🏞100)─1─ペリー来航以前に来航した異国船に対する江戸幕府の対応。マンハッタン号事件。~No.392No.393No.394 @ 

カズサビーチ

カズサビーチ

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2017年1月28日号 週刊現代「『カズサビーチ』書いたのは私です
 インタビュー 山本一力
 ペリー来航以前の『黒船』秘話。
 日本人漂流者を救った捕鯨船浦賀に入港するまでの顛末を、日米双方の視点から描き出す
 ─ペリ来航の8年前、太平洋上で日本の漂流民を助けたアメリカの捕鯨船をめぐる物語。実話に基づく歴史長篇小説です。ー
 18〜19世紀では鯨油をランプの燃料やロウソクの原料にしていて、捕鯨が盛んでした。東部には捕鯨船の基地がいくつもあって、どこも栄えていたんです。しかし、1840年代ともなると乱獲によって北大西洋のクジラは減少してしまう。それで日本近海『ジャパングラウンド』まで捕鯨にやって来ていたんです。
 ロングアイランドのサグハーバーを母港にする大型帆船マンハッタン号が、日本に向けて出港したのは1843年の秋。クーパー船長以下、30名ほどの船員が乗り組んでいた。彼らがジャパン・グラウンドにようよう到着、『いざ捕鯨を始めよう』というその時、伊豆諸島の鳥島で遭難者を見つけるんですね。
 ─鳥島といえば、代表作のひとつ『ジョン・マン』の主人公であるジョン万次郎も流されていた島ですね。─
 そうです。鳥島は、海流の関係で漂着しやすいんです。ジョン万次郎が助けられたのは、本書で描かれる物語の4年前のことでした。今回のマンハッタン号が鳥島で救助したのは、阿波徳島の幸宝丸の11名です。
 もうこの時点で、クーパー船長の行動と決断はすごい、と私は思う。船は居住空間、貯蔵の食料、水も限られていて、乗船人数も決まっています。そこに、一気に11名を増やしたんですから。それに当時の日本は、江戸後期で鎖国をしています。補給をするには琉球まで行かないといけません。人道的な見地での救助であっても、日本沿岸に接近すれば砲撃される危険があります。
 救助者を日本に送り届けるために北上していた船は、翌日、今度は難破船を見つけてしまいます。これは洋上ですから待ったなし、無条件で助けることになってしまった。そこで11名を助けて、救助者は合わせて22名となりました。こうなると、食料も水も尽きるのは時間の問題。何が何でも日本に立ち寄らなくてはなりません。クーパー船長は。房総沖まで船を進めて守谷村納戸浦あたりに停船、『カズサビーチ』と航海日誌に記します。
 ─そこで船長は、2名の先遣隊を上陸させ、様子を見て第二弾の先遣隊も用意、こちらは千倉に上陸させるんですね。─
 クーパー船長の作戦、物事に対峙する態度、状況判断の的確さは、まったく見事なものでした。この時代は帆船で大航海をしていた時代ですから、当時の欧米の船乗りはスケールが大きいんです。乗組員の命を託され、天測をして自分の位置を定めながら大海原に乗り出し、どこへでも行く勇気さがあります。また、一度の航海で2,000樽もの鯨油を作らないとならなかったんですよ。これは毎日のようにクジラを仕留めないと達成できない量。経済的な責任も負いつつ大きな決断ができる真のリーダー、それがクーパー船長でした。
 ─房総半島先端で奉行所の監視船に囲まれているうち、嵐が来ます。マンハッタン号は北へ、仙台あたりまで流されます─
 それでもまた南下、船は小笠原諸島に向かっていきます。と、夜に八丈島の火山の噴火を目撃、クーパー船長は『エドを目指して直進』を決意します。再び『カズサビーチ』の風景を目にすることになります。
 そこには故郷のアメリカとはまったく違う景色、緑の山々が海に向かって迫り、田畑が見事に開墾され、人々が勤勉に働いている日本の農漁村の風景があります。これは、母港のサグハーバーあたり、アメリカ特有の赤土の荒れ地が広がる風景とはまったく対照的に見えたことでしょう。おそらく世界を回るクーパー船長の心にも、強い印象を残したと想像します。
 ─その頃、幕府では老中首座の阿部正弘が、決断を迫られていました。─
 阿部は、将軍家斉が没して後ろ盾をなくした水野忠邦を失脚させ、首座になったとこおでした。しかも、ごりごりの攘夷論者の徳川斉昭の助力を得て、忠邦を辞任に追い込んだほどですから、マンハッタン号への対応には苦慮します。阿部は、あくまで一時的な処置であるとして斉昭を抑え、江戸湾浦賀へのマンハッタン号入港を許可しました。
 その決断を受けて浦賀奉行は、浦賀へマンハッタン号を誘導、漂流者を受け取り、食料・水・燃料を無償で提供します。船大工を差し向けて、痛んだ船を補修まで手伝ったのだから、幕府側の対応も立派なものでした。
 ─船乗り同士、幕府方の奉行と船長、日米の人々が言葉の壁を越えて情を通わせ、行動します。─
