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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本神道は、ローカルな宗教であり未発達な宗教である。
日本に反宗教無神論的な風潮が広がりつつあり、少数派に配慮して除夜の鐘や盆踊りが減り始めている。
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日本の祭りは、大金を使い度胆を抜かすほどド派手で騒々しく、二つとして同じ祭りはない。
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2020年1月23日号 週刊新潮「生き抜くヒント! 五木寛之
テレビの外野席
〈10年ひと昔〉という。
まったくその通りだ。大晦日の『紅白歌合戦』を見て、つくづくそう思った。
私も昔、恥ずかしながら1度だけ紅白の審査員をつよめたことがある。その頃は審査員の席は客席の前のほうで、それほど目立つ場所ではなかった。
今回は審査員のかたがたが、雛壇というか、えらくライトの当たる場所にずらりと並んでおられた。なかでもひときわ目立っていたのは、なんといってもノーベル賞の受賞者の先生である。NHKに頼まれたので仕方なく、といった感じではなく、いかにも楽しそうに並んでおられたのがよかった。
紅白歌歌合戦の番組そのものの印象はどうだったか、ときかれても、答えようがない。十年ひと昔、とはいえ、呆れるほどの変貌ぶりである。時代は刻々と変わるのだ。
10年後の紅白は、今の紅白とは似ても似つかないものになっているはずだ。たぶんそのうち、月面からの中継もありうるのではないか。紅白は単なる音楽番組ではない。その国とその時代を如実に反映する鏡のようなものだ。
今年の紅白のイデオロギーは、たぶん〈高齢化社会に抗して〉というものではなかっただろうか。
たとえ少数であったとしても、この国の未来を担うのは、いやおうなしに幼少年の世代である。人口比率からいえば多数を占めるのが成人、高齢者層であろうとも、未来は幼少年の側に託すしかない。
これまでの紅白の変貌は、趣向の変化だった。いまや番組制作の思想そのものが大きく変換したのだ。過去の実績を見るか、未来の可能性をとるか。高齢化か、幼少年化か。
これは視聴率の問題だけではない。思想の問題なのだ。いまの紅白歌合戦を楽しんでいる世代が、やがて10年後には番組の変貌にため息をつくようになるのだろう。
シンクレティズム
さて、『蛍の光』の合唱で紅白が終わると、画面は一転して静寂のなかに『ゆく年くる年』のスタートである。ゴーンと鐘の音が響いたり、サクサクと玉砂利を踏む音がきこえたりと、動から静への転換の気配がなんともいえない。全国各地の寺社を巡って、庶民大衆の祈りの姿が画面に流れる。
この番組の特徴は、神社と寺院とをミックスして中継を行っている点だ。戦前の民家には、おおむね神棚と仏壇があった。神社にもお参りするし、お寺にもいく。新年の初詣には、明治神宮に若者が大挙して集う一方、成田山にの人々が殺到する。
私のような地方から上京した人間は、1度は正月に浅草寺(せんそうじ)へお参りすることが多い。それでいて、浅草寺がどの宗派で、山号を何というか、どういう仏をなつってあるのか、などほとんど知らないのが普通である。
浅草寺には鳥居がある。『三社さま』と呼ばれる浅草(あさくさ)神社である。比叡山延暦寺に日吉大社があるように、寺院には神社があるのが当たり前だった。
神と仏を一緒にまつる。これをシンクレティズムなどという。神仏混淆(こんこう)とか神仏習合とかいわれる世界である。一神教的な社会観からすると未発達な世界と見られがちだが、この国では長い歴史のなかで人びとの感覚のなかに住みついてしまった習俗である。
高野山の丹生明神、興福寺の春日明神などもそうだ。仏教はそれらの神々を鎮守と解釈した。寺を守り、仏教徒を保護する存在と解釈したのだ。それを『鎮守の神』という。
それを未開文明の信仰と見るか、信仰の寛容性と見るかは立場によってちがう。『ゆく年くる年』は、それを理屈抜きで受け入れて長続きしているところがめずらしい。
『紅白』が変る世界の象徴なら、『ゆく年くる年』は、変らぬ世界の典型だ。神仏に祈願するという日本人の心性は、どこまで変わらずに続くのだろうか。
『祭り』と『祀り』
『紅白』はお祭りである。『ゆく年くる年』は祈りである。正反対のようでいながら、二つの世界は共に宗教的世界とつながっている。
以前、東大寺の大きな法要に参列したことがあった。そのとき、あ、これは『紅白』だな、と思ったものだった。当時、人気絶頂だったフォーク歌手も披露された。『祭り』と『祈り』とは、そもそも一体なのである。『紅白』と『ゆく年くる年』は、対照的な番組ではない。動と静というちがいはあっても、ワンセットの番組なのだ。
……」
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日本仏教は日本神道の上位宗教として、寺院・僧侶は神社・神主を従え、八百万の神々は諸仏を守るのが役目と定めた。
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日本の宗教観は、正邪、聖俗、和荒が一体である。
神聖不可侵の祈りの聖地と俗欲塗れの享楽の巷は、結界を区切る注連縄で仕切られている。
厳粛な祈りと軽薄な笑いは、隣り合わせに存在する。
神社仏閣の隣りに遊郭・女郎屋がある。
日本仏教の重要な教義に胎蔵経、胎蔵界、胎蔵曼荼羅がある。
日本の宗教では、普遍宗教の常識である禁慾が薄い。
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大晦日、日が西の空に沈むと、テレビやラジオは紅白歌合戦、お笑い・バラエティー、歌舞伎・邦楽、格闘技、終わった一年間の話題、クラシック音楽など様々な、年齢性別に関係ないお祭り騒ぎを放送する。
日にちが変わる23時45分頃から、祈りとして、日本各地の神社仏閣での初詣や除夜の鐘を放送する。
新年、元日の朝、東の空に昇り来る初日の出を拝む。
そして、日本は古来の宗教に染まる。
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日本国・日本民族日本人は、男系父系Y染色体神話を根拠とする特殊な血統・血筋を正統とする特別な家系・皇統に連なる万世一系の男系天皇を交いして最高神である女性神・天照大神に帰依している。
大半の神社は、最高神である女性神・天照大神(伊勢神宮)に繋がっている。
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日本民族日本人にとって、天照大神とは太陽・お天道様であった。
