⛩34)─1─初詣は「日本の伝統」じゃない!〜No.75 

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 2022年5月22日 MicrosoftNews Merkmal「初詣は「日本の伝統」じゃない! 実は、鉄道会社がつくり上げたものだった
山下ゆ(書評ブロガー)
 正月の定番でも何でもなかった
 新型コロナウイルスの流行に伴うリモートワークの広がりによって、郊外から都市部へと通う通勤客が減り、鉄道各社の収益にも大きな影響を与えている。新型コロナウイルスの流行が収まったとしても、リモートワークという働き方は一定程度は残っていくと予想され、鉄道各社は通勤以外の需要を開拓する必要が出てくるかもしれない。
 【写真】昭和風情たっぷり! 60年前の「初詣」を見る
 こうした状況の中で、今回紹介するのが平山昇『鉄道が変えた社寺参詣』(交通新聞社)だ。サブタイトルには
 「初詣は鉄道とともに生まれ育った」
 とあり、「初詣」という「伝統」は鉄道会社がつくり上げたものだという内容になっている。
 初詣というと正月の定番の行事であり、鉄道ができるずっと前から続いていたようにも思えるが、例えば、俳句の季語として初詣が立てられたのは1908(明治41)年だという。
 もちろん、江戸時代には神社仏閣に参拝しなかったというわけではなく、元日には氏神へ参詣や恵方詣が行われていた。現在、多くの初詣客を集めている川崎大師では、毎月21日が縁日であり、正月の21日は「初大師」として多くの人々を集めていた。ところが、現在の初詣は神社仏閣であればどこでもよいし、期日も正月三が日が中心だが、別に4日以降でもよい形になっている。
 初詣と鉄道の関係は初詣の人出ランキングからもうかがえる。
 1位は明治神宮が定番だが、その後に続くのは成田山新勝寺や川崎大師といった東京の郊外の寺であり、同じように京都の伏見稲荷、大阪の住吉大社、愛知の熱田神宮など、中心部から離れた場所にある神社がランクインしている。参詣客の多くは鉄道を利用しているのである。
 このうち、川崎大師(金剛山金乗院平間寺)は、1796(寛政8)年と1813(文化10)年の2度にわたる将軍家斉(いえなり)の厄払いのための参詣をきっかけに、厄よけ大師として発展していった。
 しかし、江戸・東京から川崎まで徒歩で行くのは大変であり、時間と体力に余裕のある者でなければ、なかなか行くことはできなかった。
 初詣が定着した「ふたつの要因」
 © Merkmal 提供 川崎大師と東京との位置関係(画像:(C)Google
 この状況を変えたのが鉄道の開業である。1872(明治5)年に日本で初めて開業した鉄道の途中に川崎停車場が設けられたことで、川崎停車場から川崎大師まで数kmの距離があったとはいえ、短時間で川崎大師に訪れることが可能になった。
 川崎停車場ができてしばらくすると、川崎大師の縁日には臨時列車も運行されるようになった。寺社仏閣への参詣は当時まだ珍しかった鉄道を利用するレジャーとして都市部の住民の間に広がっていったのである。
 実は初詣という言葉自体も、当初は川崎大師と結びつけて使われていた。著者によると大手の新聞に初詣という言葉が初めて登場したのは、1885年の『東京日日新聞』1月2日の、「川崎大師へ初詣の人も多かるべきなれば」、急行列車が臨時に停車したという記事である。では、なぜ縁日ではなく正月三が日を中心とした初詣が定着したのか?
