🏞100)─3─ペリー艦隊の石垣島砲撃事件。アメリカ、イギリス、ロシア帝国、スペインは、日本近海の島嶼領有をめぐって対立した。1853年~No.397No.398No.399 @ ㊲

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ラドヤード・キプリング「(日本は)何れはアメリカの植民地にされ、その細やかな技術を生かしたボタンなどを作る事になる」
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 ミラード・フィルモア大統領は、共和党タカ派であったが、ペリーに対して「日本との通商和親交渉はできる限り穏便に進めるように」と厳命した。
 ペリーもタカ派として、「交渉のでの日本の出方次第では琉球を占領する」との意見具申を行った。
 フィルモアは、琉球王国は日本の領土でも清国の領土でもなく独立国であると認め、軍事占領案を承認した。
 民主党ハト派フランクリン・ピアースが、第14代大統領に就任するや、琉球占領案を取り下げた。
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 サムライは、世界情勢に敏感で、外交能力も優れたタフ・ネゴシエーターであり、武器を持って戦争する事を本職としていた。
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 吉田松陰は、神国日本を外敵から守る為には、日本を戦っても負けないような国に作り替えねばならないという「いたたまれない決意」に突き動かされ、狂気的な行動に走った。 明治維新は、無能無策で何ら防備しないと外敵に侵略され、祖国日本は外国軍に軍事占領され滅亡するという被害妄想から始まった。
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 1853(嘉永6)年2月2日 小田原地震
 3月 ロシア帝国は、オスマン・トルコ帝国領であった黒海クリミア半島を領土にするべく大軍を送り、オスマン・トルコ帝国、イギリス、フランスの連合軍と対峙していた。
 ロシア軍は、領土拡大の為に、西が片付いた後に東に大軍を送る戦略を立てていた。
 ロシア皇帝ニコライ1世は、アジアへの領土拡大を一時中断するべく、日本への軍事侵攻ではなくとは平和的な経済交流を優先した。
 3月11日 ロシア皇帝ニコライ1世は、日本に派遣するプチャーチン提督に対して、「クリル諸島の内ロシアに帰属する最南端はウルップ島」「我が国から言えばその最南端が日本との国境」と言う訓令書に署名した。
 北方領土は、日本の領土である事を認めた。
 「通商上の利益というもう一つの目的の達成こそが、我々にとり真の重要性を持つ」 
 4月 石垣島砲撃事件。アメリカの奴隷船ロバート・バウン号で、アメリカまでの遠洋航海に絶えられるかどうか、騙して連れてきた中国人苦力約400人の健康検査を行い、病弱な2名を生きたまま海に捨てた。
 中国人苦力は、アメリカ人船員が働けない2人の中国人苦力を海に捨ててサメに食わせた事を見て反乱を起こし、激怒して船長ら5名を殺害した。
 中国人苦力達は、中国に帰ろうとしたが、船を奪っても船を操艦できず石垣島沖で座礁して、石垣島に逃げ込んだ。
 中国人苦力300名は、石垣島に上陸して逃げ込んだ。
 ペリー艦隊は、事件をするや、戦艦サラトガ石垣島に急派した。
 サラトガは、石垣島アメリカ領であるとして砲撃した。
 アメリカ軍海兵隊は、上陸し、逃亡した苦力100名を捕らえて島民の前で見せしめとして処刑した。
 アメリカの自由と平等は白人の特権であり、非白人には認めていなかった。人種差別を正義とするアメリカ人は、日本人にも、琉球人にも、人権を認める気はなかった。
