🕯157)─1─日本民族は死者・霊魂と共に生きる人々であった。心霊現象・幽霊体験。〜No.331No.332 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本列島の歴史は厄災の歴史であり、数百万人から数百万人の数え切れないほど人々が非業の死を遂げ、日本列島の美しい山河の至る所に彼らのドス黒い霊魂がさ迷っている。
 ローカルな伝統的民族宗教である日本神道と日本仏教は、怨みの根深さで祟りを繰り返す怖ろしい霊魂=怨霊を鎮める為に、政教一致で公金を出して宗教儀式を行ってきた。
 日本独自の地鎮祭は、土地神=地縛霊の祟りを恐れる為に執り行わる宗教儀式である。
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 自責の念が強い日本民族は、死んだ者達に対して生き残ってしまった事に罪悪感・後悔を抱いて生きてきた。
 「彼が助かって生き延び、自分が死ねば良かった」
 日本民族は自分の事を、死んだ才能優れた人々に比べてバカで、愚かで、どうしようもない、救いようのないダメ人間であると、固く信じている。
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 日本では、血と死は穢れであり、偏見と差別の大元であった。
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 日本列島は、パワースポットや心霊現象・幽霊体験の宝庫であり、都市はおろか地方に至るまで数多くの都市伝説が存在する。
 それが、伝統文化として溶け込んでいる日本民話である。
 柳田国男民俗学者と外国人の小泉八雲や多くの怪奇作家・漫画家が掘り起こして後世に残している。
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 日本で昔から語り継がれてきた心霊現象・幽霊体験とは、最愛の家族を喪って生きる意欲を失った日本人のグリーフケアであった。
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 葬式仏教とは、死んだ人間に死んだ事を自覚させ、この世への未練から亡者となってさ迷わず諦めて死を受け入れて成仏する事を諭す宗教儀式である。
 それが、冥福を祈る供養である。
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 現代の日本人は、昔の日本人とは別人のような日本人で、民族性が薄く、歴史力や文化力が弱く、宗教力が乏しく、そして日本が神の国・仏の国である事を否定している。
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 現代日本は、無宗教無神論として、全ての公の場で政教分離であり教教(教育と宗教)分離である。
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 2021年3月7日号 サンデー毎日「震災10年 復興への無策を問う
 3・11後の霊体験を追う
 亡くなった大切な人との『再会』を語る被災者 
 津波を生き延びた人たちが語る不思議な霊体験。それを知ったノンフィクション作家の奧野修司は、証言を聞きとって2017年に本を書いた。すると外国から問い合わせが相次ぎ、2億人超が視聴する『ネットフリックス』が同じテーマの番組を製作した。
 奧野修司
 津波で流されたはずの祖母が、あの日の朝、出かけたときの服装のまま縁側に座って微笑んでいた。夢の中であの人にハグされると体温まで伝わってきてうれしい。亡くなったあの人の携帯電話に電話したら、あの人の声が聞こえてきた。悲しんでいたら、津波で逝ったあの子のおもちゃが音を立てて動いた──。
 死者・行方不明者2万2,000人余を出した東日本大震災から2年ほどして、霊的ともいえる不思議な体験を耳にするようになった。約3年半にわたってこうした話を聞き取り、そのうち16の物語を選んで『魂でもいいから、そばにいて─3・11後の霊体験を聞く日─』(新潮社)としてまとめたのが2017年だった。
 当初は、被災地を歩くと幽霊を見たという恐怖体験がどこにでもあった。たとえば、ピンポンと鳴ったのでドアを開けると、ずぶ濡れの女の人が立っていた。着替えを嫁してほしいと言うので、着替えを渡してドアを閉めたら、またピンポンと鳴った。玄関を開けると、今度は大勢の人が口々に『着替えを!』と叫んでいた──といった話だ。あるタクシー運転手から電話で、今まさに幽霊を見ているという現場から実況中継をしてもらったこともある。が、こうした恐怖体験にはあまり気が乗らなかった。理由は、伝聞なのか本人の体験なのか判然といないこと、それに『怖い!』からだ。こう言うと笑われるが、怖いものは怖いのである。