 著者は
・日曜週休制
・年頭三が日の休業の慣習
 が広がったことをその要因としてあげている。
 21日の縁日に参詣しようとしても、21日が日曜でなければ勤め人には難しい。そこで毎年曜日に関係なく参詣できる元日に参詣客が集まるようになったのである。
 ただし、江戸時代の元日の参詣は「恵方詣」という縁起の良い方角の寺社仏閣にお参りに行くものが一般的であった。現在は「恵方巻き」で知られている恵方だが、これは5年周期で縁起の良い方角が回ってくるというものである。ちなみに、巳午(みうま)の方角(南南東)だけは5年に2度回ってくる。
 川崎大師はもともと江戸からおおよそ巳午の方角にあたっており、恵方詣の場所としても有名であった。
 鉄道会社に都合の悪かった恵方
 (C)谷 謙二〕)© Merkmal 提供 現在の川崎大師周辺の地図と明治初期の地図(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)
 鉄道会社も恵方の年には恵方詣の宣伝をして参詣客を集めようとしていたが、5年に1度か2度しか回ってこない恵方詣では鉄道会社にとっては都合の悪いものだった。そこで、鉄道会社が目をつけたのが明治になって登場した初詣という言葉である。鉄道会社は、恵方でない年であっても初詣という言葉を使って宣伝を始めた。
 成田鉄道は1910(明治43)年の正月を迎えるにあたって「成田山初詣」の広告を新聞に掲載し、1912年からは京浜電鉄が毎年正月に川崎大師参詣の広告を出すようになる。当初は、恵方詣ではない年に使われていた初詣という言葉だったが、次第に恵方詣を駆逐して正月の風物詩となっていくのである。
 先ほど紹介した初詣の人出ランキングの中にある成田山新勝寺、川崎大師、伏見稲荷住吉大社熱田神宮は、いずれも複数の鉄道がアクセスしている。この複数の鉄道による競争が、初詣というイベントをさらに盛り上げた。
 川崎大師では1899年に関東最初の電気鉄道である大師電鉄が開業し、官鉄川崎停車場近くの六郷橋と川崎大師を結ぶようになった。この大師電鉄は社名を京浜電気鉄道と改称し、1904年に品川(八ツ山)~川崎(現・京急川崎)~大師間を全通させた。
 当時は日露戦争が行われており、戦費調達のための通行税の導入に伴って官鉄は運賃を値上げしたが、京浜電鉄は逆に値下げをし、川崎大師と穴守稲荷を回れる巡回券を売り出した。この結果、1905年の正月には多くの乗客を集めたのである。
 一方、翌年には官鉄も対抗する。1906年の元日には新橋~川崎の往復運賃を5割引するという対抗策を打った。この後も京浜電鉄と官鉄の競争は続くが、競争がエスカレートするほど川崎大師の正月の参詣客は増えることになった。
 成田山新勝寺に関しても、やはり複数の鉄道の競争が参詣客の増加をもたらした。東京から成田への鉄道は1897年に総武鉄道(佐倉経由の路線)が全通し、1901年には成田鉄道(我孫子経由の路線)が全通した。
 どちらも距離的には同じようなものであったが、成田鉄道が日本鉄道経由で乗り換えなしで成田に行けると宣伝すると、総武鉄道もこれに対抗して臨時列車を走らせ、成田山新勝寺への参詣客は増加していった。
 「伝統」の裏にあった商業戦略
 © Merkmal 提供 平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 ~初詣は鉄道とともに生まれ育った~』(画像:交通新聞社
 この競争は、日露戦争後の鉄道国有化によって総武鉄道と成田鉄道が国有化されたことでいったんは収まる。
 しかし、1926(大正15)年に京成電気軌道が押上~成田間を全通させると、より短い距離を走り、運賃も安い路線の登場によって再び競争は活性化する。京成は主要な新聞に初詣の広告を掲載し電車を増発すると、国鉄側も臨時列車や往復運賃の割引で対抗した。
 この結果、京成が開業前の1926年元日の国鉄成田駅の乗降客数は2万4400人であったが、京成開業後の1927(昭和2)年は京成成田駅1万6000人、国鉄成田駅2万7000人の計4万3000人に、そして、1940年には京成成田駅14万1000人、国鉄成田駅10万2000人の計24万3000人と10倍近くまで増加したのである。
 この競争は戦争によって一時中断されるが、1950年に京成電鉄が他社に先駆けて大みそか終夜運転を再開して往復運賃の割引を行うと、国鉄も割引運賃などで反撃し、さらに翌年には、京成が初詣の往復乗車券の購入者先着2万名に空くじなしの「お年玉」(1等は松坂屋の商品券10万円)を進呈するといった具合に競争が復活した。
 他にも本書では伊勢神宮の参拝客をめぐる競争、宮城県の鹽竈(しおがま)神社をめぐる競争などがとり上げられているが、いずれも鉄道会社による競争と宣伝が初詣の参拝客の増加をもたらしている。まさに鉄道によって初詣という習慣は定着したのである。
 本書を読むと、初詣という「伝統」の形成に鉄道が大きく関わっているとともに、神社仏閣という既存の名所を利用しながら、鉄道会社が貪欲に旅客需要をつくり出していったこともわかる。
 リモートワークの広がりとともに通勤客が減る中で、このようなチャレンジ精神こそが鉄道会社に求められているのかもしれない。」
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 Lets ENJOY TOKYO
 東京のお正月イベント・初詣情報
 今年の初詣は氏神様にお参りしよう!
 氏神様って何?その由来や探し方を知って、ぜひお参りに行ってみよう!
 初詣の由来や氏神様の調べ方などをご紹介!今年は「密」を避け、地域の氏神様にお参りして、健やかな1年を過ごしましょう!
 目次
 初詣は夜通し氏神様に祈願する「年籠り」が起源!
 氏神様とは?どうやって調べるの?
 正しい参拝方法は?
 参考文献

 初詣は夜通し氏神様に祈願する「年籠り」が起源!
 初詣の起源は平安時代からある「年籠り」といわれています。(※)
 年籠りとは、大晦日の夜から元旦の朝にかけて、家長たちが氏神様を祀った神社に泊まり込み、夜通し五穀豊穣や無病息災を祈願する風習でした。
 やがて大晦日にお参りする「除夜詣」と、年が明けてからお参りする「元旦詣」にわかれ、現在ではこの「元旦詣」の風習が色濃く残り、「初詣」と呼ばれるようになりました。
 「元旦詣」は、氏神様にお参りする決まりになっていたそうです。
 では、氏神様とはいったいどのような神様なのでしょうか?
