⚔20)─3─織田信長「オカルト朱印」改定の真意。比叡山の祟りを恐れて「第六天魔王」と名乗った。〜No.84 

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 信長「オカルト朱印」改定の真意
 織田信長という歴史上の人物を知る上で第一級の資料と言われるのが、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの書簡『日本史』である。その書簡には信長にまつわる有名な記述がある。
 「傲慢で神をも恐れず、名誉を重んじることこの上なし。決断を内に秘め、軽々しく外に表すことがなく、戦術も巧みである。戦術を立てる際に部下の進言を聞き入れることは滅多にない」
 フロイスは実際に信長と何度も面会し、厚遇されている。フロイスが見た信長のイメージは、現在まで語り継がれる日本人の信長像に大きな影響を与えたことは言うまでもない。
 ところが、歴史研究家の橋場日月氏によれば、「これまでの信長の人物像を鵜呑みにするには、どうも引っ掛かるエピソードがいくつもある」という。今回、iRONNAがお届けするのは、信長にまつわる日本人の常識を疑い、あまたの歴史的資料などに目を凝らして、新しい信長像に迫る新連載です。橋場氏の深い洞察と大胆な仮説にどうぞご期待ください。(iRONNA編集部)
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 毛利水軍に完敗し本願寺包囲網が破られた信長は、その翌年「天下布武」朱印を改定した。新しい朱印には2頭の龍が描かれているが、「黄色の旗印」「麒麟の花押」と合わせて信長のオカルト信仰を極致へ導き、天下人になるための重要なアイテムだった。朱印に龍を取り入れた真意とは。
 比叡山の祟りにビビった信長 「第六天魔王」はこうして誕生した

 『橋場日月』 2018/08/19
 橋場日月(歴史研究家、歴史作家)
 天下統一への志は込められていなかった「岐阜」。では、信長はその二文字の何を喜んで、新しい本拠地の名称に選んだのだろうか。この二つの漢字を分析してみよう。
 まずは「岐」だ。この字は「ふなど」、「ちまた」を意味するという。これは本道から枝分かれした道、行く先が幾筋にも分かれている状態を指す。
 『古事記』に登場する「岐の神(ふなどのかみ。久那斗神と書いてくなどのかみとも)」は、黄泉(よみ)の国の亡者と化したイザナミの追っ手から逃れるために、イザナギが投げた杖(つえ)が化身したものだ。
 追っ手を遮る=来てはいけない場所を守る、ということから、町や村に通じる道や辻の境で悪神・悪霊や災厄、疫病の侵入を防ぐ「塞(さえ)の神」=道祖神(さいのかみ、どうそじん)となった。
 つまり、「岐」は魔除け・厄除けという意味を持っているのだ。厄除け志向の強い信長のパーソナリティーが、こんなところにも顔をのぞかせている。
 その上、古代出雲ではこの岐の神は龍蛇神の本体として尊ばれていたという。つまり、信長が求めてやまない龍神・蛇神の化身でもあるのだ。信長の本拠として、これほどふさわしい名前もないだろう。
 さらに付け加えると、「幾筋にも分かれる道、流れ」という「岐」は、細かく分流して伊勢湾に注ぐ木曽川・揖斐(いび)川・長良川木曽三川を表すともいい、その分流の形状は出雲神話の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)にも通じるではないか。「岐」の字もそこには含まれている。
 そして「阜」の字は、通常「大きな陸(おか)」=「丘」を示しているというが、実はそうではなく、「神が降臨するための神梯(はしご)の象徴」だということだ(白川静『漢字百話』)。
 つまり、「岐阜」は龍・大蛇の力を備え、瑞龍寺山を包含し、魔除け・厄除けの結界として機能し、神が降臨するハシゴということになる。信長が降臨させたい神は、むろん龍神・蛇神だ。
 本連載の第8回で、信長は小牧山を「飛車山(ひくまやま)」から成らせて「龍王山」とし、龍神の磐(いわ)座にしようと考えたのかもしれない、と述べたが、この岐阜命名こそがそれを裏付ける傍証になるのではないか。
