🏞73)─1─ロシアはシベリア経営に日本を利用するべく徳川幕府に特使を幾度も派遣していた。~No.293No.294 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本史の学校教科書には数多くの嘘が存在し、教師や大人はその嘘を子供に事実として教え、子供や親は受験に合格する為にその嘘を疑わず丸暗記している。
 高学歴な知的エリートや進歩的インテリとは、優秀な成績で卒業した日本人である。
 それが、現代日本のリベラル的革新的日本人愚か者歴史教育である。
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 2022年4月15日号 週刊朝日司馬遼太郎 講演録再録
 ロシアについて 第1部
 1984年11月3日 札幌市中央区民センター
 84北海道ニューフロンティアフェスティバル
 題目=ロシアのかたちと日本のかたち
 ……
 ロシアに戻ります。
 ロシアを大ロシアとしたのは、16世紀のイワン雷帝(イワン4世)でした。この人のことをスターリンが、
 『ロシアにおけるレーニン以前のレーニン
 と評したと思うのですが、変な表現ですね。
 ともかくもロシアをつくりあげた人です。秦の始皇帝のような、英雄としか表現できない人でした。イワン雷帝が即位した時代、ツァーリ(皇帝)の力はそれほどではありませんでした。競争相手の大地主、つまり大貴族がたくさんいて、彼らをまずやっつけなければならない。
 イワン雷帝は、武力、武力で押し切りました。権力は武力によってのみ得られると徹底的に信じ、ほかのことは、いっさい信じなかった。子飼いの軍隊を持ち、貴族が何か文句を言ったらやっつけてしまう。貴族に対し、恐怖政治を敷いた。
 イワン雷帝スターリンを比較してもおもしろいかもしれませんね。このイワン雷帝のとき、ロシアの版図はまだウラル山脈まででした。そこから先のシベリアについてはよくわかっていない。何か向こうに大地が続いているらしいということはわかっていますが、ロシアは農業国です。住民が移動することはほとんどありません。
 ただシベリアという大地があるらしい、その程度でした。
 ウラル山脈といっても、実際は列車で通過すると、平地みたいだそうですな。低い丘陵が続き、高い山があるわけでもない。なんとなく、地球のしわのような感じだそうですね。
 そのウラル山脈の少し東側に、イルティシュ川が流れています。湿地の多いあたりで、排水があまりよくなく、イワン雷帝のころは、まだロシアの農民はあまり入っていない地域でした。
 ここにシビル汗国という国がありました。名前でわかるように、モンゴロイド遊牧民の国であります。
 ウラル山脈の東側に沿って、あるいは山脈に入り込むようにして、一枚の板塀のように盤踞(ばんきょ)していた。この地方での遊牧民族の最後の王国といいますが、名残といいますか、最後に威勢を保っていた連中でした。
 このシビル汗国からシベリアという言葉が生まれました。
 ロシアにとってみれば、このシビル汗国を倒すことによって、シベリアへの道が開けていくことになります。
 しかし、このシビル汗国は大変強いと思われていました。ロシア人は先天的に騎馬民族に対して恐怖心がありましたから、彼らに勝てるとはとても思えなかった。
 ところがイワン雷帝のころになると、すでに企業という商社のようなものが出てきていて、そのうちのある商社がシビル汗国をやっつけたいと考えた。
 狙いは黒貂(くろてん)でした。シベリアに黒っぽい、イタチを小さくしたような貂がいて、いい毛皮を持っている。
 『森の宝石』
 と呼ばれたくらいです。パリの貴婦人たちは争ってこれを求めた。とても普通の人の手に入る値段ではありません。商社はこの黒貂を欲しがったのですが、それにはシビル汗国がじゃまでした。
 シビル汗国も黒貂の商品価値はよく知っていました。シビル汗国はシベリアの森林の民族を従属させ、脅し、
 『黒貂を捕ってこい』
 と命令した。そして森の人々が捕ってくると、ただで取り上げた。これが税金だったわけですね。これを『毛皮税(ヤサク)』といいます。後にロシアはシビル汗国と同じことをするようになり、ヤサクという言葉はロシア語に残っています。
 その商社はストロガノフという男がおこしました。ストロガノフ家はシビル汗国から黒貂を買い、それをパリへ売っていたのですが、なんとかじかに搾取したいと思ったのですね。
 シビル汗国をやっつけたい。しかし衰えたといえども、遊牧民の戦闘力はなかなか手ごわい。
 余談になりますが、なぜ紀元前の匈奴や、13世紀のジンギス汗が強かったのでしょうか。
 答えは簡単でして、どうも彼らの弓は、日本やヨーロッパのものと比べて、5、6メートルは遠くへ飛ぶようですね。この差は大きい。こちらの弓ではヒョロッと落ちて届かない距離も、彼らの弓なら届いてしまう。射ぬかれてしまいます。 
 弓が違うのですね。
