✿351)─1─百姓一揆に屈服した幕府。庄内藩の三方領地替え、天保義民事件。〜No.750No.751No.752No.753/@ ≪46≫ ❽      

庄内藩 (シリーズ藩物語)

庄内藩 (シリーズ藩物語)

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 マルクス主義共産主義)の階級闘争理論では、幕藩体制、大名と領民の主従関係を、支配階級と搾取され虐げられる人民階級というでは説明できない。
 日本で、マルクス主義共産主義)が受け入れられず、嫌悪され、根付かないのはこの為である。
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 庄内藩または荘内藩は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。
 譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩と改称した。
 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置おいた。支藩に大山藩・松山藩がある。
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 三方領地替え
 天保11年(1840年)8代・忠器の時に藩に危機が訪れる。
 財政が好転し、また実収が20万石ともそれ以上ともいわれる庄内に目をつけたのが武蔵川越藩主・松平斉典である。当時川越松平家は度重なる転封で莫大な借財を抱え、また水害等で藩領内が荒廃し財政が逼迫していた。そこで、内実の豊かな庄内への転封を目論んだわけだが、斉典は11代将軍・家斉の第二十一子・紀五郎(のちの斉省)を養子に迎え、養子縁組のいわば引き出物として、当時、大御所となっていた家斉に庄内転封を所望した。このため、松平を川越から庄内へ、庄内の酒井を越後長岡へ、長岡藩の牧野忠雅を武蔵川越へという「三方領地替え」という計画が持ち上がった。
 これに対し、天保12年1月20日(1841年2月11日)庄内藩の領民は江戸へ出向き幕府に領地替え取り下げを直訴した。この行動は本来ならば死罪である。また従来、領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された。同年7月12日(8月28日)徳川家斉・斉省の死去も伴い幕命は撤回となった。この三方領地替えの撤回は、後に印旛沼堀割工事の際に、懲罰的な御手伝普請を庄内藩が強いられる遠因となった。
 詳細は「天保義民事件」を参照
 なお、藤沢周平の小説『義民が駆ける』は、この三方領地替えを農民の立場から描いた作品である。
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 天保義民事件(てんぽうぎみんじけん)は、天保11年(1840年)に出羽国庄内藩主酒井忠器らに出された三方領知替えに対して、庄内藩の領民が反対運動を展開した事件。
 概要
 天保11年(1840年)11月、庄内藩主酒井忠器は江戸幕府より、越後長岡藩への転封命令を受けた。庄内藩は表高14万石であるが、実高は21万石と言われ、藩主忠器らによる殖産興業や農政改革によって比較的安定した藩財政を維持していた。ところが、この転封が武蔵川越藩主松平斉典が実子を排除して大御所徳川家斉の子斉省を養子に迎えたことと引換に豊かな庄内藩を与えるために行われるものと判明したために庄内藩内は紛糾した。
 庄内藩の領民は酒井家が何の落ち度もないのに、表高7万4千石に過ぎない長岡藩に転封させられるのは道理に反するとして西郷組の本間辰之助玉龍寺の僧侶文隣らを中心に「百姓と雖も二君に仕えず」と宣言して反対運動を展開し、江戸でも公事師をしていた同藩出身の佐藤藤佐らが、反対運動を行った。
 ところが、翌天保12年(1841年)1月に家斉が、続いて5月には斉省が病死したこと、更に川越藩が斉典の生母を通じて大奥から老中水野忠邦ら幕閣に対して転封工作を行ったことが明らかになると、諸大名からも批判の声が上がるようになり、7月に将軍徳川家慶の名において、三方領知替えの中止と川越藩への2万石の加増が決定された。また、当時は門訴や駕籠訴などの直訴行為自体は処罰対象ではなかったため(直訴=死罪というのは後世の誤解である)直訴を行った者たちは口頭注意程度の処分で解放され身元保証人として領主である酒井家が彼らをひきとった。酒井家でも彼らを処罰することはなかった。
 この事件の背景には藩主を支持する領民の動きを幕府が抑えきれなかったこともあるが、後に「天保の改革」と呼ばれる老中水野忠邦の幕政改革に対する諸大名や民衆の不満の高まりとともに、水野への支持と幕府に対する反抗の広がりへの危惧の板挟みとなった将軍家慶の政治的判断があったと考えられている。実際、三方領知替え決定の責任者であった水野忠邦は、幕府の命令が事実上破棄されるという前代未聞の事態にも関わらず、老中の地位を慰留されている。
