🕯158)─1─臨死体験で見る景色は民族・宗教・文化で川・砂漠・海など異なる。〜No.333No.334 

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 2022年5月1日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「日本人は三途の川、アラビア人は砂漠?死の淵で人は何を見るか、臨死体験の研究者に聞く
 © ダイヤモンド・オンライン 提供 Photo:PIXTA
 「死後、人の意識はどうなるのか」。誰しも一度は考えたことがある問いだろう。死後の世界について、確実なことを立証できる人はこの世にいない。だが、死の淵から生還した人の中には、「死後の世界を見た」という人がいる。京都大学学際融合教育研究推進センター教授のカール・ベッカー氏は、何十年にもわたり、こうした臨死体験者の証言を集めてきた。体験者が語る人知を超えた現象は、私たちに人間という存在、あるいは生きる意味についてを問いかける。(ライター 藤山亜弓)
 人は死の淵で何を見るのか?
 死ぬ直前に「一生の傾向」が表れる
 当時15歳だったN君は、学校の帰りに自動車にはねられて重傷を負い、救急車で病院に搬送された。
 その途中、N君は人生の走馬灯を見たという。これは、臨死体験者の約4人に1人が見る「ライフリビュー」と呼ばれるものだ。N君は自分が誕生する場面から救急車で搬送されて病院に到着するまでの様子をスライドショー形式で見たそうだ。
 死の間際に人生を振り返ることはN君に限らず、インドやアメリカなどでも証言されている。そのときに見るのは、親や友達に親切にしたことや他者を傷つけたことといった、自分の倫理観を問われる出来事だという。死の淵に立つ人間は、自分の行いを第三者の視点で見るのだ。
 このN君の証言を記録したのは、京都大学学際融合教育研究推進センター教授のカール・ベッカー氏だ。
 「仏教では閻魔(えんま)大王など、人を裁く天がいますし、ヒンズー教ではヤマ神、キリスト教では最後の審判があって、生前の罪を裁くと信じられています。しかし臨死体験者の証言によると、神や仏がその人の過去の行いを裁くのではなく、自分で裁くということが分かります。それは、『懲役何年』などという単純なことではありません。死の淵で人間は、自分がどういう思いで他者に接してきたのか、また自分が行った行為を他者はどういう思いで受け取ったのかを見せられるのです」
 そもそも、人は他者と関係し合って生きている以上、他者に迷惑をかけずに生きることは限りなく不可能に近い。程度の差こそあれ、誰しも一度は他者を傷つけた経験があるはずだ。ではそうした行いに対して、死後に何かしらの報いを受けるのだろうか。これについてベッカー氏は、仏教を開いた釈尊を例に挙げ、以下のように説明した。
 「釈尊が自分の弟子に『一生の間、善いことをした人が良い生まれ変わりになるのか。ずっと悪いことした人が悪いところに生まれ変わるのか』と聞かれたことがあります。これに対して釈尊は、その傾向は強いが必ずしもそうとは限らないと答えました。なぜなら、『臨終の念』が次の生まれ変わりを決定するからということなのです。
 釈尊は人の意識や思いには連続性はあるけれど、常に変化していると教えています。例えば、牛乳をかき混ぜると途中からバターになる。でも、いつから牛乳ではなくなり、バターになったのかという境目は明確には言えません。
 人間も同じです。一見、私はベッカーに見えますよね。でも、この体は子どものころから常に変化を続けているし、数十年後に灰になっている。10代に書いた自分の日記を読むと、自分が書いたとは到底思えない内容が書かれています。それくらい、人間は変化するのです」
 一方、死の目前に善い行いをしたからといって、それまでの罪が帳消しになるかといえばそうではない。
 「死ぬ直前には、一生の傾向が圧倒的に強く表れる。一方、自己中心的で周囲に迷惑をかけてばかりの人が突然死ぬ直前に利他的になることは確率論として極めてまれではないでしょうか」
 何か過ちを犯した場合、その行為自体は正当化できない。しかし、人間は常に変わり続けていて、死ぬ寸前はいわば人生の集大成。死の間際に自己の人生を振り返った際に後悔のないよう、日々の自分の行いや現在の自分を省みることが大事だということなのかもしれない。