 動物の骨を短冊模様に薄くして結わえます。昔の鉄道の点火バネのようなもので、非常に短い弓なのですが、バネの力で遠くへ飛ぶ。ジンギス汗の軍隊は簡単な火器も持っていましたが、やはり主力は弓でした。
 もっとも弓では、いくら飛ばしたところで200メートルほどであります。火縄銃は、うまくいけば400メートルは飛ぶ。少なくとも100メートルの距離の差がある。
 そこでストロガノフ家はイワン雷帝にお願いしたんですね。
 『火縄銃と大砲を貸していただけないか。ついては新しく得たシベリアその他の領土を差し上げます』
 イワン雷帝はストロガノフ家の願いを許します。しかし正規兵までは貸してはくれない。
 ここでコサックが登場します。
 シベリアを目指すコサック
 コサックは、もともと遊牧社会の『ハザク』から来た言葉です。ハザクは、はぐれ者という意味ですね。
 草原においてはキャップ、親方の命令は絶対なのですが、人間の集団においてはどこでもへそまがりがいます。親方の言うことなんか聞けるかと、勝手にどこかへ行ってしまう。勝手に行動すれば、草原で死が待っているかもしれませんが、自由といえば自由ではあります。
 そういうはぐれ者をハザクと呼び、その言葉はキプチャク汗国からロシアへ伝わったのでしょう。
 帝政の貴族の収奪に耐えかねた農民が逃げていき、自由な暮らしをする人々が現れた。
 ロシアの体制からの逃亡者ですね。彼らはコサックと呼びました。自由な暮らしといっても、農村を守るという条件で農村に寄生し、ときには遊牧民を襲うといったものです。泥棒であったり、強盗であったり、ヴォルガ川の川賊だったりする場合もあった。ツァーリから見れば、犯罪者の集団のようなものです。
 その親玉にイェルマークという男がいました。彼の首には懸賞金がついていたのですが、ストロガノフ家は彼を口説きます。
 『おまえがシビル汗国を倒せば、死刑を免れるどころか、貴族になれるかもしれないぞ』
 イェルマークは引き受けました。そのあたりのコサックを5、600人集め、ツァーリから借りた銃、大砲で攻めたところ、わずか2年でシビル汗国の首都を占領してしまったのです。
 騎馬民族とまともに騎馬で戦っては勝負にならない。イェルマークは考えましたね。クレムリン(城塞)をつくりました。敵に向かって柵をつくり、柵のこちら側にクレムリンをつくる。その中でしばらく様子を見ながら、徐々に前進する。シビル汗国の騎馬が襲ってきても、クレムリンの中から火縄銃や大砲で撃退していく。騎馬軍団は、またたくまにやられてしまった。
 よく歴史には偶然の暗合(あんごう)性があるといいますが、このシビル汗国との戦いでのイェルマークの戦法と、信長の戦法はよく似ています。織田信長長篠の戦い武田勝頼を破っています。柵をつくり、鉄砲を一斉射撃で武田の騎馬軍団を倒したのですが、この二つの戦いはほぼ同時期のものでした。
 つまり、日本史でも弓矢の時代は終わり、世界史的にも騎馬民族の時代は終わりました。シベリアにおいてはロシア人の時代が始まったのです。
 ……
 ロシアの版図が、ツァーリの領土が増えた。
 他の大貴族よりも強大な領土を持ちたいイワン雷帝にとって、これほどの喜びはありません。
 ツァーリはコサックを大いに評価しました。イェルマークや彼の配下の罪を許し、イェルマークには、皇帝自身が着用していた銀の甲冑を与えた。甲冑などというものは貴族のものです。コサックのような盗賊まがいの連中が身につけるものではなく、ましてやイェルマークがもらった甲冑には、皇帝の紋章である双頭の鷲の黄金の彫刻がついていた。
 ……
 シベリアへ、シベリアへとコサックは向かっていきました。イェルマークのようにクレムリンをつくり、土地の人々を征服しては毛皮税を課していく。
 ルールができまして、新しい土地は必ず皇帝に献上する。皇帝はいよいよほかの貴族を圧倒できますから、うれしくて仕方がない。コサックというコサックがシベリアを目指し、コサックと皇帝との結びつきはいよいよ深まりました。コロンブスをピークとする大航海時代で世界史は大きく転換していきます。発見されたアメリカでは、西部へ西部へと開拓が進みますが、ロシアはシベリアの大地をそういう形で進んでいったのです。そしてシビル汗国が倒されてから50年余りで、ロシアはシベリアの東端に到達します。
 なおもロシアの野望は続きます。カムチャツカ半島を発見した。ここにはカムチャダールという、われわれと同じアジア系の顔をした人々が住んでいたのですが、ここにもコサックは攻めていきました。
 わずか60人ですが、彼らは大砲を持っていった。これに対してカムチャダールは石を投げて抵抗したのですが、またたくまに征服された。カムチャツカ半島は、日本の本州よりも広いのです。まことに安上がりな征服でした。
 しかし、コサックが目の色を変えて捕りすぎたため、ロシア帝国の外貨獲得の唯一の方法だった黒貂はさすがに少なくなりました。今度はラッコでした。
 まあ、黒貂ほどではないにせよ、ラッコもいい値段になります。ラッコに商売替えをした商社が、いくつもできました。