 これは、日本の外交の夜明けと言えるでしょう。幕府は『二度と同様の沙汰を講ずることはない』として、条件を出しながらも、補給品を無償で与えて謝意を示していますが、クーパー船長や老中の阿部のようなリーダーがいたからこそ、船中も政権も一枚岩に固まれたものです。
 今の時代は『多様な価値観が大切』などと言うけれど、昔の人は命を賭した決断を繰り返し、号令一下で大きなことを成し遂げていました。私が江戸期の日本人やアメリカ人を敬愛するのは、こういうところなんです。
 歴史小説は、先達が何を目指していたのか、何をやって何を残してくれたのかを物語とともに読み取っていくものだと思います。この本からも、日米の人々が切り拓いてきた歴史の一端を読んでもらえれば有り難いです。
 (文・取材/窪木淳子)」
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 1808年 フェートン号事件
 1809年 幕府は、フェートン号事件を契機に英語研究の必要性を痛感し、2月にオランダ大通詞見習の本木庄左衛門以下6名に、8月には小通詞中山得十郎以下6名に、そして10月にはすべての通詞達に英語の学習を命じた。
 オランダ商館の次席が、教師として通詞達にイギリスの英語を教えた。
 英語を習得した通詞達は、日本に来航したアメリ捕鯨船の交渉に当たったが、訛りの強い船乗りアメリカの英語には役に立たなかった。
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 ウィキペディア 
 黒船来航
 米墨戦争の影響
 アメリカはすでに1846年にイギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年 - 1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得した。これによりアメリカは太平洋国家となり、将来的な太平洋航路の開拓が必然となった。その理論的航路として、西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島沿いに南下、津軽海峡経由で日本海に出て上海に到着する、大圏コースがあった。
 このため、津軽海峡に面した箱館に補給拠点をおくことが望まれた。さらに、米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は予算獲得のためにも東インド艦隊を増強する必要が生じた。
 ペリー来航以前
 アメリカ関係のみ記述してもこれだけの前史がある。
 1791年(寛政3年)-  冒険商人ジョン・ケンドリックが2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初のアメリカ人。
 1797年(寛政9年)- オランダがフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。
 1830年(天保元年)- 小笠原諸島の父島にナサニエル・セイヴァリーが上陸。
 1835年(天保6年)- 大統領アンドリュー・ジャクソンは、エドマンド・ロバーツ(Edmund Roberts)を特命使節とし、清、日本との交渉のためにアジアに派遣したが、ロバーツは中国で死亡した。ロバーツをアジア送り届けるため、東インド艦隊が編成された。
 1837年(天保8年)- アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で音吉など漂流民を日本に送り届けるため浦賀渡航。1808年の長崎でのイギリス軍艦の起こしたフェートン号事件以降の異国船打払令に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した(モリソン号事件)。
 1845年(弘化2年)- 捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、船長マーケイター・クーパーは浦賀への入港を許可され浦賀奉行と対面した。
 1846年(弘化3年)閏5月- アメリ東インド隊司令官ジェームズ・ビドルがコロンバス号、ビンセンス号の2隻の軍艦を率いて浦賀渡航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港であった。
 1846年(弘化3年)- アメリ捕鯨船ローレンス号の乗員、択捉島に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。
 1848年(嘉永元年)- アメリ捕鯨船ラゴダ号の乗員、西蝦夷地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みるなどしたため、入牢させられる。これがアメリカには、「アメリカ人が虐待されている」と伝わる。