 ところが2013年の夏頃から、津波で逝った大切な人との『再会』ともいえる不思議な体験を耳にする。その一部が冒頭に述べたようなよなのものだ。
 人はそれぞれ自分の物語を生きている。2万2,000人余が亡くなったのなら、2万2,000通りの、いやそれ以上の物語があったはずだ。それが突然、津波で断ち切られたのである。大切な人を喪(うしな)って大きな悲しみを抱えた人なら、死者と生き直すために、新たに物語を創ろうとしても不思議ではない。霊的な体験はそのきっかけになったのではないか。もしそうであるなら、その体験が事実かどうかよりも、その人にとって事実であるなら、記録しておくべきだろうと思ったのだ。
 ノンフィクションについてちょっと風変わりなテーマだったが、出版後が今までと違ったのは、海外の人からたびたびインタビューを受けたことだ。
 不合理な現象を排除した日本
 最初に連絡があったのは、フランスのエレーヌ・ロベールさんだ。ドキュメンタリー写真家ということだが、『津波後の日本における生と死の旅』というテーマで映像を撮っていた。彼女が監督で、ご主人がカメラマンだった。妊娠中で、大きなお腹を抱えながら瓦礫(がれき)の中を歩くなんて信じられないと言うと、彼女から『それがどうしたの?』みたいな感じで笑われた記憶がある。
 このときは、完成したばかりの巨大な堤防で長沼恵子さんを撮影した。宮城県石巻市の大川小学校2年生だった息子を津波で亡くしたお母さんだ。震災から2年経(た)った頃、独特な歩き方だった息子と同じリズムで、仮設住宅の天井や壁を歩く音が聞こえてきたのだ。そんな話を、エレーヌさんは泣きながら聞いていた。
 その直後にやってきたのが英公共放送のBBCラジオだ。インタビューは、英エディンバラ大学の教授で歴史家。津波の被災地を旅するというストーリーだが、教授からいきなり『私は霊を信じていません』と言われたときは笑ってしまった。でもこれが西洋的な価値観かもしれない。明治維新後の日本は、お化けや妖怪を信じていたらいつまで経っても近代国家になれないと、不合理な現象を徹底的に排除してきた。模範にしたのが西洋なのだから、霊現象を否定するのは日本以上に強いようだ。日本と違うのは、『霊を信じることを否定するのではなく、そんな世界があってもいいじゃないか』ぐらいに共存しているこどだ。霊を信じなくても、大震災の後で霊的な現象がたくさんあらわれたのなら、それはそれで取材の価値があるということだろうか。このあたりは日本人よりもはるかに柔軟なように思う。
 彼らが驚くのは、生者が死者の霊と共に生きるというストーリーのようだ。欧米のキリスト教圏では、霊といえば悪魔であり、それに憑(つ)かれたらエクソシスト(悪魔を追い払おうとする祈祷師)に頼んで追い払うイメージがあるから、理解しがたいのかもしれない。面白いのは、先のフランス人監督のエレーヌさんがそうであったように、BBCのスタッフも、最後は青森県下北半島にある恐山(おそれざん)に生きたいと語っていたことだ。皆が口を合わせたように『イタコに会いたい』と言うのがおかしかった。
 スペインを代表する現代アーティストのホセ・マリア・シシリアさんが、震災をイメージした作品を制作しているが、拙著に書かれた霊体験を作品に反映させたいということで、拙宅の近所までやって来たのはちょっと驚いた。蝶や花をモチーフにした抽象画で知られた作家だが、霊体験をモチーフにするとはどういうことだろう。被災者のことを何度も聞かれ、その中で特に関心を示したのが、宮城県南部の亘理(わたり)郡に住む亀井繁さんである。
 亀井さんは、妻と1歳10ヵ月の娘を、家ごと津波に流された。火葬にしたその夜、夢の中で妻が娘を連れてあらわれた。その後もたびたび夢にあらわれたが、亀井さんは悲しさのあまり、死を意識するようになる。その頃、夢にあらわれた妻は、亀井さんに語りかけるようになった。
 『私が居ないとつまんない?』『今は何もしてあげられないよ』『待ってる』
 短いフレーズだが、その度に亀井さんは励まされ、危機一髪で助かった長女を育てることに希望を見出していく。そんな話のどこが作家の琴線(きんせん)に触れたのか、ぜひ亀井さんに会いに行きたいと言う。もちろん僕は喜んで紹介した。
 不思議な体験は自己治癒力
 彼の感性に過ぎないのかもしれないが、これら霊的な体験を理屈抜きに受け入れてくれた彼は、イギリス人教授やフランス人監督とは少し違うようだ。憑依(ひょうい)した霊=悪魔という感覚はキリスト教的でも、スペインではそうでない土着の精神文化があるのかもしれない。