 商社の仕事は、ラッコを捕るコサックその他を派遣すること、そして彼らの食糧を絶やさないようにすることでした。これがいまだに続いているロシアのシベリア経営の原点であり、困難さですね。派遣される先は千島でした。ロシア人がクリルと呼ぶ。千島列島にはラッコがたくさんいた。そしてその列島に先には日本があります。
 ロシアが東進を始めた当初から、食糧の補給が大きな問題でした。どこかにシベリア経営を助けてくれる国があるにちがいないと考えた。
 中国のことは早くから知っていましたが、日本についてはずいぶんあとで知った。
 日本という国については、ポルトガル人やスペイン人、あるいはマルコ・ポーロなどによって西ヨーロッパでは知られていたのですが、ロシアはほとんど知らなかった。
 シベリアから便利のいいところに日本という国がある。食糧もたくさんあるにちがいない。そう知ったのは漂流民によるところが大きかったようです。
 大坂のお城にほど近いところに、谷町という一角があります。商売の盛んな町でして、ここの質屋の若旦那で、伝兵衛という青年がいました。当時の商家では、一人息子でもよその店に奉公させて商売を身につけさせます。
 伝兵衛さんはどういうわけだか、航海術もろくに知らないまま、船の商人の修業をさせられ、そして漂流してカムチャツカに流れ着いた。
 伝兵衛さんの仲間は土地の人に殺されましたが、彼は生き残ってロシア人に捕まった。伝兵衛さんは男前だったようですな。捕まえたロシア人はモスクワに報告しています。
 『日本人はギリシャ人に似ている』
 伝兵衛さんはいろいろと国の話をしました。ついにモスクワに送られ、皇帝に拝謁しています。ロシアの日本に対する関心の深さがよくわかりますね。
 この好奇心の強い皇帝が、ピョートル大帝でした。
 この人は偉い人ですね。
 ……
 つまり、上からの文化革命を成し遂げた人であり、いまのロシアの人も言っていますね。 『われわれはピョートルの子孫である』
 と。そしてピョートルの目的は外洋にあった。視野は日本にも向けられていて、ピョートルは伝兵衛さんを厚遇します。イルクーツク日本語学校を創設し、伝兵衛さんはその教師としています。
 伝兵衛さん以後も、ロシアは日本の漂流民を大切にします。
 シベリア経営のため日本を目指した
 このあたりの話は井上靖さんの『おろしや国酔夢譚』に詳しいですね。やはり漂流した、大黒屋光太夫が主人公になっています。光太夫は有名な女帝、エカテリーナ2世に拝謁しています。伝兵衛も光太夫も、日本にいたままならば、将軍はおろか大名にも拝謁できる身分ではありません。いかにロシアの日本に対する関心が切実なものだったかが、よくわあります。さて、日本のロシアに対する、シベリアに対する関心のほうはどうでしょうか。
 千島にロシアがやってきて、土地のアイヌがラッコを捕らされます。ほとんど奴隷化されたものですから、反乱も起きています。ロシアの船も北海道の沿岸に接近してきます。
 鎖国の日本に動揺が走った。このことは松前藩から江戸に伝えられました。田沼意次の時代でした。
 田沼は米穀経済と貨幣経済の潮流の間に政権を持った人ですね。貨幣経済への道を決断したため、汚職の親玉のようにいわれていますが、非常な経済人だったと思っています。
 ただ、自分の評判の悪さはよくしっていたため、何か後世に残る仕事がしたかったんですね。ブレーンの勧めで、日本橋に住む工藤平助の話を聞こうということになった。
 工藤平助は仙台藩のお医者でしたが、町住まいをして気楽に暮らしていました。彼は田沼に進言しています。
 『蝦夷地を調査し、さらに千島を調査し、樺太、韃靼を調査すべきだ』
 この進言を入れた田沼により、大がかりな調査団がつくられ、その中には有名な間宮林蔵最上徳内もいます。
 さらに彼はどこにも行ってはいないのですが、ずいぶん資料を持っていたのですね。ロシアの国情、国の建て方、コサックについてと、ロシアについてのいろいろなことをまとめた本を田沼に贈りました。『赤蝦夷風説考』という上下2冊の本で、これはいまでもかつじとなって残っています。
 シベリアには大した権力は存在せず、原住民が散在している。その原住民の間で抗争が起きたとき、ロシアはすぐにその抗争に入ることはしない。
 その抗争の一方が、ぜひツァーリの軍隊をよこしてうれと言ったとき、初めて兵を起こす。
 『無名の兵は出さない』
 工藤平助はロシアに好意的に書いているのですが、この介入のしかたは、ソ連のやり方に似ていますね。
 いずれにしても鎖国をしていた島国の一角から、よくもロシアの原形についてかいたものだと思います。
 さて、ロシアの航海技術、造船術はその後、進歩していきます。外国人技術者の力を借りてですが、19世紀初頭には世界一周に乗り出します。
 ドイツ系ロシア人で、のちにロシア海軍の柱となっていく人物に、クルーゼンシュテルンという人がいます。
