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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代の日本と人江戸時代の日本人では、人生観も死生観も正反対に近い程に違う。
現代日本人は昔の日本人とは違って歴史力がなく、本朝・日本史はもちろん中国史や朝鮮史が理解できないし、欧米や中東などの歴史に対しても同様である。
所詮、日本人は全てにおいて上っ面だけで内面の実がない「論語読みの論語知らず」である。
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江戸時代には、日本国はなかったし、日本民族(ヤマト民族)もいなかったし、日本人さえもいなかった。
日本人は、アイデンティティーを必要としなかった。
日本民族は、ローカルな哲学や思想を持っていたが、グローバルな宗教や主義主張を持っていなかった。
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江戸時代のブラックな実情は、大正時代以降の創作時代劇でホワイトな時代にウソ、歪曲・改竄・捏造された。
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2020年1月23日号 週刊文春「出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
[近世篇]
144 近世篇まとめ3
江戸時代は最低の時代だった?
江戸時代は、トータルで見ると日本の長い歴史の中では最低の時代だったと僕は思っています。
なぜかといえば、僕は江戸時代に生まれ変わりたくないし、子どもや孫にも絶対江戸時代に生まれてきて欲しくないからです。
人間として生まれた以上は、普通にごはんが食べられて、好きなことにチャレンジができて、人並みに人生を終えることができるというのが幸せの最低条件であり、途中で不意に死ななければならないことほど人生の理不尽はないと思います。
『江戸時代は戦争のない平和な時代だったんやで』と漠然と思っている人が多いと思いますが、データは別の世界を示しています。
相次ぐ飢饉
江戸時代には、4大飢饉というものが起こっています。
寛永(1642~3年)、享保(1732~9年)、天保(1832~9年)の飢饉です。
これらの飢饉では、饑餓や病死などでそれぞれ数万人から100万人ほど、人口が減少しています。
江戸時代の100万人といえば、当時の総人口3,000万人にあてはめると、3パーセント前後。現代の1億3,000万人の人口で換算すれば400万人前後に相当します。
第二次世界大戦で亡くなった人が310万人。あの頃の総人口が満州や朝鮮も含めてほぼ1億人でしたから、3パーセント。つまり同じくらいの割合の人が江戸時代には飢饉で亡くなっていたのです。
4大飢饉よりも規模の小さいものも頻発しています。江戸時代の地球の気候変動で寒冷な〝小氷期〟が何度も訪れ、しばしば冷害で作物が収穫できない状態を生じていました。
その結果、江戸時代には、確かに戦争はなかったかもしれませんが、庶民は戦国時代以上にたくさん死んでいたのです。
加えて、もう一つの原因として江戸時代の政治システムの問題がありました。
江戸幕府は、大名同士の婚姻や交流を厳しく制限していましたね。ということは、たとえば熊本で飢饉が起きたときに、隣の鹿児島から自由にお米を運べないのです。勝手にやり取りしたら幕府に叱られます。
飢饉が起きたときはどの国でも外国から食糧を緊急輸入するものですが、鎖国していたためそのルートもありません。
だから江戸時代は、幕府が確立してから人口があまり増えていません。高島正憲さんの『経済成長の日本史』で紹介されている数学を見ますと、1600年、関ヶ原合戦のときは1,700万人ぐらいだった人口が、1721年にはだいたい3,000万人になり、その後は幕末までゆっくりした成長を続けます。
食糧の問題を別の視点から見ることもできます。江戸時代の日本人の男子の平均身長は155センチぐらいと日本の歴史の中では、一番低くなりました。
これはなぜかといえば、飢饉に加えて、食糧はほとんどお米や雑穀で、牛肉や豚肉などんの動物性タンパク質は滅多に摂らなかったということがあげられます。
日本の貧しさを示すデータ
高島さんの本で紹介されている推計値によれば、日本全国の石高は、1600年で約3,000万石。1720年で約5,000万石弱。
一人当たりの石高にすると1600年が1.8石で1720年が1.56石になっています。
この間の総生産の成長率は0.52パーセント、総人口の成長率が、0.51パーセントと数字が拮抗していて、一人当たり総生産の成長率は、1600年から1721年は0.01パーセントです。
つまり江戸時代の前期はほとんど成長しない社会でした。
世界の一人当たりGDP(1990年国際ドル)を見ると、1700年のイングランドが1,563ドル、ネーデルラント(オランダ)が2,105ドルに対して、日本は676ドル。1800年はイングランドが2,080ドル、ネーデルラントが2,609ドル、日本が828ドル。
イングランドやネーデルラントに比べて日本は低いですよね。2分の1、3分の1というレベルです。
だから出島の商館にいたネーデルラントの人たちは、『日本は貧しい国やなぁ』と思っていたであろうことは、数字上明らかです。
それが江戸時代の後半になると伸び出します。
一人当たり総生産の成長率が1721年から1804年が0.25パーセント、1804年から1846年が0.21パーセントです。これはなぜかといえば、商工業が生まれ始めたというとです。
町人の力が強くなって、産業が起こってきたのです。
このデータを見て、『江戸時代後期は産業革命を準備していたんやで』と見る人もいます。ただこれも 世界に比べば、ヨーロッパはもっと成長しています。
一人当たりGDPでは、1850年になると、ヨーロッパでは産業革命の成果がもろに出てきて、ネーデルラントが2,355ドル、イングランドが2,997ドルとネーデルラントを逆転したのに対し、日本は904ドルです。
データで見たら、『本当に江戸時代は平和でいい時代なのか』と思いたくなりますよね。
とくに、『現代の日本に置き換えたら、400万人(横浜市の人口以上)規模の人たちが飢餓で亡くなるような大事件が、複数回起こっているんやで』というファクトは、もう少し知ってもいいと思います。
戦乱の中世のほうがまし?