 琉球王朝は、生き残った中国人苦力を宗主国の清国に送り、事件の顛末を薩摩藩を通じて江戸幕府に急報した。
 アメリカへの黒人奴隷貿易に於いて、奴隷船は病人や高値がつきそうもない黒人は海に捨てていた。
 白人キリスト教徒にとって、黒人や有色人種は人間ではなく売り買いできる家畜であった。
 ただし。一度、高値で売買された奴隷は商品活がある為に大事にした。
 奴隷所有者が、奴隷を大事にしたのは人道の為ではなく、転売するときの為に大事にしたに過ぎない。
 5月26日 ペリーの黒船艦隊は、薩摩藩影響下にある琉球王国に来航して、那覇沖に停泊した。
 琉球王国は、ペリーの首里城への訪問を拒否した。
 ペリーは、琉球アメリカの支配下に置く為に、上陸拒否を無視し、武装した兵員を率いて強襲上陸して首里城を軍事占領した。
 琉球政府は、やむなく武装した兵の入城を拒否した。
 ペリーは、武装解除した士官数名とともに王宮に入城した。
 琉球王国は、ペリー一行を清国の冊封使よりも下位の作法で持て成した。
 ペリーは、日本や中国への中継地として利用する為に、武力占領せず、友好的に振る舞った。
 沖縄島や西表島を調査するべく軍艦を派遣した。
 アメリカの捕鯨船は、メルヴィルの『白鯨』よろしく、鯨を捕っては油を獲っては胴体を海に捨てていた。その手法は乱獲と言っていいもので、鯨とみるや無計画に獲っては殺していた。
 アメリカは、アジア・中国進出の拠点とする為に琉球・沖縄の領有を目論んでいた。
 キリスト教国・欧米列強による帝国主義は、地元民の自由意思を認めていなかった。
 この時代は、自国を守る為に絶望的な戦いを起こし、多くの犠牲者を出して抵抗しなければ、欧米列強の植民地となり奴隷となるしかるしか道がなかった。
 もし、日本が琉球・沖縄を自国領とせず地元民の意志に従って支配を放棄すれば、琉球王国ハワイ王国同様にアメリカの一部になったか、あるいはチベットウイグルのように中国の領土になった。
 それは、世界史や植民地史を見れば明らかな事である。
 サムライ日本人は、アメリカの外圧に屈する事なく、外交交渉で小笠原諸島を日本領として守りきった。
 6月 ペリーは、アフリカ回りの航路で香港に立ち寄り、日本を開国させる為に国書を持って日本に来航した。
 ペリー「(日本を)国際社会の一員にし、我々の宗教(キリスト教)の恩恵の下に置く事業は、始まったばかりである」
 ペリーは、鎖国を続ける非キリスト教国日本を砲艦外交で脅すべく、12隻の蒸気軍艦と数千人の陸戦隊を予定していたが、都合出来たのは2隻の蒸気船と2隻の帆船のみであった。
 アメリカは、自由と民主主義の理想から、世界にキリスト教を伝え、全ての非キリスト教徒を隣人愛信仰で改宗させる事を「神聖な使命」と確信していた。、
 アメリカ艦隊は、小笠原諸島に移住しているアメリカ開拓民に穀物の種子や家畜を渡して、実効支配を固定化させようとした。
 イギリスは、1827年にビーチェー大佐が小笠原諸島を占領し、同諸島はイギリス領であると抗議した。
 ジョン・フェアバンク「アメリカ人は、自分の事はさておき、自らを道徳的高みに置いて他を見下したがる」
 当時のサムライ日本が、現代日本のように国際情勢に暗く外交音痴で自己判断も自己決定も出来なければ、祖先から守って来た日本の国土はタイ王国同様に蚕食された。
 阿部正弘は、外敵による国難に際してその打開策を、上は朝廷や諸大名から下は百姓町民まで広く意見を募った。
 優れた意見書を提出した勝海舟(祖父は金貸しの町人)らを、採用して重責を与えた。
 日本の歴史初めての珍事であり、結果的に幕府の権威を弱める事になった。
 6月3日 アメリカ合衆国東インド隊司令長官ペリー提督は、軍艦4隻(蒸気戦艦2隻、帆船2隻船)からなる黒船艦隊を率いて浦賀沖に来航した。