 当時の技術で世界一周、サーカムナビゲーションは大変でした。造船、修理、航海の大変さは想像を絶しますね。船の食糧はだんだん腐ってくるし、乗っている兵隊、乗務員はだんだん腹が立ってくる。それを統御しなければならない。食糧の補給は港、港でしなければなりませんが、そのためには寄った港の人たちと仲良くしなければならない。大変な仕事をクルーゼンシュテルンは成し遂げたのですが、彼の目的地のひとつは日本でした。
 ロシアはなんとか日本の門戸を開きたかったのですね。しかし、ロシア人はアメリカのペリーのように、いわば西部劇のガンマンのような、ストレートな方法はとりませんでした。
 ペリーはオートマティックに走る蒸気船を江戸湾で走らせ、場合によっては江戸城を砲撃する姿勢を見せた。
 ペリーはアジア人をこう考えていたようです。アジア人というものは、中国人もそうであるように、同じ程度でつついていると、ぐじゃぐじゃ言ってばかりで要領を得ない。武力でどんどん脅すと、すぐに参ってしまう。
 まあ悪いところを見抜かれたというか、たしかにわれわれの弱みでしょうね。
 しかしロシア人はペリーに比べて紳士的でした。ときに暴れ者もいましたが、紳士的に開国を交渉し、そのたびに日本政府ははねつける。
 クルーゼンシュテルンの航海記は羽仁五郎さんが翻訳していますが、ここで長崎について触れています。長崎は一見したところ、ただの漁村のようであり、何の防衛もない。これでは軍艦1隻で占領することができる。日本は非武装の国であると。
 ちゃんと観察していますね。
 クルーゼンシュテルンは1803年にクロンシュタットを出港し、カムチャツカを経て日本に入りました。開国の目的は果たせず、1806年に本国に帰りました。
 江戸時代、ロシアはこのほかにも2度にわたって世界一周の船団を派遣し、その目的地は何れも日本でした。
 すべてはシベリア経営のためだった。日本にとってシベリアは、極端に言えば寒気団の発生の場所にすぎないかもしれません。しかしロシアにとってシベリアは常に重要であり、シベリア問題のなかで『日本』は存在していた。
 ロシア側の一方的な思い入れだったかもしれません。しかしロシアと日本の関係を考えるとき、原点はシベリアにあると私は考えています。」
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 ロシア帝国は、ロシア皇帝を中心とした領地と農奴を所有する貴族の連合体であったが、他国を侵略して領土拡大する権利を持っていたのは皇帝だけであった。
 ロシア帝国領土の大半はロシア皇帝の私有領地であり、ロシア国民とは皇帝と貴族の領地で搾取される農奴の事で、自由民とは都市などに住むほんのわずかな人の事であった。
 その意味で、ロシア軍が日本を占領すれば、日本国はロシア帝国の領土ではなく日本人はロシア帝国民になるのではなく、ロシア皇帝の領地になり農奴になるという事である。
 日本国と攘夷派民族主義者は、国土と国民をロシアの侵略から軍事力で守る為に、近代的軍国主義政策を進めて、大陸戦争を戦える軍隊を約35年でつくり日露戦争=積極的自衛戦争に勝利した。
 徳川幕府は、この国家存亡の危機を正しく理解し、東北諸藩に防衛派兵を命じた。 
 が、志を持った過激な日本人達は、平和的交渉方針の徳川幕府では日本は守れないとして、尊王攘夷運動を起こし、近代的天皇制度での中央集権国家を作るという明治維新を行った。
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 ロシア帝国・ロシア人は、交易だけを求めた平和の使者ではなかった。
 ロシアの軍事侵略の尖兵は、民間商社と個人契約した粗暴な振る舞いが多く犯罪を起こすコサックであって、ロシア帝国の礼儀正しく教養ある陸海軍の正規兵ではなかった。
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 攘夷の相手は、イギリスやアメリカではなくロシアであった。
 その為、水戸藩や初期の攘夷派は国防の最前である北・蝦夷地を目指していた。
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 この歴史的事実を、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力の乏しい現代の日本人には理解できない。
 そうした現代の日本人とは、日本罪悪史観の戦後民主主義教育を受けてきた政治家や官僚、法律家・弁護士、学者・教育者などの高学歴な知的エリートや進歩的インテリである。
 現代日本で国際派と称される人材に田沼意次、工藤平助、林子平最上徳内などに匹敵する人物がいない。
 昔の日本人と現代の日本人とは別人のような日本人であり、ある意味で昔の日本人の方が現代の日本人よりも優れている。
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 日本とロシアの真ん中に住んでいるアイヌ人は、日本に味方するか、ロシアに味方するか、第三者として傍観者になるかを強制された。