 ともかく、信長はこうして稲葉山城とその城下・井口(いのくち)を、大蛇(竜)を迎える聖地「岐阜」とその中心の「岐阜城」に改めたのである。ちなみに、信長に岐阜の名称を提案したのは、沢彦宗恩(たくげんそうおん)ではなく、後に瑞龍寺の住職を務める栢堂景森(はくどうけいしん)だったという説もあるそうだ。(―岐阜市歴史博物館「Gifu信長展」解説より)
 ちょうど同じ時期、彼はもう一つ、自身の新たな象徴となるアイテムを用い始める。「天下布武」の印判である。
 長く「わが武力で全国を統一する」というスローガンを打ち出したものと言われていたこの印判も、最近では「天下=畿内を将軍が治める理想の推進役となる」という宣言に過ぎないという説が有力となっている。むろん、他にもいろいろと解釈があるようだが、ここで注目したいのは印判の紋様のバリエーションについてだ。
 永禄10(1567)年11月から使い始められた「天下布武」印は、当初は一重の楕円(だえん)形の中に天下布武の4文字が配されたものだった。これが、後年改定されて重要な意味を持つことになるので、ぜひ心にとどめておいていただきたい。
 岐阜で竜のパワーを最大限までチャージできたのか、信長は翌永禄11(1568)年8月7日に足利義昭を美濃立政寺に迎えると、9月7日岐阜城を出陣する。2年前に失敗した上洛(じょうらく)戦のリベンジというわけだ。
 破竹の勢いで進撃した織田軍総勢5万(『細川両家記』『フロイス日本史』)はあっという間に京を制圧。義昭は室町幕府15代将軍の座に就き、信長は事実上「天下」に号令する政権主宰者となった。
 しかしその後しばらくの間、信長にとっては逆境の時間が続く。元亀元(1570)年には、北近江の浅井長政の造反によって越前の朝倉義景討伐が失敗し、姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍を撃破したものの、大坂本願寺の挙兵によって摂津から退却することとなった。さらに本願寺の指示を受ける一向一揆と合流した浅井・朝倉が守山の戦い(志賀の陣)で信長の重臣森可成を討ち取るなど、まさに四面楚歌(そか)状態に陥ったのである。
 そんな中、信長は一つの手を打った。浅井・朝倉を支援する比叡山延暦寺(えんりゃくじ)に「味方できないならせめて中立せよ」と最後通告を送りつけたのだ。これが拒否されると、信長は延暦寺総攻撃を命じる。
 元亀2(1571)年9月12日、比叡山を包囲していた織田軍3万は一斉に山上を攻め登った。

 「根本中堂・山王二十一社を初め奉り、霊仏・霊社、僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞(うんか)のごとく焼き払い、灰燼(かいじん)の地となるこそ哀れなれ。山下の男女老若、右往・左往に廃忘(はいもう。狼狽(ろうばい)の意)を致し、取る物も取りあえず、悉(ことごと)くかちはだしにして八王子山へ逃げ上り、社内へ逃げこみ、諸卒四方よりときの声を上げて攻め上る。僧俗・児童(にどう)・智者・上人一々に首をきり、信長公の御目にかけ、これは山頭(比叡山上)においてその隠れなき高僧・貴僧・有智(うち)の僧と申し、そのほか美女・小童そのかずを知らず召捕り、召しつれ、御前(おんまえ)へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、これはおたすけなされ候えと声々に申し上げ候といえども、中々御許容なく、一々に首を打ち落とされ、目も当てられぬありさまなり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合わせ(状態)なり」『信長公記

 『信長公記』に記された比叡山焼き討ちの様子は、あくまでも凄惨(せいさん)で信長の一方的な残虐性が際立っている。
 他にもこの戦いでの延暦寺側の死者は「数千人」(同書)とも「男女三、四千人」(『言継卿記』)とも「約千五百人」(『耶蘇会日本通信』)とも「1120人」(『フロイス日本史』)ともいわれているが、信長は本当にこの虐殺(ジェノサイド)を積極的に行ったのだろうか。
 実は、信長が攻撃を躊躇(ちゅうちょ)したのではないかと思われる節があるのだ。この一件から2年後の元亀4(1573)年に、彼が上京(かみぎょう)を焼き討ちする際に神道家の公家、吉田兼見に問い合わせをしている。