 出版した翌年の暮れだったが、動画配信サービスのネットフリックスから問い合わせがあった。『3・11の津波で亡くなった方たちの心霊現象に絞ってドキュメンタリー映画を作りたい』という。電話をしてきたのは藤村亜美さんといって、俳優の故・藤村俊二さんの息子さんだ。同社が拠点を置くアメリカのプロデューサーに説明するのに、僕の本の大半を英語に訳したという生真面目な男である。
 面白いのは、本の中に2行ほど、『古川駅から陸前高田の病院まで客を乗せたが、着いたら土台しか残っていなかった。お客さん!と振り返ったら誰も乗っていなかった』というタクシー運転手の証言に強く反応したことだ。BBCのスタッフもそうだったが、どういうわけか彼らはタクシー運転手の幽霊体験に強く惹(ひ)かれるらしい。
 これはネットフリックスで公開されてからのことだが、イギリスの脚本家で『ゴーストコレクター』を自称する男性から僕に連絡が入った。彼も幽霊を乗せたタクシー運転手を探したいという。なぜタクシー運転手なのだろう。藤村さんは、『霊を信じない人も多いから、証拠があるものにこだわるのかもしれません』と言ったが、そうかもしれない。タクシー運転手は乗客の運賃記録という証拠を残しているからだ。
 それはともかく、彼らは幽霊を目撃したと証言したタクシー運転手を探し回ったのだが、すべて取材を断られたそうだ。震災直後は、社会のインフラが崩壊して、幽霊が出てもおかしくない状況だったから、興味半分に噂話をする感覚で喋(しゃべ)っていたのに、世の中が落ち着くと、幽霊譚(ばなし)は商売に差し障ると現実的な判断をしたのかもしれない。
 プロデューサーが僕の本で興味を示したのが、冒頭で述べた、大勢の人が『着替えを!』と叫んでいた話、それに遠藤由里さんの話と菅野佳代子さんの話の3話だった。遠藤さんの話とは、津波で逝った3歳9ヵ月の長男に逢(あ)いたい思いが募っていた頃、祭壇に向かって『こっちで(一緒に)食べようね』と言った途端、息子が大好きだったアンパンマンのハンドルがついたおもちゃの車が音をたてて動き出したというものである。
 菅野さんのそれは、拙著では、津波で亡くなったご主人が4Kテレビのようにリアルな映像で夢にあらわれたのが中心だが、彼らが注目いたのは、大きな余震で停電になったときに、海に浸(つ)かって使えなかったご主人の携帯電話が、突然明るく点滅して、逃げようとする菅野さんらの足元を照らしたことが。映像化しやすいこともあるのだろうが、動かないものが動くという即物的な霊的現象に強く惹かれたようだ。
 撮影現場は石巻市の古い民家で、スタッフも30人ちかくいた。このプロデューサーも霊を信じていない口ぶりなのに、撮影はきわめて熱心だった。
 日本と同じで、アメリカでも霊的現象をオカルトとして拒否する人は少なくないが、その一方で真面目に研究している人も多い。だからといって異端視されることはないそうだが、日本では霊の話をするだけで眉をひそめられる。だから、霊的体験というテーマがノンフィクションにふさわしいかどうか、ずいぶん迷った。その結果、行きついたのが、霊的現象が事実かどうかにこだわるのではなく、体験者が事実を語っているならそれでいいじゃないかと、そんな屁理屈をこねて自分を納得させたのだ。それが海外の人たちと触れることで、僕の中ではそれが確信に変わってきた。そして同時に、あの体験は人が本能的に持っているグリーフケア(死別などで悲しむ人への支援)の能力なのだと考えるようになった。大切な人を喪った悲しみは、誰かにケアされて癒やされるものではない。セルフケアする以外に方法がないのだ。不思議な体験は、僕たちに備わった自己治癒力なのだろう。
 このときに撮影した映像は現在、ネットフリックスの『未解決ミステリー』シーズン2の第4話『波にさらわれた魂』として公開されている。これ以降、先のゴーストコレクターだけでなく、各地から問い合わせがあったのは困ってしまった。
 『古い寺は今も除霊をしている』
 この映像に、高村英さんという、津波で亡くなった30人近い人の霊に憑依された女性が登場する。実は、2012年に彼女の存在を聞いたのだが、当時の僕は、被災地の霊体験すら取材すべきかどうかで迷っていたほどだから、憑依体験にまで関心を向ける余裕はなかった。彼女はこの撮影で自分の体験のさわりだけを喋っているが、詳細は誰も語っていない。というか、霊媒師でもない彼女が、自分の憑依体験をうまく整理できていなかったのだろう。ところが、2020年になって、僕なら喋ってもいいと言われた。理由は、岡部健医師という共通の知人がいたからだという。
 ところが、僕は逆に戸惑って決断できずにいた。そんな僕の背中を押したのは、親しい住職の言葉だった。
