- 作者:北原 糸子
- 発売日: 2013/03/01
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本国と日本民族日本人は、数万年前の縄文人時代から自然災害で強くなってきた。
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江戸は、繰り返し起こる自然災害や大火で進化と発展を続けて世界的大都市になった。
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広瀬弘忠「人は地震のときパニックになると考える人も多いかもしれませんが、現実は逆です。大きな揺れを感じたとき、人の心理では『正常バイアス』が働き、いまの状況が異常だと認識せずに物事を処理する傾向にある。津波や建物の倒壊の危険性が前々から言われていたとしても、『自分は大丈夫』と思いこみ、逆に逃げ遅れてしまうのです。だからこそ、常に最悪の状況を想定して防災することが大切です」
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日本列島は、自然災害多発地帯で数多の犠牲者がで、さらに飢餓と疫病が襲い、そして餓死者と病死者が溢れた。
甚大なる複合被害が、日本民族日本人を絶えず、休みなしに襲っていた。
生き残った被災者は、精神的な救い、心の支えを天皇に求めた。
天皇は、被災者の救済を幕府に要望した。
江戸時代、徳川幕府と諸大名は、打ち続く深刻な自然災害と繰り返される甚大な複合被害の中、260年間、治安を維持し、秩序を保っていた。
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「徳川の平和」とは、人智・人力を超えた奇跡ではなく、人と人による努力の結晶であった。
成功した秘訣は、中国と朝鮮と国交を開かず、中国人・朝鮮人の日本への自由な往来を禁止したからである。
つまり、多様性を維持しながら異質を排除したからである。
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日本を覆っていたのは、世間体、社会の為、世の為、という空気・空気圧・同調圧力であった。
それは、現代の日本とは逆に庶民ではなく、上に立つ幕府や大名、武士・サムライを縛っていた。
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江戸の庶民は、災害に襲われ、家財道具を無くす甚大な被害に見舞われ、家族や知人・友人の多くを失っても、一時は悲嘆に暮れても、動けるのなら動き、明るく、楽天的で、陽気で、笑顔で、前向きで、行動的であった。
貪欲に「転んでもただでは起きない」、それは災害でも変わらないのが、日本民族日本人の本来の姿である。
そして、如何なる最悪な事態に襲われようと、決して逃げ出さず投げ出さず諦めず、踏ん張り我慢し辛抱して努力をした。
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日本の災害は、日本民族日本人に自己責任・自助努力・自力救済・自立・自律を強要していた。
そこには、他人への依存や甘えは一切否定されている。
日本民族日本人は、誰かが助けてくれる、奇跡が起きて救われる、という依存や甘えは持ってはいなかった。
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江戸っ子は、人前で泣く事を男の恥として嫌い、何があろうとも何時も威勢よく虚勢をはっていた。
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日本には、西洋キリスト教社会のような奉仕の精神によるボランティアはなかった。
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被災者にとっての元気が出る薬とは、けたたましい笑い声を張り上げ、五月蠅いほど騒々しく、元気一杯に走り回って遊ぶ子供達であった。
甲高い子供の笑い声が、日本民族日本人にとっての万能の妙薬であった。
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2018年11月号 時空旅人「繰り返される災害から学べること
天災の記憶
未来を生き抜くために
安政の大地震、関東大震災を振り返る
関東
災害に日本人は立ち向かってきたのか。
災害史が専門の北原糸子さんに、私たちの社会はどういう仕組みで復旧復興してきたのかを伺う。
取材・文/相庭泰志
関東の被災史
貞観11年( 869) 貞観地震
正応 6年(1293) 永仁鎌倉地震
明応 7年(1498) 明応地震
元禄16年(1703) 元禄地震
宝永 4年(1707) 宝永地震
安政 元年(1854) 安政地震
安政 2年(1855) 安政江戸地震
大正12年(1923) 関東大震災
災害史研究の第一人者・北原糸子先生に聞く
江戸の天災と日本人
時代の情勢で変わる幕府の救済のかたち