 千島アイヌ人は、ロシア人によって地上から消された。
 樺太アイヌ人は、ロシアに残留組・多数派と日本への移住組・少数派に分かれた。
 蝦夷アイヌ人は、日本・和人に味方して侵略者ロシアと戦って多くの犠牲者を出していた。
 反天皇反日本人(和人)を主張する一部の現代アイヌ人の祖先が、どこのアイヌ人なのかいまいち分からない。
 歴史的事実として、日本民族アイヌ人は同じ縄文人の子孫である。
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 徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
 東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土南樺太に送って防衛任務に当たった。
 尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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 徳川幕府内の開国・国防派は、ロシアの軍事侵略から日本を守る為に清国(中国)や朝鮮との三国軍事同盟を模索していた。
 戦争を嫌う現代の日本人には考えられない事を、江戸時代の日本人は戦争をする為に考えていた。
 古代から朝鮮や中国の侵略で苦しめられた長州などの北九州・中国地方の日本人達は、敵である朝鮮や中国を攻め取ってロシアに対抗すべきだと主張していた。
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 明治日本にとって国家存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であり、ロシアが侵略してきた時に隣国の清国(中国)と朝鮮が日本に味方してくれるのかロシアに協力して敵になるかであった。
 が、清国(中国)と朝鮮は日本の淡い期待を裏切ってロシアに味方したのである。
 日本の大陸侵略政策とは安全保障が最優先課題で、北のら侵略してくるロシア・ソ連共産主義勢力に対抗する為に、敵対する中国と朝鮮から反日・敵日・侮日勢力を武力で追放して友好に変え親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
 その意味に於いて、日本の対外戦争は全て積極的自衛戦争であった。
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 明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
 伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
 佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
 つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革か倒幕派の破壊的イノベーションかの選択戦争であった。
 何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革には未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。。
 それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
 日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義共産主義イデオロギー侵略が原因であった。
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 弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
 天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
 それが、天皇国家元首としての統治権であった。
 欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
 そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
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 明治から昭和初期までに起こした戦争は、領土拡大の侵略戦争ではなく、現人神天皇、神国日本、神仏の子孫である日本民族を、外敵である夷狄(ロシア・中国・朝鮮)の軍事力と邪教キリスト教)の信仰力から守る為の積極的自衛戦争であった。
