🎑76)─1─歴史的建造物は確かな審美眼を持った人によって守られてきた。津山城。~No.169No.170No.171No.172  ⑭ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年4月14日号 週刊新潮「極みの館は残った。
 そのひと言で残った
 津山城 岡山県 1616(元和2)年
 稲葉なおと大和ハウス工業総合技術研究所
 丘陵(きゅうりょう)や台地に築かれた築城形式のひとつが平山城だ。津山城はその規模において、姫路城、松山城と並ぶ日本三大平山城と呼ばれた。訪れた人はまずその石垣と櫓(やぐら)からなる雄々しい姿に見入ることだろう。3月下旬から4月初旬に訪れれば、石垣を覆う桜が咲き、櫓は桜の雲の上に建つという情景だ。石垣を上れば、眼下に広がる桜が景色を覆い、観光客自身も桜の雲の上を歩くかのような気分に浸れる。
 だがこの景色も、実は2度の大きな危機を乗り越えたからこそ現代に残されたものなのだ。まさにその『ひと言』がなければ、何も残らない『城の跡地』となっていた。
 2度の危機
 森忠政(ただまさ)が徳川家康より美作(みまさか)国の領地を与えられ、鶴山(つるやま)を津山に城を完成させたのは、1616(元和2)年のことだ。工期に12年もの年月を要した大工事だった。忠政は織田家の家臣・森可成(よしなり)の6男で末っ子。森蘭丸の名で知られる森成利(なりとし)は可成の3男で忠成の兄である。
 話は一気に250年の時を経て明治。1873(明治6)年、廃城令の布告により、全国にあった約170もの城郭の運命が左右されていく。陸軍省に要塞として必要と認められた城は『在城』、不要な城は『廃城』。津山城には廃城との命が下され、忠政から計13代、258年にわたり居城された城は、ついに取り壊されることになった。
 まずは建材の払い下げが実施。解体された材木の多くは川を下り、瀬戸内の製塩の燃料に使われてしまうが、門や障子の一部はいくつか移築され、津山市内に現存が確認されている。
 威風を誇った津山城は、石垣のみを残す原野に近い状態で放置されたままとなる。事態が急変するのは1890(明治23)年のこと。城跡の西北で石垣の大規模な崩落が起きる。これを受け津山町(現・津山市)議会は、石垣を河岸の堤防へ再利用することを検討する。ところがそこに、岡山県から視察に派遣された官吏のひと言が、新たな風を生む。その名は、河野忠三。
 河野は1851(嘉永4)年、長州藩士の3男として生まれた。伊藤博文の10歳下。司法省判事、群馬県警部長、同書記官などを歴任したのち岡山県の書記官に就いていた。39歳のころ視察の4年後、第2代岡山県知事に就任する人物である。
 河野は視察に訪れるや石垣を見て語った。この石垣を解体してしまうことは津山にとって非常に惜しむべきことだ、と。
 このひと言が地元民のこころを動かす。石垣の堤防再利用に有志が反対。町長から県知事へと保存運動を働きかけ、河野の視察の翌年には津山城保存会を発足。城跡には国有、県有、私有の地が混在していたが、約10年をかけて町がすべて取得。1900(明治33)年春、津山町管理の元に石垣によって囲まれた『鶴山(かくざん)公園』が開園する。
 開園の2年後、試験的に牡丹桜(八重桜)と染井吉野が植えられ、その後、日露戦争帰還兵による苗の寄付、大正と昭和の即位の礼・御大典記念により計約2,000本の植樹がされ、桜で覆われるようになった。
 さらに時を経て、2004(平成16)年のこと。森忠政による津山城着工1604(慶長8)年から数えること400年の事業として、櫓復元の計画が動き出す。翌年、その備中櫓が完成した。
 今こそ求められる人
 廃城令。そして石垣解体。2つの大きな危機を乗り越えられたのは、その価値を再認識した民衆の力によるものだ。だが、きっかけをつくったのは、ひとりの人物のたったひと言だった。
 建築界で高く評価され、受賞暦もある建築であっても、いつの間にか解体されてしまったというニュースは数多い。建築関係者が声を大にいて『保存を』と訴えても、市民のこころをなかなか動かすことができず何とももどかしい。建築文化への理解と審美眼を合わせ持ち、人のこころを動かすことのできる人物が今こそ求められているのだ。」
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 日本人は、侘びさびを知り、古いモノ良いモノ文化的なモノを大事にする、はウソである。
 その傾向が強いのが、高学歴な知的エリートや進歩的インテリである。
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 リベラル的・革新的な戦後教育の影響で、民族の歴史的文化的伝統的宗教的な審美眼を持った日本人は少なくなっている。
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