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 ペリー「中国人にしたのと同様に、日本にも武力で脅しをかけた方が、友好的な話し合いで臨むより効果があるし、国益にもつながる」
 6月4日(6月9日説) ペリーは、応対に来た浦賀の役人に「白旗」と恫喝する手紙を渡した。
 6月6日 ペリーは、国書受取を迫る為に、測量ボートと蒸気軍艦・ミシシッピー号を江戸湾内に侵入させた。
 これに驚いた幕閣は、夜中に急遽登城して協議して、アメリカ国書の受取を決めた。
 庶民は、ペリー艦隊来航で見た事のない蒸気機関で黒煙を噴き上げる大型の黒船に度胆を抜かれて恐怖と不安に駆られたが、今すぐ攻めてこないと分かるや怖さ見たさの好奇心から見物人が殺到した。
 6月9日 2隻の黒船は、日本の国法を無視し、江戸が大砲の射程距離に入る品川沖まで侵入した。
 江戸の町人は、アヘン戦争を知っていただけに、今にも戦争が始まるとして恐怖に脅えて逃げ惑った。
 ペリーは、大統領の国書を手渡す為に、武力で脅迫した。
 幕府は、やむなく、久里浜で国書を受理した。
 大統領の国書は、1,漂流民と難破船の救助・保護、2,避難港と石炭補給所の確保、3,通商を求めていた。
 ペリーは、来年4月から5月に返答を貰う為に来航するとして立ち去った。
 6月14日 ペリーは、小笠原諸島アメリカ領に編入するべく、黒船艦隊の一部を那覇に碇泊させ、残りを率いて小笠原諸島探検に向かった。
 6月18日 小笠原諸島を探検したペリーは、アメリカ領であると宣言した。
 イギリスは、小笠原諸島を自国領にするべく、即座に抗議した。
 ロシア帝国も、太平洋に自国領を獲得する為に、抗議する為に軍船を小笠原近海へと南下させた。
 小笠原諸島の領有問題は、アメリカ、イギリス、ロシア帝国、スペインなどのが領有を目論んだ為にうやむやになった。
 日本近海の島嶼は、軍事力を背景として圧力を掛けて来る欧米列強によって奪われる恐れがあった。
 海軍力を持たない無力な日本には、強大な軍隊を持つ欧米列強の横暴を止める事が出来なかった。
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 帝国主義時代に於いて、侵略者を撃退できる強力な軍事力を持たない国家は消滅し、植民地となり、奴隷化された。
 日本の軍国主義国家への道は、避けられない運命であった。
 だが。現代日本はもちろん国際社会でも、日本の軍国主義化は犯罪行為として否定されている。
 東京裁判で、A級戦犯東條英機や多くの軍国主義者は、軍国主義への道という事実を訴えた為に有罪判決を受けた。
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 6月15日 幕府は、朝廷にペリー黒船艦隊の来日の件を上奏した。
 6月18日 老中首座阿部正弘は、若年寄・本多越中守に武蔵・相模・安房・上総海岸の巡視を命じ、勘定奉行川路聖謨、目付・戸川安鎮、韮山代官・江川太郎左衛門随行した。
 6月23日 ペリーは、小笠原諸島探検を終えて琉球に帰還した。
 7月 幕府は、オランダを通じてアメリカとペリー艦隊やイギリスなどの詳しい情報を仕入れ、如何に対処するか協議したがまとまらなかった。
 ロシア帝国海軍のプチャーチン提督が、日本との通商を求めて来航した。
 7月1日 老中首座阿部正弘は、「まつりごと」は幕府が取り仕切るという慣例を破り、アメリカ国書を諸大名や幕臣に示して意見を求めた。
 諸大名や幕臣はおろか町人百姓に至るまで意見がある者は、建白を提出した。
 国論は、条件付き開国と徹底した攘夷で二分された。
 幕府の威信が強く、いまだ尊皇思想は力がなかった。