中世にも大飢饉はあり、たくさんの人が亡くなっています。
たとえば1459~61年、室町幕府の足利義政の時代に西日本を中心に全国的な大飢饉が起こりました(長禄・寛正の大飢饉)。植えた人々が京都に流入し、餓死者は8万人以上に及んだといいます。
こういう危機に貧しい人が生死の淵に陥ることを避けられません。
しかし支配の仕組みが江戸時代ほどガッチリしていなかったので、庶民は簡単に他の土地に逃げることができました。飢餓になったとき一番簡単な対策は、逃げることです。
昔は国境がなかったので、人間はみんな、寒くて食べるものがなくなったらその土地から移動したのです。いわゆるゲルマン民族の大移動がその典型です。江戸時代も初期はかなり流動的な社会でした。鎖国システムが完成してくると、村のなかの連帯責任のシステム上からも、簡単に逃げることができなくなります。
政治とは何かといえば、市民に腹いっぱい食べさせて、好きな人生を送らせることが要諦だとぼくは思うので、死者を多く出し身長を低くした江戸時代には高い評価を与えることができないのです。」
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江戸時代の職業別人口は、庶民層が90%で、武士層が10%未満であった。
武士層で、お城務めとして主君に仕える男子武士は約3分の1程度であった。
江戸時代、日本には武士道はなかった。
庶民は(百姓や町人)は、才能と金があれば武士になれたし、町奉行・勘定奉行・郡奉行・遠国奉行・外国奉行など現場職に就く事ができた。
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百姓は年貢を強制的に徴収され、商人や職人は商売許可書とも言える組・座に加わり株を取得し多額の運上金を収めた。
それ以外の町人は、長屋の賃貸を大家に払った以外は原則無税であり、転居居住の自由があった。
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庶民(百姓や町人)にとって、封建領主である幕府・将軍、藩主・大名が誰であっても気にはしなかった。
その証拠が、敗戦後に連合軍・GHQに占領支配されても庶民は抵抗運動や解放テロ活動もしなかった。
庶民にとって封建領主は他所から移ってきた余所者・他人・外人であり恩義などがない以上、忠誠心、愛着心、尊敬心、崇敬心、畏怖の念、畏敬の念もなく、命令に従って重労働・苦役をするがそれは滅私奉公ではなく、重労働・苦役は理不尽ではなく自分の為・家族の為・地域の為・世間の為と納得していたからである。
庶民にとっての御上・御公儀とは、その程度の軽い存在であった。
御上・御公儀である幕府・将軍、藩主・大名も、庶民を冷たく見下し突き放していた。
その証拠が、戊辰戦争の会津城攻防戦で、庶民は藩主を見捨てて逃げ、安全な場所から戦争を高みの見物していた。
さすがに、戦国時代のような戦場荒らしや落ち武者狩りそして乱取りはなかった。
いざとなったら、命大事として蜘蛛の子を散らす様に逃げるのが百姓根性の正体である。
現代日本人は、本当の百姓根性を理解できない。
それが、庶民がキリスト教やマルクス主義・共産主義に救いを求めなかった理由である。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として売って金儲けをしていた。
共産主義(マルクス主義)は、血を好み、イデオロギーの正義・人民の正義を理由にして、大虐殺を繰り返し死体の山と血の湖を築いていた。
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江戸時代の日本は、総人口約3,000万人で、人生50年時代で、若者が多く老人が少なかった。
老人とは、55歳以上をさす。
現代日本は、総人口約1億2,000万人で、人生100年時代で、老人が多く若者が少ない。
老人とは、75歳以上をさす。
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人生とは、年齢に関係なく、ある日突然、分けも分からないうちに、理不尽に終わる。
道なかば、志の中途で、仕事の途中で、達成できないまま、完成しないままに、到達しないまま、中途半端のままで終わる。
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人として、人生を全うしたければ、志を遂げたければ、終生現役として、動けるうち、命尽きるまで倒れるまで死ぬまで働き続ける事であった。
何かを成し遂げたければ、何かを成し遂げ続けなければならない。
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江戸時代の周辺諸国である明国(中国)や朝鮮とは国交を持たず、日本人の自由な往来を許して友好国ではなく、戦争などを想定して日本人の自由な渡航を禁止した敵国であった。
海難事故に遭っても、日本船は明国や朝鮮に漂着されないし、日本人船乗りが中国人や朝鮮人に助けられる事はなかった。
それ以前に、日本と中国・朝鮮の攻めたり攻められたりという敵対関係は古代から変わらなかった。
