🏞126)127)─1─ブラックな江戸が約260年間も続いた原因は庶民の零細職業にあった。~No.493No.494No.495No.496 ㊽ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 何故、極貧で差別が酷いブラックな江戸が約260年間も続いたのか。
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 江戸の町中を歩き回った庶民の商いは、世界を飛び回って活躍したユダヤ人の商売に匹敵し、ある面では凌駕していた。
 庶民の商いは、広く浅くの零細で、安値の薄利ではあるが人の数だけメシの種があり、メシの種は季節によって変わる、客優位と言う事である。
 ユダヤ人の商売は、狭く深くの中小で、靴の片一方だけでも売って利益を得る、商売人優位と言う事である。
 日本民族ユダヤ民族は、水と油のように正反対である。
 資本主義、資本家は、資産を増やしたユダヤ人の中から生まれたが、日本人は資産を持とうとしなかった為に生まれなかった。
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 日本民族の歴史において、マルクス主義階級闘争史観や発展段階説は役にたたなかった。
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 『地図・グラフ・図解でみる 一目でわかる江戸反代 竹内誠監修、市川寛明編
 さまざまな商売で江戸の町は、にぎわった』
 「盛んだった第3次産業
 膨大な消費人口を抱える100万都市江戸では、目抜き通りに店をかまえる大店(おおだな)から、ひとりで売り歩く棒手振りまで、多種多様な販売業でにぎわった。外食産業も盛んだったし、サービス業や見世物などもあり、第3次産業に従事する人がかなりの数を占めていた。
 生活必需品などについては、業種ごとに『株仲間』として幕府公認の業者が定められるのがふつうだった。彼らは、独占権を認められる代償として、『冥加金』を上納した。
 ……
 食べ物を売る者、情報を売る者、力仕事をする者、見世物をする者など、さまざまな生業(なりわい)の人たちが江戸の町を行き交っていた。」
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 江戸時代、武士も百姓・町人も本業の収入だけでは生活できなかった為に複数の副業を持っていた。
 二足の草鞋は当たり前の事で隠すべき恥ずかしい事ではなかった。
 その代表例が、坂本龍馬の家である。
 ウィキペディア
 龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・八平、母・幸の間の二男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士郷士)だったが(坂本家は福岡家に仕えていたという)、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。 
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 女性は男性より長生きで、男性は女性より短命であった。
 老婆(老女)の方が翁(男性老人)よりも多かった。
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 人生50年時代は、若者が多く老人が少なかった。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
 現代の日本人は、昔の日本人に比べて伝統力・文化力・宗教力・歴史力が欠乏している。
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 江戸っ子は、人懐っこく、騙されやすく、お人好しで、涙もろく、お節介で、自分に関係ない揉め事でも首を突っ込んで仲裁しようとする。
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 江戸時代の庶民は、どんな時でも、如何なる場所においても、笑い飛ばす面白い事を探して生きていた。
 つまり、歌い踊るの喜怒哀楽でありであった。
 庶民の笑いは、世界的なエスプリ、ウィット、ジョーク、ユーモアではない。
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 江戸の町は、中小商店や零細商売人の売り声や町内で飼っている犬の声が渦巻いて賑やかで騒々しかった。
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 2021年2月号 歴史街道「猫の蚤取り、枝豆売り、屁負比丘尼・・・
 江戸のヘンな『お仕事ファイル』
 100万都市の江戸では、何もかもが『商売』になった?
