🏯37)─2・C─江戸時代、下級武士の年収は3両1扶持米=4両=約40万円だった。~No.71 

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 武士の多くは下級武士であった。
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 貧しい下級武士は現金収入を得る副業を得る為に、百姓や町人に頭を下げてた。
 庶民は、惨めな生活をしている下級武士を「さんぴん侍」と軽蔑し、偏見の目で見下し、陰で悪口を言って差別していた。
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 2023年3月25日 MicrosoftStartニュース ファイナンシャルフィールド「大名は「年収10億円」以上!? 江戸時代の武士の給与って? 働き方は現代の職業と比べてホワイト?
 © ファイナンシャルフィールド
 江戸時代の武士の給料はどのように決められていた?
 江戸時代の武士は、家単位で家臣として召し抱えられており、家格という身分の序列に準じた役職が決められていました。この時代の武士の給料は俸禄(ほうろく)と呼ばれ、お金ではなく米での支給が基本となっていました。
 家禄(かろく)が与えられる家には米を生産できる領地の統治権が、土地の値打ちを玄米の生産量で表す石高をもとに支給されます。対して、土地を持たない武士や個人に俸禄が与えられる場合は、現物の米が支給されていました。
 このように武士の給料は米でやり取りされていたため、米以外の物を手に入れるためには米を換金する必要がありました。米1石(約150キログラム)は、およそ金1両の価値で取引されていました。金1両を米の値段を基準に比較した場合、江戸時代初期においては現代の約10万円前後の価値になります。
 武士の給料は現代の金額でいえばいくら?
 さて、武士は家格という身分によって俸禄の量が決められていると前述しましたが、身分によってどれくらいの収入差があったのでしょうか。
 まずは大名と呼ばれる1万石以上を得られていた武士の給料は、1万石=1万両=約10億円以上の価値があったと考えられ、大きな権力をもっていたことがうかがえます。
 一方で武士全体の平均年収は、現代の価値に直すと約500万円ほどだったといわれています。江戸時代は1両(約10万円)があればなんとか1ヶ月暮らせたといわれているため、生活に余裕がある様が想像できます。
 しかし、下級武士となると話が別です。江戸時代には薄給の武士をさげすむ「さんぴん侍」という言葉がありました。これは俸禄が3両1扶持(ふち)米だったことに由来します。1扶持米とは、1人の人間を養えるくらいの米を支給するという意味で、下級武士には1年間でおおよそ1石分の米が与えられていました。
 つまり最下層の武士の年収は、3両1扶持米=4両=約40万円だった計算になり、暮らしはとても成り立たない額だったと推測できます。
 武士の働き方は現代の職業と比べてキツい?
 以上から、江戸時代はひとくくりに武士といっても身分によって生活レベルにかなり大きな差があったと推測できます。では薄給だった下級武士たちはどのような内容の仕事をしていたのでしょうか。
 実は江戸時代の武士は労働日数が少なく、警備を担う下級武士の仕事では1日働いたら2日休む、もしくは2日働いたら1日休むなどの勤務スタイルで「朝番・夕番・不寝番」の3交代で働いていました。役職によっては月に数回しか勤務しない場合や、1日の勤務時間がもっと短い場合もあり、余暇時間がかなり多かったといいます。
 例えば、城の警備役を勤める武士が年収40万円のさんぴん侍で、月に10日間、1日当たり日中8時間労働を行っていたとすると、時給は約417円と計算できます。求人検索エンジンIndeedによると、日本の警備員の平均時給は892円(2023年3月)ですので、武士の労働時間がどんなに短かったとはいえ、割に合わない仕事だったのかもしれません。
 さらに江戸時代は、個人ではなく家に対して身分や仕事が決められていた時代です。どんなに生活苦から抜け出したいと望んでも、叶えることが難しい状況だったと推察できます。そのため生活が立ち行かない武士たちは、余暇時間を使って内職をすることが常でした。現代のパラレルワークの先駆けともいえます。
 現代に通じる下級武士の働き方
 武士の年収は平均では500万円ほどありましたが、「さんぴん侍」と呼ばれる下級武士は、年収40万円程度しかないため、内職などで稼がないと生活が立ち行かなかったであろうことが分かります。
 歴史に触れる際は、当時を生きた人々の日々の暮らしに目を向けてみると、現代に通じる教訓を学べるかもしれません。
 出典
 日本銀行金融研究所貨幣博物館 お金の歴史に関するFAQ(回答)
 求人検索エンジンIndeed 日本での警備員の平均給与
 執筆者:橋本華加
 2級ファイナンシャルプランニング技能士
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 ファイナンシャルフィールド
 更新日: 2023.02.09 暮らし
 江戸時代の「下級武士」は意外と低収入!? 給与が足りず「副業」をするのは現代と変わらない!