江戸時代にも数々の地震が起こり、多くの被害が出た。江戸時代中期の元禄16年(1703)に起こったのが、関東大震災と同じ相模トラフ付近を震源地とする元禄地震。相模湾から房総半島にかけて被害を及ぼし、死者は1万人ほどとされている。
その恐怖がようやく薄らぎ始めた4年後の宝永4年(1707)、日本列島全体を揺れるほどの大地震が発生した。宝永地震である。災害史研究の第一人者である北原糸子さんは、こう語った。
『南海トラフが動いたことが確認されている歴史的に注目すべき地震です。駿河湾から四国南方沖にかけ、3カ所の震源地でほぼ同時に発生したとされる、かつてない大地震で、津波が襲い、甚大な被害が出ました。しかし、宝永地震はそれだけにとどまらず、49日後に富士山が大噴火を起こします。しかも16日間も噴火が続き、噴煙が江戸の町を覆いました。復興に当たって江戸幕府は、江戸の町を作った時と同じ手法を使います。つまり、地震によって倒壊した河川などの復旧のための資金を大名に捻出させ、普請(工事)にも当たらせたのです。そして、その150年後の安政元年(1854)にも再び日本列島の太平洋岸を襲い、津波被害をもたらした安政地震が起きました』
さらに翌年には、江戸に大きな被害が出た安政江戸地震が発生。マグニチュード7と推定される内陸直下型の地震で、江戸城の石垣ばかりでなく、多くの大名屋敷や旗本屋敷、町家が崩れ、火災も起きた。死者数は1万人は下らなかったという。
『江戸幕府は元禄地震では庶民に対する救済策を取りませんでしたが、幕末の安政地震では、ペリーが黒船を率いて浦賀に来航するなどの大問題を抱えていたにも関わらず、救済を行います。現在の避難所に当たる、お救(おすくい)小屋を数カ所に設け被災者を住まわせ、握飯を支給。困窮者にはお救米が1ヶ月支給されました』
一方、富裕層である商人はどうしたのだろう。当時の江戸の町人社会は金持商人とその日暮らしの一般庶民で成り立っていた。その間に助け合うという理念が確立していた北原さんは語る。
『富裕商人たちは米を配り、店子や出入りの職人などへ家賃の免除などを行いました。また、生活困窮者には義援金を配ったのです。救い合うという理念からですが、違う見方もできます。窮状のさなかに貧困層を救わなければ、復興後の商売がうまくいかないという利害が働いての支援という側面です』
幕府のお救い政策や富裕商人からの支援を受けたのは、その日稼ぎの人々で、町人人口の約6〜7割(約35万人〜40万人)を占める。特徴的なのは、被害の有無ではなく貧困層全体に行われた点だ。お救い政策は、未曾有の被害と異国船来航にあって、民心を安定させ都市を維持するための政策だったと考えられる。
安政の大地震の余震が続く江戸の巷で地震に関係する摺(す)り物が大量に出回った。そのふとつが奇妙な錦絵である鯰(なまず)絵だ。
『地震を起こしたとされる地下の大鯰絵を描いた風刺画です。彫りも刷りも粗さが感じられます。当時の錦絵には必ずあった検閲を受けた印も、鯰絵にはほぼありません。もちろん幕府からは出版の中止命令が下されました。しかし、版元側から禁止されると生活が立ち行かないと許可願いが出されたといいます』
北原さんによると鯰絵は200ほどの種類があり、よく売れたという。
『江戸の庶民が買い求めたのは、くよくよしても始まらない。笑い飛ばして元気を出そうという気持ちがあったからでしょう。また、被災した親族を心配して地方から出てきた人々も鯰絵を多く購入したようです。恰好の土産でもあったのです』
安政の大地震より少し前から、江戸に住む人々には変化があった。仕事を求めて農村の過剰人口が都市に流れて溜まる傾向で、安政の大地震以降、その傾向は強まっていった。さらに、家屋を修復するために欠かせない大工や左官などの職人が引く手あまたとなり、賃金が高騰した。
『吉原は丸焼けになり江戸の各地で仮営業していましたが、客層に大きな変化が現れました。高嶺の花であった吉原の仮営業に、金回りのよくなった職人が通い始めたのです』
『地震後野野宿之図』 いまと変わらぬ被災者の姿 安政江戸地震の後、余震が繰り返されるなか、避難した人々が空き地に集まっている。そして、畳や襖などで仮設住宅を作り、安堵の笑顔を見せている様子が描かれていた
社会の発展に伴って
災害の規模も大きくなる
未曾有の大震災を乗り越え帝都復興を果たす
明治時代に大地震として記憶されているのは明治24年(1891)に発生し、内陸地震最大のマグニチュード8を記録した濃尾地震。紡績工場の煙突が倒れ、多くの女工が命を落とすなどして、岐阜・愛知両県を中心に死亡者7,273人に及んだ。
『当時は日清戦争の直後で、戦況は極めて日本軍に有利でした。国民も高揚を隠せませんでしたが、相次ぐ建物の倒壊は近代国家推進に暗い影を落とします。そこで濃尾地震を受けて明治政府は、揺れを抑えるなどの本格的な研究を行うための地震調査機関を立ち上げました』
そして、大正12年(1923)の関東大震災を迎える。当時の東京市の半分ほどが火災で焼け尽くされ、被災者は150万人を記録した。
『国家の中心である帝都は大災害にも動じることなく存在していなければなりません。しかし、あまりの被害に誰もが呆然としました。そこで都を京都に移す案も出たのですが、天皇の詔勅によって、東京を帝都として復興させることになったのです』