友好関係・善隣関係はなかった。
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江戸時代は、終身雇用や年功序列など存在せず、温情もなく、完全にして冷徹な能力主義・成果主義で、評価されるのは経過・努力ではなく現実の結果だけであった。
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江戸時代には、弱者・困窮者、被災者・災難者を助けてくれる「お人好し」なキリスト教会や人道的な慈善団体やボランティア団体など存在しなかった。
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助け合いの相互扶助、公助共助、相身互い、お互い様は、明治以降の話で江戸時代までは存在しなかった。
つまり、他人の手助けや御上(幕府や藩・大名)の救済はあり得なかった。
「完全な自由」として、他人を助けるのは個人の自由であり、誰を助けるかも個人の自由であった。
江戸時代には、平等や公平などはなかった。
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地方・農村・百姓は、中央・都市・町人に比べて悲惨な地獄で、絶望するしかなかった。
地方・農村の極貧百姓は、胎児や乳児を水子として殺され、幼児や少年少女を中央・都市に売り、働けなくなった老人や動けなくなった老人は姥婆捨て山に捨てられ野垂れ死にした。
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死なない為には、命以外の全てを犠牲にした。
日本民族日本人は、「信仰の為」に生きていたキリスト教徒や「仁義礼徳の為」に生きていた中華儒教人とは違い、神道に基ずく「コメや食べ物の為」に生きていた。
衣食足りて礼節を知る。
貧すれば鈍する。
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江戸時代は、「自分の事は自分で始末する」が大原則で、自己責任・自助努力・自力救済で誰も助けてくれない冷酷・冷血・非情な社会であった。
日本は「完全な自由」として、生きようが死のうが本人の自由、本人の勝手であった。
日本は「完全な平等」として、自然災害や大火は身分・地位・家柄・階級そして貧富に関係なく列島に住む者全員を平等に襲い、無慈悲に命を奪う。
江戸の生き方において、万民の幸福など存在しないだけに、「万民は1人の為、1人は万民の為」はありえなかった。
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富裕層・金持ちでも、大金を稼ぎ価値の高い土地家屋を買って所有しても、1年分から数年分の食糧・食べ物を確保し備蓄していなければ餓死した。
敗戦後の食糧難時代、餓えた都市住民は手持ちの貴金属や着物を持って地方・農村に行って、土下座をする様に頼み込んでコメや食べ物と交換して生き抜いた。
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戦に明けくれていた武士は、孤立無援の籠城戦に供えて3年分の兵糧や軍資金を貯めていた。
腹が減っては戦はできぬ。
最も避けるべき事は、借金を作る事、負債を残す事であった。
借金を作って戦をする武士は、軽蔑すべき最低の武士であった。
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日本民族日本人は、偶然と幸運そして勢(いきよい)・活力・威勢で生き延びていた。
無我夢中。
窮すれば通ず。
生きる術はある。
メシの種はある。
武士は食わねど高楊枝。
痩せ我慢。
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江戸時代は、差別、嫌がらせ、意地悪、足の引っ張り合いは当たり前で、嫉妬が渦巻く薄情・非情な社会であった。
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江戸社会は、身内優先、縁故採用、依怙贔屓、そして役得に賄賂、不正、横流しが蔓延るブラック社会であった。
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貧富の格差は酷く、貧し者はより貧しく、豊かな者はさらに豊かであった。
日本の惨めなほどの極貧は、「悲惨」の一言につきていた。
日本は無関心社会で救いはなかった。
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助かる者は助かり、助からない者は助からない。
助かりたければ、自分でどうにかする事であった。
自力救済が絶対条件であった。
餓死する者は餓死し、餓死したくなければ食べ物を自力で確保する。
そこには、救世主の奇跡はないし、生き神様や生き仏様のような人間による霊験もないし、絶対神の恩寵や恵みもない。
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