、反宗教として神・仏・神秘を否定し、特に救済思想を持つ仏教を社会の害悪として弾圧し、仏に救いを求める貧しい信徒を小人と蔑み容赦なく大虐殺した。
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神や仏を信ずる日本人は、儒教を幾ら学ぼうとも所詮「論語読みの論語知らず」である。
つまり、現代日本人には儒教が説く「経世済民」の意味が理解できない。
その無理解は、キリスト教でもマルクス主義・共産主義でも同様である。
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現代の、日本には儒教が存在しているが、中国・北朝鮮や韓国には儒教は存在しない。
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皇室の血族優先(ネポティズム)は、血縁・地縁による依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇と日本民族は信頼によって結ばれていた。
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中国・朝鮮は、公・忠より私・孝を優先する一族・家族中心の宗族主義で、公然と賄賂による不正が蔓延る依怙ひいき、縁故、身びいきである。
楊逸「王朝時代の中国は、『家国』意識が強かった。漢王朝は『劉家天下』、唐王朝は『李家天下』と、国土と人民も皇帝家の『私有物』という考え方でした。」
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キリスト教伝来は、日本に明と暗・光と影の2つの真理を伝えた。
一つ目は、天地を創造した全知全能の唯一絶対神の福音・恩寵・奇蹟・光り輝く天国における永遠の命、神の子であるイエス・による隣人愛、唯一絶対神とイエス・キリストに叛く異教と異端に対する救いのない地獄の業火。二つ目は、神の名による日本人奴隷交易の正当性である。
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日本とくに日本民族では、マルクス主義・共産主義・無政府主義による人民革命は起きない。
もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
何故なら、マルクス主義・共産主義・無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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日本人は、悪人、悪党、罪人である。
故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏(阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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