⚓364)─1─身分低い職人は技能・技術で武士になった。松原嘉蔵。田中久重。〜No.780/  @     

幕末の海軍: 明治維新への航跡 (歴史文化ライブラリー)

幕末の海軍: 明治維新への航跡 (歴史文化ライブラリー)

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   ・   ・  【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】 ・   
 江戸時代後期の無学な職人の技能・技術は、現代の技術者に引けを取らない能力を持っていた。
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 現代日本から急速に江戸時代の匠=職人技が消えていく。
 現代日本人は、口で言うほど伝統技能に愛着を持っていないし、本心で後世に残したいと思っていない。
 日本のローカルはグローバルによって消滅させられていく。
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 江戸の名人級職人にとって外国語が話せる事が必須ではなかった。
 江戸庶民が楽しんだ俳句や川柳や和歌は、現代人が楽しむカラオケとは違う。
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 庶民出の職人は、翻訳された西洋の科学技術の専門書を読み、教わる事なく原理原則を学んで技術者となり、自力で西洋に負けない製品を作り出していた。
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 松原嘉蔵は、提灯屋であったが、大村益次郎からオランダの本と図面を渡されて蒸気機関の模型を造った。
 9万8,000石の小藩・宇和島藩藩主・伊達宗城は、松原嘉蔵を藩士(下級武士)に召し抱え、蒸気船建造を命じた。
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 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
 前原巧山 まえばら-こうざん
 1812−1892 幕末-明治時代の技術者。
 文化9年9月4日生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)八幡浜の商人喜市の子。安政元年宇和島藩に船手方として登用され,長崎で蒸気機関などの技術をまなぶ。6年小型蒸気船の建造,運航に成功。木綿織機,雷管,藍玉(あいだま)などの製造にもたずさわった。明治25年9月18日死去。81歳。通称は嘉蔵,喜市。
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 前原巧山(まえばら こうざん、文化9年9月4日(1812年10月8日) - 明治25年(1892年)9月18日)は、江戸時代末期から明治期に活躍した日本の技術者。巧山は号で、名は喜市(きいち)、元の名を嘉蔵(かぞう)と言う。純国産の蒸気船の製造で知られる。
 
 来歴
 1812年(文化9年)宇和島藩八幡浜新築地に生まれる。
 1836年(天保6年)大坂の目貫師谷元貞に弟子入り
 1840年(天保10年)宇和島城下で細工物商売を始める。
 1854年(嘉永7年)宇和島藩重役より蒸気船の機関の製造を命じられる。長崎留学(第1〜2回)
 1854年(安政元年)御船手方御雇、第3回目長崎留学(村田蔵六らに同道)。前原喜一改名。
 1857年(安政4年)薩摩藩にて修行する。
 1858年(安政5年)蒸気機関実験成功
 1858年(安政6年)蒸気船完成、宇和島藩譜代となる。
 1870年(明治3年)旧蒸気船造り替え。
 1871年(明治4年)喜一隠居。
 1872年(明治5年)息、喜作と共に大阪移転。
 1873年(明治6年)大坂にて「前原一代記咄し」を記す。同年宇和島帰国
 1892年(明治25年)宇和島、野川にて死去 宇和島市西江寺に埋葬。戒名巧山精理居士

 生涯
 蒸気船の製造を命じられる
 宇和島藩内で、細工物などをしながら糊口を凌いでいた嘉蔵は、かねてから懇意にしている本町の豪商清家市郎左衛門の屋敷で、藩の家老桑折左衛門より、火輪船(蒸気船)の程ではなくても、櫓をこぐ現在の舟より、人力を減らして速く進める船の工夫は無いものかと相談を受け、嘉蔵が器用であるので、彼ならばあるいは、と推挙しておいたと言う話を聞く。もとよりそのような大それた物は出来ないので他の方にお願いしてくれと、その日は辞去した。
 中々左様なる品、我々工夫にてハ無覚束、外の方へ御吟味被成と申帰り、打過候処(前原一代記咄し)
 その半月後ほどに、漁に使う網曳きのロクロを思い出し、これを工夫して船を進退できないかと考え、以来一室にこもり不眠不休で2日思案し、さらに5日かかり横一尺、長さ二尺五寸、深さ七、八寸の箱車に四輪を付け、心棒を一回転すると車輪が三回転するカラクリを作り上げ、清家市郎左衛門に見せた。
 その出来栄えに驚いた市郎左衛門は、その箱車を町年寄から町奉行を通じ家老桑折に差し出され、桑折はそれを火輪船の製造を希望する藩主伊達宗城に披露した。直後に嘉蔵は藩の造船所でそのカラクリを船に応用する工事にかかる。陸では容易に進んだ箱車の仕掛けも、海では海水の抵抗で思うように推進しなかったが、藩主自ら操作し大変喜び、老職たちも大いに感心したという。
 殿様御覧ニ入れ、両車御手にて、御試被成候処、御面躰至極宜敷、思召ニ入候様子にて、御役人様方も御感心被成候故(前原一代記咄し)
 その後、士分(御雇、二人扶持五俵)に取り立てられる。役所から袴に大小を差し、裡町(現中央町付近)の自宅に帰ったところ、近隣の住民は気が狂ったのかと思ったと言う。
 袴大小にて裡町四丁目へ帰候処、丁頭内山彦兵衛、近家之人とも気違ひ候と語り合候様子にて、(中略)家内中大いに歓ひ被下、其夜家内中之貧相応之酒肴調、出世の悦を致し(以下略)
 