 執筆者 : FINANCIAL FIELD編集部
 江戸時代の「下級武士」は意外と低収入!? 給与が足りず「副業」をするのは現代と変わらない!
 副業にチャレンジしている人が増加傾向にある昨今、江戸時代の下級武士も現代と同様に生活苦から、副業をせざるを得ない状況だったことをご存じでしょうか?
 江戸時代はどのような副業で生計を立てていたのか、現代と比べて違いはあるのか、詳しくみていきましょう。
 FINANCIAL FIELD編集部
 執筆者:FINANCIAL FIELD編集部

 目次 [非表示]
1 江戸時代の下級武士は低収入で悩んでいた!?
2 江戸時代の貨幣価値を現在価値にすると
3 下級武士の給料は年収80万円と米
4 江戸時代に人気のあった副業
5 現代と似ている江戸時代
 江戸時代の下級武士は低収入で悩んでいた!?
 江戸時代の下級武士が低収入で悩んでいたことをご存じでしょうか? 下級武士は戦で手柄をたてて褒美をもらい、新しい領地を得ることで収入が上がっていました。
 しかし江戸時代は戦が減少した時代だったため、幕府や藩の役職に就いている下級武士たちは安泰でしたが、役職に就けない下級武士は貧しい暮らしをしていたのです。
 下級武士の仕事内容
 下級武士の生活は朝、城や城下の役所に出勤して仕事をした後夕方に帰宅する、いわゆる会社員生活です。仕事量に対して下級武士の数が多すぎたため、忙しさはありません。下級武士の仕事は、週1回や1日行ったら2日休みといった現代でいうシフト制のような働き方が一般的でした。そのため、空いた時間で内職をして生活費を稼いでいました。
 江戸時代の貨幣価値を現在価値にすると
 江戸時代の歴史は260年と長きにわたるため、貨幣価値について一概にはいえません。江戸時代の貨幣価値について、日本銀行が回答として挙げている貨幣博物館の見解も簡単には回答できないとしています。
 ただし1つの目安として、米価から計算した金1両の価値を江戸時代初期で約10万円としています。1両が10万円とすると他の貨幣価値は1両=4分(ぶ)=16朱(しゅ)=50匁(もんめ)=4000文(もん)です。1両10万円として、下級武士がどの程度生活が苦しかったのかみていきましょう。
 下級武士の給料は年収80万円と米
 江戸時代の武士は給料をもらっていましたが、武士のランクによってもらえる給料は異なりました。武士全体の平均年収は税金を引かれ約500万円(50両)といわれています。
 一方、下級武士は米を自分たちで食べる分だけを確保し、残りを現金に換えて生活していました。米を現金化した後の年収をみると約80万円(8両)といわれています。
 年収約80万円とすると月収約6万6000円となり、今よりもお金がかからない時代であったとはいえ、下級武士の生活は庶民の生活と同様に貧しい暮らしだったのでしょう。1両10万円の場合、1両は4000文となり1文25円の価値といえます。その場合江戸時代に売られていた食べ物や傘などの金額は図表1のとおりです。
【図表1】
 日本銀行金融研究所貨幣博物館 お金の歴史に関するFAQ より筆者作成
 江戸時代に人気のあった副業
 貧しい暮らしをしていた江戸時代の下級武士は空いた時間を使って副業をし、生計を立てていました。江戸時代の下級武士に人気があった副業はどのようなものか紹介します。
 傘張り
 江戸時代の傘は現代に比べて高価でした。女性に人気の「蛇の目傘」は1本2万円ほど(約800文)で売られており、江戸時代に歌舞伎の小道具として使われたことをきっかけに、流行したといわれています。また、庶民向けの傘といわれる「番傘」でも1本5000~7500円ほど(約200~300文)の値段で売られていたそうです。
 そのため、人々は傘が壊れても捨てずに「古傘買い」に売りました。「古傘買い」は現代でいうところのリサイクル業者になり、紙を張り替えて再び売っていました。
 この傘の紙の張り替えを副業としていたのが下級武士たちです。副業する下級武士たちは、傘の傷み具合によって1本100~300円で買い、紙を張り替えて5000~7500円で売っていました。
 金魚の飼育
 江戸時代中期には、金魚の飼育がブームとなりました。金魚は国内での養殖が盛んになったことで、それまで高級ペットだった金魚が庶民的なペットとなりました。
 この養殖を行っていたのが副業に励む下級武士たちです。浮世絵にも多数登場するほど江戸時代の金魚は人気があり、流行のきっかけは下級武士が副業を始めたことだともいわれています。