全国から義援金も集まったが、特筆すべきは、時代を先取りした格好の大阪府の支援だった。
『当時、大阪は東京より遙かに大きな財力を持っていました。そこで支援組織を作り、地震発生から1ヶ月もしないうちに500戸のバラックを作って東京へ300戸、横浜へ200戸送ったのです。横浜市は空き地にこのうち52棟を移動させ、避難民2,000人収容の関西村という名のバラック村を作りました。そこには小学校や村役場、食堂なども設置され、住民のコミュニティーが形成されたのです』
こうした人々の数限りない温かな支援によって、帝都は復興を果たすことになる」
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日本の歴史とは、自然災害の歴史でもある。
日本民族日本人は、自然災害と闘ったのではなく、日本列島では必ず起きる災害として覚悟し、避けられない災害と如何に折り合いを付けながら生きるか、に心がけた。
日本民族日本人、どんな子供でも人間に非力を自覚していて、特別な人間の剛腕や特殊な人間の英知でも自然災害を防ぐ事はできないし、如何なる霊験あらたかな神や仏に祈ったところで消し去る事はできない事は知っていた。
それ故に、掘っ立て小屋のような粗末な家に住み、最低限の安価な家財道具しか持たなかった。
日本民族日本人にとっての財産は、金銀財宝ではなく手に職を持つ事であった。
西洋人や中華人(中国人・朝鮮人)は、日本人はウサギ小屋のような粗末な家に住み、貧弱な家財道具しか持っていないと、軽蔑し、嘲笑した。
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愚昧な現代日本人は、ニセ言霊信仰から、自然災害は口に出さなければ、言葉にしなければ、文字に記さなければ、起きないと信じている。
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現代教育のご都合主義は、役に立たない。
責任の逃れの問題先送りや事なかれ主義は、有害である。
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ウィキペディア
安政地震は、安政年間の地震。
安政に改元されたのは1855年1月15日(嘉永7年11月27日)であるため、伊賀上野地震、東海地震および南海地震が発生したのは嘉永7年のことであるが、歴史年表上では安政元年であるため、安政を冠して呼ばれる。
安政の大地震あるいは安政大地震とも呼ばれる。
南海トラフが震源域と推定される宝永地震や昭和地震(東南海・南海地震)に対比して安政東海地震と安政南海地震を総称して「安政地震」と呼ぶ場合もある。
安政地震の一覧
以下の地震が安政地震と呼ばれている。
伊賀上野地震 - 1854年7月9日(元年6月15日)発生の木津川断層(三重県上野市)が震源と推定される地震。
安政東海地震 - 1854年12月23日(元年11月4日)発生の東海地震。
安政南海地震 - 1854年12月24日(元年11月5日)発生の南海地震。なお、安政東海地震の約32時間後に発生している。
安政江戸地震 - 1855年11月11日(2年10月2日)発生の江戸直下型地震。
安政八戸沖地震 - 1856年8月23日(3年7月23日)発生の三陸沖北部の地震。
飛越地震 - 1858年4月9日(5年2月26日)発生の飛騨・越後の地震。
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安政の大地震は、江戸時代後期の安政年間(1850年代)に、日本各地で連発した大地震である。
世にいう「安政の大地震」は、特に1855年(安政2年)に発生した安政江戸地震を指すことが多いが、この前年にあたる1854年(安政元年)に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および、安政南海地震も含める場合もありさらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される。
安政大地震、あるいは安政地震とも呼ばれるが、単に「安政地震」と言えば、南海トラフが震源と推定される宝永地震や昭和地震に対比して、安政東海地震と安政南海地震を総称して呼ぶ場合もある。
1854年の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震は、安政の前の嘉永7年に発生した地震であり、当時の文書、日記、瓦版などは「嘉永七年甲寅・・」と記され、地震後の嘉永7年11月7日(1855年1月15日)に安政に改元されたため、本来「嘉永の大地震」と呼ぶべきであるが[14]、明治改元の際、詔勅で「慶応4年(1868年)を明治元年と改元する」とされ、慶応4年1月1日に遡り明治元年と改元された例に倣い、「嘉永7年1月1日に遡って安政元年に改元された」と解釈され、「安政の大地震」でよいとされる。
歴史年表は嘉永7年1月1日に遡り安政元年とし、『大日本地震史料』から『理科年表』に至る各種の地震史料はこの方式を採用している。
幕末に連発した大地震