 江戸庶民の黒船撃退案。「吉原の綺麗な花魁を黒船に送り込み、手練手管で骨抜きにして帰国させる」
 幕府は、外国人船員が上陸して日本人女性を襲う恐れがあると憂慮し、遊女を使って日本人女性を守ろうとした。
 遊女達は、「自分達が犠牲になる事で日本人女性が助かるのならば」と、外国人船員への「慰安行為」を引き受けた。
 7月2日 ペリーは、3隻のを率いて日本近海へ出港した。
 7月3日 老中首座阿部正弘は、隠居している前水戸藩主・徳川斉昭を海防審議に参加させるべく隔日の登城を求める。
 過激な尊王攘夷派の徳川斉昭は、ペリーが求めている開港と通商の両要求の拒否を声高に主張した。
 7月12日 京都所司代・脇坂安宅(やすおり)は、参内してアメリカの国書の訳文を朝廷に奏進した。
 外国嫌いの孝明天皇は、開国と交易には反対であった。
 7月22日 老中首座阿部正弘は、国防強化の為に軍事力が必要であるとして、江川太郎左衛門等に内海台場築造と大砲の鋳造を命じ、洋式砲術家高島秋帆を8月6日に赦免して江川太郎左衛門の配下とした。
 8月16日 浦賀奉行の戸田伊豆守と井戸石見守は、浦賀で軍艦建造を願い出た。
 日本は、独自技術で安政元年5月4日に洋式軍船鳳凰丸を竣工させた。
 非白人が独自技術で洋式軍船を建造したのは、日本が初めてであった。
 9月 幕府は、長崎奉行大沢定宅に命じて、オランダ商館長クルチウスに軍艦、鉄砲、兵書を発注する。
 日本は、欧米列強の侵略に備えてべく軍事国家へと暴走し始めた。
 9月15日 幕府は、祖法であった大船建造の禁を解いた。
 10月2日 徳川斉昭は、通商を求めて長崎に来航しているロシア使節プチャーチンの要請について反対した。
 幕府は、ロシア帝国との和親は不可であると決し、その旨をロシア使節応接掛・筒井政憲川路聖謨に伝えた。
 老中首座阿部正弘ら幕閣は、条件付きでの和親を目指したが、国内の即刻打ち払うべきとの民意に押されて決断しきれずにいた。
 12月 琉球に居たペリーは、徳川家定が新たな将軍に就任した事を知るや、黒船艦隊を率いて江戸に向かった。
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 1853年末 幕府は、大船建造禁止令を破棄して、大型帆船や蒸気船の建造を許した。
 国家には国旗が必要との声があったが、統一国家という概念がなかった為に日本を代表する旗を決める事を先送りした。
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 幕府は、ペリー艦隊が去った後、外国船から江戸を防衛する為に品川沖に洋式砲台を建設する事を決定した。
 それから2ヶ月後。幕府は、これまでのお手伝い普請の慣例を破り、諸藩に対して建設費を幕府が負担する事を条件として洋式台場建設を命じた。
 翌54年までに、御殿山下と第1,2,3,5,6の洋式砲台が完成し、諸藩に自己負担で警備を命じた。
 同時に、西洋式大型帆船の建造に取り掛かった。
 水戸藩薩摩藩も、見様見真似で西洋式帆船を作った。
 幕府と佐賀藩と献上された蒸気機関車の模型を研究し、佐賀藩は数年後には似た様な蒸気機関車を作って走らせた。
 電信機についても、幕府と松代藩などが研究し、佐久間象山が実験を行った。
 日本の技術は、西洋の技術に劣っていたわけではない。
 ペリー艦隊が、日本に再来航した際、昨年にはなかった洋式砲台が幾つも建設されている事で日本の軍事力に脅威を感じた。
 ペリーは、優秀な外交官ではなかったが優れた軍人であり、日本の底力を見抜き、他のアジア諸国のように軍事力を誇示しても日本は屈服しないと見抜いた。




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