 「南都(奈良)が相果てれば(松永久秀による焼き討ちでの東大寺焼亡)、北嶺(ほくれい、比叡山)も滅亡する。そうなれば王城(京の御所)にも災いが及ぶ、と兼見の父・兼右が説いたが、本当にそういうことになるのか」
 というものだ。これに対して兼見は「昔からそう言われていますが、典拠となるような文書はありません」と答えている(『兼見卿記』)。
 この言い伝えは当時の知識人には知れ渡っていたようで、比叡山焼き討ちの際に公家の山科言継も「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と、両者の因果関係を意識したコメントを残している(『言継卿記』)。
 信長もこの言い伝えを知っており、2年後になって「比叡山を焼き討ちした自分が今回上京にも放火すれば、それはそのまま天皇に災いをもたらすことになるのか」と心配していたのである。比叡山焼き討ち当時、すでに信長が後々、天皇へ祟(たた)ることを恐れ、不安を感じていたとしてもおかしくない。迷信に対する興味が過剰で、かつて池に潜って大蛇を探したこともあるほどの信長だからなおさらだ。
 特に、比叡山には都の表鬼門を守る日吉大社も鎮座する。かつて、赤熱した鉄片を握らせ、手がただれたら有罪とする火起請(ひぎしょう)で日吉神社の神意を問うた信長には、これもプレッシャーだった。
 延暦寺焼き討ちは、信長の意志というよりも延暦寺を監視する宇佐山城を預けられていた強硬派の明智光秀に主導されて発生した可能性が高いのだ。
 京の鬼門を守る日吉大社と、国家鎮護の道場、延暦寺。その焼き討ちは、当時の日本人に一大衝撃を与えた。
 上京焼き討ちの1カ月前、元亀4(1573)年3月19日付で、宣教師ルイス・フロイスは書簡にこう記した。
 「信長はみずから悪魔の王・諸宗の敵であると称し、『ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ』と名乗った」(『耶蘇会日本通信』)
 ドイロクテンノ・マオウ、すなわち有名な「第六天魔王・信長」の誕生である。
 第六天というのは、人間界の上にある天上界のうち、最下部の六欲天の中で1番上の「他化自在天」を指す。この天は天魔破旬(てんまはじゅん)といわれ、魔王が住み、仏道修行を邪魔するという。かつて今川義元から天魔破旬になぞらえられた信長は、ついに自らその呼称を用いるようになったのだ。
 神仏に頼らない幸福を人々に与え、その幸せを自らの幸せとする魔王。既存の神仏関係者に金品を貢がなくとも、信長に従えば幸福になる。つまり信長自身が神となる、という意思表示である。延暦寺を破滅させ本願寺と争う信長にはふさわしい肩書といえるだろう。
 このフロイスの記録は、他に信長が「第六天魔王」を名乗った書状などが存在しないためにやや疑問が残っていた。しかし2017年、愛知県豊橋市の金西寺に伝わる開山記『當寺御開山御真筆』の中で、京都・東福寺の住持をつとめた集雲守藤(しゅううんしゅとう)が、本能寺の変直後に書いたと思われる詩文が発見されたことによって、少なくとも周囲にそう呼んだ人がいたことは証明された。
 そこには信長についてこう記されていた。
 「六天ノ魔王現形ヲ現ルヤ否ヤ」(信長とは第六天魔王がこの世に現れたものか)
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 長篠合戦図屏風に描かれた「六芒星メンズ」の謎を解く
 『橋場日月』 2018/12/1
 橋場日月(歴史研究家、歴史作家)
 長篠の戦いでも天候に恵まれた信長。もっとも、彼のために弁明すると、彼が長篠の戦いで武田軍を「必ず皆殺しにしてやる」と宣言した背景にあったのは、龍の力の盲信だけではなかった。鉄砲や弾薬を西からはるか長篠まで大量に集めてくる資金は尋常ではない。
 3000挺の鉄砲が投入されたと仮定すると、その銃の費用は現代の価値で20億円。1挺あたり300発分の火薬(長篠の戦い直後に武田家が制定した分量)は18億円、それに鉛の弾丸が1億4000万円で、トータルすると40億円近くが投入された計算になる。未明から昼過ぎまでの7~8時間で、40億円が戦場の煙と化したのだ。