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)には黒船来航、同年8月22日(7月18日)にはディアナ号が来航し、江戸幕府は相次いで開港を迫られる時勢にあった。ディアナ号で来航したプチャーチンは嘉永7年11月4日の安政東海地震に遭遇する直前の11月1日に下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていた。
東海地震津波で荒廃した下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となり、1856年にはハリスが着任して幕府との交渉にあたった。ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされる。
「安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で討幕運動に呼応するかの如く連発した大地震であった。
年表]
安政以前
1847年5月8日(弘化4年3月24日)- 善光寺地震。
1853年3月11日(嘉永6年2月2日)- 小田原地震。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)- ペリー来航。浦賀沖。
1853年8月22日(嘉永6年7月18日)- プチャーチン来航。長崎。
安政年間
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
1854年5月2日(嘉永7年4月6日)- 京都大火。禁裏より出火、炎上。
1854年5月17日-(嘉永7年4月21日-)- 下田了仙寺対談。ペリーと幕府側との通貨交換率の交渉。
1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。津波でディアナ号遭難。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。
1855年1月15日(安政元年11月27日)- 安政に改元。曳航中ディアナ号座礁。4日後に沈没。
1855年2月7日(安政元年12月21日)- 日露和親条約締結。
1855年3月18日(安政2年2月1日)- 飛騨地震。
1855年9月13日(安政2年8月3日)- 陸前で地震。
1855年11月7日(安政2年9月28日)- 遠州灘で地震。東海地震の最大余震。
1855年11月11日(安政2年10月2日)- 安政江戸地震。藤田東湖・戸田蓬軒圧死。
1856年8月21日(安政3年7月21日)- ハリス下田に総領事として着任。
1856年8月23日(安政3年7月23日)- 安政八戸沖地震(巨大地震)
1856年10月7日(安政3年9月9日)- 下田御用所にてハリスと幕府側との通貨交換率の交渉。
1856年11月4日(安政3年10月7日)- 江戸で地震。
1857年7月14日(安政4年閏5月23日)- 駿河で地震。
1857年10月12日(安政4年8月25日)- 伊予・安芸で地震(芸予地震[28])。
1857年12月20日(安政4年11月5日)- 吉田松陰が松下村塾を引き継ぐ。
1858年4月9日(安政5年2月26日)- 飛越地震。
1858年7月8日(安政5年5月28日)- 八戸沖で地震。
1858年7月29日(安政5年6月19日)- 日米修好通商条約締結。続いて蘭、露、英、仏と五カ国条約。
1858年10月11日-(安政5年9月5日-)- 安政の大獄が始まる。
1859年1月5日(安政5年12月2日)- 石見で地震。
1859年7月1日(安政6年6月2日)- 横浜港・函館港・長崎港開港。幕末の通貨問題。
1859年10月4日(安政6年9月9日)- 石見で地震。
1860年3月24日(安政7年3月3日)- 桜田門外の変。井伊直弼が暗殺される。
安政以後
1867年11月9日(慶応3年10月14日)- 大政奉還。
1868年4月5日-(慶応4年3月13日-)- 勝・西郷会談。江戸開城。
幕府・各藩の被害状況
安政年間の地震に関する幕府への領内・江戸屋敷の被害報告は『書付留』、『御城書』および『幕府沙汰書』などに記録され、各藩が拝借金を願出ている。
伊賀上野地震
津藩 : 城内住居向大破、家中・町郷共に悉く破損に付き拝借金を願出た(『御城書』)。
桑名藩 : 居城が破損し、領内の川々の堤の損所も少なからずに付き拝借金5,000両を願出た(『御城書』)。
東海地震
東海道筋 : 箱根は本陣が潰れ、三島・原・蒲原は皆倒れ、沼津・由比・興津・府中・鞠子・岡部・島田・金谷は家屋倒壊が著しく、吉原・江尻は大半を焼失、掛川・袋井は崩れた後焼失した(『嘉永甲寅諸国地震記』『三災録』『嘉永七年甲寅十一月四日大地震津浪』)。
沼津藩 : 沼津城二之丸で住居向が悉く潰れ、本丸、三之丸、侍屋敷、領分の在町も夥しく破損した(『書付留』)。
遠江気賀 : 高潮差入れ、田畑凡2800石が沈下して汐下となり湖の一部となった(『書付留』)。
尾張藩 :4日・5日、余程の地震で所々破損があった。田畑6,940石が存亡、材木426本などが津浪で流された(『御城書』)。
高遠藩 : 城内住居向破損数ヶ所、櫓・塀・門・侍屋敷・長屋破損(『書付留』)。