 人々は、一体どんな仕事をして生計を立てていたのか。
 たくましい江戸人の、奇妙で楽しい『ビジネス』を紹介する。
 山村竜也
 江戸の町は、18世紀初めには人口が100万人に達し、当時のロンドンやパリを超える世界最大の都市となった。都市というものは、経済の活性化によって発展する。江戸の繁栄もまた、人々積極的な経済活動に支えられ、なしとげられたものだった。
 当時の江戸には、近郊や地方から流入して住人となった者が多かった。彼らの大半は困窮した農村の出身で、生きていくために新天地を求めてやってきたのである。
 そうはいっても、生きていくための糧(かて)がなければ話にならないが、その点では心配は無用だった。江戸には何百という種類の仕事があり、贅沢さえしなければ生活に困ることはなかったからだ。
 江戸時代後期に発行された『諸職人大番附』という人気職業ランキング表には、大関の地位は番匠(ばんしょう)、大工、刀鍛冶。関脇に壁塗り左官、屋根葺、次いで舟大工、橋大工、たたみ師、立具師(たてぐし)などが並んでいる。
 もっとも江戸に出てきたばかりの者が、これらの人気職種にいきなりつくのは難しいから、まずは『口入れ屋』という職業斡旋業者の所に行くことが多かった。この口入れ屋は、身元保証人にもなってくれたため(ただし有料)、地方出身者にとってありがたい存在だった。
 斡旋された商家や武家に奉公するのが、一番スムーズな就職方法だったが、奉公というのは一般に仕事が厳しく、不向きな者も多かった。そうした場合には『棒手振り(ぼてふり、振売り)』と呼ばれる行商人になる方法もある。
 野菜や魚、豆腐など日々の食卓にかかせない食材や日用品を、天秤棒でかついで売り歩く。これは一人で仕入れて一人で販売する個人事業主であったから、自由な生き方を求める者には向いていた。
 野菜を売る青物売りの日常が『文政年間漫録(まんろく)』(栗原柳庵著)に出ているので、その行動を見てみよう。世帯構成は夫婦と子供の3人家族だ。
 朝は夜明けとともに駕籠をかついで、600~700文(1万5,000~1万7,500円)ほどで蕪(かぶ)や大根、蓮根(れんこん)、芋(いも)などを仕入れる。これを1日売り歩いた。
 夕暮れ時に帰宅し、売れ残った野菜は翌朝のおかずにする。財布の中の1日の売り上げから、翌日の仕入れ金と家賃分をのけて、妻に米代200文(5,000円)、味噌と醤油代50文(1,250円)を渡し、子供に菓子代12~13文(300~325円)を与える。
 すると残りは100~200文(2,500~5,000円)ほどとなるので、これを酒代にして飲んでしまおうか、それとも1時的に貯金にまわそうか思案する。なんとも質素で明快な棒手振りの日常だった。
 こうした日々の生活にかかせない商品を売る者は、それなりに生活を安定させることができた。しかし、江戸にはにわかには理解しがたい仕事を生業(なりわい)にしている者も少なからずいた。
 『一人角力(すもう)』『親孝行』も銭をもらえる仕事に
 とにかく江戸では、『何でも商売につなげる』ことができた。
 まずご紹介するのは、『猫の蚤(のみ)取り』の仕事。映画の題材になったこともあるので、ご存じの方も多いだろう。
 滝沢馬琴の『燕石雑志(えんせきざっし)』によれば、『猫の蚤をとらん』と声をあげながら歩く。運良く注文がくれば、その家の猫をまずお湯につけて濡らし、用意した狼の皮で包む。すると、蚤が皮のほうにさーっと移動するというのだ。
 馬琴自身も、『工夫は買うが、こうまでする猫好きは多くはない』と書いているし。蚤取りの料金はだいたい2~3文(50~75円)というから、ほとんど稼ぎにならない。そのためか、この商売は長く続かずに廃(すた)れてしまったという。
 自分の体ひとつで稼ぐことができる。次のような仕事もあった。
 寒い風の吹く日に裸になり、注連縄(しめなわ)を腰蓑(こしみの)のように巻、荒縄の鉢巻きをして、扇(おおぎ)に御幣(ごへい)を持ってやってくる『すたすた坊主』というものがある。『すたすたや、すたすたすたうた坊主の来るときは、世の中よいと申します』といいながら、商家などを歩いて回った。『すた』や『寿多』に通じ、めでたいという意味を表す。験(げん)を担(かつ)ぐ商売人が、めでたい言葉をもらって、そのまま放っておくことはできないようで、大抵いくばくかのご祝儀(しゅうぎ)をもらうことができた。これを何軒かやれば、その日の酒代ぐらいは簡単に稼げたのである。
