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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2022年1月号 WiLL「危機の天皇が示す力
百田尚樹 有本香
国家存亡の機に天皇と国民の紐帯という日本精神の神髄をみる
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明治の父
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百田 小栗はアメリカから帰国後、ロシア軍艦による対馬占領を受けて、イギリス海軍と手を結ぶことを幕府に提言しました。結局、受け入れられずに外国奉行を辞退しますが、のちに日英同盟につながる発想です。先見の明がありますね。
有本 彼の死後、日本は近代の道を邁進しますが、すべて小栗が頭の中で描いた設計図通りに進んだといっても過言ではない。小栗の存在なくして、果たして日本は独立を守れたかどうか。
百田 『日本国紀』は水野忠徳にも注目しています。
有本 幕末、小笠原諸島を日本の領土だと世界に認めさせた人物です。
百田 幕府は江戸から1,000キロ離れた小笠原諸島の存在を知っていたものの、遠洋航行できる船を持っていなかったため、実効支配できずにいました。そうこうしているうちに、アメリカやイギリスからやってきた人々が小笠原に住みついてしまった。そんななか、水野は現地を訪問。巧みな外交術を発揮して、入植者の欧米人たちに小笠原が日本領であることを認めさせたんです。
有本 日本は現在、世界6位の排他的経済水域(EEZ)を有しています。ところが、もし小笠原が日本の領土でなければ10位以下。当時はEEZという概念はなかったけれど、いずれ日本にとって大きな利益になると思ったからこその行動です。先見性と崇高な愛国心、そして思いを形にする実行力──現代の日本人は学ばなければなりません。とくに永田町の政治家には、小栗や水野の爪の垢(あか)を煎じて飲ませたい。
原点に立ち返る
百田 歴史の偉人と比較すると、つくづく今の政治家は情けない。……」
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JPF笹川平和財団
海洋政策研究所
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Home情報ライブラリ幕府が「咸臨丸」を小笠原に派遣、探検調査や測量を行う 島民に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ同意を得る
1862(文久元)年
幕府が「咸臨丸」を小笠原に派遣、探検調査や測量を行う 島民に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ同意を得る
2020年05月18日
幕府は、外国奉行水野忠徳を団長とする派遣団を形成し、小笠原に派遣した。一行は、島民の名前や年齢、妻子の有無などを調査した(Ref.1)。また、父島、母島両島を測量して地図や真景図を作成した。真景図には、1675年の島谷の探検(記事No. 1-3)によって付けられた島名や地名、山名などが記載され、住居や畑の位置、島民の暮らしの様子も描かれた(Ref.2, 3)。
水野は島民に対し、本島は日本の属島であり、巡視の目的は開拓のためであることを伝え、島からの退去を求めるのではなく日本からの移民と和合し共に暮らしていくことを呼びかけ、小笠原嶋取締規則、小笠原嶋港規則について説明した。島民らはそれらに従うことを了承した。(Ref. 1, 4)。
水野の報告書を受けた幕府は、小笠原の開拓と入植を決め、八丈島で入植者を募集した。入植者は原則として夫婦とする幕府の方針により、男女各15名、計30人の移住が決定し、文久二年8月に大工や鍛冶屋ら8人とともに父島に到着した(Ref. 5)。
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ウィキペディア
水野 忠徳(みずの ただのり、文化7年(1810年)[1] - 慶応4年7月9日(1868年8月26日))は、江戸時代末期(幕末)の旗本、幕臣。諏訪庄右衛門頼篤の子。文政5年(1822年)に水野忠長の養嗣子となる。忠敬の父。初名は忠篤。号は癡雲(ちうん)。筑後守・下総守。
文久元年5月12日(1861年6月19日)に外国奉行に再任。幕府は欧州諸国に対し文久遣欧使節を派遣することになり、外国奉行の忠徳は当然候補となったが、ロシア士官殺害事件に対する忠徳の態度が英国公使ラザフォード・オールコックから嫌われており、使節に加わることはできなかった。しかし同年12月、幕府の命により小笠原島開拓御用小花作助らを引き連れて小笠原諸島に赴き、諸島を検分し、父島のナサニエル・セイヴァリーら欧米系島民に対して同地が日本領であることを確認させた。
文久2年(1862年)7月に公武合体に反対して箱館奉行に左遷され、9月に辞任。しかし文久3年(1863年)6月、老中・小笠原長行が京都で人質同然となっていた14代将軍徳川家茂奪還のため、幕府陸軍1,500人を率いて大坂に向かった際は南町奉行・井上清直らと共に同行している。忠徳は承久の乱を再現させ、攘夷派を軍事力をもって粉砕することを主張したが、長行は受け入れ無かった。結局、朝廷は家茂が大坂へ下ることを許したものの、攘夷派撃滅による一挙の問題解決はならなかった。結局、忠徳はこの事件により同月謹慎を命ぜられている。