 アサガオ
 江戸時代後期には、変化朝顔がブームとなりました。変化朝顔とは突然変異から生まれた朝顔です。一般的な朝顔とは見た目が異なり、江戸時代に人気が高い植物でした。下級武士たちは変化朝顔や一般的な朝顔の栽培の副業も行うようになったそうです。
 現代と似ている江戸時代
 江戸時代の副業の話は現代の社会情勢に似ていると感じた人も多いのではないでしょうか。
 現代では副業が解禁される企業が増加傾向にあります。現代でも生活のために副業を始めた人は多いのではないでしょうか。時代が変わっても、副業の文化は変わっていないといえるでしょう。
 出典
 日本銀行金融研究所貨幣博物館 お金の豆知識江戸時代の1両は今のいくら?
 日本銀行金融研究所貨幣博物館 お金の歴史に関するFAQ (回答)
 独立行政法人造幣局 江戸時代(えどじだい)のお金(かね)のしくみ
 執筆者:FINANCIAL FIELD編集部
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 歴史のまとめ 歴memo
 歴史まとめ.net > 日本史 > 江戸時代 > 幕府と侍たち
 武士の日常 武士の家計
 武士の給料
 江戸時代の武士たちは、現代の労働者と同じで、給料を貰って暮らしていた。
 支払いの方法には、大きく分けて「知行取り」「蔵米取り」「給金」の三種類があったが、原則として、給料は米で支給されていた。
 知行取り
 知行取りというのは、給料を領地の形で貰う事をいう。
 例えば「100石の知行」といったら、一年間に100石の米が収穫できる土地を貰っていた、という事である。
 1石を1両、1両を6万円として計算すると、年収は600万円という事になる。
 武士と農民の税率
 もちろん、これは領地で採れた米を全て数字に換算した場合の話である。
稲作を行う上で、農民の存在は不可欠であり、当然、農民たちにも収穫量の一部を給料として支給していた。
 具体的な米の取り分に関して、「四公六民」という割合で分けられていた(北条早雲の善政)。
 「四公」とは武士の取り分で、収穫量の40%を武士が貰う。
 「六民」とは農民の取り分で、収穫量の60%を農民が貰っていたのだ。
 意外に思うかもしれないが、江戸時代の年貢割合は武士より、農民の方が多かったのだ。
 ※ただし、地域によっては「五公五民」と、お互い均等に分けあう地域もあった。
 上記の例で計算すると、100石取りの武士の年収は240万円程度となる。
 蔵米取り
 蔵米取りというのは、幕府や藩の米蔵から俸禄として米を受け取る事で、要するに米の現物支給である。
 知行地を持たない少禄の旗本や御家人は、幕府からこの蔵米を貰っていた。
 給金
 「給金」は、文字通り給料を金銭で貰う事だ。
 最も身分の低い武士の場合、一年に貰えるのは3両1分(1分は1両の1/4)で、今のお金で言えば、年間で20万円程度しかもらえなかった。
 100俵取りの武士でも、中間一人、下女一人雇っていると、食べるだけでやっとだった。
それ以下の下級武士たちは、非常に苦しい生活を強いられていたのである。
 実際、享保7年(1722年)の記録を見てみると、旗本は5205人で、平均の石高は507石(俵)。
 それに対し、御家人は17390人で、平均はたったの32俵である。
 給料だけでは食べていけない御家人たちは、せっせと傘張りやアサガオ栽培などの内職に励んで家計をやりくりしていた。
 高給取りの侍
 では、高給取りの侍はどれくらいの給料を貰っていたのだろうか。
 池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」でお馴染みの長谷川平蔵は年収4000万以上、遠山の金さんに至っては8000万以上も稼いでいたという。
 給料として貰った「米」の使い方
 米が通貨としての役割を果たしていた江戸時代、武士の禄(給料)は、原則として米で支払われていた。
 しかし、米だけを大量に貰っても暮らしてはいけない。
 味噌や野菜、日用品や衣類も必要だ。
 すれらは、全て現金で買う必要があったのだ。
 米の換金所「蔵前」
 上記の事情から、武士たちは、米を金に変えていたのだが、米の換金場所は、現在の台東区浅草橋の隅田川沿い「蔵前」にあった。
 ここには、地名の由来どおり幕府の米蔵がズラリと並んでいた。
 そのため、給料日ともなれば、旗本や御家人たちが「支払手形」を持って、続々と集まって来たのだ。
 支払手形