長島藩 : 城内住居向・櫓・士屋敷・在町など潰家があった(『書付留』)。
加納藩 : 4日・5日の地震で城内・侍屋敷・町郷潰家、堤が破損した(『書付留』)。
神戸藩 : 城内並び家中・城下村方・町屋・寺院など破損箇所があった(『書付留』)。
膳所藩 : 4日・5日の地震で本丸湖水高塀・三之丸水門・門・住居向破損、近国並び東海道宿々不容易となった(『書付留』)。
南海地震・豊予海峡地震
紀州藩 : 城内は破損なし、海岸付近の浦々は人家が多分に流失、死人多数、年貢米積船・廻船・漁船流失。16万8千石の田畑が津浪で荒れ、家26,608軒が流失した(『御城書』)。
大坂 : 人家多く潰れ、大潮差込、船が木津川・安治川の上流側へ流され橋を落とし死者多数を出した(『嘉永甲寅諸国地震記』『続地震雑纂』)。
尼崎藩 : 4日・地震で櫓・住居向が多数破損、5日の地震津浪で城下・市郷とも数ヶ所潰家あり(『書付留』)。
松江藩 : 城内は別条なし、出雲では倒家、損所数多し(『書付留』)。
大洲藩 : 5日の地震で城内が所々破損し、7日の地震でも城内外、侍屋敷、町郷倒家、潰家があった(『書付留』)。
伊予吉田藩 : 5日から7日の地震で住居向・侍屋敷・在町共、潰家多数、海岸付近は高浪で所々破損した(『書付留』)。
土佐藩 : 城下上町は無事、下町・種崎などで死者356人。甲浦・須崎など浦々で家が皆流失した(『続地震雑纂』)。
江戸地震
江戸 : 希有なる大地震で所々出火し、江戸城は櫓・門・塀・石垣など震崩されずというところなし。若年寄・老中らが登城し御機嫌を伺った。天水桶の水がこぼれるほどの揺れならば御機嫌伺いに参るのが当時の慣習であった。御曲輪内・小川町・下谷・根津・浅草・本所・深川・吉原・千住などは潰家が多かった(『幕府沙汰書』『時風録』)。将軍家定は江戸城の吹上御庭に避難した(『丹後国田辺藩牧野家日記』)。全体の死者は武家方・社家・寺院を籠めて幾ばくの人数か分からないが、取集めなば必1万人に余るなるべし。変死人の届出数は3万人余或は5万人余とも聞え、到て甚だしきは20万余人などと聞えるが何れも皆浮説にて取るべからず(『破窓の記』)。
江戸市中の大名屋敷・旗本屋敷も倒壊、破損、焼失など甚大な被害を生じ、例えば鳥取藩邸の被害の様子が『江戸御上屋敷ノ図』に詳細に記録されている
八戸沖地震
箱館 : 潰家・けが人は無かったが、1丈余(3m余)の高浪で床上浸水があり海岸通に不便が生じた(『時風録』)。
八戸藩 : 城内殿中が所々破損し湊村は海嘯のため浸水流家があった(『八戸藩史稿』)。
津軽藩 : 町中所々鴨居がはなれ、所々で寄砂割れ、水湧き出しがあった(『津軽藩日記』)。
南部藩 : 場所により潰家もあり、海岸通りは高汐押し入り流家があった(『利剛公御在府御留守留』)。
芸予地震
西条藩 : 居城住居向・櫓門・他が大破。拝借金を願出た(『幕府沙汰書』)。
大洲藩 : 城内住居向・石垣破損。土地が破裂し侍屋敷・町郷大破が夥しかった(『御城書』)。
飛越地震
富山藩 : 大鳶山崩れ谷を塞ぎ、四月廿六日に潰決し十箇村が埋まった(『前田富山家譜』)。
丸岡藩 : 城内住居向・石垣が崩れ、金2,000両の拝借を願出た(『幕府沙汰書』)。
大野藩 : 侍屋敷、在町で所々破損、川除石垣・道路が夥しく崩れた(『御城書』)。
……
津波で人家が流失した舞阪町で死者が無かったのは、1707年に当地で甚大な被害のあった宝永津波の教訓が生かされ、宍喰など阿波沿岸でも死者が少なかったのは前日の東海地震津波の教訓が生かされたためとされる。志摩半島の国崎で東海地震津波は7丈5尺(22.7m)の高さであったと記録されるが(『常福寺津波流失塔』)、この地域は1498年の明応津波後に高所移転していたため被害は最小限に留まった。
常願寺川上流部の大鳶山・小鳶山は飛越地震で山体崩壊を起こして湯川と真川を堰止め、やがて安政5年3月10日に崩壊して岩石土砂流となりて常願寺川を埋め尽くし、4月26日には再び大洪水を引き起こした。これ以降、常願寺川では洪水・土砂災害が年毎に激しくなっていったため、明治期に本格的な治水工事が行われるに至った。
各々の震災の全体像、特に東海地震・南海地震の被害の全体像は諸説あり明らかではない。畿内・紀伊半島附近の東海地震と南海地震被害の区別や、四国西部・九州の南海地震と豊予海峡地震被害の区別は困難である。
……
幕府は砲台など国防のための整備が急務であった時期に、小田原地震や東海地震・南海地震などの被害に対する諸藩への復興資金の貸付に加えて、江戸地震災害による旗本・御家人の救済、被災者の救援および倒壊・破損した市中の復興に多額の出費を強いられた。
加えて、諸大名・旗本らも同様の状況であり、東海地震・南海地震を初めとする国元の被害に加え、江戸屋敷の被災もあり、資材・資金・労働力の徴収として影響は領民に及んだ。
社会的影響
江戸地震後には夥しい数の瓦版や鯰絵が巷に出回り、よく売れたとする記録が少なくない(『武江地動之記』『なゐの日並』など)。瓦版には市民の情報獲得に対する欲求を満たす役割があり、中には国元の縁者に自身や親子兄弟の安否を刷り込み知らせるものもあった。京都・大坂・江戸の三都に店舗を抱える大商人らは東海地震で経済網が寸断され南海地震津波で大坂が甚大な被害となる危機に陥り、ここで定雇の飛脚屋が情報伝達を担い、また被害情報を一枚摺にして発行した。