 裸といえば、『一人角力(ずもう)』もそうだ。褌(ふんどし)一丁になって、空き地を土俵代わりに、呼出から行司、力士2人を一人で演じ分けて、角力をとるまねをする。手を自分の背中にまわし、本当に二人で角力をとっているように見せた。
 当時の人気力士の特徴もよくとらえて演じたので、見物人は喝采して投げ銭をしたという。ちなみの、現在でも『一人相撲』という言葉があるが、その語源が江戸時代の珍職業にあったとは興味深い話である。
 ほかにも驚かされる仕事に、『親孝行』というものがあった。男が老婆を背負って、『親孝行でござい』といいながら町を歩く。親孝行という言葉に弱い江戸の人々からは、それだけで多少の銭は貰えたのだ。
 おかしいのはこの仕事、ときには男が老婆に扮(ふん)して、張り子(作り物)の男の人形を胸にぶら下げることによって、あたかも老婆を背負っているかのように見せたりしたという。これで銭がもらえたというのだから、江戸の人々の心の広さには感心するほかない。
 張り子を使った仕事といえば、『唐辛子売り』というものもあった。6尺(約180センチ)もある巨大な張り子の唐辛子を肩から下げて、『とんとん唐辛子、ひりひりと辛いが山椒(さんしょう)の粉、すはすは辛いが胡椒(こしょう)の粉、七味(しちみ)唐辛子』といいながら売り歩いた。
 自分の身長よりも大きな張り子の唐辛子は、もちろん真っ赤に塗られていて、その中には小袋に分けた売り物の七味唐辛子が入っていた。こんな格好で町を歩いていたのだから、さぞかし江戸の人々の目を引いたことだろう。
 雛(ひな)祭りも煤(すす)払いもビジネスチャンス!
 江戸の人々は、季節の行事を大事にした。それに合わせて、業者は行事につきものの商品を用意し、時季が過ぎたらまた次の行事用にと、仕事を変えたりすることもあった。
 正月の風物詩として知られるのが『三河万歳(みかわまんざい)』。烏帽子に素襖(すおう)を着た『太夫(たゆう)』と、供の『才蔵(さいぞう)』がコンビを組み、町家や武家屋敷をまわってめでたい歌を歌い踊るものだ。特に才蔵は剽軽(ひょうきん)なしぐさで人々の笑いをとる人気者で、才蔵役がつとまる者は太夫役の間で引っ張りだこになったという。
 正月2日には、宝船を描いた絵を売る『宝船売り』が必ずやってきた。2日の夜にその絵を枕の下に敷いて寝ると、めでたい初夢を見ることができるといわれた。
 2月になると、最初の午(うま)の日(初午)と二の午の日に、ほうぼうの稲荷神社で子供向けの祭りが行われた。このとき子供たちは狐の絵が描かれた絵馬を持つことになっていたので、そのための『絵馬売り』が数日前から売り歩いた。
 絵馬を手に入れた子供たちは、それを持って町をめぐり、商家の前で『お稲荷さまの御勧化(ごかんげ)12銅おあげ』というと、店の者は1~2文(25~50円)のお小遣いを渡すことになっていた。
 西洋のハロウィンを思われる風習である。
 3月3日は上巳(じょうし)の節句、つまり雛祭りがあり、武家も庶民も雛飾りをして女子の成長を祝った。雛壇には桃の花がつきものだが、こうした花はもっぱら美男の『花売り』が商っていた。町なかで花を買うのは大抵が女性であり、彼女らにしてみれば、中高年の男性よりは若い美男が売っていたほうが嬉しいに決まっていた。
 7月7日の七夕には、豊かな家も貧しい家も、笹竹(ささだけ)に短冊や色紙をつけて屋根より高く掲げた。そのため、『笹竹売り』は大忙しだった。
 『短冊売り』というのが別にいて、さまざまな短冊を売り歩いたが、その形はバラエティに富んでいて、ひょうたん、ほおずき、筆、西瓜(すいか)、大福帳(だいふくちょう)などがあった。七夕は現在よりも、はるかに華やかな行事だったのである。
 8月15日は仲秋(ちゅうしゅう)の名月だが、同じ日、諸所の八幡宮では放生会(ほうじょうえ)がおこなわれた。放生会とは、捕らえた亀や鰻の稚魚(ちぎょ)、雀を解き放すことで、殺生を戒(いまし)め、善行の功徳を積んだことになるという行事だった。