 支払手形とは、米を米蔵から受け取るための札の事をいう。
 札に受取人の名前を書き、蔵役所においてあるワラの束に差して、自分の順番を待つというシステムである。
 札差という職業
 しかし、行列を作って米の支給を待ち、なおかつその米を商人に売捌いて金にするには時間もかかり、武士自らが行うのは厄介だった。
 そこで登場したのが、「札差(ふださし)」という商人だ。
 札差は、旗本や御家人の代理として米を受け取り、米商人への売却から換金までを一手に代行した。
 札差の手数料
 むろん、札差に代行してもらうには、手数料(札差料)が掛かる。
 と言っても、米を受け取ってもらう手数料は、米100俵につき金1分(1両の1/4)、米商人に売却する手数料(売側)は金2分(1両の半分)とわずかな額だった。
 よって、金勘定が嫌いな武士たちは、喜んで札差を利用した。
 札差地獄?
 ところで、札差は代行業者であると同時に金貸しでもあった。
 将来貰うはずの蔵米を担保に、金を借りる旗本や御家人が沢山いたのである。
 ようは給料の前借りだったが、毎年のように借金をすると、利子を返済するのも大変だった。
 この札差地獄に苦しんでいた武士も少なくなかったのだ。
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 PRESIDENT Online
 江戸時代の武士の平均年収は500万円超
 ガチな実力主義で出世昇進した
 PRESIDENT 2018年2月12日号
 江戸時代の武士は現代のサラリーマンより豊かに暮らしていたのか。マネー事情や出世競争は? 当時の実情に詳しい識者に聞いて解き明かす。
 1両あれば、1カ月は暮らせた
 江戸時代、武士の給与は先祖から受け継いだ「家柄」によって決まっていた。これを「家禄」という。当時はコメ本位経済で、年貢の量、身分などすべてがコメで管理されており、給与についてもコメの量で提示された。 
 写真=iStock.com/bee32
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 コメを量る単位は「石」「俵」「斗」「升」「合」(※)。土地の標準的な収穫量は「石」を用いた「石高」を基準にし、「石高制」と呼んだ。
 ※1石=10斗=100升=1000合≒180リットル 1俵=3斗5升or4斗
 「通貨に換算すると1石は、だいたい金1両という相場でした。江戸時代は1両あれば、なんとか1カ月暮らせるといわれていました。いまよりはるかに質素な暮らしぶりですが、現代価値で10万~20万円程です」
 そう説明するのは、歴史学者国際日本文化研究センター名誉教授の笠谷和比古氏。
 では、武士の平均的な給与はどのくらいだったのか。
 「幕府に直接仕える武士は、将軍に挨拶できる『旗本』(約5000人)とその資格のない『御家人』(約1万5000人)に分かれます。このうち旗本と御家人との境目は家禄100石あたり。この階層で給与を考えたとき、税率は三ツ五分(35%)が基本なので35石が手取り収入となります。35石は現代では年収500万円を少し超える計算です」(笠谷氏)
 旗本と御家人といった階級の違い自体は、給与とは関係ない。家禄により給与は低くても、身分の高い家やその逆もある。戦で活躍さえすれば昇進できるというシステムであり、事務処理能力が高くても評価されることはなかった。
 「江戸時代の初期、武士の本分は戦場での槍働きだという気概がありました。ただし算盤や帳簿つけなどの行財政も必要な仕事です。武士の集団のなかで『やれ』と指名されれば避けて通れません。そうして担当を任される武士は『ひ弱な人間』という評価であり、非常に不名誉だと考えられていました」(同)
 だが、一途に武士が腕を磨き続ければいいという時代は次第に終わりに近づく。江戸時代初期の島原の乱(1637年)を最後に大きな戦はなくなり、武士はそれまでの働き方を変えることを迫られたのだった。
 「元禄(1688~1704年)、享保(1716~36年)と官僚化が進むにつれ、武士の価値観は逆転します。算盤や帳簿づけが中心の勘定所が花形職場となり、事務処理能力の高さが評価ポイントとなりました」(同)
 8代将軍吉宗が「足高(能力)主義」を導入
 同時に、給与が低い家は幕府の役職に就いて、出世することを積極的に目指し出す。