安政の当時には依然として大地震などの災害が、天罰として世の乱れを糺すべく天が凶兆を以て警告するのだとする思想が根強かった。鯰絵の中には「世直し鯰の情」として被災者を助ける様子を描いたもの、また復興景気に沸く大工や庶民に小判、銭あるいは米俵を投げ与えているものまである。
一方で、世情の批判や風刺あるいは無責任な流言・風説を描いた瓦版や鯰絵など許可を得ない「無改物」の出版を幕府は厳しく取り締まった。地震1ヶ月後の11月2日には読売・浮説取締りの町触が出され、地本問屋を通して手入れが行われた。江戸地震のルポルタージュ『安政見聞誌』は発禁とされ、版元は処払いの処罰を受けた。この『安政見聞誌』や『破窓の記』などには江戸各所の被害が詳細に記録され、地震当日から余震がその強さに応じて黒丸(夜)および白丸(昼)の大きさで表示されている。
幕府・藩による救済策
東海地震津波で被災した下田では、6日後の嘉永7年11月10日に御救米が到着し、被災した1,065軒に対し総額9,855両が10年年賦で貸し与えられた。
土佐藩は南海地震後、泥棒対策の高札を立て、盗賊対策のため番小屋を建てた。さらに米穀・諸物資の過度の値上げ禁止、職人の手間賃の過度の値上げを禁止した。商人である濱口梧陵が紀州藩に願い出て、私財を投じて堤防を築く工事が行われた例もある。
江戸地震後、幕府は物価高騰抑制・大工の工賃値上げ禁止の町触を出した。しかし効果は薄く手間賃は平時の数倍から十倍以上に騰貴し、地震当日に続いてその後10月5日、10月7日、10月18日、10月19日、10月6日、10月27日と繰り返し高値禁令が出された。
安政2年10月4日以降、御救小屋が浅草広小路、幸橋御門外、深川海辺大工町、上野御火除地および深川永代寺に建てられ、炊き出しや御救米が支給された(『破窓の記』)
幕府は藩主・老中らに国元や江戸屋敷の被害報告を提出させ、拝借金の申し渡し書を受付けている。
維新への社会動向
浜松藩では1848年に大規模な一揆が起きており、これは水野忠邦が藩主時代老中になるための運動資金を領民から収奪した上に、借入金を返済せずに浜松から立ち去ろうとした行動に対する不満から発生したものであり、民衆が不安定な生活の中からも幕府や各藩が深刻な財政危機に陥り幕藩体制が綻びていくなか新しい時代を求めていた時代に発生した東海地震であった。
鯰絵には地震の発生を歓迎するような詞書が添えられているものが少なくなく、それは災害によって旧体制を崩壊させ、新しい世界の出現を期待する庶民の心情が込められているとの指摘もある。
『破窓の記』には、弘化4年(1847年)は信州善光寺辺、嘉永6年(1853年)は豆州二州そこそこの大地震、嘉永7年(1854年)は五畿七道なべて大地震、大海波など前代未聞と承りしも江府(江戸)は強からず、今度の大震(江戸地震)には、すべき心術もなし、(中略)末世といえどもかけまくも賢きと記されている。
江戸地震では小石川の水戸藩邸の長屋が倒壊し、「水戸の両田」と呼ばれた藤田東湖と戸田蓬軒ら48人が圧死した。水戸学の開祖藤田幽谷の息子である東湖は人望が高く、指導的立場にあった両田を失った水戸藩は天狗派と保守門閥派に分裂して抗争を繰り返して衰退し、1860年の桜田門外の変へとつながっていった。ペリー来航以来、幕府の絶対的権威は低下し、地震で崩れ緩んだ江戸城の石垣をみる市民らは「徳川様の天下も間もなく崩れるか」と囁きあった。
酒井右京亮・本多越中守・松平伊賀守・松平玄蕃守ら幕府の中枢をになう官僚の屋敷が建ち並んでいた御曲輪内は、沖積地や埋立の地盤の悪い土地であり住居向皆潰や半潰といった被害に見舞われた。
その後も大風水害、コレラ・麻疹の流行、尊王攘夷運動、貿易による物価高騰などが待ち受けており、混迷と流血の歳月を経て、江戸地震から12年後、江戸幕府は倒れた。
1847-1858年の大地震の震度分布
天保期は総じて大地震は少なかったが、弘化・嘉永・安政期に至る間には、特に1853年小田原地震以降、広範囲にわたる被害をもたらした大地震が相次いだ。小田原地震によって伊豆内弧とフィリピン海プレートとの留め金が外れ、支えを失って東海地震が発生しやすくなるとする説もある。
善光寺地震を皮切りに、越後頚城郡の地震 → 嘉永5年12月17日(1853年1月26日)信濃埴科郡の地震 → 嘉永6年2月2日(1853年3月11日)の小田原地震 → 嘉永7年6月15日(1854年7月9日)の伊賀上野地震 → 同7月20日(1854年8月13日)の伊勢の地震 → と東海地震の震央を目指して行った様に見える。
安政東海地震・南海地震のような南海トラフ巨大地震の前後には、約50年前から西日本を中心に内陸地震の発生が活発になり始め、その後10年程度は活発な状態が続くことが知られ、巨大地震の後のしばらくの時期は内陸地震が頻発するとされる。
また、1855年3月15日には遠江・駿河で液状化が起こる程度の地震があり、1855年11月7日の遠州灘の地震は安政東海地震の最大余震と考えられ、飛騨地震、江戸地震および飛越地震などは誘発地震と推定されている。