 その放生会のために、『放し亀売り』や『放し鳥売り』が現れて、亀、鰻、雀を売った。人々はそれを買ったあと、わざわざ逃がして功徳を積んだと喜んだが、寺の放生池に放たれた亀は、業者が再び捕らえて商品にすることもあったという。
 年が押し迫った12月13日には、武家も庶民も煤払いをおこなった。いわゆる大掃除である。煤払いには先に葉を残したままの長い竹が必要だったため、そのころになると『煤払い売り』が市中を売り歩いた。
 この煤竹売りは、七夕のときに笹竹を売ったいたのと、おそらく同じ業者であっただろう。彼らは江戸の年中行事に合わせて商品を入れ替え、臨機応変のビジネスを展開していたのだろう。
 枝豆・髪・浅蜊(あさり)・・・全部、女性や子供の仕事に
 女性もまた、男性に負けずによく働いた。亭主の稼ぎが少なければ共稼ぎもしたし、独り身であれば生計を立てていくため、さまざまな仕事をこなした。
 棒手振りのように、重い天秤棒は担げないが、夏の『枝豆売り』は女性の仕事だった。ゆでた枝豆の入った笊(ざる)を抱えて、『豆、枝豆~』といいながら売り歩いた。子供を背負いながらでも商売できたため、若い母親の売り子が多かったという。
 女性の仕事の中にはリサイクルに関した業種もある。もともと江戸はリサイクル都市で、物を簡単に捨てず、修繕したり、ほかの形に再利用するなどして最後まで使った。蠟燭(ろうそく)でさえ、蠟燭受けにたまった蠟を集め、また作り直したくらいだ。
 そのなかでも、『おちゃない』という、髪を拾い集める商売は女性が担った。頭の上に風呂敷包みを乗せて、『おちゃない(落ち髪はないか)』と聞いてまわる。集めた髪は、鬘(かつら)や髢({かもじ}髪を結うときに使う添え髪)に利用するのだ。
 ただし落ち髪を集めても大した金にはならなかったから、ときには自分の髪を切ったり、寺から遺体の髪をもらい受けることもあったという。あまり気持ちのよくない話である。
 さらに変わったところでは、『屁負比丘尼(へおいびくに)』という仕事があった。お姫様や大店の娘などに付き従う尼僧(にそう)で、もしその娘が人前でおならをしてしまったら、代わりに『私がやりました』と身代わりをつとめるというものだ。
 嫁入り前の娘にとって、人前でおならをするというのは死ぬほど恥ずかしいもの。屁負比丘尼を雇ったことで、彼女らは安心して人前に出られるようになったのである。もっとも、おならだけのために比丘尼を雇っていると思われると逆に恥ずかしいような気がするが、ふだんは娘の身のまわりの世話をする者ということになっれいたので、その点は問題なかった。
 こうした女性たちだけでなく、江戸では子供たちも働き手となることがあった。
 深川の漁師の子供などは、『浅蜊(あさり)売り』をして家の収入の足(た)しにした。近くの海岸でとれた浅蜊を殻つきのまま、あるいはむき身にして、天秤棒でかついで売り歩いたのだ。
 『あさり~、あさりむき(むき身)』と、まだいたいけな子供が声をからして歩けば、大人たちはけなげに思って買ってあげたことだろう。
 ほかに子供がつとめた仕事には、『海ほおずき売り』がある。海ほおずきとは、巻き貝の卵嚢({らんのう}卵の袋)のことで、海中の岩や流木などにびっしりと産みつけられていた。それを1つずつ取り外して口に含み、『ブーブー』と鳴らして遊ぶのだ。
 その音がほおずきを吹いて鳴る音に似ているところから、海ほおずきと名付けられた。おそらくは海岸に打ち上げられた岩付きの海ほおずきを、子供たちが拾って桶に入れ、そのままの状態で売りにでたのだろう。
 実際にはいくらも儲からなかっただろうが、多少の収入にはなった。江戸の人々の、なんでも商売にする精神をここにも感じることができる。
 どんなことでも仕事につなげ、生き抜こうというたくましさ。江戸は、そんな人々に満ちあふれた、エネルギッシュな町だったのである。」
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 男尊女卑や身分・家柄などの差別が激しいブラックな江戸時代。貧しい家庭の男なもちろん、稼ぎの少ない亭主を持つ女性や子供でも読み書き算盤を学んで仕事力を磨かなければ生きていけなかった。