 当然、信長としてはそれだけの投資を無駄にしないためにも、梅雨どきなのに鉄砲で勝つ=梅雨にもかかわらず雨が降らない条件を整えなければならない。
 そしてそれは、神頼みだけではなかった。
 ここで大阪城天守閣に所蔵されている「長篠合戦図屏風」を見てみよう。信長の本陣は六曲一隻のうちの第六扇(左端)の上部に描かれている。永楽通宝の旗印や南蛮兜(かぶと)などを奉じて控える家来たちの奥で、白馬にまたがった信長が正面の戦場を見つめているのだが、その足元に注目していただきたい。
 背中を朱の星で大きく染め抜いた白羽織の男が3人、侍(はべ)っているのがわかるだろう。
 この星印は「六芒(ろくぼう)星」という。有名な星印は安倍晴明の「五芒(ごぼう)星」だが、こちらはひとつ角が多いものの、陰陽師(おんみょうじ)の象徴として知られる晴明の五芒星(晴明桔梗)同様、陰陽師のシンボルだ。
 では、その違いは何か。安倍晴明の血統を継ぐ土御門家が朝廷の陰陽師であるのに対し、六芒星は晴明に敵対した蘆屋道満(あしやどうまん)のマークだ。元々は播磨の陰陽師だったと伝わる道満は、藤原道長に仕える晴明の力を封じるべくライバルの藤原伊周(これちか)に召し出されたという。
 妖術合戦に敗れる姿は多くの作品に描かれているが、現実の道満は伊周が道長との政争に敗れたことで元の民間陰陽師に戻ったのではないか。彼に連なるという陰陽道の系譜は、道満の子孫という土師(はじ)氏の他にも多く残っている。
 図屏風は、信長がこの道満流の民間陰陽師を戦場に伴った可能性を示唆しているのだ。ここで注意しなければならないのは、この大阪城天守閣蔵の図屏風には原本がある点だ。成瀬家本と呼ばれるもので、17世紀半ば、長篠の戦いから100年経った頃の制作と考えられている。犬山城主の成瀬家の先祖・正一は長篠の戦いに参加しているので、子孫が家の言い伝えや『甫庵信長記』などの軍記物を参照して顕彰のために描かせたのだろう。
 この成瀬家本では、信長の本陣にいる3人の男の背に六芒星はなく、濃緑の地に赤く「十六葉菊」が描かれているが、これは信長が朝廷から許された菊紋というにすぎない。
 これでは、「一番古いオリジナルの絵がそうなら、信長が陰陽師を使ったという推測は無理じゃないか」と言われそうだが、これがそうでもないのだ。
 成瀬家本の図屏風には、家康本陣に六芒星の男が2人いる。その装束は大阪城天守閣本の信長本陣の3人とまったく同じだが、その手には槍や薙刀を持つという違いがある。これは陰陽師としての職掌からはまったく外れている。
 この六芒星組が大阪城天守閣本では信長本陣に移動し、手には何も持たない陰陽師本来のいでたちに描き換えられたのは、なぜか。
 もう少しこの大阪城天守閣本を観察してみよう。
 と、さらにひとつ違うところがあった。第五扇目(左から2番目)の上、ここには羽柴秀吉の部隊が布陣している。金のひょうたんの馬印が高く掲げられ、秀吉も最前線を凝視中だ。
 問題なのはその前方に白く細長く湾曲した川が描きこまれている点だ。設楽原では、武田軍と織田・徳川連合軍の間に連吾川が南へ流れていたが、それと平行して、連合軍の布陣している丘の背後(西側)にも平行して流れる大宮川(宮川)という川がある。     成瀬家本では、この大宮川が秀吉隊のところには流れは無く、家康のすぐ後ろから流れが始まっているのだ。
 大阪城天守閣本がもっと上流から描き始めているのは、こちらの方が正しい。(ただし実際の大宮川は信長本陣よりも西なので、少しおかしいのだが)
 この川の加筆は、成瀬家本の成立から間もなくそれを模写することとなった大阪城天守閣本の制作者が、現地の地形や合戦の様子について詳しい者から修正を指示された、ということなのだろう。細部にこだわってよりリアルを追求していこうというのは、いつの時代もオタクを突き動かす本能的な欲求なのだ(笑)。
 ということは、六芒星メンズたちの移動も、信長の本陣に居るのが正しい、と考えてのことだったのではないか。
 そもそも、この六芒星を背負った男たちは戦場で何をしていたのか。陰陽師だからといって、怨敵調伏の祈祷をしたり、式神を使って敵を討とうとしていたと考えるのは早計だ。彼らは、天気予報士だったのである。