そうした宗教観は、縄文時代から持っていた。
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天岩屋戸の物語。天照大神が天の岩屋に籠もった天地が暗くなった為に、群神は大宴会をおこない天鈿女命(アマノウズメノミコト)が舞踊るや一同は喜ぶ大声で笑い、天児屋根命(アマノコヤネノミコト)は祝詞を奏して、天照大神を天の岩屋から出す事に成功して世の中は再び明るくなった。
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神道で最重要な秘儀神事が、皇居内で、天皇によって執り行われる。
天皇が行う最高秘儀神事とは、途絶える事のない永遠の命としての「蘇り」神事である。
最重要秘儀神事を執り行う資格があるのは、天照大神の正統な直系子孫で、天照大神の特殊な血統・血筋による特別な家系・皇統に連なる万世一系の男系天皇の現皇室とその一族のみである。
憲法法律の正当性は存在しないし、近代的政教分離の原則もない。
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皇統として合法的な正当性があっても血筋・血統の正統性のない天皇では、如何なる宮中祭祀はもとより一子相伝的な最重要秘儀神事を執り行う事はできない。
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古事記・日本書紀・天皇神話に基ずく伝統宗教文化は、男系父系Y染色体神話にのみ存在し、女系母系X染色体物語には存在しない。
天照大神を源とする高天原神話・天孫降臨神話・民族中心神話など全ての神話は、男系父系Y染色体神話である。
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ウィキペディア
天岩戸(あめのいわと、あまのいわと)とは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟である。天戸(あめと、あまと)、天岩屋(あめのいわや)、天岩屋戸(あめのいはやと、あまのいわやと)ともいい、「岩」は「磐」あるいは「石」と書く場合もある。
太陽神である天照大御神が隠れ、世界が暗闇に包まれた岩戸隠れの伝説の舞台である。
神話での記述
古事記
誓約で身の潔白を証明した 天地開闢 道統之七世 之「秦」建速須佐之男命は、「河洛道統」~ 高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に乱暴を働いた。他の神は天照大御神に苦情をいうが、天照大御神は「考えがあってのことなのだ」と須佐之男命をかばった。
しかし、天照大御神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大御神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。
鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八尺鏡(やたのかがみ)を作らせた。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた。
天児屋命と布刀玉命を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八尺鏡と布帛をかけ、布刀玉命が御幣として奉げ持った。天児屋命が祝詞(のりと)を唱え、天手力男神が岩戸の脇に隠れて立った。
天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
これを聞いた天照大御神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。
天宇受賣命が「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と布刀玉命が天照大御神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大御神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた天手力男神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。
すぐに布刀玉命が注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大御神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。
八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。
日本書紀
『日本書紀』の第七段の本文では、素戔嗚尊が古事記と同様の暴挙を行う。最後には天照大神が神聖な衣を織るために清浄な機屋(はたや)にいるのを見て、素戔嗚尊が皮を剥いだ天斑駒を投げ込んだ。すると、天照大神は驚いて梭で自分を傷つけた。このため天照大神は怒って、天石窟に入り磐戸を閉じて籠ったので国中が常に暗闇となり昼夜の区別もつかなかった、とある。
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『口語訳新約聖書』(1954年版)
マタイによる福音書
第21章 21:10イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。 21:11そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
21:12それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。 21:13そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。 21:14そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。 21:15しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、 21:16イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。 21:17それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。
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