 学ぶのは、生きる上で必用論語の道徳そして商いに必要な商取引と算術の実学であった。
 つまり、人と人の付き合いにおいて、信用・信頼を命より大事にし、約束・契約は命を捨てても守り、ウソを吐かない、言い訳しない、詭弁を弄さない、誤魔化さない、と言う「利益より誠実こそ命」という日本的人生訓である。
 それは、武士道とは違う。
 貧しいからといっても、大怪我や病弱で働けないのなら隣近所で助けるが、働かず遊び呆ける穀潰しに金を与えて助けてはくれる者は誰はだれもいない。
 蟻とキリギリス(セミ)の非情社会で、究極の「働かざる者食うべからず」である。
 女性や子供だからと言って、誰も助けてはくれない。
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 日本の経済・商業・製造業は、鎖国で日本列島内に閉ざされて、一国だけで発達した。
 日本の商売も、閉鎖された・閉塞された土地の中で細胞分裂的に急速に多業種で多種多様に増殖し、その活動は一国で中華(中国・朝鮮)を超えヨーロッパ全体に匹敵していた。
 日本とヨーロッパの違いは、戦争と災害であった。
 ヨーロッパは、短い平和と長い戦争の中、大量の資源・物資を海外・外国から強奪してきて大量生産と大量消費で発展した。
 日本は、長い平和と毎年のような数多い災害の中、国内の乏しい資源・物資を節約しながら少量生産・少量消費そして再生・再利用(リサイクル)で発達した。
 貧しい庶民は、新しい着物が買えなかった為に、死んだ原因はいろいろだが他人の着物は持ち主が死ぬ事で厄が落ちて縁起が良いとして元は高価な着物を安値で買い、喜んで着た。
 転んでもただでは起きない、死んでも皮は残る、的など根性の発想である。
 死んだ女性の着物で惨事となったのが、明暦の振袖火事である。
 鎖国によって、欲しい物資・資源が日本は国内にないかといってヨーロッパのように海外から自由に金で輸入ができなければ軍事力・暴力で強奪もできなかったので、国内にある別の物を工夫して代用した。
 その為に、日本の製造業は専門職人ごとによる細かく分業化され、商売もそれに合わせて細分化されていた。
 つまり、日本商業は生産の最初から売却の最後まで1つで完結せず、全ての分野で全ての利益を独占できる形態ではなかった。
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 江戸経済は、自然環境に負荷を掛けない、限られた資源を無駄にしない、物を簡単に捨てず最後まで使い切るリサイクル経済で、少量生産・少量消費であった。
 江戸の商業は、こうして多業種にわたって多様に増殖しながら発展した。
 何故、数多くの商売・仕事が季節事・地域事に雨後の筍のように途切れる事なく生まれ、騒々しく、目まぐるしく入れ替わったかと言えば、鎖国によって海外の豊か国・地域への移民・移動・出稼ぎができず、閉鎖された日本国内で知恵を絞って生きるしかなかったからでる。
 日本がアジア・アフリカ地域で近代化できたのは、徳川幕府が強制的に閉鎖・閉塞した国内に押し込められ閉じ込めて生活を強要した為に、庶民は金を稼いで少しでも生活を楽にし便利にしようと工夫したからである。
 移動の自由があって、豊かな国・土地に出稼ぎ・移民を送り出した国・地域は近代化できず発展しなかった。
 東南アジアや中南米発展途上国から長いこと抜け出せなかったのは、欧米の資本主義諸国や中東のオイルマネー諸国に出稼ぎを出し外貨を稼ぎ、その外貨で国家財政を支え国内経済を動かしていたからである。
 鎖国政策を正しく理解できない日本人には、日本の歴史、日本民族は理解できない。
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 武士や庶民(百姓や町人)が楽しんだ季節ごとの伝統文化行事は、天皇・皇室・朝廷の宮廷行事・宮中祭祀神道)・宗教儀式(仏教・道教・その他)に由来していた。
 宮中で祀られている神とは、皇祖の最高神である女性神天照大神神武天皇と皇宗の歴代天皇霊である。