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現代の日本人は、時代劇や時代小説が好きだが歴史が嫌いな為に、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、地政学や戦争学・平和学さえも理解できない。
それは、学校の歴史教育を見れば明らかである。
高学歴の知的インテリや進歩的インテリは、学校教育で高得点をとるほどの秀才揃いであった。
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日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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日本の開国・幕末・明治維新・戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事力による軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義・民族主義ではなく、正しい国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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清国の阿片戦争は、1841~42年であった。
アメリカのペリー黒船艦隊の浦賀来航は1853年である。
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明治から昭和初期までに起こした戦争は、領土拡大の侵略戦争ではなく、現人神天皇、神国日本、神仏の子孫である日本民族を、外敵である夷狄(ロシア・中国・朝鮮)の軍事力と邪教(キリスト教)の信仰力から守る為の積極的自衛戦争であった。
が、現代日本はおろか、中国、韓国・朝鮮、ロシアを含む全ての国々、国際世論は、日本を血に飢えた邪悪・凶悪・残忍な戦争犯罪者と認定・断定している。
それが、東京裁判史観=自虐史観=日本人凶悪・残虐・極悪・非道の重犯罪人史観である。
日本民族が最も恐れたのは、石器時代・縄文時代から数万年かけて先祖が護ってきた日本らしさ・日本の国柄・日本の有り様を根底から消滅させる意図を見せていた信仰宗教のキリスト教とマルクス主義・共産主義のイデオロギーであった。
が、現代日本の歴史教育に深刻な影響をもたらしているのが、そのキリスト教とマルクス主義・共産主義である。
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現代の日本人は歴史が嫌いで、昔の日本人とは違って民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、現実に起きていた歴史的事実を認めない。
高学歴のマルクス主義者の中に、残忍な殺人者であるレーニンを信奉する日本人が多数存在する。
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レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党・日本共産党にディレクションした。
スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
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日本人共産主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に人道貢献と平和貢献をおこなった昭和天皇を惨殺するべく付け狙っていた。
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軍国日本は、戦場で人を殺す戦争犯罪をおこなったが、同時に、戦場で自己犠牲で人を助けるという人道貢献や平和貢献をおこなっていた。
東京裁判は、国際法の正義で、戦争犯罪者と同時に人道貢献や平和貢献をおこなったA級戦犯の陸軍軍人・政治家・官僚を見せしめ的縛り首で殺し、遺灰は遺族に引き渡さずゴミのように尊厳を否定して海に捨てた。
それが、靖国神社問題である。
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日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
人口増加は、慢性的な乳幼児死亡率が高い中で起きていた。
江戸時代の人口増加を支えていたのは、伝承としての継続的変革と一新する破壊的イノベーションであった。
江戸時代は人口が微増し、人生は50年といわれたが、年齢的人口構成は若者が多く老人が少なかった。
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天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者は、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他。
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