 ※「恵方参り」が起源とされている説もあります。恵方参りについてはお正月豆知識をご覧ください!
 氏神様とは?どうやって調べるの?
 氏神
 氏神様とは、自分の住んでいる土地を守ってくださっている神様のこと。
 そしてその地域で生活をしたり仕事をしたりする人のことを、氏子(うじこ)といいます。
 ただし、氏神様と氏子の関係は昔からの慣例や共同体を基準とする場合が多く、必ずしも近所の神社=氏神神社ではないそうです。
 (もちろん、氏神様ではないから最寄りの神社ではダメ!というわけではありません!ぜひお参りに行ってくださいね。)
 いつも有名神社に初詣に行かれている方も、今年は身近にいらっしゃる氏神様に初詣に行かれてはいかがでしょうか? 混雑も避けられて、意外な穴場とも言えるかもしれません。
◆私の氏神神社はどこ?
 氏神様の神社を調べる方法はいくつかの方法があります。
 前述のとおり近所の神社=氏神神社でないこともありますが、まずは近所にある神社を調べてみましょう。
 ① 地図から自宅周辺の神社を探す
 自宅や職場の近辺に神社があるかどうか、地図で調べてみましょう!
 「こんなところに神社が!?」など新たな発見もあるかもしれません。
 また、各都道府県の神社庁サイトにて、住所やキーワードを入れるだけで調べられる可能性もありますので、一度訪れてみてはいかがでしょうか?
 ② 氏子地域を調べる/教えてもらう
 候補の神社がわかったら、氏子地域を調べましょう。
 神社のサイトに掲載がある場合もありますが、掲載がない場合は神社等へ問い合わせて、氏子地域を教えていただきましょう。
 ※年末年始は混み合う時期ですので、お問い合わせには十分ご注意ください。
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 ウィキペディア
 初詣に集う人々(2019年1月1日)
 初詣・初詣で(はつもうで)とは、年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。初参・初参り(はつまいり)ともいう。
 歴史
 元々は「年籠り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神神社に籠る習慣であった。やがて年籠りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今の初詣の原形となった。治承5年に源頼朝が鶴岡若宮に参詣したことが初詣が広まるきっかけになったとの指摘もある。
 江戸時代末期までの元日の社寺参拝としては、氏神神社に参詣したり、居住地から見て恵方にあたる社寺に参詣(恵方詣り)したりといったことが行われた。
 「年籠り」形式を踏まず、単に社寺に「元日詣」を行うだけの初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく明治中期のことで当時の鉄道会社が神社とキャンペーンをして遠方の有名神社へ初詣する風習を作り出したとされている。また、氏神恵方とは関係なく、有名な社寺に参詣することが一般的になった。俳句で「初詣」が季語として歳時記に採用されたのは明治末期であり、実際に「初詣」を詠んだ俳句が登場するのは大正時代以降であるという。
 また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方がある。これを二年参りという。
 近代以後の変容:恵方詣りから初詣へ
 江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった[2]。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形である「初詣」が、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている。
 関東では、1872年(明治5年)の東海道線開通により、従来から信仰のあった川崎大師などへのアクセスが容易になった。それまでの東京(江戸)市民の正月参詣は市内に限られていたが、郊外の有名社寺が正月の恵方詣りの対象とみなされるようになった。また、郊外への正月参詣は行楽も兼ねて行われた。平山によれば「初詣」という言葉は、それまでの恵方詣りとも縁日(21日の初大師)とも関係のない川崎大師への正月参詣を指すのに登場したといい、1885年(明治18年)の『万朝報』記事を初出と紹介している[8]。鉄道網の発達に伴い、成田山新勝寺など郊外・遠方の社寺にもアクセスは容易となり、また京成電鉄京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社も登場した。競合する鉄道会社間(国鉄を含む)では正月の参詣客を誘引するために宣伝合戦とサービス競争が行われた。当初は鉄道による有名社寺への「恵方詣り」の利便性が押し出されたが[9]、年ごとに変わる恵方に対して「初詣」という言葉がよく使われるようになり、大正時代以後は「初詣」が主に使用されるようになった。
 関西では、もともと恵方詣りは元日よりも節分に盛んに行われていた。鉄道会社の集客競争の中で正月参詣にも恵方が持ち込まれるようになり、関西の人々は節分のほかに元日にも恵方詣りを行うようになった。しかしながら、鉄道会社が熾烈な競争の中で自社沿線の神社仏閣をめいめいに恵方であると宣伝し始めたため、やがて恵方の意味は埋没した。大正末期以降、関西では方角にこだわらない「初詣」が正月行事の代表として定着した。
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