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 義民(ぎみん)とは、飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、転じて幕末の尊皇攘夷運動において同様に私財を賭して国のために奔走した町民・商人などもこう呼ばれる。
 義人とも言うが、江戸時代初期を中心に各地の郷土史には義民伝説が残っている。
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 山形新聞
 「【義民が駆ける】 史実検証し疑問解く
 「義民が駆ける」は中央公論社から出ていた「歴史と人物」という雑誌に、1975年8月号から翌年6月号まで連載された。天保期の庄内藩転封事件を主題とした歴史小説である。この雑誌はとうに廃刊になったが、なかなか格調の高い雑誌だった。直木賞受賞後2年、脂の乗りきった藤沢さんが、よい舞台を得たと腕まくりして執筆した様子がうかがえるような力作である。
 天保11(1840)年10月、大御所家斉(いえなり)の命をうけて、時の老中水野忠邦が、川越藩を庄内へ、庄内藩を長岡へ、長岡藩を川越へ転封するという3方国替えを、それぞれの藩へ命じた。川越藩は家斉の24番目の男子斉省(なりやす)を養子に迎え入れ、世子(せいし)としている。その縁故と多大な賄路(わいろ)の力で、財政破綻(はたん)から脱け出すために、豊かな庄内への移封を大御所に「おねだり」した。川越藩は15万石から14万8,000石となり、表向きの石高は変わらないが、庄内藩の実収は20万石以上あったから、大きな得になる。庄内藩酒井家は実収20万石が長岡の7万石に移されるというのだから、罪があって流されるような転封である。こんな理不尽な台命(たいめい)はないと、誰もが内心で怒り、庄内藩を憐(あわれ)んだ。
 庄内地方の領民たちがこの国替えに反対して、江戸へ嘆願に出たり、領内で一揆に似た示威運動を繰り返した事件は、地元では天保義民国替え阻止運動と呼ばれた。「義民が駆ける」という題は、そこから出ている。
 ところで、郷里でよく知られた史実を小説の題材とすることに、作家ははじめためらいを覚えたらしい。父や祖父は誇らかに義民と呼んで讃(たた)えるが、ご本人は素直にそう呼べないこだわりがあったようだ。
 私は子供のころに聞いた。そして一方的な美談として聞かされたために、いつからともなくその話に疑問もしくは反感といったものを抱くようになったのはいたしかたのないことだった。たとえば百姓たちが旗印にした、百姓たりといえども二君に仕えずは、やり過ぎだと私には思えた。
 と本のあとがきに書いている。その逡巡(しゅんじゅん)のために、「義民が駆ける」の執筆は、みずからが史実を検証して納得するための作業となった。
 作品の構成には工夫がほどこされている。ドキュメンタリー映画の手法とでもいおうか。江戸城の小座敷で、老中水野忠邦が家斉から川越と庄内の国替えを命じられる場面からはじまり、御用部屋での老中たちとの相談、庄内藩江戸屋敷の動揺、国元鶴ケ岡城の驚き、つぎつぎに場面がきりかわっていく。ひとりの主人公の視点で、事件を追っていくという手法は採らず、カメラが俯瞰(ふかん)からクローズアップになるように、登場人物の内面をちらりとのぞきこむ。この手法によって、「義民が駆ける」はスケールの大きな群像劇となった。
 ページを繰るうちに、作品の中心に、庄内の農民の群像が大きく浮かび上がってくる。そのなかに、顔ははっきり映らないが、藤沢さんのご先祖が立っているにちがいない。
 作品の後半、庄内から領民たちが大挙して愁訴のために領外に押し出して行く場面で、作者は江戸留守居役の口を借りて、
 酒井家累世の御恩に報いる、と百姓たちはなお、そう謳(うた)っている。しかし仙台藩でも推察したように、いざとなれば彼らは藩を頼らず、彼らの独力でも新領主を排除する腹を固めているのだ。そういう情報を、大山は握っている。行動がそこまで行けば、それはもはや酒井家のためとは言えない。彼ら自身のためなのだ。彼ら自身のためだからこそ、疲労に眼をくぼませ、重い足を引きずって、かくも執拗に彼らは江戸に登ってきている、と大山は思った。
 と書いている。この騒動は、領民がみずからのために主体的に起こした一揆だった、というのが、藤沢さんの得心の行きどころで、「百姓たりといえども二君に仕えず」という旗印に抱いた疑問にたいする回答だった。
 この小説を書いたとき、藤沢さんは48歳だった。わたくしごとだが、ぼくは現在ひとまわり以上上の年となり、おじさんの目で読み返してみて、気がついたことがある。