 「官僚化の初期段階は、家臣のうち最重職である家老の子は高い役職に就き、軍隊の中で最下級の足軽の子は低い役職に就くといったことがあたり前でした。ただそれは、先祖が戦で貢献した家というだけで、行財政の分野で優秀な人間が出るという保証はない。となると当然、適材適所の人事にならず、組織全体がうまくまわらなくなる。優秀な人材を登用するには、実力主義の制度が必要とされました。そこで効果を上げたのが8代将軍吉宗の『足高制』です」(同)
 足高制では、出世して幕府の役職に就けば、在職中に限って不足分の報酬を補填。そして役職を離れれば元の家禄に戻る。それが世襲されることもない。ふつう家柄の低い者の出世が可能になれば、既得権益を持つ家禄の高い者は面白くない。だが「能力主義」を導入する一方で「身分主義」も守ると明言することで保守派の人間も納得。江戸文化研究家の菅野俊輔氏も「秀逸な制度だった」と評す。
 「江戸時代の研究を長年していても、吉宗は異質。血のしがらみを取り払って制度を整えた稀有な将軍でした。自分のつくった制度と官僚を信じ切ったのでしょう」(菅野氏)
 こうして18世紀には「能力主義」が浸透していく。
 「この時代の能力主義こそを『年功序列』と言ったのです。『年』は経験年数を示しますが、それによりスキルアップして、『功』である成果が出る。すると昇進して給料が上がっていく。いまの日本企業で使われる“年功序列”のように、年を重ねるだけで給料が上がるのとは意味が違います。仕事で成果も出さずに、給料アップなんてもってのほかです」(笠谷氏)
 昇進条件は業務成績の優劣であり、「誰もが認める優秀な人材が出世していった」(同)という。
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「扶持」の意味・わかりやすい解説
 扶持 ふち
 主人から家来に下付した給与米の一種。1人1日玄米5合を標準に、1か月分(30日で1斗5升)を支給するのを一人扶持といい、身分や役職により何人扶持と数えた。大名が家臣に土地を与える(地方知行(じかたちぎょう))かわりに蔵米(くらまい)を支給することは戦国時代からおこり、近世に入って武士の城下町在住が一般化して兵農分離が進むにしたがい、蔵米知行の一部として普通に行われるようになった。三季に支給される通常の蔵米取より下級の御家人(ごけにん)や藩士、御用達(ごようたし)町人らに給せられ、月俸とよぶこともあった。二十人扶持が1年(350日)分で35石となり、3斗5升入りの蔵米の100俵取の実質収入と同じとみなされた。なお、本来の禄高(ろくだか)に加えて役料(職務給)として扶持若干を給される場合もあった。
 [北原 進]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「扶持」の意味・わかりやすい解説
 扶持 ふち
 封建時代の武士が主君から与えられた俸禄。鎌倉~室町時代には土地と百姓を与えるのが原則であったが,戦国時代,米を給与する方法が起り,江戸時代になると,武家の離村が進んで城下町に居住するようになり,所領を米に換算する方法が一般化した。特に蔵米取 (→蔵米 ) の者に対して行われた給与方法をさすようになった。1人1日5合の食糧を標準 (一人扶持と呼ぶ) に1年間分を米や金で与える方法が普通で,下級の旗本,御家人,諸藩では下級武士に,身分に応じて何人扶持と定めて,広く行われた。また武士だけでなく,特殊な技能者なども何人扶持でかかえるという方法が行われたり,幕府,諸藩に尽力した商人,百姓にも与えられた。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
   ・   ・   ・   
 百科事典マイペディア 「扶持」の意味・わかりやすい解説
 扶持【ふち】
 助ける意から転じて,武士が米などを給して家来,奉公人を置くこと。またその支給される米(扶持米)のこと。戦国時代以前も家臣に米を給することを扶持とよんでいたが,江戸時代に制度化された。蔵米が30石取などというように米の量で表されるのに対して,扶持米の場合は一人扶持が単位。幕府の場合一人扶持は1ヵ月玄米1斗5升(1日5合)。藩ではおのおの異なる。
 →関連項目大庄屋|家禄|地方知行
 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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 戦国ヒストリー
 「幕末の給料」将軍や新選組の年収はどれくらい? 幕末武士たちの給料(禄)を役職ごとに追ってみた!