 1848年(嘉永元年)- ラナルド・マクドナルド、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国
 1849年(嘉永2年)- 東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に渡航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。
 オーリックに対する日本開国指令と解任
 このような状況の中、1851年5月29日(嘉永4年4月30日)大統領フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶことを目指し、東インド隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使としてその任務を与え、1851年6月8日に蒸気フリゲート「サスケハナ」は東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発した。しかし、オーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任され、1852年2月、代将マシュー・カルブレース・ペリーにその任が与えられた。
 嘉永6年の来航
 ペリーは、海軍長官ケネディから1852年11月13日(嘉永5年10月3日)付けで訓令を受けている。その主な内容は、対日使命遂行のため広範な自由裁量権の行使、日本沿岸及び隣接大陸や諸島の探検もし、行く先々の諸国や諸地方の社会・政治・商業状況、特に商業の新しい対象について、できうる限りの情報を収集することなどである。
 ペリーの計画
ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた。
 オランダによる来航の予告
 老中首座、阿部正弘
 1852年7月21日(嘉永5年6月5日)、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウス長崎奉行に「別段風説書」(幕末出島未公開文書として保存される)を提出した。そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されており、中国周辺に有るアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。
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 西野神社 社務日誌
 139年前の今日(明治2年5月16日)、箱館政権(蝦夷共和国)に於いて「箱館奉行並」として閣僚の任にあった中島三郎助とその息子二人が、壮絶な戦死を遂げました。現在、函館市にある中島町という地名は、この地で戦死した中島三郎助親子に因んで名付けられたものです。
 ◆マンハッタン号とコロンバス号の来航
 弘化2年(1854年)、日本人漂流者を乗せたアメリカの船が、また江戸湾に入ってきました。捕鯨船マンハッタン号で、この時は浦賀奉行の土岐丹波守が与力や通詞と共に直接同船に乗り込んで船長のクーパーと交渉し、奉行所が漂流者を引き取りマンハッタン号に薪水を給与する事でクーパーを納得させ、すぐに同船を退去させました。
 幕府はマンハッタン号来航の後、次々と浦賀に来航してくる異国船に益々危機感を募らせ、海防のため新しく台場を築造する事を決めました。それを受けて、この時の浦賀奉行大久保因幡守は、三郎助と合原操蔵に、この台場に供える大砲の製作を命じました。大砲の製作を命じられる事からも、この頃三郎助は、砲手としてだけではなく、奉行所の技術担当官吏としても確固たる地位と評価を得ていたのでしょう。三郎助と操蔵は、二ヶ月程でこの大砲を完成させました。
 弘化3年、また異国船が浦賀沖に現れました。今度は商船ではなく軍艦でした。日本に開国を促せというアメリカ本国からの指示を受けて来航した、アメリ東インド艦隊のコロンバス号とビンセント号で、コロンバス号は全長75m、砲83門を積む乗員800人の巨大軍艦で、その大きさは先に来航したモリソン号の比ではなく、一方のビンセント号は、大きさはコロンバス号の半分程でしたが、それでも砲24門を積む強力な軍艦でした。
浦賀に投錨したこの2隻の軍艦に対し、浦賀奉行所は漁民や問屋の小舟を全て繰り出して軍艦を取り巻いて身動きができないようにし、三郎助は番船に乗り込んで不測の事態が起きないよう警備に当たりました。艦隊司令官ビッドルとの交渉は三郎助の父・清司が務め、交渉の結果、コロンバス号とビンセント号はそれ以上浦賀に留まる事を諦めて、退去していきました。しかし、次にアメリカの船がやってくる時はこのような平和的な開国要求では済むまいと誰もが感じており、幕府は益々危機感を募らせました。
 ◆マリナー号の来航