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現代日本の歴史教育は、反戦平和教育に重点を置いて災害史を切り捨て、如何にして日本民族日本人が生きてきたかを子供達に教えない。
その影響が、1995年1月17日阪神淡路大震災時の総理大臣の見苦し言い訳「初めての事だったから」に、現れている。
それが、現代日本の高学歴出身知的エリートの実態である。
そして、2011年3月11日の東日本大震災と第一福島原発事故でもその体たらくを曝している。
2018年のモリカケ問題における、政府と議会、政治家と官僚でも同様である。
戦後教育は、失敗し、重大な禍根を残し、それは現代の歴史教育に引き継がれている。
高学歴出身知的エリートは、潔い武士・サムライではない、強いて言えばニセ武士のみっともない素浪人・浪人である。
現代の金持ち・資産家・富裕層は、江戸時代のお大尽とは違う。
現代の資本家・企業家・経営者は、江戸時代の商人とは違う。
現代日本人は、江戸時代の庶民(百姓・町人)とは違う。
リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派も違う。
左翼・左派・ネットサヨクはもちろん右翼・右派・ネットウヨク・ヘイト・スピーチも同様に違う。
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日本の歴史教育に必要なのは、観念的な机上の虚学としての哲学、思想、主義主張でもなく、空想的な架空の宗教でもなく、地に足がついた現実に即した合理と科学に即した論理からなる実学の災害史である。
その意味でも、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌を、心眼から観察し、五感で体感する伝統的日本文化は最良の教材である。
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古代ギリシャは、神話の神々に捧げるオリンピックが開催されるや戦争を止め、一時平和になって、敵味方関係なく競技を行った。
神々を称えるオリンピック精神を理解しない異民族の侵略によって、古代ギリシャは滅ぼされ、古代ギリシャ人は皆殺しにされた。
現代のギリシャ人は、古代ギリシャ人の直系の子孫ではいない。
現代のギリシャには、多神教のギリシャ神話は死滅し、残骸として廃墟として虚しく古代遺跡が放置されている。
古代ギリシャの精神・心・志・気概は、古代ギリシャ語及び古代ギリシャ宗教と共に異人種異民族によって跡形もなく消し去られ、忘れられている。
異人種異民族の移民・移住・入植とは、そういう意味である。
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日本は、自然災害が発生すれば、合戦を止め、敵味方に関係なく助け合った。
天災が発生し甚大な被害を出しても合戦を続ける大名・領主、武士・サムライがいたら、庶民(百姓・町人)は一揆を行って追放した。
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日本と中華(中国・朝鮮)とは違うのである。
日本と中国・朝鮮は同根同族で「一衣帯水」であるといういう日本人は、心の中に悪意を秘めている日本人であるから信用すべきではない。
日本国民日本人と漢族系中国人・朝鮮人とは、心を開き、誠心誠意を持って幾ら話し合っても、フランス・ドイツ・オランダ・イタリアの様に分かり合えないし、理解し合う事はない。
日本と漢族系中国人・朝鮮人とは、アジア人、モンゴロイドと言っても別系統別族で共通性は少ない。
漢族系中国人と朝鮮人は、同系統同族であるから分かり合えるし一つにまとまる事ができる。
フランス・ドイツ・オランダ・イタリアは、祖先を辿ればフランク族王国の同じ国民で同族であった。
イギリスは、北欧と一つになれても、フランス・ドイツ・オランダ・イタリアとはまとまれない。
但し、ヨーロッパを一つに団結させられるとすれば、血縁関係としての王侯貴族とキリスト教である。
イギリス国王はドイツ系であり、スエーデン国王はフランス系である。
スペイン国王は、一時期ドイツ系であった。
日本の天皇家・皇室は、日本国民日本人しかいない。
中国皇帝は、中国人以外に異民族の皇帝がいた。
朝鮮国王も、朝鮮人以外で異民族の国王がいた。
外国人移民1,000万人計画(主に中国人移民)が実施されれば、日本民族日本人は古代ギリシャ人と同じ道を辿る。
だが、それを望む日本人が存在するのは確かである。
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マルクス主義(共産主義)史観で高得点をとった高学歴出身知的エリートは、グローバル知識は豊富で外国語を巧みに話すが、現実の危機管理対応能力と復興・復旧能力は江戸時代の武士・サムライには数段も劣る。
外国も知らず外国語も話せない武士は、ローカルだが、理系論理思考と文系現実思考を均衡に持ち、そして決断力と実行力を持っていた。
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共産主義(マルクス主義)は、日本の自然災害には無力どころか有害である。