 が、現代日本はおろか、中国、韓国・朝鮮、ロシアを含む全ての国々、国際世論は、日本を血に飢えた邪悪・凶悪・残忍な戦争犯罪者と認定・断定している。
 それが、東京裁判史観=自虐史観=日本人凶悪・残虐・極悪・非道の重犯罪人史観である。
 日本民族が最も恐れたのは、石器時代縄文時代から数万年かけて先祖が護ってきた日本らしさ・日本の国柄・日本の有り様を根底から消滅させる意図を見せていた信仰宗教のキリスト教マルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 が、現代日本歴史教育に深刻な影響をもたらしているのが、そのキリスト教マルクス主義共産主義である。
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 現代の日本人は歴史が嫌いで、昔の日本人とは違って民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、現実に起きていた歴史的事実を認めない。
 高学歴のマルクス主義者の中に、残忍な殺人者であるレーニンを信奉する日本人が多数存在する。
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 レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党日本共産党ディレクションした。
 スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
 中国共産党は、レーニンスターリンの指示に従って軍国日本を対米戦争に追い込むべく、中国在住の日本人を虐殺していた。
 当時の日本人は、戦争を嫌い争う事を避ける現代の日本人とは違い、中国人の非人道的残虐行為に激怒し、惨殺された日本人の復讐・報復を政府や軍部に求めた。
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 中国人による日本人虐殺事件は、第1回南京事件満州ピクニック惨殺事件、済南事件、通州事件、その他など中国各地で数多き発生していた。
 日本人は激怒して「暴支膺懲」に暴走した。
 日本国内では、中国人に対する偏見・差別・嫌がらせの事例はあっても、暴行・殺害、強姦、強奪といった刑事事件はなかった。
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 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に人道貢献と平和貢献をおこなった昭和天皇を惨殺するべく付け狙っていた。
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 軍国日本は、戦場で人を殺す戦争犯罪をおこなったが、同時に、戦場で自己犠牲で人を助けるという人道貢献や平和貢献をおこなっていた。
 東京裁判は、国際法の正義で、戦争犯罪者と同時に人道貢献や平和貢献をおこなったA級戦犯の陸軍軍人・政治家・官僚を見せしめ的縛り首で殺し、遺灰は遺族に引き渡さずゴミのように尊厳を否定して海に捨てた。
 それが、靖国神社問題である。
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 戦後の日本共産党を再建したのは、少数の日本人幹部ではなく、朝鮮人共産主義者達で、暴力革命の資金や武器はソ連中国共産党から提供されていた。
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 近代的軍国日本の戦争とは、数千年前の弥生時代古墳時代からの天皇を中心とした国體を死守する為の積極的自衛戦争であった。
 国體には、数万年前の石器時代縄文時代からの原始的民族神話が深層に流れている。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に狙っていた。
 日本人共産主義者とは、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
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 日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)であった。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 クラウゼビッツ「敵の軍隊を壊滅しても、国が残れば軍隊は再建できる。敵の国を壊滅しても、国民が残れば国は再建できる。しかし国民の意志、魂を壊滅させれば、完全に敵国を壊滅できる」
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