 藤沢周平という作家は、非政治的人間としての人生を選んだようだが、実は政治が好きだったのではなかろうか。それも旗を立てて天下国家を論じるたぐいの政治ではなく、ムラの人間くさい政治が……。幕臣たちの心の動き、足のひっぱりあいを描き出そうとするとき、作者はおもしろがって、彼らの政治屋根性にメスを入れているように思えるのだ。
(作家、山形市
 【義民が駆ける】1840(天保11)年、川越藩庄内藩へ、庄内藩を長岡藩へ、長岡藩を川越藩に移す三方国替えの命が出される。前の将軍徳川家斉が、わが子が養子に入った川越藩の窮乏を救うため、豊かな庄内藩を与えようとした結果だった。庄内一円の農民は、新藩主による厳しい年貢取り立てで農村が壊滅するのを防ごうと、現藩主酒井氏の善政を慕うという名目で、大挙して国替え阻止の行動に出る。
(2007年3月1日 山形新聞掲載) 」
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 戊辰戦争庄内藩
 官軍と戦った庄内藩兵士は、52%が武士で、48%が庶民(百姓や町人)であった。
 庶民は、庄内藩の命令で強制的に戦場に出た戦ったのではなく、藩を殿様を守りたいという自分の意志で武器を持って官軍と戦っていた。
 庶民にとって、藩と殿様を守るべく天皇の軍隊と戦う事が正義であった。
 庄内藩は、領民によって救われた。
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 2017年10月26日 msnニュース東洋経済オンライン「 幕末最強「庄内藩」無敗伝説を知っていますか 薩長も恐れた東北の「領民パワー」 (武田 鏡村)
 戊辰戦争といえば、薩摩・長州(薩長)など「官軍」の一方的な勝利というイメージを持たれる方が多いことだろう。会津藩(福島県)以外の奥羽越列藩同盟軍は大した抵抗を見せることなく降伏した……と。
 だが実際は、同盟軍は一方的に負けていたわけではない。前回(反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか)紹介した長岡藩(新潟県)のほかにも、庄内藩(山形県)は「官軍」を寄せつけず、薩摩兵と互角に戦って勇猛さを見せた。にもかかわらず、「薩長史観」(なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)では、故意に無視されてきたと歴史家の武田鏡村氏は語る。
 『薩長史観の正体』を上梓した武田氏に、知られざる「庄内藩」の強さについて解説していただいた。
 テロの基地となった薩摩藩邸を焼き討ち
 惨憺(さんたん)たる会津戦争の実態は多くの史書に残されているが、「薩長史観」では語られることが少なかった庄内藩の奮戦をご紹介したい。
 酒井忠篤(ただすみ)を藩主に仰ぐ庄内藩(鶴岡藩ともいう)は14万石(戊辰戦争時は17万石)の譜代大名で、外様大名が多い奥羽地方にあって会津藩とともに徳川家に忠誠を尽くす藩とされていた。
 庄内藩は、江戸市中取締役となったときから、薩摩と反目する関係にあった。
 薩摩は西郷隆盛の指令で江戸市中を騒擾(そうじょう)化して「薩摩御用盗(ごようとう)」といわれる略奪と放火を繰り返した。それを取り締まり、薩摩藩邸を焼き討ちにしたのが庄内藩である。
 薩摩は庄内藩を逆恨みして、奥羽鎮撫軍(新政府軍)を差し向けた。薩摩藩士の下参謀大山格之助が副総督の沢為量(ためかず)を伴って、いち早く新庄に進んだのは庄内を討伐するためであった。
 奥羽(東北)の戊辰戦争で初めて戦火が交わされたのが、庄内兵と薩摩兵・新庄兵が対戦した清川の戦いである。初めは薩摩兵が優勢であったが、支藩松山藩や鶴岡城から出兵して来た援軍で薩摩兵を撃退した。
 庄内兵は天童を襲って新政府軍を追い払い、副総督の沢為量は新庄を脱出して秋田に向かった。さらに庄内兵は、新庄、本荘、亀田を攻めて無敵を誇った。
 庄内兵の奮戦を支えたのが、酒田の豪商本間家である。本間家は北前船(きたまえぶね)を使った廻船で莫大な富を築き、酒田周辺の大地主になっていた。開戦当時の6代光美(こうび)は、庄内藩に5万両の武器弾薬を提供している。一説では総額十数万両を藩に献納したという。
 庄内兵は、7連発のスペンサー銃などの最新式の銃砲や大量の弾薬を手にした。近代兵備を装備し訓練された強力な軍隊だったのだ。
 また、新政府軍との戦いで庄内藩は最終的に4,500人の兵を動員しているが、そのうち2,200人が、領内の農民や町民によって組織された民兵だったという。このような高い比率は他藩では見られないもので、領民と藩との結び付きが強かったことがうかがわれる。
 国際法を知らなかった新政府軍
 新庄藩を攻め落とした庄内兵は、やはり新政府軍に与(くみ)した秋田藩にまで攻め込んでいる。