 皇祖皇宗の先祖の神々を祀る事ができるのは、女性神天照大神の血筋を正統に直系の男系父系で相続してきた天皇家・皇室であって、女性神天照大神を祖先神としない女系母系継承を正当とする傍系や血のつながらない他人では務まらない。
 伝統文化となった宮廷行事・宮中祭祀神道)は、高天原神話・天孫降臨神話などの日本民族神話であって、家族崇拝であって信仰宗教ではない。
 日本の祭りの大半は、宮廷行事・宮中祭祀神道)・宗教儀式(仏教・道教・その他)を真似している。
 天皇の御威光とは、女性神天照大神の正統な血筋を根拠にして八百万の神々を正当な神と認めて神格を与える事であった。
 天皇に認められない神は、日本の神ではなく、他国の縁も所縁もない神である。
 それが、皇室が2000年以上昔から護り受け継いできた男系父系相続の血族優先(ネポティズム)である。
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 江戸時代の平和とは、東海道など幕府(御上・御公儀)が定めた天下の公道を通行手形を持っていれば女性や子供の一人旅が犯罪に巻き込まれずにできた事である。
 旅先で病気になったり怪我をすれば、街道筋の宿場町は御公儀・御上の命令に従って旅が続けられるように無償で保護し治療した。
 大名が参勤交代で行き交う街道は、治安が保たれた安全な公道であった。
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 毎年、何処かの藩で百姓一揆が起きていた。
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 職業人には2種類あって、特別な専門職家に生まれた者の定めとして家業を継ぐ不自由な者と、医者から乞食まで職業を自由勝手に選べる者である。
 家業を継ぐ者には、自由はないかわりに、世間の共助から安定した収入が保障され、さらに公助からの援助も期待できた。
 自由に職業を選択する者は、自助が鉄則で収入は不安定であり、社会からの共助などなにもなかった。
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 貯金・資産・資本を持たない無一文の貧しい庶民は、開店資金を高利貸から借金して仕事を始めた。
 武家や商家で奉公する者は極少数で、個人で店を構える中小商売人も少数で、大半の庶民は個人の零細商売人であった。
 中小商売人や零細商売人は、職業選択の自由があり、業種の独占権を持つ株仲間に金を納めて商売を始めた。
 業種を支配する株仲間は、売り上げの一部を上納金として納めれば「身内」として保護するが、上納金を納めず商売する者を潜りとして取り締まり、上納金を納めず商売をする無許可商売人に対しては御公儀から与えられた権限で鉄拳制裁を加えて廃業させた。
 株仲間は、搾取組織ではなく、御公儀から業種を安定的に維持する公認の独占的同業者組合で、その為に不法な運上金を巻き上げ利益を稼ぐと罰せられた。
 株仲間に入りたくない商人は、個人として別途で御公儀の重職に巨額の上納金(一種の賄賂)を納めて御墨付きを得て商売を行った。
 「株仲間・同業組合に加盟しなければ商売ができなかった」という意味で、職業選択の自由はなかった。
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 金持ちと言っても、昔のお大尽様と現代の富裕層は全然違う。
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 日本列島は、四季折々の自然が豊で、気候風土が穏やかで、農作物の実りが多く、山・野・川・海には食べられる動植物が満ち、花鳥風月プラス虫の音、多種多様な苔と良い菌で水が清く空気が爽やかで、マイナス・イオンや1/fゆらぎが充満した、殺し合いや争いの少ない平和で幸せな世界だった、は悪意に近いウソである。
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 災害に遭えば助け合い、庇い合い、励まし合って逃げるはウソで、わが身が大事、自分の命が大事として、逃げ遅れる者は家族と見捨てて一目散に逃げた。