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特に、江戸時代、江戸幕府の能力・実力を正しく評価しない者は、如何に権威があり著名であろうと信用する相手ではない。
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幕府は、被災地情報や被害情報を素早く収集し、全状況を正確に把握した。
そして、過去の被災者救済を手本として、手早くお救い小屋を建て被災者や怪我人を収容し、豊富な水と大量の米で炊き出しを行い飢えに苦しむ人々に無料で振る舞った。
江戸の町は、数日の内に再建に取りかかった。
その手早さ的確さは、現代日本の政府・議会、政治家・官僚よりも数段優れていた。
幕府や武士は、現代の政府・議会、政治家・官僚、学者・専門家のような見苦しい言い訳もしなければ弁解もしなかったし、茫然自失として立ち尽くすという無様でみっともない醜態を曝す事はなかった。
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「初めての事で仕方がなかった」(某元総理大臣)などという、子供以下の思考を臆面もなく公言して逃げ回る武士は誰1人としていなかった。
さらには、愚にもつかない言葉を平然と言うような低能者は、庶民(百姓・町人)の中にもいなかった。
だが、現代の日本にはごろごろと存在する。
現代のグローバルな高学歴出身知的エリートは、絶望的である。
現代日本で自然災害による被害が拡大し、被災者がなかなか救われないのは、当然の結果である。
マルクス主義的(共産主義的)の理想主義者や高学歴出身知的エリートは、日本のナショナリズムとアイデンティティーを消滅さる為に日本民族を消し去ろうとしている。
国家と政府は、国益の為に国民を見捨てる事がある。
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当時の日本人は、現代の日本人とは違うのである。
当時の日本人は、架空の、嘘に近い小説より、現実の、事実の歴史を素直に大切にしていた。
現代の日本人は、現代の感覚や知識や思考で自分が信じたい歴史を小説を読む、本当の人間の物語を切り捨てている。
現代の日本人は、生きる知識・智恵が盛り込まれた人の歴史物語よりも、現実離れした哲学・思想・主義主張が詰まった観念的な歴史小説を好んで読んでいる。
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日本の歴史は、中国の歴史や朝鮮の歴史とは接点が少なく、90%近く別物である。
日本民族日本人と、漢族系中国人と朝鮮人は別人である。
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口に出さなければ、文字に書かなければ、災害は起きないという愚にもつかない「ニセ言霊信仰」が日本を覆い、日本人から思考力を奪い馬鹿にしている。
思考停止のバカを広めているのが、戦後のマルクス主義的教育である。
現実離れした架空・空想・妄想の理想教育が変わらない限り、同じ事が繰り返されるどころか、起きる悲劇・悲惨は計り知れず、最悪、日本国は滅亡し、日本民族日本人は死滅する。
元凶は、現代のマルクス主義的理想教育にある。
自己満足的理想教育が日本を滅ぼす。
そして、高得点を取った高学歴出身知的エリート達。
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日本は中国や朝鮮のような、世界常識的な被災地での暴動や略奪、殺害や強姦は起きなかった。
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日本民族日本人は、朝鮮人のように我を忘れて泣き喚きはしないし、中国人のように怒り心頭に発して自暴自棄になり怒鳴り散らして暴れ回る事もせず、生きていた事に素直に喜び笑い前を向き望みを持って前に進んだ。
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災害は忘れた頃にやって来るのではなく、災害を忘れないように用心し、災害に備えて打てる手立ては全て行う。
災害が起きれば、被害を最小限に食い止める準備も怠りなく備える。
幕府と大名は勿論庶民の間でも、復興資金、非常食糧、再建資材を少なくとも3年は貯めておく事に心がけていた。
貯める事が災害に備える唯一の方法である、と武士や百姓・町人は考え実行していた。
日本民族日本人は、資金・資材・食糧を貯める事に異常に拘っていた。
現代の日本人では、理解できない。
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日本人の汚点とは、数万年という民族の歴史の中で関東大震災の一つだけである。
数十万件、数百万件、多分それ以上に起きた大小の災害の中で唯一の例外事件が関東大震災における朝鮮人惨殺事件であった。
それ以外に、惨殺事件は起きていない。
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