 世界各国で報告される臨死体験
 三途の川や絶壁…見える光景には文化の影響も
 前述したN君のように、一時的にあの世へ行き蘇生した人の中には、あの世とこの世の境目を見た人がいる。研究者はこの現象のことを臨死体験と呼ぶ。日本だけでなく世界各国で無数の事例が報告されており、1979年にはアメリカの若手医師たちによって臨死体験の国際研究会が設立されるほど、科学的側面から研究されている分野だ。
 臨死体験のデータを集めると、ある共通するイメージが見えてくる。
 N君は、意識を失っている間に「暗いトンネル」を3回通った先に長い川が現れ、舟で川を渡った。日本人なら誰もが聞いたことのある三途の川である。川の向こう岸には見たことのないほど美しい花が一面に咲く花園が広がっていて、N君は誘われるようにしてその地に降り立とうとした。そのとき、老人がやってきて、「お前は○○か」とN君のお父さんの名前を呼んだ。N君が自分のひ孫だと知った老人は「ここに来るには、まだ早すぎる。自分の役割を果たしてから来なさい」と強い口調で元の場所に帰るよう命じたのだ。
 N君は、臨死体験で見た老人が自分の曽祖父だということを知らなかったが、老人の顔の輪郭や方言を覚えていた。後から母親に写真を見せてもらい、あの世で自分の曽祖父に出会ったということが明らかになったのだ。
 ベッカー氏は以下のように解説する。
 「文化や宗教を越えて、あの世のイメージに多いのは闇が広がる『トンネル』の後に出てくる『花園』や『庭園』『広い草原』などで、日本人は三途の川を見ることが一般的です。一方、ポリネシア諸島に住んでいる人は荒れた海を見たと証言しています。砂漠地帯のアラビア人は燃える砂漠を、スコットランド人は絶壁を見ていて、それが“あの世”と“この世”の境目になっているようです。
 では、『あの世には三途の川と絶壁などのものがあるのか』といえば、そのイメージが意識されることは報告されても、その実在の証明はできない。大事なのは、こういったイメージが全て『これ以上行ってはいけない』あるいは『渡ってはいけない』という同じ意味を持っていることです」
 このように臨死体験には、体験者の文化的背景が強く影響する。死の間際に先祖や神仏などが現れると証言する人も多く、見えるビジョンは国によってある程度の傾向があるという。
 「時代によっていろんなイメージが出てきますが、どの姿であっても慈悲と愛情を意味するものには違いはありません。精神医学的に言えば、本人が理解しやすいイメージを本人が投影しているのだという理解もできます」(ベッカー氏)
 臨死体験は幻覚なのか?
 常識では説明できない現象も
 臨死体験者の中には意識不明の間に体外離脱して、その間に何が起こったのか正確に覚えている人がいる。
 心筋梗塞で病院に運ばれたAさんは、そのとき受けた手術の一部始終を肉体から抜け出して天井の辺りから見ていたという。その後、自分で見た光景が事実と合っているか確認するため、手術を担当した医師に自分の体験を話した。
 Aさんは担当医の身振りのくせや、患部を拡大するために手術用のメガネを着用していたこと、自分の心臓が赤ではなく白っぽい紫色だったということも正確に話したのだった。医学の知識がないAさんが手術中の自分の心臓が何色かなど知るすべはない。このように臨死体験は科学的な常識だけでは説明しきれない側面があるのだろう。
 また臨死体験中、自分と同じように生死をさまよう人に出会うケースもある。くも膜下出血で倒れたTさんは動脈瘤破裂で集中治療を受けた5日間、死の淵をさまよった。Tさんは臨死体験の中で空を飛んで、光のある場所へと向かったそうだ。そこで自分と同じように空を飛んでいた若い男性と髪の薄い中年の男性と出会った。しばらくすると若い男性は飛行力を失い、地面に落下。その様子を見たTさんは地上に降り立ち、若い男性と一緒に元の場所へと引き返すことにした。一方、中年の男性は、地平線の方へと姿を消したという。
 病院のベッドの上で目を覚ましたTさんは、同室にいる病人に目を向けた。そこには、臨死体験で会った2人の男性が横たわっていて、地平線に姿を消した中年の男性は息を引き取り、若い男性はTさんと同様に生還した。もともと3人は面識がなく、臨死体験の中で初めて出会ったのだという。
 このように臨死体験は簡単に説明できない現象も多いことから、脳が作り出した幻覚にすぎないと主張する人もいる。これに対してベッカー氏は次のように語る。