 生きて再会できれば「運が良かった」と喜び合い、生き残って探しても見付からなければ死んだ者と思い定め運が悪かった「それまでの人生だった」と諦めた。
 動けない・働けない老親を山に捨てる「うば捨て山」、子供を増やさない為に胎児を殺す「水子」、口減らしの為に乳幼児を殺す、それが日本民族の本性である。
 親を大事にする、赤ん坊や子供を大切にする、それはウソである。
 弱者に優しいもウソ。惻隠の情もウソ。
 ブラックな現代日本には、ウソが多すぎる。
 日本民族の本性はブラックを好み、悪人として薄情、非情、冷淡、冷酷、冷血である。
 日本民族は、救い難いほどの悪人である。
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 高田好胤「人間は追い込まれた時にその人の本性が出る」
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 容姿端麗による人差別が酷く、美男や美女は得をし、醜男や醜女は損をしていた。
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 ブラックな社会と言っても、昔のブラックと現代のブラックは違う。
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 日本は稲神話による五穀豊穣の極楽の様な神の国であった、それは皇国史観愛国心が生み出した幻想、架空の夢物語、そうあって欲しいという希望の作り話であった。
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 日本列島は、毎年の如く一年中何らしかの深刻な被害をもたらす雑多な自然災害、発病したら助からない疫病の感染爆発、食料がなくなると飢餓が発生し人肉を食うような地獄となりそして餓死、全てを焼き尽くして灰にする大火、夥しい犠牲者を出す数多くの厄災が同時多発的に発生する複合的災害地帯であった。
 それが、パックス‐トクガワ、徳川の平和の実態である。
 日本民族は、防げない避けられない天災はしかたがないと諦めて逃げ回るが、何とかすれば何とかなるであろう二次災害の人災をできる限り少なくそして小さくする事に腐心し、その事を後世に残す為に公式古文書や個人の日記に書き記し、子孫が困らないようにに地域の言い伝・伝承として残した。
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 子供が読み書きソロバン(算術)を学んだのは、実利として仕事・商売・家業で損せず儲ける為であると共に、合理として災害にあっても逃げて助かる智慧・教養を養う為であった。
 つまり、生きる力、生き残る力を得る為であった。
 過酷で非情な日本の現実世界で、お為ごかしや綺麗事は有害・害毒なだけであった。
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 江戸・京・大坂の大都市では、男性人口が多く結婚できず死んでいく男性も多かった。
 男の楽しみは酒を飲む、博奕を打つ、遊郭や岡場所で女を買うであったが、飲むと打つ金があっても女を買う金がたりない男性の為に「女性が手を握らせる」という商売があった。
 若い女性であれば姿形を見せて手を握らせるが、年増の女性なら板戸の間に穴を空け手を出して手を握らせた。
 結婚できない貧しい男性にとって、若い女性や年増女性であろうと女の手を握れば観音様の手と思え一瞬でも幸せな気分が味わえて満足し、肉欲・性欲に駆られて女を襲って強姦しようという性犯罪意識は乏しかった。
 結婚できない哀れな男性は、寂しさ・悲しさ・切なさ・辛さを粋だ、男伊達だと強がりで誤魔化して他人に覚られないようにして死んで行った。
 それが、江戸時代の女性を軽視した「男尊女卑」である。
 江戸時代に人口が増えなかったのは、悲しい男性が多かったからでる。
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 真面目に働かず稼ぎが少ないのに、酒癖が悪く、博奕好きで、借金を作って遊ぶ碌でもない男を夫に持つ妻とその家族は悲惨を極めた。