 コロコロさんさんのアイコン
 2021/06/30
 「あれ、これっていくら?」大河ドラマや時代劇では、お金に関する話題が出たときに考えることってありますよね?
 幕末の給料をテーマとする当記事の執筆にあたって、歴史系の専門著書はもちろん、国税庁造幣局のHPを参考にしながら、当時の渋沢栄一の記録も参照しました。将軍や新選組など、興味のある分野ごとに分けてまとめてあります。
 読み終えた頃には、きっと大河ドラマや時代劇が何倍も分かりやすく、身近に感じやすくなっているはず!? さっそく幕末の給料について見ていきましょう。
 【目次】
1. 武士の給料と通貨価値
2. 超規格外!? 将軍と旗本の給料とは
3. 幅があり過ぎる! 御家人渋沢栄一の給料
4. 幕末の京都は超危険!? 赴任した伊庭秀俊と新選組の給料
 武士の給料と通貨価値
 武士の給料は禄? サラリーの額には2種類の表示法が存在
 大河ドラマや時代劇を見ていると、時々お金や給料に関する話題が出てきます。
 「○○石取り」とか「○○俵○人扶持」などなど…
 江戸時代や幕末までは、土地の標準的な収穫量は「石(こく)」と用いて表示していました。
 江戸時代は、仕官する人間(主に武士)が受け取る給料を「禄(ろく)」と呼びました。禄は金銭や米、あるいは土地で支払われています。
 武士の給料の支払いには、大きく分けて以下の二通りがありました。
 知行取
 領地を与えて直接村から年貢を納入してもらう方式。「〇〇石取り」というように表記されます。手取りは税が引かれて、額面表記の35%ほどです。
 蔵米取
 一旦勘定所に収納された米を支給する方式。さらにここには切米取(年3回に分けて支給)と扶持米取(人数分の食料が毎月支給)がいました。「〇〇俵〇〇扶持」というように表記されます。
 兵糧・米俵のイメージ
 一人分の扶持米が年間5俵支給。二人扶持は10俵が貰えることになっていました。
ちなみに1石=2.5俵で交換されています。
 1両は約10万円? 江戸時代の基本的な通貨価値
 通貨に換算すると、1石はだいたい金1両という相場です。
 大河ドラマや時代劇では、1両と言う単位がよく登場しますね。実際にいくら位の価値だったのでしょうか。まず、江戸時代の通貨は、以下のように4進法を基本としています。
 1両=4分=16朱=4000文
 時代によって貨幣価値は変動しますが、この記事では以下を採用します。後述の給料算出に使っていますので、ざっくり頭の片隅にでも置いておいてください。
 1両=10万円
 1分金(銀)=2万5千円
 1朱金(銀)=6250円
 1文=25円
 超規格外!? 将軍と旗本の給料とは
 幕末の将軍の年収っていくら?
 武士の頂点といえば、征夷大将軍ですが、その年収とは、どれほどだったのでしょうか。
 享保15(1730)年の収支データが残されています。当時は江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の世でしたが、彼の年収総額は、79万8800両に及んでいます。
 全国各地にある領地(天領)が64%、残りを金山や銀山、長崎貿易の運上金や御用金が占めています。
 当時の1両を16万円だとして、吉宗の年収は約1278億円にも上りました。
 幕末になると、貨幣価値とともに将軍の年収は変動します。吉宗の年収をベースに1両10万円で計算すると、およそ798億8000万円。幕末期の将軍たちの年収は約800億程度だったことが推測できます。
 現代の総理大臣の年収はおよそ4000万円ほどなので、将軍のそれがいかに規格外であるかが、よくわかりますよね。
 旗本は超高給取り!? 500石の給料を現代に換算してみた
 続いて幕臣(幕府に仕える家臣)、特に旗本の給料について見ていきたいと思います。
 幕臣の中で将軍に御目見が許されている身分が「旗本」です。将軍の直属の家来ともなると、年収はどれくらいになるのでしょうか。
 大身の旗本となると5000石を領する家も存在していました。しかしほとんどは、石高500石以下の家々で占められています。
 5000石と500石をそれぞれ金額に換算して見てみましょう。なお、実際の手取りは、石高の35%です。
 5000石を換算すると…
 5000石×0.35=1750石
 1石=1両(10万円)として、年収は1億7500万円となります。
 また、500石を換算すると…
 500石×0.35=175石
 1石=1両(10万円)として、年収は1750万円となります。
 幅があり過ぎる! 御家人渋沢栄一の給料
 御家人は高給取りで内職暮らし?