 朝廷における陰陽師の配属部署「陰陽寮」は、星の動きを観察し、天文の計算によって日食を予測するなどして暦を作成し、風雲(気象)を監視して天気を予報する、専門家集団だった。
 民間の陰陽師たちも同様に、それぞれの地域で暦を作り天気を予報する。農耕には気象の予測が何よりも大事なのだ。関東の三島暦・大宮暦、伊勢の丹生暦はその代表的なもので、特に三島暦は朝廷の陰陽暦と絡んで信長も関係する大騒動を呼ぶのだが、それはもう少し後の話である。
 六芒星陰陽師たちは、気象を観測し戦闘に適した日程を大将にアドバイスする。
 彼らは「軍配者(軍師)」とも呼ばれた。第7回の桶狭間の戦いのくだりでも紹介した軍配者は、占いや敵味方の「気」を観察することで戦機をはかったと言われているが、一方で常日頃膨大な気象データを蓄積し、体験的な予報を下す科学者たちでもあった。
 桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を信長にもたらしたのも、大蛇(龍)への祈りと彼ら軍配者の正確な気象予報だったが、長篠の戦いのときに彼らが信長の側に待機していなかったと考える方が不自然だ。これは何も信長に限ったことではなく、当時の大将たちは皆軍配者=陰陽師を戦場にともなった。
 その意味で、成瀬家本が家康本陣に六芒星メンズを描きこんだのも間違いではないのだが、大阪城天守閣本を描かせた人物は大宮川の流れのように「信長の軍配者こそが勝利の立役者だった」という伝承に触れていた可能性が高い。信長は、大蛇(龍)の力をあてにするだけではなく、最大限合理的で有利な条件で戦えるよう、手を打っていたのだ。
 信長のブレーンというのは、まさにこの軍配者たちだった。
「おみゃーら、どうだて、お天道様はしばらくの間は出ておりゃあすか」
「いーーっ、ここ2、3日は雨は降らずと勘考しとりますで、お戦にかかられませ!」
「であるか!もし外れたらワヤだで、間違いありゃせんか。そんなら始めよまいか!」
 この主従が尾張弁でこんな会話を交わしていたかと想像するのも一興だろう。
 実はこの六芒星メンズについては、もう一つ信長との深い関係性をうかがわせる事実がある。信長の織田氏は通常平氏の流れを自称していたが、本当のところは忌部(いんべ)氏だったという。
 忌部氏というのは朝廷の祭祀行事を担当した一族で、その末裔(まつえい)である織田氏は越前の織田劔(つるぎ)神社の神官だった。古代の祭祀は、あたりまえだが農耕と密接に関係しているため、暦とは切っても切れない関係がある。これだけでも陰陽師とは近しいのだが、それだけではなく忌部氏自体がユダヤ人を祖とするとも言われているのだ。
 そしてユダヤ人のシンボルは、「ダビデの星」すなわち六芒星。魔除けにも「籠目」という文様がある。竹編みの籠の編み目を図案化したもので、これも六芒星そのものだ。
 魔除けグッズ好きの信長にとって、六芒星メンズは実用的にも趣味的にも手放せない存在だっただろう。信長と陰陽師は幾重もの縁で結ばれていたのかもしれない。
 「長篠合戦図屏風」には、もう一つ、まったく系統の違う一隻がある。名古屋市博物館蔵のもので、これが一番制作年代が古い。こちらは至ってシンプルな内容だが、描かれている武者の多くが扇を使っているのが目につく。面白いではないか。最古の長篠戦図だけに、当日は暑かったという記憶がまだ残っていたのだろう。
 晴れ渡った空の下、長篠の戦いは始まり、信長は一方的な勝利を手に入れた。
 「あっという間に切り崩し、数万人を討ち果たした。最近たまっていた鬱憤(うっぷん)を晴らしてやった」
 細川藤孝(幽斎)宛てで誇らかに書き送った信長。そこには、呪術と科学というまったく相反する二つの力で大敵・武田軍を撃破した自信があふれている。
 そしてこの頃から、信長は「天の与え」という言葉をしばしば使い始める。これは敵がわざわざ出て来てくれたことを指すのだが、「天がチャンスを与えてくれている」と、ラッキーボーイぶりを口頭でも書状でもアピールするようになったのは、おのれが「神に守られた存在」であることを自分自身が最も強く信じ始めた証拠だったのではないだろうか。
 そしてこのあと、彼は越前へ兵を向けるのだった。
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