 長崎での出来事
 長崎の役人で高島秋帆門下の砲術家山本物次郎と出会う。(留学1回目)
 山本に同道し、出島で蒸気船や機関の船体取り付けなどを図面に写す。(同2回目)
 山本より幕府召抱えの話が出る。
 長崎奉行より、村田蔵六(後の大村益次郎)と共に蒸気船修行を許される(同3回目)。
 竹内右吉觔宅で、蒸気機関を図面に取る。
 竹内作、シリンダー模型の誤りを指摘する。
 ジョン万次郎が帰国の折に使用した米国製の小船を、江戸へ輸送のため積み込まれた船中で図面に写す。
 宿舎では、低い身分のため下女と同列で食事させられ、時間に遅れると食事を与えられないなど不遇に甘んじる。
 我事ハ昼飯なと遅く帰り候と、すへて食も呉不申、三四度も不食に過ごし候事有之、

 蒸気船の完成
 安政3年(1856年)から本格的に製造に着手したが、度重なる試作、試運転を重ねてもなかなか満足する蒸気船の完成には至らなかった。鋳物の湯釜では、高圧になると「巣」から蒸気が噴出し、銅を使用することを進言しても、古来からの鋳物職人は納得せず喜市に非難が集中した。「御船手方」ではなく「おつぶし方」と言われたのもこの頃である。もし完成したのなら、自分の耳や鼻を切っても良いと悪態を突く者まで出た。
 蒸気の車を廻すといふ事、愚人の喜市中々出来申儀夢にも無き事、若又万一出来車廻り候ハ、鼻を殺ぎ耳を切るべしとも申、餘ニ組中にも右様申人沢山にて諸職人にも心付申者多く
 大阪から銅版を取り寄せ、苦労の末蒸気機関の試運転には成功したが、船としては思ったほど進まず失敗。安政4年(1857年)に研究、修行のため薩摩に出発。薩摩藩の蒸気船に同乗したり、島津斉彬の側近肥後七左衛門に学ぶ。翌年長崎を経由して帰国。長崎で楠本イネに会う。
 銅座おい祢(ね)様方に国元二宮敬作被居候間、此処へ弐人参り候処、年賀祝儀なりと娘おたかと申す人々琴を弾し、おい祢様ハ三味線にて大さはぎの処へ……
 帰国後、蒸気船の試運転に成功、藩主・伊達宗徳を乗船させ、九島沖を航行。その後吉田、戸島、八幡浜、三浦などにも航行にも成功(翌年は江戸より帰国途中の藩主を三崎まで迎えに行く)。この功績により喜市は譜代(三人扶持九俵)となる。
 度々旅勤いたし、深素工夫致し候、殊に多人数を使ひ、心配致し、御成就ニ相成、御満足被思召、右により此度御譜代被仰付、苗字御免、切扶持参人分九俵被下置目録被下、夢之如く有難御受申上……
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 大辞林 第三版の解説
 めぬき【目貫】
 〔「目」はあなの意〕
 太刀・刀の身が柄つかから抜けないように柄と茎なかごの穴にさし止める釘。目釘。また、それをおおう金具。次第に刀装の中心となり、精緻美麗なものとなった。 → 太刀
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 株式会社ゴトーマン(骨董品・美術品買取専門店)
 目貫とはなんですか?
 目貫についてご説明します。
 目貫(めぬき)とは
 目貫は、日本刀の装飾の一つで、刀身が柄(刀の握る部分)から抜け落ちないよう、柄にあいた穴と刀身にあいた穴を貫き通す釘のことです。
 「目」とは、古い言葉で「穴」を意味しており、「目を貫く」ということから「目貫」と呼ばれ、釘であることから目釘とも呼ばれることもあります。
 元々、目貫は一般的な釘のように、棒状の部分と傘の部分が一つになっており、傘の部分が装飾的になっていました。
 しかし、時代が経つにつれて釘と装飾が分離され、目貫は釘ではなく、純粋な装飾品として使われるようになり、現在では骨董芸術品として親しまれています。
 目貫の表と裏
 日本刀は、刀を抜いて構えたときに右手の親指側を「表」、右手の手の甲側を「裏」と呼びますが、目貫は柄の表側と裏側に一枚ずつ飾るために二枚一組になっています。
表と裏が左右対称のデザインになっている目貫のほか、裏表が区別されていない目貫、表が犬で裏が猫など、全く違うデザインとなっている目貫があります。
 目貫のデザイン
 実用品から装飾品へと移り変わっていった目貫は、所有者の家柄を表す「家紋」はもちろん、桜、鬼灯、山葵などの「植物」、蜂、蜘蛛、蝉などの「昆虫」、馬、犬、猫などの「動物」、鶴と亀、牛と天女、恵比寿と大黒などの「ストーリー性のあるモチーフ」や「縁起の良い組み合わせモチーフ」、農作業をする百姓、雪遊びをする子ども、俵を運ぶ車などの「生活図」まで、多種多様なデザインに溢れています。
 日本刀の柄につける装飾品であるため、大きさは3cm×1.5cm程度と小さく、厚みも薄いものの、精密な彫で立体感や奥行きに富み、金の色絵で丁寧に仕上げられた、美術的価値の高い目貫も多数存在します。
 目貫の材料
 目貫は、銅と金の合金である「赤銅」のほか、四分の一の銀を含んだ銅合金の「四分一(しぶいち)」、銅と亜鉛の合金である「真鍮」、山から出た粗銅を精錬せずに使った「山銅」、粗銅を精錬した「素銅」、「鉄」、「金」、「銀」といった金属だけではなく、「象牙」「角」「黒檀」など、さまざまな材料で作られています。
 材料によって異なる質感や色合いも、目貫の魅力の一つです。
 まとめ
 小さいながらも高い技術で作られ、奥深い魅力を持つ目貫は、まさに日本らしい美術品の一つです。
 収集して楽しむだけではなく、帯どめやカフスボタン、ブローチにリメイクして楽しむ人も多く、安定した人気があります。
 売却を検討している目貫がありましたら、ぜひご相談ください。
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 ウィキペディア
 田中久重(寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)11月7日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。