 内陸と沿岸の両方面から秋田に攻め入り、「鬼玄蕃」と恐れられた中老酒井玄蕃が率いる二番隊を中心に連戦連勝で、新政府軍を圧倒した。
 秋田藩は古風な出陣ぶりで、従者に槍(やり)や寝具などを持参させていた。このため新政府軍の総督府から、無益の従卒を召し連れて出軍して機動力を欠いていると叱責されている。
 また、秋田藩アメリカ軍船を購入したが、これにロシア国旗を掲げて庄内の鼠ヶ関(ねずがせき)に接近して砲撃を加えた。庄内藩が直ちに箱館(函館)にいるロシア領事に抗議するという事態になった。秋田藩の国旗偽装は国辱的な行為で、これを見逃していた新政府軍の国際感覚が疑われても仕方のないものである。
 新政府軍は外国軍に協力こそ求めなかったが、坂本龍馬が熟読し、幕府の海軍が遵守した国際法「万国公法」に通じていなかったのである。
 会津藩降伏の4日後に降伏
 庄内藩は、しだいに同盟諸藩が新政府軍に恭順・降伏していくと、孤立を恐れて秋田戦線から退却する。庄内藩が降伏したのは会津降伏の4日後、明治元(1868)年9月26日のことで、奥羽では最後に新政府軍に屈している。勝ち戦続きで、領内への侵攻を許さなかった末の恭順である。
 庄内藩は果敢に新政府軍に挑み続け、ついには降伏したわけだが、新政府軍の報復に慄(おのの)いた。ところが、思いがけず西郷隆盛(南洲)の寛大な処置を受ける。これに感謝して、後に庄内に南洲神社まで造られている。
 だが西郷は、東北方面の戊辰戦争ではほとんど出番がなく、ようやく庄内に着いたときには戦いが終わっていたというのが実情であった。しかも多額の戦後賠償金をせしめることができたのであるから、寛大に振る舞ったのではないだろうか。
 なお、この戦後賠償金は、本間家を中心に藩上士、商人、地主などが明治新政府に30万両を献金したものである。
 ちなみに、会津藩は23万石から3万石と大幅に減封された。そして、不毛の地・斗南(となみ)に追いやられ、藩士やその家族は地を這う生活を強いられた。実質的に会津藩は解体されたといってもいいだろう。
 だが、庄内藩は17万石から12万石に減じられただけであった。一時は会津、平と転封を繰り返したが、先述の戦後賠償金や領民の嘆願により明治3年(1870年)に酒井氏は庄内に復帰した。
 ここでも庄内藩は、領民たちの尽力により救われたわけである。ちなみに天保11年(1840年)にも、幕府による領地替えの計画が持ち上がったが、領民の嘆願により取りやめになった経緯がある。
 こうした領民との結び付きといったソフトパワーの面からも、庄内藩は「最強」だったといえるのではないだろうか。」
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 日本には、マルクス主義共産主義が訴えるような搾取され虐げられた惨めな階級は存在しなかった。
 百姓は、惨めで哀れで可哀想な人びとではなかった。
 共産主義者が言う人民・プロレタリア階級が出現したのは日露戦争後で、急増したのは日韓併合後である。
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 本当の日本民族日本人が生きる日本風土にはには、人の心に敵意と憎悪を植え付け、人々を分断し対立させ殺し合いを引き起こす、血に飢えた共産主義は馴染まない。
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 穢れた非人・エタ・河乞食などの賤民は、搾取され虐げられた人民・プロレタリア階級ではない。
 小作人や山の民・海の民・川の民も同様に人民・プロレタリア階級ではない。
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 ムラ社会には、マルクス主義共産主義は無縁であった。
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 日本民族日本人は、お人好しですぐ人を信じて騙されるが、知識をひけらかす他人(知的エリート)によって踊らされるほど単純馬鹿ではなかった。
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 自然災害多発地帯である日本の気候風土は、そんな自制心のない人間に容赦なく襲いかかっていとも簡単にその命を奪う。
 日本の自然は、人に優しくはなく、むしろ過酷であった。
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 日本の自然の前では、人間が考え出て作ったマルクス主義共産主義は無力な机上の空論、現実を見ない甘ちょろい理想論に過ぎなかった。
 それはキリスト教でも同様である。 
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