 「アメリカでは臨死体験した4000人のカルテから病歴や教育など300個ほどの項目を調査して、仮説検証を行っています。例えば、『臨死体験は脳の酸素不足により、幻覚を起こしている』という仮説がありますが、4000人の調査データによると、酸素不足と臨死体験をする傾向との関連は認められない結果が判明されました。
 あるいは、臨死体験は自身の宗教観を再現しているのではないかという仮説も考えられます。これについては、小学校までに天国、地獄、浄土などの宗教教育を受けたことがあるかを調査した結果、それはほとんど関係ないということが明らかになりました」
 臨死体験で価値観が覆されることも
 あの世の実在性より重要な「問い」
 最後にベッカー氏は教え子の臨死体験について語った。
 「当時大学生だった彼は、周囲の人間とうまくいかず、部屋には汚れた食器が散乱していた。もう何もかも嫌になって、部屋の窓を閉じてガスを漏らして自殺を試みたのです。その数時間後に警察に発見され、幸いにも脳のダメージはあまりなく、一命を取り留めました。
 彼の話によると意識不明の間、体から浮き上がって真っ暗な闇にぶら下がっていたといいます。そこは何もなく『おーい』と叫んでも反応はない。彼が意識不明だったのは2~3時間だったようですが、彼にとってはあまりにも孤独で永遠のように感じ、そこにいるのが耐えられないと思ったそうです。
 彼は自殺未遂前、自分が孤独だと感じていたそうですが、思い返すとクラスメートも、家族もそばにいたと気づいたのです。無事に生還した彼をパーティーに呼ぶと、率先して食器洗いをするのが印象的でした。手をお湯に突っ込んでかんきつの香りがする洗剤で洗うと、皿がピカピカになる。『人がいる!色がある!音がある!匂いがする!』と感じ、体や感覚があって、人に役立てるということだけで良いのだと思ったそうです。
 臨死体験によって彼の就職希望や、結婚相手が変わるのかは分かりません。彼が経験した地獄的な世界は、鬼が火のやりで彼の体を刺すといったものではなかったのですが、真っ暗な孤独はもう体験したくないと言っていました」(ベッカー氏)
 臨死体験後、より優しくなるという話は数多く報告されている。一方で、自分を理解してくれない家族や周囲がいるために苦しむ人もいるという。
 「臨死体験した人は、これまで信じてきた価値観が大きく覆されることもありますので、必ずしもいい報告ばかりではありません。例えば、経済中心の世間体に従う仕事を辞めて、その結果、家族と折り合いがつかず離婚してしまうという人もいますね」(ベッカー氏)
 このように多くの臨死体験者の証言を集めることで、あの世の証明ができるのではないかという科学者もいる。一方、ベッカー氏は「あの世」の実在性よりも、人生を振り返ったときに「自分は何のために生きていたのか」という実存的な問いが重要だと話す。
 地位や名誉、偏差値、財産などを追い求める人生は、死亡してから意味を成し得るのか。それよりも、人間関係や家族をはじめとする人との縁の方が、ずっと大事ではないかと臨死体験の研究を続けるうちに痛感したそうだ。
 「人生の目標が自己成長、他者への配慮・貢献というと抽象的で分かりにくいでしょうが、自分の貢献できることや身に付けるものを探るのが人生だと思います。全員に共通する人生の目的はないけれど、だからといって人生の意味自体がないとは限りません。
 学生の進路指導でも同じような議論をしています。『自分の目指すべき道は何か』と聞かれたら、『あなたの与えられた才能、環境、教養、人脈でできること、できないことがある。自分が与えられた環境で何ができるのか、自問自答して、可能な限りベストを探ることが大事』だと伝えています」
 誰もが避けては通れない死を意識し、限界を受け入れることによって、自分自身の生きる意義や目的を探ることができるのかもしれない。
 カール・ベッカー京都大学 政策のための科学ユニット 特任教授。哲学博士(ハワイ大学)。1983年の来日から大阪大学筑波大学の教員を経て、1992年から京都大学教員に。専門は、死生学、医療と環境を含む生命倫理学。著書に『愛する者の死とどう向き合うか』(晃洋書房)等多数。」
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