 生涯
 田中製作所の設立まで
 寛政11年9月18日(1799年10月16日)、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名は儀右衛門。
 幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている[1][2]。
 天保5年(1834年)には上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えた。同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8年(1837年)に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案した。その後京都へ移り、弘化4年(1847年)に天文学を学ぶために土御門家に入門。嘉永2年(1849年)には、優れた職人に与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号を得た。翌嘉永3年(1850年)には、天動説を具現化した須弥山儀(しゅみせんぎ)を完成させた。この頃に蘭学者の廣荑元恭が営む「時習堂」(じしゅうどう)に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなどの、様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させた。
 その後、再び西下して佐賀に移住した久重は、嘉永6年(1853年)、佐野常民の薦めで蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める肥前国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する。また、軍事面では反射炉の設計(改築)と大砲製造に大きく貢献した。文久元年(1861年)には佐賀藩三重津海軍所で、藩の蒸気船「電流丸」の蒸気罐製造の担当となり、文久2年(1862年)には幕府蒸気船の千代田形蒸気罐の修繕を行う。文久3年(1863年)には実用的に運用された国産初の蒸気船である「凌風丸」(御召浅行小蒸気船)建造の中心的メンバーとなっている。これらの文献記録を裏付けるように、三重津海軍所では鉄板圧着に使う鉄鋲(リベット)が多量に出土しており、蒸気罐組立に伴う遺物の可能性が高いと報告されている。元治元年(1864年)には佐賀から久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業等にも貢献した。

 田中製造所の設立と晩年
 明治6年(1873年)に、新政府の首都となった東京に移る。75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区南金六町9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。
 明治14年(1881年)11月7日、82歳で死去。墓所青山霊園。久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉(2代目久重)が引き継いで芝浦に移転し、株式会社芝浦製作所となる。後に東京電気株式会社と合併、東京芝浦電気株式会社となり、これが現在の東芝の基礎となった。高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残している。

 田中製作所に勤め後に独立などをした人物。
 沖牙太郎:大吉と同僚で久重の製作所にも出向していた。明工舎(現在の沖電気)創業者。
 宮田政治郎:モリタ宮田工業創業者、宮田栄助の次男で久重の製作所に勤務。
 池貝庄太郎:池貝の創業者。
 石黒慶三郎:アンリツ創業者の1人。
 田岡忠次郎、三吉正一など。

 現代における田中久重
 作品の修復・復元
 万年自鳴鐘
 「万年時計」として知られるこの時計は重要文化財に指定されている。平成16年(2004年)に東芝セイコーなどの研究者によって分析・復元され、レプリカが平成17年(2005年)の愛・地球博で展示された。この復元作業には100人の技術者が携わり最新の機材を投入したが、解析に時間がかかり、愛・地球博の開催日までに動力の発条(ぜんまいばね)に使われている分厚い真鍮板を調達できなかった事などを理由に展示されたレプリカは完璧な復元には至らなかった(開催中はステンレス製のぜんまいが代用された)。現在「万年自鳴鐘」の原品は国立科学博物館に寄託され、平成19年(2007年)には機械遺産(22号)に認定された。
 からくり人形
 1990年代に徳川家と前川家で発見された2体の「弓曳童子」は峰崎十五によって修復・復元された後、それぞれトヨタ産業技術記念館名古屋市)と久留米市教育委員会によって所蔵されている。さらに、「寿」「松」「竹」「梅」の4文字が書ける「文字書き人形」が、平成3年(1991年)にアメリカにあることがわかり、平成16年(2004年)に日本に持ち帰られ、修復が施された上で、翌年の愛・地球博で展示された。現在は東野進が所有している。
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幕末の蒸気船物語

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