 御家人のほとんどは、知行地を持たない蔵米取でした。知行地を持つ御家人でも、200石ほどの小身です。
 200石を換算すると…
 200石×0.35=70石
 1石=1両(10万円)として、年収は700万円です。
 また、時代劇『御家人斬九郎』では、主人公が無役で「30俵二人扶持」とされています。
 なお、蔵米取りは、額面がそのまま受け取れますので、石高の35%に必要はありません。
 これを踏まえた上で「30俵二人扶持」を換算すると…
 30俵=12石(1石=2.5俵で計算)。1石=1両(10万円)として、120万円
 二人扶持=米10俵=4石。1石=1両(10万円)として、40万円
 1石=1両(10万円)として、120万と40万。つまり、年収は160万円です。
 こうしてみると、御家人斬九郎は現代の平均年収以下の額だったようですね。都市部である江戸に住む以上、彼の暮らし向きは、決して楽ではなく、身の回りの必要経費や物価高に悩まされます。内職を行なったり、御家人株を売りに出す例も出ていました。
 大河『青天を衝け』でも描かれた、一橋家時代の渋沢栄一の給料を解説!
 大河ドラマ『青天を衝け』で、初任給を受け取るシーンがあります。
 主人公・渋沢栄一は従兄・喜作と二人で一橋徳川家に奥口番として仕官。実際に受け取った俸禄の記録も残っています。
 渋沢栄一の肖像写真
 大河ドラマ『青天を衝け』の主役・渋沢栄一の肖像写真
 元治元(1864)年2月、渋沢栄一は一橋家から4石二人扶持(年額)、滞京手当として、月額4両1分の俸禄を受け取っていました。
 実際にいくらだったのか、計算してみましょう。
 4石二人扶持(年額)を換算すると…
 4石=4両(40万円)×0.35(石表記の取り分は35%)。よって14万円
 二人扶持=米10俵=4石。1石=1両(10万円)として、40万円
 4両1分(月額)を換算すると…
 4両(40万円)+1分(2万5000円=42万5000円。年(12か月)換算で510万円
 上記から、14万円+40万円+510万円。つまり、栄一や喜作らの年収は584万円+米10俵(40万円分)になります。
 初任給ながら、下級の御家人には及ばないものの、かなり高額な収入を得ていました。しかしこれには理由があります。
 当時、京都は政情不安な危険地帯です。天誅や破壊行為に晒される可能性があり、滞京手当が潤沢に支給されたものと考えられます。
 栄一と喜作は、上司・平岡円四郎に重用されていました。平岡の死後は、黒川嘉兵衛に付いて出世への階段を上っていきます。
 以降の役職と収入の変遷を見てみましょう。
 元治元(1864)年9月 御徒士に昇進。8石二人扶持、滞京手当6両。
 8石=8両(80万円)×0.35=28万円
 二人扶持=米10俵=4石=40万円
 滞京手当6両=60万円×12ヶ月=720万円
 よって、748万円+米10俵(40万円分)が年収となります。
 慶応元(1865)年2月 小十人。17石五人扶持、滞京手当13両2分。
 17石=17両(170万円)×0.35=59万5千円
 五人扶持=米25俵=10石=100万円
 13両2分=130万円+5万円=135万円 ×12ヶ月=1620万円
 よって、1679万5千円+米25俵(100万円分)が年収となります。
 同年8月 一橋家御勘定組頭。25石七人扶持、滞京手当21両。
 25石=25両(250万円)×0.35=87万5000円
 七人扶持=米35俵=14石=140万円
 21両(210万円)×12ヶ月=2520万円
 よって、2607万5000円+米35俵(140万円分)が年収となります。
 大河ドラマでは、栄一は給金と同時に米切手(米の保管証書)を受け取っていました。
 米切手は換金することも可能なので、金額換算分は別途分けてあります。
 幕末の京都は超危険!? 赴任した伊庭秀俊と新選組の給料
 登城は月七日で、月額76万円!? 将軍の親衛隊・伊庭秀俊の給料とは?
