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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の歴史は、天皇・将軍の名と天皇が定めた年号で記録されている。
天皇と元号を否定すると、日本の歴史は成立せず、消滅する。
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江戸幕府は、生産しない消費するだけの江戸が100万人都市に膨れ上がった事に危機感を抱き、田畑を捨てて移住してきた百姓を生まれ育った地方・田舎に返すべく「人返し法」を定めた。
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日本の底力は、消費地の中央・都市ではなく生産地の地方・田舎にある。
地方、田舎の活力が衰え地力が弱まった時、日本は衰退する。
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日本総人口
江戸開府のときの総人口は、1,200万人~1,800万人。 総人口の、8割前後が百姓、1割以下が武士。
天明6(1786)年 2,508万人。
寛政4(1792)年 2,489万人。
天保5(1834)年 2,708万人。
天保11(1840)年 2,591万人。
明治5(1872)年 3,295万人。
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江戸時代の平均寿命は、約50年であった。
人口構成は、少子高齢化の現代日本とは正反対で若者が多く老人が少なかった。
不衛生や栄養不足で乳幼児死亡率が高かった。
貧しさ故の間引き(子供殺し)が多かった。
日本で生きるには、勢い、偶然、幸運であって、当然や必然は何処にもなかった。
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2019年5月22日 朝日新聞「東京の大学をめざすな?
江戸時代に失敗した政策 藤田覚
多すぎる首都の人口を減らさなければいけない──。そんなテーマが初めて政策課題に上がったのは、江戸時代の天保年間(1831~45)です。当時の老中・水野忠邦は、江戸に出ていた農民を村へ帰し、また農村から江戸への流入を禁じるために『人返しの法』(1843年)を発しました。
江戸の人口は、町人と武家、寺社合わせて推定110万人。おそらく世界一の都市ですが、幕府にとって本当の問題は人口の増加より構成でした。農村から江戸へ流入した層が約30%もいるうえ、人口の50%以上がその日暮らしの下層町人だったからです。
彼らは都市の不安定要因でした。ひとたび飢饉が起きれば彼らに食料を供給しないといけないし、その救済策が不十分だと打ち壊しなど騒乱を起こしかねません。直前の『天保の飢饉』では、備蓄米を放出するなど薄氷(はくひょう)を踏む思いで危機を乗り切った幕府ですが、その経験から対策の必要性を痛感していました。
一方裏を返せば、江戸の人口増加の原因は、地方の農民が出稼ぎなどで江戸へ流入してきた結果です。農村は人口減が進み、農業労働力が減って荒廃していました。年貢収納にも大きく響いてくる事態は、幕府には深刻なリスクになります。つまり『人返しの法』は、江戸の治安上の不安定要因をあらかじめ除いておくとともに、農村の生産力を回復するという二つの目的を狙った政策といえます。
なぜ農村を捨て江戸をめざすのかと言えば、『食うため』です。農村を支配する幕府代官たちが『江戸へ行けば食える』とうわさ話を交わす農民たちの姿を書き残していますが、『江戸へ行けば何とかなる』と村では考えられ、実際に『何とかなった』のです。奉公をを積み、主人にのれん分けされて成功するといった例はごくまれですが、食うや食わずの農村に比べ、江戸にはさまざまな仕事があり、受け入れる余地がありました。
水野忠邦の出した『人返しの法』に対し、現在の東京都知事的な職務である江戸町奉行で、『遠山の金さん』で知られる遠山金四郎は反対しました。遠山は、農村から都会へ農民が出てくるのは、領主が1年先、2年先の年貢の先納を命じるなど、過重な負担を強いるからだと主張。江戸でも農村でも飢饉対策を充実させるなど、全国的な政策が必要だと考えました。地方の実情を考慮せずに江戸の人口抑制に取り組んでも、成果はあがあないというわけです。
結果的に『人返しの法』は効果がありませんでした。疲弊する地方への支援策に取り組まずに、地方から都市へ来る人間の数を抑制したり、強制的に地方へ戻したりする政策がうまくいくことはない。歴史はそう教えています。(聞き手・中島鉄郎)」
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『地図・グラフ・図解でみる 一目でわかる江戸時代』 小学館
武内誠 監修 市川寛明
「2,自然環境と人口
女性が少なかった江戸の町
男性が多かった理由
江戸は男性の町であった。幕末に女性の人口が増えるまで、町人の人口の60%前後を男性が占めていた。これは、単身で江戸に働きに来る男性が多かったためである。
さらに、諸藩の江戸詰めの武士は単身者がほとんどで、武家人口は男性の割合がさらに高かった。地方から流入してくる人によって、男性の多さが維持されていたわけだ。
4分の1が地方出身者
徳川家康が入府したときは小さな町だった江戸には、多くの人が移り住んできて、巨大都市に成長していった。