嘉永2年(1849年)、三郎助の父・清司が与力を退役し、三郎助は29歳でその後を継ぎました。与力となった三郎助は、幕府が大型船の建造を許可しない以上、海防のためには奉行所所属の和船を改造して大砲を搭載するしかないと考え、当時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄に、警備船下田丸を洋式に改造する事を建議しました。
 同年、今度はイギリスのマリナー号が浦賀に来航し、奉行に面会を求めてきました。奉行の氏栄は、三郎助の提案を採り入れて船の建造を行う事を決めていたため、交渉のためマリナー号に乗り込む時、三郎助や浦賀の船大工達も同行させ、三郎助や船大工達は、マリナー号のマンセン艦長の許可を得て艦内を見学し、その構造を細かく見分しました。
そして、マリナー号退去の後、浦賀奉行所がマリナー号を参考にして建造した船が「蒼隼丸」(そうじゅんまる)です。三郎助が直前に下田丸の改造を提案している事や、この後、三郎助が洋式帆船鳳凰丸の事実上の建造責任者となっている事から、この蒼隼丸の建造についても、三郎助がその責任者であったと推定されています。」
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 江戸幕府は、北方領土で起きたロシア海軍の日本人・アイヌ人惨殺及び略奪の海賊行為事件から北方領土及び蝦夷地(北海道)防衛の為に奥州諸藩に派兵と駐屯を命令じた事や、水戸藩領内大津浜その他で起きていた沿岸漁民と異国捕鯨船船員との接触琉球に入港し始めた欧米列強の捕鯨船などで、近海に接近する異国船に対し警戒心を強めていた。
 その為、オランダから外国情報を収集した。
 日本の近代化は、ロシアや欧米列強の侵略から日本を軍事力で守るという自衛力強化が目的であった。
 日本の軍国主義は、祖国防衛の為の軍事力強化から始まっている。
 アメリカやイギリスなどの欧米列強は大海原の向こうの遠い国で軍隊を派遣できないが、隣国のロシアは軍隊を派遣できる近い国であっただけに、ロシア軍の侵略を恐れた。
 日本とロシアとの国境紛争地は、北方領土であった。
 縄文時代から北方領土・千島列島・樺太縄文人倭人アイヌ人が住む日本固有領土であった為に、徳川幕府は父祖の地を軍事力を用いても死守しようとした。
 江戸時代の日本人は限られた情報の中で世界情勢を理解しどう行動して日本を守るか考えていたが、危機感はまだ薄く即実行と言う所までには到ってはいなかった。
 十分すぎるほどの情報を収集しながら分析研究、思考決断、実働行動できない現代に日本人に比べて、優れているとはいわなまでも劣っているとは決めつけられない。
 その証拠が、今なを解決できない北方領土四島返還交渉である。
 いずれにせよ、ロシアの侵略から祖国を防衛するという積極的軍国主義政策は平和に対する戦争犯罪として完全否定されている。
 積極的軍国主義政策とは、ロシアの日本侵略に協力する周辺諸国を攻撃し粉砕し防衛陣地を祖国から遠い地、ロシア軍が日本侵略の前進基地に利用する恐れがある反日派諸国内に築く事である。
 それが、日本の冒険的海外侵出であった。
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 何時の時代でも。
 日本が海の外からの脅威で滅亡の瀬戸際に追い詰められるや、優れた人物が国内から立ち現れて日本民族日本人を「天皇の威徳」の下で一つに纏め、日本独自の底力で他国に頼る事なく一丸となって国難に立ち向かって日本を消滅から救った。
 その証拠が、2000年前の古代から変わりなく続いている天皇制度を御柱とした国柄・国の姿である。
 が、現代日本では、国の御柱のような天皇制度が揺らぎ崩壊しようとしている。
 あたかも、鎌倉・鶴岡八幡宮の倒壊した樹齢約1000年の御神木・イチョウの木のように。
 その元凶は、反天皇反日的日本人である左翼・左派・ネットサヨク的教師・学者・知識人が行っている「天皇否定、皇室軽視、皇族蔑視」の現代教育による。
 現代教育を受けた高学歴の頭脳優秀なエリート達が、官僚や政治家となって日本国家を動かしている。
 現代日本は、官僚統制のマルクス主義体制国家である。
 現代(平成・昭和)の官僚と明治・大正・江戸の役人とは違う。
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 日本の脅威は、西(中華、中国と朝鮮)と北(ロシア・ソ連)であった。



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黒船 (中公文庫)

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黒船前夜 ~ロシア・アイヌ・日本の三国志

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