 『除霊は今でも古い寺ならやっています。昔は当たり前だったが、明治になって近代化が進むと隠れてするようになった。皆さんが知らないだけです』
 憑依体験が日常的にあるから、霊の存在云々(うんぬん)ではなく、彼女の証言が嘘でなければ事実として受け止めるべきではないか。改めてそう思ったのだ。
 現在は合理的で科学的であることが正しいとされがちだが、そうではない様々な考え方も尊重されるべきだろう。近代科学といっても、たかだか400年ほどの歴史に過ぎない。長い人類の歴史を考えれば、思考は多様であるべきなのだ。
 昨年の春から、彼女のインタビューを始めたのが、僕には、まるでファンタジーのような世界で、どう消化すればいいのかオロオロしながら聞いている。正直いって、どんな本にまとめられるか、今の僕自身も皆目見当がつかない」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教は、この中から生まれた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄であり地獄であった。
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 日本民族は、UFOや宇宙人を信じないが御霊・怨霊、霊魂、亡霊・幽霊は信じている。
 世界は、霊魂、亡霊・幽霊を信じないがUFOや宇宙人は信じている。
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 日本で幽霊として現れるのは、成人男性より霊感の強い女性や神に近い子供の方が多い。
 人を呪い殺すのは女性の幽霊であり、人に慰めと安らぎと癒しを与えるのも女性の幽霊である。
 日本人男性は女性の幽霊に、死の恐怖を感じて震え上がり、生きる勇気を与えて奮い立つ。
 男性の幽霊は、突然現れると驚くが何処か間が抜けている。
 日本の演歌は、幸薄い不運な女性の情念を歌う、一種の怨霊封じの鎮魂歌である。
 日本の女性に対する偏見・差別そして蔑視は、気弱な日本人男性の女性への恐怖から来ている。
 何故か、それは日本の最高神が太陽の化身とされる女性神だからである。
 女ほど怖い生き物はない、である。
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 魂の不滅を信じていた日本民族は、輪廻転生、生き変わり、生まれ変わり、蘇りを信じ、その延長に御霊・怨霊、亡霊・幽霊が存在していた。
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 日本民族は、世界の非常識とも言える怨霊信仰・鬼崇拝そして言霊信仰を伝統的宗教文化として持っている。
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 死者の魂は怖ろしい怨霊であるが、敬い、祀り、祭祀を行う事で、尊い御霊となる。
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 世界の常識では、死者・霊魂・幽霊と共に生きる日本民族の人生観、死生観、宗教観が理解できない。
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 日本の女性を讃える大和撫子・手弱女は、世にも怖ろしい日本人女性の怨念を封じる唱名である。
 日本の男性を表す日本男子・益荒男は、気弱でひ弱で臆病な日本人男性を励ます唱名である。
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 日本民族は、死を受け入れ、死者と共に生き、同じ生活空間で生活する事で安心する不思議な人々である。
 日本民族は、血と死を穢れとして嫌ったが、死者は手篤く葬り、霊魂は尊い神(人神)として祀りムラ人総出で祭祀を執り行った。
 その意味で、日本民族は神(人神)の子孫である。
 それは、血筋を正統とする天皇が一子相伝の秘儀として執り行う「祀り祈る」の宮中祭祀に繋がっている。
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 江戸時代の商家は、「魔を持って魔を封じる」を信じて、当代一の有名な絵師や浮世絵師らが描いた女性の幽霊の掛け軸を魔除けとして家の中に掛けていた。
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 日本民族は、不寛容なキリスト教を拒否し、反宗教無神論マルクス主義共産主義社会主義)を嫌った。
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 日本民族は精神的に脆弱なだけに、死んだ肉親の霊魂を身近に置き忘れる事なく共に生きてきた。