 男尊女卑の江戸時代は、女性にとってブラック以上に地獄であった。
 女性が言う「亭主関白」は、女性の男性への軽蔑・見下しではなく怨念・呪いの言葉が込められている。
 故に、死んで幽霊・怨霊・夜叉となって相手に取り憑き祟って呪い殺すのは女性であって、男性ではない。
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 江戸時代を生きた庶民は、正業と定めた仕事にこだわらず、生活に困れば「こうであらねばならない」というという理想論や固定観念に縛られず、異業種であろうともその時その時に合わせて金が稼げる仕事を自由に選んび渡り歩いて生活していた。
 つまり、庶民の大半は定職を持たない渡り人であった。
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 江戸っ子は「宵越しの銭(ぜに=金)を持たぬ」は、同時多発的複合的災害地帯だから生まれた命一つを持って逃げきる身銭を持たない極貧の生き方である。
 お大尽(豪商・豪農)が行った、お天道様の下を歩く(犯罪を起こさない)、世の為・人の為、世間への恩返し、私益より公、などもこうして生まれた。
 商家や農家では、腹を空かした「おもらいさん(乞食)」が来れば勝手口から入れて食事を振る舞い、帰る時は僅かな銭を与えた。
 日本民族の相身互い、お互いさま、助け合いは、世界の自己犠牲精神によるボランティアとは違っていた。
 日本民族は、白黒・善悪・正邪をハッキリさせず、曖昧に事を収める。
 誰も反対できない道理にかなった正しいか正しくないではなく、自分が好きか嫌いかのいい加減さを好む。
 対人恐怖症・視線恐怖症・赤面症で、神経質なほど他人の評判を気にし、後ろ指を指される事や陰で悪口を言われているのではないかと嫌い恐れた。
 寝ても覚めても、何時でも何処でも、陰険にして陰湿な世間の同調圧力や場の空気に縛られていた。
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 同時多発的複合的災害地帯には、天(神)と仏はあったが絶対神天地創造の神)や救世主(メシヤ)などは存在せず、くだらない「絶対神の奇跡」や嘘っぱちの「絶対神の恩寵」などもなく、人が思いつきで作った教条的一神教の普遍宗教(キリスト教ユダヤ教イスラム教・その他)などは邪魔でいらなかった。
 熱心に絶対神やメシヤを信仰し一心不乱に祈りを捧げてもても、日本で発生する災害の一つもなくなりはしない。
 日本民族にとって、生きる上で心の支えとなる崇拝宗教=民族宗教、昔話=寓話・神話、哲学、思想はあっても、契約宗教・信仰宗教=世界宗教イデオロギー(主義主張=共産主義)はいらなかった。
 日本民族の崇拝宗教=民族宗教とは、「験担ぎ」でもあった。
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 日本の儒教は道徳教育としての論語儒教(異端儒教)であって、中国や朝鮮の絶対真理・絶対価値観・絶対理法としての中華儒教(正統儒教)とは違っていた。
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 江戸・京・大坂などの差別民(賤民・部落民)が住む貧民窟は、時代によって住人が急増したり急減したりしていた。
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 江戸時代を生きた日本人は、命を守るために望みを捨てず諦めず生き残る為に逃げ回り、生き残れたら失ったものはなかったものとして諦め、新たに生きる道・仕事・糧を探し、新たな場所で新たな生業(なりわい)を見つけて働き金を稼ぎ、新たな家族を持ち新しい生活を始めた。
 考えに考えて智慧を出し、工夫に工夫をこらして腕を磨いて技術を進歩させた。
 毎年起きる同時的複合的に多発する災害には抗えないと諦め、如何に努力し頑張っても被害を完全にゼロに防ぐ事はできない、人智の及ばない天災と絶望した。
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