100万都市となって数世代たった江戸後期では、江戸の町人人口の約4分の1が、地方出身者であった。地方から江戸に定着した人の子は江戸出身者とされるのに、幕末になっても20%以上の流入者がいたことは、注目に値する。江戸への流入は途絶えることがなかったのである。
江戸町人の人口構成
天保3(1932)年4月 総計 545,623人
男女別の比率 男 297,536人 54.5%
女 248,087人 45.5%
出身地別の比率 江戸 414,774人 76.0%
江戸以外 130,849人 24.0% 」
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江戸時代の不安定要因の原因は、多発する自然災害による飢饉と疫病、繰り返し発生する大火であった。
江戸・京・大坂などの下層民部落は、地方からの避難民で溢れていた。
各地にあった天領の幕府代官達は、被災地となった領内の被災民が江戸・京・大坂に流れ込まないように出たてを講じていたが、被災地が広範囲に渡る為に食えなくなった被災民は江戸・京・大坂を目指した。
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現代日本の外国人移民政策における、「金を貯めた外国人労働者は定住して、移民とならずせず自主的に帰国してくれる」という考えは、愚かな考えである。
歴史を教訓とすれば、現代日本の外国人移民政策は悲惨な結果を生み出して失敗する。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
人返し ひとがえし
江戸時代中期以降,農民の都市流入,農村荒廃に対してとられた帰農策。商業資本の農村浸透,過酷な貢租負担などにより,農民の離村,都市集中が行われ,農業労働力の減退,貢租負担の低下をきたしたため,江戸幕府は,松平定信の寛政の改革,水野忠邦の天保の改革などで帰農策をとったが,効果はほとんどなかった。特に天保 14 (1843) 年水野忠邦は人返し法を発令し,帰郷の奨励,江戸移住の禁止,出稼奉公人の年数制限など帰農策を実施した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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デジタル大辞泉の解説
ひと‐がえし〔‐がへし〕【人返し】
1 領民の他領への移住を防ぐため、勝手に移住した者を領主間の交渉により召還したこと。
2 江戸時代、江戸・大坂・京都などの大都市に集中した人々を帰郷させたこと。特に、寛政の改革・天保の改革では、江戸の人口過剰、農村の荒廃を打開する目的で行われた。旧里帰農。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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各藩は、収入を上げる為に消費ではなく生産を重視し、新田開拓と殖産興業に力を入れた。
大名・武士達は、江戸・京・大坂などの消費地で、どんな商品が売れるか、どんな商品が求められているか、どうすれば商品が売れるか、などを調べて、他の生産地との差別化を図りながら特産品や名産品を作り改良していた。
一部の中級武士と下級武士は、家禄が少ない為に、屋敷で空き地があれば農産物を生産し、百姓や町人から仕事を分けて貰い内職・副業をして現金収入を得ていた。
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幕府や各藩は、収入を上げる為に職種の多様性と仕事の特化を二本柱とした。
つまり、資産防衛として、金の藩外への流出を抑え、金の藩内への流入を増やす事であった。
需要と供給で、流通を調整する事であった。
必要を抑え、無駄を省く、つまり浪費をなくす事である。
華美贅沢に走らず、質素倹約で地味に目立たぬように生きるのが、武士の生き方であった。
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幕府は、大名が蓄財を為て力を付ける事を恐れ、参勤交代と天下普請などで出費を敷いていた。
大名は、大量の出費で財政難に陥り、豪農・豪商や金貸しから多額の借金をしていた。
上級武士の多くも格式を保つ為に、返済不能に近い借金をしていた。
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江戸時代。権力を手にしていた武士の祖先は、身分低い百姓や町人であった。
徳川家康は、身分を定めるに当たり、武士に対して武士の身分に留まるか百姓や町人の身分に降りるかを強要した。
武士の身分に留まった者には過酷な義務と重い責任を与え、邪な心で背いたり気を許して怠った者には厳罰として切腹を命じた。
特権と権力を持った武士社会とは、居住や移動の自由が奪われた、命軽視の超ストレス社会、恐怖のブラック社会であった。
その結果、武士の人数は激減した。
それでも、武士になりたいと思う百姓や町人は、大金を出して御家人株を買って金武士・俄武士になり、才能・能力ある俄武士は中級武士の養子となり町奉行・勘定奉行・勝手方家老へと出世した。
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