 日本社会とは、御霊・怨霊、霊魂、亡霊・幽霊がごく自然に存在する社会である。
 日本における「成仏する」とは、絶対神に召されて天国・神の国あるいは悟りを開いて極楽浄土・仏の国に昇天する事ではなく、死者が「自分は死んだ」のだと自覚する事である。
 日本民族心理的に気弱なだけに、死んで、幾ら素晴らしく良い処で永遠の命が与えられると言われる天国・神の国あるいは極楽浄土・仏の国に昇ことよりも、今まで愛してきた家族・家・故郷から離れる事を嫌がった。
 日本の死者、御霊・怨霊、霊魂、亡霊・幽霊は、日本民族にとって血の繋がりのある家族・親族・身内・縁者であった。
 その象徴が、靖国神社である。
 日本民族のローカル宗教は、死んだ祖先や身内の霊魂を神として崇め祀ったが、奇跡・恩寵・恵を求める信仰の為ではない。
 それが、祖先神・氏神の人神崇拝である。
 日本民族は心が折れそうなほどに弱いだけに、死んだ大事な人・愛した人が何時も身近にいてくれると信じる事で安心できた。
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 明治新政府は、日本を近代国家に作り替える為に、西洋科学で解釈できない伝統的な修験道を排除した。
 中国や朝鮮では、中華儒教が人を惑わす悪しき行いとして呪術を弾圧していた。
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 日本民族は、数万年前に生きていた縄文人の神秘性・宗教性を強く受け継いでいる。
 縄文人は、揚子江流域にあった非漢族系中国人の長江文明の影響を色濃く受けていた。
 現代の中国・韓国・北朝鮮は、黄河流域にあった漢族系中国人の黄河文明を純粋に受け継いでいる。
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 日本国とは、神の国であり仏の国である。
 日本民族とは、神の子孫であり仏の子孫である。
 日本は、良い意味での善意なオカルト社会である。
 日本のオカルトは、反キリスト・異端者、悪魔・魔女、亡霊・悪霊、亡者・ゾンビ・魔物などが善良な人々に危害を加える悪意に満ちた世界のオカルトとは異質である。
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 同じ東洋、同じアジアと言っても日本と中国・韓国・朝鮮(北朝鮮)とでは、水と油の如く交わるところが少ない、ハッキリ言って異質な存在である。
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 イギリスの一部の地域では、家の中で起きるポルターガイスト(騒がしい霊)を良い事と信じている。
 それは、東北地方に伝わる座敷童(ざしきわらし)現象に似ている。
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 日本民族の人生観、死生観、宗教観とは、同じ生活空間で生者が死者と共に生きる事を前提にしている。
 共に生きる死者とは、死んだ家族や友人・知人など大切な人・愛した人であった。
 日本民族は、インド発祥の大陸仏教を縄文時代以来の土着性で換骨奪胎(かんこつだったい)して異質な日本仏教に組み換え、日本独自の死者に寄り添う葬式仏教を生み出した。
 日本民族が抱く死後の世界には、罪人が自分の犯した罪で落ちる地獄はあっても、死後の救いとしての天国・神の国・神の王国あるいは安らぎの死によって心配も苦痛もない極楽浄土・仏の国などはなかった。
 葬式仏教は、悟って死ねば極楽浄土・仏の国に転生できる説いた。
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 日本の葬式仏教は、生者と死者を切り離し隔離する絶対神信仰のキリスト教ユダヤ教イスラム教や、神仏を否定排除する反宗教無神論儒教マルクス主義共産主義社会主義)とは、異質で、相容れない。
 つまり、絶対神信仰のキリスト教ユダヤ教イスラム教や、神仏を否定排除する反宗教無神論儒教マルクス主義共産主義社会主義)では亡くなった日本民族を弔う事ができない。
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 日本中心神話や民族の物語は、「御霊、魂、死者、亡霊・幽霊と共に生きる」事が根底に存在するが、世界の髑髏(どくろ)・頭蓋骨・心臓崇拝と本質から違う。
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