 幕臣の給料は、他と比べて必ずしも潤沢ではありませんでしたが、幕末になると、危険な任務が増えていきます。将軍警護の従事者ともなると、得られる給料と待遇は恵まれたものでした。
 幕末に上洛した奥詰(将軍の親衛隊)・伊庭秀俊(伊庭八郎の義兄で養父)には、月額の俸禄とは別いに「賄い」と呼ばれる食費まで支給されています。
 秀俊の俸禄は月額で「金5両3分2朱(58万7500円)」が支給。
 これに対して賄いは、一度に「金1分(2万5000円)」から「金3分(7万5000円)」が確認されます。
 二条城への出仕は、月におよそ七度とされています。つまり月額での賄いは、最低でも17万5000円が貰えていました。
 奥詰は、将軍家の警護役です。危険と隣り合わせとはいえ、基本給と食費で、月額で確実に76万2500円の給料を貰えています。
 年額に直すと、915万円を得ていました。
 在京任務とはいえ、将軍警護が危険な目に遭うことは稀です。幕府はかなりのホワイト企業であったと言えるでしょう。
 新選組の給料は旗本クラス!? 近藤勇土方歳三沖田総司の年収に迫る!
 幕末の組織と言えば、真っ先に思い浮かぶのが新選組です。
 新選組のイメージイラスト
 新選組は幕府方の治安維持組織として、京都の市中警備を担当。尊王攘夷派の弾圧と取り締まりに従事していました。
 局長・近藤勇や副長・土方歳三も、仕事をする上で俸禄は発生しています。
 元二番隊組長の永倉新八は『新撰組顛末記』で「組頭は月30両(300万円)、平隊士は月10両(100万円)」と述べています。
 しかし当事者である永倉の記述は誇張された可能性があります。そこで同時代の史料を参考にしてみましょう。
 京都の豪商である両替屋・三井家が記した『新選組金談一件』には、以下のように記述されています。
 「組頭以上者一ヶ月御手当金壱人シ両宛、余者セ両ツヽ之由」
 シ両もセ両も、三井家で使用していた符牒(暗号)です。
 シ両→10両(100万円)、セ両→2両(20万円)、となります。つまり組頭以上(沖田総司や永倉、斎藤一ら)は一月に10両、平隊士は2両が俸禄として支給された計算でした。
 局長の近藤と副長・土方は組頭と同等か、それ以上の金額を支給されていたはずです。
永倉の『新撰組顛末記』では、局長が50両(500万円)、副長が40両(400万円)を支給されたとありました。
 前述のように誇張だとして割り引いても、月に30両(300万円)から20両(200万円)は貰っていた可能性があります。
 局長と副長が同額とは考えにくく、近藤が30両、土方が20両ほどと仮定してみましょう。すると新選組の年収は
 局長・近藤勇     3600万円
 副長・土方歳三    2400万円
 一番隊組長・沖田総司 1200万円
 二番隊組長・永倉新八 1200万円
 三番隊組長・斎藤一  1200万円
 平隊士        240万円
 と予想されます。
 新選組は、最前線で命懸けの任務についていましたので、超高額というより、自然発生的に手当が高くなったと言える金額ではないでしょうか。
 【主な参考文献】
 山村竜也 『幕末武士の京都グルメ日記「伊庭八郎征西日記」を読む』 幻冬舎 2017年
 竹内誠監修 『一目でわかる江戸時代 地図・グラフ・図解でみる』 小学館 2004年
 渋沢栄一記念財団HP 「⒎慶喜公の将軍職に反対す」 デジタル版 実験論語処世談(2)
 Web歴史街道新選組」か「新撰組」か?、給料はいくら?〜最新研究とともにたどる新選組の軌跡
 国税庁HP 武士の給与
 造幣局HP 江戸時代のお金のしくみ
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この記事を書いた人
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 コロコロさん さん
 歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。
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