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2023年1月2日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「江戸時代の武士に広がった「格差社会」 洒落本や春画の「貸本屋」が人気だった切実な事情〈dot.〉
週刊朝日ムック『歴史道【別冊SPECIAL】そうだったのか!江戸時代の暮らし』から(イラスト/さとうただし)
武士全体の9割以上を占めていたという四十九石以下の下級武士たち。限られた収入の中、分相応の生活を営み、愉しんでいたという。週刊朝日ムック『歴史道【別冊SPECIAL】そうだったのか!江戸時代の暮らし』では、江戸三百藩の暮らしと仕事を解説。ここでは下級武士たちの「普通の生活」事情を紹介する。
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江戸時代の日本の人口の5%にしか過ぎない武士は士農工商という身分制度を後ろ盾にする形で社会に君臨していたが、一口に武士といっても格差は大きかった。特に経済面の差は甚だしかった。
幕府に仕える幕臣は、将軍への拝謁資格を持つか否かで旗本と御家人に大別される。慶応四年(1868)の数字によれば旗本の数は約6000人、御家人の数は2万6000人だった。下級武士の御家人が幕臣の大半を占めていたのは同じである。
御家人の場合、ほとんどは四十九俵以下の小禄にとどまったが、それでは家族を養うのは難しく、内職は不可欠だった。正規社員の家来はもちろん、非正規社員の奉公人を雇うことも無理だった。
上級武士の旗本ともなれば奉公人を雇えたが、武家奉公人には若党、足軽、中間、小者などがいた。もともとは農民や町人身分だが、武家に奉公することで、最下級ではあるものの武士身分に組み入れられた。
旗本はもちろん、御家人も正式の場に出る時は槍持ち、草履取り、挟箱持ちなどの御供を連れることが義務付けられていた。そうした時、口入屋から農民や町人を武家奉公人として雇い、上絵のような出で立ちで御供させたのである。
■江戸に慣れない田舎侍が楽しんだ娯楽の数々
江戸の大名屋敷には、大名とその家族が住む御殿を取り囲むように建てられた長屋に大勢の藩士たちが住んでいた。屋敷内の藩士には、江戸に定住する者(江戸定府侍)と、大名が江戸在府中の時だけ国元から出て来て居住する者(江戸勤番侍)の2種類があった。数でみれば、勤番侍が定府侍を圧倒していた。
定府侍には家族持ちの者が多かったが、勤番侍は単身赴任である。一人住まいではなく、数人での共同生活を強いられた。
勤番侍は「お上りさん」のようなもので、江戸の事情には疎かった。蕎麦屋に入って、盛りそばに汁を掛けて食べてしまうことは珍しくなかったという。かけ蕎麦は知っていても、江戸発祥のもり蕎麦の食べ方は知らなかったのだ。
江戸の事情に疎いゆえの笑い話だが、トラブルに発展することも少なくなかった。市中の評判となれば藩の名前に傷が付くのは避けられなかった。江戸の悪風に染まって、当人が身持ちを崩したり散財する危険性も高い。藩当局はその対応に頭を悩ますが、結局は「外出は月数回」と管理を厳しくするしかなかった。
長屋で窮屈な生活を強いられ、外出も制限された勤番侍にとり、室内での楽しみとは囲碁・将棋そして貸本を読みふけることだった。屋敷の許可を受けてのことだったが、貸本屋が屋敷内には出入りしていた。当時は本の購買層は経済力がある者に限られ、貸本屋から本を借りて読むのが一般的だった。勤番侍のように懐の寂しい者などはなおさらである。
貸本屋が持って来る本の種類は、軍記物、版本にできない御家騒動もの(写本)など様々だが、恋愛小説ものである人情本、遊廓を舞台にした洒落本、春画がなかでも人気だった。こうした種類の本や錦絵は武士の体面もあって、外では立ち読みすることができない。貸本屋はそんな心理を充分に心得ていたのだ。そのほか、勤番侍たちは園芸、句会、茶会、謡なども楽しんでいる。 食事は自炊が基本だが、外出した時は外食となる。外出時に食材を購入し、共同生活を送る同僚と交代で食事を作ったのだ。藩邸つまり長屋内には様々な商人が出入りしており、外出が制限されていた勤番侍たちは出入りの商人から物品を購入した。藩によっては屋敷内に日用品を取り扱う部署があり、一種の売店のような役割を果たしていた。
言い換えると、勤番侍にとり外出できることはたいへんな楽しみであった。行動を制限された鬱屈を一気に晴らすとばかりに、精力的に歩き回る者も多かった。花のお江戸だけあって、地方から出てきた勤番侍には魅力的な場所も多かったが、地理不案内でもあり、遠方まで江戸の名所めぐりをしようという時は連れ立って出かけた。
当時の武士は職務にもよるが、非番の日が割合多く、そうした事情は地方から出てきた勤番侍にしても同様だった。万延元年(1860)五月に出府し、勤番侍としての生活を開始した紀州藩士酒井伴四郎が書き残した日記によれば、この年の六月の勤務日は6日のみで、それも午前中だけであった。七月などは一日も勤務していない。八~十一月の勤務日数も毎月10日前後に過ぎず、非番の日は江戸見物に精を出していた。
同じ幕末の頃、伊予松山藩士だった内藤鳴雪によれば、勤番侍が必ず江戸でしたことが二つあった。一つは江戸三座(中村座・市村座・森田座)の歌舞伎を見ることで、もう一つは遊廓の吉原に登楼することである。この二つを経験することが、江戸の土産話には欠かせなかったというが、勤番侍には暮六ツ(午後六時)の門限が課せられており、吉原見物は昼間に限られた。
屋敷の外に出ることが月数回に制限されていた勤番侍としては、数少ない外出日は制限時間いっぱいまで使いたかったのは言うまでもない。帰りが門限ギリギリになるのは避けられなかった。
◎監修・文/安藤優一郎
あんどう・ゆういちろう/1965年千葉県生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。近著に『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)、『越前福井藩主松平春嶽』(平凡社新書)、『お殿様の定年後』(日経プレミアシリーズ)他、著書多数。JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」等で江戸をテーマとする講師も務める。
※週刊朝日ムック『歴史道【別冊SPECIAL】そうだったのか!江戸時代の暮らし』から
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トライイット
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身分別の人口の割合 幕末のごろ
総人口約3,200万人
百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
その次に多いのが7%の 武士 です。
3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
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